2016年5月,390号
目次
学会からのお知らせ
学会賞・ヘレンド賞
本学会では今年度の地中海学会賞及び地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めた結果,
次の通りに授与することになりました。
授賞式は6月18日(土),第40回大会の席上において行います。
地中海学会賞:該当者なし
地中海学会ヘレンド賞:奈良澤由美氏
奈良澤氏のLes autels chrétiens du sud de la Gaule(Ve-XIIe siècles)(南ガリアのキリスト教祭壇:5世紀から12世紀まで)(Brepols, 2015)は,南フランスに残る中世キリスト教聖堂の祭壇を対象に,自らのフィールドワークに基づく悉皆的調査の成果を目録化した上で,考古学・美術史学的に丹念な分析を重ねた労作である。網羅的に収集された450を超える作例の情報は,今後の同分野研究において参照されるべき基礎資料となるものである。5世紀から12世紀の祭壇を包括的に分析した本研究の意義は,作例それぞれの制作年代,制作状況を明らかにし,装飾や類型に基づいて独自の四つのカテゴリーに分類した点にある。加えて,古代の遺物が後世に様々に再利用される現象や,祭壇が聖遺物を保管するなど機能面での変容も視野に入れた多角的で発展性に富む論点が盛り込まれている。ヘレンド賞にふさわしい優れた研究書である。
『地中海学研究』
『地中海学研究』XXXIX(2016)の内容は下記の通り決まりました。
本誌は第40回大会において配布する予定です。
「西欧中世における球形懐炉に関する一考察─聖具から君主の蒐集品へ」太田 泉フロランス
「ヴィンチェンツォ・デ・ロッシとポントルモ
──フィレンツェ公爵コジモ1世のための「ヘラクレスの泉」初期構想」友岡 真秀
「パライオロゴス朝前期ビザンツ帝国におけるヘレニズムの変容
──ヘシュカズム論争前後の学問観の変化から」窪 信一
「研究ノート レオンの『960年聖書』挿絵師の同定問題について」毛塚 実江子
「書評 高山博著『中世シチリア王国の研究─異文化が交差する地中海世界』」藤崎 衛
「書評 渡辺真弓著『イタリア建築紀行─ゲーテと旅する7つの都市』」赤松 加寿江
第40回総会
先にお知らせしましたように第40回総会を6月18日(土),首都大学東京において開催します。
総会欠席の方は,委任状参加をお願いいたします。
議事
一,開会宣言
二,議長選出
三,2015年度事業報告
四,2015年度会計決算
五,2015年度監査報告
六,2016年度事業計画
七,2016年度会計予算
八,閉会宣言
7月研究会
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:ドラクロワ作《キオス島の虐殺》におけるギリシア人をめぐって
発表者:湯浅 茉衣氏
日 時:7月23日(土)午後2時より
会 場:首都大学東京 秋葉原サテライトキャンパス
(東京都千代田区外神田1-18-13秋葉原ダイビル12階
JR秋葉原駅から徒歩1分,つくばエクスプレス秋葉原駅から徒歩2分,
東京メトロ日比谷線秋葉原駅・末広町駅から徒歩5分)
参加費:会員は無料,一般は500円
《キオス島の虐殺》は,ドラクロワがサロン(官展)デビューから2年後の1824年に発表した,初めての本格的な歴史画であり,ギリシア独立戦争を大画面で扱った最初期の作例である。本発表では,その制作過程を詳細に辿ったうえで,当時のフランスで高揚していた親ギリシア主義の流れと関連付けながら,画家の制作意図を探る。さらに,批評家を大いに困惑させた画中のギリシア人犠牲者の独特な肌の表現についても考察を試みたい。
第40回地中海学会大会のご案内
山田 幸正
