地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

4月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:熊野への誘い―建築史家と美術史家が聖地で見出したことども
発表者:松﨑 照明氏・秋山 聰氏
日 時:4月15日(土) 午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
参加費:会員は無料,一般は500円
日本最古の聖地にして,平安時代の舗装道路たる熊野古道を擁する熊野三山は,近年とみに海外からの観光客を惹きつけています。実際,熊野古道を歩く人々の三分の一は外国人観光客であるという統計結果も出されているようです。その理由の一つは,熊野が聖地としての普遍的特性を備えつつ,かつ地域的特性を濃厚に帯びているからだと思われます。こうした観点から,比較例を交えながら,熊野をめぐって議論してみたいと思います。

第41回地中海学会大会

第41回地中海学会大会(学会設立40周年記念大会)を
2017年6月10日(土),11日(日)の2日間,
東京大学本郷キャンパス(文京区本郷7-3-1)において下記の通り開催します。

6月10日(土)
13:00~13:10 開会宣言・挨拶  青柳 正規氏
13:10~14:10 記念講演  HOW TO WRITE THE HISTORY OF THE SEA
               デイヴィッド・アブラフィア氏
14:25~16:25 地中海トーキング「地中海学会の40年」
   パネリスト:樺山 紘一/木島 俊介/陣内 秀信/武谷 なおみ/司会:末永 航 各氏
16:30~17:00 授賞式  地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10~17:40 総会
18:00~20:00 懇親会
6月11日(日)
 9:30~12:30 研究発表
   「古代エジプト,クフ王第2の船の船体上部における木造技術について」柏木 裕之
   「古代末期美術におけるエジプト・トレードマーク図像の可能性
    ――ヴィア・ラティーナ・カタコンベ壁画の図像生成」宮坂 朋
   「レモンから見る中世地中海世界の食生活の特質
    ――12 世紀アイユーブ朝サラディンの宮廷医イブン・ジュマイウ
    『レモンの効能についての論考』を中心に」尾崎 貴久子
   「モデナ大聖堂ファサード彫刻図像――古代の大理石再利用と図像の関係をめぐって」桑原 真由美
   「アルテミジア・ジェンティレスキとトスカーナ」川合 真木子
   「『朝の歌』mattinataの魅惑」横山 昭正
13:30~16:30 シンポジウム「地中海学の未来」
   パネリスト:新井 勇治/片山 伸也/貫井 一美/畑 浩一郎/藤崎 衛/司会:小池 寿子 各氏

新年度会費納入のお願い

2017年度会費の納入をお願いいたします。自動引落の手続きをされている方は,
4月24日(月)に引き落としさせて頂きます。
不明点のある方,領収証を必要とされる方は,事務局までご連絡下さい。

退会希望の方は,書面にて事務局へお申し出下さい。
4月7日(金)までに連絡がない場合は新年度へ継続とさせて頂きます
(但し,会費自動引落のデータ変更の締め切りは,事務処理の都合上4月3日となります)。
会費の未納がある場合は退会手続きができませんので,ご注意下さい。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313

エピダウロスのアスクレピオスの治癒碑文
橋本 資久

ぺロポネソス半島東部にエピダウロスのアスクレピオス神域の遺跡がある。サロン湾に面するエピダウロス市からは10kmほど内陸に入った山間部の盆地にあり,いまでこそバスで簡単に行けるけれども,古代には決して容易に行ける場所ではなかったろう。それでもここを多くの古代人が訪れたのは,医神アスクレピオスの大神域があったことに尽きる。ユネスコの世界遺産リストにも登録された遺跡の呼び物は紀元前4世紀後半に整備された大劇場だが,実はこの劇場は500m四方を優に超える広大な神域の東南端にある。劇場の北西に遙か離れたアスクレピオス神殿こそがこの神域の中心だったのである。

