学会からのお知らせ
* 春期連続講演会
ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において春期連続講演会(4月6日〜5月4日の毎土曜日,全5回)を下記の通り開催します。各回,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館にて前売券購入可)です。
「地中海世界を生きる」
4月6日 聖俗の支配者としてのローマ教皇: 中世ヨーロッパを読み解く鍵として 藤崎 衛氏
4月13日 人文主義者たちの仕事と読者: ダンテ,ペトラルカからポリツィアーノまで 村松 真理子氏
4月20日 君主の魅力: 中世地中海に君臨した皇帝フリードリヒ2世 高山 博氏
4月27日 公証人であること: フィレンツェ書記官長コルッチョ・サルターティの時代の公証人と社会 徳橋 曜氏
5月4日 建築家という職能: フィレンツェ初期ルネサンスの建設現場 石川 清氏
* 4月研究会
下記の通り研究会を開催します。発表概要は月報357号をご参照下さい(開催日は下記に変更)。
テーマ:近世ヴェネツィアにおける劇場建築の誕生ならびに発展と変容
発表者:青木 香代子氏
日 時:4月13日(土)午後2時より
会 場:國學院大学120周年記念1号館4階1403教室(最寄り駅「渋谷」「表参道」 )
参加費:会員は無料,一般は500円
* 第37回地中海学会大会
第37回地中海学会大会を6月15日,16日(土,日)の二日間,同志社大学寒梅館(京都市上京区烏丸通上立売下ル御所八幡町103)において下記の通り開催します。
6月15日(土)
13:00 〜 13:10 開会宣言・挨拶
13:10 〜 14:10 記念講演
「祇園祭と京都町組」 脇田 晴子氏
14:25 〜 16:25 地中海トーキング
「都(みやこ)のかたち」
パネリスト:草生 久嗣/栗原 麻子/堀井 優/(司会兼任)青柳 正規 各氏
16:40 〜 17:10 授賞式
地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞
17:10 〜 17:40 総会
18:30 〜 20:30 懇親会 [京都ガーデンパレス]
6月16日(日)
10:00 〜 12:00 研究発表
「《ハルピュイアイの墓》 ── 前5世紀リュキア葬礼美術における死生観」 河瀬 侑氏 / 「グイド・ダレッツォ『ミクロログス』のオルガヌム理論」 平井 真希子氏 / 「レッシングとエウリピデス ── 「新しいメデイア」像から見えてくるもの」 田窪 大介氏 / 「ヴェルディ 《オテッロ》 (1887) における演出と音楽 ── disposizione scenica を手がかりに」 長屋 晃一氏
13:30 〜 16:30 シンポジウム
「キリスト教の布教と文化」
パネリスト:岡田 裕成/新保 淳乃/吉田 亮/(司会兼任)児嶋 由枝 各氏
* 会費納入のお願い
新年度会費の納入をお願いいたします。自動引落の手続きをされている方は,4月23日(火)に引き落とさせていただきます。ご不明のある方,領収証を必要とされる方は,事務局までご連絡下さい。
退会希望の方は,書面にて事務局へお申し出下さい。4月12日(金)までに連絡がない場合は新年度へ継続となります(但し,会費自動引落のデータ変更の締め切りは,4月5日)。会費の未納がある場合は退会手続きができませんので,ご注意下さい。
会 費: 正会員 1万3千円 / 学生会員 6千円
振込先: 郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313
「ゆとろぎ」の人,片倉もとこさんを偲ぶ |
片倉さん,いま急な弔報を受け,目と耳を疑っています。まだまだお元気な熟女であるはずなのに。
地中海学会にとって,片倉さんは大いなる恩人のひとりです。そのことは会員の誰もが知るところです。1989年から1997年までは常任委員として,また1997年から2005年までは,副会長として,さらに2007年からいままでは監査委員として,それぞれ重要な役割を果たしていただいたのですから。そのあいだ,学会の運営を承っていた私にとって,なによりの心強い支えでもありました。
