2014年1月,366号
目次
学会からのお知らせ
「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
地中海学会では第19回「地中海学会ヘレンド賞」(第18回受賞者:片山伸也氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第38回大会において行なう予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2014年1月8日(水)~2月13日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。
第38回地中海学会大会
第38回地中海学会大会を2014年6月14日,15日(土,日)の二日間,國學院大學(東京都渋谷区東4-10-28)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2月13日(木)までに発表概要(1,000字以内。論旨を明らかにすること)を添えて事務局へお申し込み下さい。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。
2月研究会
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。発表概要は365号をご参照下さい。
テーマ:中世創建の墓廟建築にみるアナトリア地域のキリスト教・イスラーム建築文化の融合
発表者:守田 正志氏
日 時:2月22日(土)午後2時より
会 場:國學院大學 若木タワー 5階 509教室(最寄り駅「渋谷」「表参道」 )
参加費:会員は無料,一般は500円
現トルコ共和国の大部分を占めるアナトリア地域には,11世紀以降,トルコ系民族によりイスラーム建築文化がもたらされた。一方,イスラーム流入以前は,ビザンツやアルメニア,グルジアのキリスト教建築文化が繁栄していた。そこで,中世創建のイスラーム墓廟建築を対象に,工法・構法・建築構成・装飾の観点から新興のイスラーム建築文化と既存のキリスト教建築文化の融合過程を分析し,当該地域の建築文化の史的展開を考察する。
会費口座引落について
会費の口座引落にご協力をお願いします(2014年度から適用します)。
会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報364号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月20日(木)です。ご協力をお願い致します。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。
会費納入のお願い
今年度会費を未納の方には振込用紙を364号に同封してお送りしました。至急お振込み下さいますようお願いします。ご不明のある方,学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へご連絡下さい。
会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313
訃報: 1月5日,会員の森本哲郎氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。
秋期連続講演会 「芸術家と地中海都市 III」 講演要旨
フェイディアスとアテネ
芳賀 京子
フェイディアスはパルテノン神殿に祀られていた《アテナ・パルテノス》の作者として,古代ギリシアを代表する大彫刻家という評価を得ている。のちにローマでは,神性を表現し得たほとんど唯一の芸術家として絶賛されてもいる。彼は若くして都市国家(ポリス)からの注文作品を手がけ,黄金期のアテネにおいて権力者と懇意になり,その栄光の最中に罪人として弾劾され,この都市を去る。古代ギリシアで彼ほど都市と深く関わり,都市から愛され,拒絶された芸術家は他に知らない。
フェイディアスは紀元前490年頃に生まれたらしい。前480年にペルシア軍はアテネにまで攻め入り,アクロポリスを蹂躙した。だがギリシアの連合軍はサラミスの海戦でペルシア軍を打ち破り,戦功国のアテネはみるみるうちに力を増した。フェイディアスは戦後の急速な復興期に青年期を過ごした世代に属している。
