学会からのお知らせ

*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
 地中海学会では第15回「地中海学会ヘレンド賞」(第14回受賞者:畑浩一郎氏)の候補者を下記の通り募集します。授賞式は第34回大会において行なう予定です。応募を希望される方は申請用紙を事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2010年1月8日(金)〜2月12日(金)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

*第34回地中海学会大会
 第34回地中海学会大会を2010年6月19日,20日(土,日)の二日間,東北大学において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2月12日(金)までに発表概要(1,000字以内)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

*2月研究会
 下記の通り研究会を開催します。

テーマ:パレストリーナのナイルモザイク
発表者:田原 文子氏
日 時:2月20日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス
    法文1号館3階315教室
参加費:会員は無料,一般は500円

 紀元前2世紀末頃制作されたイタリア,パレストリーナのナイルモザイクは,制作年代やその建造物の機能に関して定説が定まらないこと等から,発見当初よりフォルトゥナやイシス信仰の宗教画,地誌的地図といった様々なテーマの解釈がなされてきた。モザイクの主題を考察する上での諸問題を整理すると共に,古典史料のナイル河に関する言及から,モザイクに描かれたナイル河の氾濫風景にどのような解釈が可能であるかを考察していきたい。

*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には月報324号(11月)に同封して振込用紙をお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが,事務局までご連絡ください。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行 九段支店 普通 957742
    三井住友銀行 麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2010年度会費からの適用分です)。
会費口座引落:会員各自の金融機関より「口座引落」を実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度入会された方には「口座振替依頼書」を月報324号に同封してお送り致しました。手続きの締め切りは2月23日(火)です。ご協力をお願いいたします。
 なお,すでに自動引落の登録をされている方で,引落用の口座変更をご希望の方は,新たに手続きが必要となります。用紙を事務局へご請求下さい。