劇場のそばにとても小さな博物館があり,神域から出土した彫像などが納められているが,入口のすぐ脇に展示されている大きな茶色い碑文に目をやる観光客はほとんどいない。これが紀元前4世紀に刻まれた「アスクレピオスの癒やし」の碑文である。紀元後2世紀にパウサニアスが当地を訪れたときに6枚の石碑が残っていたというが(2.27.3),現代には4枚(IG IV ² i 121-4)が残されている。

アスクレピオス神殿のすぐ北にアバトンという建物の遺構がある。神域へ治癒を求めてやってきた患者たちは最初の晩をアバトンで過ごし,その後は神域内で医師でもある神官団の治療を受けた。しかし時には医神自らやその聖獣であるヘビなどが難病を癒やしてくれる奇跡が起こったという。前出の碑文群はそのうちの70件の奇跡をいまに伝えている。

多分に宣伝という性格をこの碑文が併せ持っていたであろうが,碑文に記された患者たちの出身地はギリシア本土から小アジアにまで広がっている。さすがは医神だけあって,癌,結石,潰瘍,麻痺,失明,不妊,何でも治療してしまう。人間に留まらず割れた壺も修繕してくれる。治療のついでに患者に格闘技を教えたら患者が全快したうえに大会で優勝してしまうし,未亡人がやってきたら夫の隠された遺産のありかも教えてくれる。行方不明になった息子も探し出してくれる。

他方で奇跡を信じない人々や正当に治療費を払わない者に対しては厳しい。たとえば額に入れられた入墨を消してもらおうとやってきた2人の男のエピソードでは,ひとりはきれいに取ってもらえるが,もうひとりは治療費をくすねたため,額の入墨を消してもらえなかったうえに仲間の入墨を上書きされてしまう。治療費を払わずにいなくなってしまう不届者には天罰が下るという戒めである。とはいえ,神様だから鷹揚でもある。結石を患った子供に報酬を尋ねた神は「サイコロ10個!」という答に笑いながら治療してくれる。この神様はちょっと意地悪でもある。妊娠を願った女性がお腹に子供を抱えて3年経ってもまだ出産できないので再度やってくると,神は祈願されたとおりにしたよ,と言う。出産までは祈願されていなかったよね,というわけである。女性はあらためて出産までを祈願しなおしてようやく子供を授かる。

この碑文からは当時の人々の切実な願いが透けて見える。神域から出土している医療器具からも神殿にいる医師団によって外科手術が行われていたと想定されてい るが,医神が行う手術は徹底的なものである。水腫で神域にも来られない娘の首と胴体を切り離し,胴体を逆さにして腹水を全部出し切った後に首と胴体を縫合して完治させたり,寄生虫に悩む患者から開腹手術により虫を一掃したなどというエピソードは,慢性病の根治を願う患者たちの切なる思いが伝わってくる。

私にとってこの碑文群は史料解釈について考える機会を与えてくれた思い出深いものでもある。女性が5年間の妊娠の末にアスクレピオスの助力で無事出産したというエピソードを嬰児遺棄と結びつけて考えるべきではないか,と同窓の佐藤昇氏が指摘したのである。当時の私にはこれは衝撃的な視点だった。子供を持たぬ女性がエピダウロスまで行き,帰ってきたときに5歳児を連れていたら,周囲の者はそれをその女性の子供とは認めないだろう。しかしそのエピソードが神域内に碑文として刻まれたら,正面からそれを否定できただろうか。そのように「刻む側」ではなく「刻まれる側」の視点を入れて読むと,この碑文はさらに豊かな表情を見せてくれる。寄生虫を義理の息子に飲ませたと碑文に刻まれた継母は,財産相続で不利にならなかっただろうか。神域から帰国する患者の馬車に乗ってやってきたヘビを祀るべく患者の母国にアスクレピオス神殿が創建されたという話の背後には,政治的思惑はなかったか。そして未婚の女性がエピダウロスに行き,ヘビと交わって双子を産んだというエピソードはどうだろうか。

