2016年1月,386号
目次
学会からのお知らせ
「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
地中海学会では第21回「地中海学会ヘレンド賞」(第20回受賞者:水野千依氏,山本成生氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第40回大会において行う予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求下さい。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2016年1月7日(木)~2月10日(水)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。
第40回地中海学会大会
第40回地中海学会大会を2016年6月18日,19日(土,日)の二日間,首都大学東京(八王子市南大沢1-1)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は2月10日(水)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。
2月研究会
下記の通り研究会を開催します。
テーマ:フランチェスコ・ボッロミーニによる
『オプス・アルキテクトニクム』とオラトリオ
会の建築計画
発表者:岩谷 洋子氏
日 時:2月20日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階215教室
参加費:会員は無料,一般は500円
ローマ・バロック期の中心的な建築家フランチェスコ・ボッロミーニの建築書『オプス・アルキテクトニクム』について,基本史料を紹介し,その研究史を概観する。また,その主題であるオラトリオ会の建築を,ボッロミーニによる他の建築と計画時期やデザインについて照合し,その設計過程を読み取っていく。さらに,修道会としてのオラトリオ会自体の特徴を考慮しながら,その建築計画と建築書の構成・内容を考察する。
会費口座引落について
会費の口座引落にご協力をお願いします(2016年度から適用します)。
会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報384号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月19日(金)です。ご協力をお願い致します。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。
会費納入のお願い
今年度会費を未納の方には振込用紙を月報384号に同封してお送りしました。至急お振込み下さいますようお願いします。ご不明のある方,学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へご連絡下さい。
会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313
研究会要旨
ヴェネトの丘陵地帯における居住と生産の領域
―ソアヴェのテリトーリオ― 赤松 加寿江 7月18日/東京大学
1483年ヴェネツィア共和国の政治家マリン・サヌードは内陸領土(テッラフェルマ)の観察記録を残している。地理条件と人間の営為活動をつぶさにとらえたその描写は,当時のテッラフェルマの様子を知る貴重な史料となっている。そのサヌードが城をもつ土地としてマロスティカと並べてとりあげたのがソアヴェである。
ソアヴェはヴェローナの東20キロ,丘陵に立地する城塞都市である。L.モスカルドによればソアヴェにおける城の建設は934年だが,G.M. ヴァラニーニによると,城建設以降のソアヴェの都市化の証拠を残すスカラ家支配当時の史料は消失され,コムーネとしての確立を示す史料はない。中世ソアヴェ周辺にはヴェローナや在地領主ボニファツィオ家,ヴィラノーヴァ修道院といった多様なヘゲモニーが渦を巻く不安定な地域構造であったことも史料から確認できる。
