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学会からのお知らせ


* 12月研究会

  下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。(当日,教室が変更になる場合があります)

テーマ: 古代ローマ時代のガラスにみる都市景観 ―― 大港プテオリと温泉保養地バイアエ
発表者: 藤井 慈子氏
日 時: 12月14日(土) 午後2時より
会 場: 國學院大学 若木タワー 5階 509教室(最寄り駅「渋谷」「表参道」 )
参加費: 会員は無料,一般は500円

  ローマ時代のガラス製品には,当時の生活や関心を物語る様々な装飾がみられる。ローマ帝国西方各地から出土した4世紀の球状瓶には,帝政初期に名を馳せた南イタリアの大港プテオリと隣接する温泉保養地バイアエの景観が刻まれている。海に面した埠頭や記念建造物の描写に加え,それらの名称や「デカトリア」等の地区名および都市名の銘文を有するカット装飾は,両都市に対する当時の関心の高さを示す「都市景観」として注目に値する。

* ブリヂストン美術館秋期連続講演会

  秋期連続講演会「芸術家と地中海都市III」をブリヂストン美術館において開催しています(詳細は362号掲載)。各回のテーマと講師は,11月2日 「ローマのブラマンテ:真の古代建築との出会い」 飛ヶ谷潤一郎氏/11月9日 「ミケランジェロとヴェネツィア」 石井元章氏/11月16日 「マドリード宮廷とベラスケス」 貫井一美氏。

* 常任委員会

・ 第4回常任委員会
日 時:4月13日(土)
会 場:國學院大学
報告事項:第37回大会に関して/研究会に関して/将来構想に関して/その他
審議事項:2012年度事業報告・決算に関して/2013年度事業計画・予算に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/役員改選に関して/その他

・ 第5回常任委員会
日 時:6月15日(土)
会 場:同志社大学寒梅館
報告事項:ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/石橋財団助成金に関して/研究会に関して/その他
審議事項:役員改選に関して/第37回大会役割分担に関して/第38回大会会場に関して/学生会員の見直しに関して/新名簿記載事項に関して/その他









表紙説明 地中海世界と動物 11


マングース/尾形 希和子


  ローマ時代に流行した「動物を魅了する奏楽のオルフェウス」を描くこのモザイク(イスタンブール考古学博物館蔵,6世紀後半)は,かつてエルサレムの埋葬用礼拝堂の床を飾っていた。画面下方を占めるケンタウロスとサテュロス(パン)が印象的で,古典的様式から逸脱した,大らかな雰囲気を醸し出している。
  ここで竪琴の音に聞き入るのは,熊,羊,首に鈴をつけた鷹狩りの鷹,小鳥,兎,鼠(蜥蜴説もある),そしてフリギア帽をかぶったオルフェウスの頭上の蛇,それと鼻を突き合わせるように描かれたマングースである。おそらく飼育されていたのだろう。マングースは現代でも犬や猫に使うようなリードをつけられている。
  かつて沖縄で「ハブとマングースの対決」ショーを見たことのある方なら,この二種の動物がペアで描かれている理由に思い当たるかもしれない。そう,マングースは毒蛇との戦いに勝つことで名高いのである。
  たとえばプリニウスは「自然は蛇にエジプトマングースとの死闘を与えた」(VIII:35)とし,「マングースは何度も泥の中を転げ回り太陽で身体を乾かす。そうやって幾層かの皮膜で形成した鎧に身を固め,戦いに挑む。彼は尾をピンと立て,それで蛇の攻撃をかわして不成功に終わらせ,そして機を見て横にそらしていた頭で敵の喉元を攻める」と続ける。さらにマングースは蛇に劣らず残忍な動物,鰐にも勝利するという(VIII:36)。
  3世紀のオッピアノスの詩『狩猟について』でも,マングースは小さいながら,蛇や鰐をその賢さと勇猛さで殺す,とある。鰐がその大きな口を開いて寝入っていると,マングースは身体に泥を塗り一気にその口の中