新アクロポリス美術館参拝雑感

師尾 晶子



 昨年9月,6月に一般公開の運びとなったばかりのアテネの新アクロポリス美術館を訪れる機会を得た。建設までの紆余曲折,「エルギン・マーブルズ」の返還をめぐる議論等,この真新しい美術館をめぐる噂と議論は相変わらず続いているけれども,美術館に一歩足を踏み入れると,その神々しいとも言える空気に圧倒され,そんな噂話はひとまずどうでもよくなってしまった。
 新しい美術館はアクロポリスを借景としている。内部は1階から3階までゆるやかにアクロポリスをのぼっていくような感覚を得られるように設計されており,山麓および山頂に点在する種々の聖域を順番に回遊し,同時に古い時代から新しい時代へと時間的にも移動するような展示の工夫が凝らされている。見学者は,アクロポリスに参拝に訪れたような気分に浸りながら種々の奉納物をながめ,古代の人々の神々に対する崇拝の気持ちを追体験するというわけだ。
 訪れた日はたまたま無料開放日の週末で,館内はごった返していた。とくに2階に展示されたアルカイック期の奉納像の周辺では,像が壁際におかれるのではなく,見学者の動線を誘導するように自在に配置されているがゆえに,見学者の肩や肘に触れて倒れてしまうのではないかと心配したくなるような光景にも遭遇した(この点について美術館関係者は深刻に考えており,開館当初写真撮影を許可していたものの,すぐに一切禁止へと方針転換せざるを得なかったとのことである)。だが,展示品と見学者を一体化させてながめているうちに,不謹慎ではあるが,古代の聖域とはそもそもそういうものだったのだろうという思いを抱きはじめた。
 古代の聖域には,大きさの大小,価値の大小を問わず,奉納物が溢れかえっていた。ロドス島のアスクレピオス神域から出土した紀元前3世紀の碑文には,次のような一節が記されている。「いかなる者も神域の下方域に像を建立したり,その他の奉納物を置いてはならない。また奉納物が参拝する人々の通行を妨げているいかなる他の場所にも(奉納物を置いてはならない)」(Sokolowski, LSS 107)。参拝者の多くは,我先に目立つところに奉納品を置こうとしたのだろう。神域の入り口近くの参道には奉納物が溢れかえり,参拝者の通行すら妨げていた様子がうかがえる。しかしながら,奉納物で溢れていることは,その神域を管理する者に
とっては誇らしいことでもあった。だから,管理人の一人はこんな文言を刻んだ奉納碑を神々に捧げた。「これなるは神々のもの。神聖な樹々と奉納板とすばらしき像(agalmata),そしてたくさんの贈り物(dôra te polla)」(Inscriptions de Thessalie I.73)。彼が管理していたのは,いわゆる洞窟を利用した小さな祠であったが,そんなところにも所狭しと奉納物が置かれていた様子がうかがえる。
 聖域が奉納物だらけになったのは,神々を称えることはもちろんのこと,人々が祈願するたびに,そして祈願成就するたびに,その気持ちと行動の証として奉納をおこなったからであった。テオフラストスは『信心について』の一節で,「三つの理由のために神々に犠牲を捧げるべきである。栄誉を称えるために,感謝のために,そしてよきことを求めるために」(断片12)と語っているが,人々が奉納をおこなったのもまさに同じ理由からであった。
 アクロポリスから出土した奉納物の中にも,神々への感謝と期待が奉納者自身の努力に対する自賛と共に語られたものが多数ある。雄弁な例を少しだけあげてみよう。「アイギリア区出身のデメトリオスの息子メナンドロスは女神に初穂としてこの……を奉納した。誓願を達成したのであなたに感謝をして。彼のために汝ゼウスの娘,彼の傍らに立ち,彼の富を守りたまえ」(IG I³ 872)。「自らの手で,仕事への熟練した技術によって,技術へのきちんとした心がけによって,子どもたちを育て上げたので,メリンナは汝,手仕事の女神アテナ・エルガネに,この像(mnema)を捧げた」(IG II² 4334)。
 奉納はその行為自体に意味があった。だからどんなに混雑していても,本人にとっては置くことが重要であり,極端な場合には上述のように設置場所の制限が必要になるほどの事態が生じたのであった。奉納物は,決して景観を重視して整然と置かれていたわけではなかった。現在の新アクロポリス美術館の展示方法は,安全性の面では憂慮すべき点もある。だが,訪れる人々と2千数百年前の奉納者との対話という点では,とても魅力的な配置である。美術館では,今後ともよりよい展示を求めて議論と修正が続けられるとのことだが,対話の空間が維持されることを祈り,願うばかりである。
 アテネ来訪の折には是非美術館へ足をお運びあれ。