つまりソアヴェは強い境界性と象徴性をしめす城塞をもちながらも,明確な自治共同体を形成することなく,周辺権力に依存し翻弄されてきた城塞都市の一類型である。疎としかいいようのない空洞な都市空間に象徴されるように,ソアヴェの都市構造も社会も,常に都市外部から設定されてきたのである。その一方で周辺に豊かな生産領域をはぐくんできたソアヴェは,居住をなりたたせる空間と社会のしくみを領域(テリトーリオ)の構造から考察する領域史研究の格好の素材といえる。山と平地の中間である丘陵地帯に立地することも,テッラフェルマの境界領域を問う上で重要な論点を提示している。そこで本発表はソアヴェの居住と生産を領域史的視点から再読することを試みた。
ソアヴェの都市空間が物理的に空洞であることは,城塞都市として初期的に求められたものだった。1276年にはヴェローナ市民の駐屯義務地として,1299年には近隣村落の避難地として,1413年にはヴェネツィアもソアヴェを周辺領域の避難地として設定している。ソアヴェは周辺地域の避難空間として機能することが求められていたことはたしかだ。
それではソアヴェの存在意義は防衛のためだけだったのだろうか。ソアヴェの中世遺構は,城と城壁のほかにパラッツォ・ディ・ジュスティツィアとパラッツォ・カヴァリエリしかない。興味深いのはパラッツォ・ディ・ジュスティツィアで,1375年1月16日,カンシニョーリオ・デッラ・スカラが建設の決定をしている。しかし碑文によれば,建設費用はスカラ家ではなく実際にこの法廷を利用する22のパエーゼの負担でまかなわれることが求められ,共同出資によって建設がなされた。このことはソアヴェが地域社会の司法の場であったことを示すと同時に,ここが周辺地域にひらかれた一種の会所として,地域の社会基盤としての役割をもっていたことを意味する。空間的にも社会的にも,ソアヴェの存在は周辺領域の安全や司法を支えるインフラとして位置づけられていたといってよいだろう。
視線を都市の外にうつすと,周辺の水資源や土地は13世紀の段階からヴェローナ貴族,在地領主,修道院によって所有されていた。16世紀以降の灌漑用水,泉,堀の建設に関係する記録においても,ソアヴェ住民の存在はきわめて薄く,ヴェネツィアやヴェローナの貴族のヘゲモニーが色濃い。丘陵の大部分はリベッロ(永代土地借地権)の付いた小規模地片が特徴的である一方で,大規模な土地集積を行った家系もみいだされた。そのひとつがアルベルティ家である。筆者はソアヴェ北のカステルチェリーノに残るアルベルティ家由来の建物実測と敷地調査を行った。建物はヴィラに先行した領主の館といえるもので,搾油設備とカンティーナを備えた生産設備付の住居形態で,敷地には2箇所の水源,採石場,ロッコロ(鳥狩猟装置)が含まれていた。広大な敷地は長年にわたる土地集積の結果であることも判明した。敷地の大きさはソアヴェの都市面積に匹敵するものであり,ブドウとオリーブ栽培のための土地利用はソアヴェ丘陵に特徴的な景観を形作っている。敷地内に含まれる石灰岩と玄武岩という土壌地質の違いが,土地利用と生産形態に違いを作り出していることもみいだされた。土地所有と居住と生産形態は類型的な分析の可能性を残しており,都市内外の土地所有,土地利用の復元をつうじて,さらなる研究分析を進めたいと考えている。
研究途上の本発表について研究会では多くの示唆をいただき心より感謝している。サヌードが都市とは呼ばず,「城をもつ心地よい土地」と描写したとおり,ソアヴェという土地を領域史の視線からひきつづき考察していきたい。それをつうじて空洞な空間構造をなりたたせていた複雑な居住と生産の領域のすがたを浮かび上がらせていきたいと考えている。
リグーリア領域史
―ヴェンティミリア― 野口 昌夫
リグーリア最西端にあるヴェンティミリアは,ロイア川とネルヴィア川を遡る道と海岸沿いの道が交差する地点にあり,谷をはさむ尾根はアルプスの分水嶺に向かっている。この特殊な位置は何世紀にもわたり,ヴェンティミリアの都市の形成と発展を決定付けてきた。
一方,フランスとの国境に隣接していることも,社会経済的面で大きな重荷を背負う要因になってきた。1951年の15,445から今日の26,400へと人口が増加したのは,南フランスからの大規模な移民を受け入れてきたからだ。その結果,膨大な労働者,大規模な商業構造が出現し,辺境の都市としての特殊な役割を果たしてきたのである。
