学会からのお知らせ


*2月研究会
 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:都市を測る──『測量術概論』にみる
    中世末期アルルの測量
発表者:加藤 玄氏
日 時:2月14日(土)午後2時より
会 場:東京大学法文1号館3階315教室
    (地下鉄「東大前」「本郷三丁目」)
参加費:会員は無料,一般は500円

 15世紀のアルル市民ベルトラン・ボワセは宣誓測量士として活動した経験から,『測量術概論』を著わした。同書は,具体的な場面に即した測量技術を解説したものであり,ボワセ自身の手による約120点にも及ぶ豊富な挿絵もあわせて,極めてユニークな史料となっている。本報告では,同書と挿絵を用いながら,測量の技術的な側面にとどまらず,中世末期の都市アルルにおける日常生活や市民の関心の一端を明らかにしたい。

*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
 地中海学会では第14回「地中海学会ヘレンド賞」(第13回受賞者:飛ヶ谷潤一郎氏)の候補者を募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(30万円:星商事提供)が授与されます。授賞式は第33回大会において行なう予定です。申請用紙は事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:1月8日(木)〜2月6日(金)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

*第33回地中海学会大会
 第33回地中海学会大会を6月20日,21日(土,日)の二日間,西南学院大学(福岡市早良区西新6-2-92)において開催します。プログラムは決まり次第,お知らせします。
大会研究発表募集
 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2月6日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。採用は常任委員会における審査の上で決定します。

*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には月報314号(11月)に同封して振込用紙をお送りしました。財政難の折,至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行 九段支店 普通 957742
    三井住友銀行 麹町支店 普通 216313

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2009年度会費からの適用分です)。手続きの締め切りは2月23日(月)です。詳細は315号(12月)をご覧下さい。












