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学会からのお知らせ


* 12月研究会

  下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ: 古代ローマ時代のガラスにみる都市景観 ―― 大港プテオリと温泉保養地バイアエ
発表者: 藤井 慈子氏
日 時: 12月14日(土) 午後2時より
会 場: 國學院大学 若木タワー 5階 509教室(最寄り駅「渋谷」「表参道」 )
参加費: 会員は無料,一般は500円

  ローマ時代のガラス製品には,当時の生活や関心を物語る様々な装飾がみられる。ローマ帝国西方各地から出土した4世紀の球状瓶には,帝政初期に名を馳せた南イタリアの大港プテオリと隣接する温泉保養地バイアエの景観が刻まれている。海に面した埠頭や記念建造物の描写に加え,それらの名称や「デカトリア」等の地区名および都市名の銘文を有するカット装飾は,両都市に対する当時の関心の高さを示す「都市景観」として注目に値する。

* 会費口座引落について

  会費の口座引落にご協力をお願いします(2014年度から適用します)。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度(2013年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報本号(364号)に同封してお送り致します。
  会員の方々と事務局にとって下記のメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。

会員のメリット等
 振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
 毎回の振込み手数料が不要。
 通帳等に記録が残る。
 事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。

「口座振替依頼書」の提出期限
  2014年2月20日(木)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2014年4月23日(水)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
 なお3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。

* 会費納入のお願い

  今年度会費を未納の方には振込用紙を本号に同封してお送りします。至急お振込み下さいますようお願いします。
  ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡下さい。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいております。学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へお申し出下さい。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

* 会員新名簿

  この度は新名簿作成準備のためのアンケートにご協力頂き,有り難うございました。
  名簿(2013年11月13日現在)ができあがりましたので,本号に同封してお送りします。掲載項目は「住所」「自宅(固定または形態)電話番号」「所属」「所属電話番号」「専門(関心)分野」です。不掲載希望項目にはアスタリスク「*」を付しました。










地中海学会大会 地中海トーキング要旨

都(みやこ)のかたち

パネリスト:栗原麻子/草生久嗣/堀井優/青柳正規(司会兼任)



  2013年6月15日・16日に同志社大学で開かれた第37回大会の初日は,開催地に関連する内容が企画された。仁木宏氏による記念講演「京都の変貌 ── 「洛中洛外図屏風」から豊臣秀吉の時代へ」で,中世から近世にかけての京都の空間構造とその変容が詳細かつ視覚的に解き明かされた後を受けて,地中海トーキングでは,「都(みやこ)のかたち」をテーマに,地中海各地の首都もしくは何らかの中心的機能をもった都市が,時代順に取り上げられた。このトーキングは,二日目のシンポジウム「キリスト教の布教と文化」が信仰の世界大の広がりを対象としたことを考えれば,初日から二日目にかけて議論の対象が空間的に拡大していく流れのなかに位置していたことになる。
  まず栗原麻子氏(古代ギリシア史,大阪大学)は,紀元前5世紀半ば,黄金時代のアテナイについて報告した。この比較的大きなポリスで,顔見知りどうしの共同体性を支えた仕組みが注目される。アテナイのポリスと民主制は,前6世紀後半の僭主の殺害やクレイステネスによる国家の再編などを経て成立した。パルテノン神殿でのパンアテナイア祭の諸行事は部族単位で行われたが,最も壮麗な大行列は,市民が各自の共同体での社会的役割を確認する機会となった。またその後の犠牲式では,国家の支出による犠牲獣が市民としての立場に応じて分配され,共同で食べることになっていた。これは私的な慣習を,国家が公共事業として行うようになったことを示し,ここに対面社会を維持した「都市のかたち」があったといえよう。
  次に司会兼任の青柳正規氏(ギリシア・ローマ美術考古学,国立西洋美術館:当時)は,古代ローマの「フォルマ・ウルビス(都市のかたち)」が形成される過程について報告した。広範囲にわたる城壁の建設と,その内部での市街地の形成を経て,紀元前1世紀のカエサル期には共和政時代の城壁が撤去された。これはローマが,自分たちの国家の圧倒的な発展に自信をもつ段階に到達したことを示している。実際この120万の人口を擁するようになった都市には,地中海における海上輸送の徹底的な体系化によって,余剰農産物をだす土地から大量の穀物が供給され,また水道の整備によって飲用水も十分に供給されるようになったのである。こうしてローマは,帝国の広大な領域に支えられる大都市となったとい