に飛び込み,鰐の内蔵を食い尽くしてしまう(III:407-432)。一方エジプトコブラとの戦いでは,マングースは全身を砂の中に隠し,尾と目だけを砂の外に出す。そしてまるで蛇のようなその尾でおびき寄せてコブラの喉元に噛みつくのである(III:433-447)。鰐に対する勝利の真偽はともかく,マングースがコブラに勝利することは良く知られ,たとえばパレストリーナのモザイクのようなナイル河の情景の中に,しばしば両者の対決が描き入れられている。
  さて,動物の習性の中にキリスト教的寓意を見いだす『フィシオログス』では,蛇や鰐は悪魔であり,それらに勝利する小さな動物たちは,キリストになぞらえられる。ここでは,勇敢にも鰐の口の中に入っていくのはマングースを指す ichneumon (このギリシア語はエジプトマングースの学名中にも使われている)ではなく,しばしばカワウソと訳される hydrus あるいは niluus という動物になっているが,おそらくもとは同じマングースだったのだろう。姿の類似だけでなく,マングースが泳ぎも達者なことが,混同の原因の一つかもしれない。動物保護法改正により異種動物を戦わせることが禁止され,以後沖縄では,蛇とマングースの競泳ショーに切り替えたところもあるらしい。ちなみに闘牛や闘鶏のように同種の動物を戦わせることは今でも行われている。
  沖縄に鼠やハブ退治の為に1910年に連れてこられたのはジャワマングースだが,今では増え過ぎてしまい,ヤンバルクイナのような貴重種を捕食するため,駆除されている。マングースもまた人間の身勝手さによって運命を翻弄される動物の一つなのだ。








地中海学会ヘレンド賞を受賞して

片山 伸也



  このたびは,地中海学会ヘレンド賞という大変栄誉ある賞を頂き,光栄に存じます。同志社大学で行われた大会における授賞式では,星商事株式会社様より本賞のシンボルでもあるヘレンドの記念皿「地中海の庭」を賜り,透かし彫りの精緻さと華やかで人を惹きつける絵付けの美しさに,地中海学研究も斯くあるべしとの鈴木猛朗社長の強いメッセージをひしと感じ身が引き締まる思いがしました。受賞対象となりました拙著『中世後期シエナにおける都市美の表象』は2010年度に東京芸術大学大学院に提出しました同名の学位論文に加筆修正を加えたもので,日本学術振興会の助成を受けて中央公論美術出版より2013年1月に刊行されたものです。
  私がシエナに魅了されたのは,学部生の頃にはじめてイタリアを旅行し,その市庁舎前広場であるカンポ広場の気高さと包容力に触れたときだったように思います。星の数ほどの魅力的な広場に溢れるイタリアにあっても,広場のどこにでも座って寛ぐことができるのは,シエナのカンポ広場ぐらいのものでしょう。
  イタリア中世都市の典型と目されるシエナについては,カンポ広場や大聖堂のようなモニュメントに関する歴史的研究や14世紀の課税記録に基づく中世都市の復元的研究など,1980年頃までには中世後期におけるこの都市の奇跡的な繁栄の輪郭が明らかにされていました。自然発生的(ゆえに人間的)とも評される中世丘上都市の街並みの美しさとシエナ派の絵画の流麗さも相俟って,日本でもフィレンツェのカウンターカルチャーとしてことある毎に紹介されてきましたが,都市建築史の分野での論究は稀で,一般におけるシエナのイメージは,いつも中世後期の商業的繁栄とその富がもたらした白昼夢のような芸術文化の残滓といった,ややもすると感傷的な叙述にとどまっていたように思われます。
  確かにシエナは12世紀以降に急速に発達した典型的な中世のコムーネ(自治都市)と言えますが,都市の政治体制はその後の2世紀の間に大きく変化しており,都市建築の様式,都市空間の様相も変化していきました。本書では,都市共同体の美意識が都市空間に主体的に表出する様を大聖堂などの建築単体の持つ芸術性も含めて「都市美」と定義し,中世後期シエナの都市美の表象として「(1) 大聖堂および都市内外の聖堂建築を通して現れる都市美の様態」,「(2) 世俗建築の意匠性とその分布に見

