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学会からのお知らせ


* 学会賞・ヘレンド賞
  本学会では今年度の地中海学会賞及び地中海学会ヘレンド賞について慎重に選考を進めてきました。その結果,次の通りに授与することになりました。授賞式は6月15日(土)に同志社大学(京都市)で開催する第37回大会の席上において行います。

地中海学会賞: 該当者なし
地中海学会ヘレンド賞: 片山伸也氏

  片山氏の『中世後期シエナにおける都市美の表象』(中央公論美術出版,2013年)は,イタリア都市国家の繚乱期にあったシエナの大聖堂および都市内外の聖堂建築を通して現れる「都市美」の様態,世俗建築の分布とその意匠性に見られる12世紀半ばの新たな「都市美」の形成過程,13世紀後半からのノーヴェ政府統治下の都市条例に見られる都市の美意識を論じたものである。都市国家の体制と都市空間の相関性を明らかにし,中世都市国家の実態を具体的に提示している。以上,建築史と都市史を包含する広い視野に立った本研究は高く評価されるべきものであり,片山氏は地中海学会ヘレンド賞に値する。

* 『地中海学研究』
  『地中海学研究』 XXXVI (2013) の内容は下記の通り決まりました。本誌は第37回大会において配布する予定です。

「軍事書『タクティカ』とレオン6世期のビザンツ帝国東方辺境」 仲田 公輔
「18世紀初頭のヴェネツィア共和国における財政・税制 ── 1709年の大寒波とトレヴィーゾにおける消費税・関税への影響」 湯上 良
「イタリアにおけるル・プレ家族モノグラフ法の受容 ── パゾリーニ伯爵夫人の農民調査」 山手 昌樹
「研究ノート ギリシア青銅器時代印章印影のシンボルとライオンモチーフの組み合わせ」 小石 絵美
「書評 水野千依著 『イメージの地層 ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言』」 石井 元章

* 第37回総会
  先にお知らせしましたように第37回総会を6月15日(土),同志社大学(京都市)において開催します。総会に欠席の方は,委任状参加をお願いいたします。

議事
一,開会宣言
二,議長選出
三,2012年度事業報告
四,2012年度会計決算
五,2012年度監査報告
六,2013年度事業計画
七,2013年度会計予算
八,役員改選
九,閉会宣言

* 7月研究会
  下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ: 16〜18世紀のイスタンブルにおける歴史地震
発表者: 澤井 一彰氏
日 時: 7月20日(土)午後2時より
会 場: 國學院大学若木タワー5階509教室(最寄り駅「渋谷」「表参道」 http://www.kokugakuin.ac.jp/guide/access_shibuya.html
参加費: 会員は無料,一般は500円

  オスマン帝国の都であったイスタンブルは,古代から何度となく巨大地震が発生し,そのたびに大きな被害を受けてきた街であった。その最も古い記録は,この街がローマ帝国の新たな都とされ,コンスタンティノポリスと呼ばれ始めたばかりの4世紀に遡る。本報告では,16〜18世紀を対象として,イスタンブルを襲った歴史地震の実態について検討するとともに,地中海世界有数の大都市であったこの街と地震とのかかわりについて論じたい。








第37回地中海学会大会のご案内

堀井 優



  2013年度の第37回地中海学会大会は,6月15日(土)・16日(日)に京都の同志社大学で開催されますので,大会準備委員および会場校の関係者として一言ご案内申し上げます。
  過去に京都で年次大会が開催された例は二つあり,最初は1980年の第4回大会(京大会館),その次は1991年の第15回大会(京都外国語大学)でした。それから22年が過ぎたことになり,この間に古都の風景もいくらか変わっているものと思います。
  今回の大会の会場となる同志社大学の寒梅館は,2004年にオープンした,比較的新しい建物です。もともと1965年に建てられた大学会館を全面的に建て替えたもので,学生支援のための諸部門の他,一般利用もできるレストランや,さまざまなイベントを開催できる二つのホールを備えています。今回の大会の諸行事は,地下1階にあるハーディー・ホールで行われます。1・2階席あわせて850人収容という少し大きめの規模ですが,そのぶん余裕をもってお座りいただけるのではないかと思います。なお寒梅館の正面の烏丸通をはさんだ向い側には,2012年秋に竣工した新しい校舎,良心館が見えます。
  初日は,開催地に深く関連する企画を用意しました。まず記念講演は,日本中世史および京都都市史に関する数多くの研究を発表してこられ,2010年には文化勲章を受章された脇田晴子氏(石川県立歴史博物館館長)にお願いすることができました。ご講演は「祇園祭と京都町組」と題し,中世の町衆組織を中心とする,まさしく京都らしいお話をうかがえることと存じます。
[※ 事務局註  記念講演は変更になりました。詳細につきましてはこちらをご覧ください。]
  この記念講演の後を受けて,地中海トーキングでは,「都(みやこ)のかたち」をテーマに,地中海各地の首都もしくは何らかの中心的機能をもった都市を取り上げることになります。司会兼任パネリストは,ギリシア・ローマ美術考古学研究を長年牽引してこられた会長の青柳正規氏(国立西洋美術館)にお願いし,さらにビザンツ史の草生久嗣氏(大阪市立大学),古代ギリシア史の栗原麻子氏(大阪大学),そして中近世イスラーム史の堀井がパネリストとなり,それぞれローマ,コンスタンティノープル,アテネ,カイロについて語ることになっております。
  授賞式および総会のあとの懇親会は,会場から徒歩で