フランドルの光,イタリアの光

荒木 成子


 ヤン・ファン・エイクの《アルノルフィニ夫妻像》の部屋の中を満たす光,弱々しく,闇をわずかに含んでいるようでありながら,すべての事物を詳細に映し出す光。大気の中に細かい粒子となって浮かぶ光。輪郭をくっきりと浮き立たせることは少ないが,質感を,眼で触るように感じさせる光。真鍮のシャンデリアはかすかな光に反射して,鈍く,冷たく輝き,奥の壁に掛けられた凸面鏡は,弱い光を捉えて部屋の内外を映し出す。数珠玉は淡い光を大量に飲んで暗い壁を背に温かく光る。この多様な光の戯れは多かれ少なかれ,初期フランドルの画家たちの作品の中に共通して見出される。
 1967年の秋(もう40年も前のことになるが),私は一般にフランドルと総称され(正確には南ネーデルランドであるが),15世紀に新しい芸術(Ars Nova)を生み出した現在のベルギーの一都市,ルーヴァン,Louvain(仏),Leuven(蘭)に留学生として住み始めた。ルーヴァンはフランドルの隣のブラバント地方にあり,1425年に創設された大学を擁する小さな町である。講義は同一のものが全てオランダ語とフランス語で併設され,それぞれの言語で育った学生がそれぞれの言語の講義に出ていた。当時はまだフランス語による教育もこのオランダ語圏内にある大学で行われていたのであるが,1972年以降,徐々にフランス語の講義はフランス語圏に新設した大学町ルヴァン・ラ・ヌーヴに移転した。オランダ語圏内でフランス語の授業が行われてはならないということになったからである。ベルギーにおける言語の争いにはほとんど戦争と呼んでもよい激しさがある。
 北ネーデルランド出身の画家ディルク・バウツはこの町で活動した。町の中心にあるシント・ピーテル教会には彼の代表作《聖餐の祭壇画》(1464~67年)が今も飾られている。中央パネルの〈最後の晩餐〉の部屋には《アルノルフィニ夫妻像》に倣ったと思われるシャンデリアが下がっている。ヤンよりも少し明るく,単純化されているが,窓や戸口から入ってくる光の戯れがここにもさまざまに描き出されている。明るく晴朗な光は聖餐の制定という重要な出来事と共に,折り目のついた白い卓布や皿のような些細なものまでを無心に照らし出す。シント・ピーテル教会のすぐそばには,15世紀に建てられたフランボワイヤン様式の市庁舎があり,そこから20〜30分も歩けば町の外を走る環状道路に行き着き,その向こうには人を拒むような深い森が広がる。
 ベルギーには365日のうち,367日雨が降るというジョークがある。小さな大学町はいつも低く垂れ込める雲
に閉ざされ,晴れ上がった青空など望むべくもなかった。ところが,滞在一ヶ月もたたないうちに,この太陽のない曇り空の下の淡い光,紗をかけたような黄金色の光が風景や物のディテイルをあまりにも微妙に浮き立たせることで,私はすっかり眼を傷めてしまった。もともと遠視で,物が過度に詳しく見えてしまうことに加えて,この光がさらにいっそう物の細部をあまりにも詳細に浮き立たせることに耐えられなくなったのである。大気の濃密さを感じさせる淡い光が,直射日光よりもずっと強く眼に作用したのである。眼科でサングラスを処方してもらい,この弱いけれどもまぶしい光を遮断しつつ,次第に眼は環境に順応していった。
 フランスでも,またオランダでも,これほど微妙な光を眼に感じたことはない。住んでいるのと,旅で訪れる違いはあるのだろうが,オランダの雲はフランドルの雲よりも高いように思われる。晴れの青空は6月の二週間くらいしか望めない。11月ともなれば,日中でも暗い空からたまに太陽の光が射しても,そこには熱が,温かさがまったく欠けている。温度は朝も昼も変わらず低いまま経過し,外へ出ようという意欲がくじかれる。
 このような気候の中で暮らすと,イタリアへの憧れは太陽の光への渇望とあいまって強烈になる。「君よ知るや 南の国 レモンの木は花咲き 黄金色したる柑子は枝もたわわに実り,青き晴れたる空より しづやかに風吹き……」(森鴎外訳)というミニヨンが誘う土地への憧れである。フランドルの画家たちもまた,文化的な憧憬や,聖年にローマへ巡礼したいという希望とともに,この太陽の恵みへの渇望を持ち合わせていたのだろうか?私が初めて訪れたイタリアは夜行列車から降り立ったミラノであったが,フィレンツェやローマに比べればまだ北方に近いとは言え,フランドルとはまったく質を異にする光に接して,ともかく心が躍った。生きる喜びに満ち溢れた太陽の光のさんさんと降り注ぐ地。イタリアの文化と太陽の光は心中で分かちがたく結び合った。ここでは光がくっきりと物の形体を,ヴォリュームを伴って浮かび上がらせていた。
 自己の卑小な経験をそのまま初期フランドルの画家に応用して考えることはもちろん論外である。しかし,私自身の南ネーデルランドの暮らしと光の体験が作品を理解する上で少しばかり役に立ったことは否めない。それは研究という以前の理解かもしれないが,初期フランドル絵画はあの光の環境の中でしか生まれ得なかったことを確信できたように思う。












