2018年4月号,409号
目次
学会からのお知らせ
第42回地中海学会大会案内
第42回地中海学会大会を2018年6月9日、10日(土、日)の2日間、新宮市福祉センター(和歌山県新宮市野田1-1)において下記の通り開催します。
6月9日(土)
14:00~14:15
開会宣言 本村 凌二氏
開会挨拶 田岡 実千年氏(新宮市長)
14:15~15:15 記念講演
「熊野の魅力」
林 雅彦氏(明治大学名誉教授)
15:30~17:30 地中海トーキング
「世界の中の熊野」
パネリスト:高木 亮英/松本 純一/
奈良澤 由美/守川 知子
司会:秋山 聰 各氏
17:40~18:10 授賞式
地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
18:10~18:40 総会
19:00~21:00 懇親会
6月10日(日)
10:00~12:00 研究発表
「古代小麦の再評価におけるシチリア州小麦栽培試験研究所」 牧 みぎわ
「西行歌にみる海浜の風景――「海人」への視線」 中西 満義
「佐藤春夫と中国・台湾」 辻本 雄一
「二つの聖地風景――那智熊野とゲミレル島
(トルコ、ムーラ県)のHodology」 辻 成史
13:00~16:00 シンポジウム「聖なるモノ」
パネリスト:山本 殖生/奥 健夫/
太田 泉 フロランス/加藤 耕一
司会:松﨑 照明 各氏
新年度会費納入のお願い
2018年度の会費の納入をお願いいたします。不明点のある方、領収証を必要とされる方は、お手数ですが、事務局までご連絡下さい。
会費自動引落日(予定):4月23日(月)
会 費:正会員 1万3千円/シニア会員 8千円/準会員 8千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通957742
三井住友銀行麹町支店 普通216313
2017年度常任委員会報告
・第3回常任委員会
日 時:2018年 2月17日(土)
会 場:首都大学東京秋葉原サテライトキャンパス会議室
報告事項:『地中海学研究』XLI(2018)に関して/研究会に関して/石橋財団寄付助成金の申請に関して/2017年度財政見込みに関して/企画協力講座に関して 他
審議事項:第42回大会に関して/地中海学会賞・ヘレンド賞に関して/会員種別変更(シニア会員、準会員)に関して 他
寄贈図書紹介
HP(http://www.collegium-mediterr.org/)内に、寄贈いただいた図書を紹介するページを設けてあります。トップページのメニューバー「図書紹介」よりご覧下さい。
熊野における大会に向けてⅢ
熊野比丘尼と絵解き
林 雅彦
かつて、熊野比丘尼と称された女性宗教者が、熊野権現の慈悲や浄土思想を説くべく、地獄や極楽の描かれた絵画を絵解きして、全国各地を巡り歩いた。その説教の様子は、雑俳集『広言海』に収められた一句、「あどを打絵とき地獄を見た様に」の如き語り口であったろうと思われる。
俗人の絵解きが零落した底辺で生きねばならない芸能者だったことは、室町期に成立した『三十二番職人歌合』絵巻に、「いやしき身しなおなじきもの」として、千秋万歳法師と対の形で描かれているところから、容易に理解出来よう。伝道絵解きのひとりたる熊野比丘尼の境涯も又、同様であった。職業がら、勧進比丘尼と呼ばれ、絵解き比丘尼とも唄(歌)比丘尼とも呼ばれた彼女たちは、熊野・伊勢に詣でた後、諸国を巡り歩いては熊野牛王や護符類を配札、籾集めをする折々、物語をしたり絵解きしたり、あるいは簓を摺りつつ歌を歌ったりして、庶民を対象に熊野信仰の教化宣揚を日々の業とするのだった。
こうした勧進活動を通して、「蟻の熊野詣」「蟻のとわたり」といった語彙が生ずる程、貴賤上下の区別なく、人々は競って熊野参詣に赴いた。……(中略)……熊野比丘尼が仏法弘通に用いた絵画は、「熊野の絵」と名付けられ、「地獄極楽すべて六道の有様」を描いたもので、声よき比丘尼は歌を歌って勧進したという。
