学会からのお知らせ

*12月研究会
 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:19世紀イタリアにおける美術品流通
    ──クリヴェッリの祭壇画売却に関する史料を中心に
発表者:上原 真依氏
日 時:12月10日(土)午後2時より
会 場:東京芸術大学美術学部中央棟1階第2講義室(最寄り駅「上野」「鶯谷」「根津」http
://www.geidai.ac.jp/access/ueno.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

 19世紀のイタリア教皇領では,自国美術品の海外流出を防止すべく,美術品保護法令や調査委員会が徐々に整備されていった。この保護制度成立期に売却された作品については,売却許可申請書や,不法に売却したことに対する申立書を確認することができる。本報告では,15世紀の画家カルロ・クリヴェッリの祭壇画に関する不法売却記録を中心に,何点かの未刊行史料から美術品売却の様相を明らかにし,その流通の実態を探ってみたい。

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2012年度から適用します)。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度(2011年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報本号(344号)に同封してお送り致します。
 会員の方々と事務局にとって下記のメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。
会員のメリット等
 振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
 毎回の振込み手数料が不要。
 通帳等に記録が残る。
 事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限
 2012年2月23日(木)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2012年4月23日(月)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
 なお3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。


*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には振込用紙を本号に同封してお送りします。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいております。学会発行の領収証をご希望の方は,事務局へお申し出ください。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313
*常任委員会
・第1回常任委員会
日 時:10月1日(土)16:30〜18:30
会 場:東京芸術大学上野キャンパス
報告事項:第35回大会および会計に関して/研究会に関して/NHK文化センター企画協力講座に関して/知求アカデミー企画監修講座に関して 他
審議事項:第36回大会に関して/ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して 他