でもそれにもまして,まずは片倉さんの学問上のお仕事を話題にするのが先決でしょうか。専門家ではない私が,イスラーム学上のご業績をつぶさに語るわけにもいきませんが,それでも公刊された書物をとおしてかいまみた研究スタイルの斬新さは,否定することができません。それは,女性研究者が,イスラーム世界を主題とすることの,困難とメリットにかかわります。
名著として,つとに世評をうけるご著書『アラビア・ノート』を読んだときのあの衝撃。生活世界における男女のジェンダー分離が截然とするイスラーム世界にあって,片倉さんは文化人類学としての格別なフィールドワークを実践します。砂漠のテントのなかで,アラブ女性たちと膝をまじえ,その暮らしの現実をさぐっていきます。このことは,いまなお明瞭な男性優位のもとにあるイスラーム研究者のなかで,きわだってユニークなものであることは自明でしょう。私たちは『アラビア・ノート』を,まるで異世界をこっそりと覗きこむ悪童のような興奮をもって読んだことでした。訓練された人類学者の眼と筆で,アラビア女性世界が,描写されていましたから。
片倉さんのお仕事が,専門研究者としての成果報告にとどまらなかったのは,当然のことです。なによりも抜群の英語力によって,イスラーム研究者ばかりか,知的世界から実業の方にいたるまで,広い交流の輪を設けられました。その現場をいく度か拝見する機会に恵まれましたが,言葉ばかりか,あの朗らかなボディー・ランゲージによって作りだされる会話の場に,ただひたすら舌を巻いたものでした。「国際交流」などという居ずまいをただした行動が宣揚される以前から,片倉さんはその交流の場を拡げておいででした。のちに,国際日本文化研究センターという著名な組織のトップとして任務を託
されるにいたったのは,まさしくそんな事情からのことだったのでしょう。
しかも,私たちを驚かせたのは,そんな八面六臂の活動にもかかわらず,じつは言動はいたって穏やかで余裕にあふれていたこと。イスラームの戦闘性をいたく印象づけられてきた私たちにとって,イスラーム研究者としてのこのスタンスは意外であり,また安心でもあったことを告白しておきます。片倉さんはこのスタンスのことを,「ゆとり」と「くつろぎ」と表現し,この二つの語彙あわせて「ゆとろぎ」と造語しました。まことに,「ゆとろぎ」の人だったわけです。
最後に,ごく個人的な思い出話を,つけ加えさせていただきます。それは,私がなぜ片倉さんのことを「お姉さま」と呼んでいるかという理由にかかわります。
あまり広く公言していないのですが,じつは片倉さんと私とは,かつて隣組の住人でした。「かつて」とは,もう70年近く昔のこと。そして「隣組」とは,中国は上海,日本人が多く居住する虹口(ホンキュウ)の一角でした。ひょんなことで判明したのですが,私たちは大戦前から上海に住み,片倉さんはそこの国民小学校の生徒,私はまだいたいけな幼児,少年だった。ごく近くにある「新公園」(いまは「魯迅公園」と呼ばれ,人気スポットになっている)で,遊んでいたらしい。「あら,あそこで一緒だったみたい。あのかわいい坊やが,あなただったのね」と話は展開し,あまり確証があるわけではないのに,ついに「お姉さま」と少年として,親しい隣人ということになりました。その後,戦争も終わり,お姉さまと少年は,ばらばらに帰国して別離の日が続きます。数十年のち,地中海学会で再会し,昔の事実を確認するまでのあいだ。
上海から東京まで。それなりの激動の時代を生きた私たちは,なんとなく戦友という連帯感を共有していました。残念ながら,いま幽明ところを分けてしまいましたが,これまでいただいたご厚誼はけっして忘れません。おそらくこの瞬間,お姉さまは理想の「ゆとろぎ」を楽しんでおいででしょうが,それでもどうか,これからも私たちを見守っていただきたい。とりわけ地中海学会のさらなる発展のために,どうかお導きのほどをよろしくお願いします。合掌。
(片倉もとこ会員は,2013年2月23日,逝去されました。享年75歳でした。)
研究会要旨 イスタンブル庶民の俗信的世界を窺う ── 17世紀オスマン朝の市井の名士を中心に ── 2012年12月15日 / 國學院大学 |
