学会からのお知らせ
* 「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
地中海学会では第18回「地中海学会ヘレンド賞」(第17回受賞者:桑木野幸司氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第37回大会において行なう予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2013年1月8日(火)〜2月14日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。
* 第37回地中海学会大会
第37回地中海学会大会を2013年6月15日,16日(土,日)の二日間,同志社大学寒梅館(京都市上京区烏丸通上立売下ル御所八幡町103)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2月14日(木)までに発表概要(1,000字以内)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。
* 2月研究会
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:中世後期の西地中海域で展開された戦争と平和──イベリア半島を中心として
発表者:黒田 祐我氏
日 時:2月23日(土)午後2時より
会 場:國學院大学120周年記念1号館4階1403教室
参加費:会員は無料,一般は500円
中世地中海世界では,ラテン・キリスト教世界,ビザンツ世界,イスラーム世界という三つのサブ文明世界同士が直接に接触する地帯,すなわち「境域」を生み出さざるを得なかった。「境域」は,双方のサブ文明世界の影響力が衝突する場となり,その結果どちらからも異質にみえる特殊な地域を形成していった。本報告では,西地中海域において中世後期に展開された戦争と平和の諸相を,この「境域」という視点を軸に再考察を試みたい。
* 会費口座引落について
会費の口座引落にご協力をお願いします(2013年度から適用します)。
会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報354号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月22日(金)です。ご協力をお願い致します。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。
* 会費納入のお願い
今年度会費を未納の方には振込用紙を354号に同封してお送り致しました。至急お振込み下さいますようお願いします。
ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡下さい。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいております。学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へお申し出下さい。
会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313
事務局冬期休業期間:12月27日(木)〜 1月7日(月)
春期連続講演会 「地中海世界の歴史,中世 〜 近世: 異なる文明の輝きと交流」 講演要旨 地中海文明: 地中海の東と西,北と南 |
地中海という言葉を聞くと誰もがユーラシア大陸とアフリカ大陸に囲まれた海を思い浮かべる。たしかに二つの大陸で囲まれた地中海の名にふさわしい海だから当然といえる。しかし,海洋学では大陸や島嶼で囲まれ,外の海域と海水の出入りがほとんどない閉鎖海域のことを地中海と呼び,大洋や沿海と同じく海域の様態を表す言葉なのである。北極海,濠亜地中海,アメリカ地中海なども地中海の仲間であり,それらよりも海域面積が狭いヨーロッパ地中海が地中海として最も典型的な様態を示していることから単に地中海と称されるのである。