貴風呂キプロス戦記”
──或る中世写本の歴程──

福本 直之


 1343年4月9日,水曜日,地中海東部の島キプロスで一人の男がある写本の書写を完了した。後に“キプロス戦記”と総称されることになる230葉をこえる大冊を筆写した男は年紀に添えて次のように記している。“キレニア城代エイムリ・ド・ミマール殿の俘囚ジャン・ル・ミエージュ,これを写す。”この男が名乗り通り“医師”であったのかどうかは定やかでない。ともあれ,フィリップ・ド・ノヴァールの『回想録』を我々に伝えてくれる唯一の写本がこれである。
 フィリップ・ド・ノヴァールは,13世紀前半のオリエントで軍事,行政,外交等の分野で令名を馳せたばかりではなく,『エルサレム王国慣習法全集』の編纂や封建法の運用の解説書などを通じてその晩年にはオリエント随一の法曹家とうたわれた逸材である。彼は老年に達してから,自伝,詩作,人生論などを含む全著作を子孫のために一巻にまとめることになるが,それは残念ながら後代に伝わらず,わずかに自伝の断片と“フリードリヒ皇帝とベイルート侯の戦史”が『回想録』として伝えられているだけである。
 1882年6月のある日,北イタリア,ピエモンテ州サルツォ郊外のガレアニ伯の居城で,伯とその友人の鉱山技師カルロ・ペランが倉庫の樽の中から一冊の古写本を見つけ出した。ペラン氏がその写本に並々ならぬ関心を示したので,伯は気前よくその場でそれを贈与してしまった。図らずもそれは,540年以前にキプロスで書写された例の写本であった。この発見は当然,当時のラテン・オリエント学界に大きな反響を与えた。1883年の同学会の総会では,幹事長リアン伯から,既定の方針を変更して新発見写本の刊行を優先させる旨,報告されている。ところが奇妙なことにそれから一ヶ月後には早くもこの刊行計画は頓挫してしまっている。ペラン氏とオリエント学会の間にどのようないきさつがあったのかは,興味深いところではあるが,あまりよくは分かっていない。結果的にはペラン氏は,写本の公開は全面的に拒否したものの,精巧な複製を自ら作成してリアン伯に贈呈している(B.N.Paris, nouv. acq. fr.6680)。原写本を底本とした校訂本の刊行が不可能となったオリエント学会は,止むを得ずペラン氏のコピーを用いて“キプロス戦記”の最古版を世に出すこととなる(1887年)。校訂本の出た中世作品は数多いが,19世紀末のコピーを底本としたものは珍しいと思う。それから約20年後,1906年にアカデミーが「十字軍年代記選集」の第二巻として,マース・ラトリ伯による校訂本を出すことにな
るが,その底本もやはりペラン氏のコピーである。肝心の写本そのものはペラン氏の死後行方不明となるが,1978年にトリノの王立図書館に納まっているのが発見されている。ヴィトリオ・エマヌエーレ三世の時代に収蔵されたようである(varia 433)。そして,ようやく1994年にル・ミエージュ写本から直接の校訂本が登場するが,ここではフィリップ・ド・ノヴァールの『回想録』のみが取り上げられている。『回想録』には,1218年〜1243年に及ぶフィリップ・ド・ノヴァールの主君筋イブラン家を中心としたキプロス・パレスチナの領主達と神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世との抗争が記されている。“ベイルートの老侯”と世人が慕うジャン・ディブラン一世は,英知,勇気,寛容を備えた稀有の名将であり,子息のバリアン三世もまた,智勇共に優れた有能な武人であった。フィリップは生涯を通じて,前者に対しては師父に対する敬愛の念を,後者に対しては莫逆の友としての信頼を寄せていた。ジャンを盟主と仰ぐ領主勢とオリエントへの野心をあらわにする皇帝,そして皇帝の手先としてキプロスの支配権を買い取った“五代官”との抗争は正に小説より奇なる史実そのものである。文武両道に秀でるフィリップはこの作品の中に,作者自身が「枝篇」と呼んでいる220行の小品を挿入して,その中で彼は自分自身並びに同時代人をそれぞれ,中世最大のベストセラー作品である『狐物語』に登場する人物に仮託して描いて見せている。この特異な手法の採用は当時のヨーロッパ社会とオリエント世界に共通していた文化水準,なかんずく,文学作品の共有の度合いをいみじくも教示してくれている。フィリップのような有識者のみが多くの文学作品に通じているのではなく,文盲の兵卒に至るまで“諸悪の根源である狐のルナール”をはじめ,有名作品の代表的登場人物の性格や特徴を周知し,名場面は知り尽くしていたのである。だからこそフィリップは攻城戦のさなか敵勢に向かって,“ルナールとその手下共にもの申す”,と自作の詩を歌って聞かせ,戦意を喪失させるための心理作戦の効果を期待することが出来たわけである。それにしても驚くべきは,『狐物語』の中で創作されている架空のエピソードと年代記作者フィリップが報告している実在の歴史的事実の一致,同一性である。フィリップとその仲間達は架空と現実が奇妙にまじり合った,尋常では想像も及ばない次元の世界に生きていたのだろう,とでも思うしかないのである。