15分程度,今出川通をわたり,京都御所を左手に見ながら南に下ったところにある京都ガーデンパレスでご用意しております。
  二日目の午前中は,今回は気鋭の研究者による4本の研究発表が行われることになりました。分野は美術・音楽・文学,扱われる時代は古代・中世・近代にわたり,幅広い範囲の諸報告をお聴きいただけるものと思います。
  引き続き午後は,「キリスト教の布教と文化」と題するシンポジウムが行われます。今回のシンポジウムを企画するにあたり,当初は開催地および会場校とキリスト教との関わりから考えはじめ,やがて近世・近代のキリスト教の世界大の広がりを対象とすることになり,このようなテーマを設定するにいたりました。キリスト教布教は,2009年の第33回大会(西南学院大学)のシンポジウム「キリシタン文化と地中海世界」でも取り上げられましたが,このときパネリストとしてキリシタン美術について報告された児嶋由枝氏(上智大学)に,今回は司会兼任パネリストをお願いしました。そしてスペイン・ラテンアメリカ美術の岡田裕成氏(大阪大学),イタリア美術史の新保淳乃氏(千葉大学),アメリカ移民・宗教社会史の吉田亮氏(同志社大学)をパネリストとしてお迎えすることにより,カトリック布教およびプロテスタント伝道と,それに伴う文化交流を,イタリア・日本・南北アメリカにわたる広域的な諸地域間関係のなかで論じていただけるものと思います。
  なお会場から東の方へ徒歩で3分程度,今出川キャンパス内のハリス理化学館2階にある Neesima Room では,今回の大会日を含む2013年3月26日(火)〜6月30日(日)の期間,「会津と八重──八重を育てた故郷」と題する企画展が開催されています。土曜日・日曜日の開室時間は10〜16時,入場無料となっております。ご関心のある方は,こちらもあわせてご覧ください。
  大会当日,多くの皆様方のお越しを,準備委員の小池寿子,石井元章,山辺規子,稲本健二の諸氏とともにお待ち申し上げております。









ルネサンス政治思想史学者 渡邉守道(1925〜2012)

