学会からのお知らせ

*ブリヂストン美術館秋期連続講演会
 秋期連続講演会「異文化交流の地中海」をブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において,9月18日より10月16日までの毎土曜日,全5回にわたり開催します。各回のテーマと講師は下記の通りです。各回共,午後1時30分開場,2時開講。聴講料は400円,定員は130名(先着順)です。事前に美術館にて前売券を購入されることをお勧めします。学会事務局では聴講券・前売り券を扱っておりませんので,ご了承下さい。

「異文化交流の地中海」
9月18日 イタリアとフランドル,西欧と日本
──美術史研究から異文化接触のあり方を見る  小佐野 重利
9月25日 近東を旅するフランス人
──19世紀のオリエント旅行記から
畑 浩一郎
10月2日 フランス人マティスとスペイン人ピカソ
木島 俊介
10月9日 デューラーとイタリア旅行  秋山 聰
10月16日 中央アジアの古代地中海文明と古代オ
リエント文明
──ウズベキスタン共和国オクサス河畔
ギリシア・クシャン系都市カンピール・
テパの発掘現場から 芳賀 満

*10月研究会
 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:19世紀フィレンツェにおける
    建築家ジュゼッペ・ポッジの都市改造
発表者:會田 涼子氏
日 時:10月9日(土)午後2時より
会 場:東京芸術大学赤レンガ1号館2階右部屋
  (音楽学部敷地内 最寄り駅「上野」「鶯
谷」「根津」http://www.geidai.ac.jp/access/
ueno.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

 19世紀半ばに都市拡張を迫られたフィレンツェは,14世紀の最終市壁を500年余りの時を経て解体することになった。この近代化に向けた,一連の都市改造の計画と実施を委任されたのがジュゼッペ・ポッジである。市門周辺の広場の構成や,パエサッジョ<景観>の創出には,ポッジの特異性のみならずイタリアの国家統一,緊急なフィレンツェへの首都移転(1865)といった未曾有な状況が大きな影響を及ぼしている。ポッジが実施した改造の実態を中心にフィレンツェの近代都市化の様相を考えてみたい。

*新名簿作製
 事務局ではこの秋,新名簿作製の準備を行ないます(最新版は2007年11月2日現在。新名簿では掲載項目に変更がある場合があります)。データは現在学会に登録されているものを使用します。
 下記の項目に訂正のある方は,10月20日(水)までに事務局へメール(coll.med.komai@nifty.com)あるいはファックス(03-3401-4832)にてお知らせ下さい。
  氏 名 郵便番号/住 所/自宅電話番号
      所 属/所属電話番号
      専門(あるいは関心)分野