られる新たな都市美の形成」,「(3) ノーヴェ政府統治下の都市条例に見られる都市の美意識」の3点について各章で論じています。
  このような本書の構成あるいは視点が,シエナ研究をはじめた当初から私の中にあったわけではありませんでした。当初は都市内の教会建築,それも大聖堂などよりも小さな教区教会の建築的特徴と住民組織の関係から都市形成を分析しようと無邪気に考えてフィレンツェ大学に留学しましたが,すぐに史料および私自身の能力的限界を感じるとともに,シエナ中世建築のエキゾチックとも言える独自性に気付かされました。それがフランスの影響なのかピサを経由してもたらされたもっと東方の文化なのか(おそらく両方なのではないかと思いますが),またどのようにして教会建築から世俗建築であるパラッツォに様式が伝播したのかは未だ実証し得ませんが,中世都市でありながら統制された特有の優美さを湛えたシエナの都市空間の実態を明らかにしたいと思うようになりました。奇しくも14世紀前半の都市整備に関わる重要な都市条例の制定から700年を記念して,近年多くの関連研究が発表されたことも本書の執筆においては幸運でした。
  このように「都市形成」「教会建築」「パラッツォと街並み」という良く言えば研究対象の広がり,悪く言えば散漫な関心をどうすれば一つの論としてまとめることができるかを考えたとき,思い出されたのが美しい都市シエナとの最初の出会いでした。私がシエナに魅了されたのは何よりもその都市空間の美しさであり,それはすべてその時代にシエナを生きた人々の美意識の表象ではなかったのか。同時代の美意識の表れとして中世後期シエナを見ることで,司教を頼って自治を獲得し司教座聖堂が都市統合のシンボルであった13世紀初頭まで,共和制が確立し有力家族のパラッツォの意匠性によって都市の枢軸道路沿いに偶発的に美しい都市景観が実現する13世紀後半,ノーヴェ政府が誕生し通りと広場すなわち公共空間が明確な美意識のもとで整備された14世紀と,その変遷を辿ることができたように思います。
  末筆ではありますが,お忙しい中,拙著の審査にあたってくださいました選考委員の先生方ならびに,いつも心地よい地中海学研究の雰囲気をともに作ってくださる学会員の皆様に感謝申し上げます。








地中海学会大会 シンポジウム要旨

キリスト教の布教と文化

パネリスト:岡田裕成/新保淳乃/吉田亮/児嶋由枝(司会兼任)



  近世・近代のキリスト教およびキリスト教文化の広がりを,イタリア・日本・南北アメリカの諸地域間関係のなかで考えることがシンポジウムの主眼となった。プロテスタントおよびカトリック布教を,発信源と最前線の両方の視点から論じることにより,文化交流および信仰の受容・変容の諸相が見えてきたのではないかと考えている。各パネリストの発表要旨は以下である。
  吉田亮 「19世紀後半期アメリカ・プロテスタントの海外伝道と日本」
  アメリカ・プロテスタント海外伝道史研究において,19世紀末期は,「文明化」重視の時代とされてきた。従来の研究では,南北戦争後に熟成したプロテスタントが発信者となり,アングロ文明優越主義を一方的に,膨張主義に乗って海外に拡大・浸透させた結果であると説明してきた。発表では,米国最古の海外伝道団体であるアメリカン・ボード(ABCFM)による日本伝道を事例に,むしろ伝道方針を巡って,「文明化」政策を必要とする海外の伝道地で活動する米国宣教師と,伝道本部間のネゴシエーション(相互関係)が,「文明化」重視への転換をもたらす重要な契機になったことを説明した。先ず,ABCFM による,日本伝道に至るまでの,伝道と文明化を巡っての議論の流れを概観,次に日本伝道に従事した宣教師によるABCFM本部とのネゴシエーションによって,本部の伝道(特に教育政策)や文明化観が変化していくプロセスについて述べた。
  岡田裕成 「“受容” から “操作” へ:征服後メキシコの先住民エリートと宣教の美術」
  ヨーロッパとの接触以前から高度な社会を構築した地域にあっては,外来宗教の受容も,しばしば相互的な文化交渉の過程をともなうものであった。この報告では,征服後間もないメキシコの先住民首長層に関わる事例をもとに,宣教の美術を深く理解した彼らが,その外来の表象文化をみずから積極的に操作していった過程を具体的に検証した。前提としてまず,1) 宣教師たちがしばしば先住民社会を分断し,その指導層に特に重点を置いて,図像を核としたキリスト教リテラシーを伝達していたことを確認。そのうえで,2) メキシコ市の先住民居住区首長がローマ教皇に献呈した,「羽根モザイク」技法による聖画《聖グレゴリウスのミサ》を取り上げ,これが,「理性あるキリスト教徒」としての先住民の権利主張を意図した芸術的/政治的マニフェストであったことを示した。さらに,そうした図像操作のプラクシスを

