ディデュモテイコン(ギリシャ)
地中海世界の〈城〉2:ディデュモテイコン/高田 良太
ギリシアは西トラキア地方に,ディディモティホという町がある。エブロス県の中心都市アレクサンドルポリからは北に約90キロ,車で2時間ほどの距離にある,人口1万人弱の町である。この町の名前は古典ギリシア語では,ディデュモス(双子)+テイコス(壁)を意味し,それはすなわちこの町の城塞としての起こりを示す。ビザンツ千年の歴史とともにあった,ディデュモテイコンのあゆみをひもといてみたい。
エルスロス川とエヴロス川(トルコ語ではマリツァ川)の合流点に位置し,そこから東にひろがる東トラキア地方の平原を見下ろす小高い丘に最初に目をつけたのは,ユスティニアヌス1世(在位527-565)である。トラヤヌス帝(在位98-117)によって建設されたプロティノポリスが谷地にあって防御に不向きであったため,そこからほど近い,カレスと呼ばれていた丘の上に新城塞を建設した。
新城塞とプロティノポリスはしばらく併用され,両者がまとめて「双子の壁」と呼ばれた。その後,プロティノポリスは8世紀までに放棄され,丘の上の城塞のみを指してディデュモテイコンと呼ぶようになった。ひとつの城を「双子」と呼ぶのはなんとも奇妙だが,同様の違和感をビザンツ人も抱いていたようだ。コンスタンティノス7世ポルフュロゲニトス(在位913-959)が,自著の『テマについて』において説明するところでは,丘の上の城塞はプルティヌポリスであるという。ブルガリアやセルビアに対する前線基地として強化が進められ,13世紀後半には7重の壁と多くの塔(24の塔が現存している)を誇る,壮麗な城郭となった。
この城塞は,しばしば君府を去ったビザンツ人のよるべともなった。古くはバシレイオス2世(在位976-1025)に対して反乱を繰り広げたバルダス・スクレロスが最後に身を寄せた。1243年には,十字軍によって奪われた首都奪還への野心を燃やすニカイア皇帝ヨハネス3世ヴァタツェス(在位1222-1254)が,自身の生誕の地でもあったこの城塞を占領している。また,1341年には,国境防衛の名目でこの城に入ったヨハネス・カンタクゼノス(のちの皇帝ヨハネス6世カンタクゼノス,在位1347-1354)が,若き皇帝ヨハネス5世パライオロゴス(在位1341-91)に対し昂然と反旗をひるがえした。
1361年にオスマン・トルコによって征服されて以降,この城塞は町ともどもディメトカと呼ばれ,地域支配の拠点となった。17世紀の旅行家エヴリヤ・チェレビの記述にも,二重の壁と数百の塔を誇る,古城の姿が描写されている。しかし,18世紀以降は荒れるに任され,今や往時の威容は望むべくもない。1420年に落成したメフメット・モスクの,今の町の規模には著しく不釣り合いな巨大な佇まいが,かつての栄光をかろうじてしのばせる。
*地中海学会月報 397号より