2018年11月号,414号
目次
学会からのお知らせ
12月研究会
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
梶原 洋一氏「中世ドミニコ会統治における総会と総長──修道士による学位取得の問題を通じて──」
日 時:12月8日
会 場:学習院大学 北2号館10階 大会議室
(JR山手線「目白」駅下車 徒歩1分、東京メトロ副都心線「雑司が谷」駅下車徒歩7分)
参加費:会員は無料、一般は500円
13世紀初め、異端の論駁や説教を通じた民衆の教化を使命に誕生したドミニコ会は、中世においては際立って合理的な組織統治の成功例としても知られる。しかし14、15世紀における教会を取り巻く環境の変化の中で修道会制度がいかなる変容を経験したか、という点は未だ十分に解明されていない。本報告は共に修道会統治の最重要機関である総会と総長の間の関係を、修道士による大学学位取得の許認可という視点から考察する。
会費納入のお願い
今年度会費(2018年度)を未納の方は、至急お振込みいただきますようお願い申し上げます。不明点のある方、学会発行の領収証をご希望の方は、お手数ですが、事務局までご連絡下さい。なお、新年度会費(2019年度)については2019年3月末にご連絡します。
会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通957742
三井住友銀行麹町支店 普通216313
会費口座引落について
会費の口座引落にご協力をお願いします(本年度申し込まれると、2019年度会費から適用します)。
1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度(2018年度)入会された方には「口座振替依頼書」をお送り致しました。また、新たに手続きを希望される方、口座を変更される方にも同じく「口座振替依頼書」をお送り致します。事務局までご連絡下さい。
なお、「口座振替依頼書」の提出は、毎年2月半ば頃を期限に提出をお願いしております。具体的な「口座依頼書」提出期限と「口座引落日」等については、後日に改めて月報にてお知らせします。
個人情報が外部に漏れないようにするため、会費請求データは学会事務局で作成します。
学会事務局および会員皆様にとって、下記のようなメリットがございます。会員の皆様のご理解をたまわり会費の「口座引落」にご協力をよろしくお願い申し上げます。
「口座引落」のメリット
・事務局の会費納入の通知、請求事務の手間の軽減化。
・会員が振込のため金融機関に赴く必要がなくなる。
・毎回の振込手数料が不要となる。
・会員の通帳等に会費納入の記録が残る。
会員種別の変更について
①シニア会員:来年3月31日までに満65歳以上になる方で、正会員からの会員種別変更を希望される方。年会費8,000円に変更。
②準会員:博士課程等を修了し、常勤職等がない方で、原則、学生会員から会員種別変更を希望される方。年会費8,000円に変更。(2019年4月10日修正)
氏名、連絡先(住所・電話・E-mail)、変更の理由を記して、2019年1月31日(木)までに事務局まで、メールまたは郵送でお申し込み下さい。
研究会要旨
南イタリア・プーリア州における都市と地域の空間史
稲益 祐太
イタリア南部の州、プーリア州は様々な外国の支配と文化的影響を受けてきた地域である。その歴史は長く複雑で、古代ギリシア時代から移住、植民地化が行われ、古代ローマ帝国領、ビザンツ帝国領下に置かれ、その後さらにノルマン人、ホーエンシュタウフェン朝、アンジュー家、スペインのアラゴン王国の支配下に入る。そして、スペイン副王時代となり、オーストリア支配、スペイン・ブルボン王国、フランス帝国が支配し、再びブルボン王国の手に戻ってから、ようやくイタリア王国統一のもとで「イタリア」の一部となった。そして、それぞれの時代の特徴ある建築文化は、都市空間のなかに重層的に蓄積していった。プーリア州は石造文化圏のなかでも特にその傾向は顕著で、壁体だけでなく、天井や屋根までも全て石で造られている。そして、プーリア・ロマネスクやレッチェ・バロックのような彫塑的な造形の教会やパラッツォから、トゥルッリのような個性的な民家まで、魅力的な建築が数多くある。