研究会要旨

バルカン半島の中世教会建設
──ビザンチンからポスト・ビザンチン時代への様式移行──

鈴木 環
10月4日/東京大学本郷キャンパス


 中世のバルカン半島では,第二次ブルガリア帝国(1183),セルビア王国(1170頃),ルーマニア(ワラキア公国(1330),モルドヴァ公国(1365))がそれぞれ相次いで独立し,東方正教の教会・修道院建築が数多く建設された。これらの建築様式がビザンツ世界の延長上に位置づけられることが多いなかで,それぞれの地域の特色や周辺との交流が建築にどう影響したのかは謎が多い。その解明の足がかりとして,現ルーマニア南部ワラキア地方と北部モルドヴァ地方の建築を比較し,とくに技術者の交流にともなう,土着と外来様式の折衷過程に着目して紹介したい。
 中世モルドヴァ公国では,シュテファン大公〜ペトル・ラレシュ公時代(15世紀末〜16世紀半ば)にかけて,数多くの教会・修道院建築が誕生し,パトラウツィ(1489),フモール(1532)など七つの教会・修道院群が世界文化遺産に指定されている。一般的な建築の形式は単廊式矩形・三葉形平面がほとんどであり,東西軸線上に建ち,東からベーマ(至聖所),ナオス(身廊),プロナオス(拝廊)の3室,もしくは墓室と前堂を加えた5室で構成される。大規模な建築ではないが,内壁のみならず,外壁にもフレスコ画装飾を施した壮麗な外観がとりわけ特徴的である。壁画を際立たせるため彫刻等の装飾的要素は排除され,バルカン半島の建築のなかではほぼ唯一,柱を用いず壁を主体とした建築構造である。
 もともとモルドヴァ地方は組積造建築や壁画の技術には乏しかった。画家はしばしばギリシアからも招かれ,15世紀末以降は,カトリック圏であり優れた工業技術を有する隣国のトランシルヴァニア地方の都市との交易が盛んになり,そこから招かれた石工集団が建設に携わった。窓枠や装飾にはゴシック様式の影響が表れており,彼らによって技術が伝えられたことを示している。
 一方,ドーム架構については,正方形の身廊の上にペンデンティブを用いて円形のタワーを構築する方法は一般的な西洋建築様式と共通しているが,モルドヴァ地方ではもう1段アーチを重ねて,より径が短い,細いタワーを構築している。最も注目すべきは,円形のドームに星型のリブをもつ形式が広く用いられていることである。この形式のドームはバルカン半島の他の地域には見られない一方で,アルメニア建築に先例があり,スペインのコルドバの大モスクや中央アジアのイスラーム建築
にも共通して見られる。アルメニア人が,モルドヴァ公国独立以前からバルカン半島に広くコミュニティを築いていたことは,数多くの歴史資料から知られている。しかし,彼らが建設にどこまで関与し,どのように様式を伝えたか,その経緯を明確に知るのは困難であろう。
 以上のようなモルドヴァ建築の特色は,民族・宗教上の違いは少ないにも関わらず,ワラキア建築の特色とはかなり異なった様相を示している。ワラキア地方で最初に大主教座が置かれたアルゲシュの宮廷教会堂では,設立にブルガリア・セルビアの僧たちが携わり,ビザンツ文化圏一帯にみられるギリシア十字に基づいた内接十字形平面を踏襲している。しかしモルドヴァ地方では十字形の平面形式は根づかなかった。そもそも14世紀以前までは木造建築が一般的であり,組積造建築が主流になる際にも,もともとの建築の規模や形式を踏襲したことが大きく影響しているだろう。またワラキア地方はいち早くオスマン朝の影響下に置かれ,ゴシック装飾の影響はほとんど届かなかった反面,イスラーム建築にみられる尖頭アーチ,植物文様等の装飾,ムカルナス(鍾乳石飾り)装飾が教会建築にも表れている。このように,ワラキア・モルドヴァの建築には,相互の繋がりよりもむしろ外来(ビザンツ,アルメニア,ゴシック,イスラーム)の影響が色濃く表れ,それぞれ平面形式,ドーム構造,窓枠,装飾といった箇所に,明確に嗜好がわかれて反映されているといえる。
 バルカン半島の建築の発展過程の特色は,ビザンツ文化圏から各国が独立してゆく過程で様式が引き継がれていったというよりも,「広範囲にわたる技術者の交流」によって「特徴的かつ移植が容易な形式」が伝播し,土着の要素と織り交ざってそれぞれの地域性を形成してゆく印象ではないだろうか。
モルドヴィッツア修道院外観
星型ドーム (プロナオス上部)












