地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第38回地中海学会大会

  6月14日,15日(土,日)の二日間,國學院大學学術メディアセンター常磐松ホール(東京都渋谷区東4-10-28)において,第38回地中海学会大会を開催した。会員155名,一般50名が参加し,盛会のうち会期を終了した。また,シンポジウム終了後,大会参加会員の投票によるホームページのトップページ新デザインが発表された。
  次回は北海道大学(札幌市)で開催する予定です。

6月14日(土)
開会宣言・挨拶 13:00~13:10  古山正人氏
記念講演 13:10~14:15 「神々をあがめる人々」  本村凌二氏
地中海トーキング 14:25~16:30 「カミ・酒・ヒト」
  パネリスト:藤崎衛/古山正人/茂木貞純
   司会兼任:飯塚正人 各氏
授賞式 16:40~17:10 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
地中海学会総会 17:10~17:40
懇親会 18:00~20:00 [有栖川宮記念ホール]

6月15日(日)
研究発表 9:30~12:20
 「ヘルメス柱と道祖神にみる境界信仰の類似と共通性 ── 性神的要素と境界感覚を中心に」 平井倫行氏 / 「女性哲学者ヒュパティアと古代末期の独身修行(asceticism)」 足立広明氏 / 「中期ビザンティン聖堂における「受胎告知」の配置 ── カッパドキアの事例を中心に」 菅原裕文氏 / 「カルロ・クリヴェッリ祭壇画研究 ── ファブリアーノ,ラメッリ家文書を手掛かりに」 上原真依氏 / 「18世紀ヨーロッパにおけるパステル作品批評の特徴に関する考察 ── J. E. リオタール《チョコレートを運ぶ娘》に対する評価の分析を手掛かりとして」 宮崎匠氏
シンポジウム 13:00~16:00
 「聖なるものと聖なる場」
  パネリスト:加瀬直弥/真道洋子/水野千依
   司会兼任:伊藤重剛 各氏

第38回地中海学会総会

  第38回地中海学会総会(谷古宇尚議長)は6月14日(土),國學院大學常磐松ホールで下記の通り開催された。審議に先立ち,議決権を有する正会員545名中(2014.6.11現在)541名の出席(委任状出席を含む)を得て,総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2013年度事業報告・決算,2014年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2013年度事業・会計は大髙保二郎・木島俊介両監査委員より適正妥当と認められた。議事終了後,次期事務局長として高山博氏が紹介された。

議事
一,開会宣言      二,議長選出
三,2013年度事業報告  四,2013年度会計決算
五,2013年度監査報告  六,2014年度事業計画
七,2014年度会計予算  八,閉会宣言

2013年度事業報告(2013.6.1~2014.5.31)

I 印刷物発行
  1. 『地中海学研究』 XXXVII 発行 2014.5.31日発行
     「ローマ帝国北方辺境地帯におけるネメシス崇拝」 阿部衛
     「建築家ジュゼッペ・ポッジの都市改造計画からみた19世紀フィレンツェにおける市門周辺広場の機能と形態」 會田涼子
     「ヴェルディ《オテッロ》 (1887) の演出における象徴的トポス ── 『オテッロのための舞台配置書』(1887) の解釈をめぐって」 長屋晃一
     「20世紀前半のパリ音楽院ピアノ科における学内試験演奏曲目の変遷 ── フォーレ,ドビュッシー,ラヴェルの作品の試験レパートリーへの導入をめぐって」 神保夏子
     「研究ノート 獅子脚を持つ古代エジプト家具研究における近年の進展状況 ── 中近東文化センター所蔵 M00449 の腰掛けをケーススタディとして」 西本直子
     「研究ノート カラヴァッジョ作《泉の洗礼者聖ヨハネ》をめぐる一考察」 木村太郎
     「書評 片山伸也著『中世後期シエナにおける都
    市美の表象』」 陣内秀信
  2. 『地中海学会月報』 361-370号発行
  3. 『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
  1. 研究会(國學院大學)
     「16~18世紀のイスタンブルにおける歴史地震」 澤井一彰(7.20)
     「15世紀ローマにおける礼拝堂装飾壁画研究 ── ブファリーニ礼拝堂とカラファ礼拝堂」 荒木文果(10.12)
     「古代ローマ時代のガラスにみる都市景観 ── 大港プテオリと温泉保養地バイアエ」 藤井慈子(12.14)
     「中世創建の墓廟建築にみるアナトリア地域のキリスト教・イスラーム建築文化の融合」 守田正志(2.22)
     「石材と木材による混構造としての古代ギリシア神殿 ── 木造架構とその生産体制を通して」 川津彩可(4.19)
  2. 連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として)
     秋期連続講演会「芸術家と地中海都市 III」
    10.19~11.16 「ピカソ:青春の光と影 ── 赤と青のバルセロナ」 大髙保二郎 / 「フェイディアスとアテネ」 芳賀京子 / 「ローマのブラマンテ:真の古代建築との出会い」 飛ヶ谷潤一郎 / 「ミケランジェロとヴェネツィア」 石井元章 / 「マドリード宮廷とベラスケス」 貫井一美
     春期連続講演会「地中海世界を生きる II」
    4.26~5.24 「旅をする文学者:ジェラール・ド・ネルヴァルと地中海」 畑浩一郎 / 「商人になること,商人であること:中世イタリアの事例から」 亀長洋子 / 「ルネサンスの画家:聖ルカからアペレスへ?」 水野千依 / 「労働者,失業者であること:エジプトにおける変遷」 岩崎えり奈 / 「古代ギリシアの女性神官たち」 桜井万里子
III 賞の授与
  1. 地中海学会賞授賞 受賞者:伊藤重剛研究室
    (熊本大学ギリシア古代建築調査団)
  2. 地中海学会ヘレンド賞授賞 副賞 受賞記念磁器皿「地中海の庭」(星商事株式会社提供)
    受賞者:藤崎衛
IV 文献,書籍,その他の収集
  1. 『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』 『古代文化』 『古代オリエント博物館紀要』 『岡山市立オリエント美術館紀要』 Journal of Ancient Civilizations
  2. 2. その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
V 協賛事業等
  1. NHK 文化センター講座企画協力「地中海への誘い:伝統と革新の18,19世紀ヨーロッパ」
  2. 同「地中海への誘い:地中海の港 ── 海が結んだ文化と芸術」
  3. 同「地中海への誘い:地中海文化圏の「島」を巡る」
  4. ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力「地中海学会セミナー:地中海世界への誘い」
VI 会 議
  1. 常任委員会    5回開催
  2. 学会誌編集委員会 3回開催,他 E メール上にて
  3. 月報編集委員会  3回開催,他 E メール上にて
  4. 大会準備委員会  1回開催
  5. 電子化委員会   E メール上で逐次開催
  6. 賞選考小委員会  1回開催
  7. 将来構想委員会  4回開催
  8. 寄付基金事業委員会 2回開催
VII ホームページ
URL= http://www.collegium-mediterr.org  「設立趣意書」「役員紹介」「活動のあらまし」「事業内容」「入会のご案内」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海の旅」

