学会からのお知らせ
第44回大会について
月報430号の「学会からのお知らせ」でもお伝えしたように、関東学院大学金沢八景キャンパスにて6月13、14日に開催予定であった地中海学会第44回大会は、11月21、22日に延期されました。
延期された日程での大会の準備を進めておりますが、秋以降の新型コロナウイルスの感染状況によっては大会開催を再検討せざるを得ない場合も予想されます。そのような場合には、月報、学会ホームページ等でお知らせしますので、ご注意下さい。
第44回総会について
延期された第44回大会会期中に開催予定であった第44回地中海学会総会については、月報430号の「学会からのお知らせ」でもお伝えしたように、書面審議にて進めております。
2019年度事業報告、2019年度収支決算、2019年度監査報告、2020年度事業計画、2020年度収支予算に加えて、会員種別の変更と会費割引の新設に関する常任委員会よりの提案の審議をお願いする議案書をお送りしました。総会議決権をお持ちの会員の皆さんの手元に6月20日ごろにお届けいたしました。
現在、ご返送下さった投票ハガキの集計作業を進めております。集計結果については、学会ホームページおよび月報次号にてお知らせします。
緊急事態宣言下の学会活動について
新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言の下での大会・総会以外の地中海学会の活動の概況についてご報告します。
常任委員会について
4月11日開催予定の常任委員会はメール審議に変更し、4月24日までに回答を集計して、各常任委員に通知しました。
各種小委員会について
大会実行委員会は、3月30日~4月1日にメールにて各委員間で意見交換の上で、4月4日18時からZoomを用いたオンライン会議を開催し、6月13、14日開催予定の第44回大会の延期を常任委員会に提案することを決定しました。
なお、月報編集委員会およびウェブ委員会は、すでにメールを用いたオンラインでの開催に移行済みであり、従来通りに会議を行いました。
研究会について
4月の研究会は現在のところ開催延期となっています。9月以降にオンラインでの中継も含めた形式で研究会を開催することを検討しております。
刊行物について
地中海学会発行の刊行物については、例年通りに以下の通りに発行しました。
・『地中海学研究』XLIII(2020)は、6月9日に会員宛に発送致しました。
・『地中海学会月報』に関しては、2020年3月(428)号、4月(429)号、5月(430)号と予定通りに刊行され、会員各位のもとにお届けしました。
地中海学会事務局長の交替について
2018年6月より学会事務局長を務めてきた島田誠の任期が5月31日にて満了しました。替わって、飯塚正人常任委員が、本村凌二会長より事務局長に指名されました。
なお島田事務局長は、任期満了した役員は大会終了まで現職を務めるとの慣例に準じて、進行中の第44回総会の書面審議が終了するまで事務局長の職を務めることとなりました。
奇跡の町ダロカと天正遣欧使節
原 陽子
紫色のジャカランダの花が咲き誇る初夏、セビリア大学で開催された国際フォーラム《Cultural “Symbiosis”》で発表後、サラゴサに向かった。途中グラシアンの生家を訪れ、豊臣秀吉や日本人とスペイン人の似通った気質にも言及した著書『エル・クリティコン』に思いを馳せたあと、気になっていた奇跡で名高いダロカの町まで足を伸ばした。16世紀のローマへの旅は、マドリードから街道をサラゴサ経由でバルセロナに出て船で行くのがよい。ダロカはサラゴサへの街道沿いにありローマへ向かう旅人が必ず通過した町だ。いまでは街路の石畳は丸くすり減り、建物が物憂げに傾ぐ、時が止まったような田舎町である。
歴史書を繙いてみると、往時のダロカはアル・アンダルスの商業・軍事の最重要都市のひとつであった。9紀初めにエブロ渓谷に定住したイスラム人が創設、周囲に4㎞に及ぶ城壁と100を超す大監視塔を建設した。だが1120年にはアルフォンソ1世が奪還。1239年にはハイメ1世がバレンシア再征服のためダロカからも兵を派遣させたその日に、聖体の奇跡がおこる。聖体を天からの食べ物とし気力を回復しようと聖別のミサを執り行っていると、イスラム人が侵入した。司祭は素早く聖体を麻布にくるみ石で蔽い隠し、敵の退散後に麻布を取り出してみると、聖体は肉と血となり麻布にこびりついていた。敵の再侵入時に、血染めの麻布を軍旗としてかざすとまた勝利した。こうして対イスラム戦に奇跡を起こす聖体布は伝説となり、聖マリア教会に壁画化され、ダロカは巡礼の地となった。15世紀末にはレコンキスタを完了しようとしていたカトリック両王が3度もダロカを訪れている。1482年に奇跡の聖体布を拝し、グラナダ奪還前の1484-1488年には8枚の板絵にこの奇跡と、自らの肖像を王子と王女を伴い描かせ奉納した。目に見える美術政策の始まりである。
