地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

第44回地中海学会大会の開催時期について

地中海学会では、第44回地中海学会大会を下記の通りに開催する準備を進めておりました。
ところが、コロナウィルスの感染拡大に伴って予定通りに開催することは難しくなり、学会としても大会開催時期の延期を検討し始めております。詳細については、決定次第、学会ホームページにてお知らせします。また月報430号でもお知らせします。

6月13日(土)
13:00 開会宣言
挨拶:大塚雅之(関東学院大学建築・環境学部 学部長)
13:15~14:15 記念講演 大髙保二郎(題名未定)
14:30~16:30 地中海トーキング
テーマ:「異文化との出会いとその後」
パネリスト:菅野裕子/斎藤多喜夫/堀井優(予定)/石井元章
司会:飯塚正人
16:40~17:10 授賞式「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
17:10~17:40 総会(会員のみ)
18:00~20:00 懇親会(於:3号館食堂)

6月14日(日)
10:00~12:00 研究報告
「ローマ共和政期における『慣例』」丸亀裕司
「ヴィットーレ・カルパッチョ作「スラヴ人会」連作にみられる東方の表象」森田優子
「グランド・オペラの音楽と舞台演出:マイヤーベーア《悪魔ロベール》を例に」森佳子
12:00~14:00 昼食
14:00~17:00 シンポジウム
テーマ:「地中海都市の重層性」
パネリスト:黒田泰介/高山博/山下王世/加藤磨珠枝
司会:黒田泰介(パネリスト兼任)
17:00 閉会宣言 島田誠

新年度会費納入のお願い

2020年度度会費の納入をお願い申し上げます。自動引き落としの手続きを為されていない方は、以下の通りにお振込をお願い致します。
なお、正会員の会費が改定されていますのでお間違いのないようにご注意下さい。

会費:正会員   1万円
学生会員  6千円
シニア会員 8千円
準会員   8千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行 九段支店 普通957742
三井住友銀行 麹町支店 普通216313

お詫びと訂正

月報423号3頁において、大会シンポジウム報告者の山形治江さんについて「英語教育を担当されている」と紹介しておりますが、正しくは「芸術学を担当されている」でした。お詫びして訂正いたします。

研究会要旨
幻視主題における遠近法とその意味
──一六世紀初頭の作例を中心に 森田 優子

幻視や預言といった聖なる啓示をどう表すか。美術において、啓示の表現はマンドルラやニンブスなど周囲から区切られた形式をとり、別の次元の介入が表現されてきた。こうした幻視表現はルネサンス美術において自然主義的な表現と齟齬をきたすようになる。超自然的な現象を自然主義的に表すという困難な課題にのぞんで、それまである意味で記号的に描かれていた雲が写実的に描かれるようになり、ラファエロに代表される画家達によって幻視を表す新たな定式が作られていくことになる。ただし実際にこうした表現がうみだされる過程にはさまざまな試行錯誤が存在したと考えられる。

幻視という現象は神の啓示の重要性を表したものであり、この現象にはそもそも、理性にたいする神の啓示の優位性というテーマが存在している。祭壇の前、修業の場たる荒野、書斎などといった場所で幻視は生じているが、書斎で起きた幻視でさえ啓示と理性の関係性が明らかに示された作品はそう多くない。研究者ストイキツァは『幻視絵画の詩学』において一七世紀スペイン美術における幻視表現を取り上げ、「聖ベルナルドゥスの幻視」に幻視と書物の対抗関係が時代の変化とともに徐々に浮かび上がってくることを論じている。そこで引用された例を挙げると、フアン・デ・ロエーラスの《聖ベルナルドゥスの授乳》(セビーリャ、サン・ベルナルド施療院所蔵)においては物質的なイメージたるイコンと書物が、幻視と対置され、聖人はイコンや書物に背を向けて雲に囲まれた聖母子を見上げている。