彼の作品は現存していない。プルタルコスは彼をパルテノンの総監督と記しているが,それがどの程度の関与を意味するのかはわからない。いずれにせよ,彼自身が建築彫刻を彫ったということはないだろう。文献資料に記録が残る中で最も初期の作品は,デルフォイの《ミルティアデス群像》で,これはアテナとアポロンの2神やアテネの10人の英雄とともに,マラトンの戦いの戦功将軍ミルティアデスをおそらくは11番目の英雄として顕彰した,大規模なブロンズ群像だった。国家アテネがデルフォイという国際的な神域に捧げた作品であってみれば,この時すでにフェイディアスはアテネで確固たる名声を確立していたことになる。
この群像は,マラトンの戦勝を遅ればせながら(おそらく前470~460年頃に)神に感謝するものだったが,同じ戦勝を感謝する国家注文の作品は他にも二つ知られている。ひとつはアテネの《アテナ・プロマコス》(戦いに臨むアテナ),もうひとつは同じ戦闘でアテネとともに果敢に戦った都市プラタイアの《アテナ・アレイア》(軍神アテナ)で,いずれもフェイディアスの作である。彼はなぜ,国家的プロジェクトともいうべき大作を一手に引き受けることになったのだろう。
《アテナ・プロマコス》のブロンズ巨像はアテネのアクロポリスの入口に向かって,約 9 m の高さでそびえていた。アテネという都市は,もともとブロンズ像制作に関してはペロポネソスの諸都市ほどの伝統を持ち合わせてはいなかった。フェイディアスの師は,ペロポネソス半島のアルゴス人ハゲラダスとも伝えられているが,もしそれが本当なら,フェイディアスは師の技術を完璧に自分のものにしたことになる。だがそれだけではない。このような巨像を鋳造することができたということは,彼は巨大建造物を建設する土木技術をも習得していたのだろう。大規模なチームを率いて巨大プロジェクトを完遂する姿は,彫刻家というより,現代の建築家のイメージに近い。
彼は絶えず,新しいことに挑戦する芸術家だった。アクロポリス再整備計画が持ち上がると,今度はそこに輝くように美しいアテナ巨像と,それにふさわしく壮麗な女神の家を建てることを構想する。黄金象牙の《アテナ・パルテノス》と,総大理石造りのパルテノン神殿である。フェイディアスは象牙を引き延ばして木心に張りつける新技法を開発し,かくも巨大で美しい像の制作を可能にした。一方,プラタイアの《アテナ・アレイア》では,黄金象牙像ほどの費用をかけずに似た効果を出す,アクロリトン(肌の部分に大理石を,その他の部分に木を用いる)という新技法を用いている。
彼は,例えばこの上なく美しい《アテナ・レムニア》のような等身大のブロンズ像の制作者としても知られている。だが彼の名声は単なる彫刻家としてのものではなかった。既存のブロンズ鋳造技術,土木技術の習得に加え,新技術開発の力,巨大プロジェクトを構想する才,プロジェクト・リーダーとしての器。こうした特別な能力が,彼を単なる彫刻家とは異なる,特別な地位と名声へと押し上げたのだろう。
しかし彼も万能ではなく,人のねたみをかわす術には通じていなかったらしい。前438年あるいは433年に,おそらくは黄金着服の嫌疑を掛けられ,告訴されたのである。裁判の結果は定かでないが,いずれにせよ彼は,パルテノンの完成を見ずしてアテネを去る。そして赴いた先のオリュンピアで,《アテナ・パルテノス》の 12.73 m を上回る,高さ 13.36 m の黄金象牙像《ゼウス・オリュンピオス》を作り上げる。この差は目で見ただけではわからなかったかもしれないが,作者のフェイディアスは確実にこの数値差を承知していたはずだ。《アテナ・パルテノス》と同じ技法で,それ以上に壮大なゼウス像をつくることで,フェイディアスは彼を裏切った都市から「最大の黄金象牙像」の記録を奪い取ったのだった。
秋期連続講演会 「芸術家と地中海都市 III」 講演要旨
ローマのブラマンテ
── 真の古代建築との出会い ──
飛ヶ谷 潤一郎