地中海の面積は約 3,000 千㎢,平均水深約 1,500 m である。沿海に分類される日本海が約 1,000 千㎢,平均水深約 1,750 m であるからほぼ3倍の広さを有している。この広大な海域を囲む沿岸域には,さまざまな民族,言語,文化,宗教があり,それ故に濃密な歴史が展開されてきた。人類最古の農耕を生み出した「豊饒な三日月地帯」はメソポタミアから北シリア,レパントにまたがる地域であり,地中海沿岸域の一部に属していた。やがてこの地域ではメソポタミア文明が発展し,少し遅れてナイル川流域ではエジプト文明が生まれる。地中海の東部では人類最古の文明に属する二つの文明が隆昌するが,西地中海域で文明が展開するのは,紀元前1千年紀に入ってからである。そのことを典型的に物語っているのがミノア伝説に登場するダイダロスとイカロスの物語である。ミノタウロスのための迷宮ラビリュントスを造ったダイダロスは,アリアドネがテセウスに迷宮から脱出する方法を教えたためミノス王の怒りを買い,息子イカロスとともに迷宮の塔に幽閉されることになる。ダイダロスは自分と息子のために人工の翼を作り脱出を図るが,イカロスは大洋に近づきすぎて翼の蝋が溶けてしまい墜落してしまった。一方,ダイダロスはその後も飛び続けてシチリアのコカロス王のもとに身を寄せることになる。天才的な工匠であり発明家のダイダロスを失ったことを後悔するミノス王は,コカロス王のところまでたどり着き,ダイダロスの返還を求めるが,その娘たちの計略によって殺されてしまった。
この伝承は,地中海の東から進んだ文化が西に伝わったことを象徴していると解釈されており,事実,シチリアがミノア時代から東地中海文化と折衝していく過程が考古学によっても証明されている。
レパント地方にいたフェニキア人は紀元前8世紀のころからアッシリアなどの圧力を受け,地中海の各地に新天地をもとめて航海する。なかでも現在のチュニジア沿岸域に商港エンポリオンを設けたフェニキア人は,やがてカルタゴを建設して,ポエニ文化を発展させることになる。カルタゴの植民都市はイベリア半島やシチリアにも建設され,西地中海に大きな勢力をもつようになる。この古都を懸念するローマがカルタゴを相手に戦ったのが第一次,第二次ポエニ戦争である。結果はローマ人の勝利となり,地中海はやがてローマ人の「我らが海」となった。この段階で地中海の東と西の違いは縮小されるが,豊かさや文化程度において完全に同じレベルとなったわけではない。プトレマイオス朝,セレウコス朝,ペルガモン王国,マケドニア王国などが支配する東地中海域は紛争に明け暮れるものの,富の蓄積は大きかった。東地中海域の直接的支配に慎重だったローマであるが,ペルガモン王国を遺贈されることになり,直接的な関与を余儀なくされるようになる。しかも,ローマではギリシア文化が社会のすみずみまで浸透するようになっていた。ローマ社会のギリシア化である。しかし,帝政期に入っても地中海の東と西では違いがあり,文化的にも相違があった。
軍人皇帝時代からローマ帝国の各地で戦争が繰り広げられたが,北アフリカは比較的平穏だった。このため,食糧生産地としての北アフリカの重要性が次第に増していった。やがて,ローマからコンスタンティノポリスへの遷都が行われ,イタリア半島などヨーロッパ側の帝国領土は衰退していくが,北アフリカでは安定した小麦の生産がかなり長期にわたって継続され,その経済的安定の中でキリスト教の普及が進んでいった。北と南の関係は古代末期に逆転したといえるのであり,イスラム教徒の進出後もその状態は続いていった。
地中海学会大会 シンポジウム要旨 海の道 ──航路・文化・交流── |
瀬戸内海に面する尾道を会場にした今回の大会シンポジウムは,「海の道──航路・文化・交流」と題して,移動の場としての海に着目し,それにともなうさまざまな文化事象を考えてみることにした。
瀬戸内海と地中海,それぞれにお二人のパネリストをお願いし,専門の立場から興味深い話題を提供していただいた。
まず人文地理学がご専門で近現代フランスの都市計画事業と社会の関連について研究されてきた恵泉女学園大学荒又美陽さんからは,フランスからいえば地中海を渡った先にある,以前の「保護領」モロッコの最近の事例を紹介していただいた。
現在は独立しているモロッコにとって,フランス統治下で行われた都市計画や建築事業は,当然あまり称揚したくないものだったから,否定的なみかたが一般的だったが,近年これらを積極的に評価し,20世紀のモロッコ建築として観光の対象にもしようという動きが活発だという。
中世イタリアの港町ジェノヴァの研究を歴史学の立場でつづけてこられた学習院大学の亀長洋子さんは,ほとんど地中海全域に及んだジェノヴァ人たちの進出,居留地形成のありようを紹介してくださった。殊に遠い黒海の,周囲をびっしりと取り囲むように拠点が存在し,一部には代官や領地が置かれていたことには,驚いた方も多かったのではないだろうか。