秋期連続講演会「地中海の造形文化──聖なるものと俗なるもの」講演要旨

イタリアの都市と聖人崇拝
──聖遺物・伝説・美術──

金原 由紀子


 中世イタリアの都市国家では,都市の守護聖人の崇敬が盛んだった。使徒ペテロとパウロを掲げたローマのように,その地の殉教者を守護聖人とした都市もあれば,福音書記者マルコを掲げたヴェネツィアのように,聖遺物の獲得を契機に守護聖人を定めた都市もあった。また,庶民にまでキリスト教が浸透した12〜13世紀には,ローカルな聖人が新たな守護聖人として加わった。
 一般に,都市の守護聖人には,敵軍の攻撃,疫病,自然災害から都市を庇護するという役割が期待された。だが,共和制の都市国家では,君主制の都市国家に比べ,守護聖人がはるかに重要性を持っていたことには注意する必要がある。共和制の都市国家は,政府の定めた都市条例ではなく皇帝法を遵守しようとする貴族を内部に抱えていたため,内政を安定させるためにしばしば守護聖人の力を借りた。聖ステファノ,洗礼者ヨハネ,聖母マリアを守護聖人としたプラートの政庁の評議会の間には,この三聖人を表した壁画が14世紀初頭に描かれたが,これはまさしく「法の番人」としての意味を持つ。また,守護聖人は都市国家の威信を対外的に表明する象徴としても機能した。ヴェネツィア共和国がアドリア海東岸各地に交易の中継地となる城砦を建設し,聖マルコを表す有翼の獅子を城門に刻んだことはよく知られる。
 中世イタリアにおいて,共和制都市国家が多く存在したのはトスカーナ地方であった。フィレンツェでは,初代司教の聖ゼノビウスが古くから守護聖人として崇敬されていた。その後,正確な時期は不明だが洗礼者ヨハネが加わり,第一の守護聖人として遇されるようになる。シエナでも,古くは同地の殉教者を守護聖人としていた。中でも重視されたのは4世紀初頭にシエナで殉教した聖アンサヌスである。だが,1260年のモンタペルティの戦い以降,シエナに奇蹟的な勝利をもたらしたと信じられた聖母マリアが第一の守護聖人とされた。トスカーナの覇権を争った二大強国が,共にローカルな聖人から著名な聖人へと守護聖人をくら替えしたことは示唆的である。これは,台頭しつつある都市国家の住民の愛郷心と自尊心が,ローカルで無名な聖人よりも,聖書に登場する名高い聖人の方を自らの象徴として求めたためだろう。
 一方,トスカーナ地方の小さな都市国家においては,事情が少し異なった。弱小都市国家がフィレンツェやシエナの覇権から逃れて独立を守るには,階層間の対立を
抱えた住民に団結を促し,愛郷心を強固にする必要があった。そのため,古代の名高い聖人よりも,強い親近感と共感を呼び起こす新しい時代の聖人を守護聖人に選び,都市政府がその新しい信仰の普及を促したのである。海洋国家ピサでは,12世紀の聖人ラニエリが盛んに信仰され,守護聖人となった。彼は1118年にピサの裕福な商人の家に生まれ,19歳の時にエルサレムを訪れて同地に13年間滞在し,キリストに倣った禁欲的生活を送るかたわらで貧者や巡礼者を助けた。1154年に故郷ピサに帰って数々の奇蹟を起こし,1161年に没した。聖ラニエリは生前から庶民の人気を集め,ピサ大聖堂で葬儀が行なわれた際には,衣服の断片や遺髪すなわち聖遺物を手に入れようと群衆が殺到したという。聖ラニエリは正式に列聖されることはなかったが,ピサにおいては事実上の聖人として崇敬され続けた。このように中産階級出身,それも商人の息子が聖人として崇敬されたというのは,イタリアでしか見られない現象である。サン・ジミニャーノでも同様に,1253年に同地で没した聖女フィーナの信仰が没後まもなく盛んになり,守護聖人となっている。
 フィレンツェ近郊のプラートは,10世紀に形成された中世の都市で,ローカルな殉教者や司教は存在しなかった。それ故,聖母被昇天に際して聖母が使徒トマスに与え,12世紀後半にプラートの若者がエルサレムから持ち帰ったと伝えられる「聖帯」が,最も重要な聖遺物として13世紀後半から盛んに信仰され,被昇天の聖母が守護聖人とされた。共和制の都市国家では,聖遺物崇拝が盛んになると,その奉納を目当てに都市政府が聖遺物の管理に介入するという事例が数多く見られるが,プラートも典型的なケースである。プラート政府は,聖帯の祝日を聖母被昇天の祝日である8月15日ではなく,古くから三日間の市を行なっていた9月8日に定め,蝋燭の奉納,数人の囚人の解放,近隣の都市の使節による表敬の行列など,政府自らが様々な催しを実施した。さらに,同政府は1346年に俗人と礼拝堂付き司祭から成る管理委員会を設け,聖帯と奉納の管理を委託している。これは聖帯への莫大な奉納が教会側に独占されるのを妨げ,都市政府が管理に介入するための措置であった。このように,共和制都市国家の守護聖人とその聖遺物は,信仰の対象としてだけでなく,政治的にも大きな意味をもち,聖俗の両面で重要な役割を果たしたのである。