秋期連続講演会「地中海の光」講演要旨

静かに晴れわたるヴェネツィアの絵画

──16世紀から18世紀──

小佐野 重利


 ヴェネツィアは7世紀から1797年まで,一時はイタリア半島陸領からアドリア海東岸地域,そしてキプロス島までを領土とした共和国として繁栄した。そして,敬称辞セレニッシマ(Serenissima)を附して「静謐このうえなきヴェネツィア共和国Serenissima Repubblica di Venezia」とか,単にラ・セレニッシマあるいは「アドリア海の女王」とか呼ばれた。
 イタリア語の形容詞serenoの絶対最上級は「最も静穏な,最も晴れわたった,最も静かな」という意味である。管見の限り,この敬称辞でヴェネツィア共和国に言及する最初の文献は,ヴェネツィア人パオロ・サルピの『カトリック聖務停止の歴史Istoria dell'interdetto』(1605〜1607年執筆)のようだ。
 もとより,絵画において光を生みだすのは彩色である。トスカーナ絵画の素描(ディゼーニョ)とヴェネツィア絵画の彩色(コロリート)という紋切り型の対比がある。この対比が生まれる契機となったのは,ジョルジョ・ヴァザーリの『美術家列伝』初版(1550年)に対抗して,ロドヴィーコ・ドルチェがヴェネツィアで刊行した『アレティーノ,または絵画問答』である。ドルチェの本意は,トスカーナ出身の文人で絵画に精通したピエトロ・アレティーノを対話者に選び,著者の代弁者として,ヴァザーリのミケランジェロを頂点とするトスカーナ中心主義の絵画観に反撃を加え,ミケランジェロの絶対性を相対化するとともに,ラファエッロを彼より高位に据えて,その上でティツィアーノをラファエッロ亡きあとのイタリアの至高なる画家と称揚することであった。ヴァザーリは彩色にはあまり関心を示さなかったのに対し,ドルチェは画面構成,素描および彩色の三つを絵画に欠かせない要素としながら,ラファエッロの絵画において彩色の卓越性や彩色と素描の結合が達成され,ティツィアーノの絵画に至っては,比類なき完璧な彩色,彩色と素描の融合,いな競合,および自然そのもののような光と陰の戯れがあることを主張する。興味深いことに,ロマン派のドラクロワは,『日記』でドルチェの著作(1735年のフランス語訳)をアレティーノ自身の語ったことと思い込み,1857年1月15日の記事ではアレティーノによるティツィアーノの彩色讃美に共感を覚え,こう附言する,「私は,この彩色家という特質が素描のみを[絵画の]特質とみなして他を犠牲にする当節の画派のもとでは推奨されるどころか不愉快に思われ
ていることはよく承知している」と。
 さて,アレティーノがティツィアーノの作品に加えた古代修辞学のエクフラシスの伝統を踏まえた書簡形式の批評は有名だが,その中に作品そのものを批評したのでなく,リアルト橋近辺の夕暮れからティツィアーノの空の描き方を連想してみせた画家宛ての手紙(1544年5月)もある。「……するとどうでしょう。空は,神がそれを創造されてよりこのかた一度もなかったとおもわれるほどに美しい光と陰の絵で彩られていたのです。/……あるところでは鮮やかに澄み渡り,また別なところではどんよりと曇っていました。しかも,たっぷりと湿気を含んだ雲を見たときの私の驚きを想像してみてください。その雲の半分は,前景の建物の屋根近くに垂れこめ,あとの半分は右手の方で,暗褐色の後景へとゆっくりと霞んでいっていました。もとより私を驚嘆させたのは,雲が見せていたさまざまな色彩であります。いちばん近いところでは,炎のような日の光に燃え上がり,いちばん遠いところでは,かすかに火のついた鉛丹の炎で染められていました。/……まるで君ヴェチェッリオが描く風景さながらでありました。……」
 一方,ドルチェはアレッサンドロ・コンタリーニ宛ての手紙で,画家の《ウェヌスとアドニス》について記述する。そして,「この絵には斑点で巧みに描かれた風景も見ることができ,その様たるや本当の風景でもこれほどは真に迫っていないと思えるほどです」と斑点による風景を称賛してやまない。ティツィアーノの晩年の絵画にみられる彩色をドルチェやアレティーノの描写と比べてみることはある程度は可能である。
 しかし,「静かに晴れわたるヴェネツィアの大気」の発見者は,1675年にはローマに定住したオランダ画家ガスパール・ファン・ウィッテルではなかったか。風景画家であったファン・ウィッテルは,早くも1697年にはヴェネツィア景観画を手がけている。
 ヴェネツィアは,17世紀の後半から盛んになるグランド・ツアーの目的地のひとつとして脚光を浴びた。ルカ・カルレヴァリイス,ミケーレ・マリエスキ,カナレットやグァルディによるヴェネツィア景観画は,その大旅行のスヴニールとしてイギリスやアルプス北の諸国に持ち帰えられた。1797年に共和国が終焉を迎えた後,ヴェネツィアは以前にもましてイギリスやアルプスの北やアメリカの画家たちに思い思いの彩色で描かれた。