VIII 大 会
第37回大会(於同志社大学ハーディーホール)

IX その他
1. 新入会員:正会員7名;学生会員11名
2. 学会活動電子化の調査・研究

2014年度事業計画(2014.6.1~2015.5.31)

I 印刷物発行
  1. 学会誌『地中海学研究』 XXXVIII 発行 2015年5月発行予定
  2. 『地中海学会月報』発行 年間約10回
  3. 『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
  1. 研究会の開催 年間約6回
  2. 講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として秋期連続講演会(10.11~11.8,計5回),春期はブリヂストン美術館改築工事のため休会。
  3. 若手交流会
III 賞の授与
  1. 地中海学会賞
  2. 地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
  1. NHK 文化センター講座企画協力「地中海への誘い:地中海文化圏の「島」を巡る」
  2. ワールド航空サービス知求アカデミー講座企画協力「地中海学会セミナー」
VI 会 議
  1. 常任委員会
  2. 学会誌編集委員会
  3. 月報編集委員会
  4. 電子化委員会
  5. 将来構想委員会
  6. そ の 他
VII 大 会
第38回大会(於國學院大學) 6.14~15

VIII その他
  1. 賛助会員の勧誘
  2. 新入会員の勧誘
  3. 学会活動電子化の調査・研究
  4. 展覧会の招待券の配布
  5. その他

論文募集

  『地中海学研究』 XXXVIII (2015) の論文・研究動向および書評を下記のとおり募集します。

 論文・研究動向 四百字詰原稿用紙80枚以内
 書評 四百字詰原稿用紙20枚以内
 締切 2014年10月末日(必着)

