学会からのお知らせ


*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
 地中海学会では第16回「地中海学会ヘレンド賞」(第15回受賞者:黒田泰介氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第35回大会において行なう予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:1月11日(火)〜 2月10日(木)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

*第35回地中海学会大会
 第35回地中海学会大会を6月18日,19日(土,日)の二日間,日本女子大学において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2月10日(木)までに発表概要(1,000字以内)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

*2月研究会
 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:多文化都市の自画像──20世紀初頭トリエステのイタリア語文学
発表者:山ア 彩氏
日 時:2月19日(土)午後2時より
会 場:東京芸術大学赤レンガ1号館2階右部屋(音楽学部敷地内 最寄り駅「上野」「鶯谷」
「根津」http://www.geidai.ac.jp/acc
ess/ueno.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

 ハプスブルク帝国が18世紀から自由港として整備したトリエステには,各地から人々が流れ込み,19世紀には多言語・多文化が共存する一大商業都市が形成された。その中で最大派閥をなしていたのはイタリア語を話すグループである。発表では,ズヴェーヴォ,サーバ,ズラタペルといったイタリア語を母語とするトリエステの作家を取り上げ,彼らが多文化のるつぼトリエステという町独自の文学を創造しようとした試みをたどる。

*会費納入のお願い
 今年度会費(2010年度)を未納の方には振込用紙を334号(2010年11月)に同封してお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが,事務局までご連絡ください。

会 費:正会員 1万3千円/ 学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2011年度会費からの適用分です)。
会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報334号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月23日(水)です。ご協力をお願いいたします。なお依頼書の3枚目(黒)は,会員ご本人の控えとなっています。事務局へは,1枚目と2枚目(緑,青)をお送り下さい。
 すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座を変更ご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。