第40回地中海学会大会は,6月18日(土)・19日(日)に,八王子市の首都大学東京南大沢キャンパスで開催することになりました。首都大学東京は,2005年4月に,都立の4つの大学「東京都立大学」「東京都立科学技術大学」「東京都立保健科学大学」「東京都立短期大学」を再編・統合して設置された新しい大学です。世界有数の都市である東京都が設置する唯一の公立大学として,「大都市における人間社会の理想像の追求」をその基本的な使命に掲げ,「都市環境の向上」「ダイナミックな産業構造を持つ高度な知的社会の構築」「活力ある長寿社会の実現」をめざしています。
先の石原慎太郎都政のなかで都立4大学の統合をめぐり,さまざまな軋轢・混乱があったことはご案内の通りです。当時,受験する高校生などからも「何をやっている学部か,どんなことができるコースかよくわかない」と言われた部分を含め,11年を経た現在,あの時に生じた「違和感」を少しでも解消するため,2年後の2018年を目途にさらなる再編にとりかかっているところです。
今回大会会場となる南大沢キャンパスは,もと東京都立大学でした。戦後1949年の学制改革で旧制都立高校から改組して,人文学部や教養学部などが目黒区八雲に,理学部と工学部が駒沢公園脇の世田谷区深沢に設立され,バブル期末期の1991年にこの地に全学あげて移転してきました。当時,東京都は本学の建設と併行して(着工と竣工が同じ),西新宿に丹下健三氏設計の東京都庁舎も移転・新築中でした。そのためか,スーパーゼネコンと称される大手建設会社はすべて新都庁舎建設にまわり,本学の工事は人手不足のなか中堅建設会社のJV(共同企業体)によって進められました。多摩の丘を切り崩し露出された赤い大地を多くの大型重機が動き回っていた工事現場を傍目にみながら,引越しをしていたことを今はなつかしく思い出します。東急東横線の駅にいまも「都立大学」の名が残っていますが,移転早々には地方からの受験生が会場を間違えてしまう事件もありました。
さて,今回の大会のプログラムを紹介しましょう。まず大会初日は,イタリアのルネサンス,マニエリスム,バロックなどをご専門とする長尾重武氏(武蔵野美術大学名誉教授)に「ミケランジェロの芸術」と題して記念講演をいただきます。
次の地中海トーキングは,本学が多摩ニュータウン西部に立地することから,「ニュータウンの古今東西」と題して行われます。パネリストとして島田誠氏(学習院大学 西洋古代史),中島智章氏(工学院大学 西洋近世・近代建築史),松原康介氏(筑波大学 中東・北アフリカ地域の都市計画史),吉川徹氏(首都大学東京 都市計画・都市解析)の方々に,それぞれのご専門の立場からお話しいただきます。新しい街を造るというテーマで,古代から近代までの地中海世界と現代のニュータウンが意外なところで結びつくのではないかと期待しております。また,地元の多摩ニュータウン学会とパルテノン多摩歴史ミュージアム(多摩市)のご協力により,多摩ニュータウンの建設・開発を記録した写真パネルなどをホワイエや休憩室で展示公開する予定です。トーキングの話とともにご覧いただけると幸いです。
授賞式および総会後の懇親会は,国際交流館1階のレストランでご用意しております。南大沢では数少ないフレンチレストランとして,地元のご婦人方などの間で人気を集めております。
二日目の午前中は,気鋭の研究者らによる4つの研究発表が行われます。北アフリカ,イタリア,スペインからさまざまな分野の議論が展開されそうです。
引き続き午後は,シンポジウム「地中海の水と文化」が開催されます。陣内秀信会長(法政大学 イタリア建築史・都市史)自らが司会兼パネリストを務め,飯田巳貴氏(専修大学 東地中海地域の社会経済史),樋渡彩氏(法政大学 イタリア都市史),深見奈緒子氏(日本学術振興会カイロ研究連絡センター イスラーム建築史)にパネリストをお願いしております。テーマを「水」としたのも,実は丘の峰にそって造成されている南大沢キャンパスに多少関連しています。南側斜面に広がる「松木緑地」に雨水が十分に行き渡るように,舗装の目地を砂だけとする空目地にして水の浸透を妨げないようにしたり,建物などに降った雨水などを一度人口池に貯め