また、『御湯殿の上の日記』文明12年(1480)8月3日条の「ゑときけふは女はうたち申さたなり」など、文明年間の記事と同じく、許されて御殿の奥深く伺候し、女房たちに絵解きして仏法を勧めた旨の記述も見られる。……(中略)……
無色軒三白の『好色訓蒙図彙』(貞享3年[1686]刊)を見ると、「むかしをきけば、妙法も手またふして、阿爺もたず、魚くはず、寺参にうとき家美様、談義も説法も耳にとまらぬ女、わらべに、地ごく極楽のゑをかけてゑときしてきかせ、老の坂のぼればくだる、つねならぬ世の無常をしめして、心なきにもなみだをこぼさせて」の如く、談義や説法に日常無縁な女子供に感涙をもたらせた、熊野比丘尼の絵解く姿が実にいきいきと映し出されている。掛幅形式の「地ごく極楽のゑ」とは、一般に「熊野観心十界図」と呼ばれる図であるが、上部に日月と四聖界を、下部に地獄をはじめとする六道界を、そして中心部に「心」字を描くとともに、日月の下に「老の坂登れば降る」人生の無常・死生観を描いた図で、熊野比丘尼所縁の秋田宝性寺や三重県志摩町熊野家・岡山県邑久町武久家など、現在全国各地に四十本余り散在している。
元禄5年(1692)に刊行された井原西鶴の『世間胸算用』巻五・二「才覚軸すだれ」にも、「されば熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息の根のつゝくほどはやりうたをうたひ、勧進をすれども腰にさしたる一斘びしやくに一盃はもらひかねける」のように、絵解きの様子が記されている。一日当たりの運上米として、一升杓一杯のノルマは、成人の比丘尼にとっても決して容易なことではなかったであろう。……(中略)……
これまで長々と述べてきた熊野比丘尼の配札勧進活動に関する絵画資料を整理すると、大きく二つに分けられる。白衣を着、白い頭巾を被った熊野比丘尼の風姿は、前代から継承されてきた古態――絵解きを生業とする勧進比丘尼を現すものである。これに対して、黒色の頭巾の着用は、歌(唄)比丘尼・浮世比丘尼と化した女性宗教者の姿を象徴する身形だと言えよう。
熊野比丘尼の職掌の変容は、江戸初期と、意想外に夙かったのである。
追記
以上は『海の熊野』(谷川健一編、森話社)所収の林論文からの抜粋である。この論文は中世末から近世における熊野比丘尼の実態と絵解きの息遣いまでをも鮮やかに描出しているが、特筆すべきは熊野信仰普及の一翼を担ったのが女性の宗教者たちで、唱導対象も主に女性だった事の指摘である。熊野にはその総元締めともいえる本願所があった。新宮神倉社の神倉本願はその代表で、首座妙心寺の妙順尼は大永年中(1521~28)から享禄4年(1531)まで神倉社殿再興のため弟子の裕珍と共に諸国を勧進し、天正16年(1588)の焼失では、祐心尼が西国、九州9ヵ国で勧進している。この女性たちの組織と情報のネットワークは女性と聖地の問題において注目すべきものである。熊野の人たちは貴賤男女区別なく参詣者を受け入れ続けて来たが、その優しく且つ鋭い眼差しは、これらの文化的背景に鍛えられ、裏打ちされたもので、この小さな町が、大石誠之助、佐藤春夫、西村伊作、中上健次などを生んだ所以でもある。(松﨑 照明)
アテネ碑文博物館の銘文印象記
古山 夕城
アテネ国民考古学博物館の工科大学側の側面に、デロス同盟の貢税表をはじめ、アッティカはじめギリシア各地から発見された金石文史料を収蔵する「碑文博物館」がある。アルカイック期碑文の陳列コーナーが刷新されたという話を聞いて、2017年夏に再訪した。
たしかに、そのコーナーは陳列展示を一新して、アルカイック期の碑文史料を手がかりに学ぶ者には非常に有益であったが、この時もっとも関心を引いたのは、博物館の入り口ホールからコーナーへの通路の初っ端に置かれている、ガラスケースの陶器銘文であった。
そこには黒陶スキュフォスが天地逆の状態で展示されていた。なぜなら、グラフィット銘文が逆さまで刻まれているからである。スキュフォス胴部の銘文は、四角く枠取った中に6人が古いアッティカ字体のストイケドン方式で属格記名されている。