私は古代の人々の思いをどれだけ汲み取ることができているのだろうか。エピダウロスのその小さな博物館にある碑文を見るたびに,いつも私は自問するのだ。

寓話「三つの指輪」
――無名説教師とメノッキオの証言―― 木村 容子

1500年の四旬節,あるフランシスコ会説教師がイタリア中部スポレートの町を訪れた。彼は信徒を前に「三つの指輪」(以下「指輪」)の話を語り,そのことを自身の日誌に几帳面に書き留めた(「末の息子が指輪を持っていた,あの三人息子について私は語った」Foligno, Biblioteca comunale, Ms. C. 85)。それから1世紀,異端審問官を前に,過去に知人の書物で読んだ「指輪」について独自の思想を展開したのは通称メノッキオなるフリウリの粉挽であった(ギンズブルグ『チーズとうじ虫』)。

父の正統な後継者を探す「指輪」の寓話は,原話について諸説あるが,中世から現代へと中身を変えながら長く受け継がれてきた。実際,日誌を記した無名説教師が伝達した話とメノッキオが受容した話の結末は大きく異なる。前者は教化の場で語られることを想定した教訓例話で,14世紀のドミニコ会士ジョン・ブロムヤード著『説教大全』所収,後者は娯楽を目的とした世俗の散文作品ノヴェッラで,『デカメロン』の第1日第3話だ。

子どもたちが父の遺した貴重な指輪をめぐり争う教訓例話は,13~14世紀の説教師向けの著作に見出される。エティエンヌ・ド・ブルボン著『説教素材集』では,「娘たち」が父(=神)の指輪をめぐり対決する。妻の不貞から生まれた娘たち(=異端)が偽物を作らせて対抗するも,正嫡の娘(=ローマ教会)は裁判官の前で病人を指輪の力で癒すことで,指輪の真正性を証明して相続権を得る。一方,「三兄弟」が登場するのは『ゲスタ・ロマノールム』と上記の『説教大全』。いずれも,本物の指輪を手に入れた末子(=キリスト教徒)がその治癒力のおかげで,偽物を持つ2人の兄(=ユダヤ教徒とイスラーム教徒)に勝利する。十字軍・異端審問・ユダヤ人迫害を背景に,説教師たちは,「娘」型であれ「息子」型であれ,指輪の真贋を明示し,ローマ教会を長とするキリスト教信仰の「正しさ」を信徒に訴えたと推測される。

そうした宗教的教訓は14世紀イタリアで生まれたノヴェッラには見られない(『ノヴェッリーノ』・『シチリア人の冒険』・『デカメロン』)。これら世俗の説話集では,サラディンとユダヤの賢人との問答という外枠が設定され,読み手はその機知に富むやり取りを楽しむ。サラディンに三つの法(三宗教)の真贋を問われた賢人は,機転を利かして「指輪」の話を持ち出す。息子たちは各々が本物を手にしていると信じているが指輪の真贋を知るのは父のみ,真の信仰についても同様であると答えて窮地を脱するのだ。治癒の奇跡は登場せず,指輪の真贋は宙に浮いたままである。

教訓例話とノヴェッラというジャンルは14世紀以降互いに影響を与え合ってきた。ノヴェッラ作家は教訓例話から題材を取り込んで変容させ,説教師もノヴェッラを非難する一方でその豊かな表現力に関心を示した。冒頭の事例も,そうした両者の複雑な関係のなかで理解すべきだろうか。当時「指輪」は教訓例話としてさほど一般的でなかったようだが,無名説教師は複数の町で「信仰の真実」を主題とする説教に「指輪」を差し挟んでいる。彼は『デカメロン』の成功が多くの人にノヴェッラ・バージョンを知らしめたことに危機感を覚え,ノヴェッラによって「歪められた」物語からキリスト教信仰の「正しい」物語を取り戻そうとしたのかもしれない。現に,『デカメロン』は16世紀半ばに禁書とされるが,火刑に処されることになるメノッキオはそれを読み,「指輪」を娯楽でなく信仰の文脈で内面化した(「キリスト教徒に生まれたからにはキリスト教徒のまま止まりたいと思うけれども,もし私がトルコ人に生まれついたなら,トルコ人のままでありたいと思う」)。