研究会要旨

西欧中近世における像(イメージ)の生動性をめぐって

秋山 聰

4月24日/東京大学本郷キャンパス


 かつて子どもの頃『禁じられた遊び』という映画を見て仰天したことがある。修道院で養われていた孤児が台所からパンを一切れくすねては,磔刑のキリスト像に与えていたところ,ある日その像の腕が動き,パンを受け取る。子供心には一種のホラーにしか見えなかったのだが,長じて美術史を勉強する身となるにいたり,中近世西欧においては磔刑像のような造形イメージが動くという事象が,類まれな神の恩寵の現れとして待ち望まれた奇跡であったことを知った。
 クレルヴォーのベルナールが磔刑像に抱擁されるという体験をしたと伝えられることはよく知られているが,この種の像による抱擁はその後数多の聖人,とりわけ女性聖人に関しても多く記録されている。像の生動性を示唆する逸話に満ちた文献としてはハイスターバッハのカエサリウスの『奇跡をめぐる対話』が有名で,ここでは幼子を祭壇上に置き,自らは床面にまで降りた聖母像や,聖母の頭から冠を取り,自らに被せる幼子イエス像,イエスの振り上げたこぶしを抑えようとして汗をかく聖母像,産褥の場から顔を背ける聖人像等生動する像についての様々なパターンが語られている。このような像の生動性を示唆する言説は,当然のこととして造形および造形の受容形態に影響を及ぼしたものと思われる。例えばヴュルツブルクのノイ・ミュンスター教会に遺される磔刑像では,釘がささったままの両手をキリストが十字架からひきはがし,何人かを抱擁しようとしている。この像は伝統的に「悲しみの人」の一ヴァリエーションとみなされてきたが,像による抱擁の奇跡を期待する人々にとってのイメージ・トレーニングの素材たりえたとも思われる。
 像の生動性を高める行為としては,教会儀式における像の活用が挙げられる。今日でも多く実例が遺されているものとしては,可動腕付き磔刑像がある。これは両腕,場合によっては両脚や頸部等が蝶番や球体関節等によって接合されることによって可動性を有し,必要に応じて十字架から取り外し,折りたためるように作られているタイプの磔刑のキリスト像であり,現存例はドイツ,イタリア,東欧等を中心に70例を下らない。磔刑から十字架降下を経て,教会内に常設もしくは臨時に設営された聖墳墓への埋葬にいたるまで,この種の像を用いてキリストの受難が再現された。いわゆる神秘劇と異
なるのは,こうした儀式では主役が造形イメージであったことだろう。今日の我々にはキッチュなものとも見えかねない像と人との共演に対してかつてどのように感情移入しえたかを考察することは,像一般への人々の感覚や期待を再現的に理解するためにも,重要と思われる。
 可動腕付き磔刑像と並んで,中世末期に好んで教会儀式で用いられたものに昇天儀式用キリスト像がある。これは頭上に環状の把手があり,そこに綱を結ぶことによって,教会天上裏に引き上げることができるタイプの昇天のキリスト像である。実際今日なお主としてドイツの教会には,天上に「天の穴Himmelloch」と呼ばれる像を引き上げるための開口部が遺されている。この昇天儀式も通常は昇天のキリスト像と聖母や使徒に扮した人との共演であった。しかし,16世紀初頭の例ではあるが,枢機卿アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクがハッレの参事会教会において企画させた昇天儀式では,昇天のキリストに加えて聖母と12使徒もすべて人物像型聖遺物容器によって「演じ」られた。何しろ高価な聖遺物容器を用いての劇のため,キリスト像が教会天井へと引き上げられる間,その直下にはタペストリーを広げた聖職者たちが万一の落下に備えて待機していたという。ルターがアルブレヒトを「ハッレの偶像Abgott」と断じた背景には,このようなアルブレヒトによる珍奇な演出もあったのであろう。いずれにせよ人と像との共演とも言うべき形態の儀式がかつて西洋のみならず東洋においてもかなりの広がりを見せていたことは,広く中近世のイメージ受容の歴史を考える上で注目に値するものと思われる。
 造形イメージが美術館で保管・展示されるようになると,像が本来有していた生動性は忘却されてしまう傾向にある。ハナ肇演じる校長先生の銅像が数々の無礼に耐えかね最後には怒り出すという笑劇や,欧州各地で流行している「ムーヴィング・スタテュー」と呼ばれる大道芸などが人気を呼んでいる背景には,自覚されないままに我々の中に眠るかつて像が動き得た時代への郷愁があるのかもしれない。