現在,都市は全く異質の二つの中心によって二極化されているが,行政上は一つの都市になっている。一方は,ヴェンティミリア・アルタでロイア川の右岸の丘上にある城砦都市部分,他方は,ヴェンティミリア・バッサで,ロイア川とネルヴィア川にはさまれた平地に広がった都市部分である。前者は何世紀にもわたって積層されて発展してきた痕跡が残されているが,後者はわずか100年の間に急激に都市化とリゾート地化が進んだ結果の産物である。
バッサにあったリグーリア人の居住核と古代ローマ植民都市アルビンティミリウムは,数多くの発掘による遺物が収集されてきたにもかかわらず,カストゥルム(格子状道路網)の位置を特定することはできていない。ここでは帝政期の劇場跡のみがその栄華を伝えているが,残念ながら現在は道路会社と貨物駅の間に取り残され,周辺環境から切り離されてしまっている。
アルビンティミリウムは,紀元後1世紀には繁栄するローマ植民都市に発展し2世紀にはその劇場が建設されたが,その後4,5世紀から衰退が始まった。中世初期では,蛮族の襲撃に対する防衛力が弱いロイア川とネルヴィア川の間の平地では人口が減少し,人々は安全を求めてロイア川右岸の丘上に移り住んだからである。その結果としてリグーリア海と並行するユリウス・アウグストゥス街道沿いの古代ローマ都市域は徐々に放棄されていった。
6世紀頃までは,平地の古代のアルビンティミリウムと丘上のカーヴォと呼ばれる地区に中世初期に発生し居住核が併存していたが,その後は後者が中世都市に発展していく。10世紀になるとようやくチッタ・アルタとして都市が形成されカーヴォに政治拠点,司教の拠点と大聖堂が築かれた。紀元1000年頃,ヴェンティミリアは司教座に加えて伯の拠点となり,領地内の数多くの小都市を含む広大な地域と海岸地帯を統括した。
こうしてヴェンティミリアはローマからフランスへの街道,ピエモンテの盆地とリグーリア海岸を結ぶ峠のルート,そしてロイア川の河口での船舶の収容と管理を通して,内陸の農業・畜産経済の生産物と海洋小都市に入ってくる海外からの商品との交換による,商業の一大中心地を形成していくことになったのである。
ヴェンティミリアの衰退は13世紀に遡るとされ,それは領土を拡大するジェノヴァ共和国の標的となったためである。二つのカステッロを建設して1222年のジェノヴァによる包囲戦に対抗したが,ロイア川河口の水門が塞がれ,川沿いの市壁は破壊された。繰り返される包囲と1261年のアイクス条約によって,プロヴァンス伯とともに領土を失い,後背地からは切り離されて国境警備の都市としての役割を与えられることになる。
1528年の市壁再建の際に,例外的に道路が拡幅され今日に至っているが,1500年から1600年にかけてジェノヴァ共和国の官吏が編集した報告書には,ヴェンティミリアは衰退が進行していると記されている。特にロイア川はすでに川筋を変えて市壁からは遠く離れ,居住地区の足元は非衛生な湿地になってしまっていた。
それにもかかわらず,有力家のパラッツォや宗教建築は新たに改築され,庶民の小さな家屋とは対照的に,階を重ねてそびえていた。これはその時代の典型的な現象であり,ある意味で閉じられた寡頭政治における自己表明だった。その一方で地代と家賃は引き上げられて不動産所有者は潤い,庶民の居住地区の衛生状態はさらに悪化していったのである。
この時期の人口は約6,400とされている。ピアッツァ地区のパラッツォ群の丘に向けた正面は,背後の海側の庭園と二階レベルの通路でつながれていた。この建築形式は内部空間における動線に配慮したもので,ジェノヴァのストラーダ・ヌオヴァによく似ている。このシステムはリグーリア西部ではこのヴェンティミリア特有の現象であり,当時の有力家のジェノヴァへの憧れとステイタスの表明に他ならない。
ピーター・ブリューゲル(父)作《12カ月図》
平岡 洋子
ここ6年ほど,ピーター・ブリューゲル(父)の6枚連作《12カ月図》研究に取り組んでいる。いくつか新たに発見した事があり,それに基づく新たな解釈を試みている。そしてそれを国際学会で発表してきた。ニュルンベルクとボストン大学だ。又毎年ブリュッセルに行き,私の意見と発見についてブリュッセル自由大学のマルテンス教授と意見を交わしてきた。「これは面白い」と両者ともに身を乗り出し,「その見方からすればこれはこうなるんだね」と言葉を交わしあった。専門家と研究について熱を帯びて話すのは人生の大きな喜びの一つだ。彼とのどの会話を思い出しても良い思い出を重ねてきたなとつくづく思う。国際学会での反応も楽しく,マルテンスとの会話共々至福の時だった。