イスタンブルは前近代地中海世界にあって最大の都市であったが,これまでのトルコ史においては文書史料に拠った社会経済史研究が主流となり,商工業者を中核とするイスタンブル庶民の生活実態や,とくにその心性についての社会史的アプローチは限られたものであった。くわえて,民衆文学と呼びうるテクストの僅少さや,都市史研究の基礎史料と言うべき地誌の圧倒的な不足──前近代に限れば本発表で扱った二点の地誌以外に大部の史料は知られていない──といった史料的制約もこの状況に拍車をかけているのが現状である。
こうした研究状況を踏まえ,本発表ではムスリム名士エヴリヤ・チェレビー(Evliya Çelebi, 1611-82)の『旅行記』 (Seyahat-nâme),およびアルメニア人聖職者エレミヤ・チェレビー・キョミュルジュヤン(Eremya Çelebi Kömürcüyan, 1637-95)の『イスタンブル史』(İstanbul Tarihi)という二点の地誌的旅行記,および数点のオスマン朝古典詩,西欧人による東方旅行記を用いつつ,オスマン朝の支配階層,ないしは文化的選良層が必ずしも共有したわけではない庶民層に特有の生活意識の抽出に焦点を絞って研究を行った。前記の『旅行記』,『イスタンブル史』は,17世紀半ばから後半にかけてのイスタンブルの建築物や著名人,あるいは都市の地勢について記した史料であり,これまでも稀少なオスマン朝地誌として圧倒的な知名度を誇ってきたが,発表者がこの二点の地誌的旅行記を中心史料として用いた理由は,イスタンブルに暮らす庶民の暮らしぶりや,その生活を彩るさまざまな逸話,そしてとくに「俗信」といった庶民的要素への関心が見られ,一定量の記述が確認できるためである。換言すれば,両史料に記載された庶民的要素を抽出し,17世紀イスタンブルの庶民的心性の一側面について検討するのに適する性格を有する史料と見做しうるのである。本発表ではこの二点の史料に,記された庶民的要素の中でも,同時代の王朝正史や政治的論考作品,あるいは韻文文学作品にはほとんど記されない一方,『旅行記』,『イスタンブル史』の両史料に共通して記載される固有の要素である「俗信」をとくに取り上げた。両史料に見える「俗信」は,その由来,性質を異にするさまざまな逸話群 ── イスラーム的,あるいはキリスト教的裏付けがある奇跡譚にはじまり,おそらくはキリスト教以前の異教時代にまでさかのぼる不
思議譚など ── から成るが,今回はその中から以下の三種類の「俗信」を事例研究として提示した。
1. イスラーム的,キリスト教的裏付けのある「俗信」
・ ギリシア正教徒が聖所として崇める聖なる泉アヤズマに関する記述
・ 預言者ムハンマドの時代にイスタンブルを包囲し,殉教した聖人エユプにまつわるムスリム,アルメニア正教徒双方の伝説
2. 作者たちと同時代に発生した「俗信」
・ 超常的な力を持つとムスリムによって信じられた狂人にまつわる逸話
3. 異教的内容を有する「俗信」
・ イスタンブル市内外に残存するギリシア・ローマ,ビザンツ帝国期の都市施設(教会,円柱等)にまつわる不思議譚
まず,エユプ伝説,およびアヤズマについての分析では,ムスリムと非ムスリムが互いに,オスマン朝によるイスタンブル征服の正統性や,異教徒の聖所の聖性に一定の権威を見出すという事例が確認され,イスタンブル庶民の宗教の別を問わない都市民としての一体性の存在が窺える点を示唆する。
一方,主にムスリムを支持母体とする狂人にまつわる俗信からは,狂人が笑い話や奇跡譚,あるいは社会批判を行う多彩な顔を持ち合わせ,庶民に格好の話題を提供した点と,ときに狂人の逸話が王朝貴顕の耳にまで達するという社会的広がりを見せた点を指摘した。
他方で,アヤソフィア(当時はモスク)や,ギリシア・ローマ,ビザンツ帝国期の円柱などの古代遺構にまつわる俗信は,イスタンブルのムスリム庶民たちがこうした対象を征服以前の「異教の気配」を伝える「奇物」として受容しながら,街の歴史的重層性を常に感知していた点を指摘した。
以上の事例研究を経て,本発表では17世紀イスタンブルの庶民層において,王朝の支配階層が基本的には無視するような俗信的な都市観がかなり広範囲にわたって保持されている点に着目し,彼らの間に建築物や人的対象にその都度,不可視の力を見出そうとする強固な意識構造である俗信的生活意識が見られたことを指摘し,現時点での結論とした。
聖マリア・デッラ・サルーテ教会の聖母子像 |
