地中海学会月報 MONTHLY BULLETIN

学会からのお知らせ

「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集

地中海学会では第20回「地中海学会ヘレンド賞」(第19回受賞者:藤崎衛氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第39回大会において行なう予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求下さい。

地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。

募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間: 1月8日(木)〜2月12日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

 第39回地中海学会大会

第39回地中海学会大会を6月20日,21日(土,日)の二日間,北海道大学(札幌市北区北8条西5丁目)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。

大会研究発表募集
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する会員は2月12日(木)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

2月研究会

下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:18世紀フランス啓蒙期におけるJ.=Ph.ラモーの音楽理論について
発表者:伊藤 友計氏
日 時:2月21日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館2階215教室
参加費:会員は無料,一般は500円

J.=Ph.ラモー(1683-1764)はフランス・バロック期における作曲家としてと同時に,西洋音楽理論史において『和声論』(1722年)をはじめとする重要な著作を残した理論家としてその名をとどめた。本発表ではこの理論面に特化し,18世紀フランス啓蒙主義の知的潮流を背景として参照しながら,可能な限りラモーの理論書のテクスト,図版,譜例等に依拠し,ラモーが展開した音楽理論の諸特徴について考察する。

会費口座引落について

会費の口座引落にご協力をお願いします(2015年度から適用します)。

会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報374号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月20日(金)です。ご協力をお願い致します。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。

会費納入のお願い

今年度会費を未納の方には振込用紙を374号に同封してお送りしました。至急お振込み下さいますようお願いします。ご不明のある方,学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へご連絡下さい。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313

訃報

12月10日,遠山一行元常任委員が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。

プロヴァンスの宗教文化資源
──研究者と民間と── 奈良澤 由美

ヴネルはエクサン=プロヴァンスから10kmほど北にある人口八千人余りのコミューンである。大きな商業地帯を周辺に備え,ベッドタウンとしてこの数十年の間に飛躍的に発達した。小教区教会堂は,1909年にプロヴァンス地方に大きな被害を与えた地震の後に一度立て直されていたが,当時500人余りであった村人のために作られた空間は,その後10倍以上に膨れ上がったコミューンの教会堂としてはあまりにも狭く,2006年に建て替えられることが決定された。そしてその決定から新しい献堂式までの2年弱の期間に,市民を対象に15回の講演会が企画された。ヴネルは現在全く新しいコミューンであり,住民の80%以上は自分たちが住む地域の歴史を知らないという事実が,主催者が講演会を企画した動機であったそうである。講演会はプロヴァンスの古代末期をテーマとして,著名な研究者たちを招待して行われ,予想を超えた大変な成功を収めた。そしてこの一連の講演会の経験を踏まえて,主催者であったG.-J.アベル氏は,「プロヴァンスのキリスト教起源に遡る会Association Aux Sources de la Provence」を立ち上げる。

キリスト教祭壇についての私の研究について聞きたいことがあると連絡を受け,アベル氏と初めて話をしたのはエクスの地中海人文科学センターのカフェテリアであった。何の前知識もなく,漠然と聖職者関係の人物を予想して待ち合わせの場所に座った私に,アベル氏は大きな体をゆすり笑いながらそれを打ち消して,自らの経歴を語ってくれた。農業技師として40年間以上世界中を回ったこと,135以上の国で様々な業務に従事してきたこと,たとえばカンボジアでクメール・ルージュ時代に荒廃した12,000ヘクタールの水田の再生計画に関わった話や,ウラジオストックで,ミサイルのサイロをマッシュルーム生産所に変える事業の話など。数年前に隠居し,プロヴァンスの古キリスト教時代の歴史をめぐる活動にのめり込んでいったのは,そもそも彼の家が少なくとも15世紀から続くプロヴァンスの家系であって,ごく小さい頃からなじんでいた家族の歴史から自然に地方への愛着と興味があったためであるが,しかし最も直接的な動機は,2003年にアルルのサン=セゼール敷地で発見された巨大な聖堂の発掘調査が,資金不足を理由に中断を余儀なくされている状況を知ったためであったという。