瀬戸内海に話題を移して,先にお話しをいただいたのは西南学院大学の尹芝惠(ユン・ジヘ)さんだった。文化史・美術史の分野で,江戸時代に日本に12回派遣されてきた朝鮮通信使が,日本・朝鮮双方の当時の絵画などにどのように描かれたかを研究されている。瀬戸内海を港づたいに,華やかな行列を作りながら江戸に向かっていった様子を多くの画像で紹介してくださった。
赤間関(下関),上関,蒲刈島,鞆の浦,牛窓,室津,兵庫,大坂と現在の山口県から大阪府まで,瀬戸内海を海路で横断した朝鮮通信使は,各寄港地で世話役を命じられた藩の歓迎を受け,いろいろな層の人びとと交流をもったという。
最後に武蔵大学の社会学者武田尚子さんがお話しくださったのは,瀬戸内の漁民たちが江戸時代から現代に至るまで,大規模な海上の移動を繰り返して暮らしてきたという実例だった。
架橋問題で世界的な注目を集めている広島県福山市の鞆の浦のある沼隈半島からほど近い田島という島が,武田さんの長年の研究対象だ。
江戸時代初期の田島は,近くの燧灘(ひうちなだ)に,瀬戸内海でも随一といわれる鯛のよい漁場をもち,一本釣りからやがて漁網を利用した大がかりな漁法を開発し,そのための網も生産して西日本各地に売りさばき,大いに潤った。
やがてこうした漁法,網遣いの技術を生かして,1670年代から当時の一大産業だった九州西方の西海での鯨漁に,熟練の漁師集団として出稼ぎに行くようになった。鯨の油は新しいエネルギーとして日本の経済に重要な役割を担う製品だったという。
田島の人びとは毎年8月に故郷を出て,九州の「納屋場」で漁の準備をし,冬と春の漁に参加,4月になって帰るという生活を送っていた。
近代になって西海の鯨漁が下火になると,大正時代から,数多くの田島の漁民たちはさらに遠いフィリピン,マニラ湾に移住して独立自営の漁業を行うようになった。
ダイナミックな海上の移動を経験してきた小さな島の漁村の実例に,会場のみなさんも感動されたのではないかと思う。
それぞれのお話しの後でフロアからの質問を受けたがさまざまな話題が出てたいへん有意義な時間をもつことができた。
田島出身で海外に出ていた親戚がいるという地元の一般参加の方もおられ,会場の目の前に瀬戸内海があるというこの場所ならではの臨場感を感じることができた。
今回は大学ではなく,地元のNPO団体で大会をお引き受けするという新しい方法をとったが,地方での地中海学会大会らしい実り豊かなシンポジウムで最後を飾ることができたように思う。
ご無理をお願いしたパネリストの方々はじめ,ご協力いただいた皆様に心から感謝いたします。 (末永航)
秋期連続講演会 「芸術家と地中海都市 II」 講演要旨 ダヴィッド,ドラクロワとギリシャ |
「芸術家と地中海都市 II」と題する連続講演会の第1回としてお引き受けした私の講演のタイトルは,「ダヴィッド,ドラクロワとギリシャ」というものであった。他の4名の講師の方々のご講演と私のそれとの大きな違いは二つ,まずギリシャは都市ではなく,古代においてはある文化圏,独立(1830年)後の近代においては王国として始まり,現在では共和国となっている。そしてもう一つの相違は,このふたりの画家はギリシャに行ったことがなかったという点である。
とはいえ,ギリシャの地を踏んだことのないこの画家たちとギリシャの関係を論ずる意味は大きい。それは,フランス新古典主義を代表するジャック=ルイ・ダヴィッドと,同じくロマン主義の領袖ウジェーヌ・ドラクロワにとってのギリシャの意味は,ともに西洋美術史の恒常的な流れに属している一方で,近世から近代への転換期に当たるこの時代におけるある大きな変化をも示しているからである。
新古典主義の基本的綱領は,簡単にいうと,「ギリシャ・ローマ(古典古代)の美術にならって自分たちの時代の美術を創りなさい」ということであった。この主義の理論的基礎となったヴィンケルマンの代表的著作『ギリシャ美術模倣論』のタイトルが語っているのは,まさにそのことである。そして,王立絵画彫刻アカデミーが設けていたローマ賞を受賞して旧体制末期にローマに留学し,パリ帰還後は正統派歴史画家としてヨーロッパ中にその名をとどろかせたダヴィッドは,この綱領の忠実な実現者であった。彼の本領は,ギリシャの神話やローマの伝説的歴史を描くことにあった。
むろん彼がのちに熱心な革命派となり,素描の段階で終わってしまったものの本来は無数の群衆を描いた巨大な絵画となるべき 《ジュ・ド・ポームの誓い》 を計画し,またナポレオン1世の首席画家として 《皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠》 というルーヴル美術館でも屈指の大作を完成させたことは誰もが知っている。これらはむろん古代の主題ではなく,当時の歴史のまさにリアル・タイムの描写である。
