学会からのお知らせ
* 12月研究会
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。なお,発表概要は353号(10月)をご参照下さい。
テーマ: イスタンブル庶民の俗信的世界を窺う ── 17世紀オスマン朝の市井の名士たちを中心に
発表者: 宮下 遼氏
日 時: 12月15日(土)午後2時より
会 場: 國學院大学 1号館1階1101教室
(最寄り駅「渋谷」「表参道」)
参加費: 会員は無料,一般は500円
* 会費口座引落について
会費の口座引落にご協力をお願いします(2013年度から適用します)。
会費口座引落: 1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度(2012年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報本号(354号)に同封してお送り致します。
会員の方々と事務局にとって下記のメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。
会員のメリット等
振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
毎回の振込み手数料が不要。
通帳等に記録が残る。
事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:
2013年2月22日(金)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日: 2013年4月23日(火)
会員番号: 「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
なお3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
* 会費納入のお願い
今年度会費を未納の方には振込用紙を本号に同封してお送りします。至急お振込み下さいますようお願いします。
ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡下さい。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいております。学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へお申し出下さい。
会 費: 正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先: 口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313
* ホームページのアドレス変更
国立情報学研究所のサービス停止により一時的措置として移行していた本学会のホームページは,学会専用サーバーを開設して,この度,下記新アドレスに変更しました。
新: http://www.collegium-mediterr.org
旧: http://mediterr.web.fc2.com
春期連続講演会 「地中海世界の歴史,中世〜近世: 異なる文明の輝きと交流」 講演要旨 ノルマンと地中海世界 ── 三大文化の交差点,中世シチリア王国 ── |
ノルマン人といえば,船に乗って略奪を行ったヴァイキングのイメージを思い浮かべる人が多いだろう。そのため,11世紀のノルマン人による南イタリア征服も,北欧ヴァイキングの活動の一部と誤解されることが少なくない。確かに,9世紀前後にユトランド半島,スカンディナヴィア半島からヨーロッパを荒らし回ったヴァイキングも,11世紀に南イタリアを征服したノルマンディ公国出身者たちも,「ノルマン人」(「北の人」を意味する)と呼ばれる。しかし,両者は区別して扱う必要がある。
ノルマン人による南イタリア征服は,ヴァイキングではなく,ノルマンディ公国出身の騎士たちによってなされたものである。この征服は,彼らが南イタリアの覇権争いに巻き込まれ,次第に勢力を拡張していく長くゆるやかな過程であり,その期間はほぼ百年に及ぶ。このノルマンディ公国出身の騎士たちは,最初,様々な雇い主のために働く傭兵にすぎなかったが,やがて,オートビル・ラ・ギシャールという寒村出身のノルマン人指導者のもとに自分たちの国を作り,南イタリアを征服・統合していく。そして,12世紀に,シチリア島とイタリア半島南部にまたがるノルマン・シチリア王国を建国し,そこで,ヨーロッパの君主たちが羨む,豊かで華やかな宮廷文化を花開かせることになったのである。