研究会要旨

19世紀フィレンツェにおける建築家ジュゼッペ・ポッジの都市改造

會田 涼子
10月9日/東京芸術大学


 19世紀のフィレンツェでは,イタリア国家統一後の首都化(1865〜70年)に際して,建築家ジュゼッペ・ポッジによって最終市壁(1333年)の解体を伴う大規模な都市拡大事業が行われた。このポッジ前後の都市改造を含めてフィレンツェの近代都市改造ということができる。ポッジの計画に先立つ1799年から1864年までのフランスとオーストリアの占領時代を第一期,1865年から1870年までの首都時代を第二期,1871年から1914年までのローマ遷都以後を第三期として区分することができる。
 第一期では,カルツァイウオーリ通りの整備に象徴される「拡幅」「直線化」というフランス式の道路整備の手法がもたらされたほか,近代の産物である鉄材を使用した吊り橋や,鉄道が敷設されていった。この時,鉄道駅は市壁の外側に位置しており,フィレンツェの保守的な態度が伺える。また,新住居地区は市壁の内側に建設されており,この時点では市壁の内外で都市機能が明確に分断されていたと言える。
 第二期では,首都化が決定した後,政府拠点の確保や大量の人口流入に対応する住居地区の建設が必要となり,フィレンツェのコムーネ〈市町村〉によって,市壁を解体して都市を拡大することがポッジに命ぜられたが,周辺の河川の氾濫という難問が発生したため,都市拡大と平行して治水事業が緊急に行われた。これらの河川は最終市壁に代わる新たな都市の境界を決定し,新住居地区の区割りの基準となったと考えられる。
 市壁解体跡の上には環状道路が計画され,市壁に付随していた市門はモニュメントとして残し,市門周辺を広場として整備することがポッジによって計画された。クローチェ広場(現ベッカリア)とカヴール広場(現リベルタ)では,当時,近代都市改造の先進であったパリとロンドンにおいて採用された広場や緑地の導入が見られ,同時に,市門(14世紀)と凱旋門(18世紀),市門と新築の公共浴場という時代の異なる二つのモニュメントを併せて整備するという独自の手法も見られる。ここから既存の都市構造や史的コンテクストへの配慮が伺える。
 そして,ポッジの計画において最も特徴的であるのは,アルノ川左岸の丘陵地帯のコッリ大通りとミケランジェロ広場の建設である。フィレンツェに首都が移ると,政府関係の人々や上・中流階級の人々によって,新
政府の拠点とされた丘陵地帯の土地やヴィラが購入されていき,この一帯は様相を変えていった。ポッジは,大通りからの建物後退距離を一定に保ち,所有地を鉄柵で囲うことなどを土地所有者に義務付け,眺望を確保することで,首都として優雅で品格のある場所にしようとしたのである。ヴィラが点在するこの大通りを進んで行くと,眺望が最も開けるミケランジェロ広場にたどり着く。ここからは,パラッツォ・ヴェッキオ,サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂,サンタ・クローチェ聖堂などフィレンツェ文化を誇る建造物群がパエサッジョ〈風景〉として一望できる。コッリ大通りの開設によって,このような眺望が公共のものとして開けたのである。
 また,ポッジの計画は,ローマ遷都によって中断された計画や,予算不足のために中断されたものも多い。ポッジ自身も,未完の計画がもし実施されていたらどうなっていたかと想像を巡らせていた。第二期のポッジの都市拡大事業は,限られた時間と条件下で計画されているがゆえに,理想の首都フィレンツェのために優先された箇所が明確化されたと言えるであろう。
 1880年代に入ると,ローマの繁栄を受けてフィレンツェでも景気が回復し,第三期の中心地の都市改造へ移るが,これが大きな物議を醸し出したリサナメント〈再整備〉である。ユダヤ人居住地となっていた中心地区は,詳細な実測後,ヴァザーリのロッジアと石柱を残して,ほぼすべての建物が解体された。この行為は歴史的都市構造の破壊としてすぐに批判の対象となった。しかし,いくつか残っている中心地再整備の競技案を比較すると,円形の広場から放射線状に道路が延びている案などがある中で,既存の構造を踏襲している最も保守的な案が選ばれていることがわかる。その案に従って再整備された地区には,近代都市を象徴するカフェをはじめとする商業建築が登場し,後の新しいフィレンツェ文化を創出する場となったことは,非常に興味深いことであろう。
 フィレンツェの近代化都市改造を概観すると,イタリア国家統一という大きな政治的影響を受けているとともに,中世の都市構造やルネサンス芸術というフィレンツェの遺産が重要な基盤となっていることがわかる。その両者の流れを汲み取った,理想の首都フィレンツェのあるべき姿が,建築家ジュゼッペ・ポッジによって追求されていたのである。