秋期連続講演会「地中海の光」講演要旨

19世紀フランス絵画に見る,オリエントの光/地中海の光


三浦 篤


 19世紀フランスの画家たちはオリエントの光,地中海の光を捉えて,絵画の中にいかに表現したのか。とりわけヨーロッパとは異質の自然と文明の下にある東方世界を,その光とともにどのように表すことができたのであろうか。
 19世紀フランスにおいて一般に「オリエント」という言葉は,インド,中国,日本まで含む広義の「東洋」というよりも,近東,北アフリカ,ギリシアやスペインの一部など,地中海沿岸のイスラム文化圏に相当する「東方」を意味していた。そして,異国趣味の流行としてのオリエンタリズム(東方趣味)は,19世紀西洋の文学・芸術にその多彩な表現を見い出すことになり,フランス美術史でも「オリエンタリズム絵画」というジャンルが成立したのである。
 むろん,その背景にはオリエントに対するヨーロッパの軍事的=政治的優位に基づく植民地の拡大という歴史的現実があったのは言うまでもない。19世紀後半に万国博覧会が開催されたのもその流れの延長線上にある。画家たちもまた探検隊や遠征軍に随行し,後には個人的な旅行として,オリエントへ赴く者が後を絶たなかった。まさに,「絵を描く旅行者から,旅をする画家へ」(フロマンタン)と推移し,彼らが目にしたオリエントの住民,風俗,自然を主題にしたオリエンタリズム絵画が大きな流行を見たのである。
 しかし,オリエンタリスト(東方趣味画家)たちが描いたのは,必ずしもオリエントの現実そのものではなかった。むしろ,戦争画で強調されるオリエントの「野蛮さや残虐さ」,裸婦に見られるエキゾチックな官能性(例えば,オダリスク)のように,紋切り型となった東方のイメージに依拠する作品が多い。そこには他者表象の問題,すなわち自らのものとは異質な文明の具体相を絵画に表す困難がまざまざと示されている。その困難を克服して,画家たちはいかなるオリエントを描いていったのか。当然のことながら,そこには選択や誇張や改変などが入り交じっている。
 その「オリエンタリズム絵画」の系譜を,光の表現を中心にたどっていくのは確かに興味深い。19世紀前半に支配的であったのは,主に「ロマン主義的なまなざし」と言うことができよう。画家たちに東方実体験があるとしても,「オリエント」があくまでも異国趣味的な主題やモチーフとして絵画に導入され,現実観察がむし
ろ空想的なイメージの素材にもなった。過去の絵画伝統の束縛も強いし,西洋の文化・教養体系との関わり(失われた古典古代への憧憬やキリスト教の聖地への意識)も濃厚である。
 例えば,トルコ主題を描いたドゥカンにおけるレンブラント風の明暗表現,岩や石など硬質な対象に執着するドーザの特異な画風,マリヤやドラクロワが再発見したオリエントに残存する「古典古代」,ヴェルネの「アラブ化された聖書」とも言うべき宗教画など。これらの作品に見られる光は,明るい陽光ばかりではない。暗い陰影もあれば,白っぽく霞んだ空気感や,廃墟を照らすノスタルジックで柔らかな光もあり,多様な相貌を見せる。
 19世紀後半になると,オリエンタリズム絵画も次第に変容し,「写実主義的なアプローチ」が際立ってくる。確かに,エキゾチックな「オリエント」という枠組みはなお強力に作用し続けるが,対象の正確な描写や土着性・地方性の把握など,より現実に根ざした表現を志向するのである。さらに,西洋文明に「汚染された」都市部からアフリカ内陸の砂漠地帯へと,画家たちは探索の足を延ばす。対象との距離が近くなり,風土や住民への共感も増すとはいえ,他者表象の難しさも決して消滅するわけではない。
 モロッコに魅せられ,土地の匂いのする絵を描いたデオダンク,灼熱の太陽の光で灰色と化した砂漠の町並みを捉えたフロマンタンがまず挙げられよう。精密な描写力で観光写真的なヴィジョンを実現したジェロームは大衆受けのする異国趣味的な作品を量産したが,アルジェリアの内陸部に入ったギュメは砂漠地帯の住民の単調で厳しい生活を共感と距離を持って淡々と表現している。そこでは,現実に根ざした空気感とともに光が表現されている。世紀末から20世紀になると,言語,宗教ともにイスラム化したディネが,特異なオリエンタリストとして植民地経営との矛盾の中で制作を行う。印象派風の光と色彩が感じられる画面でもある。
 他方,同時期の革新派の画家たちの流れを見わたすと,印象派ではルノワール,20世紀前半ではマティスが実際にオリエントを訪れ,その風土,光から刺戟を受けた作品を残しているのが目を惹く。「啓示はいつも東方から」とはマティスの言葉。オリエントの光,地中海の光は,確かに近代フランス絵画にとって豊かなインスピレーションの源のひとつとなったのである。