この王国はイスラーム教徒とキリスト教徒の平和的共存の地としてよく知られているが,王国が異なる文化を含むことになったのは,異なる文化圏に属する国々を統合する形で成立したからである。かつてイスラーム教徒の支配下にあったシチリア島や,ギリシア人(ビザンツ帝国)の支配下にあったイタリア半島南部,そして,ランゴバルド系の国々に治められていたカンパーニア地域が,一人のノルマン王のもとに統合され,アラブ・イスラーム文化,ギリシア・東方正教文化,ラテン・カトリック文化を背景にもつ人々が併存して生活することになったのである。これらの異なる文化集団に属する人々は,王国内に混住していたわけではなく,モザイク状に住み分けていた。シチリア島の南部,中央部,西部には,多くのアラブ人が住んでおり,北東部にはギリシア人とアラブ人が住んでいた。カラーブリアの住民の多くはギリシア人であり,それより北の住民の大部分は南イタリア人であった。
他方,支配層に属する世俗の領主たちのほとんどはラテン系,とりわけ,ノルマン人であり,大所領を有する教会や修道院の聖職者たちの多くもラテン系であった。しかし,ノルマン王に仕える役人たちは,アラブ人,ギリシア人,ラテン系すべてを含んでいた。また,首都がパレルモに置かれたことによって多くのアラブ人が王宮で働くようになった。これらの異なる文化の担い手たちは,その多くがこの地で生まれ育った者たちだが,遠い異国の地からやってきた者たちもいる。彼らがこの地を訪れたのは,この王国が地中海交易路の中継点であったと同時に,王国内に併存していた言語・文化集団が,隣接する大文化圏との交流を容易にしたからである。シチリア王国の歴代のノルマン王たちは学問や芸術に関する造詣が深く,医者や占星術師,哲学者,地理学者,数学者などの優れた学者たちを王宮に集めていた。
ヨーロッパの歴史家たちは,この王国の異文化併存状態をキリスト教の寛容性の象徴として言及してきたが,キリスト教の寛容性がこの異文化並存状態を可能としたのではない。スペインの旅行者イブン・ジュバイルは,この島のイスラーム教徒たちが改宗の圧力の下で生活していたことを記している。この島のイスラーム教徒たちの指導者の一人アブー・アルカーシムは,高位の役人としてウィレルムス二世に仕えていたが,北アフリカのムワッヒド朝と内通しているという告発を受け,王の保護を解かれて自宅に監禁された。その財産は没収され,罰金を科された。彼の場合は,そのような境遇に落とされても改宗への圧力に屈しなかったが,キリスト教に改宗した者たちもいる。たとえば,イブン・ズルアというイスラーム法学者は役人に強要されて,イスラームの信仰から離脱し,キリスト教に入信した。この王国で異文化集団の共存が可能だったのは,この地に住むキリスト教徒が宗教的・文化的に寛容であったからではなく,強力な王権がイスラーム教徒を必要とし,彼らに対するキリスト教徒の攻撃や排斥を抑制していたからである。実際,戦争や騒乱の時には必ずと言ってよいほど,異文化集団に対する略奪や攻撃が行われている。王国のイスラーム教徒人口が減少し王権にとってイスラーム教徒が不要になると,イスラーム教徒住民に対する態度も冷淡になり,王国の特徴であるこのイスラーム教徒とキリスト教徒の併存は13世紀初頭に終わった。
地中海学会大会 地中海トーキング要旨 崖に住む |
「崖に住む」は,樺山紘一氏の記念講演「地中海と瀬戸内海──島の歴史と伝承と」と翌日のシンポジウム「海の道──航路・文化・交流」に連動する三部構成の一つとして位置付けられていた。実際,終わってみると,記念講演で語られた海域と内陸の歴史的イメージがこのテーマに導入としての光を当て,またシンポジウムは陸地のシチュエーションよりも,海を渡ることに論点が置かれ,うまく住み分けができた。司会者(イタリア都市史)がねらったのは,海陸の境界に人々が集合して居住する背後には何があるのかという一点であった。そこに想定されたのは,死生観を含めた宗教,異民族との抗争,海港としての交易,斜面居住がつくる共同体意識などであり,その実態を知りたいと思ったのである。四人のパネリストはそれぞれ異なる領域・時代を研究されているが,このトーキングではすべてフィールドを通した貴重な報告がいただけたことを特筆しておきたい。