秋期連続講演会「異文化交流の地中海」講演要旨

デューラーとイタリア旅行

秋山 聰


 デューラーは修業終了直後の1495年頃と,母国で功成り名を遂げた後の150507年にイタリアに長期に亙って滞在したと考えられている。一度目の滞在は,先端を行っていたイタリア美術から可能な限り学ぶことを目的としていたことは明らかで,優れた美術作品を模写したり,眼に新しい風俗や人物,生物,風景等を正確に記録することに務めたようだ。二度目の滞在でも,遠近法や色彩賦与を含め多くを学ぼうという姿勢は失われていないが,その制作態度には大きな変化がうかがわれる。ただ単に眼にしたものをそのまま描きとどめるのではなく,目にしたものをベースにしつつも,自分なりの改変を加えているように思われる。一例として現在ベルリンの版画素描館所蔵の素描《聖体の祝日の行列》を見るならば,恐らく山車の上に描かれるべきは聖母と福音書記者ヨハネに両脇を抱えられた死せるキリストが棺の縁に腰掛ける活人画であったはずである。ところが,実際にキリスト像を仔細に眺めると,彼は生きており,眼を開け,右手で脇腹の傷口を開けて血の流出を促進せしめている。ここでデューラーは,ヴェネツィアの祝祭行列において活人画として演じられた「キリスト埋葬」を虚心に記録するのではなく,「苦しみの人(Schmerzensmann)」というアルプス以北では中世末期に大いに流行した図像と融合させた可能性がある。二度目のイタリア滞在においては,デューラーは鑑賞,見学すると同時に,自らの作品を構想していた節があり,そのような視点でこの時期の素描も見てゆく必要があるだろう。
 デューラーはこの滞在中《薔薇冠(ロザリオ)の祝祭(Rosenkranzfest)》という油彩画の大作により,現地のイタリア人たちからも大いなる賞賛を獲得した。人物造形の確かさやヴェネツィア派に劣らぬ色彩感覚が高く評価されたのも事実だが,この絵には人々の興味関心を掻き立てずにはおかない仕掛けが施されていた。画面中央の聖母の膝の上の,幼児キリストの足先わずかのところに実物大の蠅が描きこまれていたのである。その気になってみると左に跪く高位聖職者も,右のドイツ王マクシミリアン1世も蠅を注視しているように思われてくるし,後者にいたっては驚きのあまり祈りのために手を合わせることを忘れかけているようにすら見える。聖バルトロメオ教会の祭壇画として描かれたこの絵を見に訪れ
た人々も,恐らく絵のほぼ中心に蠅が描きこまれているのを発見して,画中への感情移入を阻害されたことだろう。そしてなぜこのようなことが行なわれたのかいぶかしげに思いながら画中に手がかりを求めると,画面右後方にデューラー自身が「私が描きました」と記した紙片を持って立っているのを発見することになる。宗教画の中心に思いがけない仕掛けを施すことによって,鑑賞者の感情移入を阻み,その意識を否応なく画家へと向けようとするこの戦略は,デューラーがイタリアで描いたもう一枚の絵にも看取できる。
 マドリッドのティッセン・ボルネミッサ美術館所蔵の《12歳のイエス》では,神殿の中で老練な律法学者たちと論争するキリストが描かれているが,奇妙なことに絵の中心はキリストと老学者の手によって占められている。しかもその部分の仕上げが極めて荒く,下書きの線が露呈していたり,色彩が輪郭線をはみ出していたりする。果たして完成作なのか,といぶかる鑑賞者が画中に手がかりを求めようとすると,絵の左手前の書物に挟まれた紙片上にデューラーの署名・年記とともにopus quinque dierumというラテン銘を見つけることだろう。つまりこの絵はわずか「五日間」で描かれたわけで,仕上げがあらくて無理はない,ということを観者に伝えているのである。ここでも宗教画の内容に感情移入しようとする人々は,否応なく作者デューラーに思いを馳せざるをえないのである。
 デューラーは第二次イタリア滞在において,それまで母国でつちかってきた技量を,イタリアでさらに新たに接し,導入した要素と即座にいわば実験的に融合しつつ,ドイツ出身の画家としての存在感を効果的に訴え,成功を収めたのである。この後のドイツにおける彼の画業もこの折のイタリアでの「実験」の延長線上にあったと言えるだろう。