こうした啓示と理性の関係が逸話の核となっている点で注目すべきは、「聖アウグスティヌスの幻視」という主題である。ヒエロニムスの臨終に際し、離れた地にいた聖人のところへヒエロニムスが奇跡的にあらわれ会話をしたという話である。三位一体についての疑問を尋ねようと聖人が手紙を書き始めた瞬間にこの幻視は起こり、ヒエロニムスと名乗る声が響き光や芳香とともに真夜中の部屋に現れたという。ヒエロニムスは三位一体の神秘と書物の関係を海と水甕になぞらえ、計測不可能なものについて語る。この主題には幾つも作例が存在するが、聖人のいる書斎には備品のように砂時計や書物が描かれるに留まっている。そのなかでとりわけ目を引く作例がボッティチェッリによって1481年頃制作された《聖アウグスティヌスの幻視》(フィレンツェ、オンニサンティ聖堂所蔵)とヴィットーレ・カルパッチョによって1508年頃制作された《聖アウグスティヌスの幻視》(ヴェネツィア、スラヴ人会所蔵)である。

両作品には共通して天球儀が描かれ、それぞれ二四時間式の時計や砂時計、また四分儀やアストロラーベといった観測器具が描かれている。この両作品は計測できないもの、つまり「神の把握不可能性」がこの逸話の本質であることを対比的にあらわしている。さらにほかの作例とは異なる点としてカルパッチョの作品には、もうひとつの「聖アウグスティヌスの幻視」の逸話に関係する貝殻が描かれている。三位一体について書きあぐねていた聖人はあるとき不思議な遊びをしている子どもに出会う。子どもは水をすくって、小さな穴に入れるという無益な遊びをしており、聖人が語り掛けると、その子は実際にはキリストであって、話し終えるとすぐに姿が消えてしまったという逸話である。ここでも三位一体の理解が、海の水を計量することの比喩で語られ、貝殻は水をはかる道具として登場する。このように貝殻の典拠は明らかにされたが、既存の研究においてはなぜ付け加えられたのかという所以が十分に考察されてきたとはいえない。カルパッチョの作品において貝殻は計測を、つまり認識の限界を強調している。

ボッティチェッリの描く書斎に置かれた書物にはユークリッドの幾何学の定理が表され、そこに記された「修道士マルティーノはどこだ?」という、内容と無関連の文章は画家による諧謔だと指摘されてきた。この幻視をめぐる文脈を踏まえると、遊びという体裁だけでなく「計測」についての風刺を交えた表現だと改めて認識される。カルパッチョの描いた書斎には幾何学の書物こそ描かれていないが、この空間こそが「測れるもの」であることは間違いない。そもそも美術が測る技術を基礎としていることはルネサンスの画家にとっては自明である。画中の書斎はほぼ一点透視図法で描かれ、消失点は貝殻のすぐそばの、聖人の右手にある。そして幻視は計測不可能な光や香り──この香りが存在することは白い子犬によって示される──で対照的に表される。こうした書斎はルネサンスの人文主義者による最先端の知的空間を表現したというだけでなく、幻視という現象に存在した啓示との対立もはらんでいる。こうした作品はまさしく、雲という幻視表現の解決策が見いだされる以前の、幻視における理性との緊張関係が鮮明に写し出されたものといえよう。(2月22日/学習院大学)

しましまプロジェクト
──コルシカ篇 伊藤 喜彦

2018年度から19年度にかけて、筆者は「島嶼をつなぐネットワーク型文明の研究──古代から中世までの地中海における神話・美術・建築」と題する共同研究プロジェクトに参加した。これは、当時の勤務先の東海大学が設けた学内のプログラムに応募して採択されたもので、タイトルは壮大であるが、どちらかと言えば萌芽的研究である。共同研究者はローマ文学の河島思朗氏とロマネスク美術史の金沢百枝氏。古代から中世にかけての地中海を研究対象にすることまではすぐに決まったものの、その先は、各々の研究上の関心を持ち寄りながら、新しいフィールドでの知見を共有し、これまでに無い視角を手に入れることを目指すということ以外、とくに決まっていなかった。

ブレインストーミングを重ねる中で浮上してきたのが、西はバレアレス諸島から東はキプロス島までの地中海の島々に着目するという方針であった。シチリア・ノルマン王国などわずかな例外を除くと、ほぼ大陸側から語られてきた古代ローマ期以降の地中海文明を見直せないか、という視座である。研究グループの3人はいずれも考古学や文献史学の専門家ではないが、それを逆手にとって、物語・美術・建築から、新たな研究対象や研究の切り口を考えてみようということになった。申請書用にはいかにも研究プロジェクト然とした名称を考えたが、メンバー同士では、いつしか同プロジェクトのことを「しましまプロジェクト」と呼ぶようになった。

