2015年9月,382号
目次
学会からのお知らせ
常任委員会
・第4回常任委員会
日 時:2015年4月18日(土)
会 場:東京大学
報告事項:第39回大会に関して/研究会に関して/企画講座に関して 他
審議事項:2014年度事業報告・決算に関して/2015年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して/城南島倉庫の段ボールに関して/連続講演会に関して/学会40周年記念事業に関して 他
・第5回常任委員会
日 時:2015年6月20日(土)
会 場:北海道大学
報告事項:研究会に関して 他
審議事項:第40回大会会場に関して/第39回大会役割分担に関して/役員改選に関して/学生会員の見直しに関して 他
訃報 4月24日,会員の近内トク子氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
地中海学会大会 地中海トーキング要旨
動物と人のかかわり
――地中海世界の文化とくらしにおける動物―― パネリスト:尾形希和子/近藤誠司/日向太郎/鈴木董(司会兼任)
今回の地中海トーキングでは,「動物と人とのかかわり──地中海世界の文化とくらしにおける動物」とのテーマの下に,畜牧体系学の専門家として,動物と人とのかかわりを,通時間的・通空間的に追求してきた,北海道大学の近藤誠司教授,西洋古典学,とりわけラテン文学のなかでもラテン詩を専門とする東京大学の日向太郎准教授,中世西欧美術史,とりわけイタリア美術史を専門とする沖縄県立芸術大学の尾形希和子教授,そして,イスラム世界史,とりわけオスマン帝国史を専門とする東京大学名誉教授の鈴木董の四名のパネラーが,各々の専門領域をベースとして話題を提供し,トーキングが展開された。
トーキングでは,まず,司会をかねる鈴木が,地中海世界における,相対的に自己完結的な大文化圏としての文化世界の配置につき,古典古代世界崩壊後の中世以降においては,ラテン文字世界としての西欧キリスト教世界,ギリシア・キリル文字世界としてのビザンツ世界,後の東欧正教世界,そしてアラビア文字世界としてのイスラム世界が並立しており,各々の文化世界における動物と人のかかわりのあり方には,地中海世界としての共通性もありながら,文化の相違による大きな差異性もまたみられるとの仮説を提示した。
その後,まず,第一パネラーとして,近藤教授が,原初以来の長い人類史のあゆみの中における人間による動物の利用と野生動物の家畜化の過程をたどり,農耕の開始とほぼ軌を一にして,動物の家畜化が始まり,まず羊,のち牛,かなり遅れて馬が家畜化され利用され始めたことを明らかとした。ついで,肉食が特徴的な地中海世界とは対照的に,肉食が禁ぜられてきたと思われがちな日本のケースを採り上げ,実は肉食の包括的な禁止は存在せず,実態においては,一方で家畜,他方では野生の鳥獣が広く食されてきたことを論じた。そして,肉食不可の社会としてのイメージが生じた原因として,明治維新以後の日本における「維新以前は未開で,文明開化とともに肉食が始まった」という言説が日本人の中に成立したことが大きいということを明らかとした。こうして,近藤教授は,動物と人とのかかわりにつき,家畜と人とのかかわりを中心に全人類史的な展望を示した後,通念と実態の乖離が転換期に生じうることを日本のケースで明らかとし,この乖離の原因が文明観の変化によることもありうるとのテーゼを示し,トーキングに,人類史的・比較文明史的な観点を提供した。
第二パネラーの日向准教授は,古典古代世界から,ラテン詩の大詩人ヴェルギリウスの『農耕詩』を採り上げ,その中の蜜蜂の再生術ブーゴニアについての言説を紹介・検討した。近藤教授によれば,養蚕・養蜂は畜産の内であるとのことであり,テーマは,大型の家畜・猟獣から,最も小さな家畜というべき蜜蜂に移った。日向准教授は,『農耕詩』中の,蜜蜂が消滅したとき,蜜蜂を新たに発生させて群を再生する法というブーゴニアにつき,牛を屠りその死体を一定条件下で放置することにより,蜜蜂を発生させ群を再生させるという奇妙な言説を,原文とともに詳細に紹介した。さらに,この言説が,古代ギリシアにまで遡る起源を有し,ビザンツ時代にまで継受されたことを,各言説間の異同をも含めて系統的かつ詳細なテキストの分析により明らかとした。ここでは,古典古代世界という一つの文化世界で,現実に対処するための処方についてさえ,現実的根拠を欠く言説が信じられ続けたというテーマが話題として提供された。
