地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

10月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:ルネサンス期フィレンツェにおける〈異端〉の争点
──ボッティチーニ《パルミエーリ祭壇画》をめぐる関連史料の検討を通して
発表者:秦 明子氏
日 時:10月15日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
(東京都千代田区外神田1-18-13秋葉原ダイビル12階
JR秋葉原駅「電気街口」改札からすぐ,つくばエクスプレス秋葉原駅から徒歩2分,
東京メトロ日比谷線秋葉原駅・末広町駅から徒歩5分)
参加費:会員は無料,一般は500円

本祭壇画は,人文主義者パルミエーリ(1406-1475)が墓所礼拝堂に注文した聖母被昇天を主題とする作品であり,1477年に設置された。しかし作品は異端視され,本人がダンテの『神曲』を範として晩年に著した『生命の都』の写本とともに,禁令下に置かれたことが知られている。本発表では,異教の学説や図像を寛容に受容した15世紀後半の同地で,作品が異端視された争点を関連史料の検討を通して詳らかにすることを試みる。

寄贈図書

『ロココを織る フランソワ・ブーシェによるボーヴェ製作所のタピスリー』小林亜起子著 中央公論美術出版2015年6月
『世紀末イスタンブルの演劇空間 都市社会史の視点から』永田雄三・江川ひかり著 白帝社 2015年7月
『エウクレイデス全集 第2巻 原論VII-X』斉藤憲訳・解説 東京大学出版会 2015年8月
『イタリア都市の空間人類学』陣内秀信著 弦書房 2015年10月
『ナポリ建築王国 「悪魔の棲む天国」をつくった建築家たち』河村英和著 鹿島出版会 2015年10月
『メディチ宮廷のプロパガンダ美術 パラッツォ・ヴェッキオを読み解く』松本典昭著 ミネルヴァ書房 2015年10月
『コミュニケーションから読む中近世ヨーロッパ史 紛争と秩序のタペストリー』服部良久編著 ミネルヴァ書房 2015年10月
『ヨーロッパ 時空の交差点』大月康弘著 創文社 2015年12月
『ヴェネツィアのテリトーリオ 水の都を支える流域の文化』樋渡彩+法政大学陣内秀信研究室編 鹿島出版会 2016年3月
『モノとヒトの新史料学 古代地中海世界と前近代メディア』豊田浩志編 勉誠出版 2016年3月
『はじめて学ぶイタリアの歴史と文化』藤内哲也編著 ミネルヴァ書房 2016年5月
『中東と日本の針路 「安保法制」がもたらすもの』長沢栄治・栗田禎子編 大月書店 2016年5月
『エウリピデス 悲劇全集5』丹下和彦訳 京都大学学術出版会 2016年6月
『18世紀ヨーロッパ生活絵引 都市の暮らしと市門,広場,街路,水辺,橋』神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター 第2期研究成果報告書 5015年3月
『アマルフィ海岸の地域構造 海と山を結ぶテリトーリオの視点から』陣内秀信・稲益祐太+法政大学陣内研究室 2015年7月 法政大学エコ地域デザイン研究所
『日本中東学会年報』31-2(2015),32-1(2016)
『日本ギリシャ協会会報』137(2015)
『イタリア圖書』イタリア書房 53(2015),54(2016)
『Aspects of Problems in Western Art History』東京芸術大学西洋美術史研究室紀要 13(2015)
『日仏美術学会会報』35(2015)
『館報』石橋財団ブリヂストン美術館・石橋美術館 64(2015)
Mediterranean Review, vol.8-2 (2015)
『MEDITERRANEAN WORLD 地中海論集』一橋大学地中海研究会 XXII(2015)
『プーリア都市の発展過程と構成原理 コンヴェルサーノを事例として』陣内秀信・稲益祐太+法政大学陣内研究室 2016年3月 法政大学エコ地域デザイン研究所
『教養としてのドン・キホーテ』NHKカルチャーラジオ 文学の世界 テキスト 吉田彩子著 2016年4月 NHK出版

 

地中海学会大会 記念講演要旨
ミケランジェロの芸術
長尾 重武

ミケランジェロ(1475-1564)は彫刻家として出発し,絵画,建築へと造形芸術の領域を広げ,そして詩作品および書簡を多く残しました。その全体を眺めながら,本日は,「詩をめぐる小さな話」と,彼が縦横に行き来した造形芸術の領域について,「プロジェクトの中断と持続」という視点で眺めてみたいと思います。