ヴェネツィアを歩いていると,かつて栄華をほこった海上帝国を忍ばせるモニュメントに出会うことがある。聖マルコ大聖堂の正面を飾る4体の青銅製の馬が第4回十時軍の時にコンスタンティノープルから略奪されてきたものだということは有名だが,それ以外の目立たない場所にも植民地時代の痕跡がある。例えば,聖マルコ広場からほど近い聖マリア・デル・ジギォ教会の東側の外壁基部には,ヴェネツィアが中世から近世にかけて支配した海外領土にあるいくつかの都市の都市図がレリーフとして配されている。
こうしたコロニアルな視点で町を眺めてみると,見慣れた風景が一変することがある。何の話をしたいのかというと,聖マリア・デッラ・サルーテ教会のことである。カナル・グランデを,総督宮を挟むように立つ壮麗なこの教会は,バロック建築の代表作例の一つであり,その優美な姿からヴェネツィアを題材とした写真,絵画,絵ハガキに好んで描かれる,いかにもヴェネツィア的なアイコンの一つでもある。よく知られているように,この教会は,1630年から翌31年にかけて流行したペストの終息を記念するために建築が始められ,近世には教会に詣でるプロセッションが挙行された。その名残は現代にも息づいており,11月21日の聖母マリアの奉献祭には,多くの人々がこの教会へと足を伸ばし,自分と家族の無病息災を祈る。この教会への参詣のために,カナル・グランデには臨時で橋がかけられ(奇しくも,この橋の一方は先に述べた聖マリア・デル・ジギォ教会のすぐ近くに渡される),文字通り都市と市民が一体となって祭礼を執り行うのである。
さて,ここまで「教会」と書いてきたが,人々が崇敬を寄せるのは厳密には一つのイコンである。教会の最奥に安置される簡素なこの聖母子像は,華々しい近世的空間である聖堂の中でひときわ異様な存在感を示す。それもそのはず,このイコンは中世に作成されたもので,またヴェネツィアがかつて領有していたクレタ島の首府カンディア(現在のイラクリオン市)からはるばる運ばれてきたものであり,ヴェネツィアン・バロックからは迂遠な美術品なのである。
カンディアの聖母と呼ばれるこの聖母子像の制作年代や,制作地ははっきりしない。おそらくは,12世紀にはすでにカンディアの大聖堂である聖テトス教会に安置されていた。伝承では,クレタがヴェネツィアの支配に入った後の1264年に,イコンを奉じる行列が自然発生的に執り行われたとされ,以降,14世紀後半から15世
紀にかけてプロセッションが年中行事化された。イコンを奉じる行列は,多くの市民の参加を得て,ローマ・カトリック教会とギリシア正教会とを問わず,市内の主立った教会を巡回する市民的祭礼となっていったのである。
クレタの支配者となったヴェネツィアからしてみれば,このプロセッションとその中心にある聖母子像は,植民地における宗派間の平和を演出する重要な存在であった。その役割を重々承知していたからこそ,オスマン帝国による20年の攻囲戦ののち,1669年にカンディア市が陥落した時,最後のクレタ総督は,オスマン艦隊の厳重な包囲をかいくぐって,イコンを本国に密送したのである。ヴェネツィアに辿り着いたイコンは,巡る長い議論の末,竣工したばかりの聖マリア・デッラ・サルーテ教会の中に安置された。現在,このイコンは大理石の祭壇の中に固定され,画像だけを持ち出すことはできなくなってしまっている。私たちはここに,植民地の記憶を永遠のものとしたいと願った,17世紀のヴェネツィア共和国政府の思惑を見るのである。ヴェネツィアにとって,このイコンは決してトルコ人に渡されて失われるにまかせられるべきものではなかったし,また将来にわたって失うつもりもまたなかった。イコンはそのようなクレタにおけるヴェネツィアの支配を象徴する特別な価値を持っていた財貨となったのである。
ところで,聖母子像は単にヴェネツィアにおいてだけでなく,クレタのギリシア人にとってもまた特別な意味をもつ芸術品であったはずである。教会の「心」が持ち出されたかたちとなった大聖堂は,オスマン帝国の支配下ではモスクに転用され,さらに19世紀には地震による倒壊を経験することになった。20世紀にクレタがギリシャ共和国に組み込まれると,モスクは改めて正教会の建物に転用された。したがって,現在でも聖テトス教会はあるのだが,もはや大聖堂ではなく,ひっそりとした教会堂である。そして,この教会の身廊の,入り口から入って左側の柱の許にもやはり聖母子像が置かれている。しかしそれはレプリカであり,教会内で配られるパンフレットにはいみじくも「本物はまだヴェネツィアにある」と書かれている。