第三のパネラーとして,中世西欧美術史を専門とする尾形教授は,ロマネスク美術に現れる古代以来のモティーフでもあるピープルド・スクロールと同心円構図の宇宙誌的図像に含まれる動物たちをテーマとして採り上げ,ピープルド・スクロールでは,聖書の言説と関係づけつつ,鳥表象は,「天国としての樹木と,天の住人としての鳥」として,鳥を宿すパラダイスあるいは教会を表象したとした。これに対し,猛獣表象を含むピープルド・スクロールは,「危険や誘惑に満ちた世界」を表象したことを明らかとした。さらに,宇宙誌的図像においては,「ノアの神の祝福の言葉」,さらには,時間・コスモスの秩序を特定の動物像が表象していたことを示した。
第四パネラーの鈴木はイスラム世界史,特にオスマン帝国史を専門とし,イスラム世界の後半の歴史におけるイスラム的世界帝国というべき存在で,地中海世界の約四分の三を支配したオスマン帝国のケースを採り上げ,表象上と現実上の様々の動物と人のかかわりにつき,神話的霊鳥や龍のイメージから,遊牧騎馬民族としてのトルコ人の伝統と馬の多面的な利用,さらには食文化と動物質食材とのかかわりに至るまで,動物と人のかかわりの諸相を紹介した。これらパネラーの話題提供をふまえ,活発なトークが行われた。(鈴木董)
地中海学会大会 シンポジウム要旨
海のかなたへ
――移動と移住―― パネリスト:石井元章/工藤晶人/佐藤健太郎/師尾晶子 司会:太田敬子
2015年第39回地中海学会シンポジウムは,「海のかなたへ――――移動と移住」というテーマで,6月21日に北海道大学で行われた。海を越えた人の移動(移住・移民)と縁の深い土地柄である北海道において,このようなテーマでシンポジウムを開催することは,非常に有意義であっただけでなく,一般の参加者からも高い評価を受けた。シンポジウムの主旨は古来ダイナミックな人・物・情報の動きの場であった地中海をめぐる遠隔地への移住や移住に伴う文化の共有とその変容の大枠を捉えた上で,個々の事例によって詳細にその背景を探るというもので,パネリストとして,師尾晶子氏(千葉商科大学),佐藤健太郎氏(北海道大学),石井元章氏(大阪芸術大学),工藤晶人氏(学習院女子大学)からそれぞれ専門分野に関わる報告をいただき,司会は太田敬子(北海道大学)が担当した。師尾氏,佐藤氏,石井氏がそれぞれ30分の報告を行い,休憩を挟んで工藤氏の報告(30分)とパネルディスカッション,最後に会場の参加者を交えた質疑応答が行われた。
最初に師尾氏が,「古代ギリシアにおける移住と移民」というタイトルで,近年刊行された古代ギリシアのドドナ神託板の紹介によって明らかにされる移住者の決意や不安,移住の契機となった原因を,具体的事例を挙げて検討し,さらに移住者と移住先の先住民との関係と移住者コミュニティに関して,アテネを事例として報告がなされた。在留外国人は祭祀や葬送互助会的組織を介してアイデンティティを保持していた。その顕著な事例として,アテネに移住したミレトス人の墓碑の研究から,移住したミレトス人が婚姻関係などを通じてアテネ社会に統合されていく一方で,エフェボイ(壮丁)のトレーニングプログラムなどを介して「ミレトス人」のアイデンティティを保持していたことが報告された。
次の佐藤氏の報告「17世紀チュニジアのモリスコ」では,モリスコと呼ばれたスペイン(アンダルス)のムスリム住民の末裔で,16世紀初頭のキリスト教への強制改宗でキリスト教徒になったものの「新キリスト教徒」として信仰心を疑われ,17世紀初頭に国外追放となった人々の移住地での文化や思想が,チュニジアへの移住者に焦点を当てて詳細に紹介された。アラビア語で著述したモリスコ,スペイン語で著述活動を行ったモリスコ,両方の言語を架橋し,翻訳活動に従事したモリスコに関して具体的な事例が挙げられ,彼らの残した著作を通して,移住先であるチュニジア社会との距離感,ムスリムとしてのアイデンティティ,スペイン的文化への愛着やスペイン語使用の正当化,追放と移住のイスラーム的解釈など様々な角度からの分析がなされた。