春期連続講演会「地中海世界における異文化の交流と衝突」講演要旨

中世シチリアのノルマン王とイスラム教徒
──異文化の共存と対立──

高山 博


 ノルマン・シチリア王国は,これまで長いあいだ,異文化共存の地として注目され,中世ヨーロッパ・キリスト教社会の宗教的寛容の典型例として引き合いに出されてきた。たとえば,19世紀の歴史家I.ラ・ルミナは,サラセン人やユダヤ人,ギリシア人,フランス人,アマルフィ人など,さまざまな異文化集団が共存していた王国の「寛容」を語り,ビザンツ史家C.ディールは,ノルマン君主たちが達成した「政治的・宗教的寛容」を称賛している。20世紀のアラブ研究者F.ガブリエリは,ノルマン人たちがアラブ人に対して人種的偏見を抱くことなく,彼らの遺産を自由に利用した点を強調し,ノルマン人の寛容とその結果としての異なる「文明」の融合を高く評価している。また,A.マロンジュは,近代国家のさきがけとしてのノルマン・シチリア王国を論じるなかで,初代の王ロゲリウス二世が民族・宗教を異にするさまざまな集団を大事に扱い,それぞれが共存できるように意を用いていたこと,彼の王国が異文化集団の慣習と言語を尊重する国家であったことを強調している。
 美術史家のなかには,E.キッツィンガーのように,この王国におけるギリシア,ラテン,イスラム,ユダヤの平和的共存が,ギリシア,ロマネスク,アラブ様式の混合したパラティナ礼拝堂に示されていると考える者もいれば,W.クローニヒのように,アラビア文字,ギリシア文字,ラテン文字,ヘブライ文字が刻まれた多言語の墓碑に象徴されていると考える者もいる。また,ノルマン諸王のアラブ人学者庇護,フリードリヒ二世のアラブ人学者との交流,ユダヤ人翻訳家の庇護を,その宗教的寛容の表れとみなす研究者も少なくない。
 シチリア王国の「寛容」を論じたものの多くは,ノルマン支配下の「少数派集団」として,ギリシア人やユダヤ人,とりわけ,アラブ人を扱ったものである。この場合の「少数派」とは,その社会や国家において,人口が少ないことを意味するのではなく,支配する側の集団に属していないということを意味している。たとえば,11世紀末シチリア伯領では,人口比で言えば,圧倒的にアラブ人が多くノルマン人は少数であったが,アラブ人が少数派である。
 ノルマン王たちの宗教的寛容の根拠としてもっとも頻繁に引き合いに出されるのは,少数派であるアラブ人ムスリムに対する彼らの好意的態度である。たしかに,ノ
ルマン王たちが,ムスリムに対して好意的態度をもち,彼らを信頼していたことを示す史料は少なくない。都市のムスリムは信仰の自由だけでなく,一種の自治をも享受していたし,1184年から1185年にかけての冬にシチリアを訪れたスペインのムスリム旅行者イブン・ジュバイルは,これらの点に関する豊富な情報を提供している。12世紀末にエボリのペトルスが書いた書物の挿絵では,ベッドに横たわり死に瀕したウィレルムス二世の周りに,イスラム教徒の医師や占星術師が描かれているが,この絵はまさに王とイスラム教徒との密接な関係を象徴したものだと言えるだろう。
 しかしながら,イブン・ジュバイルは,他方で,シチリア島のイスラム教徒たちが,キリスト教徒の支配のもとで,少数派としての屈辱と隷属,過酷な生活を強いられていたこと,キリスト教への改宗の圧力と誘惑にさらされながら生活していたことをも明らかにしている。つまり,「寛容」を支持する事例がある一方で,「不寛容」を示唆する事例も存在しているのである。ノルマン・シチリア王国におけるムスリムのこのような状態は,「寛容」という言葉で王国の性格付けをすることの難しさを示している。
 多くの研究者は,王,俗人貴族,高位聖職者からなる支配層を構成する征服者ノルマン人と,シチリアの住民の大部分を占める被征服民,つまり,イスラム教徒,ギリシア人,南イタリア人との間に対立軸をおき,ノルマン人たちの「寛容政策」のおかげで,イスラム教徒やギリシア人は王国で安全に暮らすことができたと考えてきた。しかし,実際には,ノルマン人とイスラム教徒,ギリシア人とのあいだの関係は,そのように単純なものではなかったし,また,人々のあいだの対立は,民族や宗教の違いだけでなく,他の要因からも生じていた。王国における異文化集団の併存状態が,宗教的寛容の結果なのか,ノルマン人君主たちがおかれた状況のなかでの不可避の選択の結果なのか,容易に判断することはできない。当事者たちの意識をさぐることが難しい上に,私たちの寛容概念がもつ主観性を排除することが著しく困難だからである。