学究的領域についてはまったく素人であるからといいつつ,エネルギッシュにあちらこちらの研究室を訪ねるアベル氏の活動について,ときに研究者たちからとまどいの声を聞くこともある。とはいえ,協会の活動は確実に多くの研究者たちをまきこみ,たとえばJ.ギュイヨンが監修し,27の大学の60人の研究者が協力執筆した書籍《L’antiquité tardive en Provence》(『プロヴァンスの古代末期』)や,M.-J.ドゥラージュと共同して企画されたアルルのカエサリウスの生涯を語る劇画《Césaire d’Arles》が,2012年に出版されている。

2014年3月,フランスでは市議会選挙が行われた。数年前の地中海学会研究会で話す機会をいただいたプロヴァンス地方の小さな古代都市リエズでは,現職の左派市長が予想通り破れてしまい,長年この地域の考古文化財の調査と活用に心血をそそいできたCNRS研究員Ph.ボルガールは悲嘆にくれていると聞いた。

アルルのサン=セゼール敷地の聖堂の調査は,もともと演奏会などの催しを中心とする文化施設の建設に先立つ事前発掘が発端であった。アルルは数多くの遺跡や名跡をかかえ,必ずしもこの聖堂の調査が最優先事項とはならない。アルルの経済状態はこの数年大変に悪く,県議会と地方議会の助成金のみにたよっている状況であり,市が考古調査への資金を打ち止めにするといううわさもあるという。行政側の事情,さらには人間関係の軋轢と個人のエゴが,文化財研究において前向きな解決を妨げるという状況は,最近のフランスではひときわ顕著な現象であるといえるかもしれない。とはいえ,アルルにおいてもリエズにおいても,調査は中断されるだけであり,破壊されるわけではない。ある意味では後世への慎重な判断ということもできるのではあるが。

120から450に座席が増やされたヴネルの教会は,それでもミサに集まる人々には十分でなく,さらに120席を階上に増設することが検討されているそうである。新しい祭壇にはカエサリウスと地方の聖人たちの聖遺物が収められた。アベル氏は,文化遺産は考古的な興味だけでなく,現代の地域の人々の精神的な遺産であることを強調する。宗教文化財はいまだ「過去」ではなく,たんなる観光資源ではない。研究者,民間,聖職者,それぞれ異なった立場から文化資源を享受しようとするこうした多様性が,フランスの地方の宗教文化財研究の何はともあれ底力なのであろう。

秋期連続講演会「芸術家と地中海都市 IV」 講演要旨
13世紀ローマとアルノルフォ・ディ・カンビオ
──教皇庁の墓碑彫刻を中心に── 児嶋 由枝

ゴシック盛期の13世紀中葉以降,西欧世界では大規模な墓碑が登場する。ローマおよびローマ近郊でも,教皇ならびに枢機卿など教皇庁関係者のモニュメンタルな墓碑が数多く制作された。

イタリアではちょうどこの時期,独自の古典的な彫刻様式が展開していた。神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世統治下の南イタリアで復興した古典主義が,ニコラ・ピサーノ(別名は,プーリアのニコラ)によってトスカナ地方に伝えられた。そして,13世紀後半にはトスカナおよびラツィオ地方において,彼の次の世代がこうした古典彫刻に新しい息吹をもたらしたのである。アルノルフォ・ディ・カンビオもそうした第二世代のひとりである。そして,彼こそが教皇庁関係者の墓碑彫刻に革新をもたらすこととなる。

11世紀までの聖俗有力者の墓碑は,銘文が刻まれた墓石板が聖堂内の床に嵌め込まれるという形式が一般であった。聖堂内,特に祭壇と連結する聖人の墓近くに埋葬されることそれ自体が重要な意味を有していたのである。この形式は今日まで続くこととなる。一方,12世紀頃より埋葬者の横臥像浮彫が墓石板や石棺にあらわされる例も多くなる。

その後,13世紀に入ると,モニュメンタルな壁面墓碑が登場する。壁龕に擬した構造の墓碑を聖堂内の壁に設置したものであった。こうした壁龕形式の墓碑は,壁龕墓とも呼ばれる。埋葬者の横臥像が横たわる棺の上に,切妻型の屋根を載せた半円アーチを架けたものが基本的な形状である。アーチの下には,天国へと取りなす聖母マリアや守護聖人が表される。この形式は12世紀のフランスに始まったとされるが,現存例はイタリアが圧倒的に多い。また,イタリアにおいて図像,形状ともに複雑かつ洗練されたものとなる。