そこから緑地に流すようにしたり,環境に配慮した設計がされています。こうした水に関連した知恵や工夫が地中海世界をさまざまに彩っているのではないでしょうか。
ちょうど切りのよい40回大会を,皆様のお力添えをいただき,実りあるものとしたいと存じます。なお,「40周年記念大会」は来年,東京大学で開催することですでに検討・準備が始まっております。乞うご期待。
治療のための去勢
―6・7世紀コンスタンティノープルの医療事情― 紺谷 由紀
「去勢」という言葉からは,男性生殖器の切除のイメージが連想される。また特に去勢と強く結びつけられる「宦官」という言葉からは,中国の後宮に仕える役人の姿が想起されるかもしれない。しかしながら,後期ローマ帝国,ビザンツ帝国の宮廷において皇帝の寝室に仕える去勢者の存在が指摘される一方で,去勢行為は必ずしも宦官供給のための手段とは限らなかった。というのも皇帝ユスティニアヌス1世は558年の新勅法で帝国内の去勢行為に厳罰を科したが,その唯一の例外として病気治療のための去勢を許可し,手術を執刀した医師は罰を受けないと明言しているのである。だが,ここでの「治療のための去勢」とは一体何を指すのだろうか。
一つの手掛かりとなるのは,帝国の首都コンスタンティノープルにおける医師の存在である。6世紀末,トゥールのグレゴリウス『フランク史』第10巻15章では,医師レオヴァリスが,ポアティエの女子修道院で召使を務める「去勢者eunuchus」の過去について以下のように語っている。
「あの者は小さかったころに股間の病気に罹り,人人は彼がもう駄目だと思いはじめました。しかし彼の母が聖ラデグンディス様のもとへ行って,彼の面倒をみてほしいと頼みました。そこでラデグンディス様は私〔=レオヴァリス〕を呼び,できるならば何とか助けてやるように命じました。そこで私はかつて都市コンスタンティノープルで医師がやっているのを見たように,彼の睾丸を切除して,子供を治し悲しむ母に返してやりました。」
彼の言葉からは,コンスタンティノープルには睾丸の切除により治療を行う医師が存在し,その治療を受けた者が一種の去勢者と見なされていたことが示唆されるのである。
グレゴリウスの記述は,伝聞である上に,当該都市との地理的な隔たりを考えるならば信用に足るものとは言えないかもしれない。そこで,コンスタンティノープルとより深く結びついた史料,7世紀に成立したとされる『聖アルテミウスの奇跡譚』を見てみよう。この聖アルテミウスとは,生前は4世紀後半のエジプトの軍司令官であったとされ,その死については異論があるが,死後,殉教者として列せられている。そして,大岩に身体を押し潰されて拷問を受けたとの殉教者伝の記述から,彼は病気治癒,とりわけヘルニアを治癒する力を授かったと信じられ,彼の遺物が納められたコンスタンティノープルの洗礼者ヨハネ教会には,睾丸の疾患を中心とした様様な病気に悩む者たちが治癒の奇跡を求めて訪れたという。そしてまさにこの教会を舞台として,患者たちにもたらされた「奇跡」を収録したものが,『聖アルテミウスの奇跡譚』なのである。
収録された45の奇跡譚の内,ほとんどが類似の筋書きを辿る。ヘルニア等が原因で睾丸に深刻な問題を抱える病人が教会で眠っていると,夢の中に聖人が現れる。悩みを聞いた彼は患者に患部を見せるよう促すと,患部を切開あるいは強く握る。そして,その痛みに飛び起きた患者が患部を確認すると,病は完治しているというものである。