現在,本作品に関する100年以上にわたる研究史を見直している。その時々に矛盾や合点のいかない点についてそれぞれの研究者が推測による解答を出している。そもそも連作画は6枚構成だったのか12枚だったのか,テーマは《12カ月図》なのか《季節画》なのかが問われてきたが,私は6枚構成で《12カ月図》としている。本にして出版したいと思い執筆中なので,私の解釈の根拠や各研究者の意見の詳細はそちらに譲りたい。
本作品はアントウェルペンのニクラース・ヨンゲリンクの注文で1565年に完成し,彼のヴィラに所蔵された。彼は他にもヴィラに,フランス・フロリスのイタリア主題の絵画とブリューゲルの他の作品数点,デューラーの一点,ジャック・ヨンゲリンクの7惑星の彫像コレクションを持っていた。同1565年(今日の暦では1566年)の2月21日の日付で,ヨンゲリンクは絵画コレクションを,アントウェルペン市に担保として差し出した。ワイン業者ブライネの税支払いの保証人となったためだ。その後アントウェルペン市は,1594年のネーデルラント総督エルンスト大公のアントウェルペン市入市の折に,本連作画とタピスリーを贈っている。連作画は,市に取り上げられていたのだろう。完成後間もなく本作品がヨンゲリンクのヴィラを離れたのかと思うと残念だ。
しかし当時は,公的には新年は復活祭から始まったので,2月は年末である。完成後すぐにアントウェルペン市に取られたということはない。しかも,1594年のアントウェルペン市の出納帳に,タピスリーと本連作画を購入した記録がある。さらにそれ以前の1570年のヨンゲリンク没後,彼のコレクションの売り立てがなされ,「いくつかは既に売れたがまだ残っている……」(1571年)というベニートの手紙がある。連作画は一度アントウェルペン市から返却され,ヨンゲリンク没後売り立てがなされ,1594年に再び市が購入してエルンスト大公に贈呈したのだろう。ヨンゲリンクが没するまでは,ヴィラにあったのだと思う。
本作品はイタリアのヴィラ装飾の壁画の代替物として,ヴィラ装飾を目的として注文されたものだろう。
ヴィラは当時,アントウェルペン市郊外に次々と建てられた。「悦びの家(別荘)」という呼称で登録されているアントウェルペン市の建築登録簿をみると,この種の建築が16世紀半ばから増えている。実際16世紀から17世紀に,田園生活に憧れそれを称揚し,田園生活こそが人間の理想だとするイタリアのヴィラッジャトゥーラ思想とともに導入され,ヴィラは,オランダ,英国,フランス,ドイツ語圏,南低地地方の各地に建設された。
ヨンゲリンクのヴィラがあったアントウェルペン市郊外のテル・ベーケについては,ヴィラ用地開発業者の名前が知られている。一人はアントウェルペン市都市改造を成したスホーンベケ,他はアントウェルペンの政治家とイタリア人デヴェロッパーである。この政治家の遺産リストに,田園生活を称揚する古典やイタリア・ルネサンス文学やフランス人の田園生活称揚の著書がある。これらの著書や手紙に,ヴィラ建設の理想的な環境として水に恵まれていること,街道沿いに位置しアクセスが容易で農産物運搬に便利なこと,ヴィラを中心とする風景が優れていることなどの条件が挙げられている。また往時からローマでは,ヴィラの美術品コレクションは訪れる人に公開するという慣習が生まれ,「庭園法」が存在した。これらの条件に合致すべくヨンゲリンクのヴィラ装飾は構想されたのではないか。
コンセプトの上でイタリアのヴィラをモデルとし,北方ヴァージョンとしてその地にふさわしい田園風景を舞台に農作業と各季節のイヴェントが描きこまれた本連作画には,アントウェルペン郊外のブラバントの農村風景とすばらしいアルプスの眺めを複合させた理想の風景画が描き出された。理想の田園生活を表した本連作画注文の意図を明示するため,デヴェロッパーとヨンゲリンクの人文主義的交友活動を具体的に捉えたい。
スペイン黄金世紀の静物画
―研究のこれまでとこれから― 豊田 唯