しかし一方で、都市史研究においては、都市国家のような自律性をもった都市の形成過程が見出しにくい南イタリアの都市に関しては、見過ごされてきた。そこで本報告では、封建的な支配領域内にありながら形成されてきたプーリア州の都市や地域の空間を明らかにしようと試みた。特に、建物類型の発展過程や街区形態の変遷に注目しながら、都市の形成段階について明らかにしながら、後背地である田園地帯にも着目し、耕作状況や土地の所有形態などから、テリトーリオ(地域、領域)の空間構造を読み解いていった。
陸繋島の都市ガッリーポリは、現在の都市形態の起源を少なくとも中世までさかのぼることができ、19世紀後半まで市街地は島内に収まっていた。そのなかで、照明用オリーブオイルの生産と輸出で繁栄した17、18世紀には市内での建設活動が活発となり、バロック様式のパラッツォや教会堂が登場した。それ以前のパラッツォは主要道沿いに建つ一方で、バロック期のそれは入り組んだ街区の内部に立地し、移動する歩行者の視線に対して効果的な位置に表門やバルコニーなどの建物正面の装飾要素を配することで、その存在感を放っている。そして、主要産業であった照明用オリーブオイル製造は、製油所がパラッツォや公共施設、教会などの地下にある搾油所で行われており、それに関わる様々な業種に従事する住民が都市内に暮らしていた。彼らは職業ごとに兄弟団(コンフラテルニタ)を組織し、小さいながらも幾つもの教会堂を献堂していった。封建的な社会のなかでの都市の経済的繁栄は、大土地所有者である貴族や修道会による大規模な建設活動だけでなく、持たざる者たちの紐帯としての兄弟団による小さな建設活動も同時に起きていたのである。
アドリア海沿いのモノーポリやムルジェ台地のコンヴェルサーノでは、現地での実測調査で得られた住宅図面と19世紀の課税用不動産登記台帳と照合し、各階が1つの部屋によって構成されている小さな住宅は、一所有者が全体を持っていることを明らかにした。そして、地上階は倉庫や家畜小屋として使用し、上階に居室を配する構成は、都市内に農民が居住していた南イタリア的集落の実態をよく表している。田園地域の農地の土地利用状況は修道会の財産目録等から、海沿いではオリーブ栽培が、丘の上では粗放的耕作が行われていたことが判明した。住まいのある都市と農場を行き来する農民にとって、この作付けの違いは移動範囲の違いを生み、それが都市間距離を決定する。日常的に農作業を行う沿岸部では活動範囲が狭いために都市間距離は短く、粗放農業を行う台地では大規模な農場が都市の周りに広がるために都市間距離は長くなるのである。
さらに、大平野であるタヴォリエーレ平野ではより広範囲に渡って穀類の粗放農業用農地が広がっていた。しかも、この平野は大都市所有者の農地だけでなく、移動放牧のための冬季放牧用の牧草地もかなりの面積を占めていた。その結果、羊毛業税関のある平野部中央に位置する都市フォッジアの周囲には都市や集落が少なく、一極化の様相を呈している。しかし、この状況を作りだし、支えているのが、まさに移牧を行う山間地の人々であった。制度化された羊の群れの移動路や冬季放牧租借地で冬季を過ごし、農繁期には日雇い労働者として農作業を行ってきたのである。
このように、都市の形成や発展のなかで地域の産業、特に周辺の土地利用に関わる田園部の耕作状況を見ていくことで、プーリア州の各地方におけるテリトーリオ(地域、領域)の空間構造が見えてきた。
ローマ・ドミニコ会文書館訪問記
梶原 洋一