えよう。
  次に草生久嗣氏(ビザンツ史,大阪市立大学)は,12世紀のコンスタンティノープルについて報告した。この時期に例外的に行われた異端断罪は,それまで表面に現れなかった異端者たちの存在を明らかにすることとなった。貴族の邸宅,修道院,あるいは病院や孤児院などの慈善施設は,キリスト教徒知識人たちの活動の場でもあった。孤児院のなかには教養を授ける「寺子屋」もあり,密かに知識人を育んでいた。都市のなかに通常の居場所を得るのが困難な社会的弱者,外国人,異教徒,知識人,失脚した権力者は,そうした場所にいて,都市に留まることができた。このような「知の隠れ家」の存在は,コンスタンティノープルのもつ,ある種の懐の深さをも示していたといえよう。
  最後に堀井優(中近世イスラーム史,同志社大学)は,近世オスマン帝国支配下のカイロについて報告した。7世紀以降この都市は空間的拡大を伴って発展し,近世までにカーヒラ,旧ミスル,ブーラークの市街地が形成された。都市の社会秩序は,一方でオスマン権力による軍事・司法行政,他方では各種の集団や地区のもつ自治的機能によって維持されていた。またそこはエジプトの周辺諸地域に広がる商業空間の要衝でもあり,多様な外来商人が受容された。例えば近世にはヨーロッパ人地区が形成され,ヨーロッパ商業圏の一部としての性格も帯びていた。このように中心的機能をもつ都市は,異文化接触の場ともなり,それゆえ境域的性格をも有していたといえよう。
  以上の四つの都市に関する諸報告の後,青柳氏の司会のもと,パネリストどうしの議論のなかで,また会場からのコメントをつうじて,さまざまな論点が取り上げられた。市壁の内もしくは外にあった神域や共同墓地,市域内に知的な隠棲場所がある場合と,郊外の別荘が知的活動の場となる場合,旅行者や移動する人々と都市文化との関係,遠くから見える都市の稜線,都市形成における計画性の有無など,扱われた問題は多岐にわたり,活発な議論をつうじて,地中海の主要な都市のかたちを,多方面から具体的に特徴づけることができたと思われる。(堀井 優)