17世紀スペインの美術は,最近までエル・グレコ,ベラスケス,スルバラン,ムリーリョら,高名な画家の連鎖,あるいは共存として一面的に語られがちであった。確かに,彼らの画業はいわゆる「黄金世紀」美術の花形,かつ真髄であるに違いなく,それらを紡ぐかたちの歴史叙述は一つの揺るぎない正当性を具えるであろう。しかしながら一方で,たとえ巨匠の傑作でなくとも,当時の政治や宗教,社会の文脈においてそれぞれの美学のもとに練り上げられた絵画や彫刻には,相応の史的価値が等しく認められるべきであるように思われる。
事実,例えば,国王フェリペ3世の治世(1598~1621年)は20世紀末まで美術史的な洞察の対象と見なされてこなかった。つまり,片や国内外の美術家を動員してエル・エスコリアル修道院を建造し,ヴェネツィア派やフランドル派の秀作により王室絵画コレクションの礎を築いたフェリペ2世,片やベラスケスやルーベンスを召し抱え,ブエン・レティーロ宮の建造やエル・パルドの狩猟休憩塔の改築において大規模な美術装飾を展開したフェリペ4世に対し,フェリペ3世はルーベンス曰く「信じがたいほどに無能で怠慢な」宮廷画家に囲まれ,評価すべき美術を残せなかった谷間の君主として捉えられていたのである。しかし,この四半世紀余りにおける研究の広がりと深まりによりフェリペ3世期の美術は次第にヴェールをがれ,前後の時代を橋渡ししながらも,独自の美学を秘めたものとして再評価を受けつつある。(詳しくは,松原典子「フェリペ3世期の宮廷美術」『フェリペ3世のスペイン─その歴史的意義と評価を考える─』上智大学ヨーロッパ研究所研究叢書8,2015年,109~122頁)。
バロック期の新興ジャンルであった静物画についても,同様の転回を指摘できるであろう。スペイン黄金世紀の静物画は,長らくあたかもサンチェス・コターンとスルバランの二大画家に尽きるかのように紹介されてきた。しかし,彼らは確かに同時代の静物画家に決定的な影響を及ぼしながらも,みずからはあくまで宗教画を専門に据えていたし,また,その静物画も確かに「質朴」と「神秘」(シャルル・ステルラン)の極致であろうものの,作例そのものは僅かに残されているに過ぎない(スペイン静物画の研究史については,大髙保二郎「当代の“リュパログラフォス”ベラスケスのボデゴン─その生成,機能と受容,時代環境─」『プラド美術館所蔵 スペイン黄金世紀の静物画─ボデゴンの神秘──』長崎県美術館,2015年,16~26頁に詳しい)。
それに対し,この30年余りにおける研究の進展に基づけば,バロック期スペインの静物画はサンチェス・コターンやスルバランのみならず,フランドルやイタリアの流れも絶え間なく汲みつつ,王都マドリードを中心に一層の発展を遂げていたようである。つまり,17世紀のマドリードでは静物画専門の画家が相次いで現れ,不変のパトロンであった宮廷や教会,貴族だけでなく,より広範な人々からの需要の高まりを背景に多様な作品を提供していたらしいのである。彼らは,確かに大半がいわゆる「歴史画」の画家として名を遂げられなかった者であるものの,それぞれに自己の様式を確立し,場合によってはモティーフまで特化して独自の「静物画壇」を作り上げていた。なかでも,そのパイオニアであるフアン・バン・デル・アメンや花卉画のスペシャリストであるフアン・デ・アレリャーノは,大規模な工房を構え,大勢の追従者まで生み出した「大家」であった。また,マドリードに比べてマーケットこそ小さいながらも,セビーリャやバレンシアでもペドロ・デ・カンプロビン,トマース・イエペスらの静物画家が名声を博していた。
かくして17世紀スペインの静物画は,いまや過去のイメージよりも遥かに広大なジャンルとして捉えられ始めている。その全貌は今後も,研究の深化につれて一層,明瞭に浮かび上がっていくであろう。しかし,いくら宗教画に次いで多産なジャンルであったとはいえ,当時の静物画,および静物画家は一部を除いて後世に伝えるような価値を見出されていなかったため,その現存作例や記録は割合に少ない。また,一つのプロトタイプをもとに大量の工房作や模倣作が生み出されていたことを考えれば,これまで伝説の静物画家エル・ラブラドールの代表作と見なされてきた一連の「ブドウの絵画」のように,いつ各作品のアトリビューションに疑義が呈されたとしても不思議でなかろう(Á. Aterido and L. Alba, “Juan Fernández el Labrador, Miguel de Pret y la «construcción» de la naturaleza muerta,” Boletín del Museo del Prado, vol. 31, no. 49, 2013, pp. 34-53)。