2018年3月、フランス・リヨン第二大学に博士論文を提出した。この論文では、15世紀のフランスで、ドミニコ会の修道士がどうやって大学で学位を取得し、学位についてどう考えていたか、といったようなことを問うた。この研究にとって最重要史料のひとつが、ドミニコ会総長の書簡記録簿である。修道会全体の指導者である「総長」、いや正確に言えばその秘書役の修道士は、各地の修道士、修道女に指導、命令、懲罰など様々な用件で頻繁に手紙を送ったが、いつ誰に何を書いたか、必要に応じて容易に調べがつくよう日付、宛先、それから内容の概略をその都度帳簿に書き残したわけである。こうした帳簿は1470年代以降についてまとまって残っていて、今日ではローマにあるドミニコ会中央文書館Archivio Generale dell’Ordine dei Predicatori、略してAGOPに保管されている。なので筆者は何度かこの場所に足を運ぶことになったのだが、その時のことをここに書き残しておきたい。フランス、イタリアでそれなりにいろいろな文書館を訪ねたけれど、AGOP(勝手にアゴップと呼んでいる)ほど苦労させられた、もとい思い出深い文書館もほかにないからである。
ローマ・テルミニ駅から地下鉄でチルコ・マッシモ駅まで行き、大競技場跡の向こう側にフォロ・ロマーノを眺めつつ歩く。まっすぐ行ってテヴェレ川まで出れば有名な「真実の口」があって観光客で賑わっているのだけど、用事があるのは左手、アヴェンティーノの丘の上だ。ここは観光地というより高級住宅街の趣で、よく整備された庭園や小径を散策するのも楽しい。狭い坂を登るとすぐにサンタ・サビーナのバシリカ(聖堂)があり、AGOPはここのドミニコ会修道院の中にある。リヨン空港からLCCに乗り、ここを初めて訪れたのは2011年の春先、フランス留学開始からまもない頃だった。修道院受付で、にこやかなマダムにたどたどしいイタリア語でなんとか用件を説明すると、内線で日本人学生の来訪を知らせてくれる。聖堂に入って祭壇横の小さな扉に招き入れられる。突き当たりが図書館兼文書館、つまりは目指すアゴップだ。
イタリア語を流暢に話す館長のパードレは南米ボリビアの出身、笑顔が素敵な助手のシスターはフィリピンから来たという。アルゼンチン生まれのフランシスコ教皇が誕生するのはもう少し先のことだったが、こんなところにも現代カトリック世界の人口バランスが表れているようで興味深い。目録を差し出されるが、見たい資料の当てはもちろん付けてきていた。パードレが奥に入り、ほどなくお目当の帳簿が運ばれてくる。
パラパラとめくると、流麗な15世紀末のユマニスト体に感動もひとしお。いやいや、本題はここから。さしあたりMaster 2論文のために必要だった箇所の分量は、あとで博論で使うことになる全体からみれば大したことはなかったが、それでもその場で全部をパソコンに打ち込むのは到底無理だった。なにしろこの文書館、毎週火曜と水曜しか開かないくせに、お昼休みはたっぷり3時間。こういうところがイタリアか!ゆっくりローマ料理の昼食を楽しめるのはありがたいが、がっつりラテン語の解読作業をさせてはもらえない。だからリヨンに「持ち帰って」じっくり目を通したいところだが、フランスの公立文書館とは違い、写真撮影は厳禁ときている。それでも筆者の場合はかなり幸運だったほうで、件の帳簿はマイクロフィルム化されているので、そこから有料(実を言えばこれが馬鹿にならない!)でコピーをしてもらえた。ただし分量も分量であるし、後日郵送してくださるとのことで、コピー代と郵便代を渡し残り時間はのんびり史料現物を眺めたり目録のメモをとったりして過ごした。
3週間ほどして、待望のコピーが届く。ところが、元になっているマイクロフィルムの質があまり良くないのか、なんと2割くらいのページが判読不能!こうなったら、読めるところだけ読み、そうでないところはまたアゴップまで行って現物を見てくるしかない。その後博士課程に上がり見るべき帳簿が増えてからも、こうした事情は変わらなかった。おかげで、少なくとも6回は同じ用事でローマの土を踏むことになった。でも、悪いことでもない。なにしろそれだけの回数、永遠の都を訪れることができたのだから。暇を持て余す昼休み、バシリカ横の公園の展望台から眺める街の姿は何度見ても飽きなかった。パードレ・ヴィルメールともすっかり仲良くなった。マイクロフィルムコピーの出来があまりにひどい時は、こちらを気の毒に思ったのか帳簿現物を白黒コピー(!)してくれたり、修道院の食堂でエスプレッソをご馳走になった。だが何度目かに行った時、病気療養のため故郷に戻った、と聞かされた。フェイスブックに彼の訃報が流れたのは2014年の春で、博論の本文はまだ書き始めてもいなかった。この文章はこんなに遅くなってしまったお詫びと、心からのお礼をパードレに捧げるものです。彼の魂に平安あれ。