グラナダ今昔

貫井 一美


 実に,18年ぶりにグラナダを訪れた。ヘルニ川支流ダロ川沿いの盆地,シエラ・ネバダの北西麓に広がる標高約700メートルの町グラナダ。キリスト教の地でありながらイスラムの地でもあったグラナダ。イスパノ・モレスク建築の傑作《アルハンブラ宮殿》を有する地であり,またレコンキスタの終焉の地であり,その功労者であるカトリック両王が眠る地でもある。今も昔も外国人が思い描く異国情緒たっぷりの「スペイン」のイメージをこれほど現実のものとしてくれる町は他にはない。歴史の中でグラナダとアルハンブラ宮殿は常に人々の幻想と旅情を掻き立てる地であった。

  ご婦人よ彼に施しをおあげなさい
  グラナダにあって盲目であることほどの苦しみは
  人生には他にはないのだから

 ローマ時代に「イリベリス」と呼ばれたグラナダは,711年のイスラムのイベリア半島侵入の後はコルドバから遣わされる副王が統治する土地であった。1031年にコルドバのカリフ制が廃止された後はこの町を都とするナスル朝グラナダ王国が成立する。アルハンブラ宮殿は王国の居城としてサビカの丘に建てられ,それ自体,一つの都市の機能を持っていた。1492年の陥落後も繁栄は続いたが,16世紀半ば過ぎのモリスコの反乱制圧の後,町は衰退の一途を辿った。グラナダの衰退によってほぼ廃墟と化したアルハンブラは,やがて19世紀のロマン主義者たちによって東洋の神秘を具現化した幻想的な空間としてとり上げられ人々の憧れの地となる。その一方で「シエラ・ネバダでスキーをしてマラガで泳ぐ」というように現在は多くのスキー客の訪れる町でもある。
 その昔アルハンブラ宮殿はアラビアン・ナイトの幻想が漂う栄枯盛衰を実感するような場所だった。ユネスコの世界遺産に指定されて以来,ガラリと変わった。宮殿への入口わきの味も素っ気もないガラス張りの建物があり,銀行など様々な機関を通じて予約したチケットを発券する機械が並び,私たちは無機質な空間を目の当たりにする。私はそこにいた職員に確認した。「4時半に入口にいけばいいのですね?」彼女は事務的な口調で言った。「ええ,4時半きっかりに入口にいてください。そ
れより前でも後でもだめです。4時半丁度にです。」昔のようにふらりとこのイスラムの迷宮に入って過去の時代へと思いを馳せ,感傷に浸ることはできなくなった。私たちは中世,イスラム・スペインの時代の夢を見る前にきわめて現実的な局面と対峙しなくてはならない。それにしてもなんという暑さだったことだろう。私の予約は午後4時半だった! 迂闊だった! 当日その時間になって私は夏のアンダルシアの4時半がどんなものだったかを漸く思い出した。「陽はまさに中天にあり」,宮殿への入口にできた長い列で待つ間,暑さから守ってくれるものは何もない。木陰すらないのだ。暑さに朦朧としながら入った「メスアールの間」はしかし,そんな暑さや事務的な現実世界から一気に中世のイスラム・スペインへと私を誘ってくれたのだった。アラベスク模様と水に囲まれた幻想的な空間を彷徨っていた私はライオンの中庭で再び現実に戻される。12頭のライオンの噴水盤があるはずの中庭中央には,ライオンではなく方形の巨大なケースのようなものが鎮座ましましていた。かの有名な狛犬のようなライオンは博物館で修復中(2008年8月現在)。ケースはおそらく水盤保護目的だろうと思うが,もう少し幻想を壊さないような工夫が欲しかった!
 マドリードに帰って友人に話したら「ライオンのいない中庭を目にする機会はそうあるもんじゃないわよ,貴重だったじゃない」と言われた。私の撮ったライオン不在のライオンの中庭の写真はいつの日にか貴重なものとなるだろう。ダロ川沿いの散歩道,アルバイシンの丘,大聖堂や王室礼拝堂,アルカイセリアなどお決まりのグラナダを堪能し久し振りのグラナダ訪問は終わった。今,W.アーヴィングの「アルハンブラ物語」の世界を追体験するのは難しい。それでも夜のグラナダを散策すると大聖堂の脇の路地に,曲がりくねったアルカイセリアの暗闇にアラビアン・ナイトの世界がわずかながらも息づいているような気がした。












