写真で綴る地中海の旅 journey

2019.04.17

カイロの城塞(エジプト)

地中海世界の〈城〉1:カイロの城塞/堀井 優

新テーマ「地中海世界の〈城〉」の開始にあたり,防御機能を端的に示す建造物の一例を取り上げたい。表紙は,エジプトの中心都市カイロの「山の城塞」(カルアトアルジャバル,シタデル)を描いた図版である。ナポレオンのエジプト遠征に伴って行われた学術調査の成果を示す『エジプト誌』に収録されており,18世紀末頃の景観を伝えたものといえる。この城塞は,カイロの市街地の東縁をなすムカッタム山に連なる高台に位置しており,この図版は,ムカッタム山に面する城壁の一部を描写したものと思われる。

カイロの城塞の歴史は12世紀後半にさかのぼる。アイユーブ朝(1169-1250)の創始者サラーフアッディーン(サラディン,在位1169-93)は,ファーティマ朝(909-1171,エジプト支配は969以降)が造営したカーヒラの内部に居住したが,旧王朝の残党が危険を及ぼす恐れがあったため,より安全な居所を求め,1176年にこの城塞の建設を開始した。最も早く建造されたのは君主の護衛部隊を居住させる区画であり,その南西部分には,用水供給のために約90メートルの井戸が掘られ,のちには宮殿が建設されることになる。また城塞とともに,十字軍の来襲にそなえて,フスタートとカーヒラを囲む長大な市壁の建設も開始された。

この都市内外に対する防衛的な性格のきわめて強い建設事業は,その後のカイロの発展過程に一定の影響を与えた。まず市壁の意義は限定的であり,13世紀前半まで断続的に建設が続行されたものの,結局完成しなかった。とはいえアイユーブ朝およびマムルーク朝期(1250-1517)からオスマン帝国支配期(1517-1798)にかけて発展した市街地は,城塞からカーヒラの東辺および北辺を経てマクスに至る市壁の大半を輪郭の一部としつつ,カーヒラの南部,北部,西部に拡大していくことになる。こうした市街地が商工業,司法文教,居住等の民生的機能を担ったのに対して,城塞は堅固な統治拠点として機能した。サラーフアッディーンによっては完成されなかったものの,13世紀初頭にアイユーブ王家のカーミル(在位1218-38)によって整備されて支配者の居所とされ,以後19世紀まで,増改築を伴いつつ,カイロおよびエジプト支配の中心であり続ける。アイユーブ朝およびマムルーク朝スルタンはここに中央政府を置き,オスマン期に帝都イスタンブルから派遣されるエジプト州総督もここに居住した。ムハンマドアリー朝(1805-1953)もこの伝統を継承する。西洋化政策を推進したヘディーヴイスマーイール(在位1863-79)が新市街の建設を進め,新旧両市街の接点に造営したアブディーン宮殿に居所を移したことをもって,城塞は旧来の統治上の意義を失うことになる。

*地中海学会月報 396号より