カメの引っ越し
松原 典子
マドリード中心部の南に位置し、プラド美術館やソフィア王妃芸術センターにも程近いアトーチャ駅は、同市最大の鉄道駅である。マドリードとバルセロナやセビーリャなどを結ぶ高速鉄道(通称AVE)のターミナル駅であるとともに、多くの長・中距離路線と近郊路線の発着駅でもあり、乗降客数は全国1位を誇る。2004年に列車爆破テロの標的となったことで、その名を記憶している日本人も少なくないかもしれない。現在の駅舎は、1992年のセビーリャ万博開催に合わせてAVE最初の路線であるマドリード─セビーリャ線が開通するのにあたり建設されたもので、2000年代にはプラド美術館の拡張計画を指揮したことでも知られるプリツカー賞受賞の建築家、ラファエル・モネオ(1937-)の設計になる。
この現役の駅舎とともに今も活用されているのが、1892年に「南駅」の名で開業した旧駅舎である。旧駅舎といっても2代目で、1851年にマドリード初の鉄道駅として誕生した初代駅舎が火災に見舞われた後、バスク系の建築家アルベルト・デ・パラシオ(1856-1939)によって建てられた。19世紀末のマドリードでよく見られたレンガと鉄とガラスの組み合わせによる折衷様式の建築で、遠目にもよく目立つ(写真1)。
その旧駅舎の中に、ちょっとした観光名所がある。1992年までの100年の間、列車が忙しく発着していたプラットホームと線路の跡地の中央を占める植物園である。鉄とガラスの巨大なカマボコ型天井越しに降り注ぐ強い陽光の下、噴霧器のミストを浴びたヤシやソテツなどの熱帯植物が葉を茂らせ、辺りに漂うしっとりとした空気が、マドリードの乾いた外気に晒されて到着する旅人たちを潤してくれる。
駅の構内にはおよそ似つかわしくないこの場所は、移動の合間にひとときの憩いを求める人たちや待ち合わせの人たちでいつも賑わっているが、“駅ナカ”の人工の密林を現在のような人気スポットに押し上げるのに一役買ったのは、その一角の池に棲む数え切れないほどのカメたちであった。もともとペットだったものが、飼育を放棄した飼い主によって次々とこの池に捨てられ、次第に数を増やしていったということらしい。その多くは日本で「ミドリガメ」と総称される米国原産のアカミミガメの類。スペインでは「フロリダガメ(galápago de Florida)」、あるいはなぜか「ニホンガメ(tortuga japonesa)」とも呼ばれる。大小取り交ぜて300にも上るというカメたちは、日がな一日、プカプカと水面を漂ったり、岩の上や砂場で折り重なって甲羅干しをしたりと、のどかなこと極まりない(写真2)。このカメの大群を前に大興奮の人もいれば、ギョッとして立ち去る人も幾度か目撃したが、カメ好きの身としては、近隣の美術館への行き帰りに欠かさず池の畔に立ち、日本で私の帰りを待っているに違いない我が家のアカミミたちに思いを馳せるのを常としてきた。
しかし今年6月のマドリード訪問時、いつものように立ち寄ったアトーチャ駅にカメの姿はなかった。それどころか、池自体がパネルに囲われて中の様子を窺い知ることもできない。日本では固有種のカメや水生生物に害を及ぼし生態系を乱す厄介者として駆除されているアカミミのこと、ひょっとしてここでも、と案じつつ周囲を見回して見つけた看板は、カメの引っ越しを告げていた。
スペインでも近年、アカミミガメが侵略的外来種に指定されたためか、池への投棄が後を絶たず、数が増え過ぎたカメたちの中には、劣悪な過密環境ゆえに死んでしまう個体も少なくなかったらしい。彼らの暮らしも見た目ほどのどかではなかったのだ。これまで捨てガメの面倒をみてきたスペイン鉄道インフラ公社(Adif)はついに池の閉鎖に踏み切り、カメたちはマドリード郊外の町の動物センターで保護されることになった。Adifが5万ユーロを投じて同センター内に新たに池を作り、5月末の真夜中に引っ越しが決行されたのだという。