ミケランジェロの89年におよぶ生涯は,大きく三つの時期に分かれます。第一期は,彫刻家として成功する30歳まで,第二期は,ユリウス二世墓碑の仕事から始まってフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂の仕事で終わる30年,第三期として≪最後の審判≫から死までです。

詩をめぐる小さな話
一方,ミケランジェロは二〇代末に詩を書き始め,第二期に約100篇,第三期に約200篇と300篇余りの詩を残しますが,ソネットが最も多く,4行詩,バラードなどが続きます。第二期の始めに面白い詩を書いています。彼の詩は常に脚韻を踏んだ定型詩です。彼の詩にはタイトルがありません。ここで取り上げる詩は通常5番とされていますが,前後にユリウス二世をうたったものがあり,システィーナ礼拝堂の天井画を描いた時のものだということがわかります。ソネットにさらに3行の連が2連加えられた形をしています。須賀敦子訳です。

髭は天を指し 頭のうしろは背と鉢合わせ
胸は醜い女神のように 反りかえり
絵筆が おまけに 雫をたらして
顔いちめんに 派手な絨毯を敷いてくれる
≪中略≫
さあ ジョヴァンニよ おれの面目のためにも
この色つや悪い絵を弁護してくれ
場所も酷いし 絵描きでない俺

この詩はおかしな詩だな,と感じていました。天井画を描く困難さをことさらに強調しているからです。それも滑稽な語り口で,表面的には随分自虐的な詩です。

最後のジョヴァンニは,人文主義者・詩人のジョヴァンニ・ダ・ピストイアでミケランジェロが親しくしていた友人です。その彼に呼びかけているわけですが,彼にはミケランジェロの真意はきっと分かったのでしょう。

ミケランジェロの念頭にあるのはレオナルドです。ミラの時代にレオナルドは諸芸術比較論を主張し,絵画が芸術の中で唯一科学で,しかも,優雅に画室で楽の音を聞きながら絵筆を振るうことも出来ると主張し,大理石を彫る彫刻家の仕事を,埃だらけと否定的に論じました。

ミケランジェロは,自分は彫刻家でありながら,このような壁が大作を仕上げてしまった自負を表現していると取るとはっきりこの詩が見えてくると思うのです。

プロジェクトの中断と持続
ミケランジェロの長い生涯で中断されたプロジェクトは少なくありません。中でも,≪ユリウス二世墓碑≫と≪サン・ロレンツォ聖堂ファサード≫の仕事はミケランジェロが熱意を傾けていただけに,その中断はその後に大きな影を投げます。プロジェクトの中断は芸術家のうちで持続し,異なるプロジェクトに顔を出します。

ユリウス二世墓碑はサン・ピエトロ大聖堂内陣に独立墓碑として構想され,二層あるいは三層の層構成の墓碑であり,等身大以上の彫刻や浮彫りが配されることになっていました。とくに二層目の大きな彫刻群が重要な意味があります。しかも内部空間が考えられ,一層目には聖ペテロの墓が楕円形の墓室に設置される予定でした。

システィーナ礼拝堂天井画の構想を練る時,ミケランジェロは既存の礼拝堂の層構成を意識したに違いないが,ユリウス二世墓碑のアイデアが,はやくもシスティーナ礼拝堂の天井画の構想に形を変えて出現します。比喩的にいうなら,システィーナ礼拝堂天井画は,ユリウス墓碑の裏返しではないでしょうか。そのうえに画中画としての天地創造の物語絵が描かれたのです。そのように考えて見なければ,預言者と巫女のゾーンはなかなか考えにくいのです。その部分が最も大きな人物像になっているのも,ユリウス二世墓碑と関連するのではないでしょうか。

ユリウス二世墓碑は独立墓碑から壁付き墓碑へと大きく変更されます。同じ変化が,メディチ家礼拝堂の墓碑の配置にも同様に起こることに注目したい。

サン・ロレンツォ聖堂ファサードは,建築的な大きな枠組みにやはり層構成に従って彫刻を配したものとして計画され,ユリウス二世墓碑からシスティーナ礼拝堂天井画の構成への移り行きを反映し,さらにメディチ家礼拝堂の内部構成をへて,壁付き墓碑としてのユリウス二世墓碑へと変化していく流れと関連します。