これらの研究上の困難を乗り越えるには,なおも相当の時間を要するに違いない。しかし,スペイン黄金世紀の静物画全体への展望こそ,いまだに謎に包まれたサンチェス・コターンやスルバランの静謐な作品世界への扉を開く鍵であるように思われる。
自著を語る76
『イタリア建築紀行――ゲーテと旅する7つの都市』
平凡社 2015年3月 448頁 2,600円+税 渡辺 真弓
タイトルと副題を見れば,これはイタリアの7つの都市と建築について,ゲーテを水先案内人として語った本だと予想がつくことだろう。私の専門は西洋建築史だが,熱心にというよりは淡々と長年にわたって関わってきたイタリアの都市について,研究の余禄としてたまったさまざまな知見をまじえ,あまり専門に偏らない本を書きたいと思ったのが,執筆の動機である。
編集者との相談で最初に出たのは「イタリア7つの都市」という案で,建築や都市が中心だと堅くなるので,1つの都市ごとに誰か歴史上の人物を登場させて人間的な要素を加えたらどうかと打診された。しかし,そんなに都合よく7人も思いつかない。結局,ゲーテなら昔から親しんでいる上に『イタリア紀行』もよく引用してきたので,全編を通じて彼に登場してもらい,章立ても彼の旅程から借りることにしたのである。第1章から7章まで,ヴィチェンツァ,パドヴァ,ヴェネツィア,アッシージ,ローマ,ナポリ,パレルモの7都市を順にとりあげ,序章と終章でゲーテがイタリアに旅立つまでと,イタリアから戻って以後の生涯を要約して語った。
枠組を作れたのはありがたかったが,ゲーテがイタリアを旅したのはフランス革命前の1786年9月から1788年6月までである。現代まで射程に入れたい私としては,その時代にとらわれず,ゲーテが見なかったもの,見ようとしなかったもの(特に中世の教会など)にも言及したい。また,ゲーテの抗し難い魅力にあまりひきずられないよう,Con Goethe, ma non troppo (ゲーテと共に,でも度を超さずに)という呪文を唱え,自由を確保することに努めた。ゲーテと私,両方の視点から立体的に都市の歴史を眺めたいと考えたのである。
北から来たゲーテがまず好奇心をもって眺めたヴェネトの地(予兆はなかったものの崩壊11年前のヴェネツィア共和国)は,私にとって最も土地勘のある地域であり,彼が非常な関心を示した16世紀の建築家パラーディオはまさしく私の研究対象である。そのため,最初の3章はあとでだいぶ削ったほど書きたいことであふれた。そこまではかなりゆっくりした歩みのゲーテだったが,その後はローマをめざして急ぎ足になる。第4章はローマへと向かう道程に沿って語る形になったが,中心に据えたのは聖フランチェスコの都市アッシージである(ゲーテはまったく彼に関心を示さなかったが)。
フィレンツェに1章が与えられていないのはなぜかとよく訊かれるが,ゲーテはローマへと急ぐあまりフィレンツェは数時間であきらめたので,ここを飛ばす理由ができて幸いだった。フィレンツェを要領よく語るなどできそうにないからで,その分,第5章のローマに力を入れた。通常,西洋建築史でローマを扱うのは古代と盛期ルネサンスからバロックの時代だけであるが,この都市の起源から近代までを通して理解したいと思ったのだ。長くなりすぎないよう抑制しながら何とか書き終えた時には達成感すらあった。この本の中心はローマだと思い,表紙にもローマの絵を使ってもらった。
ところが,そのローマの章で仰天のミスが発生する。出版後,図5-46のサン・ロレンツォ・フオリ・レ・ムーラの写真が違うと指摘されたのである。2010年の9月初め,ローマの7つの教会のうちこれだけまだ見ていないと気づいてタクシーに乗ったことがあった。案内された教会はあまりに予想を超えた姿だったが,「爆撃で破壊されて再建された」という話をこの道30年という運転手が車中で語っていたため,こんなにすごく変わり果ててしまったのかと思っただけで疑わなかった。ところがそれは同じ地区の別の教会だったのだ。何という失態。晩夏のローマの暑さと旅の最終日の疲れで判断力が働かなかったのか,なぜかと考えても5年前のことで堂々めぐり,自分にとっては「ローマの怪」というような出来事となった。しかし冷静に見れば,違和感を持ったのにそれ以上調べなかった私に非がある。気に入らなかったものからはすぐ目をそらし,思考停止してしまう悪い癖を反省した(教えてくれたYさんありがとう)。