しかし無名説教師が「指輪」を選んだ理由が反ノヴェッラでない可能性もある。三つの指輪は三宗教の象徴だが,無名説教師は特にユダヤ教に対するキリスト教の優位を主張するためにこの例話を用いたのかもしれない。彼が活動したのは,モンテ・ディ・ピエタ設立運動にみられるように,フランシスコ会の反ユダヤ主義運動が高揚した時代であり,ユダヤ人攻撃の一手段としてこの例話が用いられた可能性がある。

時代は変わって啓蒙の世紀,『デカメロン』に想を得たレッシングは宗教的寛容を説く物語として戯曲『賢者ナータン』を執筆した。近年ではドイツのユダヤ人作家ミリヤム・プレスラーが児童文学としてリメイクしている(『賢者ナータンと子どもたち』)。こうした中世から現代にいたる「三つの指輪」がたどった長い歴史の一端を,無名説教師とメノッキオの2人は草の根レベルで証言してくれているのである。

もう一つの「ラス・メニーナス」
山田 のぞみ

スペイン・バロックの巨匠ディエゴ・ベラスケスの傑作《ラス・メニーナス》は,よく知られているように,この数百年の間に多くの芸術家に影響を与えてきた。2016年の春に早稲田大学でおこなわれたベラスケスをテーマとした国際シンポジウムにおいて言及された芸術家に限ってみても,マネ,ピカソ,ベーコン,エキーポ・クロニカがいる(大髙保二郎監修,豊田唯,坂本龍太編『ベラスケスとバロック絵画 : 影響と同時代性,受容と遺産 : 公開国際シンポジウム報告集』)。

もう一昨年のことになるが,マドリードのティッセンボルネミッサ美術館を訪れた際,売店の書籍コーナーに,一冊の本が平積みにされていた。黄土色のハードカバーの表紙にあるのは,黒色の力強い筆捌きで描かれた男性の肖像で,よく見ると,17世紀のスペインの宮廷人が身に着ける白い襟のついた黒衣をまとっている。タイトルは『ラス・メニーナス』。中を開くと,それは全編フルカラーのコミックだった。ベラスケスの没後350年以上が経ち,また新たな《ラス・メニーナス》の「変奏曲」が生まれた(Santiago Garca, Javier Olivares,Las meninas, Bilbao, 2014)。

2014年の出版後に4つの賞を獲得しており,特にスペイン文化庁主催の「スペイン・コミック賞(Premio Nacional del Cmic)」を2015年に受賞した際には,各紙の文化欄をにぎわせた。2017年5月には,英語版(The Ladies-in-waiting)の刊行が予定されている。

ストーリーを担当したサンティアゴ・ガルシアは,ジャーナリズムと美術史の学位をもつ。アメリカのマーヴェル社の『スパイダーマン』,『バットマン』の翻訳やコミックの批評をおこない,これまでにも漫画家と組んでオリジナルの作品を発表してきた。作画のハビエル・オリバレスは,1980年代のコミック誌『マドリス(Madriz)』から出発し,エル・ムンドなど新聞の挿絵やコミックを世に出している。

彼らが制作の際に参照したものとしてあとがきに書かれている文献の著者は,スペイン近代美術史の専門家をはじめとする第一線の研究者たちであり,ジョナサン・ブラウン,スヴェトラーナ・アルパース,フェルナンド・マリーアス,ハビエル・ポルトゥースらが名を連ねる。ベラスケスの伝記的記述としては,18世紀の著述家アントニオ・パロミーノの『絵画館と視覚規範』を,そして作中に印象的に挿入される引用句やエピソードは,《ラス・メニーナス》の分析に1章が割かれたフーコー『言葉と物』や,ダリ『ある天才の日記』などを典拠とした手堅い構成だ。