春期連続講演会「地中海世界の歴史,古代〜中世:異なる文明の輝き」講演要旨

ゲルマンと地中海世界
──西ローマ帝国以後の新秩序,古代から中世へ──

高山 博


 ゲルマン諸部族は,もともとバルト海沿岸地域に住んでいたインド・ヨーロッパ語族の一つだと考えられている。彼らは,ヨーロッパ中央部・西部に居住していた先住民族のケルト人たちを追い払うように南へ広がり,ローマ帝国成立後はその北側国境を脅かすようになる。主として農耕・牧畜に従事していたが,同時に戦士でもあった。一部は帝国領内に移住し,農民,傭兵として働いていた。
 ローマ帝国分裂以前の375年頃,帝国の北東国境付近でゲルマン人の大移動を引き起こす出来事が生じた。北東アジアから黒海の北側地域に入り込んでいたフン族が,東ゴート族の国を滅ぼしたのである。その影響を受けて,西ゴート族がローマ帝国領内へ移動し始めた。皇帝ヴァレンスは,西ゴート族の帝国内への移住を一度は許可したが,略奪と混乱をおそれてアドリアノープルでその動きを阻止することにした。しかし,この計画は失敗し,彼自身が混乱の中で行方不明となってしまう。次の皇帝テオドシウスは,コンスタンティノープルを占拠されるのをおそれて,彼らと講和条約を結びトラキア州に定住させた。しかし,このような方策もほとんど役にたたず,帝国は深刻な危機を迎えることになる。
 ゲルマン諸部族は,帝国領内への侵入を繰り返し,やがて西ローマ帝国領内に彼ら自身の国家を建設した。5世紀には西ゴート王国,ヴァンダル王国,ブルグンド王国,フランク王国,東ゴート王国が成立している。そして,このゲルマン人諸国家が成立していく中で,476年に西ローマ帝国が滅亡した。より厳密に言えば,スキラエ人の将軍オドアケルが,西ローマ帝国最後の皇帝アウグストゥルスを廃位し,皇帝のシンボルである緋衣と冠をコンスタンティノープルへ返還し,自らを王と宣言したのである。一般に,この出来事が西ローマ帝国の滅亡と呼ばれているが,実際には,この時すでに西ローマ帝国の大部分はゲルマン諸部族の支配下にあり,皇帝もゲルマン人将軍の傀儡にしか過ぎなくなっていた。皇帝の実質的な支配権はずっと以前に失われており,皇帝という西ローマ帝国を象徴する制度がこの時に廃止されたのである。
 西ローマ帝国領内に成立したゲルマン諸国のうち,その後の西ヨーロッパの動きを主導するのはフランク王国である。5世紀末,フランドル地方を支配していたクローヴィスによって建てられたメロヴィング朝フランク王
国は,征服戦争によって領土を拡張し,その最大版図はほぼ現在のフランスに匹敵したが,分割相続のために分裂と統合を繰り返した。やがて,王国の実権は国王から国王家政の長である宮宰の手に移り,8世紀の宮宰カール・マルテルは,侵入してきたイスラム教徒の大軍を破って権力を確立した。その後宮宰職を継いだ彼の息子ピピンが751年に自ら王となり,ここにカロリング朝が成立した。
 768年,このピピンの後を継いだ二人の息子カールマンとカール(シャルルマーニュ)が王国を分割したが,2年後にカールマンが病死すると,カールがフランク王国全土の王となった。このカールによって,ヨーロッパに二つの重要な変化が生じる。第一は,征服活動によって,イベリア半島と南イタリアを除く西ヨーロッパのほぼ全域が,彼の支配下に置かれたということである。第二は,800年に彼自身が西ローマ皇帝として戴冠し,5世紀に滅びていた西ローマ帝国が,理念的に復活したということである。この戴冠により,フランク王は西ヨーロッパにおける俗権の代表となり,その後ろ盾を得た教皇は教会の代表者としての地位を確立したと考える歴史家もいれば,西ヨーロッパと東ローマ帝国が分離し,教皇と皇帝を中心に据えた西ヨーロッパ中世世界が生まれたと考える研究者もいる。
 ところで,中世ヨーロッパと題した概説書の多くは,ゲルマン人諸国家成立の時期を,中世の始まりの時期にあてている。著者はこの時期にローマ帝国に象徴される古代が終わり,新しい中世という時代が始まったと考えているのである。この見方の根底にはこの時期に全西欧的な規模での大きな変化があったという認識が横たわっている。しかし,ゲルマン人国家の中にローマの様々な制度や文化的伝統が残存している点を重視する研究者は,もっと後の時代に中世の始まりを想定している。例えば,アンリ・ピレンヌは,イスラム教徒の地中海制圧が古代の地中海的世界を破壊し,ヨーロッパを地中海から分断することによって中世ヨーロッパを成立させたと考えた。カール大帝の戴冠に西ヨーロッパ世界の成立を見出し,それを中世の始まりと考える研究者もいる。さらに,11世紀〜13世紀を,西ヨーロッパ世界の成立期と主張する研究者もいる。このように,古代と中世の転換点をどこに置くかという問題に対し,歴史家の間に合意された見解があるわけではない。