春期連続講演会 「地中海世界を生きる」 講演要旨

君主の魅力

── 中世地中海に君臨した皇帝フリードリヒ2世 ──

高山 博



  十字軍の歴史の中で,一度の戦闘を交えることもなく,エジプトのスルタンとの交渉だけでエルサレム回復に成功した十字軍がある。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の第5回十字軍である。西ヨーロッパ中の老若男女が,十字軍熱にうかされて聖地で殉教することを求め,諸侯・騎士の多くが,異教徒との戦いで武勲の誉を勝ち取ろうとしていた時に,フリードリヒ2世は,なぜ,異教徒と戦わず,交渉する道を選んだのか。また,言語・宗教・文化をまったく異にするイスラム教のスルタン,カーミルと,どうして交渉することができたのか。
  イタリアのイスラム史研究者 M. アマーリは,フリードリヒ2世が既に1217年頃に,アイユーブ朝の君主たち,ムアッザムとカーミルに使節を送ったと考えている。その根拠は,今は失われたチェファル大聖堂のモザイク画であり,十分信頼できるものではないが,フリードリヒ2世が,かつてのノルマン王たちと同じく,イスラム教徒の役人,兵士を抱えており,イスラム教徒たちと日常的に接していたこと,彼の宮廷が,イスラム教徒を含む優れた学者たちの活躍の場となっていたことを考えれば,両者の間に使節の往来があったとしても不思議はない。
  一般に『アレクサンドリア総主教の歴史』として知られるアラビア語年代記によれば,フリードリヒ2世とカーミルとの間に少なくとも3度の使節の往来があった。一つ目は,フリードリヒ2世からカーミルへ派遣された使節である。その詳細についてはわからないが,ヌワイリーの年代記によっても確認される。二つ目の使節,つまり,カーミルからフリードリヒ2世への使節は,ファフル・アッディーンの使節として研究者のあいだでよく知られているものである。複数のアラビア語年代記は,カーミルがフリードリヒ2世に使節を派遣したのは,弟のムアッザムとフワーリズミのスルタンとの同盟に脅威を感じて,軍事的援助を求めるためであり,救援の見返りとして海岸地方の領地(エルサレム)を提供したと記している。
  三つ目の使節,つまり,帰還するファフル・アッディーンの使節とともにカーミルのもとへやってきたフリードリヒ2世の新たな使節がエジプトへ到着したのは,1227年8~9月頃である。このフリードリヒ2世の使節には,パレルモ大司教が含まれていたが,一行は,その後,皇帝の代理としてシリアに派遣されていたアチェッラ伯トマスと合流し,ムアッザムと会見して,サ

ラディンが征服した土地を皇帝に渡すように交渉した。しかし,これは不調に終わっている。
  このような状況のなかで,1228年6月,フリードリヒ2世は十字軍を率いてイタリアを出航したのである。彼の船は,9月にアッコに到着した。フリードリヒ2世は,アッコに到着するとすぐにカーミルへ使節を送り,エルサレムを手に入れるための交渉を始めた。この交渉は,前年に彼の代理であるアチェッラ伯トマスを通して行っていた交渉の続きだったと考えられる。実際,その交渉で中心的役割を果たしたのは,フリードリヒ2世側がアチェッラ伯トマスであり,カーミル側がフリードリヒ2世の宮廷に派遣されていたファフル・アッディーンだったのである。
  フリードリヒ2世は,ファフル・アッディーンとの困難な交渉を続ける一方で,哲学や幾何学や数学の複雑な問題をカーミルに送り,カーミルはこれらの問題を学者たちに解かせて,解答を送り返してきていた。年代記作家イブン・ワーシルによれば,皇帝が,カーミルの宮廷に学識の深い人がいるかどうかを試すために,彼に様々な分野の難問を送ると,スルタンは数学の問題をアラム・アッディーン・カイサルに,残りの問題を別の学者たちに渡し,彼らはそれらすべての問題に回答したという。
  両者は,合意に達し,1229年2月11日,ついに,カーミルはフリードリヒ2世にエルサレムを明け渡すというヤッファ協定が結ばれた。このヤッファ協定により,エルサレムとともに,ナザレト,ベツレヘムなどが返還された。エルサレムは,皇帝の統治下に置かれたが,この聖都の内部にあるイスラム教徒の聖所,すなわち,岩のドームとアクサー・モスクを含むハラム・アッシャリーフ区は,イスラム教徒の管理下に置かれ,イスラム教徒はこの場所に自由に出入りし礼拝を行うことを認められた。
  このように,カーミルとの平和条約締結に至ったフリードリヒ2世の十字軍は,彼の十字軍出発よりずっと以前から始まっていた彼らの長い外交関係の中の一場面にすぎない。フリードリヒ2世の十字軍を,十字軍の歴史研究とは異なる文脈,つまり,中東の君主との外交関係という文脈の中に置くことは,当時の地中海地域を理解するための新たな視点を提供し,フリードリヒ2世の十字軍研究の利点をよりはっきりと示してくれるのではないかと思う。