いずれのエピソードでも,最終的に病は癒され,患部も健康な状態に回復する。一見,実際の医療とは縁遠いように思われる『聖アルテミウスの奇跡譚』であるが,その端々からは,奇跡を期待する以外の選択肢として,医師による外科的な処置が想定されていたことも示唆される。つまりいくつかの事例では,教会に赴く前の段階として,病人が実際に治療を受けるべく医師のもとを訪ね,あるいは診察を受けるよう知人から勧められる場面が挿入されているが,そこで提案される治療法の一つとして,まさに睾丸の切除が挙げられているのである。残念ながら,奇跡譚の性質上,患者は手術に失敗して多くの男性が命を落としていると主張し,その恐怖心から治療を拒否してしまうため,医師による手術が実際に描写されることはない。しかし興味深いことに,そうして聖人の治癒を求めて教会を訪れた患者の夢の中で,アルテミウスはしばしば医師に変装して姿を現し,手にしたメスで患部を切開したり,睾丸を切除することで治癒を行う様が語られているのである。夢の中の話とはいえ,このような聖人の姿こそ,当時の首都における医師の姿を反映していると言ってよいだろう。この奇跡譚は,コンスタンティノープルにおいて,ヘルニア等の睾丸の疾患に陥り,医師による治療に頼る者がいたこと,そして時に彼らが睾丸の切除による「治療のための去勢」を受けたことを明らかにしているのである。
ユスティニアヌス1世治世より前の状況に関しては推測に頼らざるを得ないが,これらの治療法が既に6世紀初頭にも知られていたことは十分考えられる。そしてそのような首都の医療事情が,皇帝の勅法に反映され,「治療のための去勢」に関する新たな規定を促したのではないだろうか。
トルコ,民謡,そして「ドゥイグ」
濱崎 友絵
トルコでは民謡は今なお人々の生活に溶け込み,生命力を保ち続けている。その理由をあらためて考えさせられる体験をした。
2016年3月,イスタンブルのファーティヒ区のスルクレ芸術アカデミーを訪れた。トルコ民謡の授業を見学させてもらうためである。教室ではホジャ(先生)がバーラマ(長い棹をもつリュート属の撥弦楽器)を抱えて少し高くなった檀上の椅子に腰をかけ,生徒と向かい合っている。生徒といっても年齢は40代から50代を中心に男女合わせて30名ほど。ホジャはよく通る低い声で皆にあいさつし,指のウォーミングアップのためか,私が知るトルコ民謡《白を着るな埃がつく》の一節をバーラマで弾きはじめ,私に突然歌えと命じた。私がおずおずと歌いだすと,周りの生徒たちが口々に「聞こえない」「声が細すぎる」と声を上げはじめた。突然の訪問であるから,こちらが文句を言える筋合いではないが,手きびしい歓迎にしばらく落ち込んだ。
時刻は18時を回り授業が開始された。まず五線譜が一枚配られる。トルコ・ラジオ・テレビ協会(TRT)が編纂したトルコ民謡集からコピーされたものだ。トルコ民謡は,世代を超えて人々の生活に寄り添い,人生の機微を表す音楽として口頭で伝承されてきたのだが,共和国成立以降は民謡の五線譜化事業が推し進められ,広く楽譜が使用されるようになっている。ホジャが声を張り上げ,これから歌う民謡が,エーゲ海沿岸地方の勇壮な舞踊ジャンルでもある「ゼイベキ」であることを説明する。ホジャが一フレーズ歌うと,われわれは全員声を合わせて彼の歌い方を真似る。繰り返し,繰り返し,そして次のフレーズへ。一通り,全員歌えるようになったとホジャが判断すると,今度は「誰か歌いたい者は?」と問いかけ,手を挙げた生徒から一人ずつ歌わせ,その都度,節回しなどを指導していく。
突然ホジャと目が合い,私にまたもや歌えと命じてきた。固辞するも聞き入れてもらえない。ええいままよと,声を張る。歌い終わると,突然わっと拍手が沸き起こった。「ギュゼル(上手)」という声が聞こえる。ホジャが言う。「私が教えた通り歌えている。ミスがない。ギュゼル」。こんな歌でほめられてしまった。耳が赤くなる。