一つのイコンの数奇な旅と,二つの教会の辿った対照的な運命は,美術品とトポスとの関係,そしてそれを蔑ろにする人間のエゴを映し出して妙である。そんな難しい問題を知ってか知らずか,聖母はアルカイックな表情を見る者に投げかけ続ける。
リブレットの魅力 |
ここ数年,オペラの台本(リブレット)の魅力をさぐっている。周知のように,オペラを論じた本と言えば,作品論か作曲家についてのものがほとんどだ。
オペラをめぐる言説は,とても偏っている。最も流通量が多いのは(といって統計を取ったわけではなく体験から断言しているだけですが)演奏・公演批評である。このソプラノの歌唱がどうだった,このテノールの調子がどうだった,あるいは演出が斬新であるとか不可解である,うんぬん。
つまりジャーナリスティックな批評が最も多い。次には作品論,作曲家論である。人気のある作曲家,モーツァルトやヴェルディ,プッチーニについての本は山ほどある。
ところが,ところがである。リブレットを書いたリブレッティスタについての本は皆無と言ってよいくらい少ない。このいびつな状況は,日本に限ったことではなく,イタリアでも,英語圏でも,作曲家の本は山ほどあるのに,リブレッティスタやリブレットをめぐる本はごくごくわずかしかないという状況に変わりはない。
この状況にここ10年ほど徐々に変化の兆しが見えてきた。たとえば,プッチーニのリブレット,あの 《ラ・ボエーム》 のリブレットは完成までに3年もかかっており,作曲家プッチーニと二人のリブレッティスタ,ルイージ・イッリカとジュゼッペ・ジャコーザの間で,時には激しいやりとりがあって,ボツになった原稿が山ほどあるのだが,そういったこれまでは眠っていた資料が2000年代になってようやく出版されるようになってきた。
そうなると,リブレットというテクストが成立するプロセスがかなり詳細に跡づけられるし,作品解釈の上からも新たな照明があたる可能性がでてくる。
また,これまた徐々にではあるのだが,プッチーニやヴェルディの書簡(これまでにも書簡集は出版されているが,それらは彼らが書いた膨大な数の手紙のほんの一部を収めているにすぎない)が編纂され,出版されるようになり,新たに活字化される手紙の中にはリブレッティスタや楽譜出版者,あるいは劇場支配人ら宛てのものがあり,作品の成立までの紆余曲折が明らかになることがあるのだ。
具体例をあげよう。プッチーニの場合,《ラ・ボエー
ム》 はヴェリズモの時代の作品で,原作のフランス小説も,19世紀半ばのパリの芸術家たちの気ままな暮らしの断片を切り取ったものであった。リブレッティスタたちは,忠実に小説を脚本化しようとしたが,それにプッチーニが注文をつけ,すったもんだの末にプッチーニ特有の甘美な世界に仕立て上げてしまった。言うなれば,原作の精神をねじまげてしまった。そのねじ曲げることによって,《ラ・ボエーム》 は世界中のオペラファンに愛される作品になったと言える。そのすったもんだの過程が,ボツ原稿や,プッチーニとリブレッティスタの手紙のやりとりから浮かび上がってくるのである。
ヴェルディの場合はどうか。ヴェルディは生まれたのが1813年で,革命,反動,リソルジメントの時代を生きた人である。劇場もそういった革命や反動の嵐と無縁ではなく,ヴェルディは台本の検閲という問題にもっとも激しく直面した作曲家であった。
そのため,プッチーニとは異なり,単に芸術観の違いによってリブレッティスタと意見が合わないというのではなく,検閲をする警察当局にまずリブレットを提出し,そこが拒絶をすると書き換えなければならないと言う問題がついてまわった。《リゴレット》 はユゴーの原作ではフランスのフランソワ1世が登場するのだが,検閲で王の批判はまかりならんとなったので,リブレッティスタのピアーヴェはフランスのヴァンドーム公爵という人物に変える。すると,それではストーリーの意味が無くなるといってヴェルディが激しく拒絶したので,イタリアの公国の公爵にした。つまりマントヴァ公は,小国ではあるが,専制的な君主で,権力にものをいわせて好色なふるまいをしていることが肝心なのだ。