最後にこのような領域を超えた構想は,第二期に特徴的なのは何故かという大きな問いが残ります。

地中海学会大会 地中海トーキング要旨
ニュータウンの古今東西
パネリスト:島田誠/中島智章/松原康介/吉川徹 司会:山田幸正

第40回地中海学会大会の地中海トーキングは「ニュータウンの古今東西」というテーマで行われた。これは大会会場となった首都大学東京南大沢キャンパスが立地する多摩ニュータウンに関連して発想されたものである。前身である東京都立大学がこの地に全学移転したのは,いわゆるバブル経済末期の1991年3月のことで,多摩ニュータウン開発も最後のフェイズを迎えていた。大都市周辺に計画・建設されたニュータウンについては,これまでも建築や都市計画の分野では計画手法など技術論的な議論がさまざまになされてきたが,ここでは古代から近代の地中海世界における「ニュータウン」を「地中海学会的なみかた」で眺めてみたいと考え,本トーキングを設定した。

最初に,都市計画・都市解析が専門で,地元多摩ニュータウン学会前会長の吉川徹氏(首都大学東京)より,多摩ニュータウンの概要,多摩ニュータウンの開発の経緯,多摩ニュータウンのデザインにおける地中海周辺の要素など,本トーキングの趣旨説明となるような問題提起がなされた。1960年代初頭に始まるニュータウン構想から開発ツールとなる法整備と都市計画決定に至る第一期,1966年以降の土地買収と造成事業により谷間と尾根で開発手法が異なる独特の景観に変貌するなか,1975年に住宅供給戸数のピークを迎えた第二期,「公団住宅は遠高狭」と不人気となった70年代後半から新たな集合住宅設計が試みられ,バブル期の高層高密度集合住宅を最後に公的な開発から民間に移行する第三期。そうしたなか,第二期まではいわゆるモダニズムの箱型集合住宅であったのに対して,第三期になると,デザイン性が重視され,これにあわせて地名や建物名にイタリア語,フランス語,スペイン語などの表記が散見されるようになり,建設や開発に携わった建築家や技術者,アーティスト,進出した商業施設の事業主体などの中に,地中海志向,いわゆる「脳内地中海」が広がっていた。

次に中東・北アフリカ地域の都市計画史を専門とする松原康介氏(筑波大学)より,イスラーム世界の歴史的都市街区と学園都市つくばの近隣住区における類似性が指摘された。まず,モロッコ・フェスの迷宮的街路網もよく観察すると,段階的な公私の分離がなされている。またシリア・ダマスクスの伝統的ハーラ(街区)において空間構成原理が存在し,古代ヘレニズム時代に起源をもつ街路空間がイスラーム的に変容した。それらに対して,つくば学園都市にみられる歩車道分離の計画的な市街地は,モロッコ・フェスなどの住戸アクセスと共通するものである。さらにヨーロッパ中世の村落共同体が我が国のニュータウン理論のモデルになっている。

三番目のパネラーである中島智章氏(工学院大学)からは,西洋建築史・都市史の観点から,南フランス・低ラングドックの丘上の集落や都市について紹介された。まず,アンセリュヌは街道,水路,運河,鉄道など古代から近代までインフラの交わる都市として整備発展した。つぎに,西ゴートの拠点であったオラングは12-13世紀に中世新都市として勃興した。さらに13-14世紀に出現した一連の新都市群バスティードの都市的な特徴が解説された。

最後に,西洋古代史が専門の島田誠氏(学習院大学)より,古代ローマの植民市コロニアと題して,古代ローマ都市の計画性への幻想,過大評価が存在することが指摘された。まず,イタリア・アープリアのルケリアや属州ガリア・ベルギカのアウグスタ・トレウェロールムなどの植民都市は,基本的に軍事目的で建設され,その都市形態として軍の駐屯地と似た規則性をもっていた。それに対して,ローマ市自体はいくつかの高台に自然形成された複数の集落がまとまったもので,計画性が認められない都市であった。さらにそのローマでは多くの記念建造物が無計画に次々に建設され,都市とその機能が住民の活動そのものによって変容を被っていた。

以上の通り,本トーキングでは現代の多摩ニュータウンを基点に,次第に時代を遡るかたちで,地中海世界の都市のありようを概観することができた。それぞれの時代や地域における政治・軍事的あるいは経済的な要請のなかで「計画都市」が建設されたが,どの都市もそれぞれ特徴はあるものの,新しい街を造り,伝統や住民の知恵など計画を超える意志によって変容していく過程などに通じるものがあるように思えた。なにより現代の多摩ニュータウンが意外なところで地中海世界と結びついていることに新鮮な驚きを感じた。