裏書きする例として,最後に,3) 先住民首長層が盛んにつくりだした,キリスト教徒たる自己を顕彰した紋章図像について簡単に触れた。
  新保淳乃 「世界布教時代におけるローマ教会正統化の視覚イメージ」
  ローマ・カトリック教会は長年にわたる議論を経てトレント公会議決議を発布し,聖餐の秘蹟から聖人・聖母崇拝,聖画像崇拝に至る正統教義の再定義を行った。さまざまな異論・異文化と出合い変容を迫られた近世のローマ教皇庁に着目し,教皇周辺で発信された造形文化を例に異教・異端と闘い勝利する教会の護教論的イメージや信徒一般をローマ教会のもとに糾合させる再布教イメージを読み直した。まずトレント決議以後の聖画像論とオラトリオ会士バロニウスの『教会史』の関係を確認したうえで,1) クレメンス8世によるヴァチカン宮殿サーラ・クレメンティーナ装飾における教会栄光化とイリュージョニズム,2) パウルス5世によるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂パオリーナ礼拝堂装飾における聖母崇拝と護教論的表現を検討。さらに 3) ローマのイエズス会系信徒会による「クアラントーレ(四十時間連続聖体祈禱)」祝祭を例に,一般信徒向けに聖餐の秘蹟教義を再教育する方法を考察した。
  児嶋由枝 「イタリアにおけるカトリック改革(対抗宗教改革)期美術と日本」
  トレント公会議後のカトリック美術という文脈から,日本における宣教美術について論じた。1) まずこの時期のイタリアにおける聖像に関する批評を検証し,それと関係する宗教美術作品を考察した。前者については特にジョヴァンニ・アンドレア・ジリオの著作に注目し,後者に関しては,シピオーネ・プルツォーネの作品,サルス・ポプリ・ロマニ,《ロレートの聖なる家》等をとりあげた。2) 次いで,そうしたイタリアの動向を反映した日本における宗教美術として,南蛮文化館蔵《悲しみの聖母》,東京国立博物館蔵板絵《聖母子像》,および長崎の二六十聖人記念館蔵《雪のサンタ・マリア》について論じた。《悲しみの聖母》がシピオーネ・プルツォーネ周辺への帰属が可能で,インド・ムガール朝にも関連作品が存在すること,《雪のサンタ・マリア》がシチリアのフランコフォンテで崇敬をあつめる聖像が元絵であることなどを明らかにし,日本の宣教美術とカトリック改革期の美術との関係を検討した。(児嶋由枝)