スローフードと未来

村松 真理子


 「スローフード」はすっかり流行語,「スローライフ」ともども,ちょっと前の「癒し」などと同様,マーケティング的にもかなり有効なタームとして濫用ぎみに使われているようだ。「定義」を一々気にする私たちは,ちょっとしたひねくれ者か? そこで,地中海学会大会での「スローライフ」トークにも刺激され,昨夏の終わり,「スローフード」を実際にイタリアに訪ね,「スローフード宣言」を読み直そうと思った次第である。ただし,「スローフード」協会本部のあるピエモンテ州のブラではなく,ポッレンツォを訪ねた。「食科学大学」Università degli Studi di Scienze Gastronomicheが,ある村だ。訪問者は,まずその不思議なたたずまいに,どことない違和感を覚える。それもそのはず,これはもともとサヴォイア家のカルロ・アルベルトが1834年以来,手を加えた「人工的」な村。広場も,広場に面する広大な中庭を囲む四翼からなる「農場」の建物も,19世紀的「中世趣味」。ごていねいに小塔まであるが,全くの装飾とのこと。その大部分がすでに修復され,大学の「校舎」となっている。
 国立の総合大学以外,数少ない私立大学しかないイタリアで,マスターコースも擁する大学として設立されたのは画期的だ。敷地の一角はホテルとして経営され,「スローフード」運動の一翼を担うレストランとともに,一般の客も迎える。広大な「ワイン・バンク」は,イタリア・ワインのアーカイヴとして機能させる計画である。学生たちは,食品関係の業種やレストラン・ホテル等で食の専門家になることを目指す,または,すでに関連の職に従事している人が主。留学生の割合も高く,08〜09年度には44カ国の出身者が登録した。日本スローフード協会との連携もあり,日本からの留学生は中でもまとまりのよいグループとして存在感を発揮しているそうで,日本の大学との協力関係もある。昨年は,6月に日本訪問プログラムが組まれたほか,日本の参議院議員団ミッションの訪問もあったとのこと。日本の「食」への関心の高さと,関係が一方通行から二方向になる兆しか。ガストロノミーを講じ,肥大化した食産業とは異なる,「スローフード」哲学に基づいた「食」のあり方と流通を,「大学」の場を通して根付かせ,その理想を実践する職業人を養成することが目的とされている。
 そもそも,その哲学とは何か,改めて1989年にパリで採択された「スローフード宣言」Il manifesto Slow Foodを読んでみよう。「産業文明のしるしの下に生まれ
発展した我々の世紀は,まず車を生み出し,それを生活のモデルとした。スピードは,我らをつなぐ鎖となり,我々は一つのヴィールスに犯されている。それは即ち,『ファースト・ライフ』だ。生活習慣を根本から覆し,家の中まで追いかけてきて,ファースト・フードで食事するよう我々を囲い込む。
 けれど,ホモ・サピエンスは,自らの知恵を取り戻し,人間を絶滅へと追い込みかねない『スピード』から,自らを解放せねばならない」。
 何か思い出さないだろうか? そう,発表の場所「パリ」からして,20世紀初頭の最も有名な「宣言」を喚起させる。1909年2月20日《Figaro》紙上の,フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ起草「未来主義宣言」Il manifesto del Futurismoだ。「我々は断言する,世界の壮観さは,新しき美によってさらに豊穣にされた,と。それは即ち,スピードの美学だ。自らの軌道を回っている地球を,横断し疾走する操縦桿を握る人間をこそ,我々は称揚しようではないか」。さらに戦争を肯定し,破壊主義,ことに「博物館,図書館,あらゆるアカデミー」の破壊を標榜する。
 未来主義運動が国境を超え,ロシアに至るヨーロッパ中に影響を与え,造形芸術・音楽・舞踏等,さまざまな分野で新しい芸術の波を引き起こしたことは周知の通りだが,未来主義者たちはガストロノミーとて無視しなかった。「未来主義料理宣言」Il manifesto della cucina futurista は,何を目指したか。その「反歴史主義」は,男性的力強さを獲得すべく,新しさを標榜し,攻撃の標的は,「イタリアの馬鹿げた食に関する信仰」,すなわちパスタである。イギリス人にロースト・ビーフはよくても,イタリア人にパスタは有益ではないと断言し,「科学的」にいかに栄養がないかを説き,カロリー,ヴィタミンの摂取mp見栄えもよい肉・魚料理を推奨する。
 「食科学大学」「スローフード」運動の主要メンバーで,M.モンタナーリ・ボローニャ大教授とともに,『イタリア料理──一つの文化史として』の共著者でもあるA.カペッティ学長がポッレンツォでお迎えくださり,食に関する技能取得の他の学校とこの「大学」のちがいは人文学の重視だ,と言われた。「スローフード」の前身たる文化団体Arci Gola以来,「おいしく,クリーンで正しい食buono, pulito e giusto」の理想と,「愉しみ」を常に共存させてきた運動の文化と諧謔が,「スローフード宣言」にもにじみ出ている,と改めて思う。