なお,本トーキングに関連して,清水裕介氏(立川市)とパルテノン多摩歴史ミュージアム(多摩市)にご協力いただき,多摩ニュータウンの建設・開発を記録した写真パネルなどをホワイエや休憩室で展示公開できた。この場を借りて,御礼申し上げたい。(山田幸正)

文化的経済か,あるいは,経済的文化か
澤井 繁男

本務校の関西大学での共通教養科目(関西大学独自の呼称で,一般教養教育科目を指す)では,『ルネサンス文化に親しむ』という講義を5年以上担当している。

講義初回の授業は,学生にとっては「試しに出席」して,受講の諾否を決められる機会としてあるので,当方もルネサンス期の特徴を二,三取り上げて説明することにしている。

そのなかのひとつが,「ルネサンス期は文化面のみに積極的意義があり,政治,経済,社会は劣悪であった」ということである。その命題を大きく板書する。

書き終えたあと,私は黙って,受講生の反応をうかがうことにしている。そしてしばらくしてから,授業の最初に配布されていたB6版罫線入りの「ミニッツペーパー」に,本日の講義に対する所見,所感,それに疑問点などを記し,記入後は回収箱に入れて退出してもよいと告げる。それらを私が読んで,次回の授業で反映させ,回答する,という仕組みだ。

毎年のことだから,ほぼ見当はついている。ルネサンンス文化は華やかなのに,経済や政治などが優良でなかったというが,そうした社会が悪化した状態でどうして文化が開花するのか,という疑念が投げかけられる。

これには,経済史家,ロバート・S・ロペス(1910-86)に,「困難な時代と文化への投資」という著名な論考がある。その冒頭の一行目からして,目から鱗の衝撃を受ける。即ち,「……ブルクハルトのような人文主義者がルネサンスという用語を信用にたるものにした当時,経済史は誕生していなかった」という一文である。ブルクハルトはルネサンス期の経済状態に一瞥もくれずに,文化面だけで大著をものにした,ということである。

たいていのひとは政治や経済が安定していなければ,文化は芽吹かないと考える。

これには,もちろん一理あって,フィレンツェ・ルネサンス文化は,15世紀中葉,半島の各都市国家がオスマン帝国の侵攻に備えて団結を誓った「ローディの和約」(1454年)から,約40年間政治的に平穏な時期が続いた。まさにその間に文化が百花繚乱した(ヴェロキオやボッティチェッリなどの画家,ポリツイアーノや大ロレンツオなどの詩人,フィチーノやジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラなどの哲学者の活躍に象徴される時期)。

だが,経済面はそうはいかなかった。

ロペスは言う─「ルネサンス期の経済の根本的な局面は,第一に不景気であり,その次に,全盛期の中世よりも低い水準で安定を得た」と。

ロペスは,1348年のペスト猖獗(しょうけつ)とそれに伴った交易や海外市場の縮小がもたらした人口統計学を軸に論じたのだ。ロペスの理論は広範囲のひとたちに訴えかけたが,それはほかでもない,彼は経済の沈滞とルネサンスの芸術・文化を結びつけたからであった。仕事が減り,働く機会がなくなると,ひとびとは,金銭を,利益の見込みのない金融投機ではなく芸術に投資した,というのである。この論に反駁する研究者もむろんいた。

しかし,ペスト席巻と並行して,ヨーロッパ各地では戦争が勃発していた。これらの戦争が,貿易取引や農業生産を妨げ,ヨーロッパは度重なるインフレとデフレの荒波のなかに投げ込まれた。ところが,こうして社会が窮境にあえぐとき,一般的に言えることがある。それは,逆境に耐えられず零落してゆくひとが一方にいれば,気運に乗じて豊かになっていくひとが他方にいる,ということだ。