ブラマンテがミラノからローマへとやってきたのは,1499年のことである。15世紀末のミラノ公国で,ブラマンテはレオナルド・ダ・ヴィンチなどとともに,ルドヴィーコ・スフォルツァ(通称イル・モーロ)の宮廷で活躍していたが,フランス軍が攻めてきたため,芸術家たちは各地へと離散してしまった。当時ブラマンテはおよそ55歳で,老年にさしかかっていたが,ローマで第二の人生が待ち構えているとまでは想像していなかったにちがいない。ローマには枢機卿などのたよりにできる有力者がいて,1500年の聖年という大きなイベントもあったために,建築の仕事は少なからずあったであろう。けれどもヴァザーリによれば,ブラマンテはローマに来たばかりのときには,建築の設計よりも,むしろ古代建築の実測調査や研究に励んだという。
ブラマンテはウルビーノ近郊の出身であり,北イタリアの都市を遍歴した後に,ミラノにしばらく住んで仕事をした。彼はミラノにいたときに,ミラノを何度か留守にしていたことがあるので,ローマやフィレンツェを短期間訪れていた可能性はある。しかし,ブラマンテのローマの建築作品とミラノの建築作品とを比べてみると,ローマに来てからは大きな進歩を遂げたことがわかる。彼はミラノでは,たいていは地元の工匠であるジョヴァンニ・アントニオ・アマデオと共同で建設に携わっていたため,とくに装飾に関しては地元の中世建築の要素が見られるのも当然であるといえる。けれども,当時のブラマンテはまだ古代ローマ建築については,ウィトルウィウスの『建築十書』や,北イタリアのルネサンス建築などから間接的に学んでいたにすぎないといってよい。およそ半世紀後に北イタリアのヴェネト地方で活躍することになるアンドレア・パラーディオについても,ローマで古代建築を直接目にすることは必須の作業であったと思う。もちろんローマで古代建築を学んだからといって,必ずしも立派な建築家になれるというわけではないけれども。
さて,ブラマンテのローマでのデビュー作は,サンタ・マリア・デッラ・パーチェ修道院回廊であった。この修道院の聖堂は,すでに15世紀のシクストゥス4世の時代に八角形平面で建てられていたが,ナヴォナ広場の西側という建物が密集する地区であったために,敷地はかなり制限されていた。回廊の1階は,柱間が四間四方の正方形になっている。左右対称性が重視される建築では中央部に出入口を設けることが難しくなるので,一般に偶数の柱間は避けられることが多いが,この場合は敷地の都合上やむを得なかったのであろう。ブラマンテはミラノでサンタ・マリア・プレッソ・サン・サーティロ聖堂を設計したときに,敷地の都合上,透視図法を駆使した「偽の内陣」を提案した。こうした才能はこの回廊においても発揮されており,彼のスケール感覚の正しさとも相まって,実に居心地の良い回廊になっている。オーダーのディテールの扱いなどにいささかぎこちなさが見られるものの,この作品によってブラマンテはローマで有名になった。ちなみにわたしがローマに留学していた2000年のころには,この回廊の2階には入ることができなかったが,今では小さなギャラリーやカフェが設けられた形でリノベーションされている。
ブラマンテは,ローマでは野心的な教皇ユリウス2世(在位1503~13年)から古代ローマを彷彿とさせるような大規模な計画を依頼された。ヴァティカン宮殿ベルヴェデーレの中庭は,都市的な規模の複合施設であり,彫刻展示場や屋外の劇場のような役割もそなえている。この敷地は斜面上にあるため,屋根のラインが統一された形で,床面を三段階のテラスとして階段やスロープで連結させている。これらの階段については,パレストリーナのフォルトゥーナ神殿などを参考にしたといわれているが,一番奥の半円形の二つの階段を凹凸状に組み合わせる手法はブラマンテが考案したものである。残念なことに,これらの階段はヴァティカン図書館の増築などに伴い改築されてしまったけれども,当時は入口として用いられたオーダーの積み重ねによる螺旋階段は現存している。ブラマンテは,建築と都市や庭園との関係を重視したという点のみならず,劇的な効果を演出するさまざまな階段を考案したという点でも,バロック建築の先駆者といえる。
新しいサン・ピエトロ大聖堂は,マクセンティウスのバシリカにパンテオンのドームを載せるという壮大な計画であった。集中式平面が宗教儀式に不都合であることは,ユリウス2世もブラマンテも熟知してはいたものの,サン・ピエトロ大聖堂だからこそ斬新な案が採用されたと見なすこともできる。彼らの存命中には実現せず,後継者たちによって何度も設計が変更されたけれども,ミケランジェロがブラマンテの案を基本として完成へと導いたことは周知のとおりである。