だが,巨大な画面に等身大以上の無数の人物を描くのは,主題が何であれダヴィッドのように歴史画家の修業(ギリシャ・ローマからルネサンスに継承された理想化された人体を描く技術の習得を主に意味する)を経た画家でなくては不可能であった。ギリシャ・ローマ美術の伝統は,ダヴィッドの血の中に脈打っていたのである。
ギリシャ・ローマ(古典古代)の伝統は,美術のみならず,あらゆる領域でヨーロッパ文明の核と考えられてきた。古代ローマの詩人ホラティウスは,古代ギリシャが軍事的にはローマに征服されながらも,文化の面ではローマを虜にしたと歌ったが,古代ギリシャは近代になってからも,国民国家の境を超えてヨーロッパ共通の文化的源泉とみなされ続けていたのである。
王政復古後の画壇の「反逆児」と呼ばれるドラクロワもまた,古典古代の文化や美術に深い敬意を払っていた。とはいえ,彼が画壇にデビューした1820年代には,ギリシャではオスマン帝国からの独立戦争(1821〜29)が始まっており,ヨーロッパの列強,イギリス,ロシア,フランスは,オスマン勢力との力の均衡を計算しつつ,さまざまにこの戦争に関わっていた。フランスについていえば,独立戦争前半においては,政府は不介入,ドラクロワのような自由主義的知識人がギリシャを支持するという図式が成り立っており,ドラクロワは新時代の歴史画家たる野心の実現をめざして,《キオス島の虐殺》(1824年)と《ミソロンギの廃墟に立つ「ギリシャ」》(1826年)の2大作を完成した。ともに独立戦争のさなかに起きた現実の事件を1, 2年のうちに描いた作品である。
当時のギリシャは,1000年のビザンチン帝国時代と400年のオスマン帝国支配時代を経て,ギリシャ正教を奉じギリシャ語を母語とする人々がイスラム教徒と混在するオリエントの一地域(確定した地域ではむろんなかったが)となっていた。だがヨーロッパ諸国にとっての当時のギリシャは,あいかわらず自分たちの文化の源泉としての古代ギリシャの末裔であった。若いドラクロワはこうした古代ギリシャへの尊崇を原動力とし,ロマン主義世代に特有のオリエントへの憧憬を独立戦争の情景を借りて描き出しているのである。
独立後のギリシャでは,ばらばらだった諸地域をまとめるために王国を築く必要があり,バイエルンの王子オットーが初代の王となった(ギリシャではオソン1世)。王国の建設に参加したのは,主にバイエルンやプロイセンの建築家や画家であり,多くのギリシャの芸術家たちはミュンヘンのアカデミーに留学した。ドラクロワやアリ・シェフェールのようにギリシャ独立戦争の画題を描いた画家を少なからず輩出したフランスが,実際にギリシャ近代美術に関わるようになるのは,19世紀末から20世紀にかけてのことになる。
研究会要旨 ボエティウス復活 ──中世・ルネサンスの音楽思想── 7月21日/国立西洋美術館 |
『哲学の慰め』の著者として名高いボエティウスによる『音楽教程』(510年頃)は,中世・ルネサンスの音楽思想において絶大な影響力をもったとされる。その写本は現存するだけでも165を数え,また中世の音楽理論家が自身の説を展開する際も,しばしばこの著作に依拠することが多かったからである。だが,その「影響」の中身は,いかなるものであったのであろうか。言い換えれば,中世・ルネサンスの音楽家は,ボエティウスをどのように受容していたのであろうか。多くの音楽史家がこの問題について緘黙しているなかで,クロード・パリスカはその論文「ルネサンスにおけるボエティウス」において,興味深い議論を行っている。
パリスカ曰く,ヨハンネス・ガリクス,フランキスクス・ガフリウス,ニコラ・ヴィチェンティーノらルネサンスの音楽理論家は,古代ギリシアの音楽理論に直に触れることができたため,ボエティウスの理論を盲信することはなく,それを相対的に位置付けることができたという。しかし,彼らは時としてボエティウスの誤りをも見出だしたものの,彼を正面から批判することはなかった。そのかわり,彼らはボエティウスを「音楽理論の権威」から「古代の知識の伝達者」として再布置し,絶えず敬意を表しつつ読んでいたのである……。本報告は,このようなパリスカの指摘を出発点として,彼の論文で触れられていない中世の音楽理論家の著作を含めて,ボエティウスの受容のあり方を検討した。