説明プレートには、そっけなく「キフィシア出土の銘文スキュフォス」「キフィシア考古学コレクションK622」「475-429BC」とあるだけだが、興味をそそられるのは、文字が上下逆相であることだけでなく、その6人の人名の中によく聞き知った名前があったからである(ローマ字表記にして示す)。
Aristeido / Diodoto / Daisimo / Arriphronos / Perikleos / E[u]krito
〔SEG LXIII 2013 (2017) Nr.66〕
この器は、墓からの出土と報告されているため、副葬品と考えられる。初版校訂者のG. Daskalaki(Horos 22-25、2014)によれば、1行目のアリステイデスと5行目のペリクレスは、前5世紀アテネの将軍職を務めた民主政治のリーダー2人、4行目のアリフロンはペリクレスの兄弟である可能性があるという。
Daskalakiは、残るディオドトス・ダイシモス・エウクリトスの3名が彼らと宴席を共にした記念に、このスキュフォスで酒を回し飲んで、空にした器を逆さにし、おのおの自分の名を刻んだという状況を示唆している。というのも、6人それぞれの記名は別人の書き手によるものだからである。
これとは別に脚部底面にも人名らしき表記があるのだが、こちらはイオニア文字の主格記載で「Drapetes」とあり、Daskalakiはそれを奴隷の名前と推定している。ドラペテスとはおかしな人名で「逃亡者・ずるけ者」という意味になり、市民の名には似つかわしくない。この底部の表記と胴部の6人の名前とは、格表記も字体も書き手も異なるため、両者の関連は定かではないが、一つの共通点がある。
それはスキュフォスを正常に置いた状態では、この底面の銘文は決して目にすることができず、また、逆さに記された胴部の6人の名も判読には困難が伴うという事実である。初版校訂論文に掲載された出土時の写真を見ると、この黒陶は亀裂こそ入っているが、内側に別の小オルペを容れた状態で完形のまま、正常に置かれていたことがわかる。
さて、そこから想像を逞しくして、スキュフォスは普段も発掘時の状態と同じように、宴会の場となるダイニングの棚に正常に置かれていたのではないか、さらに、酒席に訪れた者がそれを目に留め、記名を読もうと器を逆さにすると、底部のもう一つの銘が現れる、というシチュエーションを想定するのは行きすぎであろうか。
6人の属格記名は所有者を意味し、通常は「(この器は)宴席参加者6名のもの」の意と解釈できるが、器を逆さにすることに重要な意味が隠されているとすれば、「ドラペテスは6名の共有である」とも読めるであろう。このイオニア出身の奴隷が、文字の読み書きにとどまらず、種々の文芸に通じていた可能性については、男女の違いはあるが、後のペリクレスが入れあげたミレトスのアスパシアの事例が思い浮かぶ。
とすれば、互いの友好と「乾杯の証」として逆さに記名を施したという初版校訂者の想定とは別に、ドラペテスを介在した6名のいくぶんエロチックな絆の印という考えも湧き起こってくる。もっとも、底面の銘文については、後になって書き加えられたのかもしれず、このような想像が、はたして正しいのかどうかは分からない。
しかし、この銘文の意味は、ただテキストの字面だけを追っては理解できないであろう。それが記されている状態をつぶさに観察し、それが記された支持体との関係や記載箇所が示す状況を考慮しなければ、文面の持つ意味への深い洞察には至れないことを改めて教えられた展示品であった。
ビザンツ帝国のコインと模造・模倣
――アラブ・ビザンティン貨とミリアレシオン銀貨の事例より―― 西村 道也
ビザンツ帝国が滅亡したのは、周知のように、西暦1453年である。だが、いつローマ帝国がビザンツ帝国に変質したのかは、着目する対象によって異なる。古銭学では、皇帝アナスタシウス1世(在位491~518年)の時代をローマとビザンツとの分水嶺とするのが慣例である。それは、この時期に、11世紀までのビザンツ貨幣史を特徴づけるフォリス銅貨が導入されたためである。