秋期連続講演会 「芸術家と地中海都市 III」 講演要旨
ミケランジェロとヴェネツィア
石井 元章
コンディヴィの『ミケランジェロ伝』とヴァザーリの『芸術家列伝』第2版の「ミケランジェロ伝」は,彫刻家が1494年秋に短期間ヴェネツィアを訪れたと伝えている。しかし,両者ともヴェネツィアにおけるミケランジェロの行動には言及しない。19歳の青年彫刻家は,その時点で現存作品では《階段の聖母》,《ケンタウロスの闘い》(共にカーザ・ブオナㇽローティ蔵)と《磔刑像》(フィレンツェ,サント・スピリト聖堂蔵)を制作していたにすぎない。
他方,いとも晴朗なる共和国ヴェネツィアにおいては当時,凱旋門型壁付記念碑の最高傑作が聖母下僕会の聖堂に建設中であった。トゥッリオ・ロンバルド作《総督アンドレア・ヴェンドラミン記念碑》(ナポレオンによる聖堂閉鎖に伴い,サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ聖堂に移築)である。1478年3月27日付の総督の遺書は,自分の墓を「大規模で」「大変華やか」に作るよう要求している。トゥッリオにより1493年に完成間近であったこの記念碑に関して,年代記作家マリン・サヌードは『小年代記』の中で「聖母下僕会の聖堂には現在建設中の総督アンドレア・ヴェンドラミンの墓があるが,それはそこにある素晴らしい大理石のためにこの世で一番美しい墓になるだろう」と賞賛している。
たとえ滞在期間が短いとはいえ,野心に満ちた青年彫刻家ミケランジェロが,このような評判の高い作品を見ないことは考えにくい。そのことを証明する文献資料こそ残されていないが,当該記念碑の一部をなしていた《アダム》(メトロポリタン美術館)とミケランジェロがフィレンツェに戻ってから制作した《バッコス》(バルジェッロ美術館)を比較することで,ミケランジェロがトゥッリオの作品から受けた影響を窺い知ることができる。これら二つの立像は鏡像関係にある。共に支脚側の腕を下に伸ばし,遊脚側の腕を曲げてその手に物体を捧げ持つ。トゥッリオの作品は,ギリシアの彫刻家ポリュクレイトスが《ドリュフォロス》の中で完成したコントラポストの系譜に連なるが,ミケランジェロはその踏襲に留まらず,もともと平面に置かれていた両足の位置を意図的にずらして岩を模した台座に載せた。この工夫によりバッコスの骨盤には必然的にズレが生じ,酒神の上体を後ろに反らせることで酒神の酔いを正当化した。バッコスは中庭に設置される前提であったから,周囲のあらゆる角度からの視点を想定している。支脚側から見るとある程度安定しているように見えるが,遊脚側に視点を移すと酒神のふらつきが強く感じられる。ミケランジェロはトゥッリオの作品を発展させて新しい造形課題を解法へと導いた。
その後ミケランジェロは《ピエタ》や《ダヴィデ》によって名声を高め,ユリウス II 世の招聘で1508年4月ローマに赴く。システィナ礼拝堂天井画に取り掛かったばかりの秋口に,彼の許をフェㇽラーラ公爵アルフォンソ I 世の宮廷彫刻家アントニオ・ロンバルドが訪れる。アントニオはトゥッリオの弟であり,ミケランジェロの知己でフェㇽラーラ宮廷の役人であったシジスモンド・トロッティの紹介状を携えていた。1508年8月28日付のこの手紙は,フィレンツェの彫刻家にアントニオを厚遇するよう要求している。ユリウス II 世の下で変貌を遂げる「新しきローマ」を一目見ようと考えた主君アルフォンソのローマ訪問を準備するため,アントニオは先行してローマを訪れたのである。
この書簡に光を当てたピサ大学教授ヴィンチェンツォ・ファリネッラによれば,フェㇽラーラ宮廷の「大理石の間」に置かれることを目的に1508年以降に制作された30枚を超える大理石浮彫群の一枚《ウルカヌスの工房》(エルミタージュ美術館)は,ミケランジェロと深い関わりがあるという。この浮彫の向かって左側には身体を捩ったゼウスの姿が見えるが,それが1506年1月14日に発見されたばかりのラオコーンの形態を模倣したものであることは明白である。他の人物の形態も多くは有名な古代彫刻に刺激を受けたことが分かるが,ファリネッラは中央に立つ人物を1504年6月8日にフィレンツェ共和国政庁前に設置されたミケランジェロの《ダヴィデ》の模倣と考える。ローマへの途上アントニオがフィレンツェで見たホットな現代彫刻《ダヴィデ》の形態を持つのが浮彫面の鍛冶の神であり,横のゼウスは2年前に見つかったばかりのホットな古代彫刻《ラオコーン》の模刻というわけだ。新旧二つの傑作を並置することは,当時のイタリア半島でしきりに議論された「パラゴーネ(諸芸術間の優劣比較論争)」のうち新旧美術の優劣を浮彫作品において実行に移したものであると同時に,マントヴァ宮廷でアルフォンソの姉イザベッラが古代と現代,二つの《眠るクピド》を並べて行なった比較に対抗したものであったとファリネッラは結論する。