このコミックは3章からなるが,それぞれの章のタイトルは,ベラスケスの生涯を象徴するきわめて重要なモティーフを示している──「鍵」,「鏡」,そして「十字架」だ。ブラウンやマリーアスによるベラスケスのモノグラフの副題 “pintor y cortesano(画家にして宮廷人)”や“pintor y criado del rey(画家にして王の召使)” によく示されているように,彼はしばしば絵画の制作者としての一面と,宮殿の王の部屋をふくむ鍵を管理する王宮配室長をはじめ宮廷の重職を担う従者としての,二つの面からとらえられる。最初の章タイトル「鍵」は宮廷人,「鏡」は画家,「十字架」はサンティアゴ騎士団員になるというベラスケスの熱意が暗示されているのだろう。

しかし,この作品は単なるベラスケスの伝記ではない。1665年にフェリペ4世が亡くなり,王宮の財産目録を作成する二人の宮廷人が,壁面にかけられた絵画の前を歩きながら一点ずつ作者と主題を書きとっていく場面から始まるこの物語は,たびたび別の時代を行き来する。ベラスケスの作品に影響を受けた後世の人物の物語が,幕間劇のようにはさまれるのだ。ベラスケスの生きた17世紀の場面は,黒の描線が用いられ,彩色は黄土色か,くすんだ青のどちらかのみで,モノクロ映画を思わせる抑制された色合いだ。フーコーやピカソ,ダリ,ゴヤら,ベラスケス以後の人々が登場するエピソードのページでは,目を惹く赤や黄色が足され,小気味よいリズムが生み出されている。さながらビジュアルなベラスケス受容史であり,後世の画家たちがベラスケスの作品に触発されて制作に打ち込む姿は,絵画は絵画から生まれるという基本的かつ重要な事実を鮮やかに体現してもいる。

スペインのコミックですでに日本に紹介されているものには,老年を迎えた男性の友情を描いた『皺』(2011年文化庁メディア芸術祭マンガ部門「優秀賞」を受賞)や,フランス語圏のコミックを指すバンド・デシネの文脈で語られるハードボイルドな探偵物『ブラック・サッド』などがある。これらはストーリーの独創性や,妥協のない細部描写に見られるいわゆる「画力」の高さで人気を得ているが,『ラス・メニーナス』は,このいずれとも異なる魅力をもつ。このコミックは,ある作品を前にして,何かを描きたいと駆り立てられる,あるいは何かを語りたいと思わずにはいられない人々──そこには研究者もまた含まれるのかもしれない──についての洞察であり,彼らに対する賛辞の物語なのだ。

辺地(へぢ)の聖地
――海・湖上からの視線―― 松﨑 照明

平安時代に日本最大の聖地であった熊野への道は,大辺路,小辺路と呼ばれている。辺路とは古く「辺地」と書いて「端」の意味であったが,特に海岸沿いの道を辺地と言ったらしく,四国の海辺を巡る八十八か所の修行も古くは辺地修行と言っていた。熊野三山は神仏混淆の聖地で,熊野造と呼ばれる本殿の形式には,一般の神社本殿には無い礼拝,参籠のための前室が設けられ,本殿手前には長床,礼殿とも呼ばれた長大な建物があった。

この建築形式の出発点には,那智宮の滝,本宮の中州のように,自然の中で発見された聖なる場所があることは良く知られている。しかし,新宮の元となったゴトビキ岩についてはあまり知られていないであろう。特に,この巨岩前面に明治3年の台風で倒壊するまで,信仰対象の岩を壊さないように床下の柱を長短に伸ばして造られた「懸造(かけづくり)」という形式の巨大な建物があったことは地元でさえ知る人は少ない。