春期連続講演会 「地中海世界を生きる」 講演要旨

公証人であること

── フィレンツェ書記官長コルッチョ・サルターティの時代の公証人と社会 ──

徳橋 曜



  今日,世界中に存在する公証人(ラテン系公証人)制度の起源は,中世地中海世界にある。当時の社会における公証人の存在感は,今以上に大きかった。そうした公証人の一人として,人文主義者としても知られるコルッチョ・サルターティ(1331〜1406)を取り上げた。
1. フィレンツェ書記官長コルッチョ・サルターティ
  彼はピストイア領域のスティニャーノに生れ,移住先のボローニャで公証術・修辞学を学んだ。1350年頃にフィレンツェで公証人資格を得て,活動を始める。その後,トーディやルッカのコムーネ書記官長に採用され,1371年からスティニャーノで公証人となった。1374年にフィレンツェの人事局付き公証人,翌年に書記官長に登用され,その名文をもって知られた。De fato et fortuna (1396〜98)等の著作も発表し,また,ミラノ公の勢力拡大に抗して,フィレンツェを「自由の守り手」・「共和政の擁護者」と位置づけるプロパガンダを定着させている。
2. 公証人とは
  公正証書の効力は公権力によって保証される。公証人が証書を作成する権能とその書類の法的効力の源泉は,帝権や教皇権にあった。だが公証人自身は官吏ではない。確かに,公文書作成と法律の専門知識を持つ彼らは,都市行政において実務官僚的役割を果たしたが,本来は証書作成や登記の請負で報酬を得る自由業である。今日の弁護士のように,法廷で被告の代理人(弁護人)を務め,原告の事情聴取等を行うこともあった。
  この公と私に介在する公証人の位置は,11世紀末〜12世紀の北・中部イタリアの政治状況に由来する。この地域は名目的には神聖ローマ帝国に属すが,コムーネの自立に伴い,その上位権力としての帝権や教皇権は形骸化した。それでも「皇帝の権威による公証人」,「教皇の権威による公証人」という肩書きが示すように,公証人の「公的信用」は帝権や教皇権に依拠している。都市領域の範囲を越えた公証力は,地域権力によってではなく,キリスト教世界の秩序を支える二つの公権力によって認定・保証されなければならなかったのである。半ば虚構の公権力に依拠することで,公証人は「どこでも」通用する権能を確保すると同時に,自由業者でありえた。
3. 公証人の社会的位置づけ
  当時のイタリアでは不動産売買,結婚契約,遺言等のあらゆる公正証書が公証人の手によらねばならなかった

から,都市を中心に公証人の需要は高かった。15世紀前半のフィレンツェ市内には,1,000人に8人の割合で公証人がいたと算定される。利用頻度が高まると共に契約手続きは簡略化され,14世紀には多くの都市で,公証人の登記簿に記載が終われば契約完了と見なされ,正式の証書は必要な場合にのみ作られるようになった。
  公証人が認証した契約や証書は,都市・地域を越えて通用する必要があったため,公証術は普遍法たるローマ法を理論的基盤とした。イタリアへのローマ法再導入と公証人制度成立が同時期なのは,偶然ではない。各都市個別の法律に制約されつつも,彼らの権能は個々の都市の範囲を越え,理念上の「公け」たる普遍の帝国すなわち神聖ローマ帝国の皇帝あるいは教皇の司法権に直結するものと位置づけられたのである。ただし先述のごとく,これが半ば虚構であったことは重要である。
4. 公証人の経済生活
  書記官長としてのサルターティの俸給は,年額100フィオリーノ・ドーロ(金貨100枚分)であった。専門職ゆえの高給は商社雇用の場合も同様である。ただし公証人の基本的収入は文書作成の手数料で,サルターティですら公務の傍ら,顧客に証書を作って手数料を得ている。手数料は契約内容や扱う金額(遺言状であれば遺産額)に応じて金額が異なった。このように公証人は,作成する文書次第で多額の収入を期待でき,能力次第で高額の固定給を得る可能性も有していた。貧しい公証人が少なくなかったことも組合規約などで判るが,それでも彼らの社会的地位は,農民や零細な手工業者よりは高く,公証人となることは社会的上昇の一手段でもあった。
5. 公証人と人文主義
  公正証書や登記簿,公文書は基本的にラテン語で記されたので,公証人にはラテン語の識字力が必須であった。同時にこうした文書と接触する機会の多い一般の上・中層市民達にとっても,ラテン語は(俗語[イタリア語]との近親性もあって)日常から隔絶した言語ではなかった。この環境が実用を越えたラテン古典への関心を生み,人文主義を支えることになる。サルターティは古典学者の養成・書物の収集にも熱心で,フィレンツェ人文主義は彼を中心に発展した。実用に根ざしたラテン語文化の担い手である公証人は,実学の域を超えた人文主義の展開にも,重要な役割を果たしえたのであった。