一年に一島のペースで実地調査する計画を立て、訪れることができたのがコルシカ島とサルデーニャ島。今後も他の島も含めながら研究を発展させたいとは思っているが、学内プロジェクトの枠組は離れるため、先のことはわからないというのが実情である。そんなわけで、地中海全域から選ばれた2島としては少し変則的なチョイスながら、メンバーの関心・知識・語学力の問題も鑑みて、西地中海の隣接した2つの比較的大きな島がまず選ばれることになった。結果として、両島に見出せるイタリア半島との深い関わり、島同士の共通点と並んで、各島独自の文化性を理解することができ、今後への布石となったように思う。

初年次、真夏に訪れたコルシカでは暑さと宿泊費の高騰に悩まされた。ミュージアム化された遺構や現役の教会堂は大抵開いていたが、アーカイヴや研究機関は閉まっていた。これに懲りて、翌年のサルデーニャ調査は秋に行ったが、今度はいつまでもすっきりしない天候や、オフシーズンで閉館した博物館や教会堂に悩まされることになった。

コルシカ調査時のもう一つの困難は、筆者の息子の存在であった。当時、筆者はスペインはカタルーニャ州ジローナ大学での在外研究を行っており、長男を連れての2人生活であった。この2人生活も地中海らしいエピソードが満載で、いまこの原稿を慌てて書いているのについそちらに脱線してしまいそうだが、その話はまたどこかでしたい。とにかく、長男を連れて来たは良いものの、編入させた小学校は6月半ばから夏休みに入っており、コルシカに連れて行くしかない、ということになった。結果的には、ビーチを横目に汗だくになりながら崩れかけた教会堂巡りをさせられたとはいえ、病気や怪我も無く調査旅行を終えることができた。

コルシカ調査では、西岸にあるナポレオン・ボナパルトの生地アジャクシオから南下し、島の西半分を中心に点在する巨石文化遺跡群やロマネスク聖堂を訪れながら東岸に向かって島を横断した。東岸では古代ギリシア・ローマ文明の影響が明白に感じられるアレリア遺跡を見学ののち、今度は内陸コルテを経由して北西部、続いて北東部を巡った。島の中央部から北辺にかけては古代末期からロマネスク期の遺構が多く存在しているが、その多くは単廊式のこぢんまりとした建築で、ジェノヴァ支配以降に大きく発展したカルヴィやバスティアといった港湾都市から少し離れた丘の上の村であるとか、人里離れた山上や渓流の近くに位置している。ロマネスク期までの大規模と言ってよいキリスト教建築は現存せず、おそらく存在していたことはないだろう。古代ローマ都市に建てられた最も大きな3廊式の聖堂でもトスカーナにあれば小都市の教区教会堂といった風情である。

予想をはるかに超えて山がちであったコルシカで、蛇行するガタガタの道を村から村へレンタカーを走らせて小さな教会堂を訪れ、山上や谷間の廃墟を巡る中で、ムラートのサン・ミケーレ聖堂のような、完成度も高く、保存状態も良く、美しく整備された建築を鑑賞できたのは至福の時だった。しかし、より強い印象を受けたのは、人里離れた山の中で異様な存在感を放つレスカモーネのサンタ・マリア聖堂のような廃墟、人為と思うと(なぜここに?)と思ってしまうが、いかにも大天使ミカエルがお告げを出しそうな絶景の岩壁上に立つシスコのサン・ミケーレ聖堂などであった。これらを様式的にイタリア半島からの「影響」を受けた建築、と言い切ってしまえばそれまでなのだが、それでは説明出来ない本質的な何かを、未だ言語化できないでいる。

ロンドンの音楽家たち
ブルー・プラークを辿って 今関 汐里

2020年の年明け早々、英国音楽学会の学生カンファレンスで発表するために渡英した。発表の出来はさておき、その前後に行った史料調査も無事終えることができた。最終日は観光することにしよう。とはいえ、すでに主要な美術館・博物館、宮殿、教会などの観光名所はひととおり見学済み。今回はどこを訪れようかと思いを巡らせながらロンドンの街を歩いていると、建物の外壁に青くて丸いプレートが掛けられているのが目に留まった。よく見てみると、中央には人物と、その人とこの建物との関係が示されている。調べたところ、これはブルー・プラークblue plaqueと呼ばれるもので、著名人の旧居にその歴史的なつながりを示すために掲げられている。現在では、イングリッシュ・ヘリテッジが管轄し、これまでに900以上が設置されているようだ。シェイクスピア、ニュートン、ディケンズなどのイギリスを代表する人物はもちろんのこと、ゴッホ、夏目漱石などの外国出身の文化人が滞在していた家々も登録されている。ウェブサイトには、各家の住所、住んでいた偉人のイギリス(ロンドン)での活動などがまとめられており、これを見るだけでも、ロンドンがいかに時代を超えて文化の中心地であるかを知ることができる。