1585年になると天正使節がローマからの帰路にダロカに立ち寄る。その前にローマで使節の心に消し難い印象を残したのがフェリペ2世の大使・オリバレス伯で、使節を何度も訪ね贈り物をした。古代ローマの遺跡ブームで発掘された貴重な聖ロレンソ像を、エル・エスコリアルに移送したのも彼らしい。息子はその2年後ローマで誕生したが、のちにフェリペ4世の寵臣となりベラスケスを宮廷画家へと導いた人物だ。きっと父から少年たちの話を聞いたことだろう。使節の少年たちはダロカで聖体布の奇跡を知ったが、その詳細は、イエズス会巡察使ヴァリニャーノが少年たちの手記を整理し、デ・サンデに書かせた『天正遣欧使節記』にある。
なぜ使節をダロカに導いたのか。注目は聖体顕示台である。当初の聖体容器は円窓をつけた簡素な箱だったが、14世紀になると庶民の目にふれる聖体祭の行列用に持ち運び可能な聖体顕示台を創出した。次第に豪華な装飾が施され、イサベル女王はバルセロナの名うての金銀細工師・ジャウメ・エイメリックに、ガラスの円形聖体納器を組み込んだ華麗な聖体顕示台を作らせた。その後トレド大聖堂にあるアルフェの手になる3mの巨大な聖体顕示台の中央に組み込まれ、少年たちはこれを見た。そして1585年のミラノでは、フェリペ2世が建設中のエル・エスコリアル用にレオニ父子に注文した28体の青銅像と、おそらくヤコポ・ダ・トレッツオが制作中の聖体顕示台を見ている。無敵艦隊の派遣をひかえた1588年にはトレド大聖堂で戦勝祈願のミサが催され聖体顕示台が市内を巡回し、異端の女王・エリザベス打倒に向かう無敵艦隊の加護を願った。
その頃来日したヴァリニャーノ巡察使は高槻で盛大に催された復活祭で十字架の聖体顕示台をもって進んだ。《南蛮屏風》に描かれた教会の内部で司祭は円い大きな聖体を捧げ持ち、屋根には十字架がひと際目立つ。円いガラスを嵌め込んだ極めて豪華な聖体顕示台風である。イエズス会は布教が許された地で仏教寺院を破壊しその上に教会を建てることもあり、「悪魔の教え」である仏教に対する対抗心は凄まじかった。日本より先にインドで布教した宣教師は、釈迦の舎利がキリストの聖体にあたり、仏塔の原型が舎利を納めたインドのストゥーパだと熟知していた。ポルトガル語の仏塔pagoda budistaはポルトガル人による造語で、サンスクリット語のストゥーパを意味するセイロン語のdagobaに由来する。日本の仏塔・五重塔の頂上には高々と相輪が聳え舎利が納められている。それに倣い、宣教師は意図的に聖体顕示台風の十字架を教会の屋根に設置したのだろう。そして異教徒との戦いに勝利する象徴としてダロカの聖体布にも倣い、日本での布教成就の加護を聖体に託した。
奇跡譚の町ダロカを尋ね、教条を分かりやすく民衆に訴えるカトリック界の巧みな戦略を筆者は実感したのである。
イスラム史における感染の認識について
橋爪 烈
新型コロナウイルス感染症が世界中で猖獗を極めている。この小文を執筆している2020年6月現在、日本での流行は幾分下火になっているようだが、第2波、3波の到来も予想されており、予断を許さない状況である。この状況ではどうしても気になるのが、イスラム医学において疫病ないし感染症はどう扱われているのかということである。そこでイスラム医学史の名著である、M. Ullmann著のIslamic Medicine(Edinburgh U.P., 1976)を手にとってみた。すると第6章が疫病に当てられている。ムスリムが疫病や感染症についてどのように考えていたのか、本小文では、この第6章の内容を手掛かりにあれこれと文献を漁った成果の一端をご紹介する。
イスラム史において疫病と言えば、14世紀にユーラシア大陸を席巻した黒死病のことが、まず想起される。これについてはイスラム史研究においてしばしば取り上げられる主題であり、今般の大流行と関連させて様々な記事が各種紙面を飾っているので詳細はそれらに譲り、ここではそれ以前の時代に注目する。