金 一



  15世紀半ばのヨーロッパを舞台に駆け巡った神学者,ニコラウス・クザーヌス(1401〜1464)は,ルネサンス期の最初のドイツ人枢機卿として,エウゲニウス4世からピウス2世に至るまで歴代の教皇に使えた,教皇庁の重鎮であった。彼は,小さな地方君主に匹敵するほどの聖職禄を持ちながら,それを自身の為に使わず清貧を守ったため,尊敬を集めてはいたものの,ローマ在住の同僚の枢機卿たちや格下の聖職者たちからも嘲笑された。その一方では,フラビオ・ビオンドやアルベルティともつながりが有り,複雑な人物であったことが想像される。彼の生きた15世紀は教会史上激動の時代であり,教皇庁が抱え込む問題の数々に,クザーヌスは真摯なドイツ人枢機卿として率先して対応した。後のルターに強く影響を与えた15世紀の教会改革者たちの一人でもあったクザーヌスは,同時にその膨大な著作を通じて,神学哲学のみならず,科学,政治思想史においても重要な布石を残した。その彼を研究する学者の団体が,近年まで大きく分けて3カ国に集約されていた。ドイツ,日本,そしてアメリカである(日本人としてクザーヌスに最初に取り組んだのは西田幾多郎であった。現在はスペイン,アルゼンチン,ロシアにも新しいクザーヌス研究の団体がある)。
  一年前の4月1日に他界した渡邉守道氏は,クザーヌスを政治思想史の立場から探求したパイオニアであり,世界中の教会改革史の専門家たちから広く知られていた。ニューヨーク市郊外にあるロングアイランド大学において教授として政治思想史の教鞭を執る一方,同氏は1983年にアメリカン・クザーヌス・ソサイエティーを創設し,以来2008年までその会長を務め,ドイツのトリエールにあるクザーヌス研究所の歴代所長たちと共に,各国のクザーヌス研究者たちを一つにまとめる中心的存在であった。そして,会員たちや大学の研究機関に国際的に配布される年2回発行の American Cusanus Society Newsletter の編集を,死の直前まで行った。このニューズレターが世界のクザーヌス研究の進展に及ぼした影響は,計り知れない。
  渡邉氏は山形県に生まれた。明治維新時にキリスト教に改宗して牧師となった武士を祖父に持ち,父もオランダ系改革派の牧師であった。その父が豊かさとはほど遠い環境にありながら,軍国主義の厳しい風潮の中で近隣の貧しい住民たちに物質的精神的奉仕をし続ける姿を見

て育ったという。東京大学法学部卒業後は,プリンストン大学在籍を経て,1960年にコロンビア大学において,ポール・オスカー・クリステラーをはじめとする当時のアメリカのルネサンス研究の泰斗たちのもとで博士号を取得し,その博士論文は1963年に出版されている。クザーヌス研究はその大半が中世哲学の観点からなされてきたが,彼はクザーヌスをより立体的に検討する必要性を訴え,クザーヌス周辺の人物たちについても実に多数の著作を残し,それらは特にドイツを始めとするヨーロッパ各国において敬意を持って迎えられた。ゆえにヨーロッパの著名な教会史学者たちと特に親交が厚く,彼らの研究をいち早くアメリカの研究者たちに紹介したことも,彼のアメリカでの地位を不動なものとした。
  渡邉氏の研究において特記すべきもう一つの点は,クザーヌスが在住したか又は訪れたヨーロッパの各都市を自身で訪問し,政治的地理的コンテクストからのクザーヌス理解を探めたことである。それは,哲学思想影響史に偏るクザーヌス研究者たちへの警鐘でもあった(現在では彼の後に続く若手の研究者たちが育ってきている)。
  渡邉守道氏は地中海学会の会員ではなかったが,彼の業績を深い尊敬の念とともに忘れずにいたいと思う。

Morimichi Watanabe, The Political Ideas of Nicholas de Cusa with Special Reference to his De concordantia catholica, Genève: Droz, 1963.

Morimichi Watanabe, Concord and Reform: Nicholas of Cusa and Legal and Political Thought in the Fifteenth Century, edited by Thomas M. Izbicki and Gerald Christianson, Aldershot, Burlington USA, Singapore, Sydney: Ashgate (Variorum Collected Studies Series), 2001.

Morimichi Watanabe, Nicholas of Cusa: A Companion to his Life and his Times, edited by Gerald Christianson and Thomas M. Izbicki, Burlington USA, Farnham England: Ashgate, 2011.