イタリアにけるその代表的な例としては,ピエトロ・ディ・オデリシオ作の教皇クレメンス四世(1268年没)の墓,ジョヴァンニ・ディ・コスマ作のマンド司教ギョーム・ドゥラン(1296年没)の墓と枢機卿マッテオ・ダックアスパルタ(1302年没)の墓などがあげられる。いずれも教皇庁関係者の墓である。なかでも教皇クレメンス四世は,まったく新しい墓碑彫刻図像を確立したという点で特に注目に値する。棺上では目を閉じた死者が横たわり,その上方では死者の魂が生きた姿で表されているのである。こうした墓碑における死と永遠の生の対比は,その後のイタリアでルネサンス期にいたるまで受け継がれることとなる。

これら教皇庁関係者の墓の多くは托鉢修道会,すなわちフランシスコ会やドメニコ会の聖堂内に設置されている。それは,ちょうどこの時期托鉢修道会が躍進したこととも関係する。また,1257年のボナヴェントゥーラのフランシスコ会総長選出によって,フランシスコ会内の穏健派と厳格派の対立が一応の終息をみたことも無関係ではない。13世後半以降は托鉢修道会出身の高位聖職者も少なくなかった。

なお,これらの墓のほとんどは埋葬者が生前に注文したものと考えられている。何人かの高位聖職者の墓碑については,それらが設置された修道院や聖堂との墓碑建立契約書が残されているのである。

ところで,こうしたイタリアの壁面墓碑をよりモニュメンタルな構成に展開させたのが,アルノルフォ・ディ・カンビオであった。ギョーム・ドゥ・ブレ枢機卿(1282年没)の墓がその最初の例である。そこでは,上部の聖母へ取り次ぎを祈願する場面が初めて絵画やモザイクではなく彫刻によって表されている。これにより,死後の世界が二次元の超越的表現から,臨場感のある実際のできごとのように呈示されることになった。二重,三重の取り次ぎとなっている点も画期的である。墓碑の左上部でドゥ・ブレ枢機卿は跪いて中央頂部玉座の聖母に向かって取り次ぎを祈願しているが,さらにその背後に立つ聖マルコが枢機卿の肩に手をそえて聖母への祈願を取り次いでいるのである。

アルノルフォは,ほかにも教皇ボニファティウス八世(1303年没)の墓やリッカルド・アンニバルディの墓を制作しているが,いずれも一部しか現存していない。しかしそれでもなお,生き生きとした彫像表現にアルノルフォ・ディ・カンビオの革新性を明確に認めることができる。とりわけ,アンニバルディの墓において高浮彫で表された葬儀を執りおこなう司祭らの姿が,13世紀の「ローマ司教区盛儀定書式」(教皇庁の聖職者のために催行する典礼式次第)に正確に対応していることは特筆すべきであろう。仕草や表情の真に迫った表現によって,墓碑の前に立つ人に葬儀へ参加をしているかのような印象さえ与えている。

秋期連続講演会「芸術家と地中海都市 IV」 講演要旨
水都ヴェネツィアを彩った建築家たち
陣内 秀信

ヴェネツィアで建築家達が活躍するのは,イタリアの他の都市と同様,ルネサンスの時代を待たねばならない。しかも,中世の間,ずっと東方に目を向けていたヴェネツィアにルネサンスが到来するのは,だいぶ遅れた。

そして,中世に独特の建築様式を確立していただけに,ここで展開したルネサンス,それに続くバロックの建築の在り方は,この都市独自の性格を示すものとなった。

ヴェネツィア建築の独自性は,第一に,ラグーナの水の上に成立,発展したことから生まれた。争いの絶えなかった中世には,どの都市でも建築は堅固なつくりを見せ,ヴェネツィアのような開放的な構成は他ではあり得ないものだった。運河に面し,水と陸を結ぶ空間軸が中央を貫き,両側に居室を置く三列構成が生まれ,それと対応したファサードを三分割する独自の構成が確立し,後の建築家達にとっても重要な規範となった。