研究会要旨

14世紀エジプトにおけるコプト聖人の機能と特徴

辻 明日香
7月23日/東京大学本郷キャンパス


 十字軍の撤退が完了し,エジプト社会のイスラーム化が加速しつつあった14世紀,コプト教会は数多くの聖人を輩出した。彼らは主に禁欲主義者・隠者であったが,人々に恩寵(バラカ)を与え,病を治癒し,キリスト教徒・イスラーム教徒(ムスリム)双方から聖人として崇敬された。本報告はこの14世紀に活躍したコプト聖人について,その特徴と役割を考察した。
 聖人の生涯を讃える聖人伝は『聖人伝sira』と『奇蹟録ajaib』からなり,死後まもなく編纂されたと考えられる。そのため,これらにはマムルーク朝下の日常生活に関する,非常に貴重な情報が含まれている。これら聖人伝は今までほとんど歴史資料として用いられてこなかったため,まずは史料群全体としての性格を把握する必要がある。有名な聖人伝に加え,今まで知られていなかった聖人伝を紹介し,史料群の基礎的特徴,各聖人伝の性格,編纂の目的と背景の三点を分析し,歴史資料としての価値を検討した。
 本報告における「聖人」とは必ずしも教会により列聖された「聖人」ではなく,古代末期の東地中海に出現した禁欲主義者,隠者としての「聖人holy man」の末裔を指す。この「聖人」はP. ブラウンの画期的な論文により有名となったが,彼らは地域住民の血縁・地縁・経済的利害関係とは無縁の存在である「外来者」として,地域社会における仲介者としての役割を担っていた。
 (13〜)14世紀に生きたコプト聖人は7名確認できているが,彼らの主な活動場所は下エジプト,カイロ,上エジプトの大都市,町,農村,砂漠の修道院と広範囲に亘り,その身分も隠者,修道士,修道司祭,労働者と多様である。断食と祈りを中心とする修行生活を送り,衣服を拒否した点は共通しているが,その修行生活も放浪型と,修道院や教会に留まる滞在型に分類される。
 奇蹟録には,聖人のもとを訪れた崇敬者と,その者の求めに応じて起きた奇蹟について詳しく記されている。訪問者の出自はスルタンやアミール,官僚や外国商人から,職人などの一般庶民まで様々である。カイロ郊外の修道院に居住したバルスーマー(1317年没)の場合,奇蹟録に記された訪問者のうち,三分の一をムスリムが占めている。
 ムスリムの訪問理由としては,近隣住民としての求め,すなわち蛇退治,紛争解決など訪問者の宗教が問われない例や,隣人にキリスト教徒がいる場合,キリスト教徒の勧めによる訪問例が見られる。アミールの中にも複数の崇敬者がいたようであるが,彼らは主に任官や職務に関して相談にきている。カイロで盗難にあったメッカ巡礼者が,通りかかった人の勧めにより,バルスーマーのもとを訪れている例もある。バルスーマーの名はカイロにおいてコプト・ムスリムを問わず有名であったことがわかる。
 なお,14世紀後半のカイロに生きた聖人,ルワイス(1407年没)の奇蹟録にはムスリムや政府関係者に関する記事が少ない。14世紀後半には聖人の活動がコプト社会に限定されつつあったようである。
 14世紀前半,コプトは教会封鎖や青いターバンの着用強要,教会破壊などを経験し,一般にムスリムとコプトとの関係は良好でなかったと理解されている。その上,この時代はスーフィーやムスリム聖者が社会的影響力を誇り始める時期でもあった。このような時代に,カイロにおいてコプト聖人がムスリムとコプトの双方から崇敬を受けていたことは注目に値し,当時の社会は宗教の垣根が我々の想像よりも低く,人々は自らの意思で聖人を選び,聖人に奇蹟を起こす「パワー」さえあれば,その者の宗教は問われなかったことが窺われる。
 聖人伝はイスラームへの改宗が急速に進展するなか,残された信徒を鼓舞するために編纂されたと考えるのが妥当であろうが,治癒者・仲介者としての聖人の活動が求められた,当時の社会のあり方を伝えているのである。