  日本語では,

渡邉守道著 『ニコラウス・クザーヌス』 聖学院大学出版会,2000年。

  訳書として,

P. O. クリステラー著,渡邉守道訳 『ルネサンスの思想』 東京大学出版会,1977年,がある。









「ヴェネツィア史,大学間共同センター」創設

アルフレード・ヴィッジャーノ/湯上 良



  2013年3月12日,ヴェネツィア大学人文学科サン・セバスティアーノ校舎にて,パドヴァ,ヴェネツィア,ヴェローナ,ウーディネ各大学による「ヴェネツィア史,大学間共同センター(Centro interuniversitario per la Storia di Venezia)」の設立記念講演会が行われた。
  このプロジェクトの発案者は2009年10月に50歳の若さで急逝したヴェネツィア大学准教授ジュゼッペ・デル・トーレ(Giuseppe Del Torre)と,デル・トーレと公私に渡る無二の親友で,初代センター長となったパドヴァ大学准教授アルフレード・ヴィッジャーノ(Alfredo Viggiano)である。デル・トーレは2008年から闘病生活を続けていたが,その翌年初から計画が開始され,事務手続の天国といっても過言ではないイタリアにおいて,この日,4年越しのプロジェクトは漸く一つの形に結実し,基調講演においても「ジュゼッペはまさにセンターと共に今も生きている」と力強く宣言がなされた。ヴェネツィア大学のステーファノ・ガスパッリ筆頭副学長,パドヴァ大学のジョヴァンニ・ルイージ・フォンターナ史学・地理学・古代学科々長を迎え,その設立意図と目的について開幕の辞が行われた。
  イタリア共和国内には書架延長1,500キロメートルにも及ぶアーカイブズが保存され,その中でも旧体制下の文書保存量に関しては最長の書架延長70キロメートル以上を所蔵する国立ヴェネツィア文書館を始め,質の高い公・私文書の宝庫で,歴史研究の調査環境の整ったヴェネト,フリウリ・ヴェネツィア・ジューリア両州の主要大学が共同にて歴史センターを設立した意義は非常に大きい。
  ヴェネツィアの都市内だけでも,これまで Fondazione Cini, Istituto Veneto, Ateneo Veneto, Fondazione Querini Stampalia を始めとし,その起源も構成も異なる学術機関が時には協業しつつも,基本的には独自にヴェネツィア史の各時代,各分野の屋台骨を支えてきた。しかしながら,近年の急激な社会変化に主に起因し,歴史学という狭い範囲だけではなく,「歴史」それ自体を取巻く情勢が大きく変化し,さらに既存の関連機関はえてして,各分野の「大家」によって大半の活動が占められる傾向にあった。そうした情勢下で,全国的に学生数の減少が見られる大学教育機関の中で,全く逆の傾向を示す両州の大学が先導する形で,歴史教育や知の

あり方に関して一石を投じ,次代を担う若い世代に注力していく態勢は,この分野において非常に斬新な試みと言えよう。
  またヴェネツィアの歴史は,その起源から陸と海を媒介として,西洋と東洋の架け橋となり,国家間での緊張関係に陥った際は,重要な仲介役を果たし,その独自性ゆえに他者と他者をつなぐ役割を担ってきた。こうした特徴を礎とし,このセンターにおいては,地中海やヨーロッパのみならず,地域と時代を越えたヴェネツィア史のあり方を模索,提案,発信していくこととなる。極めて活動的に他の文化や文明との関係を築き上げ,地中海やラグーナ,都市ヴェネツィアやイタリア半島本土へと至る広大な地理的領域は元より,各地へ大使や要員を派遣し,情報網を築き上げた範囲をも包括してゆく。
  したがって,政治史や経済史のみならず,文化や芸術,社会史,女性史といった多様な題材と,1,000年以上存続したヴェネツィア共和国の時代だけではなく,その滅亡後,現代に至るまでの時代を対象とし,知的刺激を提供し,そうした研究を促進していくことに主眼が置かれる。
  ヴェネツィアのみに留まらず,国際的色彩を持ち,多種のテーマを扱うという設立意図通り,この講演会では外国人でヴェネツィアの中世初期の貨幣について携わるヴェロニカ・ウェスト・ハーリング,オックスフォード大学教授と,ヴェネツィア生まれでフランスにて教鞭を取るアンナ・ベッラヴィーティス,ルーアン大学教授による女性史についての講演が行われた。ウェスト・ハーリング教授はヴェネツィア貨幣が地域をまたぐ形で普及し,重要な役割を果たしたこと,またベッラヴィーティス教授はヴェネツィア社会において果たした女性の重要な役割につき,非常に内容の濃く,且つ今後のセンターの活動の可能性と発展を感じさせる発表が行われた。
  急激な社会変化と歴史の意義そのものへの危機感と共に,異なる世界と世界をつなぎ,若い世代へも着目した非常に意欲的な取組みに今後,日本からも多くの賛同者や参加者が集うことを期待したい。