秋期連続講演会「異文化交流の地中海」講演要旨

中央アジアの古代地中海文明と古代オリエント文明

──ウズベキスタン共和国オクサス河畔ギリシア・クシャン系都市カンピール・テパの発掘現場から──

芳賀 満


 地中海世界は地中海域だけではない。それはユーラシア大陸全体に及ぶ。交易から戦争までの様々な交流手段により大陸広く伝播した,その伝播力の強さこそが地中海文明の特徴である。そもそも「ヘレニズム」はギリシア外へと伝播したギリシア文明を意味する。地中海域のギリシア文明だけではギリシア文明を把握できない。
 また伝播先でこそ源流の特徴が顕現する。ギリシア美術第一の特徴はアントロポモルフィズム(神人同形主義)で,故に普遍性と伝播力が強いのだが,おそらくそれがクシャン朝下のガンダーラと中インドにおける仏像創造の起因となった。アレクサンドロス大王東征以来,セレウコス朝,グレコ・バクトリア王国,パルティア,クシャン朝と中央アジアに連綿と存続したアントロポモルフィズムの伝統は,同朝がヒンドゥークシュ山脈を越え南下し仏教という宗教に出会った時,従来造られなかった仏像(釈尊の似姿)の創造を促した。極めて広義には仏像もヘレニズムの発展形と捉えることもできよう。
 故にギリシア文明の研究には中央アジアのヘレニズム研究,大王のバクトリア・ソグディアナ遠征の研究が不可欠なのである。しかし旧ソ連圏に属し治安や自然条件が苛酷で東西の狭間に落ちた研究上の空白地域。古文献資料は東征を伝えるがそれは大王時代から400年程も経る。考古学的資料は動産(コイン等)しかなく不動産(遺構)はなかった。1965年発見のギリシア系都市アイ・ハヌンの発掘はソ連アフガン侵攻により放棄。斯くして講演者はギリシア系都市の発掘を計画した。歴史学の基本作業は第一次史料の発見と提示で,特に発掘という方法論は極めて実証的で,アイデアや概念は空砲である場合もあるが,遺物や遺構は必ずや実弾だからである。
 以上からウズベキスタンとアフガニスタンの国境のアムダリア右岸の都市遺跡カンピール・テパを発掘調査している。東西に流れる大河を南北に横切るこの地はシルクロード上の要地であるのみならず,渡河点を護るアケメネス朝の要塞の存在,アッリアノス等との一致から,ここで大王が渡河したと考える。紀元後2世紀クシャン朝カニシカ王時代に放棄されたこの都市のツィタデリ(アクロポリス)を,前300年頃のセレウコス朝時代まで掘下げているが,上層からは仏教系遺物が,下層からはギリシア系遺物が出土する,東西文明の十字路である。
 それを如実に示すのが接吻人物を表したテラコッタ製出土遺物で,その顎下に手をやる求愛ポーズや女性のヌ
ードの背中はヘレニズム的要素で,一方頭髪はハリティー(鬼子母神),ミトゥナ,賢者の子裁判(ソロモン王・大岡越前守政談)の女性像,菩薩の束髪等を類型とするインド的要素で,東西両要素が混系する。全体は図像から《ディオニュソスとアリアドネ》で,この地にディオニュソス教が伝播しその信者がいたことが判明した。
 ここで問われるのは従来の「ヘレニズム」概念である。中央アジアのギリシア図像を総覧すると,ディオニュソス等の特定の図像が多い。つまりギリシアの図像は,アジアに選択的に伝播している。ならば西の伝播力の強さと同時に,東における吸引力の存在とその強さを認めるべきである。西から東に文化は下流するのでも,両者関係は西高東低でもない。東から見た吸引力という視座をこれからは「ヘレニズム」において設定すべきである。(思えば日本も地中海学会もそのよき事例である)
 その吸引力の最大の磁場は仏教である。「共通の言語体系」として大陸に遍在する「グローバル」なヘレニズム図像は,「個々の土地での文脈・物語」である「ローカル」な仏教に吸引されてゆく。ヘレニズム図像は初期は未消化で無機的に仏像に併置された(サラダ状態)が,次第に有機的に融合する(スープ,坩堝状態)。
 ローカルに取込まれるグローバルであるヘレニズム図像の宗教的変容の研究においては,従来,「西」と「俗」からの視座が欠如していた。仏教は東洋人のもので,且つそれを宗教としてしか認識できず,文化と捉えられない,出家者の観点からの仏経典依存の研究方法の弊害である。即ち在家ギリシア人仏教徒の視点からの,造形という言語文化に依拠した研究がこれからは必要である。
 「シルクロード」の概念も変更が迫られる。従来は西の中心(ローマ)と東の中心(長安)にのみ視座があり,その間は単なる「ロード」であった。しかしユーラシア大陸は単なる東西間の通路や中継地ではなく,そこもまたローカルな物語を持つ固有の世界で,造形や思想を変容させ新たなものを創造する場なのだ。かつて「シルクロード史観批判」では南部オアシス定住民と北部草原テュルク系遊牧民間の南北関係が強調された。結局は,東西も南北も重要なのであり,従ってユーラシア大陸全体に文明の十字路網,インターネットがあると捉え,地中海文明,インド文明,中国文明などをも源泉としつつ,中央アジアも新しい文化の創造・発信地であることを再認識すべきであろう。