春期連続講演会「地中海世界における異文化の交流と衝突」講演要旨

イスラム建築にみる異文化的要素の受容と展開

山田 幸正


 西暦622年,メディナに建設された預言者ムハンマドの家は,柱廊で囲む中庭式建築というモスク建築のプロトタイプとなったことにおいて重要であったが,そこに使われていた建築の技法や様式は非常に素朴なものでしかなく,イスラムが当初から発展成熟した固有の建築文化を備えていなかったことを物語っている。しかし,預言者の没後100年も経たないうちに,西は北アフリカ大西洋沿岸,東はインダス川流域にいたる広大な範囲にその勢力を急速に拡大していくなかで,地中海世界およびペルシア世界にあった豊かな古代文化をイスラムは自らの解釈で咀嚼・継承していった。
 イスラム征服当初のダマスクスでは,古代テメノス内にあった聖ヨハネ教会堂がイスラムの祈りの場として転用されていた。この例をみるまでもなく,各地で異教徒の建設した建築がモスク等に転用されていた。また,古建築の柱などの部材が,モスク建設に再利用された例は,マグリブ最古のカイラワーンの大モスクやインドで最初のクワット・アルイスラーム・モスクなど枚挙に遑がない。もちろん,こうした行為は,征服当初において急場をしのぐためでもあったろうが,征服という行為を目に見えるものとすることでもあったにちがいない。
 ウマイヤ朝の本拠となったシリアではメッカの方角である南にあわせて,東西軸に立つ教会堂の平面を90度回転させたプランニングがモスクの礼拝ホールに再現された。首都にふさわしいモスクとしてウマイヤ朝によって建設された大モスクがその代表例である。ここではまた,中庭周囲や礼拝広間内に2段重ねにされた背の高いアーケードがみられる。これは,いうまでもなく,深い谷を跨いで水道橋を築くために古代ローマで考案された既存の技術であった。やがてスペイン・コルドバに後ウマイヤ朝が建設した大モスクにおいて,同じ2段重ねのアーケードを赤と白の部材を交互に使った馬蹄形アーチとし,林立する柱のなかに幻想的に浮かび上がらせた。
 一方,アッバース朝の成立とともに,その中心はシリアからメソポタミアに移り,イスラム建築のなかに古代ペルシア伝来の技術や意匠が盛んに使われるようになる。バグダードの北方サーマッラーに9世紀中頃建設された大モスクには,外側に螺旋階段が巻き付く独特のミナレットが聳えている。周辺に遺跡としてあった古代ジッグラトに影響を受けたことは容易に想像できる。中央アジアのブハラに10世紀建造され,イスラム建築史上,最も古い墓廟のひとつであるイスマイール廟をみる
と,見事な焼成レンガ造の壁体はわずかに内転び,上方にはブラインドアーケードが連続する。これらはレンガ造を安定して築く伝統的な技法として知られていた。また四方にそれぞれアーチ開口を設けた正方形プランにひとつのドームを冠する形態は,チャハル・タークと呼ばれる古代ペルシアの拝火神殿に通じるものと考えられ,その後の墓廟建築のひとつの定番的な様式として,遠く14世紀以降のインドの墓廟建築などにも引き継がれた。
 イスラム建築にとって最も重要なことは,古代の建築技法の中からスクインチとペンデンティヴという二つの大ドーム架構法を継承し発展させたことであろう。中世セルジューク朝建築では,中庭の四辺中央に開くイーワーンとともに,大ドームを支承するスクインチが使われた。古代ササン朝においてすでに知られていたこれらの建築技法は,中世・近世ペルシアを中心にイスラム的な洗練さを加えながら発展していった。一方,6世紀初頭のビザンツ聖ソフィア大聖堂などのペンデンティヴによる大ドーム架構は,およそ千年後,オスマン朝盛期のスレイマニイェ・ジャーミをはじめ,スルタンの名を冠する大モスクに壮麗なドーム・コンプレックスとして盛んに用いられた。
 アーチはもちろん古代からよく知られていたが,イスラム建築ではそれが実に多様で,2心や4心の尖頭形アーチをはじめ,馬蹄形や多弁形のアーチが駆使された。なかでも最も特徴的なのはアーチとアーチを互いに交差させるもので,リブ状の骨組みにして空間を覆ったり,網目状の壁面装飾として用いたり,構造要素であるアーチがここでは装飾的に解釈され使われている。さらに,左右の半曲線が別々の鉛直平面に属する小曲面を層状に積み重ねて,空間を覆うムカルナスと呼ばれる技法は力学的な合理性を超えるかのような独特の造形として,中世から近世のイスラム建築を特徴づけている。
 乾燥した地域を多く含むイスラム世界では,レンガや石などを主体構造とする,いわゆる「土の建築」が一般的で,そこではアーチやヴォールトなど曲面を形作ることによって空間を構築する技術が鍵となる。イスラム建築はそうした架構法を中心に,古代以来の既存の様式・技法を継承し,そこから多様な形態や意匠を創り出した。そうしたなか地域・時代をこえて,構造を躯体,装飾を皮膚と対立・分離したものとはせず,構造から装飾まで連続的に変化するスペクトルのようなものとして捉え発想しようとする独特の造形感覚がみえてくる。