研究会要旨

16~18世紀のイスタンブルにおける歴史地震

澤井 一彰

7月20日/國學院大学



  オスマン帝国の都として長く栄えたイスタンブルは,古代から何度となく巨大地震が発生し,そのたびに大きな被害を受けてきた街でもあった。その最も古い記録は,この都市がローマ帝国の新たな都とされ,時の皇帝コンスタンティヌス1世の名をとってコンスタンティノポリスと呼ばれ始めたばかりの4世紀にまで遡るという。
  本報告では,オスマン帝国の各種年代記に加えて,オスマン政府によって作成された文書史料の利用が可能な16~18世紀を対象として,イスタンブルを襲った歴史地震の実態について検討するとともに,地中海世界有数の大都市であったこの街と地震とのかかわりについて,とくに震災からの復興に焦点を絞って論じた。
  複数の先行研究があきらかにするところによると,16世紀初頭から18世紀末にかけての300年間にイスタンブルで発生し,記録に残された地震の件数は膨大な数に上る。とりわけ史料の残存状況がより良好な18世紀については,驚くべきことに,ほとんど2年に1回の割合で大小様々な大地震が記録されている。
  今回の報告では,このうちイスタンブルに与えた被害の程度がとりわけ甚大であった1509年と1766年に発生したふたつの地震に注目し,その規模,被害の状況,および復興政策の詳細をあきらかにすることを目指した。
  1509年の大地震は,後世「小さな終末 Kıyamet-i suğra」として語り継がれることになるほどの被害をイスタンブルに与えた。先行研究によって幅があるものの,推定マグニチュードは7.2~8.0ときわめて大きく,エディルネリ・ルーヒーなどの年代記作者たちによると死者は約5,000~1万人,被災したモスクの数は109,同じく被災した家屋は 1,070 にのぼったとされる。
  震災からの復興については,やはりエディルネリ・ルーヒーの手になる同時代の年代記や,少数ながらも伝世する文書史料から,すでに強力な中央集権体制を確立させていたオスマン政府の主導によって,震災直後から人・モノ・金が大量かつ集中的に投入されることによって,街の復興が推進されていったことが理解された。ただし記録に残る修復の対象は,あくまで城壁や大規模モスクなどの重要な公共施設についてのものであり,小規模施設や一般住宅の復旧がいかにして行われたかについては,史料的制約によって詳細は不明のままであった。
  一方,1766年に発生した大地震は,同時代の年代記に「激震 Zelzele-i şedid」として記録され,被害の規模

においては1509年以来の大きさとなった。推定マグニチュードは6.9とされ,4,000人以上が死亡したと考えられる。また,アヤ・ソフィアやスレイマニイェなどごく少数のモスクを除く,ほとんどすべての石造建築物がこの地震によって被災したとされる。とくに,イスタンブルを征服したメフメト2世の創建になるファーティヒ・モスクや,オスマン帝国随一の建築家とされるミマール・スィナンによるエディルネ・カプ門近くのミフリマフ・モスクは全壊し,その後の復興の過程で再建された。
  1766年の大地震の被害からの復興については,より多くの文書史料が残されていることから,1509年の大地震と比較すると,さらに詳細な状況を理解することが可能である。大規模公共施設の復旧については,1509年の大地震の場合と同様に,オスマン政府が主導的な役割を果たした。ただし,イスタンブルの各街区の中心となる小規模モスクや個人の住宅などは,その街区や当該家屋に居住する人々が自力で修復していることがあきらかとなった。加えて,イスタンブルに多数存在した商業施設,具体的にはハンと呼ばれる複合商業施設や各種の店舗,ハマム(公衆浴場)などについても,基本的にはその所有者や,それがワクフ(宗教寄進財産)物件となっている場合はワクフ管財人の責任によって修復が行われた。
  このように1766年の大震災において,大規模公共施設以外についての復興はあくまで「自力救済」が基本であったという事実は,すでに述べた1509年の大地震の復興の過程では不明であった小規模施設や一般住宅の修復状況を推測するうえでも重要であろう。おそらくは,大規模公共施設については政府が修復を担当し,それ以外については基本的に民間の力によって復旧が行われるという形が,少なくとも18世紀末までのオスマン帝国における震災復興の原則であったと考えられるのである。
  以上のように,本報告では1509年と1766年に発生したふたつの大地震による被害の状況をあきらかにするとともに,両者を比較することによってオスマン帝国における震災からの復興の実態に光をあてることを目指した。とくに,多くの文書史料が現存する1766年の大地震からの復興については今後の課題も多く残されたが,地中海世界に関心をもつ方々に,オスマン帝国における震災復興のひとつの事例を提示できたとすれば幸いである。