ナッシュビルの女神アテナ像

中村 るい


 長い間,パルテノン神殿の本尊《アテナ・パルテノス》像は,私にとってリアルに思い浮かべることが難しい存在でした。ローマ時代の縮小コピー像や,復元描き起こし図は知られていますが,現存するフリーズや破風等の彫刻オリジナルに比して,永遠に失われてしまった彫像は想像がつかないものでした。
 米国テネシー州ナッシュビルに原寸大のパルテノス神殿およびアテナ・パルテノス像があることは,以前からもちろん耳にしていました。しかし,行きにくい場所へわざわざニセモノを見に行くよりは,ギリシアや英国に残る実物を見るほうを優先し,ナッシュビルへ出かけることは夢にも考えませんでした。
 さて,2007年度からパルテノン共同研究が立ち上がり,2007年,2008年と現地調査が行われました(『地中海学会月報』307号[2008年2月]に一部報告しました)。2007年11月,大英博物館のパルテノン・フリーズ研究者I. ジェンキンス氏との会合で,ナッシュビルのパルテノン神殿について彼から「神殿内に入ったとき,アテナ像が目前に迫ってきて驚愕した。これはじかに体験して初めて知った」と聞いて,これは見に行かなければとふと思い立ちました。
2 008年2月,学年末のわずかな時間を利用して,テネシー州ナッシュビルに向かいました。ナッシュビルは,カントリーミュージックのメッカで,夕刻,空港に降りると,エルビス・プレスリーのグッズが土産物店に所狭しと並んでいました。
 快晴の翌朝,テネシ−州制定百周年記念公園に建つ,復元パルテノン神殿を訪ねました。もともとは,1897年に百周年式典を行うとき,万国博覧会を併催することになり,万博のパヴィリオンとして復元パルテノン神殿が建造されました。この奇抜なアイデアは,テネシー州が古典語を重視した教育を誇り,「南部のアテネ」とも呼ばれていたことに関連します。復元パルテノンは最初れんがと石膏で建造し,1920年に恒久的な建造物への建て替えが決まると,ギリシア建築史の第一人者W. ディンズモアの助言のもと,コンクリート製の神殿に生まれ変わりました(1931年一般公開。Kreyling, et al, Classical Nashville: Athens of the South, 1996 に詳しく記されています)。
 そのときからの悲願だったのが,本尊アテナ像の復元ですが,1920~30年代には実現しませんでした。
 その後,1980年代,アテナ像復元の機運が高まり,1982年復元案のコンペが行われ,地元の若い彫刻家A.