では、ロンドンで活躍した音楽家たちの家々はどうだろうか。ヘンデル、モーツァルト、そしてモーツァルトと同時代に作曲家兼ピアニスト、音楽実業家、ピアノ教師として活躍したムツィオ・クレメンティ等々。彼らの家々は現在も残っていて、登録されているのだろうか。公式サイトのカテゴリー検索で「音楽とダンス」を選択すると、実に82件ものブルー・プラークが表示されることに驚く。すべてを回るのは無理だが、何人かの音楽家の家々を巡ってみることにした。

最初に訪れたのは、ウェスト・エンドのノッティング・ヒル・ゲート駅。ヒュー・グラントとジュリア・ロバーツ主演のラブコメディ映画「ノッティング・ヒルの恋人」の舞台としても知られているほか、ポートベロー・マーケットでは古着や骨董品などが販売されており、観光客に人気がある。アンティークショップが軒を連ねるケンジントン・チャーチ・ストリートを南に進むと、18・19世紀に活躍した音楽家クレメンティのブルー・プラークを見つけることができる。彼は10代半ばでイギリスに移り住んでから、ロンドンを拠点に作曲家、ピアニスト、指揮者、音楽実業家、ピアノ教師として実に多様なキャリアを歩んだことで知られ、「フォルテピアノの父」の異名を持つ。4階建てのレンガ造りの壁はくすみがかり、その左隣の白塗りの堅牢な建物に比べて、否応なく歴史を感じさせる。彼の家は、イギリスの非営利団体歴史住宅協会Historic Housesによって管理されており、現在に至るまで、ほとんど当時のまま維持されている。家具や絵画だけではなく、クレメンティ社のピアノも演奏可能なまま保存されているようだ。クレメンティの後には、少年メンデルスゾーンも住んでいたという。他にもショパン、ベッリーニ、ヨアヒムなどの音楽家が訪れたというのだから、クレメンティのピアノを囲んで演奏を楽しんでいたと想像することも難くない。クレメンティの屋敷からはケンジントン・ガーデンも徒歩圏内である。クレメンティやメンデルスゾーンも、音楽活動の傍らケンジントン宮殿を横目に散歩を楽しんだのだろうか。

クレメンティの家に別れを告げ、地下鉄を乗り継いで、グリーンパーク駅で下車した。この駅は、エリザベス女王が住み、執務を行うバッキンガム宮殿や歴史あるセント・ジェームズ宮殿の最寄りであり、多くの観光客が利用する。駅から東に進んで路地に入ると、ショパンのブルー・プラークが掲げられた建物にたどり着いた。白塗りの壁に「1848年、この家からショパンはギルドホールへ向かい、最後の公開演奏会に出演した」と書かれたプラークが掲げられている。ジョルジュ・サンドと前年に別れ、スコットランドに演奏旅行をした後でこの家に滞在した。現在は、外壁も塗り替えられてしまっており、会社のオフィスになっているようだが、閑静な路地の中にあるこの家の佇まいは、ショパンが演奏活動の合間を縫ってここで静かに療養生活を送っていたことを想像させる。

その他にも、ブルー・プラークを手掛かりとして、モーツァルト、メンデルスゾーン、エルガー、バルトークなど様々な音楽家の所縁の地を巡ってみた。これまで、楽譜や演奏、文献などを通じて彼らの音楽作品や活動と向き合ってきたが、肌を刺すような風を感じながら、時を隔てても同じ場所に佇む彼らの家々やその街並みを眺めるなかで、彼らの軌跡を追うことができたように感じる。そのようなことを考えていたら、ふと、ロンドンの光景が、異なる時代の産物の重なりからなる、地層のように感じられた。帰国後に記録用の写真を見てみると、手の凍てつきや、首元を吹き抜ける冷やりとした風と共に、音楽家の住んでいた家を目前にしたときの心が弾む感覚が蘇ってくる。