限界リテラシーと古書体学

大黒 俊二



  1313年8月,シエナ郊外のある農地の管理人ゲッゾは,農地の領主宛に一通の手紙を書いた。その手紙はなんとも奇妙なしろものである。句読点や大文字はなく,単語は十分に分かち書きされず,書体はシュメールの楔型文字を思わせるような金釘流である。しかしさらに奇妙なのはその文章である。冒頭の一文をそのままトランスクリプトするとこうなる。

avanni gheco vi si rachomada ebib una letara
laqualemadaste iosoe chio ueno pue madate let
are seno uisono date none mia copa

  一応はトスカーナ語なのだが,14世紀のイタリア語に詳しい人でも,一読してこの文の意味を判じうる者はほとんどいないだろう。これは次のように「校訂」して,ようやくなんとか意味の通じる文章となる。

A Vanni. Gheço vi si rachoma(n)da. Ebbi una letara
la quale ma(n)daste. Io soe ch’io ve n' ò p(i)ue ma(n)date
letare: se no’ vi sono date non è mia co(l)pa.

(試訳:ヴァンニへ。ゲッゾからお願いじゃ。おくてくれた手紙ぶけとりました。わしはあんたにいぐつも手紙をおくた。届かなくてもわしのせじゃない。)

  この書体とこの文章で書かれた手紙を,受取人が,同時代人とはいえ見てすぐに理解したとは思えない。受取人は,このわけのわからぬ手紙を,よく捨てもせず残しておいてくれたものである。
  手紙の筆者ゲッゾは,一見してわかるように,書くことにも文章を作ることにも不慣れであった。そうした人間が,見よう見まねで覚えた文字をあやつり,自己流の書体でかろうじて意味の通る文章を書く。そのような読み書きを「限界リテラシー」と呼ぶとすれば,14~15世紀のイタリアにはこの種の「限界リテラシー」で書かれた文章がすこぶる多い。13世紀にイタリア語(トスカーナ語)が書き言葉として成立して以来,16世紀に標準イタリア語が確立するまでの時期 ── ということはいわゆる「イタリア・ルネサンス」の時代と重なるが ── は,「限界リテラシー」が突出して現れる時期なのである。

  「限界リテラシー」は二つの点で私たちの興味を引く。一つは,これが14~15世紀という時代に集中して現れる点である。悪文や悪筆は昔も今もあり,その意味では普遍的現象ともいえそうだが,イタリア史においては,ダンテやペトラルカが最初のイタリア語文学を生み出したまさにその時代に「限界リテラシー」が噴出する点に特徴がある。イタリア文学の頂点と悪文・悪筆の繁茂は同時代現象なのである。その理由はおそらく,ラテン語から俗語へ,声から文字へ,俗語の書字化,文書行政の普及,取引の文書化,読み書き教育の拡大といった変化が複雑に絡み合う当時の社会に求めるべきだろう。したがってこの現象の解明には,言語学やリテラシー研究とともに歴史学も独自の貢献をなしうる。
  もう一つ興味深いのは,この現象を掘り起こしたのが古書体学者たちであったという点である。A. ペトルッチ,L. ミリオ,A. バルトリ=ランジェリといった古書体学者たちの努力によって,ルネサンス期における底辺の文字文化は明らかにされた。「古書体学者」とは文字通り古い書体を研究する人たちであるから,このことは自然なようにみえるがけっしてそうではない。19世紀以来の重厚な伝統をもつ古書体学は,ラテン語,公文書を対象とし,手書き文字の時代すなわち印刷術が出現する時代以前を扱う。俗語で書かれた私文書 ── 「限界リテラシー」が現れるのは俗語の私文書においてである ──,印刷術以後の手書き文字はながく彼らの関心の外にあった。しかしイタリアの古書体学者たちは,俗語・私文書・印刷術以後に視野を拡大することによって,「書字文化」の新しい領域を開拓したのである。こうして古書体のマニア的専門家は文化史家に脱皮し,「書字文化史」という新しい魅力的な研究分野を切り拓いてみせた。「限界リテラシー」の発見はその成果の一つである。
  私自身は,古書体学者の「書字文化史」に学びながら,「限界リテラシー」で書かれた文書を収集し読み進めており,この作業を通じて,いつの日かイタリア・ルネサンスの「限界リテラシー」噴出の背景を歴史学的に解明したいと思っている。









