写真で綴る地中海の旅 journey

2019.04.17

ルッカの市壁(イタリア)

地中海の〈城〉19:ルッカの市壁/黒田 泰介

イタリア・トスカーナ州の都市ルッカは、完璧な形で残るルネサンス期の市壁で良く知られている。フィレンツェから一時間半ほどローカル線に乗り、鉄道駅を降りると、目の前に広がる芝生の広場を前景にして、レンガ積みの堂々とした壁がそびえ立つ。市壁の上はプラタナスの並木道になっていて、木々と芝生の緑に挟まれた赤レンガとのコントラストが美しい(写真:上)。

古代ローマ植民都市に起源をもつルッカは4回にわたる市壁拡張を経て、現在の姿にたどり着いた。航空写真を見ると、街の中心部にはローマ植民都市に特徴的な、格子状の街路網がくっきりと残されている。石灰岩の大きな切石でできたローマ時代の第一市壁(紀元前2世紀頃)は、壁に寄り添って建てられたサンタ・マリア・デッラ・ローザ聖堂の内部に、今も見ることが出来る。

12~13世紀につくられた第二市壁は、ルネサンス期の市壁の内部に取り込まれている。当時の街への入口、両側に円塔が並び立つサン・ジェルヴァシオ門の前に流れる水路は、第二市壁の周囲を取り巻いていた堀の跡だ。水路に面した町並みは、中世の市壁を内部に取り込みながら建てられたため、きれいに直線状に並んでいる。
隣町のピサの大聖堂とよく似た、ロマネスク様式の繊細な聖堂や塔状住宅が建ち並ぶ中世の町並みを、全長約4.2kmの楕円形をしたルネサンス期の市壁が、すっぽりと包み込む。現在の市壁は全てが新築ではなく、その大半は16世紀半ばまでにつくられた第三市壁のリニューアルだった。街の北側、サン・フレディアーノ聖堂の裏手には、石積みの市壁が残る(右中)。市壁の各所に残る円塔跡と共に、これらは第三市壁の痕跡を示すものだ。

1625年に完成した市壁は、第四市壁と呼ばれる。小国ルッカが生き残りをかけて建設した市壁は、トスカーナ大公国の脅威に対抗したものだった。

市壁の周囲にはスペード型をした稜堡と呼ばれる11基の砦が突き出している。低く構えたハリネズミのような市壁の姿は、当時導入された新型火砲に対応したものだった。高くそびえる中世の石の壁は、大砲の攻撃には脆かった。都市を襲う攻城砲に対しては、分厚い土手をレンガで強化した壁体と堀割で守りを固め、近づく敵には突出した稜堡から放たれる無数の火線で対抗した(右下)。ルッカの場合、フィレンツェに面した東側は稜堡が集中し、特に念入りに防御態勢が取られている。

これほどまでに完備されたルッカの市壁だが、実は一回も実戦を経験していない。皇帝ナポレオンの時代、ルッカの支配者となった妹のエリーザ・ボナパルトは、クレーンで市壁を跨ぎ越して市内に入城した。トスカーナ大公国の君主でもあった彼女は市壁を一部取り壊して、フィレンツェ方面に通じるエリーザ門を新築している。ナポレオン失脚の後、ルッカを治めたマリーア・ルイーザ・ディ・ボルボーネの時代、市壁の平和利用が図られた。宮廷建築家ロレンツォ・ノットリーニは、市壁の上に並木道を設けると共に、街に面した側をひな壇状に整形して植林した都市公園を計画している(左中、1818年頃)。

1847年まで独立国家だったルッカを守り続けた市壁は、今では街を取り巻く巨大な公園として、ジョギングや犬の散歩を楽しむ市民たちの憩いの場だ(左下)。夏には稜堡の上でコンサートや演劇も開かれる。2017年9月にローリング・ストーンズの野外コンサートが催された際には、市壁を背景とした巨大特設ステージがつくられ、約55,000人もの観客が集まったとか。

*地中海学会月報 416号より