ピカソの「地中海的性質」と混成性
松井 裕美

2017年から2019年まで、「ピカソ──地中海」と題された一連のイベントが、フランス、スペイン、イタリア、ギリシア、モロッコ、トルコ、レバノンといった地中海沿岸の国々で企画された。パリのピカソ美術館の呼びかけに対し、70を超える文化施設が協力した大プロジェクトであり、この企画の一環で開催された諸々の展覧会には合計で300万もの人々が訪れた。様々な国からなる緩やかな連合体をまとめあげた本プロジェクトは、数年の休館期間を経て2014年秋に開館したパリ・ピカソ美術館の、文化的発信力を取り戻そうとする意欲が忌憚なく発揮されたものであった。

このプロジェクトが地中海沿岸の国々に協力を求めた背景には、2019年のピカソ美術館の企画展タイトル(Picasso, Obstinément Méditerranéen、砕いて訳せば「ピカソ、ずっと地中海」)のとおり、ピカソの芸術の奥底に「地中海的性質」が深く染み渡っていた、とする前提がある。なるほどピカソの生地マラガは地中海沿岸に位置するし、ピカソが晩年その居を構えたのも南仏の地中海沿岸地域だった。また彼の作品には、古代ギリシア美術や神話といった古典文化からだけでなく、イベリア美術や北アフリカの美術から着想を得たものが認められることも、すでに多くの先行研究で指摘されている。ピカソの「地中海的性質」を見出す試みとはすなわち、純然たる単一の文化的起源を遡求する本質主義的な探究ではなく、歴史の中で様々な多様性を見せ、ダイナミックに異質なものを取り入れてきた地中海文明の混成性との関わりを再考するものだったと言える。

ところで、ピカソ作品の混成性にたいしては2つの評価がなされている。一方は、怪物的なイメージのように「異常なもの」やアフリカのフェティッシュのように「異質なもの」でも独自の表現に変化させてしまう天才の証をそこに見るポジティヴな評価である。他方は、そうした「異常なもの」ないしは「異質なもの」を飼い慣らし我がものとする創造行為のなかに、対等で双方向的な文化交流ではなく一方的な流用を見てとり、それゆえにこの画家の眼差しが潜在的には植民地主義に与するものだったのだとするネガティヴな評価である。女性という「異質な存在」を自在に歪曲する試みに男性中心的な支配構造を読み取る立場もまた、後者の観点に類する。

あえて図式的に両者の立場を整理すると次のようになろう。前者の論者が反アカデミックで脱西洋中心主義的な価値転換のプロットに注目するのだとすれば、後者の多くは、ピカソの作品そのものというよりも、それを土台にして芸術家や批評家、美術史の専門家たちが築いてきた言説と制度に、批判の矛先を向ける。つまり前者の立場は作品における過去との不連続性を評価し、後者は現在も続く権力構造の不均衡を成す諸問題を告発することで作品と現在との連続性に目を向ける。

相反するこの2つの立場の根底にも、共通の前提があるように思われる。それはピカソが正常と異常、規範と逸脱、西洋と非西洋、男性性と女性性という二項対立の中で、どちらか一方の立場からもう一方を流用するなり攻撃するなりしていた、というものだ。例えば規範と逸脱の二項対立に即して考えてみよう。一方では伝統から逸脱する立場からアフリカ美術などを吸収し、西洋的規範を攻撃した点にピカソの美術史的意義があるとされてきた。他方、本来西洋から逸脱するものを西洋的な芸術概念の規範のうちに流用した、あるいは男性的な規範から女性像を歪曲し、そのことで女性自体を攻撃したと考えれば、同じ作品は私たちにとって批判され得るものに転じる。ここで規範と逸脱は、論者の視点によりその意味を大きく変えるのだが、いずれの場合もそれらは相容れない2つの極として存在し、そのどちらかにピカソが与していたということになる。

だが二項対立の図式を超える得体の知れない何かがピカソの作品にはあることも事実だ。素描を手がかりにその生成過程を観察してみると、規範を逸脱に変えたかと思えば次の瞬間にはそれを新たな規範にして別の逸脱を生み出すダイナミズムが生じていたことが理解される。2015年にパリ西大学に提出した博士論文ではキュビスム作品を対象にこのことの一端を明らかにした。その4年後に上梓した単著『キュビスム芸術史』(名古屋大学出版会)後半では、両大戦間期にキュビスムが歴史化される過程で、この混成的現実が二項対立の図式に還元され理解されるようになったことを新たに示した。