エル・グレコ展を終えて

川瀬 佑介



  来年は画家エル・グレコ(1541~1614年)の没後400年を迎えるが,日本では昨年10月から今年4月にかけて,国立国際美術館(大阪)と東京都美術館で,「エル・グレコ展」が開催された。国内では1986年以来のエル・グレコの個展となった本展を,富山県立近代美術館館長雪山行二氏のサポート役として日本側監修の末席を汚させていただいた関係から,若干遅くなったが展覧会の報告をしたいと思う。なお,私は開催の約一年弱前から関わり,主に監修者と日本チームの展覧会の内容に関するリエゾン,そして図録の制作と編集を受け持ち,展覧会の企画立案・展示設営には関与していない。
  展覧会は大阪会場で約19万人,東京会場で約28.5万人,計約47.5万人の入場者にお越しいただき,ひとまずの成功を収めた。企画監修はエル・グレコ研究の第一人者であるマドリード自治大学教授フェルナンド・マリーアスが務め,彼のコンセプトのもと出品作の選定および交渉が行われた。出品点数は51点だが,スペイン,ギリシア,台湾,そしてオーストラリアを含む11の国と地域から作品を借用している。マリーアスは,来年エル・グレコ没後400年を記念してトレドでエル・グレコの回顧展(3/14~6/14)を企画しているが,代表的な傑作の出品という点でトレド展は日本展を上回るものの,幅広い国際的な出品という意味では日本展の方が充実するだろう,と述べていた。そういう意味で,普段隣り合わせに実見する機会の少ない作品同士が展示された日本展の意義は強調してよいだろう。例えば,セントルイスの《キリストの復活》のリコルドは,これまで特に高い評価を与えられていないように見受けられるが,より有名なドニャ・マリア・デ・アラゴン学院のための《受胎告知》(ティッセン美術館)のリコルドと見比べれば,同じ高さのカンヴァスに描かれているだけでなく,極めて類似した,質の高い様式を有していることが印象に残った。
  展覧会は日本で2度目の個展ということもあり,テーマ別に構成された。マリーアスはエル・グレコの3か国にわたる芸術活動を,あたかも三人のエル・グレコが存在したかのように差異を強調するのではなく,あくまで一人の芸術的個性として扱うことを強調した。一見して異なる様式的相違の下に,根底として流れる個性があったのかどうか,それを検証したのがとりわけ第2章で,