アレクサンドリアと潟湖をめぐる古代の暮らし

長谷川 奏


 いま改めて地図を見直してみると,アレクサンドリアは,たいへん辺鄙な位置にある。道路や鉄道で繋がっていると,そこがぽつんと離れた位置にあることを意識しにくいが,ここは西方デルタを貫流するナイルの主支流からは60kmほども離れ,さらに同支流の外側の地域を繋いだ分流からもまだ10〜30kmの距離がある。ヘレニズム時代のアレクサンドリアは,ファラオ時代の都市と比較すると,圧倒的に大きな人口規模に支えられたインパクトを持ってはいたが,睡蓮の形でイメージされたナイルの緑地に対して,後発権力が支配力を及ぼしていくには,新規開拓の意気込みだけでは乗り越えられない,たいへんな苦労の道のりがあったであろう。私はそれを哲学史や科学史の領域からではなく,生活分野での工夫や都市の作られ方を扱う考古学の分野から解き明かせないか,という研究を現在始めている。
 アレクサンドリアは,400万人以上の人口を抱えるエジプト第2の大都市であり,ヘレニズム時代の層は厚い堆積の下に埋もれている困難な状況の中で,フランスのCÉAlex(CNRSの一部門)はこの20年の間に画期的な成果を挙げてきた。そこで,私は新たなチャレンジとして,この都市の外郭部とも言うべき地域(ブハイラ県)に焦点を当てている。ここには153にもわたる遺跡が分布しており,それらは殆どが未調査であるが,概ねヘレニズム時代の活動痕跡を持つと考えられている。これらの分布背景に西方デルタらしい特徴があるとすれば,それは,@デルタの基点(メンフィス)と地中海沿岸のメガシティを結んだ流通網,Aリビア砂漠の夷敵から緑地帯を守る防衛線,B広域国家の一部に編成されて以後に活発化した砂漠と緑地帯を結ぶ情報網,といったところにあろう。ただここにもう一つ忘れてはならない地勢の特質があって,それこそが潟湖が立ち並ぶ水辺環境である(図1)。もちろん,これまでも潟湖環境が研究史の中で意識されたことはあったが,専ら人や物資がわたるルートに関心がもたれ,そこで暮らす人々の生きざまはあまり語られてこなかった。それは恐らく,潟湖での生活を物語る文献史料が無いことや,考古学的に紐解いても技術革新に繋がるような絢爛さが欠けているなどの理由が背景にあろう。
 エジプトの近代史を専攻している先生方と探訪していると,この地域の潟湖環境は農業の展開にはたいへんやっかいであったことを知らされる。ちなみに,これらの潟湖は,紀元前6000〜5000年頃の海進によってで
きたもので,その後最も西側にある湖は海との繋がりが途切れたが,他は海と繋がる汽水湖である。灌漑には大規模な排水を必要とすることから,なんと1960年代になるまで,農地開墾が進んでこなかったという。そのような環境の場で,どうして稠密な遺跡分布が可能であったのか? もちろん,ヘレニズム時代に大規模な灌漑事業が行われていた可能性は否定できないのであるが,もう一つの可能性も十分に意識してみたいと思う。それは,ヘレニズム時代の政権が,決して大掛かりな麦作農耕の畑を作っていたのではなく,汽水湖周辺の豊かな自然を十分に活用して,脆弱な産業の連環(ぶどうやオリーブ栽培,淡水湖漁業,土器やガラス器製作,小船を用いた輸送等)を作り出していた点である。これによって,デルタの西側から東側に繋がる潟湖にもし,細々ながらも多様性に富んだ住環境が営まれていたとするならば,デルタを南北に結ぶ「線」ではなく,東西を「面」で繋ぐネットワークを想像できることになる。そうなると,ファラオ時代の神権社会に特徴的なタテ型の社会形成のエネルギーとは異なる,ヨコ広がりのヘレニズム時代の知あるいは力を検証していけることになる。それは,いままで,巡礼路や交易路研究のために,人やモノの動きを,線的に追っかけてきた歴史考古学では,見逃されていた視点かもしれない。
 私のこの研究の根元には,ファラオ時代の文化がいかに崩壊していくか,また崩れたように見えて何がしつこく残るのか,をナイル流域の物質文化から紐解こうとするエジプト考古学の視点が深く根付いてしまっている。そこで今後大事になるのは,地中海の側からみた論理からこの問題を考えていくことではないかと思っている。最後に全く個人的なお知らせで恐縮であるが,私はこの4月から,カイロの学振オフィスに勤務している。地中海学会の皆さん,昨今揺れているエジプト情勢が収まったら,ヨーロッパやトルコ,ギリシアでのお仕事の途上にでもぜひカイロにお寄りになり,いろいろなアイデアをお聞かせくださいますよう。