新宮の町では,目を上げればどこからでも神倉山の巨岩・ゴトビキ岩が見え,ゴトビキ岩からは町と太平洋が一望できる。ゴトビキ岩は神の降臨する岩坐で,熊野三山の新宮とは,本宮に対する新宮ではなく,ゴトビキ岩のある神倉神社に対しての名称という説が有力である。神倉神社は古く神蔵堂,権現社などと呼ばれた社で,承保2年(1075)奥書の『鏡谷之響き』や古記録をまとめた江戸時代の『妙心寺由来』は,平安時代の後期には地主神である高倉下命と天照大神を祀る二つの本殿があり,その前で祈願参籠する拝殿があったとする。これについては他に同時代の資料が無く確実ではないが,建長6年(1254)に吉田経俊が熊野参詣をした際に,神倉に「入堂して」舞を行っているから,遅くとも鎌倉前期には拝殿のあったことが分かる。また,正安元年(1299)に描かれた『一遍聖絵』には,懸造の拝殿側面(切妻造)と思われる描写があり,同じく鎌倉時代に描かれた『熊野宮曼荼羅(クリーブランド美術館蔵)』にも正面五間以上の懸造拝殿が描かれている。絵図の建物は類型化されていることが多く,全てを信じる訳にはいかないが,『一遍聖絵』における熊野は驚くべき正確さでその景観が描かれており,拝殿が懸造であったことはほぼ確実と考えて良い。神倉権現社はその後いく度も罹災し再建されたが,享禄4年(1531)時点の拝殿は正面桁行11間,側面梁間6間の巨大な建物で,明治の倒壊までこの規模は維持されたと思われる。残された記録を総合すると江戸時代の建物は高倉下(本地佛愛染明王)を祀る彩色塗金物,槇瓦葺屋根の本殿(約1.89×2.34m)と天照大神(本地佛十一面観音)を祀る千木,勝尾木付の並ノ宮(約1.32×1.44m)の本殿2棟をゴトビキ岩側面に祀り,その前面に約23mに10mの懸造拝殿を造って,本殿2棟の上にかけた大屋根と接合し,本殿正面が拝殿の中から見えるような,修験特有の形式になっていたと考えられる。

ゴトビキ岩は信仰対象であるとともに修験者や神倉聖の行場で,応永5年(1398)の記録には伊勢の修験者が捨身の大法を成就したとある。捨身の行とは岩や滝の上から身を投げて死ぬ,究極の修行のことである。今も神倉神社で続く名高い火祭(御燈祭)は,この神倉聖の修行後に拝殿で行われていた祭で,白装束で松明を持った数千の祈願者が拝殿に入り,火炎の中で読経が終わると神倉聖が扉を開き,一斉に出堂するという苦行であった。

ところで,御燈祭を街中から眺めると,暗闇の中,数千の祈願者がゴトビキ岩から山麓まで駆け下りる様子は,火の列が下り龍のように見えるが,これは海上からも良く見える。

琵琶湖東岸伊崎寺の棹(長13m)から湖に飛び込む棹飛び行事が天台修験の修行であるように,山岳信仰の修行は海や湖でも行われており,山と海との信仰は一体として考えなければならない。海岸や湖岸に造られた懸造の建物を見ると,それらが水上から見た時にも象徴的な目印になっていることに気付く。広島鞆の浦の磐台寺観音堂(室町時代)や琵琶湖西岸日吉大社八王子山頂付近にある摂社八王子,三宮社(桃山時代復元)の建物では常火燈に火を入れ,昼のみならず夜間でも位置が分かるようになっている。詳細は別稿に譲るが,西日本でこのような建物のあった寺社を拾ってゆくと,赤間神宮(旧阿弥陀寺),厳島神社,竹原西方寺,尾道千光寺,赤穂妙見寺など,瀬戸内海の入口から熊野にまで分布している。

このような海岸湖岸の聖地は世界中にあったはずで,特にギリシア,ローマ文化に関する地中海沿岸の遺跡を見ると,点在する聖地が,時代,信仰によってつながっていた事を思わせる。日本における辺地修行の聖地,建物についても,まだ本格的な論考は無いが,日本と海外との比較研究も,また興味深い。

自著を語る86
樋渡彩・法政大学陣内秀信研究室編
『ヴェネツィアのテリトーリオ――水の都を支える流域の文化』
鹿島出版会 2016年3月 512頁 3,600円+税 樋渡 彩

ついに念願のヴェネト調査だ! 2013年5月,研究室のプロジェクトとして立ち上げられたのである。これまで少しずつ研究を進め,温めてきた8年間の熱い思いをこの調査に注いだ。具体的には,次のようなプロジェクトである。