マラパルテ邸は眼下に遠く

横手 義洋


 2007年の夏,ソレントに住む友人を訪ね,イタリアはカンパーニャ州へ飛んだ。アマルフィ海岸をドライブしたり,断崖に設けられた隠れ家的レストランに連れて行ってもらったり,ずいぶん良い思いをさせてもらった。このとき,はじめてカプリ島に赴いた。無計画に行ったのが悪かったのか,日頃の行いが良くなかったのか,「青の洞窟」は海水面が高くてついに見られずじまい。後で友人にそのことを話すと,よほど運が悪かったね,と言われた。無計画に行ってもたいていは見られるそうだ。とはいえ,カプリは「青の洞窟」のみならず,他にも見るべきものはたくさんある。
 自身の研究関心としては,ぜひともマラパルテ邸を見ておきたかった。マラパルテ邸は,建築業界ではイタリア合理主義の建築家アダルベルト・リベラの傑作として知られる。1930年代後半の近代建築,モダニズムの美学を体現しながらも,地中海の大自然と見事な共存を果たした作品,というのが一般的な解説になろうか。映画好きな方であれば,ゴダールの『軽蔑』の1シーンに登場する別荘と言ったほうが,話が早いかもしれない。
 しかし,ここでも自身の無精に悩まされることに。実際,なんの情報も持たずに出かけたので,観光案内所からだいたいの位置を聞いて歩き始めたのであったが,行けども行けどもそれらしいものがないのだ。傍らに地中海を見ながら進んでいく道のりは,最初のうちはたしかに気持ちの良い体験だったが,道は地形の出入りに沿って蛇行しながら果てしなく続いた。そのうち,だんだん不安になってきて,何度引き返そうと思ったことか。
 折れそうな心をつなぎつなぎ,ようやく訪ねあたったのが1時間近く歩いた頃だった。岬の突端に,赤褐色の別荘が岩肌にへばりつくように見えたのである。やれやれという安堵の思いと,これか! という興奮が入り混じった。現在はとある財団の所有らしく,アプローチ途中の門によって,ある程度近づくもそれ以上は進めなかった。結果,眼下200メートル先に作品を眺めたのが訪問のすべてになる。私はしばしそこに佇み,作品を眺めた。大階段を備えた人工的なヴォリュームが石灰質の荒々しい自然と絶妙なコントラストをなしている。これぞしばしば写真で目にする有名なアングルだ。斜め上方からの見下ろしが,建物の背景に地中海の大海原を捉えている。
 さて,この名作について昨年ちょっとしたスクープが報じられた。それによれば,作者は建築家アダルベルト・リベラではなく,施主であり文筆家のクルツィオ・
マラパルテ自身であるとのこと。建築史に携わる者としては,聞き捨てならない内容だ。「マラパルテ:この別荘はわたしだけのもの─アダルベルト・リベラの役割を見直す書簡」と題された記事は,2009年7月10日の全国紙Corriere della Seraに載っている。ライターのステファノ・ブッチは,マラパルテ邸の作者がマラパルテ自身であり,実施においてはウベルト・ボネッティという建築家がサポートした事実を伝えている。以上はボネッティがマラパルテに宛てた書簡を根拠にする。
 ボネッティはトスカーナ出身の建築家とされるが,どちらかと言えば未来派の画家として知られる。そうであればこそ,マラパルテ邸の実施はボネッティの建築キャリアを大きくアピールする力を持つ。逆に,リベラの関与が全く否定されれば,これまでに近代建築史で解説され続けてきた“モダニズムの美学と自然環境の見事なコラボレーション”説が大いに揺さぶられる。ファシズム体制の最右翼であったリベラにとって,マラパルテ邸がキャリアに含まれていることは一種の清涼剤であり,それによって体制に奉じた建築家のイメージは,自然環境にまで配慮できたモダニストのイメージとして確実に和らぐのだ。
 こうした見方は,イタリア建築のモダニズムがファシズムと共存関係にあったからこそ,一層リベラのキャリアにマラパルテ邸があってほしいという心理を誘発する。かくいう私も,マラパルテ邸にリベラの関与があってほしいと願う一人である。もっとも,その思いは体制やモダニズムの問題とは無関係に,たんに一人の作家がわかりやすい一貫性によって論じ切られてしまうこと,一人の作家に潜む神秘性が失われてしまうことに対する懸念にすぎないのだが。
 実際のところ,私はこの記事の真偽を判断する材料を持ち合わせてはいない。ただ,リベラが当初カプリの別荘案をマラパルテに提示した事実になんら変わりはない。そうすると,後にマラパルテが自身の案で実施をおこない,「私のような家」というエッセイを書こうとも,マラパルテの実施案にリベラが示した案の残余を全否定することもこれまた難しくなるだろう。場合によっては,ボネッティの役割こそがかなり補助的な実施サポートという言い方だって十分に可能だ。と考えはじめると,問題はいっこうに決着しない。
 あのとき眼下にとらえたはずのマラパルテ邸が,さらに遠のいてゆくような思いである。