また,リブレットは詩劇,韻文で書かれた劇としての性格を色濃く持っているが,その点についての解説・研究書も乏しい。リブレットは,特にアリアはそのほとんどが定型詩で書かれている。音節の数がととのい,韻を踏んでいる。そういった特徴は,日本語字幕では失われてしまうのだが,音節と音楽の関係はきわめて密接である。たとえば,5音節詩句と8音節詩句は,リブレッティスタは,あるいは作曲家は,どう使いわけているだろう,などなど,あれこれと考えている次第である。
自著を語る 70 『11世紀イベリア半島の装飾写本 ── "モサラベ美術" からロマネスク美術へ』 中央公論美術出版 2012年11月 296頁+48頁(図版200点) 29,400円(税込) |
本書のあとがきにも記したとおり,スペインの "モサラベ美術" あるいはロマネスク美術とはどのようなものだったのかという問題に対する回答を期待して本書を手に取った方がもしおられたら,さぞかしがっかりされたに違いない。その意味では本書は羊頭狗肉の見本のようになってしまった。以下は,ではいったいこの本は何なのかという説明ないし弁明である。弁明につき,聞き苦しいのは何卒ご海容いただきたい。
本書のチラシによれば,本書は「10世紀の "モサラベ美術" から12世紀のロマネスク美術へ。イベリア半島独自の様式から汎ヨーロッパ的な美術様式へ。この変化は,なぜ,どのように,11世紀のイベリア半島で起こったのか。政治・社会・宗教的要因を踏まえつつ,多数の写本の実見調査を通して,装飾写本の分野における様式移行の諸相を考察した労作」である。自分で労作もへったくれもないが,嘘つきと後ろ指を指されない程度に努力した結果がこれである。要するに,北スペインのこの時代の装飾写本を出来る限り沢山この目で見て,挿絵の様式,書体,テキストの内容と典礼との関係を分析したということになる。
中世スペインの写本挿絵と言えば,何といっても10世紀に花開いた "モサラベ美術" の代表作,ベアトゥス写本群の名前が一番に挙がるだろう(なお筆者は本書では括弧付きで "モサラベ美術" の名称を用いることとした。その点で建築史の伊藤喜彦氏と立場を異にする。この名称を巡る問題点と研究史は彼の博士論文に詳しい)。一方,カタルーニャやサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼路沿いを中心にスペイン・ロマネスクの研究も各地で盛んに行われている。しかし,歴史学の方ではすでに大変化の世紀として注目されてきた11世紀の美術は,近年まであまり美術史の分野では考察されてこなかった。そこで11世紀を取り上げることにした。
というのは表向きの事情で,ファクシミリ版の相次ぐ出版にともないベアトゥス写本のモノグラフィーがすでに粗方出尽くしていたこと,近年のスペインの博論が特定の時代の村や地域といったごく狭い対象に収斂しがちなことに一種の反発心を抱いたことも理由の幾許かではある。せっかく留学できるのならば現地でしか見られないものを,という想いも強かった。こうして,いまだほとんど知られていないベアトゥス写本以外の同時代の装飾写本を渉猟するという路線が半ば必然的に浮かび上
がった。とはいえ,広大なイベリア半島すべてを対象とするのはさすがに無理で,カスティーリャ・レオンとナバーラ,ガリシアという北スペインを主に扱うこととし,カタルーニャやアラゴンなどは参照程度にせざるを得なかった。
次に研究方法だが,そもそも様式というものに確固たる基準がなく「100% "モサラベ"」とか「80% ロマネスク」とか言えるものではないので,移行の分析といってもはなはだ主観的にならざるを得ない。そこで作品が制作された社会的環境で引き起こされた諸々の変化との関連から写本を考えてみるというアプローチをとった。特にいわゆるグレゴリウス改革の北スペインへの波及,クリュニー会士らの存在,イスパニア式典礼からローマ式典礼への切り替え,西ゴート書体からカロリング書体への移行などがポイントになった。