ビザンツ帝国では、ローマと同様に金・銀・銅の三つの貴金属をコインの素材として用いた。意匠に目を転じれば、共和政期以来、ローマではコインに宗教的もしくは世俗的な肖像が打刻されていた。4世紀以降のローマ帝国とビザンツ帝国のコインは、その伝統を受け継いだが、宗教という点ではキリスト教信仰と結びついた意匠(天使や十字架など)が採用されるようになった。
20世紀を代表する地中海経済史の大家ロベルト・S・ロペスによる論文「中世のドルThe Dollar of the Middle Ages(1951年)」は、ローマ帝国とビザンツ帝国のソリドゥス=ノミスマ金貨を主題として扱う。この論文は、ユスティニアヌス大帝(在位527~565年)の同時代人であるコスマス・インディコプレウステースとカイサレイアのプロコピオスによるビザンツ帝国とその金貨の偉大さを誇る記述から始まる。
コスマスは、「(ビザンツ帝国の金貨は)大地の隅々で受け入れられる。それは全ての人々にそして全ての王国で感嘆される。なぜなら、これに比類されうる通貨を持つ王国がないからである」と『キリスト教地誌』に記した。プロコピオスは、「ペルシア王あるいは蛮族世界のいかなる他の君主も、自らの肖像を金貨に刻む権利はない。たとえ、彼が自身の王国で金(きん)を持っていてもそうである。それは、取引を行う人々にこうしたコインを提供できないからである」と『戦史』に記している。
彼らの記述を裏付けるかのような現象が、100年ほど後に起こる。イスラーム帝国は、7世紀にシリア、エジプト、北アフリカといったビザンツ領を奪った。だが、正統カリフ時代からウマイヤ朝期になっても、旧ビザンツ領では、ビザンツ貨を模造・模倣したコインが発行されていた。現在の古銭学では、これらを総称して、英語の場合ならアラブ・ビザンティン貨と呼んでいる。
イスラームは偶像崇拝を厳しく禁じる宗教だが、ビザンツ貨を模造・模倣したアラブ・ビザンティン貨は、肖像が打刻されていた。だが、アラブ・ビザンティン貨は、徐々にビザンツ貨の単なる模造貨(コピー)ではなく、例えば十字架が1本の棒の図像に変えられたように、イスラームの信仰に配慮した模倣貨となっていった。
しかし、模造・模倣貨を半世紀以上発行する状況は、統治者にとって当然好ましくなかったのだろう。ウマイヤ朝の第5代カリフであるアブドゥルマリク(在位685~705年)がヒジュラ暦77年(西暦696~97年に相当)から貨幣改革に着手した結果、イスラーム帝国のコインは独自の意匠を確立する。その結果生まれたのは、肖像を一切廃して、文字(信仰告白を中心とする文言)のみが打刻されたディーナール金貨・ディルハム銀貨・ファルス銅貨からなる貨幣制度であった。
8世紀になると今度は、ビザンツ帝国がイスラーム帝国のコインを模倣するようになった。ミリアレシオン銀貨は、皇帝レオーン3世(在位717~741年)によって導入された。この銀貨の最大の特徴は、肖像が廃され、階段とその上に載った十字架の図像を除けば、文字(「イエス・キリストは勝利する」という文言、皇帝とその息子の名前)だけが打刻されたことである。加えて、ミリアレシオン銀貨の外縁には、イスラーム帝国のディルハム銀貨に倣った三重の円が点状に打刻されていた。
レオーン3世は、726年に偶像崇拝を禁止する聖像破壊運動(イコノクラスム)を始めた皇帝として知られる。ミリアレシオン銀貨の発行も聖像破壊運動の一環として位置づけられている。銀貨ほど極端ではなかったが、聖像破壊運動が始まった後の金貨や銅貨には、長らく皇帝やその係累の肖像が打刻されるのみで、キリスト教的な肖像は用いられなくなった。9世紀に聖像破壊運動が完全に終息した後も、肖像を欠いたままでミリアレシオン銀貨は発行され続けた。だが、10世紀初頭以降、ミリアレシオン銀貨には肖像が打刻されるようになった。
アラブ・ビザンティン貨とミリアレシオン銀貨の他にも、ビザンツ貨をめぐる模造・模倣の事例は枚挙に暇がない。貨幣発行者である統治者に模造・模倣という選択をさせた理由を明確に語る史料はない。その理由が、6世紀のビザンツの著述家たちが言うように偉大な国家や貨幣が存在したからなのかどうかは分からない。ただ、一度根付いた特定の貨幣を使用する慣習もしくは貨幣への信用がすぐに消えなかったことは印象的である。