もちろんこうして描きなおした歴史それ自体もまた、混成的な現実の一面に過ぎない。今後はダダやシュルレアリスム、あるいは女性芸術家の活動との比較検討をとおして、ピカソのみならず20世紀美術そのものの混成性を浮き彫りにする研究を進めていきたい。

コクトーの地中海世界
~~ギリシア神話をモチーフとした50年代の傑作~~ 田口 亜紀

数年前、NHKの新テレビ番組『旅するフランス語』の立ち上げの際、監修者として番組制作に関わったことは、私にとって貴重な体験だった。1年目はパリが中心だったが、2年目は、南仏を旅する企画で、南仏にゆかりのあるシャガール、ゴッホ、ラシーヌ、カミュといったアーティストや作家を取り上げた。フランスではロケ同行時に撮影に立ち会ったが、一般には立ち入りができない建造物や個人の邸宅を訪れることができたのは、役得というほかはない。思い出深かったのが、アヴィニョン演劇祭の裏方見学と、2017年10月に放送された「コクトー特集」のための取材だった。

ジャン・コクトー(1889~1963)は自らを詩人とみなしながら、小説、劇作、映画、批評、随筆、絵画、彫刻、モード、映画、音楽、バレエという芸術分野を手がける総合芸術家だった。20世紀、フランスでの既成の芸術観にとらわれない前衛的芸術運動を背景に、コクトーは芸術のジャンルを自由自在に横断した。中でも冥界=未知の世界に足を踏み入れるオルフェ(オルフェウス)の神話を現代によみがえらせたことは象徴的である。

映画『オルフェの遺言』はコクトーの人生の総決算ともいえる。映画の大部分は南仏で撮影された。ニースの東約2キロに位置する漁港ヴィルフランシュ・シュル・メールでは、詩人(コクトー)が分身と出会う場面が撮影された。正確には16世紀に建築された城砦の軒下に130メートルほど続く通りで、地下道のような場所である。

この地方は風光明媚な気候のため、芸術家の静養地としても知られているが、ジャン・コクトーもまた、パリを発って、ヴィルフランシュに立ち寄った。港に面したサン・ピエール礼拝堂を一目見て気に入り、この街に滞在することになった。10年以上に渉る交渉の後に、1957年に教会の壁画を無償で制作した。それが街の宝物となった。

コクトーの芸術は、さまざまな人びととの交流によって生まれた。彼の墓碑銘「私はあなたたちと共にある」はそれを雄弁に語っている。彼は前述の『オルフェの遺言』撮影のための資金繰りで苦労したが、映画作家トリュフォーら協力者の呼びかけによって、制作費が集まり、友人がギャラなしでの出演を申し出て、映画は完成した。出演者の1人、フランシーヌ・ヴェズヴェレールは1950年から62年までコクトーの同志だった。

フランシーヌはユダヤ人実業家と結婚していた。1950年にコクトーに出会い、サン・ジャン・キャップ・フェラ(フェラ岬)にある家族の別荘に彼を招待する。フェラ岬はヴィルフランシュから数キロの場所にあり、地所の名称Villa Santo Sospirは15世紀の海図に「聖ソスピール」と記されていたことに由来する。1962年まで、フランシーヌとコクトーは、コクトーの養子エドゥアール・デルミットや、休暇に訪れる彼女の娘らと共にサント・ソスピール邸で生活した。

邸宅は海に面していた。が、泳ぎが苦手なコクトーはもてあました時間を家の壁画制作に充てた。カラーパステルで黒の一筆書きのデッサンに着色し、真っ白だった壁は線画で覆われ、やがてランプやタンスのような家具にも装飾が施される。コクトーが「壁に『刺青』を入れる」と表現したように、サロンから始まり、廊下、各人の寝室の壁面と、玄関、庭のモザイクやタンスの中まで、線と色で満たし、しまいは彼の下絵をもとに絨毯まで制作させたのだった。