続いてトルコ東部ヴァンの民謡《恋人が来る》の楽譜が配られた。またもや同じように一フレーズずつホジャが口頭で歌い,われわれは真似をし,一人ずつ希望者がバーラマを伴奏に歌っていく。5名ほどがソロで歌った後だっただろうか,ある中老の女性が歌いだした。声に強さはないが,バーラマの響きに寄り沿うように,たおやかな歌声が響いていく。皆静かに,聞き耳を立てている。彼女が歌い終わると,ホジャが「…ドゥイグル」とつぶやいたようだった。そして今度は全員に聞こえるようにこう言った。「トルコ民謡の“ドゥイグ”を見事に表現した。すばらしい! 祝福する」。
「感情」や「感覚」を意味する「ドゥイグ」。ホジャはこの言葉を使って最大限の賛辞を彼女に贈った。そうなのである。民謡を歌ったり聴いたりするときに人々がもっとも求めることは,歌手が上手いかどうか,あるいはその演奏が美しいかどうか,つまり「ギュゼル」であるかどうかではない。自分の心に共鳴し得るかどうか,ある感情や記憶,言語化されえない香りや記憶といった不定形な思いが音楽とともに自分に訪れるかどうかが重要なのだ。音楽に感情や感覚,もっと言えば「心」が宿っているかどうか。その思いをくみ取り,自身の心が共鳴できたかどうか。「ドゥイグル」という言葉,これはドゥイグが備わっていることを意味するが,彼女の歌声がトルコ民謡の心を体現し,さらにホジャ自身の心に響いたからこそ発せられた言葉であったのだ。たしかに私はミスなく歌ったかもしれない。しかし私の歌は自身の心を震わせることもなく,また聴き手の感情に訴えかけることもなかった。だからこそ私の歌はドゥイグという言葉を用いて評されることがなかったのである。
昨秋に開校したばかりのこのスルクレ芸術アカデミーが建つスルクレは,テオドシウスの城壁に沿って形成された歴史地区で,ロマの人々が数世紀にわたって住み続けてきた地でもある。しかし現在は,イスタンブル市をはじめとする行政が主導する都市再開発プロジェクトで一帯がすべて取り壊され,富裕層を対象にした新興住宅街へと変貌を遂げた。
時代が変わり,住む人々が変わり,風景が変わり,土地の記憶も変わっていく。しかし私が見たのは,ドゥイグという言葉とともに,人々の血肉となって生き続けているトルコ民謡の姿であった。アナトリアの大地で連綿と受け継がれてきた人々の記憶や感覚を呼び起こし,心に共振をもたらすもの。トルコ民謡のドゥイグは,今もなお歌の響きの中に息づき,これからも人と人とを結びつけていくのであろう。
現代ギリシア「エリニコティタ」の探訪
木戸 雅子
昨年の夏,ギリシアの女性アーティスト,ヴァナ・クセヌのエヴィア島にあるアトリエを訪問した。それはテサリア地方の東に沿う大きな島のほぼ中央,リムニ村にあった。この地方はマグネサイトの鉱脈で知られ,この村でも1890年代から1980年代まで採掘と精錬が行われていた。山から原石を採掘して浜辺の溶鉱炉で精錬し,直接船で運び出していたという。廃業後浜辺沿いに石積みの工場や溶鉱炉の煙突などが残っていた。ヴァナは建築家であり音楽家の夫とともに,この工場跡地を手に入れ,20年以上かけてアトリエや住居に改築してきた。今では,敷地の中央に並ぶ二棟の工場がアトリエと住居になり,周囲の松林に点在する壊れた建築構造物の間には,ヴァナの素朴で荒削りの作品が置かれている。松の巨木と石造りの廃墟が作品と良く調和している。敷地全体がヴァナの世界観を表現する美術館のようだ。
ここ数年来,近現代ギリシア美術における伝統と創造に関する共同研究を進めてきた。ヴァナの作品を初めて見たのは,アテネの中心部の王宮公園で開催された「土地の魂 Η Ψυχ του Τπου」展(2010年)である。鬱蒼とした林の遊歩道を進むと,少し開けた処に大地を歩む人々の上半身像が地面を這うように列を連ねている。また突然,天を突くかのような15~16mもある垂直に立つ柱が出現する。その頂点には両手を広げて飛ぶ女性像。また世界の軸を表すという10m以上あるファロスを思わせる鉄の柱が地面から斜めに突き出ている。国立公園でこのような個人の展示が許可されたのは初めてという。ギリシアでのヴァナへの評価が伺えよう。私は深い森のような公園の地面から立ち昇る自然の霊気と,遊歩道に出現するごろりとした彫刻作品が作り出す世界に圧倒されてしまった。