  投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。本誌は査読制度をとっています。

新事務局長および本部変更

  小池寿子氏の事務局長任期満了により,陣内秀信会長より高山博氏が新事務局長に委嘱されました。これに伴い学会本部を下記の通り変更します。

 旧:國學院大學 小池寿子研究室
 新:東京大学 高山博研究室
研究会要旨
石材と木材による混構造としての古代ギリシア神殿
── 木造架構とその生産体制を通して ── 川津 彩可 4月19日/國學院大學
  石造建築や木造建築のように,素材が異なる建物は,時の流れと共に,その残存状況も全く異なる。それらから現在の私たちにもたらされるイメージと共に,遺産としての性格も,保存の仕方もうつろう。木部は既に朽ちて失われてしまっているが,ギリシアは石の文化に属しながらも,かつては,木の要素も多分にあった。そして,その事実があったからこそ,古代ギリシア文明以後,ヨーロッパ世界の建築に影響をもたらしたペディメントの形式は成立し得た。このように,ギリシア建築において木材が使用されていた事実は重要であるように思われる。そこで,木材を取り巻く環境について,アルカイック期からクラシック期のドリス式神殿を対象として,材料,架構,生産体制に着目し,問題提起を行った。
  ウィトルウィウスは,建築が木造から石造に変化した際に木造小屋組の形態が彫刻で模倣されたことを述べる一方で,木材の伐採や植樹,樹種の特質に関して言及する。テオプラストスやプリニウスは様々な樹木の特質,産地,用途について言及し,ストラボンやパウサニアスもまた見聞したいくらかの木材について記述する。これらを含む古代の文献資料からは,建物を構成する各部分と使用された樹種との関係を見ることができる。そこでは,屋根材として用いられた樹種と,天井材あるいは窓や扉の枠に用いられたそれとは様子が異なる。
  フィロンによりピレウスに建設された武器庫に関する碑文(347/6 BC)が1882年に発見され,古代ギリシアでは屋根を構成する小屋組には,梁に束を立てる梁-束構造が用いられたことが,一般的理解となった。屋根の荷重を直接垂直に受けるために,梁-束構造では,梁材の長さにより空間のスパンも限定される。しかし紀元前550年頃からトラス構造が用いられたことも指摘される南イタリアやシチリアの植民都市では,たとえ神殿の内陣が大規模であっても,ギリシア本土の多くの神殿とは異なり,内部列柱を構築することなく大スパン空間を覆った。
  それにもかかわらずこれらの植民都市では,神殿の小屋裏空間が活用されていたことを示す石造の階段室が設けられた事例が見られる。階段室は神殿内陣部分のプロナオスとナオスとを隔てる壁の内部に構築された。階段室は人間の身体規模および行動と分かちがたく結びついているため,その最小限の規模は限られてくる。このことは,内陣部分の幅が比較的小規模の神殿において,大半の階段室の事例とは異なり,神殿軸方向に沿って階段室の幅を大規模に構築したことからうかがうことができる。アクラガスのコンコルド神殿を除き,神殿の階段室は既に崩壊しているが,このような階段をのぼった先にひらかれる小屋裏はどのような空間であったのだろうか。
  神殿建築の内陣空間を覆っていた木造の梁材や天井材は残存していないが,周柱式神殿の列柱が立ち並ぶペリスタイル部分では,いくらか天井に関する情報を収集することが可能である。例えば,アッティカ地域の神殿では,ペリスタイル空間を覆う天井は,天井梁の上に天板を設置する格天井や,天井梁を密に設置するもの,そしてそれらが石材で構成されたもの,木材で構成されたと考えられるもの,両者が共に用いられていたと考えられるものなど,狭い時代,地域においても多様であった。石材と木材の存在が拮抗する場として天井を見れば,建築の一体どこからどこまでが石材を扱う職人による仕事で,どこからが木材を扱う職人による仕事の結果なのか。
  プルタルコスは,パルテノン神殿の建設に用いられた多様な素材を列挙すると共に,それらを扱った種々の職人についても挙げる。また,アテネのアクロポリスに建設されたイオニア式の神殿エレクテイオンの建設に関する碑文(409/8 BC)には,建設に携わる職人や仕事内容およびそれらに支払われる金額が記されている。石材に関連する仕事としては,石積み,石材の仕上げ,破風材の作製,柱のフルーティング彫りなどが挙げられ,木材に関連する仕事としては,束立て,垂木掛け,格天井部材の作製,屋根部材の作製などが挙げられる。
  垂木との接点としての石造コーニス材,あるいは棟木や桁との接点としての石造ペディメント材は,小屋組復原の判断材料としてこれまでも有用であった。一方で,ラムヌスのネメシス神殿のペリスタイル部分では,垂木の傾斜にあわせ,外側に向かって僅かに傾斜が生じるよう上面の隅部分が削り取られた石造天井梁が発見されており,類例はアテネのヘファイステイオンにおいても見られる。建設現場における天井部分もまた,各種職人が拮抗した場だったのだろうか。彼らの間で,専門の職能を越えた共同活動がもとめられた可能性をうかがうことができる。構築する作業としても意識としても併存していた可能性を念頭に置き,架構部材に着目しながら,最終的に具現化されたギリシア建築像を見てゆきたい。
春期連続講演会 「地中海世界を生きる II」 講演要旨
旅をする文学者
── ジェラール・ド・ネルヴァルと地中海 ── 畑 浩一郎
  「で,女性は?」