論点となるのは,『音楽教程』においてボエティウスが行っている音楽の著名な三分類の扱いである。それはすなわち,天体の運行やそこにみられる秩序,あるいは地上における季節の循環など,自然の摂理の背後に存在するとみられる音的秩序を探求する「天体の音楽」 musica mundana,理性(魂)と身体と結び付けるもの,あるいは体の各部位の間の調和を扱う「人体の音楽」 musica humana,そしてボエティウスにおいては各種の楽器の発音の仕組みと音の関係という,現代でいうならば音響学的なものであったものの,12世紀以降は我々が通常「音楽」という言葉から想定するものに接近していく「楽器の音楽」 musica instrumentalis のことである。この分類は後の時代の音楽理論家によって,どのように受容されたのであろうか。当時の「音楽理論家」は基本的に,聖職者あるいは教会に近しい人物であり,
ボエティウスが想定していなかった音楽の「実践」に,多少なりとも携わらなければならなかった点を踏まえ,いくつかの例が検討された。
まず指摘すべきは,上記の分類の「キリスト教化」である。ユトレヒト司教アダルボルドゥスは,その『音楽論』(11世紀初頭)において,ボエティウスの三分類を「三身分論」(「戦う者」「働く者」「祈る者」)と同調させる。これは,おそらく当時の「神の平和」運動の機運が少なからず影響を与えていると思われる。また「天上の音楽」は,ヒルデガルド・フォン・ビンゲン(12世紀)らによって,天国において天使たちが神を讃美する「天上の音楽」へと変容させられて行く。
ペトルス─ペルセウス(『音楽大全』,1200年頃)やグロケイオ(『音楽論』,13世紀末)らのように,音楽に造詣がより深い理論家は,ボエティウスの分類を一応踏襲しつつも,より実践的な独自の分類を展開する。こうした流れは,中世音楽理論の集大成ともいえるジャック・ド・リエージュの『音楽の鏡』(14世紀中頃)において結実される。彼は「天体の音楽」と「天上の音楽」を分け,後者をスコラ学的根拠のもとで「聖なる音楽」と位置付ける一方で,「楽器の音楽」については,四つの大分類とその下部分類によって詳細に定義する。要するに,ボエティウスの三分類は「思弁的音楽」と「実践的音楽」の二つに収斂され,中世の音楽理論家はそのもとで自身の関心に沿う論を探求していたといえよう。
ルネサンスの音楽思想に関しては,ヨハンネス・ガリクス(『歌唱法』,15世紀中頃),ヨハンネス・ティンクトーリス(『音楽用語集』,1495年),ヘンリクス・グラレアヌス(『ドデカコルドン』,1547年)などが検討された。彼らの論の特徴を大掴みにまとめれば,ボエティウスの分類はいよいよ形骸化し,他方で「実践的音楽」の内実は我々が「音楽理論」として理解するものへと,より近付いていったといえる。とはいえ,ガリクスが執拗に強調する「音楽の普遍性」やティンクトーリスが中世より踏襲する「真の音楽家」観念などから,ボエティウスには,音楽を何らかのかたちで知的に捉えるための象徴的な記号としての価値が残されていたことも窺える。そしてそれは──直接的ではないものの──ルネサンス以降の音楽の発展にとって,重要な意味をもっていたと思われる。
Parthenon Now (大英博物館にて) |
2012年11月初旬から,大英博物館でパルテノン・フリーズの神々を立体化した模型の展示が始まりました。制作は東京芸術大学の美術解剖学研究室の大学院生が中心です。
2007〜2009年度,筑波大学で第2次パルテノン・プロジェクト(研究代表,長田年弘教授)が実施され,私も研究チームの一員として,アテネおよびロンドンの調査に参加しました。その間,芸大の授業で数回,パルテノン・フリーズについて取り上げました。パルテノンの彫刻芸術にはすでに長い研究史がありますが,じつは未解明の問題が山積しています。
パルテノン・フリーズは,神殿の壁面を全長160メートルにわたり飾った浮彫で,現存するフリーズの約3分の2は大英博物館が所蔵します。フリーズにはアテナイ市民の行列の場面が表され,東フリーズではオリュンポスの十二神がこの行列を出迎えるように並んでいます。主題は女神アテナのための祭礼行列と考えられています(Pollitt, “Meaning of the Parthenon Frieze” 1997)。ギリシア彫刻の原作の多くが失われた現在,クラシック期の貴重な作例です。
フリーズ上の神々は,女神アテナへの「ペプロス奉献」の場面をはさんで坐っていますが,人間の儀式や行列を,神々と同じ空間内に表わすことは,ギリシア美術では画期的でした。アルカイック期までは象徴として存在していた神が,まるで人間の眼前に実在するかのように登場するのです。神々は人間と空間を共有し,人間ときわめて近い姿をとっています。すると,ここに神々の身体と空間表現の問題も出てきます。