読書案内:亀長 洋子

竹中克行・山辺規子・周藤芳幸編『地中海ヨーロッパ』

朝倉世界地理講座:大地と人間の物語7
朝倉書店 2010年2月 480頁 18,000円(税別)


 本書の目次を開いて私がまず発したのは,なんて便利! という歓声であった。私自身,キリスト教圏もイスラーム圏も含め,地中海各地をうろうろする中世のジェノヴァ商人の研究を専門としているため,講義としてその内容を学生達に伝えるさい,時にはギリシアの島々,時にはイベリア半島,あるときには南仏の港町,という具合に,地中海各地に言及する必要がある。授業のさい,こちらが話す地域の人口規模,自然条件など,その地域の基本情報を話の枕に少しふれると学生にもよく伝わるだろうなあと常々思っている。しかし地理的情報や現状など,専門以外の地域についていちいち調べるのは,意外に難しく手間もかかる。本書のおかげで,授業準備は早く進み,また授業内容は豊かなものになりそうである。
 そうした利便性から本書を眺め始めたのだが,本書の内容は,実に濃いもので,それ自体十分読み応えがある。歴史,祭り,都市,海,島,交流など,本書の章立てに並ぶ言葉自体が,地中海世界を語るためのキーワードを多分に含んでおり,一つの世界として地中海世界を語る構成になっている。ブローデル以降の「地中海の語り方」のベースを押さえた本のつくりである。そしてまた,時代的に,古代の地中海文明から,現代の地中海世界が抱える諸問題まで,本書は幅広く扱っている。地中海世界に関心・関わりをもち,現地に旅行したことのある人が,歴史的事項であれ現状の一端であれ,心のどこかで知りたいと気にかかっていることについて,本書が答えてくれる分野は実に幅広い。
「この町の歴史って,どういうものなのだろう?」「今,○○の教育制度はどうなっているのだろう?」「地中海世界の環境問題って,どんなことが話題になっているのだろう?」「女の人はどういう状況におかれているのだろう?」「観光産業,どういう感じなのだろう?」etc.。頁をめくるたびに,つい読み込んでしまうのである。個々の説明の頁は決して短くなく,図表などのデータも豊富であり,また数多い執筆陣が,自分の専門分野の項目を担当している。安心して豊富な情報をしっかりと身につけ,満腹感を得られるのが本書である。
 扱われる項目も多く,首都や代表的都市以外の都市や地域,また小国もきちんと説明されている。わかりやすい説明で,どんどん読み進められる。地中海世界を生きた有名人が列挙されているわけではないが,現地で普通に暮らす人々の生活の様相が浮かび上がるような面もある。一つ一つの項目を読みながら,「そういえばあのとき電車で雑談した人は移民だったなあ」などと,地中海世界の街角でふれあった普通の人々が次々と思い出されてくる。読んでいるうちに,彼の地に生きる人々が無性に懐かしくなり,地中海世界をすぐにでも訪れてみたくなってしまった。本書を読みつつ,「いつか絶対ここに行こう」と思う地域も増えたが,沸き立つ心を抑えつつ,まずはじっくりと本書を読み込んで,訪問時の楽しみも倍増させようと思う。こんなわけで,一冊手元にあると,利便性から読後の満足感に至るまで,地中海世界に関心をもつ人の興味をかきたて,十分答えてくれるのが本書である。編者・執筆者・出版社の皆様に一読者として心から感謝する次第である。