まず初めに,益田朋幸氏(ビザンティン美術史)が女性入国不可の正教修道士たちの共和国,北ギリシアの聖山アトスをとりあげた。そこはハルキディキ半島の人里離れた土地で,20の修道院と無数の庵が営まれ,そのいくつかは,屹立する崖上に建てられた。俗世界からできるだけ遠く,神にできるだけ近く,と修道士たちは願ったのである。ビザンティン世界には他にもメテオラ,モネンヴァシア,マニ等々崖に建てられた聖堂・修道院が少なくない。崖とは,海と陸の境界であるが,二つの世界は崖において連続せず,断絶している。断絶する二つの世界をつなぐ崖,それは同時に生と死とを結びつけるものであり,そこに聖なる世界が現出する。古来,崖に墓が築かれることの多いのは,そこが生と死の境界であるからだ。また宗教の世界で崖は,島,岬,半島といった概念と近接している。いずれにも断絶がある世界の境界であり,同時に海という異界によって結びつけられていると報告した。
次に太田敬子氏(中東社会史)は,崖の町と谷底の修道院を主題にマロン派集落の発展史を報告した。レバノン北東部のカーディーシャー渓谷は,洞窟が点在する断崖絶壁の要害の地で,古代フェニキア時代より避難所や埋葬地として利用されていた。キリスト教の普及に伴い,修道士や隠遁聖者が礼拝所や庵を設け,洞窟を利用し岩壁を穿って多くの修道院や教会を建てた。断崖上,または断崖上部にすがりつく形でマロン派キリスト教徒の村や町が点在している。マロン派は,5世紀後半よ
り宗派対立によって同地方に移動を始め,山岳住民にも普及した。ムスリムのシリア征服後,彼らは山岳地帯に引きこもる形で独自の教会と共同体を保持していたが,十字軍退却の後,マムルーク朝の攻撃などを受けてカーディーシャー渓谷に追い込まれ,総主教座もこの地に移された。断崖と渓谷は外部からの侵入を遮断する防壁だけでなく,外部への積極的な働きかけの装置としても機能していたことを示した。
次は陣内秀信氏(都市史・建築史)が南イタリアのアマルフィと尾道の比較をフィールド調査をもとに報告した。瀬戸内海と地中海は,規模が異なるが多くの共通性がある。それは,山や丘が海に迫る地形とその入り江の斜面に高密に形成された港町の空間構造である。特に,尾道とアマルフィには似た点が多い。尾道の中世都市を復元すると,三つの山の高台に創建された寺院を中心に都市ができたことがわかる。アマルフィでも,異民族の侵入から身を守るため,安全な高台の教会を中心に中世初期の都市核がまず誕生した。崖に住む必然性があったのである。石の産地ということも共通している。どちらも基本は雛壇上の造成地に高密度に家が建ち,居住地が形成された。日本は木造文化と呼ばれるが,実は豊かな石の文化もあった。花崗岩の尾道,玄武岩の真鶴はその双璧で,急な斜面に中世から石を積んで,土地を崖に造成して,迫力ある都市空間を築き上げた点も強調した。
最後に,真野洋介氏(都市計画・都市デザイン)は,斜面地への一般的な居住形態と,尾道水道に沿った小路に形成された商店・飲食街とが,一対になって近代以降の尾道旧市街を発展させたことを示し,後半はその現状を報告した。尾道固有の歴史的空間は,現在大きな転機を迎えている。特に近年,斜面地から旧市街に隣接する平坦で交通利便性の高いエリアへの人口移動が進み,旧市街の空洞化と空き家,空き地化が急激に進行している。一方,NPO や地域組織による再生の取り組みと,新規移住者による活動が,旧市街に新しい機運を生み,そこには,各々の空間に多様な活動を内包させる環境を再生する方法が示されている。尾道を,特定年代の建造物が集積する静的な保全対象として見るのではなく,様々な建物や時代環境の混在を許容しつつ社会・文化的資源を蓄積してきたことを認識し,それを多様な居住形態・文化的活動の集積と関係構築によって顕在化させるべきであると結んだ。 (野口昌夫)
地中海学会大会 研究発表要旨 メディチ家支配下のピサ平野とナヴィチェッリ運河の地図描写と政治的事実について |