  中近東を旅してフランスに戻ってくる旅行者は,必ず最初にこのような質問を投げつけられることになるとフランス・ロマン主義時代の作家テオフィル・ゴーチエは述べている。
  ときは19世紀前半,未曾有のオリエント(中近東)ブームがフランスには沸き起こっていた。「官能」と「残虐」というおおざっぱで,したがって切れ味の悪いふたつの抽象概念を手に携え,文学者や画家は次々に海を渡り,ギリシア,エジプト,レバノン,トルコなどの地を踏む。そこで目にする現実の人々の生活はそれまで思い描いていた世界観とは大きく異なり,彼らは既成観念の修正を余儀なくされる。想像と現実との間のこの齟齬をどう乗り越えるのか,あるいは乗り越えないのか。それこそが当時の多くのヨーロッパの芸術家たちが直面することになった問題であることは,つとにエドワード・サイードが指摘する通りである。
  狂気の詩人として知られるジェラール・ド・ネルヴァルもまたそのひとりであった。親友であるゴーチエと同様,彼もまた早くから遙かなオリエントの地を旅することを夢見た。1842年願いはかない,彼は1年にわたって地中海沿岸各地を経巡る。その文学的成果こそが『東方紀行』(1851)であり,それは実際の旅の経験を下敷きにしつつも,そこに作家の想像力がさまざまな形で作用したきわめて独自な旅行記となっている。
  「カイロの女たち」と題されたエジプトをめぐるセクションでは,ヴェールをかぶった女性がまず都市そのもののメタファーとして現れる。ヨーロッパとは多くのことが異なるカイロの町は,当初旅行者の目にはその美貌を窺うことのできないムスリムの女性と同様,神秘をたたえた存在として映る。彼にとってカイロの町を知ることとそこに住む女性たちを知ることとは重なり合うことになるだろう。
  この旅行者の奇妙な点は,西洋人の資格でオリエントの風物に触れるのでなく,一時的ではあれ「カイロの一市民」になろうと努めることである。そのため彼はホテルを引き払い,コプト人街に家を借りる。髪を剃り服を変えてエジプト人の見かけを整える。現地の料理人や召使いを雇う。あと足りないのは ……,女性である。旅行者がカイロの女性と交錯する事情はこれまた奇妙である。ホテル暮らしをやめコプト人街に居を構えた彼は,引越しの翌朝地区のシャイフ(長老)の訪問を受ける。シャイフが言うには,誰か女性と一緒に住むのでなくてはここに居住することはまかりならぬとのことである。男が一人で住めば,近所の者が不安に思うと言うのである。旅行者はそれゆえ早急に同居してくれる女性,有り体に言えば結婚相手を探さなければならない。
  彼はさまざまな人に意見を求め,花嫁探しに奔走するがいずれもうまくいかない。困り果てた旅行者に対し,通訳のアブド・アッラーは奴隷市に行くことを提案する。共に住む女性は別に妻である必要はなく,女奴隷であってもよいのである。早速二人はカイロの奴隷市でひとりのジャワ生まれの娘を手に入れる。
  西洋から来た男性の旅行者が金ずくでエジプトの女奴隷を買う。見方によってはこうした行為に帝国主義的な暴力を読み取ることも可能かもしれない。しかしネルヴァルの旅行記はそのようなイデオロギー的な読み方をやすやすと飛び越えてしまう柔軟性とユーモアを備えている。なぜならばここでは旅行者は女奴隷を力によって支配するどころか,彼女の気まぐれに翻弄され,絶えずおろおろとした姿をさらすことになるからである。
  まず旅行者には女奴隷が何を食べるのかが分からない。さんざん苦労の末ようやくヤギの乳なら口にすることを発見する。また奴隷に食事の準備をさせてみる。しかし奴隷は拒否する。自分は奥様であって下女ではない,イスラーム教徒として卑しい仕事をすることはできないと言うのである。さまざまな珍騒動の後,やがて旅行者はカイロを去ることになる。彼は奴隷を自由の身にしてやろうと言うが,彼女は一人では生活できないのでどうか金持ちのパシャに売り払って欲しいと泣きじゃくる。奴隷とは常に自由の身を願うものだという旅行者の既成観念は打ち砕かれる。
  一言で言えば,文化・習慣の違いに由来する誤解と勘違いである。しかしここで強調したいのはそれらを越えたところで発揮される作家ネルヴァルの自由な思考である。きしみを立てる女奴隷との共同生活を通して,彼はそうした相違を受け入れ,戸惑いつつもそれをとことん楽しんでいく。その驚くべき包容力と余裕。硬直したオリエンタリスムの遙か高見に遊ぶ旅行者のこうした態度にこそ「カイロの女たち」の汲みせぬ魅力がある。
地中海学会大会 研究発表要旨
女性哲学者ヒュパティアと古代末期の禁欲独身修行(asceticism)
足立 広明
  本発表は,古代末期の女性哲学者ヒュパティアを「異」教対キリスト教,理性対迷信の従来の二項対立的な図式から離れ,同時代のキリスト教女性修道者や巡礼と同じく,当時優勢であった禁欲的独身修行を通じて自立し,その社会的権威を高めた女性として再評価を試みるものであった。
  彼女は4世紀後半から5世紀初頭のエジプトのアレクサンドリアで活躍し,数学,天文学,哲学に秀で,多くの人々を教えたが,415年3月のある日,総主教キュリロスに忠誠を誓うキリスト教徒の群衆に襲撃され,落命したと伝えられている。その悲劇的な最期から,彼女は18世紀の啓蒙主義時代以降,教会の弾圧を受けた「最後の異教哲学者」もしくは「最初の女性科学者」として評価されてきた。
  しかし,彼女が魅了したのは「異」教徒だけではない。彼女宛ての書簡を多く残したシュネシオスをはじめ,その弟子の多くはキリスト教徒であった。逆に,彼女を快く思わない者もキリスト教徒に限定されなかった。彼女の惨殺を伝える「異」教著作家ダマスキオスはキュリロス一党の行為を非難する一方で,おかげで彼の師である「イシドロスの名声もすっかりかすんでしまった」とヒュパティアにも非難の矛先を向けている。