サクロ・モンテを通して聖地(オリジナル)と代用聖地(複製)の関係を考える
関根 浩子
北西イタリアのアルプス南麓には、山や丘の頂上か斜面上の限定された屋外空間に一連の礼拝堂や教会堂、修道院などの宗教建築を擁する「サクロ・モンテ」と呼ばれる近世の巡礼施設が20以上存在している。そして同施設の連続する礼拝堂内には、キリストの生涯や受難、あるいは聖母マリアや聖人の生涯などに関係する聖なる場面が、きわめて表現力に富む絵画と多くは等身大の群像彫刻によって演劇的に表現されている。このようなサクロ・モンテ群に対する認知度は、2003年にピエモンテとロンバルディア両州の主要な施設が群として世界文化遺産に登録されたためか、著者が調査・研究を開始した1996年前後に比べ疑いなく上がった。しかし、同施設に対する解釈は今もって一様ではない。それは、各々がサクロ・モンテの前史から発生、発展という一連の過程のうちの一面ないしは一時期に着目してきたためであり、逆に言えば、サクロ・モンテはそうした諸解釈のすべてを内包するものと言える。つまり、中世までの西欧の聖地模造や実際の聖地巡礼と霊的巡礼の伝統を受け継いで生まれ、カトリック教会の意向と北西イタリアの宗教的諸事情の中で独自の近世的形態を獲得して発展した施設がサクロ・モンテなのである。
サクロ・モンテ群の歴史的全体像は、20世紀末にはかなり解明されてはいたが、起源の問題は、イタリア国内に因を求めるだけでは解明できず、依然として未解明状態にあった。そしてその起源については、従来、聖地の番人であるフランシスコ会との関係や巡礼形態の変化、対抗宗教改革との関係などが理由として挙げられていた。しかし、サクロ・モンテを構成している礼拝堂の全体的配列(=形態)や個々の礼拝堂の建築的特徴に着目して、その起源や展開を考察する試みはなされていなかった。そこで著者は、今もってなされていないこともあり、それを試みた15年前の学位論文を『サクロ・モンテの起源――西欧におけるエルサレム模造の展開』(勉誠出版)と題して昨年刊行した。拙著では、15世紀以前のエルサレムの模造建築の模造方法や構成要素の変遷、模造法に変化を生じさせた背景などを西欧的視野のもとに概観することで、また、同時代の西欧のその他の国々の類似の建造物や施設を比較、検証の対象にすることで、サクロ・モンテを西欧における長いエルサレム模造の系譜に位置付けるとともに、カトリック改革期にヴァラッロの「代用エルサレム」が聖地の再現よりも心的巡礼に重きを置いた「サクロ・モンテ」へと改造され、それを手本として多様なサクロ・モンテが陸続と誕生した事実を、建造例を挙げながら跡付けた。
しかし拙著では、礼拝堂内の彫刻や壁画、並びにそれらの制作者については論旨の展開上殆ど言及できなかった。そこでそれらを紹介するため、ここ数年はヴァラッロのサクロ・モンテの最初期の彩色木彫群を含む北西イタリアの中世末期からルネサンス期にかけての彩色木彫群の実見による基礎調査を進めている。3月23日からは、ピエモンテの三都市を会場として、ヴァラッロの初期の代用聖地建造期に堂内装飾等に携わり同地域に真のルネサンスを齎したガウデンツィオに関する“Il Rinascimento di Gaudenzio Ferrari”展も開幕する。同展は、彼の初期から絶頂期までを、国内外から借用した彼自身の作品と同時代の代表的作家や追随者の作品によって回想するものであり、中世末期から初期ルネサンスにかけての北西イタリアの美術の解明にも示唆を与えてくれるものと期待している。