独自性の第二は,高い文化を誇ったオリエント世界との交流から生まれ,多様な色の大理石をふんだんに使い幾何学的な美をもつ装飾性に富む華麗な建築が成立した。

15世紀終盤,オスマン帝国との敵対に加え,ポルトガル人が喜望峰の南を回るインドへの航路を発見したことを背景に,ヴェネツィアは東方貿易だけに依存できない状況に直面し,本土への関心を強めた。そこからルネサンスとの出会いが生まれた。

1480年代,先ずは,スイス・ティチーノ州出身のピエトロ・ロンバルドが初期ルネサンスの建築家として活躍し,ミラコリ教会,スクオラ・サン・マルコ等の美しい作品を実現した。古典的な構成の中にも色彩豊かで石を装飾的に使う東方的な性格が明確である。大運河に沿っても,ロンバルド一家によって宝石箱のようなカ・ダリオがつくられた。

次に初期ルネサンスを飾ったのがベルガモ出身のマウロ・コドゥッチで,ラヴェンナで自己を形成し,ヴェネツィアに移って共和国の建築文化の高揚に貢献した。大運河に面するカ・ヴェンドラミン・カレルジが代表作で,オーダーと水平分割の枠組みで古典的な堂々たる構成を示しながら,伝統的な三分割構成の名残も見せ,過渡期の美しい作品となっている。この時代,ヴェネツィア貴族達は,危険な東方貿易に繰り出す精神性を失い,本土での農業経営に安定志向を強め,邸宅も商館からステイタス・シンボルとなる社交の場に性格をシフトさせた。

次に本格的なルネサンスの到来となる。その舞台は共和国の中世からの中心,サン・マルコ広場であった。この場所を支配するのは,中世のビザンティン様式によるサン・マルコ寺院(11世紀),ゴシック様式の総督宮殿(14〜15世紀)だった。ヴェネツィアは,世界の動向を見ながら,自身を東方と繋がる交易都市から文化都市へとその役割,イメージを転換する戦略をとった。オリエント的な価値を基礎にした中世から,古典的・西欧的な価値を表明するルネサンスへ転身した。総督アンドレア・グリッティのもと,都市の革新が実現し,共和国の主任建築家となったヤコポ・サンソヴィーノの手で,海からの玄関,サン・マルコの小広場が大きく造り変えられた。トスカーナ出身でローマでの活躍の実績をもつ彼は,本格的な古典主義のルネサンスをこの地にもたらし,図書館,造幣局,ロジェッタを設計し,遠近法にのっとった演劇的空間ともいえる見事な広場を実現した。以後,この小広場では,いかにもルネサンスらしく,多彩なスペクタクル,演劇的イベントが繰り返し行われた。

この時期,大運河沿いの邸宅にも大きな変化があった。サンソヴィーノによるカ・コルネールに加え,軍事建築家として活躍したミケーレ・サンミケーリによるカ・グリマーニが登場し,従来の邸宅のスケールを大きく越え,新たな水辺風景を生み出した。だが,その内部,外部の構成には,ヴェネツィアらしさも表現されている。

次に,16世紀後半に登場したのがアンドレア・パラーディオで,晩年この水都で教会を中心に素晴らしい作品を残した。中心部では活躍の機会がなく,周辺に位置するサン・ジョルジョ・マッジョーレ教会,イル・レデントーレ教会に彼の卓抜なる構想力が発揮された。大陸の田園に創られたヴィッラと同様,自然(ここでは海)の中に軸線を伸ばし,ランドスケープ建築となっている。

パラーディオの影響も受けながら17世紀のヴェネツィア・バロックを担ったのが,地元出身のバルダッサーレ・ロンゲーナである。大運河の入口近くに位置し,優美なドームを戴く彼の代表作,サルーテ教会は,この水都の新たなランドマークとなった。

こうしてヴェネツィアの魅力は,中世に形成された水都独自の有機的な都市構造,建築の枠組みの上に,ルネサンス,バロックの建築家達が創造した水の舞台に大きく開く象徴的建築の美が加わって生まれているのである。

