薄墨色に棚引く雲の下,夕暮れの空が染み込んでいくかのように,静かに佇むパルテノン神殿。表紙は2008年晩秋に撮影したものである。誰もが知るこのギリシア神殿は,観光客で賑わう8月の昼間ならば,照りつける光線を真っ青な夏空に力強く跳ね返し,眩しいほどに白く煌めく。パルテノンと言って多くの人が思い描くのは,概してこのような姿ではないだろうか。やがて日が落ち,夜ともなれば,人工の光で金色に染められた神殿が,青黒い夜闇に浮かび上がる(個人的にはフィロパポスの丘から眺めるのがお気に入りだ)。表紙の写真は,刻々と姿を変え,さまざまな表情を見せる神殿の一面をとらえたものである。本書『ギリシアの古代』(原著:Robin Osborne, Greek History, London, Routledge, 2008)もまた,古代ギリシア人が織りなすさまざまな事象を取り上げ,それぞれに固有の時間,同時代の文脈が備わっていたことを解き明かしてくれている。
円盤を投げる,あのお馴染みのギリシア彫刻は,何故に裸体を晒しているのだろうか(古代ギリシア展に足を運び,円盤投げの像を眺めつつ,こんな疑問にかられた人も多いかもしれない)。スポーツ選手をめぐって,どんな「恋」の花が咲いていたのだろうか。母国を離れ,海原を渡り,地中海沿岸各地に都市国家(ポリス)を構えたギリシア人。彼らはそこでどんな生活を営んでいたのだろうか。何を口にしたのか。食糧はどうやって手に入れたのか。どんな病気に苦しめられ,どれだけの人が亡くなり,どれだけの子供を産まなければならなかったのか。高校世界史でも学ぶ「僭主」の登場は,ドラコンやソロンが作った「法」と一体どのような関係にあるのか。正々堂々,雄々しくぶつかり合う重装歩兵密集戦隊。歴史家たちが描く戦闘場面の裏側に,如何なる知的,政治的背景があったのか。民主政治を育んだ古代ギリシアの市民平等は,何を犠牲に成り立っていたのか。興味深い問いの数々。それらが同時代の文化や社会,政治的な文脈に置き直され,問い直されて行く。広い読者層を意識して書かれた入門書だが,単なる面白情報の詰め合わせではない。そこには(古代史に限らず)歴史研究を専門とする者の営為が,手のうちを明かすようにして記されている。如何なる史料で,どのように考えるべきなのか。史料が記された背景は如何なるものだったのか。どのような偏向があるのか。そしてそこから何を考 |
えるべきなのか。ページをめくるうちこちらの思考も刺戟され,読者も知らぬ間に「歴史を創る」現場に立ち会わざるを得ない。そんな原著の魅力を,日本の学生,知識人,西洋古代史以外の専門研究者にも共有してもらいたい,そうした思いから訳業が始まった。
訳すというのは,ただ読むのに比べれば何倍も骨の折れる作業だが,ときに新しい理解の鍵を見つけ,またときに日英の文化差に思い至り,振り返って見るに愉悦だったと言うべきかもしれない。無論それは容易いということではない。練られた措辞,機智に富んだ語り口をそのまま写し取ることなど叶わない。とは言え,込められたニュアンスを無視できるほど大胆でもなく,不格好な日本語を放置できるほど無神経でもなく,結局,原稿にはくり返し手を入れた。多くの方々に読んでいただくならば,日本語として「ささくれている」ところは極力研磨すべき,そう考え,力を傾注した。絶えず湧き上がる不安に,入稿後も改稿をくり返したのには,出版社も閉口したに相違ない(その点,刀水書房から刊行できたというのは,私にとっては幸運だったに違いない)。「ささくれ」が残っているとすれば,ひとえに訳者の力不足による(ただし,原著者が意図的に読者に「引っかかり」を感じさせているところもあり,……というのは些か言い訳がましいだろうか)。また,他分野の成果を援用した箇所には聞き慣れない病名や技術用語,社会学や経済学の術語も用いられており,調べるのに手間取ることも少なくなかった(梅毒の歴史やカタパルトの歴史なども,この際改めて読み返したりした)。しかしこの点は,先に述べたことと比べれば楽しい作業だったと言えるのかもしれない。
入門書とは言え,時間軸に沿って叙述したオーソドックスな通史とは異なる。前古典期の叙述に古典期の話がカットインすることもあれば,オズボン独自の見解が反映され,読み進めるうち戸惑いを覚えることもあるかもしれない。訳書では,古代ギリシアに縁遠い日本の読者も想定し,理解の一助となるような簡単な導入文を各章の冒頭に添えた。ここで準備運動をしたら,是非オズボンの誘いに乗って,史料解釈の現場に飛び込んでいただきたい。古典期以前に紙幅を割き過ぎていると感ずる向きもあろう。それについては私自身のこれからの課題としたい。
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