ケルン歴史文書館の復興と合同生活圏(オイクメネー)

草生 久嗣



  昨年度来,筆者は同僚たちとともに「合同生活圏研究会」なる勉強会を立ち上げ,公にも運営資金(平成24年度〜26年度)を得て活動を開始している。合同生活圏という表現は,ギリシア語のオイクメネー(イクメニ)を念頭においたものである。「経済(エコノミー)」の語源であるオイコノミアと同じく「オイコス(家・住居)」,動詞「住む・棲む」から派生したオイクメネーは,人の生活する場,転じて「人間(らしい文化のある)社会」や「(文明)世界」を意味する。地理学では特に可居住域を示す専門用語としても知られる。このように人々の生活圏という見方では,地中海世界が代表され,時代によってヘレニズムやローマ帝国,キリスト教主義の理念的優越といったその時々の価値観の偏りをともないつつも,古典古代から現在まで受け継がれているものである。筆者の専攻するビザンツ帝国もかつてはその理念的中心に位置していた。活動報告を,以下に本月報でさせていただくのは,このようにその主旨において地中海世界と浅からぬ縁があるためである。
  その「オイクメネー」的世界において注目すべきは,度重なる危機を超えてなお,自らの生活を「回復」させようとする人々の姿である。動乱続きのビザンツ(旧ローマ)および地中海世界の歴史にあって,人々はその危機的変動を耐えしのいだ後も,それぞれに様々な手を尽くして平穏なる状態を取り戻そうとした。このことは生活の実際にとどまらない。生活の記憶についても同様で,15世紀に政体を失い,その文化伝統が西洋世界に四散したビザンツ帝国が,近代の学問分野に再登場し,現在に至るまで日本を含む各国で研究されるに至っているのは,まさに人々によるそうした回復の営みの精華に他ならないといえよう。
  筆者のこうした意図を汲んで,研究会の第一回会合では,ドイツ・ケルン市歴史文書館の問題がとりあげられた。同文書館は,地下鉄工事の失態により2009年3月3日に崩落,近隣の建物を巻き込んで倒壊した。2名の人命を奪ったうえ,貴重な所蔵文書への甚大な被害がもたらされた。筆者たちは,まず当時から支援運動を主宰し,HP の運営や学術記事の投稿で啓蒙活動を続けておられるドイツ史家の猪刈由紀氏と平松英人氏から大阪にて講義を受け,2013年3月に渡独して関連施設を訪れた。
  結論から言えば,その再建の道のりは中途にあり,新