物を語ること
河島 思朗

「デートに行くときには,女性を海に誘ったものだった。でも,いまでは,まだ,海を信じることができない」

老齢の先生が語ってくれた言葉が忘れられない。私が最初に震災を実感した瞬間だった。

東日本大震災から4度目の冬を迎えている。2011年度から福島県いわき市の大学に勤める機会を得た。震災直後のいわき市は雑然としてはいたものの,学生たちは災害について悲しみを語ることはなかった。むしろ強くたくましいようにも思えた。もちろん話題に出ることはあったが,その語り口は「控えめな報告」という類のものだった。

古代ローマの文学を研究する自分には何ができるのか,あの日から問い続けている。誰もがいま何かしたいと考えていたであろうし,何が必要かに思いをめぐらせてきただろう。そのような折に,「哲学カフェ」に参加する機会に恵まれた。地元いわき市の人もいれば,復興のために働きに来ている人もいた。年齢も性別も背景も異なる参加者が,ひとつのテーマに関してそれぞれの経験を語り,その経験を聴く。ゆっくりと流れる時間のなかで,少しずつ言葉が紡ぎだされた。ときに重々しく,ときに淡々と,語らいが積み重なっていく。数時間の会が終わったときに,そこには一種のすがすがしさがあった。哲学カフェでの語らいは答えを出すことを目的とはしない。語りが共有されること,語りの場を作り上げることを重視する。他の人の語りを聴き,自ら語ることは「共感」を目的とするのではない。語りの「共有」を通じて,思いを形にし,あるいはほぐしていくのである。

古代ギリシアにおいて,「語り」は文化の根底をなす。口承の文学である『イリアス』は,語り手と聴き手の共存のなかで成立した。直接民主政や裁判もまた,弁者と聴衆の生の語りによってはじめて成立する。悲劇の上演にさいして観客がいなければ演者は存在の意味を失う。ソクラテスの哲学は,相手との問答であるからこそ意味をもつのだ。語りの形式は,語りの場を必要とする。語りの場を作ることが,語りを成立させるのである。古代ギリシアは語りの場を作ることによって発展してきた。民主政の成立とギリシア悲劇の発展が同時期に起こるのは,偶然ではない。語りの場は意図して作らねば失われてしまう。

古代ローマにおいても,「語り」は重要な要素であった。有力者の演説は民衆の指示を獲得するために必要不可欠であったし,民衆も演説を聴く能力を必要とした。修辞学は教養とみなされるようになる。言葉に対する鋭い洞察と表現することへの欲求は尽きることを知らない。文学が「書かれるもの」となったローマ時代においては,より技巧的な表現のなかで「彫琢を重ねた」語りが重視されるようになる。「書物との語らい」が「語りの場」の一端を担うことになったのである。

恩師の一人は常々「文学は実学だ」と言う。私たちは常に物を語ることを実践している。家族に今日あった出来事を語るとき,報告書の言葉を用いることはしない。悲しむ友人と経験を共有するとき,法や経済を表す言葉は必要ない。ましてや数字では悲しみを表すことができない。「悲しい」という言葉でさえも悲しみを表現することはできないだろう。「悲しみ」は「海を信じることができない」という「語り」のなかに込められる。「物を語ること」は私たちが生きるために必要な営みなのだ。

詩人オウィディウスは『変身物語』のなかで悲しみの物語を描く。牝牛へと変えられたイーオーは自らの苦しみを語ることができない。熊に変身したカリストーは息子と森のなかで再会したとき,声を出すことができない。「訴えや嘆願の言葉によって同情を誘わないように,語る力を奪われた」(2.482f.)。ただいつまでも見つめ続けることしかできなかった。私たちは,語ることのできない悲しみの物語を聴きながら,語りえない悲しみの表現を知る。

古代の物語はいまも私たちに語りかけている。2000年前の物語であっても,ときに私たちの経験と重なり,すがすがしい解放感を与えてくれる。物語のなかに,「私」を表す言葉がある。そこには新しい語りが始まるひとつの可能性があるように思う。「むかし,むかし……」と語り始めるように,「あのとき海辺でね……」と物語を始める。自らの物語を語ることは,自己自身であっても直接触れることのできない心の現出を可能にする。物語のなかで自己は他者となり,他者は自己となるのだ。自他の曖昧な境界のなかで私はあなたと共に生きることができ,私は私を知ることになる。