石井氏は,「芸術の将来と発信 ヴェネツィアを例に」というテーマで,まず前半ではヴェネツィアの歴史を概括し,同市に影響を与えた様々な文化的要素,各地から到来し,同市で活躍した建築家・芸術家・職工などを時系列的に捉え,ヴェネツィアを基軸とした文化や人の流れが解説された。後半ではヴェネツィアと深い関わりを持った日本人画家川村清雄の活動を通して,地中海という枠組みを超えた「海のかなたへの」文化の伝播や移転,相互影響や相乗作用が実証的に報告された。
工藤氏の報告「サン・シモン主義者の改宗」では,19世紀初頭に南米ギュイアンヌで解放奴隷の女性とフランス人商人の庶子として生まれ,フランスで教育を受け,サン・シモン主義者となり,エジプトでイスラームに改宗し,アルジェリアで植民地行政に関わり,最後はキリスト教徒墓地に埋葬されたイスマイル・ユルバン(1812-1884)が取り上げられた。ユルバンの生涯とその政治・文化活動を通して,19世紀のアルジェリア,フランス,そしてエジプトを舞台として出現した,複数の宗教(キリスト教とイスラーム)の個人の内部における並存の事例が紹介された。
古代ギリシアから19世紀という長いタイムスパンを包括したシンポジウムであり,3つの報告は近世・近代の地中海世界に関するものであったが,海のかなたへと移動・移住した人々のアイデンティティ,彼らの心性や生き様が明らかにされた。また,移動・移住に伴う文化の共有・混交,あるいは相乗作用と変容の具体的事例が提出され,パネリスト間の議論,会場との質疑応答も含めて,「中間の場」としての地中海の役割が明らかにされた。(太田敬子)
研究会要旨
中世末期イタリア都市と奴隷
――フィレンツェとピサの事例から―― 濱野 敦史 4月18日/東京大学
中世末期のイタリアでは,交易によって持ち込まれた奴隷が利用されていた。トスカーナにおいては,1348年のペスト以降に奴隷の流入が増加したとされている。この現象は,人口減少による労働力の不足と関係があると考えられてきた。しかし,フィレンツェにおいて法令で奴隷利用が許可されたのは1360年代のことであり,そこには若干の時間差がある。
奴隷は非キリスト教徒であることが前提とされていたものの,購入された奴隷には洗礼が施されていた。このような矛盾に関して,フランコ・サッケッティやフィレンツェ大司教アントニーノは,洗礼を受けた奴隷を解放する必要がないことを主張している。
フィレンツェでは,1366年から1397年に奴隷の登録簿が作成され,そこには357人分の記録が残されている。この登録簿に記録された奴隷の圧倒的多数は女性であり(男性28人,女性329人),その年齢は30歳未満に集中している。すなわち,購入された奴隷は,一般に若い女性であった。奴隷の出身を見ると,記録に錯綜しているところがあるものの,タタールとされている奴隷が少なくとも270人いる。他に記録されている奴隷の出身は,ロシア,ギリシア,トルコ,ルーマニア,カフカス,ボスニア,スラヴォニア,アルバニアなどである。奴隷の多くは,黒海沿岸から,地中海を通してイタリアにもたらされていた。
トスカーナでは,奴隷が大規模に利用されていたわけではない。フィレンツェ共和国が支配していた地域では,1420年代において,フィレンツェとピサの都市だけがまとまった数の奴隷を利用していたが,どちらの都市でも奴隷が人口に占める割合は1パーセントに届かない。中世末期イタリアにおいて,ジェノヴァとヴェネツィアは奴隷をより積極的に利用していた。この二つの都市は海上交易の拠点であり,その点でフィレンツェは特殊な状況にあった。
1427年から1428年にかけてピサで作成された資産調査の記録は,奴隷所有の状況を把握可能にする重要な史料である。ピサにおいても,奴隷の多数は女性であり,家事をさせることが主要な利用目的であった。さらに,妊娠している女性奴隷がいるため,性的対象としても扱われていたようだ。