この神々の空間を考察するために,2009年3月から,芸大の布施英利准教授および,大学院生と助手(岩城諒子,加藤公太,古川遊,村上直起。2012年1月より木本諒が加わる)の協力を得て,パルテノン・フリーズの十二神の立体模型を作り始めました。作業は3次元計測器(3Dスキャナー)などを使わず,アナログ的に写真
から立体を起こすことにしました。美術解剖学研究室は身体の構造や仕組みを学ぶ研究室で,クラシック期の身体構造を考察しながらの制作となりました。素材は,樹脂粘土で,坐像の高さは15センチとしました。
作り始めて4か月後,十二神がそろったときのことは忘れられません。一体一体,各人が手分けして作っていたものを並べたとき,神々の群像は独自の空間を作り,息づき始めたのです。
その後,2010年,筑波大学で開催された国際シンポジウムでの発表を経て,2011年5月に科研報告書としてまとめました。さらに同年7月,国立西洋美術館で「大英博物館展」が開催された折,監修者として来日した同博物館のキュレーター,I. ジェンキンス氏に模型をお見せする機会がありました。その時ジェンキンス氏から,大英博の教育的展示「Parthenon Now (パルテノン研究の現在)」での展示を提案されました。
このような経緯で,2012年11月初旬,大英博物館パルテノン・ギャラリーの隣室で,神々の立体模型の展示が始まりました。2013年1月までの期間限定の展示です。また1月22日〜2月17日まで,東京芸術大学構内のアートプラザにて,巡回展示を行う予定です。
最近ある新聞で「素顔のギリシャ美術」と題した文章をみかけました(毎日新聞 2012年11月18日付朝刊 篠塚千恵子氏による読書案内)。そこで原作を見ること,素顔のギリシア美術に触れることの大切さと難しさが取り上げられていますが,芸大のささやかな立体模型がギリシア美術を理解する一助となればと願っています。機会がありましたら,ロンドンあるいは東京で,この実験的な試みをご覧いただけますと幸いです。
中央のガラスケースが芸大の模型展示(大英博物館)
表紙説明 地中海世界と動物 4
ナイル川の鰐/堀井 優
鰐の一種ナイルワニは,サハラ砂漠より南のアフリカ大陸に分布し,1970年に完成したアスワン・ハイダムの建設以前には,エジプトのナイル川流域にも広く生息していた。アラビア語ではティムサーフ(timsāḥ)という。かつて鰐は,ナイル川流域の住民にとって,身近でかつ様々な意味をもつ存在だった。古代エジプトのソベク神は,鰐が神格化された例である。川辺の人間や動物を不意に襲う鰐は恐れの対象ともなるが,その一方で鰐を捕えて薬用や食用とすることもあった。
エジプトを訪れた多くのヨーロッパ人旅行者も,ナイル川の鰐に関心を示している。1547年にエジプトを訪れたフランス人博物学者ピエール・ブロンは,その旅行記のなかで,ナイル川に見られる主な動物として鰐と河馬を挙げており,前者の絵図を付している(表紙図版)。同時代のフランス人地理学者で1551〜52年にエジプトに滞在したアンドレ・テヴェは,鰐の脂が良い治療薬とされていること,カイロに鰐の飼育者がいること,そして鰐を捕らえた人はその肉を食べ,皮を売っていることを述べる。なおヨーロッパ諸語で空涙を指す「鰐の涙」という言葉どおり,テヴェによれば鰐は,人間を見ると涙を流しているように見せかけて食らいつくという。
15世紀末のグラナダに生まれ,アフリカと地中海を遍歴する数奇な運命を辿ったレオ・アフリカヌス(アルハサン・ブン・ムハンマド・アルワッザーン・アッザイヤーティー)は,その著作『アフリカ誌』のなかで,鰐が人間を襲う場面を実見した体験談を記している。それによれば,彼がカイロからケナに行く船に乗ってナイル川を遡行中のある曇った夜,老船員が水面に浮かぶ大きな木片を取るために輪差を投げようとした時,突然水中から長い尾が飛び出して,その老人を水の中に突き落とした。その後,犠牲者の痕跡は全く見つからず,乗船者たちは彼が鰐に食べられたことを確信したという。その一方でレオ・アフリカヌスは,鰐を獲る方法についても説明している。それによれば漁師たちは,長い綱の一方の先端を土手の木か杭にくくりつけ,もう一方の先端には鉄の鉤をつけて羊か山羊に結びつけておく。動物の鳴き声を聞いて川から出てきた鰐は,これを鉤ごと飲みこむことになる。そして,もがいて力つきた鰐の口から槍を入れてとどめを刺すという。また漁師たちは,鰐を捕らえると,その頭部を切って壁に掛けることにしており,ケナでは300以上の鰐の頭が市壁につるされていたという。人間と動物との間の緊張に満ちた関係を示す事例といえよう。