壁画には、ギリシア神話に取材して、アポロン、ディオニュソス、ナルキッソス、ヘルメス、アクタイオン、オルフェウスが現れるかと思うと、コクトーが好んだ美顔で理想の人物像(ジャン・マレー)や、地元の漁師のモチーフ(ウニ、ニース地方のパンであるフガース、ナイフ)、日々の生活に根ざしたテーマ(地中海の気候、食べ物、海で働く人びと)も登場する。鷹を携えて、古代都市の象徴とも言える聖ソスピールが一体となる壁画は、50年代のコクトー芸術の代表作である。コクトーにとって、アトリエ兼生活の場であったサント・ソスピール邸は、型にはまらない親密な人間関係に支えられた、血縁を超えた愛で成り立つ家族の空間だった。

さて、番組のロケ時のインタビューでは邸宅の末路を聞いた。フランシーヌの娘キャロルが相続した邸宅は、コクトーの壁画「作品」があるがゆえに、フランスの文化遺産と見なされ、所有者には文化保護の観点から、管理義務が生じた。そのためにキャロルは経済的に邸宅を維持することが困難となり、売りに出していたところ、ロシアの富豪の手に渡ったとのことだった。

サント・ソスピール邸の壁画。ジャン・コクトー作。筆者撮影

表紙説明

地中海の〈競技〉11:松明競走/師尾 晶子

新型コロナウィルスの感染拡大におびえる中、3月12日、オリンピアのヘラ神殿の祭壇跡で聖火が採火され、聖火リレーが始まった。しかし翌13日、映画「300」でレオニダスを演じたジェラルド・バトラーが聖火ランナーとしてスパルタに現れると観客が殺到し、リレーは中止。20日に聖火が日本に到着したものの、大会延期の決定にともない、聖火リレーもいったん中止となった。

オリンピックの会期中に聖火を灯すという着想は1928年のアムステルダム大会に遡る。以後、聖火はオリンピックの象徴とされ、1936年のベルリン大会では、聖火をオリンピアからベルリンまでリレー形式で運ぶという、聖火リレーがはじめて実施された。夏冬ともにオリンピアを唯一の採火の場とすることが定められたのは、1964年のインスブルック大会および東京大会からであった。

1936年のベルリン大会に際して聖火リレーを考案したのは、カール・ディームである。彼は、古代ギリシアでおこなわれていた松明競走にヒントを得て、古代オリンピックの地オリンピアから近代オリンピックの開催地まで聖火をリレーで運ぶということを発案した。

古代オリンピックの競技には団体競技も松明競走もなかった。一方、種々の祭典で松明競走がおこなわれていたことが知られている。松明競走の形式はさまざまであったが、大部分の祭典でリレー形式が採用されていた。

競技の実態が最もよく知られているのはアテネで、パンアテナイア祭、プロメテイア祭、へファイステイア祭をはじめ、種々の祭典で部族対抗による松明競走が催された。前490年のマラトンの戦いの勝利後にパーンの祭典を創始して松明競走をおこなったと伝えられていることから(ヘロドトス『歴史』6.105.3)、その起源はかなり古いと推測される。上記3祭典における松明競走は、アカデメイアのエロスないしプロメテウスの祭壇から中心市にあるそれぞれの祭神の祭壇までの約3.5キロメートルをリレーで競った。パンアテナイア祭では、前4世紀、優勝部族には宴会のための牛1頭と賞金100ドラクマが、優勝したアンカーの走者には水甕(ヒュドリア)と30ドラクマが与えられた(IG II2 2311)。松明競走が身近で人気のある競技であったことは、陶器の図柄に数多く取り上げられたことからもわかる。多分に誇張を含みつつも、アリストファネスの『蛙』の一節からもそれはうかがえる(1089-1098行)。観客はのろまの走者に笑い転げ、城門をくぐる走者を叱咤激励すべく身体を叩き、走者は松明の火を消して失格とならぬよう、それでも必死に走るのだ。賞金目当てのプロの選手でもない、馬を所有する富裕者でもない、普通の市民も参加するリレー、それが松明競走だったのである。表紙左上はスタート地点の様子を描いたペリケー、右上は勝利の女神ニケに祝福を受ける優勝者を描いた混酒器、下はリレーの様子と優勝後の宴会の様子の描かれた混酒器である。
(左上:The British Museum, GR 1865,1-13.24;右上:The British Museum, GR1898,7-16.6;下:The Metropolitan Museum of Art, 56.171.49)