かつて卒論の口頭審査で今は亡き橋榮一先生から戴いた「あなたがやってるのは美術史なんだから,もっと作品そのものについてしっかり書きなさい」とのお言葉を忘れたわけではないが,作品の周囲に気を取られがちな性分がどうにもすぐ顔を出してしまう。それにしても歴史的事象の認識や写本学,古書体学,典礼学について,多くの過ちがあるに違いない。専門家諸氏の忌憚のないご意見を賜りたい。
またレオン王家,サアグン修道院周辺についての考察や,写本挿絵と象牙彫刻などとの比較など,11世紀の北スペインの美術を考える上で重要な考察が抜け落ちていることも告白しておかなければならない。
このように本書は多くの問題点を抱えているが,鹿島美術財団からの出版援助により,こつこつ収集した多様な図版200点を含めることができた。西欧中世の写本挿絵に,あるいは11世紀のイベリア半島に関心を抱く人に,少しでも資することができれば幸いである。
内外の公的・私的な図書館,学術機関・団体からの支援と協力なくしては,これだけの写本の実見調査を行うことはまず不可能だった。写本に向かい合う至福の経験を各地でさせてもらったことには感謝してもしきれない。本書は早稲田大学に提出した博士論文に基づき,中央公論美術出版から出版され,立教大学より第25回「辻荘一・三浦アンナ記念学術奨励金」を賜った。関係各位にあらためて心より謝意を表したい。
表紙説明 地中海世界と動物 7
象 / 金沢 百枝
12世紀から13世紀イングランドやフランスで流行した『動物譚』写本には,象に関する記述がきわめて多い。現存する28写本のうち22は挿絵入りで,記載量も多い。しかし,挿絵画家たちは象を見た事がなかった。イタリアでは他よりやや早く,1229年,クレモナのフリードリヒ2世の動物園にカリフから一頭の象が贈られたが,イングランドに象が連れて来られたのは,1255年。フランス王ルイ9世がヘンリー3世に贈ったときのことである。マシュー・パリスによる「写生」が残るが,『動物譚』の画家たちは手元の写本挿絵と伝聞を頼りに描いた。表紙の図は,1230年頃,パリで制作された『動物譚』の一葉だが,耳が小さすぎて,象というより,やや鼻の長い猪といった印象である。ちなみに,ヨーロッパには,耳の大きなアフリカゾウ(Loxodonta africana)と小ぶりで耳が小さいインドゾウ(Elephas maximus)が来た。
『動物譚』は象について,次の3点を強調する。第一,象には性欲がない。催淫剤となるマンドラゴラの助けがなければ交尾できない。一生に一度の繁殖期にはマンドラゴラが生えるエデンの園へ赴く。奥手な象のカップルは,理想の夫婦像とされ,アダムとエバと重ねられた。マンドラゴラを食べた雌は,やがて水中で子を産む。象の敵であるドラゴンは水に入れないからである。雄象は水の外で母子を守るためにドラゴンと戦う。悪なるドラゴンと戦う象は,キリストの象徴とされた。表紙の図は,象の繁殖場面を描く。上段右がエデンの園。中央に立つ半身像が,人型の植物マンドラゴラである。水
中にいる母象に乳房が描き足されている。悲痛な表情がなんともいえない。
第二,象には関節がない。そのため足を折って座ることができない。木を支えに,立ったまま眠らなくてはならないのである。狩人はその習性を利用して象を狩る。象が支えとする木に切り込みを入れておくと,眠ろうとして体重をかけたとたん,木も象も倒れる。仲間の象が助けに来ても,もう起き上がることはできない。ローマの著述家アエリアノスも『動物の本性について』(2巻21章)において立ったまま眠る象の習性について記すが,関節がないとは書いていない。象の関節に関する冷静な判断は,アルベルトゥス・マグヌス(1193〜1280年)を待たねばならない。
第三,象は戦場で活躍する。「ペルシャ人やインド人」は木製の塔を象の背に乗せて戦い,めざましい勝利を手にした。騎兵よりも高い位置から,移動しつつ武器が使えるからである。ハンニバルの例を挙げるまでもなく,古代,戦象は最強の兵器だった。
聖堂装飾にも象の姿は多い。柱頭,柱礎,ミゼルコルディアや床モザイク,壁画などあらゆる場所にいる。南イタリア,オトラント大聖堂の床モザイクにも二頭の象がいる。乗せているのは城ではなく,聖堂身廊を覆う大樹。城を乗せた象は「強さ」の象徴。信仰を守る「教会」を表すこともあるが,象の上の大樹はどんな意味にとれるだろう。
「象」 『動物譚』挿絵 パリ 1230年頃 パリ国立図書館 Ms. Lat. 2.495B, fol. 40r.