ジョルジョ・ヴァザーリの手紙と暦

久保寺 紀江


 ジョルジョ・ヴァザーリ(1511〜1574)は,『美術家列伝』(以下,『列伝』と略す)の著者としてその名を広く知られている人物である。しかし,その書簡も多く残されていることはあまり知られていないかもしれない。彼の書簡がどのようなものかを知る一番簡単な方法は,現在も定本として参照されることが少なくない『列伝』ミラネージ版をひも解くことではないだろうか。この版本の第8巻には263通の書簡が紹介されている。その後カール・フライとその息子によって研究整理された書簡(Karl Frey, Der Literarische Nachlass Giorgio Vasaris, München, 1923-30. およびHerman-Walther Frey, Neue Briefe von Giorgio Vasari, München, 1940)は,その数1,126通に上り,ヴァザーリから発送されたもの,及びヴァザーリ宛のもの両方が収録されている。このフライによる研究は,ヴァザーリの現存する書簡の集大成とも言うべきものであり,ミラネージ版に収録された書簡を含め年代順に並べられている。これらは,1532年から1574年の間に書かれた書簡であり,1511年に生まれ,1574年に没したヴァザーリがその生涯に書いた手紙で現存するものをほぼ網羅していると考えられる。
 ヴァザーリ自身については,『列伝』第二版(1568)にその自伝が収録されており,『列伝』の随所にヴァザーリ自身に関する情報がちりばめられてはいるが,それらよりも生々しく彼の息づかいが感じられるのが,書簡である。個人的な人間関係や『列伝』の調査旅行,仕事のプランなど多種多様な事柄について綴られている。
 たとえば,ヴァザーリがアレッツォに住む叔父アントニオ・ヴァザーリに宛てた1537年1月の手紙(Frey, XXIV)には,庇護を受けていたメディチ家のアレッサンドロが暗殺され,突如支えを失った衝撃が告白されている。すなわち,「叔父上,世界の希望,幸運の擁護者,私の昔からの信頼すべき支え,私の幾多の労苦への報奨,それらはすべて終わり,息を引き取ったのです。そうです,アレッサンドロ公が,我が地上の主が亡くなったのです。」というヴァザーリの言葉にその心情が語られている。
 また,『列伝』第2版の出版に向けての調査旅行(1566年)の消息も,「我々は出立しました。それは三
日以上も降り続いた大雨の後,もはやペルージアにとどまる気もなく,アッシジ,フォリーニョ,スポレートを経て」(Frey, DXXVIII)ローマへたどり着いたと書き送った手紙などに見るように,ヴァザーリは旅先から『列伝』執筆協力者にして親友であるヴィンツェンツォ・ボルギーニへ詳細に何通も書き送っている。
 こういった書簡たちを眺めていると,1500年代のイタリアの風景やヴァザーリの生活が急に身近に迫ってくる。また,これだけ多くの書簡があれば,ヴァザーリがいつどこで何をし,何を考えたかという彼の年表を作成することもヴァザーリ自身へ近づくことも容易であるように思われた。しかし,実際には,私の無知から生じていた落とし穴もあったのである。
フライのまとめたヴァザーリ書簡集には時折日付の後にある省略記号が登場する(たとえば,Frey, CDXXXVII)。St. c.というものである。これは,通常の暦によればという意味,stile comuneの省略らしい。つまり,書簡の年号は,1563年3月22日であっても,実際には1564年の同日であるとのフライの注記である。カッペッリ(A. Cappelli, Cronologia, Cronografia e Calendario perpetuo, Milano, 1998)によれば,フィレンツェの当時の暦は3月25日から新年が始まる。1月1日から3月24日が通常の暦より一年前として認識されていたことになる。しかし,ピサやシエナも其々別の暦がある様子。つまり,懺悔のようだが,こういった暦を考慮に入れず年表を作成してしまったりすると,簡単に一年の誤差が生じる可能性があったのだった。
 では,問題の1月から3月の間,フィレンツェで暮らす人がピサへ移動し,手紙を出すときの日付はいったいどうなるのであろうか。ヴァザーリのようにトスカーナのみならず,イタリア半島を駆け巡っていた人々の暦の感覚はいったいどうだったのであろうか。暦にまつわるこの種の疑問が次々と浮かぶ。1500年代のイタリアは時に思いのほか遠く,1月から3月付の手紙を見る度に今でもふとその距離を思う。