古代アルノ川の河口付近は,交錯した川筋で湖沼が形成され,まるでヴェネツィアの干潟のような地形が広がっていた。こうした水運と防衛に適した自然条件の下,紀元前10世紀よりも数百年前アルノ河岸にピサが,沿岸の入り江にピサ港が建設され,組織的に水路を整備・管理した水運で11世紀以降はヴェネツィア,ジェノヴァ,アマルフィと並び,地中海を代表する海洋都市国家へ成長した。
その後1284年メロリアの海戦でジェノヴァに敗北してから,ピサの斜陽が始まったと言われる。確かに地中海の覇権を失った打撃は大きかったが,ピサではより深刻な問題が進行していた。長年アルノ川がもたらした土砂で海岸線は遠ざかり,水運に有利だった地形が大きく変貌していたのだ。以前より運河や水路の管理が困難になっていたところへ,相次ぐ戦争でますます作業は滞り,湖沼が増大しマラリアが蔓延,ピサの人口は半減した。こうしてピサは1407〜94年までフィレンツェ共和国に,1509年からはメディチ家主導の政権に支配され,トスカーナ大公国の一都市となった。
念願の海洋進出を果たしたメディチ家のコジモ1世は,ピサ港に代替する港湾都市として海沿いのリヴォルノを整備したが,海軍本部は歴史的な海洋都市であるピサに設置した。そしてピサとリヴォルノを結ぶナヴィチェッリ運河 Canale dei Navicelli を建設した。これらの計画は地図に明記されただけでなく,壁画の主題にも度々取り上げられ,メディチがアルノ川下流に高い関心を持っていたように思える。ところが壁画や地図などの視覚的史料と,法令や書簡,土木工事の効果を比較すると,描写と現実の格差が見えてくる。具体的に,トスカーナ全体とピサやリヴォルノ周辺を表したスケッチや地図,地図壁画の中で,河川や沼,運河や港などがどのように描かれているか分析した。
1503年ごろにレオナルド・ダ・ヴィンチがピサを陥落させるため残したピサ周辺のスケッチ(ウィンザー手稿,マドリッド II 手稿)では,スタンニョ Stagno や大沼 Palude maggiore と呼ばれた大きな沼も含め,中世の古文書に度々登場する(残念ながら図示は無い)代表的なカリージ水路 Fosso Caligi とヴェッキオ水路 Fosso Vecchio が,前者はその辺りに修道院が運営する療養所があったことに由来してオスペダレットからの水路 fosso dallo sspedaletto と,後者は全く同名で記載され
ている。
メディチ支配の翌年(1510年)にピサに従来あった,都市および周辺農村を管理する組織が再編され,健全な市民生活を取り戻すために灌漑と水道橋建設が始動した。コジモ1世が整備に関わった灌漑・洪水対策の水路に,ボケッテ Fosso Bocchette,アルナッチョ Fosso d'Arnaccio,アルノ Fosso d'Arno,レアーレ Fosso Real,ドゥーカ Fosso del Duca と,ナヴィチェッリ運河 Canale dei Navicelli がある。土木事業に伴い製作された地図はフィレンツェの国立古文書館に残っており,水系とそれらの名称が細部まで描かれている。
では印刷地図が普及する前,まだ地図の最新情報と科学知識が稀少だった時に,権力者たちの間でステータスとして,宮殿に描かれた地図壁画については,トスカーナやピサとリヴォルノ周辺を描いた代表的な例が,ヴァチカン『地図の間』(トスカーナ全体1580〜83年),ウフィッツィ美術館(トスカーナ全体1589年),ピッティ宮殿(リヴォルノの鳥瞰図1609年)にある。それらは土木事業用の詳細図とは異なり,上述のコジモ1世が関わった五つの水路とナヴィチェッリ運河しか確認できない。注目すべきは,蛇行する運河のルートを直線で示し,明らかに自然河川と区別して人工であることを強調している点だ。リヴォルノ都市図においても,直行する運河の上にたくさんの帆船が描かれている。
こうした視覚的史料と実際の社会史を比較すると,メディチは「ナヴィチェッリ運河はピサとリヴォルノの発展に重要な運河」と評しながら,完成を向かえたフェルディナンド1世の治世では,ピサからリヴォルノへの商人の移住を奨励している。さらにフェルディナンド1世は,キリスト教徒から迫害を受けていた商才に豊かなユダヤ人を優遇して移住させて経済発展を図るなど,リヴォルノ重視の政策を展開した。度重なるアルノ川の水害に対し,中央政府からの資金援助は皆無に等しく,住民の負担は大きかった。したがって地図壁画はメディチのプロパガンダで,その地形が真実のように印刷地図で普及してしまった。実際のメディチの経済政策では,ピサとリヴォルノは同等に考えられてはいなかったが,水路管理せずしてピサは存在できない状況にあり,ピサを「ある程度」生かすために,水運を活性させないまでも,水路管理の厳しい法令は存続した。