この展覧会はパリのパレ・ロワヤルの庭園でも「到来と往来arrive et passage」と題して行われたが,もともとギリシアのエレフシナの工場の廃墟で行われた,古代エレフシスの秘儀をテーマにしたインスタレーションの再現であった。ペルセフォネ,デメテル,ヘカテ,天と地を行き交う世界の軸などをモチーフに,神話の死と再生,母と娘,愛などを主題にしている。ヴァナは初期から少女,女,母という女性作家としての自己表現にこだわった制作をしていたが,次第にギリシア人として,あるいはキリスト教徒としてのアイデンティティの追求へと向かってゆく。辿り着いたのがエレフシスだった。古代ギリシアの秘儀の神域にやってくる信者の浄めの井戸にはキリスト教の洗礼が重なり,死と再生の神話はキリスト教の死と復活に変容する。ヴァナはここに女性として,キリスト教徒として,そして古代ギリシアを継承するギリシア人としてのアイデンティティのトポスを見出したのである。彼女にとって土地に生き続ける魂,地霊を視覚化することこそが自らのアイデンティティの表出だった。
近現代ギリシアは独立後「ギリシアとは何か」と自らのエリニコティタ(ギリシアらしさ)を常に問い続けてきた。忘れていた古代ギリシア文化を自らの祖先としてヨーロッパから学び,ヨーロッパの一員であることの根拠を手に入れた。しかし西欧から手渡された古代ギリシアと彼らの間には大きな空白があった。その空白はビザンティン帝国の伝統で埋められる。そもそも独立時の「ギリシア人」の条件は,母語をギリシア語としギリシア正教徒であることだった。アイデンティティの探求は両大戦間期の民族意識の台頭に呼応して,ギリシアでも1930年代にピークを迎える。いわゆる「30年世代」の画家たちはビザンティン美術への回帰を選択する。古典古代か,ビザンティンか。「エリニコティタ」は芸術家たちの主要テーマとなった。ヴァナの作品もその一つの答えである。アイデンティティの問題は新しく生まれた国家に共通して存在するものだが,ギリシアの場合,自らの過去を西欧経由で学んだという捻じれが問題を複雑にしている。
ヴァナのアトリエの庭には野外劇場まである。今回はここで開かれる夏のコンサートに招待されたのである。チェンバロ奏者のマルケロス・フリシコプロスが率いるラティニタス・ノストラというグループは,ギリシアの民族音楽と西欧の音楽を融合させて新しい音楽を生み出す意欲的な活動をしている。その晩はバロックの宗教音楽「哀悼」と,息子の遺体の埋葬を歌うレベティカというギリシア民族音楽の曲を,交互に歌と古楽器で演奏し続けるものだった。体の芯まで響くような哀愁に満ちた曲を聞きながら,音楽でもまた「エリニコティタ」が追い求められていると実感した。ヴァナが作品で呼び起こす地霊のトポスにこれ以上相応しい音楽はないだろう。洗練された美術館のようなアトリエや作家活動の規模の大きさは日本人の想像を超えている。ここが物質的にも精神的にもあまりにも豊か過ぎて,ギリシア理解は本当に一筋縄ではいかないとまた思わされた夏だった。
自著を語る79
『オスマン朝の食糧危機と穀物供給―16世紀後半の東地中海世界』
山川出版社 2015年11月 312頁 5,000円+税 澤井 一彰