  彼女はキリスト教や「異」教という枠組みを超えて知識や文化が交換される,古代末期同時代の営みの中で成長したのではないか。そして,そのことが総主教キュリロスのみならず,最後のアカデメイアの学頭として有名なダマスキオスにもめざわりであったのではないか。すなわち,ヒュパティアは当時のジェンダーの問題をも浮かび上がらせるのである。
  発表では,まず「ヒュパティアと近代:啓蒙主義のヒロイン」として近代のヒュパティア像を絵画や演劇,映画の画像を紹介した。ラファエロの 《アテナイの学堂》 にはじまり,近年の映画 『アゴラ』 に至る作品中のヒュパティア像が若く美しい,西欧白人女性であるのに対し,彼女を連行する暴徒は中東のイスラーム教徒や黒人として表現されていることを確認した。
  近年の古代末期研究の進展のなかでマリア・ジェルスカは,こうした近代のヒュパティア研究の一面性を批判しつつ,ピーター・ブラウンの著書 Body and Society に挙げられたエジプトの修道女性を念頭に,ヒュパティアは同時代の結婚した「異」教女性よりも,彼女と同じく独身を保って修行を続けたキリスト教女性聖人にずっと近いと指摘している。ただ,彼女の指摘はなお示唆の段階にとどまり,史料解釈にも疑問を感じるところがある。そこで,これを出発点としながら,発表者独自にもう少し史料解釈を試みた。
  発表ではヒュパティア惨殺に関連する三史料ソクラテス,ダマスキオス,ニキウのイオアンネスと彼女の生前に交流のあった弟子シュネシオスについて紹介した。事件を伝える基本三史料に共通し,シュネシオスによって側面補強できるのは,ヒュパティアが独身を貫いていたということ,そしてその独身は一つである神を探求する哲学と,それに奉仕する天文学や数学の修行と連動するものであり,またこの修行を通じて磨かれた貞潔(ソーフローシュネー)の美徳によって男性公人にも受け入れられていたということである。また,三史料からはヒュパティアが一般市民に人気があり,これがキュリロスを恐れさせていたことがうかがえる。シュネシオスの書簡集からは口頭による秘儀伝授で結ばれたヒュパティアの少数のエリート弟子集団の内情がうかがえるが,その秘密はしばしば破られて,興味を示す使用人などに伝えられていたことから,やはりヒュパティアが一般市民にも影響力を有していたことがわかる。
  今回,とくに注目したのはダマスキオスで,彼は『哲学者列伝』という別史料で「イシドロスはヒュパティアよりずっと優れている。というのは,男が女より優れているのみならず,哲学者が幾何学を扱うものより優れているからである」と驚くようなこと書いている。この書きぶりからするとヒュパティアの著作は彼が列挙した数学と天文学関係以外にもあるのではないかとの疑念が生じる。またヒュパティアが彼女に恋する若者に生理の布を見せて追い返したという有名なエピソードにも,彼女のイメージを損なう意図が感じられる。
  すなわち,ヒュパティアの敵は前門のキリスト教総主教キュリロスだけでなく,目立たず後門に控えていたアカデメイア学頭ダマスキオスもまたそうなのであった。しかし,そのことは,ヒュパティアがこうした当時の男性指導層に鼻持ちならぬと認識される勢いがあったことを物語っており,そしてその勢威は神を探求する禁欲的修行からきていたのである。
地中海学会大会 研究発表要旨
中期ビザンティン聖堂における「受胎告知」の配置
── カッパドキアの事例を中心に ── 菅原 裕文
  ビザンティン聖堂ではアプシスに聖母子像,その左右にガブリエルとマリアを分割して「受胎告知」を表す。こうした配置は,神の受肉を歴史的,かつ象徴的に表す精妙なプログラムである。残存例から「受胎告知」のガブリエルとマリアを分割してアプシス周辺に配するプログラムは11世紀後半には定型化したと知れるが,このプログラムの形成過程は未だ定かではない。本発表では「受胎告知」を分割するプログラムがいつ,どのように形成されたかをカッパドキアの事例を基に考察した。
  アルカイック期(9世紀末~10世紀初頭)には,カッパドキアでは単廊式の聖堂が多く開削された。ヴォールト天井は水平方向に分節され,フリーズ状の画面にはキリストの生涯を絵巻物のように時系列的に並べる連続説話サイクルが採用された。ギョレメのトカル旧聖堂では「受胎告知」は南壁上段の東端に,ムスタファパシャのタヴシャンル・キリセでも南壁最上段の東端に配され,時計回りにキリスト伝が続く。
  過渡期(10世紀前半~10世紀末)には,カッパドキアにも十字形や内接十字式の聖堂が作られるようになる。ここで画家たちが直面したのは,柱や翼廊で分節された複雑な壁面に,連続説話サイクルの時系列的な場面配置をどう確保するかという問題だった。例えば,十字形のプランを採るギョレメのエル・ナザール聖堂では,壁面を上下2段に分割し,南腕の東壁に「受胎告知」を配する。他方,より複雑な壁面を持つ内接十字式のギョレメのクルチュラール・キリセでは,「受胎告知」はアプシス手前の東腕に移され,東腕を起点に時計回りにキリスト伝を配する。この時期にはアプシスをキリスト伝の起点とする構想が萌芽し,ウフララのバル・キリセでは北アプシスに「受胎告知」を描く。さらに,この時期は,ギョレメ5番に見られるように,それまで一つの画面で描かれていた「受胎告知」を,隣接する壁面に跨がって分割するというプログラムが出現したことが注目に値する。