イスラム教の黎明期における疫病認識を見るべくムハンマドの発言を漁ると、ブハーリー(870年没)著『ハディース』(中公文庫版5巻237頁)に、「もしあなた方が或る土地にペストがはやっていることを聞いたならば、そこへ入るな。また、あなた方が居る土地にペストが起こった時はそこから出るな」とある。これを見るとムハンマドが、病気の感染があると認識しており、そのため病気の蔓延する場所に行くこと、およびそうした土地を離れることを禁止したと理解できる。特に「その地を離れるな」という指示は、病気が特定の土地に限定されるものではなく、人の移動によって他に運ばれる可能性があることを認識していて初めてできることである。ムハンマドはその認識に基づいて隔離や移動制限の措置という、被害を最小限に抑えるための適切な対応を指示していることになる。Ullmannによれば、古代においては感染の概念が明らかに存在し、患者との接触の危険性が認識されていた(86頁)、とのことなので、この発言はそうした背景のもとになされたものなのだろう。ただ一方で、先の言とは相反する「伝染はない、前兆も鳥占いも、サファラもない」(中公文庫版5巻245頁、サファラの意味は諸説あるが不明)という発言もある。こちらは病気の原因を神に帰する立場が反映されているのだろう。現代的な意味でいえば、前者の言は近々決定されるであろう、2020年7月下旬からの大巡礼の実施の可否判断との関連で注目である。
さてムハンマドの言に示された感染の概念は、医学分野ではどのように扱われたのか。疫病の原因について考察する章を有するイブン・リドワーン(1068年没)著『身体被害への予防』を見ると、彼は疫病を「ある地域においてある時期に多くの人間に広まる病」と定義する。そして疫病発生の原因は空気、水、食物、そして心理状態の質のいずれかが変化することに求める。心理状態の変化が「疫病」を起こすとは考えにくいが、他の3つに関しては、要するに環境の変化によって疫病が発生するという見解であるので、ある地域において一時に大勢の人間が罹患する病気の要因にはなりそうである。例えば空気の質の変化については、エチオピアで生じた腐敗が大気中に拡散し、その空気がギリシアに降りてくることで大勢が病に罹るというヒッポクラテスやガレノスといった古代の医師たちの見解を提示している。水や食物も同様で、腐敗が生じ、それを人が摂取することで病気になるという。だが、人から人への感染については一切語られていない。同時期の医学者マジュースィー(10世紀末)やイブン・スィーナー(1037年没)の書物でも同様である。結局、人から人への感染という概念はイスラム医学ではほぼ採用されなかったものと思われる。これは上記医学者たちの生きた時代に大規模かつ甚大な疫病が流行しなかったことに求められるかもしれない。
その意味で例外なのが黒死病の流行した14世紀であった。Ullmannは、感染の危険を明示する例外として、アンダルスの政治家・歴史家イブヌルハティーブ(1375年没)の著作の一部を引用する。「この病気に感染した患者と接触した者には大抵の場合死が訪れ、他方接触経験のない者は健康なままであるのは、隠しようのないことである」。この発言は感染症を否定する法学者らに向けたものであるが、黒死病の蔓延を目の当たりにし、また外界と接触を断っていた人々が罹患しなかったという報告を受けていた者ならではの発言である。
こうした事例の存在にも拘らず、高度に発達したとされるイスラム医学においても、感染という概念が広く受け入れられるに至らなかったのは、神学的立場からの強い反論や教条主義的見解が示されたためであったとUllmannは言う。だが、感染の概念を主張するムハンマドの言葉は確かにハディースの中にある。これが科学的知見とともに、現状に対するムスリムの行動の重要な指針になりうるのではと、筆者は注視している次第である。
地中海の写真特集
今月は旅心を誘う地中海各地の写真を特集しました。地中海の様々な顔をお楽しみください。<写真をクリックすると拡大されます>スペイン、古都レオンの街並みをConde Lunaホテルの最上階から一望。毛塚実江子撮影。2018年8月。スペイン、バルセロナ、グラシア通り、ガウディのCasa Batlló邸。夕暮れの光でより幻想的な雰囲気に。毛塚実江子撮影。2012年3月。フランス、ポン・デュ・ガール。古代ローマ時代に建てられた水道橋。加藤玄撮影。2009年9月。フランス。緑に溢れ、フラミンゴが憩う、楽園のようなヴァカンスの地ポルクロル島。太田泉フロランス撮影。2014年。フランス。高台に位置する小村エズ。植物園には珍しいサボテンが多く集められていた。太田泉フロランス撮影。2011年。イタリア、ヴェネツィア。ブラーノ島の運河と街並み。運河では、銛を手に子供たちがボラを突いていた。ここのボラは旨いのだろうか。上田泰史撮影、2016年撮影。