ミュートスはときにロゴスに勝る力を持つだろう。論理的な言説では解き放たれない意味を,物語は語りうると信じている。

シエナの薄暗い地下で
──サンタ・マリア・デッラ・スカラ施療院にて── 米倉 立子

9月初旬久しぶりにシエナを訪れた。平日でも観光客が多い。ビュースポットである大聖堂美術館の屋上へと通じる階段前では,展示室内まで長蛇の列が伸びていた。そんな喧騒と無縁だったのが,大聖堂向かいに位置する旧サンタ・マリア・デッラ・スカラ施療院である。複合博物館施設として地下深くまで続く展示空間が2011年に整備された後,初めての訪問であったが,この地下世界が時間を遡る旅のようで非常に印象深かった。

丘の縁に沿って張り付くように建てられた施療院では,地上階にある第4層より下の下層階が地下空間の様相をなしている。丘の頂上に位置する大聖堂前広場の地上階の大広間では,治療を受ける病人やここで育てられた孤児たち,貧者への施しの様子などを描いたドメニコ・ディ・バルトロらの壁画(1440年代前半)が当時の様子を伝えている。この第4層だけでもかなり広いスペースだが,蟻の巣のように複雑で統一感のない広大な建築構造は下層へと続き,窓もほとんどないため薄暗い迷路のようである。

第3層は,かつて1300年の聖年にあたりシエナを訪れた多くの巡礼者たちを収容していた部位に相当する。ヤコポ・デッラ・クエルチャによるガイアの泉のオリジナルの断片が展示されたスペースも興味深いが,続く順路に現れる「夜の聖カテリーナの礼拝堂」が印象深い。礼拝堂に繋がる薄暗い狭い廊下の壁に穿たれた穴には,「私はお前のようだった,お前もまた私のようになろう」という警句と共に髑髏がこちらに黒い眼窩を向けて鎮座している。このメメントモリは,有無を言わさない存在感でずっしりと迫る。頭蓋骨を一つ置くだけで作りこむことのない「本物」は,数あるメメントモリ「作品」にもまして,その端的な言葉の意味を説得力を持って伝えていた。

その先でかつて聖カテリーナが病人や死者たちのために祈ったという小礼拝堂に行き着くが,17世紀にストゥッコや絵画で装飾されたため,現在は彼女の時代とは異なる姿である。窓ひとつない薄闇の中,わずかな光で浮かび上がる薄い水色の壁面に白いたっぷりとしたストゥッコ装飾の空間は,ロココを思わせる甘美な姿でありながら,壁には荒縄でできた鞭とロザリオが並び吊るされ,その不釣合いがリアリティーを膨らませる。この施療院が生死の攻防の最前線であったことを思うにつけ,ここで祈った者たちの姿が喚起されて,自分が「彼ら」を邪魔しているような気になる。同行の金原由紀子さんと二人きり,闖入者としてこの空気を乱してまでも現代の立場から細部を観察しようなどという気は失せてしまう。二人でいても心細くなって,早足になるのを注意しながらそそくさと退出した。

後から思えば,臨場感を醸し出す演出に呑まれただけだったのかもしれないが,あの時は,かつてそこに居た者たちの存在の方が強く,現代の私たちこそ居場所を「間違えた」少数派に感じられた。美術史の立場では,観察の対象として作品を見るという態度を無くすのは難しい。しかし視覚に頼ることで,却って感じ取れなくなるものがあるのではと意識すると,ではどうしたらいいのかとぎくしゃくしてしまう。今回は細部まで見ようとする視線の「不遜さ」が強く自覚される一方,視覚以外の身体感覚が増幅されて,感度が上がったような心持ちになった。時折こういう機会が不意に訪れる。

思いもよらぬタイミングにある匂いを嗅ぐと一瞬で普段思い出しもしなかった光景が頭をよぎり懐かしさが湧いてくるのと似て,時間の層の匂いを感じて,経験したわけでもない世界が近しく迫る体験だった。そういう時は大抵,目はいつもの特権的な地位から引っ込んでいる。