ピサで所有されていた奴隷の年齢は,フィレンツェの登録簿における年齢とは異なっており,30代を中心に20代から40代が多い。これは若くして購入された奴隷が,一定期間,主人のもとで労働力として利用され続けていたことを示している。奴隷は資産の一部として扱われており,多くの奴隷は40フィオリーノから70フィオリーノの価値があるとされている。奴隷と同様に家事を担当していた女性の使用人を雇うためには,年額9フィオリーノ前後の賃金を支払う必要があった。
奴隷には所有者の経済力や社会的地位をあらわすという役割も期待されていたようだ。世帯の資産規模と奴隷所有には強い関連性が認められる。とくに5,000フィオリーノ以上の資産があるピサの世帯においては,奴隷を利用することが一般化していた。また,判明する職業からは,所有者の多くが都市の経済や社会にとって重要な活動を担っていたことが確認できる。
奴隷は所有者によって解放されることがあった。フィレンツェで作成された備忘録や帳簿からは,解放にはいくつかの形式があったことがうかがわれる。その一つは,一定期間後に解放するというものであった。また,購入代金を返還することで解放されている奴隷もいる。この場合,奴隷は購入金額を返還するために,主人以外の人物のもとで労働し,そこで発生する対価が主人への返済に充てられている。所有者が奴隷に関する収支を帳簿に記録していることがあるが,これは購入代金が返還されたことをあきらかにするためのものだろう。ところで,解放された奴隷の状況はかならずしも大きく変化したわけではなく,主人のもとにとどまり,使用人になっていることもある。
奴隷に関する言説や証言は,奴隷の立場を考える際に示唆的である。フランチェスコ・ダ・バルベリーノによれば,女性奴隷に求められるものは女性使用人と類似しているという。両者が同様の仕事をしていたことは,このような主張からも確認できる。フィレンツェ大司教アントニーノによれば,奴隷とその主人はお互いに敬意を持つべきだとされる。実際,奴隷が比較的寛容な態度で扱われることも少なくなかったようだ。アントーニオ・プッチの詩では,女性奴隷の立場のよさが皮肉られている。また,アレッサンドラ・マチンギ・ストロッツィの書簡からは,奴隷が反抗的であったにもかかわらず,処分せずに家にとどめていたことがあきらかになる。
アプレイウスの即興演説
小島 和男
年度末と年度初めは憂鬱だ。人前で気の利いたそれなりのことを言わなければならない機会が,大変増えるからである。卒業式に始業式,それに伴うパーティーやガイダンス,はっきり言って私にはそんなに話すネタはない。正直,あまり話したくもない。生来,寡黙な性質なのである。しかし,周りの先生方はそういった話のうまい先生ばかりである。あまつさえ,話すのを好む先生も多い。そんな先生方に劣等感を抱きつつ,そのお話を拝聴し,自分の順番が回ってくると,緊張しつつ早口で適当に話して終わる。そして「小島君のあいさつはいつも短いねぇ」などと評されるのがお決まりのパターンである。とてもつらい。
きちんと原稿を準備していけばいいと思われる方もいるだろう。さすがにそのような知恵までなかったわけではない。だが,周りの先生方がお話しされている中で,私だけが原稿を読むのもなんだかカッコ悪いし気が引ける。原稿を空で語れるための記憶力はもう乏しく,そもそもその原稿の準備をする時間もきつい。
そんな私の苦手な即興の演説だが,それについてアプレイウスが語っている文章が残っている。この一連の文章は,『ソクラテスの神について(De deo Socratis)』の冒頭に付するべきか,『美文集(Florida)』の続きに置くべきなのか,問題含みの文章であるようだが,ともあれ,アプレイウスは,何か用意してきた演説を披露した後で,即興の演説を求められたようで,求めてきた聴衆に対してペラペラと話している。参考にしてみよう。
「もしみなさんが,即興で私に話をしてほしいなら,また前置きから話しますので悪しからず。というのは,準備して作ってきた演説をお褒めいただいた後ということで,準備もなしに語ってみるもの悪くはないかなと思っているところなのです。なぜなら,私はつまらないことにおいては気に入ってもらえるかどうかなんてどうだっていいからです。もうすでに重大なことにおいては喜んでもらえたわけですし。」