16世紀フィレンツェの暗号とスパイ

北田 葉子


 16世紀の書簡を主とした古文書の束をめくっていると,よく暗号文にぶつかることがある。もちろん読めない。しかし時には,解読された文章が暗号の上に書いてあることもある。
 私が読んでいるのは,フィレンツェの古文書館にあるメディチ家の君主国時代のもので(Archivio di Stato di Firenze, Mediceo del Principato),とくに16世紀が中心である。私が見た限りでは,この時代にフィレンツェで使われている暗号は大きく分けて二種類あって,ひとつは単数または複数の文字に数字を割り当てるものである(図参照)。見ても何が書いてあるかはわからないが,暗号文であることは一目見ればわかってしまうという危険もある。しかしフィレンツェではかなり使われていたようで,私もこの手の文書をかなり見た。すべての文面が暗号の書簡もあれば,一部のみが数字になっている場合もある。
 もう一つの暗号は,一見すると普通の書簡だが,実は特定の単語が別の意味を持っている。見ただけではわからないのだが,解読された正しい単語が暗号の上に書いてある書簡があったので,暗号文であることが判明した。この時使われていた暗号を紹介しよう。「道strada」はフィレンツェ,「シモネッタ」はフェラーラ,「アルバ公」はジョヴァンニ・サルヴィアーティ枢機卿,「ルイーザ」はフランスである。この暗号が使われている書簡が書かれたのは1539年9月27日である。この時期のフィレンツェは敵対する亡命者を支援するフランスやフェラーラを警戒していた。またかつては亡命者軍に加わっていたが,コジモ1世に接近したサルヴィアーティ枢機卿の活動は,機密事項だったのである。
 この書簡を書いたのは,ジェロラモ・デル・ヴェッツォ・ダ・ピストイアであるとされる。コードネームは,「アマディオ・ダ・ターラント」またの名を「忠実
なものil Fedele」である。書簡は,コジモ1世の書記に直接送られることもあり,その場合,発信地はバルセロナであることが多い。むろん,バルセロナは偽の発信地であろう。
 デル・ヴェッツォはかなり危険な仕事をしていたようである。彼の書簡はボローニャにいるエージェント(こちらはそれほど危険な仕事はしていない)に手渡され,エージェントが自らの手紙にそれを同封することも多かった。ボローニャのエージェント,ニッコロ・カンパーナは,書簡の中でよく「我々の共通の友人」について語っているが,それがデル・ヴェッツォのことである。カンパーナは,「我々の友人」が彼の家に来たことや,危険なので姿を隠すことなども報告している。
 このように16世紀にも「スパイ」(といってよいだろう)は活躍していた。もう一つ,私が古文書で見かけたスパイ活動の例を見てみよう。アレッサンドロ・ベッリンチーノという人物は,シエナ戦争期の1553年にサン・カッシアーノ・ヴァル・ディ・ペーザに滞在していた。この場所は,シエナからフィレンツェに行く街道沿いにあり,フィレンツェに着く直前の大きな集落である。そこでの彼の仕事は,重要人物の書簡を持っていると思われる人物を見つけ,何とかしてその手紙を盗み読み,コジモ1世に報告することであった。彼自身が書簡の中で語っているように,彼はモデナ人であり,そのためとりわけフェラーラ公国(モデナはその一部)の関係者は彼をすぐに信用したという。もちろん彼が対象としていたのはフェラーラ公国だけではないが,当時フェラーラはフィレンツェのライヴァルであり,君主も関心を持っていたのである。
 16世紀のスパイたち,素性はわからないが,彼らの書く字は正確で読みやすい。私が彼らの活動を垣間見れたのもそのおかげである。