猫にレバー

―― イスタンブルの猫たち ――

川本 智史



  イスタンブルを初めて訪れると,道を闊歩する犬猫の多さに驚かされることだろう。日本でも近年地域猫の名のもと野良猫の存在が徐々に認められつつあるが,イスタンブルの街角にはその比でなく猫がうろついているし,犬たちも基本的に駆除の対象になることはなく人間と都会で共存している。筆者は町中にそこはかとなく漂う猫ションの臭いこそがイスタンブルの香りだと思っている。
  とりわけ猫はイスラームにおいて愛される動物である。犬好きの向きには残念なことに,犬は不浄な動物としてあまり好まれてはいないが,近年では富裕層を中心に室内犬を飼う習慣も広まってきた。それでもやはり愛されるのは猫である。預言者ムハンマドの言行録であるハディースにも猫はしばしば登場し,彼の愛猫家としての一面がうかがい知れる。またムハンマドの教友であるアブー・フライラにいたっては,猫好きが昂じるあまり本名に代わって「子猫ちゃん(フライラ)のパパ」を意味する名で末代まで知られるようになってしまった。
  イスタンブル市内各所にも現代のアブー・フライラたちが出現する。日本同様にたいていの場合猫の世話をしているのは中高年の女性が多く,いわゆる「猫おばさん」である。筆者が留学中に暮らしていたアパートの近辺にも一人有名な猫おばさんがいて,周辺の猫たちに水とキャットフードを与えていた。猫たちもおばさんが出てくる時間をよく心得ていて,おばさんの姿を認めるや否や,多い時では10匹ほど集まってにゃーにゃーと餌をねだるのである。また歩いているとよく大きな空のヨーグルト容器なんかが歩道の脇に置かれているのを目にするが,これは猫たちの水飲み場である。死後預言者様に天国に招き入れてもらうためにも,けつまずいてひっくり返さないよう注意を払わねばならぬ。
  猫たちが住みかとしているのはブロック状の街区の内側にある空き地や廃屋であることが多く,階下の窓格子とベランダ伝いに住居侵入することもいとわない。窓を開けたまま寝ていたら枕元で猫が鳴いていた,台所で猫同士が喧嘩していたなど,愉快なエピソードには事欠かないが,通常彼らはノミダニの隠れ家ともなっているから十分気をつけなくてはならない。野良猫たちは警戒心が強いから,なかなかさわらせてはくれないだろうが,ベランダで餌づけをすることは十分可能である。我が家のベランダに出入りしていた猫たちも夜になると餌をね

だって待ち構えていた。ちなみに彼らがねぐらとしていたのは,我が家から空き地を挟んで向かいにあった築百年は超えるかという瀟洒な3階建ての豪邸で,日本ならば文化財指定を受けて保存対象になるほどの立派な建物だった。おそらくは元のギリシア系住民がこの地を離れて以降,空き家として朽ち果てるにまかせて猫たちの家になっていたのだろうが,ついにある夜轟然と倒壊して近所一体が大騒ぎになった。筆者もあわててアパートから道に飛び出すと,くだんの猫おばさんも不安そうな顔をしていて様子をうかがっている。当然ながら彼女が心配していたのは猫たちの安否である。この時は幸いにも猫たちのほとんどは無事であったようだが,病気や事故などもろもろの原因でイスタンブルの猫たちの寿命は短く,1年ほどで見かけなくなってしまうものも多い。
  イスタンブルっ子の猫好きはかなりの歴史と伝統を有している。例えば1587年にハプスブルク家の使節団に加わって来訪したルベナウによれば,町のあちこちには犬猫のための調理場があって,低質の肉や,レバー,その他の内臓などがこま切れ状で串焼きにされ,売り子がこれを担いで売って回ったという。使節団一行はいたずら心を出して犬の群れにこの餌を投げ入れては喧嘩する様子を楽しんでいたそうだが,ついにある日これを見咎めたトルコ人たちに殴られそうになったという小事件も紹介されている。こうしてみると猫とならんで犬たちも案外悪いあつかいはうけていなかったようである。主にモスクの参詣者たちが宗教心から餌を買い与えていたそうで,18世紀初頭にイスタンブルを訪れたフランスの植物学者トゥルヌフォールも週の決まった日に餌を与えるよう遺言する習慣すらあったことを伝えている。
  さて,日本では猫は鰹節が好きなものだと相場が決まっているが,トルコではレバーがこれに相当する。ことわざでも「猫がレバーを見るように」(物欲しそうに見つめる)とか「猫にレバーを預ける」(信用できない人に大切なものを預ける)のように猫とレバーはセットになっているものが多い。歴史的に猫用レバー売りがいた影響だと思われるものの,筆者が見聞した限りではやはりイスタンブルの猫たちも肉よりは魚好きである。イスタンブルにお出かけの際は「プスプス」と呼び集めてアジの切れはしでも投げ与えていただければ,さぞや泉下の「子猫ちゃんのパパ」の覚えもめでたいことだろう。