「つまらないことにおいては(in frivolis)」というのはちょっと強く訳しすぎかもしれない。それまでに話したことが重大なことで,話も終わっているので,追加で語ることはそれほどない,あまり重大なことは話さないけど,といったくらいのニュアンスであろう。ともあれ,これはその場のアプレイウスの事情であって,私には役に立ちそうもない。続きを読んでみよう。
「ともあれ,私という人物をまるっと調べ上げるために,この洗練できていない即興演説を使ってください。準備してきた私と,即興で語る私が同じかどうかを。……中略……しかしあなた方は,私が原稿を読み上げる時以上に好意をもって聞いてくれることでしょう。というのも,専門家同士でも,コツコツ時間をかけて作った作品に対しては評価がより厳しくなりがちですが,逆に,即興のものに対しては,より甘くなりがちだからです。」
アプレイウスの言うことはよくわかる。言ってみれば時間をかけて練り上げたものにたいしては言い訳がきかないということだ。即興だと「時間をかけたわけではないですし……」と言い訳がきくし,そのことを専門家同士は斟酌し合うというわけだ。
「というのは,あなた方は,書かれたものはよく品定めし,審査しますが,一方,即興のものはある程度聞き流し,まずいところがあっても大目に見てしまいがちですから。でもこれはいけないことではありません。というのは,書かれたものはすでにそれに対してあなた方が何か言う余地のないものですが,こういった即興演説はいわばあなた方とともに生み出すものであるわけでして,あなた方が反応してくれて好意を示してくれることで,出来上がっていくのです。」
「書かれたものは~」のフレーズはプラトン『パイドロス』274C以下を彷彿とさせるが,即興演説については,聴衆におもねって言っているようにも聞こえる。まあしかし,やはり私の参考にはならなそうである。
さらにもうしばらくテクストを追っていくと,突然話が変わる。元は別のテクストだったものを集めている可能性があるようなのだが,そこでアプレイウスは,小ソクラテス学派のアリスティッポスの話をしている。これはディオゲネス・ラエルティオスにもある話で,アリスティッポスが王様に,「哲学の勉強をして何か利益ある?」と聞かれ,「おかげさまで私はどんな人たちに対しても平気に不安なくペラペラしゃべれるようになりました」と答えたというものである。これは参考になる。そうか,哲学の勉強をすればよいのか……って,もう始めて20年以上になるのですが……。
モサラベの町アリカンテと「我が祖国」アストゥーリアス
稲本 健二
スペインの町には必ず三つの要素があるとされる。精神的な象徴とも言うべきキリスト教の教会,住民が毎日集う社交場の役割を持つ「バル」,そしてスペイン語でプラサ・マヨールと呼ぶ中央広場だ。どのような大都会でもひなびた田舎の町でも必ずこの三つは揃っている。いわば,三種の神器のような存在である。ところが,この中で中央広場だけがない町がある。それが地中海に面したアリカンテだ。パエリア発祥の地バレンシアからさらに地中海を南へ下ったところにある港町で,言語面ではカタルーニャ語圏になるので標識などは必ずスペイン語(=カスティーリャ語)とカタルーニャ語が併記されているが,町の中ではほとんどカタルーニャ語が聞こえてこない。昨年,独立を問う住民投票を行うかどうかで話題になったカタルーニャ語圏とは思えない。あれはやはりバルセローナで盛り上がっているだけなのかしらと思ってしまった。それが昨年の夏に三週間滞在したアリカンテの印象である。カタルーニャ語圏にもこのように多様性が認められるのだが,しかしアリカンテにプラサ・マヨールがないというのはどういう訳なのだろうか。アリカンテ大学の先生方と話している時にこの話題を出してみた。すると異口同音に返ってきた返事が「モサラベの町だからだよ」。