ヴェネツィア本島とその発展を支えてきたテッラフェルマ(本土)との関係性を浮かび上がらせることを目的としている。その方法として,ヴェネツィア本島をとりまくラグーナ(潟)に流れ込んでいたピアーヴェ川,シーレ川,ブレンタ川などの河川を軸にして,その流域とヴェネツィアとの関係を描くことを試みた。かつてこれらの河川を通じて,木,石,鉄などのあらゆる資源や食料,さらには飲料水がヴェネツィアへ運ばれ,水都の繁栄を支えてきたのである。それは具体的にどういうテリトーリオ(地域)として捉えられるのだろうか? そこで,ヴェネツィアと密接に関わってきた河川流域を軸としたテリトーリオの構築を考察することにした。

2013年の調査では,ヴェネツィアとの関係がより深いシーレ川とブレンタ川の流域を調査対象地とした。調査前に報告書として刊行することを想定し,ここでは,ヴェネツィア共和国が領土を拡大する方向とは逆の,テッラフェルマからヴェネツィアを捉え,水が流れるかのごとく各河川の上流からヴェネツィアまでを通して流域の地域構造と特徴を描き出せるように組み立てた。

具体的な対象地としては,ヴェネツィアと関係の深いトレヴィーゾとパドヴァのほかに,点在する小都市および集落と田園部も視野に入れ,河川沿いを線的につなげるだけでなく,支流や運河にも広げ,面的に広げたテリトーリオの構造を捉えたいと考えた。集落や田園部の調査準備としては,書籍の一部に少し記載されているか,個人で配信しているインターネットの情報しかなく,情報収集としては限界があった。

そこで導入したのが,googleのストリートビューである。これまでは本調査前に現地入りし,下調べをしてきたが,ストリートビューのおかげで,日本に居ながら,現地を車で走っているかのように各地の土地勘を養うことができた(集落によっては,ストリートビューのない場所もあるため,現地調査中の発見も大きい)。そもそも,郷土史にもほとんど描かれず,公共交通もないような地域を研究対象としているので,この手法以外に方法はなかったのである。地図資料においては,ヴェネト州など各地域からデータで公開されつつあり,また航空写真においても,次々と高解像度の映像が更新されていた時期であった。こうして日本に居る間に,調査のポイントを絞り込むことができた。最初に提案した2005年には,今回のような調査スタイルは成り立たなかったであろう。

河川流域を軸とした地域構造を捉える視点は2010年に刊行されたブレンタ川の木材輸送に関する書籍(R. ASCHE et al., Un fiume di legno: fluitazione del legname dal Trentino a Venezia, Scarmagno, 2010)に掲載されていた絵もヒントとなった。ブレンタ川の上流に注ぐチズモン川流域で伐採された木材が,筏に組まれ,ブレンタ川を通じてヴェネツィアまで運ばれる過程を連続した絵で示している。この絵をもとに木材輸送にとって重要な集落を抽出し,調査を行った。もう一つの特徴としては,共和国の領土の外に当たる,木材供給地の上流域との関係も描ける点にある。河川を軸にすることで,従来とは違った視点から地域論を提示できるのである。

一方,シーレ川においては,当時ヴェネツィア大学在学中の湯上良氏の紹介でM・ピッテーリ氏に協力いただいた。M・ピッテーリ氏はこの地域の歴史研究の第一人者で,水車がいかに地域の経済社会に貢献してきたかを明らかにしてきた。シーレ川流域とブレンタ川流域のドーロ調査に参加していただき,水車による産業の重要性をご教授いただいた。川の機能として舟運や筏流しのように運搬以外の役割にも目を向けるきっかけとなった。

こうした大掛かりな調査を報告書としてまとめ,大きな成果を得ることができた。そして2014年には,木材輸送に欠かせないピアーヴェ川流域の調査を行い,ヴェネツィア共和国の繁栄を担った各地域の役割(伐採,製材,筏に組むなど)を捉えることができた。またピアーヴェ川筏師民俗博物館のような,各地にあるマニアックな博物館が我々の訪問を歓迎してくれた。