サルデーニャ島とローマ時代の北アフリカ
大清水 裕
昨年9月,サルデーニャ島を訪れた。3年ぶり,2度目の訪問である。正直なところ,日本からそう何度も訪れるような島ではないだろう。それにもかかわらず2度目の訪問となったのは,「アフリカ・ローマーナ(Africa Romana)」という学会に出席するためである。
「アフリカ・ローマーナ」は今回の大会で20回を数える。読んで字のごとく,古代ローマ時代の北アフリカを対象とする最大規模の学会である。正確な参加人数は知らないが,何百人いるのだろうか。考古学者を中心に報告者の数も多く,朝から晩まで(朝食から晩餐まで!),周囲の話し声が収まることはない。さながら同窓会といった趣である。1983年に始まり,1992年の第10回大会までは毎年,その後は2年ごとに開催されてきた。今回は3年ぶりの開催で,恒例だった12月に代わって9月の開催となった。そのためか,前回に比べると参加者が幾分減ったような気もする。
サルデーニャ島のサッサリ大学(Università degli Studi di Sassari)が一貫して運営の中心となっているが,必ずしもサルデーニャ島だけで開催されてきたわけではない。サルデーニャ島内の都市が多かったものの,隔年開催となってからはチュニジアやモロッコ,スペインなど,西地中海沿岸の各地を巡回していた。ここ2回続けてサルデーニャ島での開催となったのは,予定していたアルジェリアでの開催が難しくなったからだという。アルジェリアはローマ時代の遺跡の宝庫なのだが,話を聞くと異口同音に,学術調査の実施はほとんど無理,という答えが返ってくる。いずれアルジェリアでの開催が実現する日が来るよう祈りたい。
それにしても,なぜサルデーニャの大学が中心になって北アフリカをテーマとする学会を組織してきたのか,疑問に思われる方もいるかもしれない。かくいう筆者自身がそうだった。しかし,改めて地図を眺めれば,シチリア島ほどではないにせよ,サルデーニャ島も北アフリカから見れば目と鼻の先である。実際,サルデーニャ島と北アフリカの関係は深く,そして長い。
フェニキア人によって北アフリカにカルタゴが建設されたころ,サルデーニャ島にもフェニキア人はすでに来航していたらしい。サルデーニャ島南端のノラからは,紀元前9世紀後半から前8世紀初めのものとされる石碑が発見されている。この時代,サルデーニャ島はフェニキア人の西方航路に組み込まれていたのである。フェニキア本土の諸都市の没落に伴ってカルタゴが西地中海域での覇権を握ると,サルデーニャ島もその支配下に入った。ギリシア人との争いに敗れ一時的にカルタゴ支配を離れることはあったにせよ,最後までギリシア人との対立が解消されなかったシチリア島と比べ,カルタゴによるサルデーニャ島の支配は確固としたものであったらしい。
そのカルタゴによるサルデーニャ支配は,ポエニ戦争とともに終焉を迎える。第一次ポエニ戦争の終結に際して,ローマが初の海外属州としてシチリアを獲得したことはよく知られている。逆に言えば,この時点ではサルデーニャ島はカルタゴの支配下に留まっていた。しかし,戦争終結後,カルタゴでは従軍した傭兵たちの大反乱が起こる。サルデーニャ島にいた傭兵たちもそれに参加したが,その反乱鎮圧を口実に,ローマがコルシカ島ともどもサルデーニャ島を奪取した。ポリュビオスによれば,第二次ポエニ戦争の原因はサルデーニャ問題に遡るという。カルタゴにとってのサルデーニャ島の重要性がどれほどのものだったか理解できよう。
カルタゴ支配下と同じくローマ支配下でも,サルデーニャ島は食糧の供給拠点として重要だった。緩みかけた第一次三頭政治にタガをはめ直したルッカ会談のとき,政敵の目をくらますためにポンペイウスが出立の口実としたのはサルデーニャ行きだった。カエサルも,内乱の時にアフリカを制圧してからローマに戻る際,サルデーニャ島に立ち寄っている。