今から20年ほど前の冬,雪の降り積もるイスタンブルに初めて足を踏み入れた日の記憶が,まるで昨日のことのように思い起こされる。そもそも中東のトルコに雪など降らないと決めこんでいた私は,今は国内線用に格下げされてしまったアタテュルク国際空港の古いターミナルに到着早々,あまりの寒さに度肝を抜かれた。強烈な寒さの原因は,その時に滞在した安ホテルの建付けの悪さのせいばかりではなかったはずである。それから降り続く大雪のなか,不確かな地図を片手に迷いながらトルコ語学校を探し歩いたことも,ようやく見つけた学校の初日にもかかわらず,英語の通じない銀行に一人で授業料を払い込みに行かされたことも,トルコ語の授業のはずなのになぜかトルコ語でトルコ語の文法を学んだことも,今となってはすべていい思い出である。
その数年後,平和中島財団から奨学金をいただき,博士論文の史料収集のためにイスタンブルに長く滞在する機会を得た。ただし,その時のイスタンブルの状況も,基本的には最初に訪れた時と大きく変っていなかった。観光地の真ん中にあった文書館の古い閲覧室は,冬になると暗くて薄ら寒かった。一方で,トルコで出会った人たちの明るさと温かさは,そうした暗さや寒さを忘れさせるものだった。親切な文書館員たちや,研究にも遊びにも熱心な世界各地から集まった若手研究者たちとの交流は,留学生活を楽しく有意義なものにしてくれた。この時の貴重な経験の数々が,私の研究の基礎を形作っていることは,あらためて述べるまでもない。
2016年の現在,古い文書館の建物は立派なホテルに改装されて,当の文書館は郊外に造られたピカピカの巨大施設に移転してしまった。その閲覧室の机にはパソコンが据え付けられ,デジタル化された16世紀の史料の実物は手にすること自体が難しくなった。そこで作業する若いトルコ人大学院生に,当時のイスタンブルは停電や断水がしょっちゅうあったとか,高いインフレ率のためにドルを少しずつ両替して生活していたとか,留学中の最高額紙幣は20,000,000トルコリラ札だったとか言っても,俄かに信じてはもらえないだろう。それほど,この10数年の間にトルコは大きく変化した。
本書は,私のトルコでのこうした長い「格闘」の末に生み出された成果の一部である。トルコでの格闘は,経済情勢の好転やインフラ整備の進展によって様々な環境が改善しつつある現在でも続いているし,今後も続くだろう。一方で,必死でもがいているうちに,いつしか私の心の中に妙な愛着のようなものが芽生えたことも事実である。本書では,史料が語るところを語るように,あくまで実証的な記述を心掛けた。しかし一方で,その根底にはトルコとその歴史的前身であるオスマン朝に対する,私のある種の思い入れが存在していることもまた否定はできない。あるいは既に本書を手にしていただいた方々は,そのことを感じておられるかもしれない。
本書の目的のひとつは,気候の寒冷化と慢性的な食糧不足という16世紀後半の危機的状況に焦点を絞ることによって,当時のオスマン朝社会の実像を一次史料からあぶり出すことにあった。ただ,私の能力の限界や史料的な制約から,その目的を十分に達することができたとはなかなか言い切れない。とくに,オスマン朝の官僚組織によって作成された「公的史料」を主として用いたために,当時の市井の人々の生活の様を十分に描き出すことは難しかった。これについては,今後の研究生活における大きな課題としたい。
本書の目的のいまひとつは,フェルナン・ブローデルが大著『地中海』で描き切ることができなかった16世紀後半における地中海世界の東部の状況をあきらかにするというものであった。彼我の能力の差は言うに及ばず,第二次世界大戦中にドイツ軍の捕虜となり,慎ましい収容所生活のなかで執筆を続けた碩学ブローデルに対して,眠ることなき享楽の大都市イスタンブルに暮らした私とでは生活環境もまた違いすぎた,などとつまらぬ言い訳もしたくなる。ブローデルが使うことができなかったオスマン朝の豊富な史料を用いつつ,環境歴史学など新たな視点から地中海世界を捉えなおそうと試みてはみたものの,ブローデルの大きな背中はまだ遥か遠くにあるように思われる。せめて穀物という日常生活に不可欠な最重要物資の流通や消費については,新たな貢献ができたのではないかと今は自らを慰めるばかりである。