展覧会報告

長崎県美術館開館五周年記念
プラド美術館所蔵エル・グレコ《聖母戴冠》特別展示

川瀬 佑介


 2010年に開館5周年を迎えた長崎県美術館は,その記念事業の一環として,プラド美術館所蔵のエル・グレコ(1548〜1614年)の油彩画《聖母戴冠》(1591〜92年頃作)を特別展示した。アイスランドの火山噴火による輸送遅延の影響から,予定より一日遅れて4月24日に始まったその展示は,半年の期間で合計4万7千人を超える観衆を集め,10月24日,無事幕を下ろした。
 天空の雲上に座した聖母マリアが,父なる神とイエス・キリストから冠を授かる場面を表すこの作品は,タラベラ・ラ・ビエハの町の教会のために描かれた同主題の祭壇画の上半部を写したもの(リコルド)であると見なされている。しかし,工房に制作の大半をゆだねたことが明白な祭壇画よりも,素描の正確さや色彩の純度,輝きといった点において遥かに優れており,エル・グレコ本人の至芸を堪能できる一点であった。
 長崎県美術館は,1940年代にスペイン公使を務めた須磨彌吉郎が収集した作品群を核として,ゴシックから現代に至るスペイン美術のコレクションを収蔵している。それを縁として,スペイン国立プラド美術館と交流の覚書を交わしており,今回,開館5周年を機にプラドからの作品借用が実現した。従ってこの特別展示は,大規模ないわゆる特別展として計画されたものではない。作品は《聖母戴冠》一点のみで構成され,展示は常設展示室の一室で行われた。これは交流の一環として,両館が有するスペイン美術の体系的なコレクション──質・量共にレベルは全く異なれども──の独自性を活用しまた補完することを目的に,実現したものである。このように,他館からの借用品を常設展示の中にいわば「招待作品」として展示する試みは,欧米の美術館においてはしばしば行われているが,我が国,それも西洋美術の分野においては,稀な試みと言えるだろう。
 今回エル・グレコの《聖母戴冠》を借用したのは,この作品が長崎というトポスと三つの文脈で呼応し,この町で展示する歴史的意義に富んでいると考えたからである。第一に,この作品は,海外交易を目的として開かれた長崎の町にキリシタン文化が花開いた16世紀末,もたらされたヨーロッパの宗教や文化の「輸出元」であったスペインで制作された作品であるということ。第二に,とりわけ聖母マリアは,長崎のキリシタン信仰において伝統的に極めて重要な位置を占めていたこと。そして第三には,長崎県美術館のスペイン美術コレクション
の礎となる作品群を収集した須磨彌吉郎が,エル・グレコをスペインの芸術家の中でもとりわけ高く評価していたことである。
 スペイン美術の最大の特徴を西洋と東洋の混交に見出した須磨は,著書『スペイン藝術精紳史』(1949年)において,エル・グレコを最もスペイン的な芸術家であるとして大変高く評価していた。事実,須磨がマドリード滞在中に作成されたと思われる所蔵品目録では,18点の作品がエル・グレコに帰属されており,そのうちの8作は現在長崎県美術館に所蔵される。残念ながら,その中にエル・グレコへの帰属が今もなお認められる作品は存在しないが,それ故にも,須磨コレクションの作品とエル・グレコの秀作を同じ屋根の下に並べて展示することは,須磨が理想としたコレクションをシミュレートする試みでもあったのだ。そのため会期中並行して,「須磨彌吉郎が見たスペイン美術」と題し,スペイン美術収集家としての須磨の美意識を彼の収集品を中心にたどる常設展示を,2期にわたって行った。
 また関連行事として,4月24日に『エル・グレコ:変貌の過去と現在』と題した記念国際フォーラムが開催されたことも付記しておきたい。新世代のエル・グレコ研究者を代表する,レティシア・ルイス・ゴメス氏(プラド美術館ルネサンス絵画部長)が基調講演を行い,エル・グレコの聖母マリア像の変遷について最新の研究成果も交え論じた。日本側からは大保二郎氏(早稲田大学教授)が20世紀のエル・グレコ研究史の変遷と今後の展望について論じ,越川倫明氏(東京藝術大学教授)は画家のイタリア時代の最新の研究成果について,新出作品の紹介も交え報告した。最後に筆者(長崎県美術館学芸員)が須磨彌吉郎のエル・グレコ観をその著書『スペイン藝術精紳史』から読み解く試みを行った。フォーラムは鹿島美術財団の助成を受けて開催され,その内容は2010年度長崎県美術館研究紀要において公刊される。
 このように,今回の展示は規模の点では一作品のみ,そして長崎だけのごく小さな試みであった。しかし,長崎県美術館の活動としては,それはこれまで5年間のプラド美術館との交流の一つの目に見える成果であると共に,展覧会が単なる作品の貸し借りだけでなく,両美術館間の人的・学術的交流の場となった点においても,大変重要な意義を持つものであった。今後も様々な面において継続的な交流を行っていきたいと考えている。