さらに著者は、九州勤務になって以降、サクロ・モンテのような巡礼施設の日本における有無を調べるため、キリシタン関係の遺構や明治・大正期に建造された聖堂周辺を訪ね歩いている。しかし現在までのところ、斜面や丘を利用した「十字架の道行き」を除けば、欧州や南米のサクロ・モンテに匹敵する施設を見出せてはいない。その代わり、19世紀後半に主にフランスで起こった聖母マリアの御出現の場所の中でも最も有名なルルドの洞窟に関係する聖洞窟模型が、当初はパリ外国宣教会の神父らによって、後には信徒たちによって日本中に築造され、今も築造され続けていることを知った。サクロ・モンテ群が聖地に巡礼できない信徒のための免償を伴った身近な代用聖地を手本に建造されたものであったことを考えれば、身近な場所でルルドにおける治癒の奇跡に与りたいとの願いから築造され始めた模造体も、近・現代における代用聖地(=複製)と捉えられる。こうしたオリジナルと増幅する複製の関係の調査を通し、複製建造の企図者や、人間にとってのオリジナルと複製の意義や意味、その関係の変遷などを考えることが著者の現在のもう一つの課題であり、隣接分野の研究成果にも拠りながら、他の宗教におけるオリジナルと複製の関係やカトリックにおける両者の関係との異同の問題なども併せて考察していければと思っている。
プラド美術館展
――ベラスケスと絵画の栄光―― 川瀬 佑介
2017年2月24日より5月27日まで、筆者の勤務する国立西洋美術館(東京、上野公園)では「プラド美術館展 ベラスケスと絵画の栄光」が開催されている。プラド美術館展と銘打つ展覧会は、これまでにも読売新聞社との共催で当館では2回開催されており、2002年の初回が16世紀から19世紀までの文字通り名作展で、2011年はゴヤに焦点を当てた個展であった。今回は、プラド美術館スペイン絵画(1700年以前)部長のハビエル・ポルトゥスを共同監修者に迎え、同美術館にとって最も重要な画家であるディエゴ・ベラスケス(1599-1660)を中心に据えた展覧会が実現した。
ベラスケスはスペイン国王フェリペ4世(在位1621-65)の宮廷画家として、肖像画を中心に傑作の数々を残した大画家である。しかし、決して多くない作品(現存数で120点程度)の多くが長らくスペインの王宮に秘蔵されていたため、19世紀後半までスペイン国外で広く知られた存在ではなかった。エドゥアール・マネらによって「発見」されて以降は、西洋美術史における最大の画家のひとりとして不動の地位を与えられている。
プラド美術館は、ベラスケスの現存する真筆程度のうち4割に当たる48点を所蔵するが、スペインの国民的画家で同美術館にとってのいわば看板画家であるため、その貸出は厳しく制限されてきた。これまでわが国の展覧会には、半身像や規模の小さな作品ばかり最大5点が貸し出されたことがあったが、今回はそれを上回る史上最多の7点が出品される。初期の宗教画の力作《東方三博士の礼拝》から、《狩猟服姿のフェリペ4世》と《王太子バルタサール・カルロス騎馬像》といった円熟期の宮廷肖像画の大作、矮人の肖像、そして《マルス》などの古典主題など、規模の面での充実のみならず、彼の画業の幅を実感していただける選択になっている。
そのプラド美術館は、1819年に歴代のスペイン王室コレクションを核に設立された美術館である。スペイン王室の美術コレクションの国際的な性格を強く打ち出し、また史上最大のメガ・アート・コレクターとして3,000点を優に下らないとされる数の作品を収集したのが、ベラスケスの主君であった国王フェリペ4世であった。現在のプラド美術館が、ティツィアーノに代表される16世紀ヴェネツィア絵画、ルーベンスに代表される17世紀フランドル絵画、そして17世紀イタリアで活躍した画家たちの作品群において、世界でも指折りの質と量を誇るコレクションを有していることは、彼の収集によるところが大きい。スペインが17世紀に多数の偉大な画家を輩出し、美術の「黄金時代」を迎えた背景には、この類まれな国王の存在があった。フェリペ4世の宮廷画家として活躍したベラスケスは、そうした王室コレクションのティツィアーノやルーベンスの作品に囲まれた環境でこそ、芸術を大成させることができた。スペインの同時代の芸術家たちも、マドリードを訪れ宮廷のコレクションを実見することで、国際的な画壇の潮流から触発を得たのである。