文書館の設置・開館に至るまで,じりじりとした作業が息苦しく続けられているという印象である。ケルン市中心部のセヴェリン通りの事故現場は,いまだフェンスで囲まれた工事中の空洞穴となっており,傷跡は今なお口を開いたままである。近隣に移設された同文書館のオフィス兼デジタルアーカイブ閲覧所には,事故についてのパネル展示ホールが併設され,市民へその被害を強く訴えている。閲覧室の静謐さと対象的に,事故の記憶を風化させまいとするパネル展示は,破壊をもたらしたものに対する静かな怒りに満ちており,事態の深刻さを市民に突きつける。公共事業が引き起こした大失態について,公的機関としてするどい批判をやめない姿と見えた。
  損壊の少なかった資料群は二十の近隣施設に分割管理され,現在の文書館としての活動の中心は,ポルツ地区に設置された「修復・デジタル化センター」にある。設備の重量や作業環境を考慮し,家具問屋施設を期限付きで間借りした作業場では,黙々と重度破損アイテムの修復が行われていた。最も損壊のひどい水没文書の束は,漆喰の塊のようになり果てており,カビの発生を避けるため,いったん冷凍保存されている。湿度を調節する特殊な容器の中で緩やかに解凍・脱水されてのち,医学実験用のユニットの中で一枚一枚はがされ,細かい粉じんを払うブラシがけや破損個所の補修をうける。それらが一枚一枚撮影ユニットにてデジタル化されてゆく。この繰り返しである。砕けた蠟印章の復元を担当する女性は「ジグゾーパズル」だと笑っていたが,その破片の大きさたるやほぼ米粒大である。筆者たちはその他の技術的な課題や展望について多くを聞かされるなかにも,復興の困難を再認識させられた。こうした重度破損アイテムの修復は,むこう2年以内に完了される予定。しかし施設としての本当の機能復元まであと20年はかかるという。
  わが国でも,市民や研究者が震災後の文書史料救済活動に取り組まれていることは聞き及んでいた。筆者はこのケルン訪問の機会で,恥ずかしながらようやくその活動の意義と「生活」復興の困難さを実感した次第である。1995年の阪神・淡路大震災以後先の大震災も経て続けられるわが国の文書救済活動については,歴史史料ネットワーク(http://siryo-net.jp/)に詳しい。









「ファン・エイクへの道」展

保井 亜弓



  ロッテルダムのボイマンス・ファン・ブーニンゲン美術館で,2012年10月13日から2013年2月10日まで「ファン・エイクへの道」展が開催された(当初1月13日までの会期が延長)この展覧会を共同企画したベルリン国立美術館絵画館は次会場の予定だったが,2011年に財政難のためやむなく中止を決定した。ロッテルダムでも資金集めのために個人献金を募り,さらにさまざまな基金などが協賛して実現に至ったという。
  展覧会のプロモーションビデオは,UFO に乗ったヤンがヘントに降り立ち《ヘント祭壇画》を描き上げるというアニメーションで始まる。16世紀から創始者,改革者と賞賛されてきたヤン・ファン・エイクはまるで宇宙人のように突然現れたというわけだ。しかし,彼が活躍する以前にも豊かな芸術文化があり,それについては一般にはそれほど知られていない。この展覧会では,1400年前後の国際ゴシック様式の芸術からヤン・ファン・エイクの初期作品までが展観された。ファン・エイクおよびそれ以前の作品群は,保存状態からきわめて取り扱いが難しく貴重であるため,それらを約90点も集めたこの種の展覧会は今後二度と実現不可能とも言われている。
  会場には,板絵を中心に,素描,写本画,キャンバス画,金銀あるいは革の工芸品,木や象牙や大理石を素材とした彫刻など多種多様な作品が展示された。ファン・エイク以前の個々の作品については述べる紙面がないので,これまで未紹介であったイタリアの個人コレクションの《キリストの塗油の三連祭壇画》(ブルッヘ?,1410〜20年頃)にのみ触れておこう。中央パネルには主題として珍しい「キリストの塗油」が,両翼部には建築の中に座す聖アントニウスと洗礼者聖ヨハネが描かれている。聖アントニウスがいる建築の合理的な穹隆の表現,そして洗礼者聖ヨハネの印象的なポーズと表情の描写が,ファン・エイクにつながる特徴を示す美しい作品である(展覧会後の8月,同美術館はこの作品の購入を発表)。この他にも,ファン・エイク以前の作品群からは,ファン・エイクが受け継いだ要素,たとえば自然の細部描写,板絵裏面の大理石模様,縁を活用したトロンプ・ルイユの表現を確認することができる。ファン・エイク以前の作品に金箔が多用されているのに対して,ファン・エイク作品では油彩の描写が金の輝きをほとんど達成しているのは大きな差異である。
  会場中央の円形の展示室はファン・エイクとそれに近い作品に充てられている。ここでも,個人コレクション