インターネット上の写真で見る限り、従来の倍以上の広さがあるという現在の住まいで、カメたちはのびのびと新生活を謳歌している。まもなく里親の募集も始まるのだとか。幸せそうで何よりと安堵の胸をなで下ろすと同時に、アトーチャ駅を利用する楽しみが減ってしまったことが少し残念でもある。
写真 アトーチャ駅旧駅舎(左)在りし日の(?)アトーチャ駅のカメたち(右)
イスタンブルのカフヴェ、カイロのアフワ
宍戸 克実
イスタンブルとカイロはカフェの都だ。正確な統計は持ち合わせていないが周辺地域を概観する限り、これら二都市では街なかで目にするカフェの数がとにかく多い。カフェの起源はアラビア半島とされ、16世紀になるとカイロやイスタンブルにおいて急速に普及した。カフェ及びコーヒーはアラビア語のカフワ(エジプト方言でアフワ)に由来し、トルコ語ではカフヴェという。ここでは、地域に根付いたカフヴェとアフワについて現代的な視点から紹介する。
私がイスタンブルで留学生活を送っていた2000年頃のトルコでは、長引く経済不況の末に起こった通貨暴落の最中にあった。街の情景は決して明るいものではなかったが、不思議とどのカフヴェも混み合っていたことを記憶している。街なかのカフヴェは排他的で近寄り難い雰囲気であったが、注意深く観察するうちにそれぞれが固有の属性や社会性をもった施設であることがわかってきた。その外観は魅力的とは言い難く、冷たい雨が降り続く冬になると窓や扉は締め切られ、結露した窓ガラスがいっそう閉鎖的な雰囲気を醸し出していた。混み合う店内は活気と紫煙に満ちており、落ち込んだ社会の受け皿としてカフヴェが繁栄を築いていた時代だったのかもしれない。やがて健康志向の高まりから、喫煙者の楽園だったカフヴェに対する風当たりが厳しくなる。2008年の屋内禁煙法施行を契機として、カフヴェは現代化へと舵を切ることになる。現代化したカフヴェの特徴は、空間的な開放感と屋外喫煙席の確保に努めた点にある。常連客で占められていた排他的なカフヴェのイメージは薄まり、一般客でも利用しやすい店構えとなった。また屋外席を拡充したことで、喫煙客よりむしろ女性・家族客の利用が促進される結果となった。屋内禁煙法はカフヴェにとって大きな転換点となった。話題豊富な昨今のトルコにおいて、今後のカフヴェ動向が気になるところである。
カイロのアフワと私の出会いは2016年からと日は浅いが、旧市街(イスラーム地区)を踏破して分布状況を調査した。エジプトでは2011年の革命以後も経済状況が改善する兆しはなく、不安定な社会情勢が続いている。カイロの気候は冬でも冷え込むことがなく、年間を通じ降雨量は極めて少ない。そのためアフワの建築形態としては、厳しい日差しや暑さへの対処は重要となるが、寒さや雨に備える必要がない。店頭部分に庇やテントを用いて日陰を作り出し客席が配置される。店舗間口は街路側全面が開放され、アフワと街路空間が一体化した光景があちこちでみられる。屋外席には働き盛りと思しき男性客らが陣取り、黙々とシーシャ(水タバコ)を燻らせる。コーヒーやミントティー、知人との会話、そしてシーシャを心ゆくまで味わい、ここではアラブ的な時間が流れている。世界中のカフェが室内禁煙となるなか、街路と一体化したアフワが禁煙の対象となる気配は微塵も感じられない。カイロにも現代化したアフワや欧米風のカフェはあるが、大多数を占める伝統的なアフワは依然として活気を保ち続けている。トルコのカフヴェが経験したような転換期がアフワに訪れるのはまだ先になりそうだ。
カフヴェ・アフワは、地域社会の交流の場として、同業者や同郷者の情報交換の場として、失業者や高齢者の拠り所として「都市施設」のような役割を担っている。イスラーム文化的な背景から日常的には男性空間であるが、流動的でフレキシブルな性質の施設であるため、特別な立地と時期においては女性・家族客にも開放される。すなわちカフヴェ・アフワは「ハレとケ」の性質も備えている。新市街商業地区、モスク広場、定期市、歩行者空間、景勝地などは常時「ハレ」の立地であり、主に屋外席には女性・家族客の姿が多くみられる。とりわけ祝祭時期になると、イスタンブルのエユップモスク広場のカフヴェやカイロのハーキムモスク広場のアフワなどは家族客で溢れかえる。カフヴェ・アフワは屋内よりむしろ屋外の方が重要であり、街角に溶け込んだ地域の潤滑空間となっている。皆様もイスタンブルやカイロにお出かけの際は、ローカルなカフヴェとアフワを是非ご堪能ください。