  11世紀には,連続説話サイクルからキリスト伝中の12の祝祭を抽出し,主要壁面に配置する十二大祭サイクルに移行する。ここに至って「受胎告知」は完全に分割されるようになる。エスキ・ギュミュシュ修道院やギョレメのカランルク・キリセでは,ニッチや入口の両側にガブリエルとマリアを二分して配している。そして,1060/61年の年記が残るソアンルのカラバシュ・キリセにおいてアプシスの左右に分割された「受胎告知」が初出する。
  総主教ゲルマノス『教会史,並びに神秘の観想』(8C)は聖変化を神の受肉の再現と解するだけでなく,さらに,聖なる変化が起こるのは聖霊の働きによってとも説明するが,受胎告知も神の受肉がなされた決定的瞬間であり,マリアが聖霊の働きによって身籠ったことが想起される。アプシスの機能に則して言い換えるなら,アプシスは受肉を再現する場所であり,かつ聖霊が下り来る場所と言える。その周辺に「受胎告知」を配するプログラムは,アプシスという場の機能に関する理に適ったイラストレーションと解することができる。
  カッパドキアの修道文化はマンツィケルトの敗戦(1071年)の影響により衰退し,11世紀後半以降,カッパドキアの装飾プログラムがどのような発展を遂げたのかを知ることは困難であるが,カラバシュ・キリセのプログラムは,画家たちが儀式の意義や空間の機能と図像の象徴性を有機的に連動させようとする,新たな創造の試みへと乗り出していたことを物語る。
  このように受胎告知の配置の変遷,そして図像サイクルの変遷は,壁画だけが救済史の語り部となる聖堂から,壁画が典礼の象徴性や聖堂の機能と協働して救済を実感させる聖堂へと,ビザンティン人の意識が移り変わっていく様を如実に反映するのである。
地中海学会大会 研究発表要旨
18世紀ヨーロッパにおけるパステル作品批評の特徴に関する考察
── J. E. リオタール 《チョコレートを運ぶ娘》 に対する評価の分析を手掛かりとして ── 宮崎 匠
  粉末状顔料を固めた棒状の固形絵具であるパステルは,啓蒙期のヨーロッパの画家たちによって多用された,当時を代表する画材のひとつである。しかし非常な人気を博したこの時代のパステルによる絵画作品に対する批評が,研究者による積極的な分析対象となることはこれまでなかった。そこで本発表では18世紀ヨーロッパのパステル作品評価の特徴を,そこで言及されているパステルあるいは油彩による絵画作品,およびパステル画論や辞典などの文書史料との比較分析を通して明らかにすることを試みる。そのためにここでは18世紀ジュネーヴ出身の画家ジャン=エティエンヌ・リオタール(1702~89)が描き,アルプスの南北で芸術家や美術愛好家たちに高く評価された,当時最も注目を集めたパステル作品のひとつである 《チョコレートを運ぶ娘》 (羊皮紙にパステル,1744年頃,ドレスデン絵画館)に対する批評を分析する。
  ザクセン選帝侯宮廷のコレクションのために作品購入を担当したイタリアの目利き,フランチェスコ・アルガロッティは,フランスの美術愛好家ジャン=ピエール・マリエット宛ての1751年2月30日付けの書簡の中で,《チョコレートを運ぶ娘》 には陰影表現がほとんど確認されないこと,それが中国人に喜ばれる表現上の特徴であることを指摘している。これは,中国人は絵画における明暗法を知らず,陰影表現を用いないとする同時代の常識を背景にした評価である。アルガロッティは,当時の知識人たちにはよく知られていた中国人の趣味との適合を示唆することで,リオタールのパステル作品に確認された表現の独自性をわかりやすく評価しているといえる。
  また同じ書簡の中でアルガロッティは,「並外れた仕事の仕上げ」が認められる 《チョコレートを運ぶ娘》 を,「パステルのホルバイン」であると評している。書簡の別の部分を参照すると,平滑な表面を呈す羊皮紙を支持体に選び,顔料の入念な混合を実現したリオタールの「仕上げ」の技法が,同様の「仕上げ」を得意としていた,16世紀に活躍したドイツ出身の画家ハンス・ホルバイン(子)の油彩作品をアルガロッティに思い起こさせたことがわかる。しかし支持体の滑らかな表面を利用し,ただ「より均一」な絵画面を形成するだけで,「ビロードのような質感」を表現できないパステル作品は,「程度の低い目利きたち」の趣味にのみ適うとみなされ,非難の対象となった。このことからは18世紀のパステル作品批評では,モチーフの質感の適切な表現が妨げられる場合には,パステルの画材の特徴を活用した造形性の追求は,むしろ低く評価されていたことがわかる。
  さらにザクセン選帝侯国尚書局秘書官ヨハン・アウグスト・レーニンガーはその著書 『ドレスデンの選帝侯のギャラリーを構成するタブローを描いた画家たちの略伝』 (1782年)の中で,《チョコレートを運ぶ娘》 の輪郭を「少々際立ちすぎている」と評価した。これに対しフェデリコ・バロッチの「背景に溶け込む」輪郭については「より自然であること」が求められるとしている。このことからは,描写対象の輪郭は,際立たせるにしても,曖昧に描くにしても,表現に自然さが失われれば,パステル画でも油彩画でも,同様に非難の対象となったことがわかる。
  一方で同じ著書の中でレーニンガーは,《チョコレートを運ぶ娘》 の色彩については「迫真性」と「適切さ」を評価している。これに関して18世紀には「自然」の色彩を適切に表現可能な「鮮やかさ」が,他の画材にはないパステルの特質として認識されていた。しかし啓蒙期のヨーロッパでは,顔料の発色の「鮮やかさ」だけを特徴とし,色彩の効果に関する確かな知識に基づく彩色が認められない絵画作品は低く評価された。パステル作品では,画材の特質を利用した色彩の表現も可能だったが,他の技法による絵画作品の場合と同様に,知的な作品制作の実践が求められていたといえる。