の素描《キリストの磔刑》が新たにヤン・ファン・エイク工房作として展示された。かつて16世紀のコピーと考えられていたこの素描は,今回綿密な調査によりヤンと関係づけられた。細部表現は,確かに二ューヨークの二連板の《磔刑》に類似している。また今回ロッテルダムの《墓を訪れる三人のマリア》が修復後初めて公開された。以前から帰属の議論があったこの作品の制作年代は,下げられて1430〜35年頃とされている。つまり1426年に死んだとされる兄フーベルトが関与した可能性を排除している。カタログで論じられているように,展覧会の主催者は,初期作品におけるヤン/フーベルト問題に疑問を投げかけ,画家と明記されてはいないが記録に残るヤンのもうひとりの兄弟ランバートが,ヤンの死後未亡人マルガレータとともにその工房を引き継いだという仮説を強調している。フーベルトの作品が特定されないとはいえ,その名が伝えられてきた彼の介在をはたして除外することができるのか,という疑念は当然出るだろう。遠景の雪を戴いた山の表現は,1426年のヤンの極秘旅行に関連する要素として帰属の根拠とされている。いずれも「ヤン・ファン・エイク(?)」として示されたベルリンの《磔刑》と《墓を訪れる三人のマリア》には,同様の雪を戴く遠景の山が描かれている。ヤン・ファン・エイク関連としてくくられている作品群の質には明らかにばらつきがあり,さらなる検討が必要だろう。なお,展示作品には入っていないものの,カタログでベルリンの《教会の聖母》の年代を,従来の1425〜27年頃からドレスデンの三連祭壇画より後の1439年頃とする提案もなされている。
  鑑賞者にとってのお目当てはやはりヤン・ファン・エイクの作品だろう。中でもとくにトリノの《トリノ=ミラノ時禱書》を実見できる機会はたいへん貴重だ。壁にはめ込まれた展示ケースは見やすいとは言いがたいものの,顔をガラスにつけるようにしてじっと眺める人々が絶えることはなかった。そして,ワシントンの《受胎告知》の円熟した技量は他の作品を圧倒していた。どのようにしてヤンがこれほどの域に到達したのか,その答えをこの展覧会の中だけに見いだすことは難しい。
  最後のコーナーは,後の時代のコピーを展示することで,失われたファン・エイク作品および1400年頃の作品の多様性を示している。いささか雑多な展示に批判もあるとはいえ,エル・エスコリアルの《聖アントニウスの誘惑》などの作品を見ることができたのは興味深く,この意欲的な試みを評価したい。








〈寄贈図書〉

『アマルフィ海岸:海洋都市の形成と景観の変化に関するフィールド研究』 2012年7月,『オルチア川流域:まちと田園の形成に関するフィールド研究』 2012年8月 法政大学デザイン工学部建築学科陣内研究室
『Italiano più attivo』 和栗珠里・畷絵里著 白水社 2013年3月
『ローマ帝国と地中海文明を歩く』 本村凌二編著 講談社 2013年4月
『エル・グレコ没後400年記念 公開国際シンポジウム議事録 エル・グレコ再考 1541-2014年:研究の現状と諸問題』 エル・グレコ・シンポジウム事務局 2013年6月

『パルテノン・フリーズ:オリュンポスの神々の立体復元』 中村るい著 2013年6月
『イスラーム建築の世界史』 深見奈緒子著 岩波書店 2013年7月
『エウリピデス 悲劇全集 2』 丹下和彦訳 京都大学学術出版会 2013年9月
『システィーナ礼拝堂を読む』 越川倫明・松浦弘明・甲斐教行・深田麻里亜著 河出書房新社 2013年9月
Amalfi: Caratteri dell'edilizia residenziale nel contesto urbanistico dei centri marittimi mediterranei, by Hidenobu Jinnai and Maria Russo, Centro di Cultura e Storia Amalfitana