王室に縁のある教会歴史探索 |
10年余り歌手として暮らしたパリ。今夏は,研究調査のため,この街を訪れた。今回の目的は,ルイ14世がヴェルサイユへ宮廷を移す1682年以前の宗教音楽がどのようにして演奏されていたのかを調べることであった。2ヶ月弱という短い期間ではあったが,自分の研究と照らし合わせてこの街を再観光した。
多くの歴史的建造物を残すパリだが,実際には「偉大な世紀」の面影は意外に少ない。17世紀初頭,修道院復活の動きによって,サン・ジャック界隈,サントノレ界隈,マレ地区に60以上の修道院が創設され,パリの中心には多くの教会や修道院が立ち並んでいた。歴代のフランス国王はルーヴル宮やチュイルリー宮の礼拝堂だけではなく,これらパリの宗教施設へ出向いて聖務や宗教儀式に参列した。ヴァル=ドゥ=グラース修道院,オラトワール・デュ・ルーヴル,サン・ジェルマン・ロクセロワ教会,カプチン会修道院など20を優に超える。その際には,もちろん,王の音楽隊も王に付き従った。
ルイ14世は幼い頃から敬虔な母后アンヌ・ドートリッシュに連れられ,教会での宗務に参列した。1645〜1660年までの定期刊行物『ガゼット』の記述中,最も多く登場するのはフイヤン修道院の教会である。これは,ブルボン家の王たちのもとで大きく発展し,現在のサントノレ通りとヴァンドーム広場を繋ぐカスティグリヨーヌ通りを含む一帯を占め,カプチン会修道院と隣接していた。
他には,現在,リヴォリ通りを挟んでルーヴル宮の向かい側にあるオラトワール・デュ・ルーヴルは,1623年ルイ13世の要請により王室の礼拝堂となった。ここへ王室の人々がルーヴル宮から直接出入りできるよう,専用の扉があったそうだ。このオラトリオ会修道院には,ルイ14世時代に名を馳せた説教師ブルダルーや4か条の宣言で有名なボシュエがおり,信者を集めるため,単旋聖歌の代わりに世俗曲を積極的に聖務に取り入れた教会でもあった。当時は,絵画や彫刻など豪華絢爛たる装飾が施されていたが,現在は改革派の教会となったため,内部装飾は極めて簡素である。
その後ルイ14世は,親政開始以降ヴェルサイユへ移る1682年までの間,一年のうちの10ヶ月ほどをパリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レで過ごすようになる。
この町は,パリから RER という高速電車に乗って20分ほどと近く,訪れた方も多いであろう。とても美しく洗練された町並みで,私の好きな町のひとつである。ルイ14世が生まれ,リュリやモリエールが大活躍,世俗音楽が最も華やかに演奏されていたのは,このサン・ジェルマン・アン・レにおいてである。「浮かれた時代」と呼称され,ルイ14世の二重不倫や毒殺事件などが起った時期に重なる。
ここには以前,新旧二つの城があった。1557年までは一つだけだったが,それだけでは宮廷を受け入れるには小さすぎる,と判断したアンリ2世は,すぐ近くにもう一つの城を建てる決定をした。ルイ14世自身は,新しい城よりも古い方を好み,主な居住地に定め,彼の趣味や必要に応じて増改築を行っていった。もちろん,毎日の宗務や主な宗教儀式は,この古い方の城内にある礼拝堂で行なっていた。しかしながら,この時期の宗教儀式での音楽演奏についてはまだまだ謎が多い。王太子の洗礼式など特別な儀式についての記述は詳細に記録されており,宮廷人たちも饒舌である。しかし,毎日の聖務や毎年恒例の宗教儀式は毎回同じ手順で進んで行くためか,それらについて詳細に語る人はあまりにも少ない。
絶対王政の衰退とともに,王室と関係の深い宗教施設は,革命によって大きな損失を被る事となる。この時期,教会はその権限および役割を剥奪され,大部分が国有化された。また,リヴォリ通り建設のような19世紀以降の都市開発の際,その周辺の修道院は取り壊され,フイヤン会やカプチン会の修道院のようにほぼ完全に姿を消してしまったものも少なくない。