周知の様に,スペインはヨーロッパで唯一イスラーム教徒の侵略を受けた国である。711年以来,イベリア半島にはユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の三宗教が共存することとなった。この異質なるものの共存が他のヨーロッパ諸国とはひと味違う魅力をスペインに与えたのである。そして,キリスト教徒は北部のアストゥーリアスやサンタンデールなどに追いやられた結果,ケルト人と混血して西ゴート王国の後を引き継いだイベリア半島のキリスト教王国が,自分たちの土地を取り戻そうと長い対イスラームとの小競り合いを繰り広げる。歴史上,レコンキスタと呼ばれる国土回復運動のことである。かくして,1492年1月2日にグラナダ王国が無血開城で陥落してレコンキスタが完成するまでは,イベリア半島にはイスラーム教徒の支配下で過ごしたキリスト教徒もいれば,キリスト教徒が取り戻した土地に信仰を捨てずに生き延びたイスラーム教徒もいたのである。前者を「モサラベ」,後者を「ムデハル」と呼ぶ。語源的には,モサラベとは「アラビア化した者」,ムデハルは「残留を許された者」を意味する。ちなみに,キリスト教王国でキリスト教に改宗した元イスラーム教徒は「モリスコ」と呼ばれる。普通のイスラーム教徒のアラビア人はモーロ人と呼ばれたので,モリスコは「元モーロ人」といった意味であろうか。いずれにしても,双方の文化が入り組んだ複雑な様相を見せていた。
だからこそ,かつて王国だったアストゥーリアスはひとりのイスラーム教徒も足を踏み入れたことがない土地として生粋のスペインを象徴する存在となった。30年前に初めてアストゥーリアスの州・オビエドへ行った時はサンタンデールから北部を西へ進んだので気付かなかったが,3年前にマドリードから電車でオビエドへ向かった時に納得した。途中でカンタブリア山脈を越えるのだが,この険しい山脈を越えるには特急電車はスイッチバック方式,つまり山岳電車の様に時間をかけてゆっくりと進む。これではイスラーム教徒は越えることを諦めたはずで,生粋の象徴はこの自然の恩恵であったという訳だ。面白いことに,マドリードっ子は週末に酔って機嫌が良くなると決まって歌う歌がある。「アストゥーリアス,我が祖国」だ。意図的に調子を外して歌わねばならない。また,スペインの皇太子はアストゥーリアス皇太子と呼ばれる。スペイン国王になる前にアストゥーリアスを冠した称号を持つ必要があることもレコンキスタの歴史を思い起こさせる。芸術面でも技術面でも最高の賞は今でも「アストゥーリアス皇太子賞」である。イギリスのウェールズ皇太子と同じ位置付けなのであろう。
そう言えば,コルドバのメスキータを訪れた大学の同僚が帰国してから「イスラーム教寺院かキリスト教の教会かどちらかにして欲しい」という感想を述べたが,分かってないなと思った。スペインの本質は異質なるものの共存である。しかも融合ではなくて混在なのだ。異質なるもののどちらもが,変質することなく自己主張をしている。これこそ平和的共存の証でもある。どちらもが個性を潰していない。妥協していない。このことに思い当たった時,モサラベの町アリカンテにプラサ・マヨールがないことが気にならないどころか,大きな魅力となった次第である。勿論のことだが,昨年夏のアリカンテ滞在中,リオハ・ドゥエロ・バルデペーニャスといった名だたる産地の赤ワインとイベリコ豚の生ハムに加えて,アラビア文化の遺産であるアーモンド菓子のトゥロンを堪能したことは言うまでもない。
表紙説明 地中海世界の〈道具〉8
城からマリアへ ジェノヴァの貨幣
亀長 洋子
貨幣の発行は中世の君主国では国王の大権に属したほどの重要な権限であった。ジェノヴァの自治都市コムーネの原型が現れるのは11世紀の末であり,その約40年後の1139年よりジェノヴァの貨幣鋳造所の活動がみられる。この当時から,貨幣の表面は城,裏面には十字という構図が現れ,それは約500年の間,ジェノヴァの貨幣の基本のモチーフとして使用された。ジェノヴァ政府は1252年に中世イタリアにおける最初の金貨であるジェノヴィーノ金貨を発行したことでも知られているが,そのモチーフも,当然この時期に典型的な城と十字を採用している。モチーフには定型があるのに対し,周辺部に刻まれる銘については,裏面にはジェノヴァに通貨発行の許可を与えた神聖ローマ皇帝コンラートの名がその後も刻まれ続けるものの,政情不安定で政権の動揺が繰り返されたジェノヴァでは,貨幣の表面の銘の部分の支配者名にはヴァリエーションが現れる。例えば,ジェノヴァ人政権下では「都市ジェノヴァ」(civitas ianua)「神に守られしジェノヴァ」(ianua quam deus protegat),特にドージェ制下では「ジェノヴァのドージェ」(dux ianue)という具合だが,フランスやミラノの支配に入った時期には「フランス王」「ミラノ公」と銘打った貨幣が現れる。13世紀,ジェノヴァの政権を教皇派が握ったとき,反政府の立場を取る皇帝派勢力がおそらく西リヴィエラのサヴォナで皇帝派の銘を刻んだ貨幣を発行しているのも当時の雰囲気を表している。