最後に,今後の展望に若干触れつつ,この小文を終えたい。本書のもととなった学位論文によって博士号を得てから一年を経ずして,東日本大震災が発生した。その後,いくつかのプロジェクトからお声がけいただき,近年はもっぱらオスマン朝期のイスタンブルを事例にしつつ都市災害とそこからの復興の実態についての調査を行っている。イスタンブルという稀有の都市がもつ魅力に惹きつけられながら,今後も研究を続けていきたい。
表紙説明 地中海世界の〈道具〉16
フォーク/末永 航
カトラリーと呼ばれるナイフ,スプーン,フォークは,西洋式の食事の道具として世界中で使われている。格別地中海独特のものがあるわけではないが,この三つの中でフォークだけはずっと後になって加わったもので,特にヨーロッパ北部で一般的になったのは遅く,しばらくは地中海の国々から伝わった奇妙な道具として扱われていたという歴史がある。
フォークの語源になったのはラテン語のfurca(熊手)で,今のイタリア語では干し草に使う熊手をフォルカ(forca),食卓のフォークは縮小辞をつけてフォルケッタ(forchetta)と呼ぶ。肉を押さえるために厨房で使う主に二叉のものはかなり古くからいろいろな所にあったようだが,食事に使うフォークは8・9世紀のペルシャに現れ,やがてビザンツ世界に伝わったらしい。
イタリアでは,11世紀ヴェネツィアのドージェ(統領)家に嫁いだビザンツ帝国の皇女が「手で料理に触れることをせず」,「先が二本に分かれた金のフォークで口に運んだ」ことが珍しげに書き残されていて,著者の僧侶聖ピエル・ダミアーニは,フォークは人間を軟弱にする悪魔的な堕落の道具だとして非難した。
それでもヨーロッパの地中海地域では,この後中世の間にフォークは徐々に普及していった。特にイタリアではニョッキやラザーニャなどが現れ,熱いパスタを食べるためにフォークが発達したとも考えられる。
フランスにはアラゴン王制下のカタルーニャから入ったという説もあるが,1533年,後のアンリ2世と結婚したメディチ家のカテリーナがイタリアから持ち込んだともされる。しかしほぼ100年後の,豪華な食事を見せつけたことで有名なルイ14世は,頑としてフォークを拒み,手づかみで,しかし優雅に肉を頬張ったという。
フォークはまず実用的な道具というより,洗練されたマナーのためのもので,反面では虚飾の象徴でもあった。手で食べることに愛着を感じる向きも長い間少なくなかったようなのである。
豆などを掬う,長いパスタを巻き付ける,という機能をもつ三叉,四叉のフォークがどこでいつ出現したのかはよくわからない。四叉誕生の逸話として有名なのは,1770年ナポリ・ブルボン王家のフェルディナンド4世が,屋台で手づかみで食べるのがこの街の名物になっていたスパゲッティを宮廷の正餐で出すように命じ,そのために絡めやすい四叉フォークが発明されたというものだが,実際はそれ以前からさまざまな場所で工夫して使われていたようだ。
インドや東南アジアの米食地帯では,左手にフォーク,右手にスプーンという形で洋式食器を取り入れたのに,日本で右手にナイフを持つのは,粘りけのあるジャポニカ米のご飯ならフォークでも何とか食べられるからだろう。しかし今でもインド人が手食を止めず,ヨーロッパでもパンだけは手で食べる訳は,触覚で知る一種の味覚が捨てきれないからかもしれない。
フォークは人と食物を冷たい金属で引き離す「文明の利器」でもある。
表紙は,二叉フォークを使った食事を描いた早い例。 ラバヌス・マウルス『世界について』の彩色挿画 11世紀初頭 モンテ・カッシーノ修道院(ms Casin 132 f.515)。