サン・ジェルマンも同様の運命を辿る。シャルル10世が新しい宮殿の建設を構想していたが,革命によりそれは実現せず,二つの城は拘置所や帝国騎兵学校などとして使われた。その後,ナポレオン3世時代に全体を取り壊す予定であったが,古い方の城だけが残されることとなり,現在の考古学美術館となる。城の内部は完全に美術館仕様となり,当時の面影は残っていない。新しい城や庭園があった残りの広大な敷地は現在,小さな森となり,散歩やジョギングをする人々が行き交う憩いの場となっている。
自著を語る 69 ジェルメーヌ・ティヨン著,宮治美江子訳 『イトコたちの共和国──地中海社会の親族関係と女性の抑圧』 みすず書房 2012年3月 289頁 4,000円+税 |
地中海世界は,北岸のヨーロッパ地域と南岸の北アフリカ・中東地域で,宗教や風俗習慣を含めて,非常に異質な文化的背景を持つ地域が対峙する世界とされてきたが,今では,両地域が非常に古くから,多様で緊密な関係を保ってきたことはよく知られている。しかしながら地中海世界が全体として,新石器時代の文明発祥の頃にまで遡って,共通の文化的特徴,とくに社会の基盤である人間関係(親族関係)やそれに基づく心理的・情緒的基盤を共有していることはあまり知られていない。
2008年に百歳で亡くなったフランスで「世紀の女性」として名高い民族学者,ジェルメーヌ・ティヨンの本書は,新石器革命にまで遡る地中海世界の文明の特徴を詳細に説明しつつ,まさにそのことを私たちに明確に解き明かしてくれる。本書の内容は,著者も「歴史学,先史学,民族学,社会学の境界領域に光をあてるもの」と述べているように,人類の文明史に新たな人類学的視点と枠組みを与えるものであり,彼女のような,学問的素養はもとより,地中海世界全体に対する該博な知識と長期のフィールドワークや,ヨーロッパ,中東各地の豊富な現地経験の持ち主だからこそ書けた本といえよう。
ティヨンはパリ大学等で,先史・考古学,美術史,社会学,エジプト学,比較法学,自然人類学などを学び,コレージュ・ド・フランスおよび高等研究院でフランスを代表する民族学者,マルセル・モースの薫陶を受け,東洋学者で北アフリカ研究の泰斗ルイ・マシニョンの指導も受けた。その後1934年から,モースの強い勧めで英国のアフリカ言語文明国際研究所の研究助成を受けてアルジェリア東部のオーレス山地のアマジグ(ベルベル)系の半遊牧民部族の親族組織,宗教,神話,経済,社会生活などの実地調査を約6年間に亘って行い,その中での観察や思索が本書の基礎となっている。
本書の中で最も独創的で革新的な理論は,人類の社会を,人類史の雄大な流れの中で,三つのタイプの社会に分けていることである。人類は,非常に長い間,狩猟・採集を生業とし,食糧の限界に応じて,独自の産児制限を行い,単婚で,外婚制によって周辺の集団と女性を交換して連帯して争いを避け,「ゼロ成長」を保ちつつ生存を確保してきた。このタイプの社会を,著者は義兄弟たちが連帯する「義兄弟たちの共和国」と名付けた。
しかし約一万年前に肥沃な三日月地帯(メソポタミア)に起こった食糧生産革命と様々な技術革新に基づく
新石器革命以降,この社会に代わって誕生したのが「イトコたちの共和国」であり,レヴァント地域を中心に発展した環地中海地域とその後背地から旧世界にまで,その影響を及ぼしつつ拡がり,その後の市民たちの連帯する「市民たちの共和国」とも対比される社会である。
「イトコたちの共和国」は,食糧生産革命以降,人口圧力を克服できたので,むしろ近親婚も辞さないほど強い内婚志向(アラブの父系イトコ婚が典型)で,一夫多妻も行われ,イトコたちが連帯し,他集団を征服しつつ領土を拡大する,非常に征服的で拡大主義的哲学をもつ社会が出来上がっていったと著者は考えた。人口が増えれば生産力も軍事力も上がる。この内婚志向と父系親族の強い身内意識は,地中海南岸だけに限られるわけではなく,地中海北岸のキリスト教地域でも比較的最近までみられ,古代ギリシアのホラティウスやアンティゴネーもこの社会の典型であると,著者は述べている。
この社会では,自らの集団の高貴さの根拠として血統の純粋さを求めるため,娘たちの処女性にこだわり,妻たちの不貞には厳しくあたる(南欧のヴァンデッタの習慣も)。内婚制そのものは,女性にとってはむしろ暮らしやすい制度である。しかし宗教的情熱からイスラームが定める女性の相続を認めるところでは,次第に娘を通してよそ者が財産を相続し,部族は解体する。そこで内婚制を保つために,娘たちを息子たちのためにとっておくように,彼女たちをハレムに幽閉したり,ヴェールを被せたりしてきた。これらの風習は,イスラームが誕生する以前からの地中海社会の特徴であり,ヴェールについては,聖書の中で聖パウロも勧めている。またこれはよそ者と接触する機会の多い都市の風習でもある。