以上のようなダイナミックな調査と長年の研究の積み重ねにより,ヴェネツィアの繁栄を支えた3本の河川流域を描いたテリトーリオを論じた本書が実現した。

最後に本書および本調査をバックアップしていただいた陣内秀信教授,そしてM・ダリオ・パオルッチ氏(ヴェネツィア建築大学)ほか,本書に寄稿し,調査に協力して下さった皆様にこの場を借りて感謝申し上げる。

表紙説明

地中海世界の〈城〉3:イフ城/加藤 玄

イフ島はマルセイユ沖約1. 5キロメートルに位置し,ラトノー島やポメーグ島などとともにフリウル諸島を構成する。城の建設以前にも,この島はインドサイに関するエピソードで知られていた。この動物は,グジャラート・スルターン朝ムザッファル・シャー2世からポルトガル領インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケに贈られたものであった。生きたサイがヨーロッパに持ち込まれたのは古代ローマ時代以降初めてで,本国に送られたサイは大評判となり,デューラーの有名な木版画のモデルにもなったと言われる。ポルトガル王マヌエル1世は,教皇レオ10世への寄進の品にこの珍獣を選んだ。このサイを載せたポルトガル船は,1516年1月にマルセイユ沖を通過する際,近くで巡礼中のフランス王フランソワ1世の求めに応じ,イフ島に寄港した。数週間の滞在中に多くのマルセイユ市民がサイ見物に訪れたという。

1481年の併合以来,マルセイユはフランス王国にとって地中海で最重要の港町である。沿岸部の防衛網構築の必要性を痛感したフランソワ1世の命令で,イフ城はマルセイユ最初の要塞として建造されることになった。築城工事は悪天候で着工が遅れ,1529年4月中旬にようやく始まった。竣工の正確な日付は不明なものの,1531年から要塞司令官と守備隊の駐留が確認できる。

イフ城と島は内岸壁によって囲まれている。城自体は3層構造で各辺28メートルの正方形プランを持ち,1階に客間と厨房,2階に掩体を備える。三方の角には海を監視する3本の円塔を配し,北西部のサン・クリストフ塔が22メートルで最も高い。北東部のサン・ジョーム塔と南東部のモゴヴェール塔を加えた3塔は2層の幅の広いテラスによって連結されており,大砲が据え付けられ,城の防備をより強固なものとしている。

18世紀以降,この城は,要塞としてよりも,むしろ監獄として用いられた。1階の監房の衛生状態は劣悪であり,雑居する囚人たちの平均余命は9ヶ月であったという。もっとも,懐次第で,2階の特別牢「ピアストル」を借りることもできた。この呼び名は,1ヶ月の賃料である1ピアストルに由来する。この監房は広々として,窓や暖炉が付いていた。イフ城には,ナント王令廃止以降のユグノーや,政治犯などが多数収監された。若き日のミラボー伯爵や革命家ブランキと並ぶ「最も著名な囚人」は,アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の主人公エドモン・ダンテスであろう。彼が無実の罪で投獄される場面におけるイフ城は,「その怪奇な姿,周囲に深い恐怖を漂わしたこの牢獄,300年来,陰惨な伝説によってマルセイユを有名にしてきたこの城塞(山内義雄訳)」と描写される。良く知られているように,彼は14年間の幽閉生活の末,ついに脱獄して,囚人仲間のファリア神父から在処を教えられた財宝を元に,自らを陥れた敵たちへの復讐を果たすのである。

同書は『三銃士』とともに私の愛読書である。一昨年夏,史料調査の合間にイフ城を訪ねようと,マルセイユの旧港からイフ島を経由してフリウル港へ向かう水上バスにいそいそと乗り込んだ。が,天気晴朗なれども波高し。イフ島には上陸できず,そのまま真横を素通りすることとなった。船上から撮影した表紙の写真には,囚人たちだけでなく,私の無念の想いも込められている。