スペイン以前と以後の作品を敢えて組み合わせて展示した。東京展の展示では,唯一のギリシア時代の出品作品である《聖母を描く聖ルカ》をこの第2章に展示することにマリーアスが同意したため,この章の意義は高まっただろう。大阪展では,マリーアスの元々のアイデアに従い,《聖母を描く聖ルカ》は第1章の冒頭で《ある芸術家の肖像》(メトロポリタン美術館) ── マリーアスはこれを自画像と見做している ── と並べ,ギリシア時代の彼の精神的自画像として提示された。
  マリーアスのアプローチの最大の特徴は,展覧会の章題名にも用いられた「見えるものと見えないもの」を描く画家,というアイデアに凝縮されていたと言ってよいだろう。従来の研究史では,極めて非写実的な様式で描かれた宗教画をエル・グレコの最大の仕事として,「見えないもの」を描く画家としての側面ばかりが扱われてきたきらいがある。マリーアスはそこで従来付随的な仕事と考えられてきた肖像画にも等しく評価の目を向け,展覧会はまず肖像画のセクションで幕を開けた。次いで聖人像のセクションを置くことで,二つの異なる人物画のジャンルにおけるエル・グレコのアプローチの違いと共通性が検証されただろう。
  なお,関連して本展の図録にも触れておきたい。図録は,通常の作品解説や関連資料に加え,なんと9本もの論文を掲載している。執筆陣の選定も,一人の日本人寄稿者(孝岡睦子)を除きマリーアスのイニシアチブに負う。エル・グレコ研究の第一人者の声掛けのお蔭で,クレタ島時代の研究を牽引してきたニコス・ハジニコラウ,歴史家としての立場から長年美術史にも関わってきたアメリカ人研究者リチャード・ケーガンといった大家から,近年積極的に新知見を提供している中堅・若手研究者まで,幅広い寄稿者のラインナップが実現した。本展図録のための書き下ろし論文も含まれ,最新の研究成果を披露している。結果として極めて文字量の多い図録となり,それ故に販売部数が増減したのかは不明だが,我が国の美術ファンにエル・グレコという画家の多彩な側面を掘り下げて示すことができたのではないかと思う。








表紙説明 地中海世界と動物 12


グリフォンと竜:ジェノヴァの表象/亀長 洋子


  ジェノヴァの表象となる動物は? と尋ねられたなら,「町を歩いていれば,グリフォンと竜があちこちで見つかりますよ」と答えるだろう。中世以来,この二つの空想上の動物達は,ジェノヴァ人の歴史を長らく見守ってきた。
  グリフォンは,市バスのマークを見ればすぐに見つかるだろう。現在のジェノヴァ市の紋章は19世紀に入り,ジェノヴァ共和国が消滅した後のものが基準になっているが,中心に聖ジョルジョの赤十字の盾,その両脇にグリフォン,盾の上には王冠,下には杯という構図は中世から続くモチーフである。海軍でキリスト教世界の防衛者としての役割を担うという自意識を表す十字,13世紀にライヴァルであったピサの紋章が狐をモチーフにしているのに対抗する意味で四つ足に加え翼をもつグリフォン,そして翼からは金銭が落ち,杯でそれを救い上げるという商人国家としてのイメージがそれぞれ投影されており,中世のジェノヴァの個性が紋章のなかに浮かび上がる。
  竜は,ジェノヴァの守護聖人の一人である聖ジョルジョに退治される対象として現れる。市内見物をしていて最も目につくのは,かつての聖ジョルジョ銀行の拠点であった聖ジョルジョ宮殿の正面を飾る大きな修復画であろう。ジェノヴァの聖ジョルジョ教会に関する最古の

記録は10世紀半ばだが,聖ジョルジョ信仰はさらに古いビザンツによる支配期にさかのぼるとされる。竜を退治する聖ジョルジョも軍事的なことを象徴するモチーフであり,イスラームの侵入に耐えつつコムーネ形成をめざした当時のジェノヴァの人々の心に浸透していったのであろう。
  グリフォンと竜は,海の民ジェノヴァ人にとって,海を超えたところでも自らのアイデンティティもしくは郷愁を示す表象として機能する。表紙写真の一つ(上図)は,14世紀前半頃から16世紀前半頃までジェノヴァ人に支配されたキオス島にある,アルゲンティ家の扉のドアノブである。これは近世のものだが,ジェノヴァ支配終了後もこの地に残ったアルゲンティ家が,ジェノヴァ系家系であることを強調するかのように,両端にグリフォンが配置されている。もう一つ(下図)は,ブリュージュにある,14世紀末に建造されたジェノヴァ人商館の扉の上の彫刻である。入館時に誰でもすぐに竜を退治する聖ジョルジョに目をとめたであろう。現在この場所はフライドポテトの博物館に改装されているが,内部装飾には,往年の面影を残す聖ジョルジョと竜の彫刻が,現代風のフライドポテトのイラストをそばにみながらひっそりとたたずんでいる。