バカロレア

田窪 大介


 フランスには,日本のような大学受験がない(例外はあるが)。その代わり高校卒業の時期になると「バカロレア」という試験を受けなければならない。これはフランスで大学に入るための資格を取得するための試験で,この資格がなければ大学に入ることはできない。一応日本と同じように大検も存在するが,しかし大検を持つのとバカロレアを持つのとでは,受け入れられ方が大きく変わるらしい。このバカロレアの面白いところは,一つのバカロレア(とは言ってももちろん複数取得することはできないのだが)で海外圏も含めたフランス国内のどの大学へも行けること(日本のように大学を指定し,そのつど試験を受ける必要がない),そして試験を受けるための年齢制限が設けられていないことだろうか。後者の場合,14歳で合格する学生もいれば,80歳になって合格したというニュースが毎年テレビで流れる。かつて同じクラスだったフランスの友人から,今年になってバカロレアに合格したという知らせを聞いた。
 バカロレアは大きく分けると,文系,理系,経済社会系そして言わば職業訓練系がある。文系において一番点数が重視される科目は哲学で,「哲学を制する者はバカロレアを制する」とも言われていた。その試験は小論文形式とテキスト解説のどちらかを選択できる。小論文の場合,たった1〜2行の質問文に対して約30行のA4用紙を最低6枚使って4時間以内に答えを書かなければならない。イエスと答えてもいいしノーと答えてもいい。その答えの論理的展開と,どれだけ有名な哲学者の名言を暗記していて,それらを引用できるかが求められる。
 その質問は,「人間は死から勝利を得ることができるか?」「芸術作品はその他のものと同じ様に現実か?」「歴史は歴史家の客観性(objectivité)を前提とするか?」など,わかりやすいものもあれば「は?」と言いたくなるほどわからないものもある。質問の語句はシンプルだが,しかしそのシンプルな語句で作られた短い質問文が難解なのが不思議である。
 文系であるにもかかわらず,文学という科目(国語ではない)は得点があまり重視されない。文系にいるのだから文学の知識はあって当たり前,とでも言いたいのだろうか。この科目では一年の間に四つのフランス国内外の文学作品を扱い,試験ではそれらのうちの一つあるいは二つについて質問が出される。受験者は2時間という少ない時間で,小論文で答えを書かなければならな
い(答案のページ枚数は哲学におけるのとほぼ同じである)。私が受験生だった時はこの文学という科目が始まったばかりの頃だった。そのためか,扱われた文学作品はモンテーニュの『エセー』の一部,モーパッサンの『田舎の日曜日』をはじめとする短編小説集,アラゴンの詩集『エルザの瞳』そしてソポクレスの『オイディプス王』で,どちらかというとフランス文学が重視された内容だった(当たり前の話だが)。時が経つにつれ,この文学の授業では海外の文学作品を多く扱うようになってくる。そして本年度(2010年9月〜2011年6月)で扱われる文学作品は,ホメロスの『オデュッセイア』の一部,パスカル・キニャールの『めぐり逢う朝』およびその映画作品,サミュエル・ベケットの『勝負の終わり』,そして四つ目は,シャルル・ド・ゴールの『戦争回想録』の第3巻である。バカロレアでは,地中海が関わる文学作品がかならず一つは扱われている。
 フランスにおいて,ジャンヌ・ダルクおよびナポレオンに次いで言わば英雄扱いされているド・ゴール。彼はどちらかと言うと,軍人および政治家として知られている。私は今となってはフランス文学を専門としているわけではないが,しかし個人的な第一印象としてこのド・ゴールの『戦争回想録』は驚いた。なぜならフランスにおいて,ド・ゴールが扱われるのは文学ではなくて歴史の授業だから。この作品を読んだことはないが,しかしひょっとしたら,今回ばかりはフランスの文学の教師たち(基本的には国語の教師たち)も頭を抱えているのではないだろうか。
 このことで私が気になっているのは,ド・ゴールが文学で扱われることにより,本年度の歴史の試験内容はどうなるのか,ということである。この科目は大きく分けると世界現代史とフランス現代史があり,後者においては試験問題がどんなものであっても,ド・ゴールがかならず引き合いに出される。この意味において,仮にド・ゴールが不在の試験問題となれば,それはバカロレアにおいて言わば画期的なものになりかねない。
 バカロレアを受験した頃の私は,「日本語でバカロレアの参考書さえあれば」と思っていた。いつかはバカロレアの参考書を出版したいと思っている。しかし,当時は「一か八か」という姿勢で試験に臨んでいたので,私の言うことが将来の読者を誤った方向に導いてしまうのでは,と危惧している今日この頃である。