写真 伝統的なイスタンブルのカフヴェ(左)とカイロのアフワ(右)
自著を語る95
『ルネサンス再入門──複数形の文化』
平凡社新書 2017年11月 264頁 860円+税 澤井 繁男
専門のイタリアルネサンス関係の本を出そうとするときには、自戒をこめて、これまで執筆してきた内容を避けようとするが、出来上がった拙稿を検分すると、過日の拙著と似たような文章に出くわすときがある。これは、どこかで触れたことがある、と思い悩むこともしばしばだ。新著に取り掛かる際には、新規な記述を旨として臨まなくてはならないのは言うまでもないが、今回の拙著もこうした気組みで、ルネサンス文化の諸局面を検討することにした。
上記の拙著は、新書だが400枚の分量で成っている。厚い新書も魅力的だと以前から思っていたのが、ついに実現にいたったわけだ。書きたかった事柄は3点ある。
1つ目は、旧くて新しい問題である、「時代区分」の件。2つ目として、中世末期(ルネサンス草創期)の「説話」の分水嶺を時系列で追ってみて、そこに宗教や時代意識の反映を映しとってみたかったこと。
「時代区分」の問題は、歴史学を修めたわけではない私の出る幕ではないのは承知のことだが、文学畑出身の者にもひとこと発言させてもらいたかったからだ。専門分野が、先述の時代の「説話」であり、また、3つ目として、末期の「自然魔術師(特に、カンパネッラ)」も考察対象であることから、一方は中世と、他方は近代(この言い方はご存知の通り、もう適切ではなく、「初期近代」=「近世」と呼ばれている)という、ともに両側に2つの時代をまたにかけた文学作品や人物を研究対象としているからで、必然的に「時代の境界」に視線を注ぐことになった。
ところで、著述をする場合、いちばん実務面で肝要なのは「目次」の作成だ。学術論文でも、エッセイでも、執筆前には、暗黙のうちに「目次」が出来上がっていなくては、筆は思うようにはこばない。これが1冊の本となれば、「目次」作りは必須であろう。書名は「仮題」でもよいが、「目次」はその図書の骨格だから、版元での編集会議でも論議を呼ぶ中心課題だ。さらに、「新書」であることも念頭に置かなくてはならない。
一般書なのだ。専門分野の吐露も、わかりやすく噛み砕いて書かなくてはならない。ここは「腕」のみせどころで、専門書にはない難しさがある。専門書しか書かないひとは一考してほしい。「学問」は一般社会に還元されなくてはならない……。少なくとも私はその立ち位置にいる。
まずは、「文体」にどのような工夫をこらすか。簡潔明瞭が第一だろう。これを文芸用語で「ラコニズム」という。近現代の日本の作家のなかでは、志賀直哉、永井龍男、和田芳恵、三浦哲郎、吉行淳之介、阿部昭などが代表格で、いずれも短編の名手だ。
次は「各章」の内実と配分だ。今回は、あくまで先述の3点がポイントだったから、あと1点、何を加えるかが考察対象となった。
「歴史の〈境界〉」「中世からルネサンスへ」、「ルネサンスから近代へ」──この3章はすでに考えていたし、書くべき材料もそろえていた。だが、「起承転結」ふうに考えれば、「転」がない。「転」に類する章がほしい。
ここで腕を組んだ。
新奇なテーマを素材とするのではなく、これまでかかわってきた主題のなかから選びすくいあげるだけでもよい。そして分量的にも他の章と釣り合いがとれれば、これほどよいことはない。
私は、これも「境界」の印象を植え付ける、「錬金術と化学」、「占星術と天文学」──つまり、「術と学」に着目することにした。すとんと胸に落ちるものを感じた。これで「行ける」。だが、翻って考えてみれば、特に占星術は、人間の「運命」にかかわるものだし、錬金術も、その本意は精神の浄化にある。化学も天文学も、「こころ」の問題には触れていない。