帝政期に入ってもサルデーニャ島は属州のままであり,イタリア本土とは区別された。制度上イタリアと一体化されるのは3世紀末,ディオクレティアヌス帝によってイタリアが属州化され,新たに創設されたイタリア管区にサルデーニャが含まれた時のことである。しかし,5世紀に西方でローマ支配が崩壊すると,サルデーニャ島は再び北アフリカの勢力下に入った。ヴァンダル王国の時代である。古代のサルデーニャの歴史は,徹頭徹尾,北アフリカとは切っても切り離せないものなのである。
そして現代,サルデーニャ島と北アフリカの深い関係は新しい形で続いているというわけだ。アルジェリアで学会が開けるようになるその日まで,古代ローマ史を専門とするアフリカニストたちは,サルデーニャ島に通い続けることになるのかもしれない。
さらし絵
── イタリア中世都市の描かれた「正義」 ──
三森 のぞみ
13世紀後半から遅くは16世紀初頭まで,北中部イタリア諸都市では,都市権力の命で市庁舎など公共建築物の壁に罪人の似姿を描き,その名と罪状を記して人びとの目にさらす,「さらし絵 pittura infamante / defamatory picture」の慣習が広く見られた。
ジョルジョ・ヴァザーリの『列伝』によれば,ボッティチェッリ,アンドレア・デル・カスターニョ,アンドレア・デル・サルトといった名だたる画家たちも制作に携わったという。実際,アンドレア・デル・サルトには「さらし絵」の習作と思われる逆さ吊りの男のデッサンが残されているが,残念ながら実在する作品数は極めて少ない。本格的な研究が始められたのも比較的近年のことで,イタリア中世史家ゲラルド・オルタッリの1979年の論考を嚆矢とし,その後アメリカの美術史家サミュエル・Y・エドガートン,デイヴィッド・フリードバーグらの著作によって,「さらし絵」はとりわけ美術史分野で知られるようになった。地中海学会会員の方々には,水野千依氏の大著 『イメージの地層 ── ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言』 (名古屋大学出版会,2011年)での言及(名誉毀損の絵画)が記憶に新しいかもしれない。
しばらく前になるが,ひょんなことから,この「さらし絵」の包括的な研究に取り組んでいるイタリア中世史研究者ジュリアーノ・ミラーニ氏(ローマ・サピエンツァ大学)の講演「追放,袋,イメージ: さらし絵についての新たな展望 Bandi, borse e immagini. Nuove prospettive sulla pittura infamante」を企画する機会に恵まれた(2013年3月9日早稲田大学イタリア研究所イタリア言語・文化研究会において開催。なお,講演原稿の翻訳が同研究所の紀要に掲載される予定である)。
従来の「さらし絵」研究がすでに普及の進んだ14世紀以降の事例を中心としてきたのに対し,ミラーニ氏はこれまで等閑視されていた13世紀後半の「さらし絵」誕生期に焦点をあて,その発生過程の動的な解明を試みている。それによると,短期間のうちに「さらし絵」には,(1) 死刑に処された人物を描く,(2) 「追放 bando」に処された人物を描く,(3) 「さらし絵」そのものを処罰として用いる,という三段階の変化が見られる。このうち第二段階の「追放」というのは,物理的なものでなく,コムーネ都市権力からの「追放」,つまり都市権力による法的保護の停止を意味し,コムーネ法廷の召喚に応じないなど,もっぱら「不在」のために処罰できない者に対してとられた措置であった。つまり,当初は処刑者を描いてその犯した罪を公に想起するための手段が,絵の持つ表象の力のために「不在」の人間の代替として用いられ,最終的には絵に描かれること自体が刑罰と化したということになる。13世紀後半以降,コムーネ都市権力は「追放」などの方策を用いて自身の法に従わない者を排除し,これを都市の「正義」として正当化することで,公権力化へと向かった。三段階の「さらし絵」はこうした都市権力の変容にまさに即応したものと考えられる。