内海と湯町

松田 法子



  私は日本の都市史・建築史を専門にするが所属研究会のご縁で入会することになり,昨年尾道へ出掛けたのが本会初参加の機会であった。帰途につく前に尾道からしまなみ海道を伝って四国へ渡り道後に寄った。
  愛媛県松山市の道後温泉は松山城から 2 km ほど東北東にある。中世までは温泉場のほうが地域支配の拠点だった。河野通盛(1364年歿)の時につくられたとされる湯築城は温泉場と一体の城だといってもいい。河野氏は石手寺や修験道の明王院といった宗教勢力を仲立ちに温泉を掌握していた可能性がある。道後の湯は遡ること古代から高名で『日本書紀』には天皇の来浴記事がみえる。『源氏物語』には,数が多いことのたとえとして「伊予の湯桁」という言い回しもある。
  近世には河野氏に代わって松山藩が温泉を把握することになった。はじめ温泉の管理には町奉行や御茶屋番などがあたったが,18世紀初頭には明王院に移った。明王院は浴場のすぐ向かいに位置し,近世を通じて温泉に関わる差配を行った。入湯人は身元証明を持参のうえ明王院へ行って入浴の指図を受け,湯銭を納める。温泉場の家々が入湯人を泊める権利とみられる「客宿株」も同院が支配した。入湯人がおこす諍いの調停も行っていたらしい。
  瀬戸内海一帯において道後は飛び抜けて有名な温泉場であるが,逆にそのことはこの辺りでは温泉が非常に限られていたことを示す。1950年代まで道後の入浴施設は一箇所しかなく(道後温泉本館, 1894年築ほか, 国重文),旅館にも内湯がなかった。湯量の少なさから温泉を旅館に引くことができない決まりで,客はみな道後温泉本館へ出向いたのである。しかもそのわずかな温泉さえ幾度も湧出が止まっており近世にはたびたびその復活を祈る湯祈?が行われている。道後の温泉は花崗岩の割れ目から湧出していて地震による地盤の変化がおこると止まってしまうとみられている。
  瀬戸内沿海部では道後の温泉湧出が局所的であり奇異だったからなのかどうか,伊予にはこんな神話がある(『釈日本紀』伊予国風土記逸文)。道後の湯は地下樋で別府から引かれたものだというのだ。なお別府の温泉のほうは古代にもその活発な地熱現象が認められていて,今日の「血の池地獄」に類する湯池の様子も『豊後国風土記』(732〜39年頃編纂)に記録されている。
  神話のあらすじはこんなものだ。国造りのため,大穴持命と宿奈毘古那命が出雲を出発して各地を旅してい

た。ところが「湯郡」(道後)に辿り着いたところで宿奈毘古那命が倒れてしまう。大穴持命は宿奈毘古那命を蘇生させるため,「速見の湯」つまり別府の温泉を地下樋で取り寄せ,宿奈毘古那命の体をひたした。温泉の効力は絶大で宿奈毘古那命はまもなく起き上がり「しばらくの間眠ったようだ」と言ってそばの石の上へ立った。神話の石はいま道後温泉本館のすぐ横に祀られている桃色がかった花崗岩である。この伝説はひろく知られるところとなり,脇蘭室は文化年間(1804〜18年)に別府の観海寺温泉に滞在したおり「浴しながら伊予の国を望みて,道後の湯は此の速見の郡の湯を分ちたりなどいふことを」思い出し「隔ても猶睦まじき心地して伊予の湯桁もたどられにけり」と詠んだ。
  その別府には一遍上人の伝承が残る。荒れ狂う「地獄」を法力で鎮めたというのである。一遍は河野氏直系の子息として道後の泉源すぐ東にある宝厳寺の地に出生したとされる。史料からいえば一遍は,諸国の遊行から一度伊予に戻って再び遍歴に出た直後,かつ踊念仏をはじめる直前にあたる頃別府へ渡り,ハンセン病患者を治療している(『麻山集』抄)。
  じっさい別府は,伊予とのつながりが深い。
  日本最大の温泉町となった別府は1924(大正13)年に市制を施行した。近世以来の別府村などを出発点に明治中頃から複合して巨大化した別府は,四国西部の沿岸とくに伊予から入ってきた人々によってその進展を後押しされてきたといっても過言ではない。浴客,女中,芸娼妓,または事業家などとして,人々は別府へ流れ込んだ。「地獄めぐり」を生むなど別府観光の立役者として今も顕彰される旅館主や,別府と大分をつなぐ電車軌道の経営者なども明治期に伊予から渡ってきた。「湯治船」と呼ばれる和船の往来も盛んだった。それは船上で生活しながら湯治する船で,船上の人は漁民や農閑期の百姓のほか御詠歌を唱えて稼ぎながら入湯する者などさまざまであった。
  ある冬の朝,別府の見晴らしのよい高台に立った。愛媛県の佐多岬はとても近くに望まれ海を介して伊予と速見がつながっている実感がせまる。道後と別府を結ぶ神話や伝承は,さまざまなかたちで強固な関係を形づくってきた地域の伝統を象徴していようか。湯治船の群れを海上に想像していたら,内海を介した人やモノの往来の領域がくっきり浮かび上がって見えたように思えた。