この一群の富裕層たちが,時を経ずして最終的には「銀行家」となった。その代表格が,フィレンツェのメディチ家である。そして,そうした豪商が,いまだ「職人」としてしかみなされていなかった,現代の視点からは芸術家と呼ばれる,画家や彫刻家や建築家のパトロンとなって,みずからの「栄誉・名声」を担保にして作品を彼らに依頼したのである。これら「職人」たちが「芸術家」と認知されるに及ぶ過程で多大な貢献を果たしたのが,万能人(ウオーモ・ウニヴェルサーレ)と称される,レオナルド・ダ・ヴィンチそのひとであった。しかし,レオナルド自身はその秘密主義のせいで,没後忘れ去られ,19世紀になってはじめて,英国の批評家で著名な『ルネサンス』(別宮貞徳訳,冨山房百科文庫,1977年)の著者であるウォルター・ペイター(1839-94)によって「発見」されるに至った,ということだけは付言しておきたい。

ポルトガル映画の巨匠マノエル・デ・オリヴェイラの
「永遠の語らい」における地中海
マウロ・ネーヴェス

2015年4月2日,ポルト市にて,ポルトガル映画の巨匠と呼ばれたマノエル・デ・オリヴェイラ監督が逝去した。今から80年以上前の1931年,オリヴェイラは「ドウロ河」という19分間のドキュメンタリー作品によって,映画監督としてデビューした。このわずか19分間が,彼の80年以上にわたる波乱に満ちた映画監督としての経歴の始まりであった。独裁者サラザールがポルトガルを支配した時代(1928~74年),オリヴェイラはほとんど映画を製作することができなかった。オリヴェイラの才能が真に開花するのは,1974年4月25日に起きた「カーネーション革命」以降である。それ以来,彼がポルトガル映画史上最も重要な存在であることは疑う余地がない。

ここでは,2003年に発表された「永遠の語らい」を紹介したい。「永遠の語らい」は,リスボン大学歴史学科の教授である母が7歳の娘を連れてインドにいる夫に会うために,地中海を巡るクルージングに出発する物語である。その旅の途中で停泊する港町を訪問しながら,母が娘にヨーロッパの歴史と文明の発展を丁寧に説明し続ける。停泊したそれぞれの港町からヨーロッパを代表する女優(フランスのカトリーヌ・ドヌーヴ,イタリアのステェファニア・サンドレッリとギリシアのイレーネ・パパス)が乗ってくる。アメリカ人艦長の役を務めるジョン・マルコヴィッチが加わり,夕食会のシーンは最も印象深くオリヴェイラのヨーロッパ観を映し出している。4人はそれぞれの言葉で(英語,フランス語,イタリア語,ギリシア語)話しはじめ,テーマは男女関係,男女平等からヨーロッパ文明にまで広がる。

その中で,更に興味深い描写が3つある。まず,ポルトガル人がその重要なテーブル(EU文化中心)から離れていることである。そしてそこに加わる時にポルトガル人だけが,他の客に自国の言葉ではなくそれぞれの言葉で話かけようとする。次は,ギリシア人歌手のギリシア語が西洋文明を生み出した文化にもかかわらず,言語としてほとんど知られていないという苦悩の描写である。最後は,ヨーロッパ人皆を女性にし,唯一の男である艦長をアメリカ人の英語話者にする描写であり,ヨーロッパに対する虚しい感覚が表現されていて素晴らしい。どんなに融合を試みてもヨーロッパはアメリカに「負ける」運命を辿るであろうことが,悲しく表現されている。

しかし作品の始まりから結末まで際立っている存在は,やはり地中海である。地中海を巡るクルージングという風景の物語であるため,中心人物たちは地中海から次の港に辿り着くまで逃げられない。オリヴェイラは港から港へ航海していく船から地中海へカメラをゆっくりと移し,地中海の波を開いていく船を同時に撮ることで,まさにヨーロッパの文明がこのようにして作られたことを比喩的に表した。物語は波を介して展開する。地中海から離れられない事実を描写するためであろうか。波しか映さないシーンが,ダイアログのあるシーンを見事につないでいる。

地中海を主役にしたからこそ,オリヴェイラはこの作品を通してヨーロッパの歴史,文化と宗教を理解する上で,地中海が欠かせない存在であることを見事に表現した。そしてヨーロッパだけではなく,中近東と北アフリカの人,モノ,アイデア,文化と宗教が過去と現在においても地中海を通して交差していることをこの作品を通して細かく描写し,それぞれの文化の中で生きてきた人人だけではなく,別の文化の中で生活を送っている観客にも,ヨーロッパ文明において地中海が果たした役割を歴史の授業のように再確認させている。ダイアログの中で時々登場する地中海,波のシーンの中に登場する地中海,それぞれの港に近づく時に登場する地中海,地中海を航海し続ける船。作品を観ている間,観客は地中海から離れられない。離れる時(紅海を航海し終え,アデンの港を出発する時),風景が変わって作品は終わりに近づく。