もっと考えを押し進めてみれば、近現代科学は、「運命・こころ」の問題を棚上げしてきた。哲学や宗教学、それに神学が衰えないのはここらへんにも理由があるかもしれない。即ち、「魂」の問題は、裏を返せば、近現代科学にとって「お荷物」だったわけだ。
中世・スコラ神学の「信仰と理性の調和」から、「精神と肉体の調和」に推移したルネサンス文化運動だが、この2つを真剣に模索し、自然との調和を訴えたのが、末期イタリアルネサンスの自然魔術師たちだった。
このひとたちの多くが南イタリア出身だったことも考慮するに足る題目で、ここで「南」への視座を設けることが出来、思わぬ収穫を得た。
表紙説明
地中海の〈城〉17:ケリビア城塞、ラーヤそして真道さん/深見 奈緒子
チュニジアのボン岬東側、小高い丘を王冠のような石造城塞が取り巻く(表紙・右上)。ケリビアはフェニキアにさかのぼる古い港町で、ビザンツ時代6世紀に矩形小砦がたち(右中)、アグラブ朝(800~909年)にはリバート(武装イスラーム修道院)に用い、ズィール朝(974~1160年)に現代の城壁へと拡張された。北アフリカのイスラーム化以後、8世紀末からチュニジアの海岸沿いに軍事要塞としていくつかのリバートが建設された。アグラブ朝は地中海をまたいでシチリアに支配を広げ、シチリアはケリビアの目と鼻の先で、地中海を見晴るかす城である。
ここを訪れたのは、2012年8月、真道洋子さんとチュニジア調査の時だ。地中海世界の中世のイスラーム遺構をめぐる中、「ケリビアはラーヤ遺跡との比較で重要なのよ」と彼女は力説した。シナイ半島のラーヤ遺跡は、セント・カテリーナ修道院の巡礼港近くのビザンツ時代からの城塞だ。ケリビアの小砦の東に正方形平面の厚い壁に4本の柱を立てた遺構(右下)をみて、「やっぱり、ラーヤのモスクとそっくり」と彼女は納得していた。
比較してみると、ケリビアではビザンツ時代の小砦は30m四方で四隅に矩形ボルジュをもち(右中)、拡張後120m四方の不整矩形とし、周囲8つの矩形ボルジュで守られる(右上)。一方ラーヤは一辺が80mあまりの正方形で、辺に3つ計8つの矩形ボルジュを均等に配置する。双方ともに、古代ローマ時代のカストルム(前線防衛の矩形城塞)に由来する。なお、古代地中海では矩形ボルジュが主流だけれどイスラーム普及以後には東方起源ともいわれる円形ボルジュも使われるようになり、チュニジアでもアグラブ朝の新首都ラッカダや幾つかのリバットでは円形ボルジュを用い始めていた。
彼女はケリビアとラーヤをどう繋げたかったのだろう。ケリビアが属する地中海世界とラーヤが属するインド洋世界は文化圏が異なる。それを超えるモノの共通性から、彼女は何を導き出したかったのだろうか。
真道洋子さんは日本を代表する世界的なイスラーム・ガラス研究者で、近頃はガラスを超え、物質文化を提唱し、モノの交流史に勤しんでいた。彼女の基盤は、先達としての川床先生が率いたフスタート(カイロの前身都市)、シナイ半島のラーヤとエル・トゥール(イスラーム時代の紅海港市)の発掘現場にある。2011年のエジプト革命以後は、中央アジアのパイケンド(ブハーラ近郊)やヴェトナムのチャム島での考古発掘に参加し、来年からはニーシャープール(イランのホラサーン地方)やマディーナット・ザフラー(コルドバ近郊)へと発掘を広げることを、誇らしげに話していた。2018年9月13日、世界ガラス学会に出張したイスタンブルで、彼女は突如、帰らぬ人となった。これからという時に、私たちに沢山の宿題を残して、・・・喪失感が募る。
ケリビア城塞を訪れた翌日、あんまり海が透き通りあたかもガラスのようで、思わず二人で着衣水泳した。美しいモノ、楽しい事が好きな人だった。城塞を訪ねた夜には、地元の漁師たちが集まる酒場で食事をした。海辺のテラスで、私がワインでおぼつかなくなるころ、真道さんはお酒を嗜まないので、海に映る月の写真を撮っていた。彼女がラーヤを思いながら撮影したケリビア城塞、そして穏やかな地中海に映る月光のゆらめきを、彼女を偲び表紙写真とした。