表紙説明 地中海世界と動物 9


水牛/岩崎 えり奈


  現在,世界には1億9千万頭の水牛が飼われている。ウシ大国のインドは世界の水牛の56%を占め,世界第一位である。パキスタン,中国が続き,世界の水牛の8割はこれら3国で飼養されている。一方,地中海世界で飼われている水牛は世界の水牛頭数の3%にすぎないが,イタリア,トルコ,ブルガリア,ルーマニア,ギリシア,エジプトなどの国々で盛んに飼育されている。
  水牛は主に沼沢水牛(スワンプ型)と河川水牛(リバー型)に大別されるが,地中海世界で飼育されている水牛は後者である。沼沢水牛は東南アジアを中心に飼われる役用水牛で,小型である。これに対して,河川水牛は大型で長くカールした角をもち,乳牛と役用両方をこなすが,脂肪分やプロテインを牛よりも多く含むことから,南アジアや地中海沿岸の地域で乳牛として飼われてきた。
  地中海世界において水牛の飼育地として有名なのは,イタリアとエジプトであろう。イタリアではカンパーニア州やラツィオ州で水牛の飼育が盛んで,水牛の乳を使用した風味豊かなモッツァレラチーズがつくられている。イタリアにおける水牛の起源には諸説あり,中世にシチリアを経由してアラブから伝わったとも,十字軍がヨーロッパに持ち帰ったとも言われている。
  一方,エジプトでは水牛が西アジアから伝来したのは7世紀頃とされ,古代エジプトの時代から飼育されていた牛とくらべると新参である。しかし,中世以来,水牛は牛よりも高価で,家畜として最も大切にされてきた。水牛は,イブン・バットゥータの旅行記にも登場する白

チーズのドミヤーティ(別名ギブナ・ベイダ)などの様々な乳製品をつくるために欠かせない。と同時に,農作業と運搬の動力源,蓄財にもなる万能な家畜である。このため,農業の機械化により役畜が必要でなくなり,乳量が牛よりも少ないことから乳牛としても非効率的な家畜とみなされた時代が1960年代から70年代にかけてあったものの,水牛は依然として農家にとって大切な家畜である。実際にも,多くの国では農業の機械化やホルスタイン牛の導入とともに,水牛の頭数は減少傾向にあるが,エジプトでは増え続けている。
  さて,エジプトの農家にとってかくも重要な水牛だが,エジプトのどこにでも水牛がいるわけではない。たとえばリビア砂漠のオアシスでは,牛をたくさんみかけるが,水牛はほぼ皆無である。水牛は暑熱環境への生理的適応性が牛よりも低く,一日の寒暖の差が激しい砂漠環境で体温を調節するために水浴する。したがって,水量の多い場所を必要とすることが絶対条件であり,水牛を飼育できる場所は乾燥地において必然的に限られてくる。つまり,水牛は,ナイル川による水の恵みがあればこそ飼育可能な動物なのである。
  しかし,不思議なことに,同じナイル流域にあっても,水牛はデルタ中部や北部に多く,カイロより南の上エジプトでは少なく,ヒツジやヤギが多い。その理由の解明は今後の課題だが,恐らくは自然環境のみならず,灌漑制度や作付パターンなどの地域的な違いと関係がある。その意味では,水牛はナイル川と人間の関わりに地域性があることを教えてくれる存在でもある。