  18世紀のパステル作品に対する批評の特徴は,既存の絵画関連の知識や絵画技法,作品評価基準と照合する方法により,パステル作品の造形表現を評価した点にあるといえる。18世紀のパステル批評はこのように既知の技法や理論を参照しつつ作品を評価することで,新しい流行の画材だったパステルの造形表現上の特徴に対する同時代の理解を深化させ,さらに他の画材で制作された絵画との比較を通して相対化することにより,パステル作品を近世ヨーロッパ絵画史の中に位置づける役割を担っていたと考えられる。
ガリシアの音の風土
西川 理香
  近年,キリスト教の三大聖地のひとつとしてサンティアゴ・デ・コンポステラがクローズアップされ,"ガリシア"という名前がメディアを通して聞かれるようになりました。アンダルシア=フラメンコと同じようにガリシア=巡礼とイメージされる恐れが多分にありながらも,ガリシアを知るひとつのきっかけとなったことは悪くないかもしれません。しかし,それはガリシアのひとつの顔にすぎないのです。
  普段はマドリードで留学生活を送っていた私にとって,ガリシアは毎年夏に開かれる音楽セミナーに参加しながらひと月ほど過ごした土地でした。留学中にはスペインのクラシック音楽のあらゆる分野の作品を吸収し,その中で歌曲の分野も手掛けるようになりました。スペイン歌曲の詩歌は,カスティーリャ語だけでなく,カタルーニャ語,ガリシア語で書かれているものも数多くあります。ガリシア語の歌曲と出会い,初めてガリシアの地は歴史的に多くの詩人を輩出していることを知りました。そして,ガリシア独自の文化が生まれた土壌を知る手掛かりとして,詩歌にまさるものはないのではないかとさえ思うようになりました。
  ガリシア語は言語学的にみても決してカスティーリャ語の方言ではありません。ガリシア語は歴史的にポルトガル語と深い関係にあり,その昔二つの言語の祖となるガリシア-ポルトガル語ということばが存在していたのを否定することはできないのです。ガリシア-ポルトガル語が使われていた地域は現在のガリシア州だけでなく,ドーロ川以北のポルトガル北部も含まれていました。レオン・カスティーリャ王アルフォンソ X 世の時代には聖母マリア頌歌集がガリシア-ポルトガル語で書かれるなど,輝かしいガリシア-ポルトガル語の時代が訪れます。しかし,そのガリシア-ポルトガル語の運命は,12世紀にポルトガルが王国として正式に認められ,イベリア半島西部のレコンキスタがスペインのグラナダ陥落よりも早く1249年に終結したことにより大きく変わり,ドーロ川ではなくミーニョ川を挟み以北と以南で異なる道を歩みます。そして,ミーニョ川とドーロ川に挟まれた地域で話されていたガリシア-ポルトガル語は中央部のモサラベのことばと出会い幾多の変遷を経て,徐々に現代のポルトガル語となっていきました。それに対して,ミーニョ川以北のガリシア-ポルトガル語はカスティーリャのことばに吸収され,やがて16世紀から18世紀には身内で話すだけのことばになり,ガリシア語の「沈黙の時代」となります。19世紀中葉になり,女流詩人ロサリーア・デ・カストロなどによってガリシア文芸復活運動が興ります。その後,カスティーリャ語とガリシア語の二言語併用,ガリシア地方のなかでも地域ごとに異なることばの違い,教育の遅れ,内戦時代の抑圧など紆余曲折を経て,ガリシア語は1983年に施行された言語正常化法により公用語として認められます。そして,今ではガリシア出身の詩人の8割がガリシア語で作品を生み出しています。先に触れたロサリーア・デ・カストロをはじめ,ビセンテ・リスコやラモン・カバニージャスなどによるガリシア語の詩歌に対して,スペイン人作曲家は積極的に曲をつけ,その結果多くの歌曲が生まれています。その中から詩人カバニージャスの詩による歌曲をまとめた 『ガリシア心の歌』 という書籍 CD が,私を含めた共同制作により2013年初冬に日本で出版されました。そこに,音楽とガリシア語の融合によるあらたな歌曲の世界を見ることができるでしょう。
  そもそも,ガリシアは独特の音楽環境に恵まれ,古くから固有の伝統楽器ガイタやパンデイレータなどがガリシアの人々の生活に定着しています。今日では世界的に名を馳せるそれら伝統楽器の奏者も輩出され,現代の新しい伝統音楽の流れが息づいています。一方,このような伝統音楽の色濃いガリシアの土地柄が,ガリシアの現代クラシック音楽の発展を難しくさせているような錯覚に思わずとらわれてしまいそうなことがあります。というのは,実際ガリシア出身の現代作曲家によってクラシック音楽作品が数多く発表されているにも拘わらず,世の中に流布されていないからです。
  それは伝統音楽の固有の音階の醸し出す色合いが,際立っているからでしょうか。
  例えば,伝統的な琉球音楽の音階 Do-Mi-Fa-Sol-Si-Do を生まれたときから日常的に聴いている人々には,西洋音楽の導音進行 Si → Do を無意識に Si → Sol へ移行させてしまう現象やゼクエンツの構成感が漠然としている傾向があります。
  確かに,このことはガリシアのクラシック音楽の行方を考える手がかりのひとつになり得るかもしれません。とはいえ,伝統音楽とクラシック音楽が混じり合う土地だからこそ,ガリシアから発信される音楽の道筋は無限に広がり,その作品の発掘がガリシアの音の風土を知る糸口になると私は考えます。