地中海世界と植物14


サフラン/鶴田 佳子



 サフランと聞くと,ブイヤベースやパエリアに鮮やかな色を加える香辛料として,黄色いイメージが思い描かれるのではないだろうか。香辛料のサフランは,サフランの花の雌しべを乾燥させたものである。雌しべは一つの花から3本しか取れない貴重なもので,色は濃赤褐色。ラベンダー色の花の合間から赤い雌しべが覗いている写真を表紙に掲載したかったのだが,残念ながら我が家で栽培中のサフラン(写真左2枚。上は植付け1カ月,下は2カ月経過)は原稿締め切りまで開花の兆しなく,悩んだあげく5枚の関連写真を加えて編集させて頂いた。
 サフランはアヤメ科クロッカス属Crocus sativusの多年草で,地中海東部地域を原産とし,イラン,スペイン,トルコ,インドなどで栽培されている。10,000uのサフラン畑から2〜3sのサフランが収穫される。サフラン1g(写真右下2枚目の棚に積まれている小瓶の中身)は約100個の花から得られたものである。サフランは9月に植え付けられ,10月下旬に花が咲く。日の出もしくは日の入り時に花を摘み,すぐに雌しべのみを取り出し,乾燥させる。古代から生薬としても注目され,血行促進,鎮静,鎮痙,通経作用があり,冷え症や生理痛,風邪などに効く。トルコではヒッタイト時代から生薬として知られ,オスマン時代も交易の重要な商品として,栽培,取引されてきた。20世紀初頭に労働力不足から栽培量が減り,現在のトルコではサフランボルで少量栽培されているのみで,輸入に頼っている。
 サフランボルは「サフランの街」という意味である。黒海沿岸地域の歴史都市で,山々に囲まれた谷底に旧市
街がある。周辺の斜面地には伝統的な木造民家が立ち並び,世界遺産に指定されている。世界遺産に指定されて以来,観光化が進んでいるが,市場には革靴屋や仕立屋,鍵などの鉄製部材を加工する工房のように伝統技術を伝える職人も僅かながら健在である。ところで,肝心のサフランは? というと,街の外,幾つかの村で栽培されている。街の中ではトルコの伝統菓子ロクムにサフランが入ったもの(写真右上)が売られ,土産として人気である。サフラン入りのコロンヤ(コロンヤはトルコのオーデコロンで,サフランではなくレモンの香りが一般的。写真右中央)も売られている。また,グラスに数本のサフランを入れ,お湯を注ぐとできるサフランティー(写真右上から2枚目)も飲まれている。
 さて,交易の拠点といえばイスタンブル。香辛料の市場として知られるエジプト市場は17世紀建設当初,生薬香辛料店と綿を扱う店が並んでいた。19世紀後半からは街に薬局が増加したことやその後,第一次世界大戦で役所による取り締まりがあったことなどにより生薬を扱う店が減り,香辛料主体の店の他,貴金属店,ドライフルーツ店など店の種類が増え,今日では観光客相手の土産物屋も多い。この夏,エジプト市場で香辛料店を覗いたところ,イラン産とスペイン産のサフラン(写真右下)が並んでいた。サフランボル産は地元でしか購入ができないようである。ちなみにサフランボルでは,サフランの効用として前述の他,細胞の活性化,知能増強,子供の成長促進も掲げられていた。多様な効用をもつサフラン。我が家でも来年こそは花を咲かせたい。