地中海世界と植物5


葦/金光 真理子



 「人間は考える葦である」といったとき,パスカルはどのような葦の風景をイメージしていたのであろうか。か弱い存在の象徴として言及されている葦であるが,川べりに群生し,雨風に晒されながらも逞しく生い茂っている葦をみると,その生命力にあらためて人間の姿を重ねてみたくなる。
 人間と葦が重なりあう,もう一つのつながりに笛がある。人間の声が葦の管を通して哀愁をおびた音色へと変わるとき,その調べは神聖な声になる。古代ギリシアでは神殿の儀礼で,あるいは戦場で,アウロスと呼ばれる双管の葦笛が演奏された。切れ目なく吹き鳴らされるアウロスの音は,息継ぎせずに歌い続けることができる,いわば人間を超越した声であり,それゆえ悪霊を祓い,生贄や兵士たちを護る神聖な音とみなされた。現在でもエジプトを始め地中海沿岸各地には,アウロスの末裔と考えられる双管の葦笛が数多くあるが,いずれも演奏に際しては音を切れ目なく,延々と鳴らし続ける。
 もっとも単純な葦笛は,数センチほどに切った葦の茎をぎゅっと押し潰すとできあがる。口にくわえて息を吹き込めば,甲高い音がなる。これがオーボエのような楽器の先に取り付けられるリード(リードとはそもそも葦という意味であるが)の始まりである。リードは演奏者の身体が楽器ともっとも密に接触し,音を作り出す重要な部分である。と同時に使用とともに傷む消耗品でもある。したがって,楽器の命ともなるリードのため,良い葦を継続的に入手したいというのが演奏者の願いであろ
う。リード用の葦は,とくにArundo donaxという品種が用いられ,スペイン,イタリア,黒海沿岸,メキシコ,アルゼンチンなど各地で栽培されている。どこの葦が良いかとなると,さまざまな説が飛び交う。「南仏のものが一番」という話はよく聞くが,私がイタリア・サルデーニャ島にいる時には「南仏の葦を取ってきたがどれも使えなかった(サルデーニャの葦が一番だ)」という話を聞かされた。
 サルデーニャ島にはラウネッダスという三本で一組の葦笛がある。ラウネッダスもまたリードが楽器の音色・音量を決める鍵となる。そのため,リードとなる良質の葦を求めて,演奏者(リードは演奏者自身が作るのが基本である)たちはそれぞれの秘密の採集場所へ出かける。島中いたるところに葦は生えているが,「海を見て育っていない」,内陸部の葦が良いとされる。また,葦を採るのは,冬(12〜2月頃)の満月の時期と決まっている。演奏者は独り藪の中へ分け入り,さまざまな太さの葦を,これはリード用,これは楽器用とナイフで切っていく(Arundo donaxには皮の厚い「雌」と皮の薄い「雄」とがあり,三本の管によって使い分けられている)。抱えきれないほど何束も集められた葦は,家に持ち帰られ,半年以上,陰干しされる。よく乾燥させた後,初めて葦は加工され,丈夫な,音質のよいものだけが楽器になる。こうして川べりの一本の葦から生まれた笛が演奏されるとき,おそらく古代と変わらぬ葦の調べが,今ここに流れる。