この作品の結末は観客を驚かせると同時に,ヨーロッパが生み出した文明がどんな結末を迎えようとしているかを映し出している。さらに今尚話題になっている移民問題,つまりテロリズムへの懸念から,ヨーロッパ生まれではないのにヨーロッパ文明の理解を求められている移民を理解するためにも,この作品をお勧めしたい。

オリヴェイラは,亡くなるまで,世界で最年長の現役映画監督として,1990年からは毎年1本のペースで長編映画を制作し続け,観客を驚かせ続けた。すなわち,文字通りの「映画人」であった。間違いなく彼は,世界の映画史にその名を刻み,永遠に消えることのない存在なのである。

自著を語る80
『ロココを織る
―フランソワ・ブーシェによるボーヴェ製作所のタピスリー』
中央公論美術出版 2015年6月 456頁 15,000 円+税 小林 亜起子

本書は,18世紀の画家フランソワ・ブーシェのボーヴェ製作所におけるタピスリー・デザイナーとしての業績について包括的に論じたものであり,東京芸術大学に提出した博士論文が基になっている。僭越ながら,完成に至るまでの経緯や内容について紹介させていただきたい。

ブーシェとの出会いはパリ留学時代にさかのぼる。偶然訪れた展覧会で,私はブーシェ作《ポンパドゥール夫人の肖像》(ミュンヘン,アルテ・ピナコテーク)と出会った。小バラの散らされたドレスを纏い,優雅に微笑むルイ15世の寵姫に大いに魅了され,ブーシェに注目するようになった。当時パリ第十大学で教鞭をとられていた現ローザンヌ大学のクリスティアン・ミシェル先生の講義を通じて,ロココ美術とブーシェに対する関心は一層高まっていった。こうしたことをきっかけに同大学の修士論文においても,ブーシェの作品を含めたフランス18世紀の肖像画に焦点を当てることとなった。東京芸術大学進学後は,先生方の温かい励ましと開放的な空気のもとで,ブーシェの作品研究に没頭させていただくことができた。

とりわけ本書の中心テーマとしてタピスリーに注目したのは,ブーシェの下絵に基づいて織り出された絵柄に温もりを感じる一方で,小画面の絵画作品にはない大構図の迫力と華麗さに圧倒されたことがあった。ブーシェはなぜこのようなタピスリー下絵を構想したのだろう。画家として多忙でありながら,なぜ下絵制作活動を長年にわたって続けていたのだろう。これらの素朴な疑問が私の研究の出発点になった。と同時に,研究を進めるなかで,タピスリーを研究することが,フランス近世美術を理解する上で非常に重要な意義をもつことに気づかされたからだ。

本書では,ブーシェがボーヴェ製作所のためにデザインした6つのタピスリー連作を詳細に考察し,多才な芸術家の新たな姿を提示することを試みた。本文は序章と7つの章および終章から構成されている。第1章では,ブーシェのタピスリーを考察するうえでの基礎的情報を整理した。第2章から第7章では,ブーシェの下絵に基づく6つのタピスリー連作について論じている。すなわち,〈イタリアの祭り〉(1736年),〈プシュケの物語〉(1741年),〈中国主題のタピスリー〉(1743年),〈神々の愛〉(1747-48年),〈オペラの断章〉(1752年),〈高貴なパストラル〉(1755年)である。最後に終章でブーシェの下絵制作の意義を総括した。

各章では,ブーシェの画業と下絵制作活動との関係,サロンにおける評価,同時代の画家との競合関係,ボーヴェよりも格上のゴブラン製作所の作品との比較,タピスリー下絵の様式的・図像的問題などを詳細に検討した。ボーヴェ製作所の名声に大きく貢献したブーシェは,その後,王立ゴブラン製作所の総検査官として迎えられ,最終的に国王の首席宮廷画家となる。ブーシェの宮廷画家としての成功の鍵が,ボーヴェ製作所のタピスリーのデザインに織り込まれていることを本書は明らかにしている。