懺悔が入ったので,字数が残り少なくなった。ナポリの章については,2005年に初来日したサン・カルロ歌劇場の公演プログラムにナポリの都市と建築について一文を書く機会を与えられ四苦八苦して勉強したことが今回の役に立った。その後,ヴェネツィア建築大学の院生たち中心のナポリ研修旅行に参加した折,ナポリにはフランスのアンジュー家支配時代の名残でイタリアには珍しく本格的なゴシック建築が多いということもわかり,またゲーテの交友関係からレディー・ハミルトンの話なども加えることができた。シチリアは今回の本のために初めて旅行したが,地中海学会の会員諸氏の著訳書に大いに助けられた。7つの都市それぞれに違う体験や勉強ができたので,この本は自分にとって格別に意義深いものになったと深く感謝している。
表紙説明 地中海世界の〈道具〉12
カナカ(コーヒー沸かし器) /松田 俊道
日没の直前,父を除く家族が集まった。それは彼らのあいだでコーヒーの座として知られていた。そのために選ばれた場所は一階の居間で,…………母は真中の長椅子に腰をかけていた。彼女の前には大きな囲炉裏があり,コーヒーの沸かし器が灰をかぶった熾火に半分埋められていた。彼女の右には小卓があり,コーヒー・カップを並べた黄色い盆が置かれていた。(ナギーブ・マフフーズ著・塙治夫訳『張り出し窓の街 カイロ三部作1』)
これはナギーブ・マフフーズの代表作の一つで,カイロの古い街区に暮らす人々の生活をリアルに描いた作品のなかに登場する。コーヒー座でくつろいで過ごすある家族の団欒が生き生きと描かれている。その重要な装置がコーヒーを沸かす道具である。それはエジプトではカナカと呼ばれ,首の部分がくびれ,取っ手が付いたものである。カナカは様々な形のものがあるが,基本的な形は同じである。エジプトでは黒い木製の取っ手の付いたものを比較的良く見かける。地中海世界では,ジェズベ,ジェズバ,ジャズベなどと呼ばれている。銅や真鍮などの材質で作られている。また,カナカには,1人用,3人用,4人用などのサイズがある。首の部分がくびれて細くなっているのには理由がある。そのおかげで,小さいサイズのカナカで入れるとカップに注いだ時に,独特の美味しそうな泡がコーヒーの表面にできるからである。ただし,4人サイズ以上だと十分な泡ができない。
コーヒーを飲む文化が発展したのは,今からおよそ5世紀前に遡る。それはアラビア半島から中東,地中海世界にかけて広まり,数多くのブレンドの仕方,入れ方を生み出し,今日に至る。
カイロには,数多のコーヒー豆(ブンヌ)専門店があるが(イエメン豆だけの専門店もある),筆者のお気に入りの店は,シャーヒーンである。ここではカイロの人々がそれぞれ独自のブレンドの仕方(タフウィーガ)で注文し豆を挽いてもらっている。何も入れない豆だけの頼み方もあるが,一般的にはスパイスを入れて豆とともにトルコ・コーヒー用に挽いてもらう。筆者が好きなのは,ピスタチオ入りのものだ。その他には,カルダモン,ナツメグ,シナモンなどを入れる。ここ最近のことであるが,ヘーゼルナッツ,バニラ,チョコレート,カラメルなどの香りを付けたものも出回っている。しかし,カイロのコーヒー愛好家は,何も混ぜない純粋で(ファーテフ),強いものを好むようである。
カナカで入れるコーヒーには,飲み方がある。アホワ・サーダ(砂糖を入れない),アホワ・アッレア(砂糖を少々),アホワ・マノ(砂糖をスプーン1杯ちょっと),アホワ・マズブータ(ちょうど良い砂糖),アホワ・ゼヤーダ(砂糖を多く)などである。とりわけ,葬儀の際に列席者に振る舞われるものはほろ苦いアホワ・サーダである。また,シャーヒーンで買ってきたアホワを夜遅く飲むと覚醒して明け方近くまで眠れない。
カナカはエジプト人の家庭では,一家に一台はある日々使われるありふれた道具である。それはまた,その独特の形とともに長い歴史の中で生まれ,地中海世界で広く親しまれている道具なのである。