1528年以降,ジェノヴァは2年任期ドージェ制を採用し,18世紀末の共和国の崩壊まで独立を保つ。中世から近世に至る過程で,貨幣の構図は,ジェノヴァの紋章にも用いられたグリフォンが城の脇に加わるといった微妙な変化はあるものの,大きく転換するのは1638年である。この年,ジェノヴァ政府は自身の聖なるジェノヴァ共和国の女王,そして守護聖人として聖母マリアを選出した。この選出には,フランスとスペインという近世の大国がジェノヴァに圧力をかけるなか,王号を用いることにより自身の独立や対等な権利の回復を主張したいというジェノヴァ政府の意図があった。ジェノヴァ政府はこの頃から貨幣の表面に,右手に剣を携え,左手に幼子イエスを抱いた聖母マリアの図像を用いた貨幣を繰り返し発行する。さらに,前述のグリフォン,そして洗礼者ヨハネや聖ジョルジョといったジェノヴァの守護聖人を図像に用いた貨幣も発行される。
表紙には文中に現れるいくつかの構図の貨幣のほか,イタリアで製造された貨幣の重量計測用の天秤やジェノヴァの貨幣用の分銅を掲載した。商業の町ジェノヴァの人々にとって,貨幣を見たとき気になるのは都市のアイデンティティよりも商売道具たる貨幣の価値に関わる実際の重量かもしれないな,などと想像しつつ美しい貨幣カタログの頁をめくるのは楽しいひとときであった。
〈寄贈図書〉
2013年以前に刊行された図書も寄贈されましたのでご紹介します。
『サンティアゴ 遥かなる巡礼の道』ジャン=クロー
ド・ブールレス著 田辺保訳 青山 2006年11月
『ラテンアメリカ銀と近世資本主義』近藤仁之著 行路社 2011年8月
『ソ連・コミンテルンとスペイン内戦』島田顕著 れんが書房新社 2011年9月
『ギリシア古代美から ヴィンケルマン論と訳』前田信輝著 龍書房 2011年10月
『聖歌隊の誕生─カンブレー大聖堂の音楽組織』山本成生著 知泉書館 2013年2月
Agnolo Gaddi and the Cappella Maggiore in Santa Croce
in Florence, Studies after its Restoration, Silvana Editoriale
S.p.A. Milano, 2014
『ブラマンテ 盛期ルネサンス建築の構築者』稲川直樹+桑木野幸司+岡北一孝著 NTT出版 2014年12月
『史跡・都市を巡るトルコの歴史 古代から20世紀までの文明を探る』野中恵子著 ベレ出版 2015年1月
『中世の聖なるイメージと身体 キリスト教における信仰と実践』ジャン=クロード・シュミット著 小池寿子訳 刀水書房 2015年1月
『エウリピデス 悲劇全集4』丹下和彦訳 京都大学学術出版会 2015年2月
『イタリア建築紀行 ゲーテと旅する7つの都市』渡辺真弓著 平凡社 2015年3月
『そうぞうの喜びを』前田信輝著 龍書房 2015年4月
『企画展「砂漠を生き抜く──人間・動物・植物の知恵」』展覧会カタログ 2014年 国立科学博物館
『ヴァチカン教皇庁図書館展II 書物がひらくルネサンス』印刷博物館開館15周年記念特別企画展図録 凸版印刷株式会社 印刷博物館 2015年4月
『日本中東学会年報』30-2(2014),31-1(2015)
『日本ギリシャ協会会報』135 40周年記号,136(2014―2015)
『イタリア圖書』イタリア書房 51(2014),52(2015)
『Aspects of Problems in Western Art History』東京芸術大学西洋美術史研究室紀要 12(2014)
『日仏美術学会会報』34(2014)
『館報』石橋財団ブリヂストン美術館・石橋美術館 63(2014)
Mediterranean Review, vol.7-2 (2014)
『エクフラシス ヨーロッパ文化研究』早稲田大学ヨーロッパ中世・ルネサンス研究所 5(2015)