3世紀近く経てすっかり色あせたタピスリーを前にした時,当時それらに単なる室内調度品である以上のさまざまな象徴的価値が与えられていたことを想像するのはむずかしい。序章で論じているように,タピスリーは国家外交の贈答品として,また,王室をはじめ貴族や新興階級層のステイタス・シンボルとして,大きな社会的意味をもっていた。芸術家の「オリジナル」作品としての絵画・彫刻を優位とする現在の西洋美術史研究において,工芸品に光があてられることは決して多くはなく,大画家のデザイナーとしての仕事は副次的な活動と見做される傾向がある。本書は,ブーシェの下絵画家としての制作活動の意義を解明するとともに,18世紀のタピスリーを装飾美術の歴史のなかで再評価している点でも,芸術家の個別研究という枠を超えた展望をもつことを目指している。

今後は,ブーシェのゴブラン製作所のタピスリー,さらには近世フランス装飾芸術の再評価などより広い視野での研究を進めていきたい。博士論文の一部をなす,ディドロに代表される啓蒙時代の美術批評家から見たブーシェ芸術については,機会を改めて論じたく思う。そしてこれからも,さまざまな芸術作品と向き合い,その形式・様式的特徴を踏まえたうえで,作品が生み出された社会,文化,歴史を読み解いていきたい。本書はこうした取り組みのための第一歩である。

表紙説明 地中海世界の〈道具〉17

船上の調理器具(保温器と目玉焼き器) /高田 良太

中世から近世にかけての時代,海を行き交う船のなかで人々は何を食べていたのだろう。この疑問に答えるのは意外と難しい。航海を経験した人々が残した手記のなかに食事のことがでてこない訳ではないが,得てして語られるのは,寄港先での珍しい食べ物や酒であり,船上での食事に紙幅が費やされることはないのだ。さらに,その理由を追っていくと,船上の食事の不味さ味気なさが浮かび上がる。たとえば,17世紀末にアムステルダムからアジアを目指した船に乗員として乗船していたあるドイツ人は自身の回想録のなかで,半年の航海のために「バター,油,肉,棒鱈,えんどう豆,大麦,乾パン」を積み込んだと記述している。肉は当然干し肉であっただろうし,いかにも無味乾燥な食生活が浮かび上がってくるが,さらに食料が尽きると,積載したビールやワインで酩酊することで飢えをまぎらわすといった苛酷なサバイバル生活が待っていた。

船上の食生活の別の面を私たちに教えてくれるのは,水中考古学である。今回紹介するのは,クロアチアのムリェト島で2006年に発見された難破船である。16世紀のヴェネツィア船とみられ,イズニックの陶器やオスマンの貨幣を満載していたことから,おそらくは東方からヴェネツィアへの帰路の途中で遭難したとみられている。この船からは,船上での乗組員たちの生活をうかがわせるいくつかの遺物が見つかっている。たとえば,薪と松毬は船のなかで頻繁に火が焚かれていたことを物語っている。そして,そうした火の使い途のうちのひとつは,調理であっただろう。出土品のなかには,上段の写真のような深鉢のかたちをした金属製品があり,これはおそらくは中敷きと蓋のセットで,料理を温めるために使われたと考えられている。さらに不思議なのは,下段左の写真の丸い穴があいた円盤状の金属製品である。写真をよくみると,丸い穴は劣化してあいてしまったもので,もともとはたこ焼き器の底のような小さな球形の窪みが七つ,鋳据えられていたのだと思われる。この製品の用途は何だったのだろうか。発掘報告書の執筆者が同時代の調理器具との比定から辿り着いた結論は,下段右の図版のような目玉焼き器であった。おそらくは,左の器具を七輪のような火元に載せて油をしき,そこに卵をわって目玉焼きを作っていたのではないかと考えられている。

航海中の食事について,文献史料が決して多くを語ってくれないことは冒頭にも述べたとおりである。しかし,実は,中世・近世の航海者たちもまた船上での温かい食事を愉しんでいたのではなかろうか。そんなことを難破船は私たちに教えてくれる。

画像出典:C.Beltrame et al. Sveti Pavao Shipwreck. A 16th Century Venetian Merchantman From Mljet, Croatia, (Oxford, Oxbowbooks, 2014), pp.117-118; B.Scappi, Opera di Bartolomeo Scappi M. dell’arte del cucinare : con laquale si pu・ammaestrare qual si voglia cuoco, scalco, trinciante, o mastro di casa (Venezia, 1610), libro terzo, p.98.