施療院時代で時間が止まったようなこの礼拝堂の雰囲気は,周囲の展示空間にも染みわたっているようだ。同じ階の聖遺物展示にもそれは感じられる。フィレンツェ商人ピエトロ・ディ・ジュンタ・トッリジャーニを通じて,1359年にシエナが3,000フィオリーニで購入した聖遺物群は,コンスタンティノポリスの宮廷礼拝堂に由来し,キリスト磔刑時の聖なる釘や聖十字架の破片,キリストの聖血などからなる。それらを納めた小型聖遺物箱がケース内で上から吊るされているのだが,先程の礼拝堂の気分を引きずった目には信仰対象としてのアウラが強く感じられた。様々な渇望の入り混じった凝視に長年晒されてきた聖遺物に向ける私の視線も,幾分かは過去の人々と近くなっていたのかもしれない。これなら信仰対象の展示施設という難しい兼合いの両立に成功しているといえるのではないか。

表紙説明 地中海世界の〈道具〉3

ボタフメイロ(大香炉)/貫井 一美

サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼は,キリスト教徒でなくとも,大聖堂のナルテクス(玄関間)に彫られたマテオ親方の「栄光の門」(12世紀末)の圧倒的な印象に感動することだろう。

しかし,何といっても圧巻なのは,ミサの折にブアーーン,ブアーーンと音をたてて大聖堂の身廊をブランコのようにして振られ,聖堂内を煙と香の香りで満たしていく「ボタフメイロ」である。「ボタフメイロ」は,ガリシア語で「煙を吐き出すもの」を意味する。銀色に光り輝く巨大な香炉で,世界で最も大きな香炉の一つと言われる。現在使われているボタフメイロは,金銀細工師ホセ・ロサーダが1851年に制作した。重量は80キロ(中に入れる香の量によっても異なるが),高さは1.6メートル,黄銅の合金と青銅製で銀メッキが施されている。通常は40キロの炭と香が入れられる。「ボタフメイロ」の起源は11世紀,聖堂内で使われていた振り香炉に始まる。滑車からのびるロープにつり下げられるが,その際にはこの巨大な香炉が外れないように特殊な結び方がされる。現在の滑車は17世紀初頭のもので,ロープは20年程度で交換されているとのこと。巨大な「ボタフメイロ」を運び,振るのは「香を運ぶ人」という意味の,ガリシア語でtiraboleirosと呼ばれる赤いローブをまとう8人の男性である。最初はtiraboleirosが香炉を押し,振りと共に紐が引かれて巨大な香炉はその振幅を広げていくのである。

先代の香炉は,15世紀にフランス王ルイXI世の寄付によって制作され,1554年から使われていたとされるが,1808年から1814年のスペイン独立戦争の折に,ナポレオン軍によって略奪された。現在の「ボタフメイロ」は,この後作られた。中世の時代,巡礼者たちが,サンティアゴ大聖堂に辿り着く頃には彼らの衣服は,くたびれ果て,長旅でお風呂にも入れないことがほとんどで,かなり不潔な状態にあった。そのような巡礼者たちであふれかえった大聖堂の内部が,相当な臭気であったことは想像に難くない。ペストや疫病が蔓延していた時代には,その香は予防に役立つとも考えられていた。今では,「名物」的な「ボタフメイロ」はそういう意味で必要かつ実用的な目的で使われていた。「ボタフメイロ」を用いる儀式には高額な費用がかかるので,毎日のミサで見られるものではない。1月6日(公現祭,東方三博士の礼拝の日),聖ヤコブの祝日など特別な日に限られる。

7月25日,スペインの守護聖人聖ヤコブの祝日,この「ボタフメイロ」に火をつける場面に遭遇し,その大きさに驚いた。銀色の巨大な香炉は,二人の修道士に担がれて堂内に運び込まれ,太い綱につり下げられて,振り子のように少しずつ振り幅を大きくしてゆき,最後には,逆さまになって,頭上から落下してくるかと思われるような振幅で煙と香りを振りまいていった。過去には実際に「ボタフメイロ」の落下事故が数件起きている。それでも中世以来,ボタフメイロが振りまく香に満たされた聖ヤコブの遺骸をおさめたこの聖堂に訪れる人の心持ちは,今もそしておそらくこれからも変わることはない。