16世紀の暗号(Archivio di Stato di Firenze, Mediceo del Principato, filza 399, c.79)









地中海世界と植物21


 ハシバミとクルミ/古川 裕朗


 ドイツ・ザクセン州には,チェコとの国境付近にエルツ・ゲビルゲと呼ばれる高山地帯があって,昔から木製の人形玩具作りが盛んであった。中でもザイフェンはその中心地の一つであり,表紙の写真はザイフェンにある公開工房の様子を写したものである。手前に並んでいるのはクルミ割り人形で,後方に置かれているのはその部品と思われる。おそらくたいていの日本人は,クルミ割り人形という言葉をチャイコフスキーのバレエ作品として耳にすることが多いだろう。あるいはその原作であるE.T.A. ホフマン『クルミ割り人形とネズミの王様』を思い浮かべる人もいるかもしれない。このホフマンの物語の中にも見られるように,伝統的にクルミ割り人形はクリスマスと強く結びついている。ドイツではアドヴェントの時期になると各地でクリスマス市が開かれ,エルツ産のクルミ割り人形はその定番商品の一つである。クルミ割り人形のことをドイツ語ではNussknackerと言う。Nussとはナッツ(nut)のことであり,木の実をパチッと音を立てて割る(knacken)道具という意味である。元来この言葉に人形という意味は含まれていない。クルミ割り器は昔から一般的な道具として存在し,表紙の写真にあるような姿になったのは19世紀の後半であるという。なおこの人形には実際に木の実を割る機能はついていない。
 日本ではNussを単に「クルミ」と訳してしまってい
るが,本当は見た目の異なったHaselnussとWalnussの2種類が存在する。前者がハシバミ,すなわちヘーゼルナッツのことで,後者がクルミである。ハシバミは中・北部ヨーロッパでは,石器・青銅器時代から冬用の保存食として重宝されてきた。ハシバミが崇拝の対象とされたときもある。また強く芽吹いて,しっかりと育つことから,多産や豊かさの象徴でもある。中世にはハシバミの枝で作ったムチを裁判官が用いることもあった。水脈を探り当てるための占い棒がハシバミから作られることもあったという。一方,クルミは本来,植物の種類としてはハシバミよりもサクランボや桃に近い。ペルシアからローマに伝わった後,ドイツではカール大帝がライン川のほとりにクルミの木を植えたのが最初だと言われている。クルミの使い道は多種多様である。木材としては普通の家具だけでなく,軽いゆえに銃床などにも用いられた。クルミの油はランプや絵の具に,その油かすは家畜の餌に,堅い殻は染料にも使われたという。もちろん食用にもなる。中世からルネサンスにかけては,クルミの入った料理はちょっとした御馳走であった。薬にもなる。また新たなる生命の象徴でもあるという。
 以上のようにハシバミとクルミは見た目も用途も違う面が多い。とはいえ両Nussは,とりわけエルツ山地では,クルミ割り人形と同様クリスマスのシンボルとして無くてはならないものとなっている。