イタリア、バジリカータ州テアーナ村。ザンポーニャ(バグパイプ)を伴奏に歌うお爺さん。金光真理子撮影。2008年。イタリア、サルデーニャ島トゥイッリ村。聖アントニオ祭の行列を先導するラウネッダス奏者。金光真理子撮影。2005年。イタリア、シチリア島タオルミーナ。古代より幾重にも歴史を刻む街とその向こうに静かに広がる地中海。佐藤昇撮影。2005年9月。アルバニア、ブトリント要塞遺跡に行くための渡し船。高田良太撮影。2018年8月。ギリシア中部デルフィ(デルフォイ)のアポロン神殿。神の声を伝えたというこの聖域に古代地中海各地から人々が集った。佐藤昇撮影。2012年9月。ギリシア、ペロポネソス半島南部マニ地方。南端タイナロン岬への道すがら、ヴァシア村の姿にギリシアの「近代」を想う。佐藤昇撮影。2012年9月。ギリシア、クレタ島レシムノンのロッジャ。ヴェネツィア支配時代の面影を残す。高田良太撮影。2012年3月撮影。ギリシア、クレタ島ハニアのアギオス・ニコラオス教会。17世紀にオスマン帝国に征服されたクレタ島にはその文化が色濃く残る。アギオス・ニコラオス教会はオスマン時代「ヒュンキャール・モスク」として用いられていたもので、今日でも鐘楼とミナレットが並んで建っている。川本智史撮影。2012年。トルコ、トラブゾン。アヤソフィア。13世紀にキリスト教聖堂として建設され、1461年に町がオスマン朝に征服されて以降はモスクとして利用された。黒海沿岸は天気が悪いことが多いが、このときばかりは空が地中海のように澄み渡っていた。川本智史撮影。2005年。エジプト、ダハラオアシス。ローマ時代のものと言われるシェイフ・ミフターフ遺跡。岩崎えり奈撮影。2020年2月。チュニジア南部、ローマ帝国の国境線上の防砦カスル・ギーラーン。岩崎えり奈撮影。2020年2月。モロッコ、聖者の街ムーレイ・イドリス。岩崎えり奈撮影。2014年9月。
表紙説明
特集説明 旅心誘う地中海
昨年度末あたりから移動や各種活動の自粛を余儀なくされ、4月末から5月初めぐらいには近場に出ることすら憚られるような雰囲気があったように思います。6月現在、ようやく日本国内でも県境を越える移動制限が緩和され始め、さらにごく一部の国とは往来の見通しも立ってきたようです。遥か彼方のEUでも、域内での移動を認め出すなど、徐々に制限緩和の方向に進んできているという報道も耳にします。しかしながら、私たち日本人がいつ葡萄色の地中海へと飛び立つことができるのかと言えば、残念ながらまだとても見通しが立たないようです。そこで今月号は、地中海各地の写真をごくわずかですがご紹介し、学会員の皆さんに画像から地中海世界に想いを馳せていただき、日本のご自宅に居ながらにして机上の地中海旅行を楽しんでいただこうと、このような特集を企画いたしました。月報編集委員がそれぞれ独自の主観で、自ら訪れた(広い意味での)専門地域、何かしら専門分野に関わる写真の中から、旅心を誘うようなものを数点選ぶことにしました。やや統一感には欠けるかもしれませんが、専門や趣味、関心の異なる撮影者たちの目を通して、地中海の様々な横顔が浮かんできました。陽光煌く地中海のさざなみ。海岸や街を優しく包む緑。ときに剥き出しの厳しさを見せる山々。荒涼としてどこか神さびた感じすら受ける砂漠。古代の遺跡、中世的な屋根と壁、いくつもの歴史といくつもの文化、宗教が幾重にも折り重なる人々の営み。俯瞰で眺める街並みの美しさから地域文化に根差した建物の佇まい、そして地元に暮らす人々の表情に至るまで、尽きることのない地中海の魅力を僅かなりとも感じていただければ幸いです。また、普段ならとても同じページを飾ることのないような写真同士が隣り合うことで、ご覧になる方のインスピレーションを刺戟することにもつながれば、これ以上の幸せはありません(紙面では残念ながらモノクロになってしまいますが、学会ウェブサイトではカラーでご覧いただけることと思います)。
と、いささか格好をつけて説明をして参りましたが、実を言いますと、会員の皆様もご承知のとおり、今年度の地中海学会大会が延期となりましたために、月報でも関連記事の掲載を急遽延期せざるを得なくなり、この短期間ではとても代替の原稿を都合することが困難であったという事情もあります。この間、大混乱の月報編集委員会でしたが、遠隔授業の準備などで日々の疲弊も頂点に達する中、素敵な写真を提供して本企画にお付き合いくださった委員諸氏にも、この場を借りて改めて深謝する次第です。1日も早く事態が収束し、ふたたび学会活動が活発になりますこと、そしてまた地中海へと自由に行き来できる日が来ることを願っております。