さらにミラーニ氏は,マントヴァに残る希少な「さらし絵」の初期現存例をとりあげて都市条例の規定とつき合わせ,描かれた人物像の首に吊されているものを「袋」と同定し,それが当時の教会によって極悪人の代表として表象されたユダやシモン・マグスが持つ大罪の象徴「袋/財布」に由来していると指摘する。都市共同体から排除される「追放」は教会の共同体から放逐される破門に通じる。こうして都市権力は,大罪人の周知の印に新しい「正義」の正統性を求めるととともに,教会が異端者を破門するように反逆者を「追放」する権利が自らにあることを大胆に示した。「さらし絵」は描かれた都市の「正義」であり,都市の政治と法の視覚化であった。まだなお解明されるべき点が残されてはいるものの,文字と視覚双方の史料を子細に検討し,美術史,法制史,文化人類学など他分野の成果も駆使した「さらし絵」の謎解きには実にわくわくさせられた。
3月にしては肌寒い日々が続いていたにも関わらず,講演当日は麗らかな汗ばむほどの陽気で,幸い参加者数も予想を上回り,懇親会まで賑やかな談論が続いた。ミラーニ氏も日本のイタリア中世史研究者たちとの交流を楽しんだようである。開始前の打ち合わせをしていたときのこと,ふと気がつくと,ミラーニ氏が持参した Mac のパソコンには明らかに子どもの手になる,少しよれた人物デッサンの切り抜きが貼られていた。彼は,ああ,息子が僕を描いたんだ,僕の「さらし絵」だね,と悪戯っぽく微笑んだ。もちろん罪状も袋もついてはいなかったけれど。
表紙説明:地中海世界と動物 14
『フォヴェル物語』の馬/平井 真希子
14世紀初頭に書かれた長大な韻文詩「フォヴェル物語」は,当時の堕落した教会や政界に対する強烈な風刺で名高い。主人公は悪辣な馬(ロバとして描かれる場合もある)フォヴェルである。第1部では,偽善と腐敗に満ちた世の中を舞台に出世していき,国王や教皇をも超えた権力者へと成り上がっていく。第2部では,運命の女神に求婚するが拒絶され,代わりにその侍女である「虚栄」と結婚する。そして生まれた数多くの「小フォヴェル」がさらに世界中を汚染していく,という結末となっている。
この「フォヴェル物語」を含む写本は14あるが,中でもここにあげたパリ国立図書館所蔵の fr. 146 は興味深い。本文自体にも多くの挿入や改変がある他,72の彩色挿画と169曲の音楽作品の楽譜も含んでいるのである。中央の図のフォヴェルは馬の姿をしているが,他の場面では頭だけ馬で体は人間であったり,逆に上半身が人間で下半身が馬となっていたり,様々な形で描かれているのが不思議である。一方,背景の建物の描写は案外精密で,実在の建物を想定しているようにも思われる。
フォヴェルのモデルは,フランス国王フィリップ4世(在位1285~1314年)の寵臣だったアンゲラン・ド・マリニーだとされている。彼はその急速な出世ゆえに敵を作り,王が没しルイ10世が後を継いだ直後に失脚,1315年には絞首刑となった。写本の楽曲の中には,マリニーの栄華と没落を主題とした時事的な歌詞のものも含まれている。
挿入された楽曲は,多声モテットの他,バラード,ロンドーといった世俗歌曲,聖歌の断片等,多彩である。14世紀前半の楽譜資料でこれほど大規模なものは他になく,当時の音楽の様相を伝える貴重な資料となっている。写真のフォリオ 11r で,左列の楽譜の歌詞は “O Philippe” と始まっている。これは,3声モテット “Servant regem/ O Philippe/ Rex regum” のモテトゥス声部である。なお,トリプルム声部とテノル声部の楽譜は見開きとなるフォリオ 10v に載っている。このモテットで呼びかけられているフィリップとは,ルイ10世が早世した後国王となったフィリップ5世(在位1316~1322年)である。これらの証拠から,この写本はフィリップ5世時代に,政治の腐敗に気を付けるよう王に忠告する目的で作られたのではないかと推測されている。
では,これら多数の楽譜は何のために写本に組み入れられたのだろうか。当時の楽譜写本には奢侈品としての意味合いもあったが,fr. 146 の場合,演奏にも使用可能なレイアウトで写譜されている。全ての楽曲を演奏しつつ音楽劇『フォヴェル物語』を上演したとしたら,1日では終わらなかったであろう。そういったイヴェントが行なわれたという証拠はないが,その様子を想像してみるのも楽しい。