学会からのお知らせ

9月研究会

  下記の通り,研究会(ミニ・シンポジウム)を開催致します。奮ってご参集下さい。 テーマ:東部地中海の40年前と今
日 時:9月20日(土)午後1時30分~4時30分
会 場:國學院大學学術メディアセンター
    常磐松ホール
講 演:川田 順造氏
司 会:陣内 秀信氏
コメンテーター:陣内 秀信氏(イタリア編)
          師尾 晶子氏(ギリシア編)
          鶴田 佳子氏(トルコ編)

  1974年5月15日から7月7日まで,マルセイユ,ニース,ジェノヴァ,サルデーニャ島,シチリア島,ナポリ,ローマ,アッシジ,フィレンツェ,ラヴェンナ,パドヴァ,ヴェネツィア,ベオグラード,メテオラ,エーゲ海諸島,アテーナイ,イズミール,アンカラ,カッパドキア,カイセリ,コンヤ,イスタンブールを訪ねた。公共の交通機関とレンタカーで移動し,見聞と,飲食したものと値段など,克明なメモをとった。当時の写真も投影し,これらの地の現在を知る学会員のコメントによって,地中海世界の変貌とその意味を考えたい。

ブリヂストン美術館秋期連続講演会

  10月11日より11月8日までの毎土曜日(全5回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において秋期連続講演会 「芸術家と地中海都市 IV」 を開催します。詳細は追ってご案内致します。

事務局移転

  学会事務局は7月31日,下記へ移転します。eメールアドレスに変更はありません。

 新事務所:
  東京都港区元麻布3-12-3 麻布聖徳ビル 2F
  〒106-0046
  電話  03-6804-6791
  FAX  03-6804-6792
  最寄り駅
     地下鉄南北線・大江戸線「麻布十番」


事務局夏期休業期間 7月28日(月)~9月3日(水)