地中海世界と植物10


楡の木の記憶/金原 由紀子



 楡の木は,高さ20mにも達する落葉高木で,地中海世界に広く分布する。樹齢はきわめて長く,幹周は6mを超えるまでに成長する。街路樹に用いたり家具に加工したりと身近な木だが,楡の木はまた様々な象徴的意味をも担ってきた。
 古代ギリシアでは,楡は夢の神モルペウスに捧げられたことから,この木には神託を授ける力があると信じられた。また,眠る人に神意を伝える神オネイロスとも結びつけられ,眠りの木,夢の木,さらには死の木と考えられた。大プリニウスの『博物誌』では薬としての使用法が紹介され,樹皮や若い葉を酢でペースト状に練って切り傷に塗るとよいとしている。また,楡は葡萄の木を支えるためにしばしば用いられたことから,夫婦愛や友情のシンボルともされた。これがキリスト教の文脈に入ると,キリストを支える聖母マリアや,キリストを抱く十字架のシンボルとみなされる。幹が太く,力強く枝を広げる楡の木は,生命力や霊感を想起させることから,様々な神話伝説と結びつけられてきたに違いない。
 ところで,イタリアの古都フィレンツェには,聖ゼノビウスが死後に起こした奇蹟にまつわる楡の木のモニュメントが残る。聖ゼノビウスは,フィレンツェでは聖ミニアトゥス(†250年)に次いで2番目に古い初期キリスト教時代の証聖人だった。同地の由緒ある貴族の家に334年頃に生まれ,フィレンツェ司教を務めたと伝えられる。ミラノ司教アンブロシウスと親交があり,フィレンツェにいくつもの聖堂を建設し,病の治癒や死者の蘇生などの奇蹟を行った。417年頃に没すると,自らが建設したサン・ロレンツォ聖堂に埋葬された。伝承では,
その遺体はほどなくサンタ・レパラータ聖堂に移葬されたという。15世紀末のクレメンテ・マッツァの聖ゼノビウス伝によれば,429年1月26日,金の飾りで覆われた聖ゼノビウスの棺を担いだ司教たちの行列が,サン・ジョヴァンニ洗礼堂の前を通ってサンタ・レパラータ聖堂に向かおうとしていたところ,この聖なる棺を一目見ようと群衆が殺到した。司教たちは押されて倒れかかったが,洗礼堂の北扉の近くにあった楡の枯れ木にぶつかり,なんとか倒れずに踏みとどまった。すると,この枯れた楡の木に突如として緑の葉が芽吹き,花が咲き乱れて甘い香りを放ったという。
 この時,フィレンツェの人々は楡の葉や花をちぎって持ち帰り,最後には幹を引き抜いて切断し,多くの祭壇画を作ったとされる。この楡の木から作られたと伝えられる作品のうち,サン・ジョヴァンニ洗礼堂にあった磔刑像とサンタ・レパラータ聖堂の聖ゼノビウスの祭壇のための祭壇前面飾りは現存する(前者はサン・ジョヴァンニーノ・デイ・カヴァリエリ聖堂,後者はフィレンツェ大聖堂付属美術館蔵)。また,この奇蹟を記念して,楡の枯れ木のあった場所にはまもなく円柱が建てられた。その円柱は1333年のアルノ川の氾濫で流されてしまったが,すぐに再建され,1375年には楡の葉をかたどる鉄の輪が取り付けられて,今も同じ場所に見ることができる。観光客で賑わう現在のサン・ジョヴァンニ広場では,この円柱は決して目立つ存在とはいえない。だが,フィレンツェの人々はいつの時代にも,円柱を目にする度に,都市の歴史に刻まれた楡の木の記憶を呼び覚ましてきたに違いない。