本展では、ベラスケスを筆頭にムリーリョやスルバラン、リベーラなどスペイン絵画のみならず、ティツィアーノやランフランコ、クロード・ロランなどイタリアで制作された絵画、ルーベンスやヤン・ブリューゲル(父)らのフランドル絵画など、合計61点の作品を通じて、そうした17世紀スペインにおける美術の展開を国際的な美術史の文脈の中に位置付けて検証する。章立てもベラスケスの生涯を順に追うのではなく、テーマ別に構成され、「芸術」、「知識」、「神話」、「宮廷」、「風景」、「静物」、「宗教」、そして「芸術理論」という8章で構成される。これは第一義的には、せっかくのプラドの珠玉の傑作群を日本の皆様にご堪能いただく機会であり、ベラスケスの画業とその展開を、あるひとつの厳密な美術史的解釈の元に提示する、という設定では構成されていない。ベラスケスを出発点として、彼の芸術を育んだ同時代スペイン宮廷の緩やかなコンテクストを共有する多彩な作品を、上述の章ごとに分けながら構成するものだ。同時に、17世紀のスペインで記された美術に関する書籍の初版本9点も展示することにより、当時の美術における主要な問題意識や背景についても紹介したいと考えている。
展覧会は6月12日から10月14日まで、神戸市の兵庫県立美術館に巡回する。
表紙説明
地中海の〈城〉13:ベイヴァー城/伊藤 喜彦
ベイヴァー城(Castell de Bellver)は、マヨルカ島の中心都市パルマ旧市街から3kmほど西に位置する城郭である。現地の日本語版パンフレットには「ベルベール」と訳されているが、マヨルカ島民は「ベイヴァー」と発音するようである。現在のパルマ市内からは、林立するヨットの帆柱とリゾートマンションの向こう側、こんもりとした緑豊かな丘の上にそびえ立つ塔が見える。塔を目印に海抜112.6mの丘上に立つベイヴァー城まで登り、振り返ってみれば、パルマ湾、湾に臨む大聖堂、その隣の「ラ・アルムダイナ」宮殿、パルマの街並みを一望する絶景が広がる。
ベイヴァー城は1300年から1311年の間に建造された。建設を命じたのはマヨルカ王ジャウマ2世(1243-1311)である。ジャウマ2世は、マヨルカ島(1229年征服)ほかムワッヒド朝の領土をつぎつぎと攻略したアラゴン連合王国の「征服王」ジャウマ1世の息子の一人である。1276年、偉大な父親の遺志によって新しくつくられたマヨルカ王国を継承したジャウマ2世であったが、すぐさま兄のアラゴン王ペラ3世から臣従を強要された。ジャウマ2世がベイヴァー城の建造を命じた主たる動機は、成立当初から実の兄にその主権を脅かされていた王国の防衛にあったことは容易に想像できる。しかし、海を望むテラスとギャラリーを備えた市内のラ・アルムダイナ宮と同様、ベイヴァー城は単なる軍事施設以上に、見事な景色と心地よい滞在が楽しめる離宮としての役割も期待されていた。簡素かつ端正なゴシック様式の細部もさることながら、ベイヴァー城最大の見どころは、同心円を基本としたその幾何学的構成であろう。下層は半円アーチ、上層は尖頭アーチで囲われた中庭(直径24m弱)と外周壁は、ともにほぼ正確な円弧を描き、外周壁の東西南北には塔が配されている。このうちキープとなる北塔だけが外周壁から7mほど離れて立ち、屋上から橋でアクセスするかたちとなっている。壕を隔てて城本体とキープを囲うラヴリンは16世紀半ばに整備されたものである。中庭側ファサード(写真)は、21という不思議な数で分割され、上層の42のランセットは、大枠を形成する尖頭アーチが半分ずつ重なってつくり出されているようにも見える。円形の中庭を持つスペイン建築といえば、アルハンブラ宮殿にあるルネサンス建築の傑作「カール5世宮」が想起されるが、ベイヴァー城はこれより2世紀以上早い。バレアレス諸島やイベリア半島に類例は見当たらず、南イタリアのフェデリコ2世によるカステル・デル・モンテの幾何学的構成との類似性が指摘されるが、具体的な関連は不明である。
14世紀半ばにマヨルカ王国はアラゴン連合王国に併合され、ベイヴァー城も王宮としての役目を終えた。その後、ベイヴァー城はしばしば牢獄として使われるようになる。おそらくもっとも著名な囚人は、1801年から08年まで収監されていたスペインを代表する啓蒙主義者G・M・ホベリャノスで、詳細な建築的描写を含むメモワール『ベイヴァー城の思い出』が没後に出版されている。