ティヨンは,「地中海女性がその犠牲となっている幽閉および疎外の様々な形態は,現代における人間の隷属状態として最も大きく生き残る……最後の植民地」と考え,その危機を訴えるために本書を書いたという。私は1968年,アルジェ大学の北アフリカ社会学の講義の中で,注目すべき本として紹介されて本書に出会い,論文や地中海学会のシンポジウムなどでご紹介してきたが,この度長年の念願が叶って全訳をお届けできたことは嬉しい。ティヨンは,大戦中のレジスタンス運動やアルジェリア独立戦争時の和平への功績等で正十字勲章を授与され,没後も彼女をめぐる様々な催しが行われている。
表紙説明 地中海世界と動物 3
山羊/金光 真理子
人間が古来家畜として飼い馴らしてきた動物の中でも,山羊は険しい岩山を難なく登り固い木の芽や葉も食んで育つことから,ギリシアやイタリア南部を始め乾燥して痩せた地中海世界の山岳地帯で好んで飼育されてきた。山羊の用途は広い。肉や乳は食料となり,乳はバターやチーズの原料ともなれば,毛皮は敷物や防寒具となり,皮は水や乳を入れる袋として利用することもできる。この山羊の皮袋を使って作られた楽器にバグパイプがある。バグパイプというとスコットランドのイメージが強いかもしれないが,実は地中海沿岸部を中心に北はロシアから南はインドまで各地に分布している。
バグパイプの起源は定かではない。古代ギリシアおよびローマの資料にはバグパイプと考えられる楽器についての記述があるものの,その詳細は明らかではないという。また古代エジプトの彫像に一本の管が突き出た袋を脇の下に抱えている音楽家の像があるが,これもまたバグパイプか否かは賛否両論がある。
一方,視点を変えてバグパイプ特有の特徴から考えてみると,地中海地域との深いつながりがみてとれる。まず皮袋に空気を溜めて使うという点に注目すると,日常生活に不可欠な水や乳そして酒などの液体を溜める容器の一つとして動物の皮を使った袋は古くから用いられてきた。北アフリカや中東の乾燥地帯では瓢箪や竹筒のような自然の素材に恵まれず,とりわけ遊牧民族のあいだでは重く壊れやすい壺や瓶などの土器は不便なため,皮袋が重宝されてきた。皮袋を使う地域とバグパイプの分布とは重なっており,身近にある道具を利用して楽器が創りだされた可能性は多いにある。
もう一つバグパイプの特徴である音が鳴り続けるとい
う点に注目してみると,古代地中海世界では管楽器を演奏する際,循環呼吸を利用して音を絶え間なく鳴らし続ける技法が用いられた。現在でもエジプトのアルグールやサルデーニャ島のラウネッダスなど,複数の葦管を循環呼吸によって演奏する伝統は続いている。循環呼吸を行う演奏者は,頬を膨らませて口腔に空気を溜め,それを吐き出す間に息を吸うことで呼気を保つ。つまり,演奏者の頬が空気を溜める袋となるのであるが,この頬袋に代わり山羊の皮袋を使って創りだされた楽器がバグパイプである。古来人々が求めてきた絶え間なく鳴り続ける音が,こうして身近な道具と組みあわせるブリコラージュによって受け継がれてきたことは興味深い。
中世以降バグパイプは西ヨーロッパへ伝わり,もっぱら羊飼いの楽器というイメージと共に広まった。その要因の一つと考えられるのがクリスマスである。イタリアでは13世紀頃よりキリスト降誕を描いた図像の中にベツレヘムの馬小屋へ向かう羊飼いの姿がバグパイプと共に描かれるようになる。たとえば,ジョット(1267-1337)の《東方三博士の礼拝》(メトロポリタン美術館)では,画面上部の丘の向こうで三人の天使が彗星の周りに集まり,四人目の天使が左端で二人の羊飼いへイエスの誕生を告げている。手前の羊飼いが手にしているのは,小さな皮袋のバグパイプである。実際,イタリアではクリスマス前のノヴェナ(九日間の祈り)の時期になると,バグパイプ奏者が村から街へ出てきて,バグパイプを演奏しながら通りを練り歩く習慣が現在も続いている。写真はイタリア南部のバグパイプである。イタリアではバグパイプをザンポーニャ zampogna,そして「音を出す山羊 la capra che suona」とも呼ぶ。