ルクィールにこの復元は任されました(美術史家B. リッヂウエイ及びE. ハリソンが協力)。8年かけて復元が行われ,1990年5月20日,完成したアテナ・パルテノス像が公開されました。21世紀に入り,2002年に鍍金仕上げが行われました。
 昨年2月,私がナッシュビルのパルテノンに足を踏み入れた時の印象は,12m強の巨像とはいえ,ほっそりした女神で,碧色の大きな眼がこちらを見据えている様子でした。知らず知らずのうちに,東大寺の大仏のような巨像を想像していましたが,そうではなく,白い強化樹脂と鍍金の金色がまばゆい,若い女神像でした。本来は黄金象牙製の巨像で,眼に貴石を象嵌していたことは,文献上知られます(プラトン『ヒッピアス』290C)。しかし果たして青い眼だったかは不明です。ナッシュビルの説明プレートでは,鉱石ラピスラズリが使われた旨が記されますが,あくまで推定です。
 神室内をアテナ像へ近づくと,目前でもっともよく見えたのが,「パンドラの誕生」の神話が刻まれた台座と,アテナが左手でもつ円盾(直径4.5m)とその内側にとぐろを巻く9.3mの長さの蛇(アクロポリスの守り神)でした。「パンドラの誕生」の図像選択は,古くから謎とされ,未解決の問題ですが,実際にこれだけ詳細に見えるとなると,副次的な装飾とはいえなくなります。また直径4.5メートルの円盾は,実際には大壁画を見ているのと同じで,そこに表されたギリシア人と異民族の戦いが,その後のギリシア美術に大きな影響を及ぼしたことも,肌で理解できました。
 原作の女神アテナ像は,K. ラパタンの研究(Lapatin, "The Statue of Athena and Other Treasures in the Parthenon," The Parthenon, 2005)が示すように,約44タラントの重量(1,137キロ)の黄金と,さらに象牙が使われた,贅沢な巨像です。アテナ古神殿の素朴な《アテナ・ポリアス》像と補完しあう関係にある新像として,また,パルテノンの彫刻プログラムの要としての《アテナ・パルテノス》像は,アテネ市民の自己イメージを重ねた彫像でもあります(「パルテノン神殿とアテネ市民」『イメージとパトロン』2009年刊行予定)。
 《ナッシュビルの女神アテナ像》は,いわば,21世紀に覚醒した像です。その前に立つと,古代人が神像へ抱いた畏怖心や憧憬や戸惑いまでもが,いつのまにやらリアルに去来する,そのような像といえるかもしれません。









表紙説明

地中海の女と男20

聖王ルイとマルグリット・ド・プロヴァンス/福本 秀子


 13世紀,フランスの聖王ルイ九世は十字軍出征を決意し,先ずは出航するための港づくりから始めた。地中海沿岸のエグ・モルト(動かぬ水)である。王妃マルグリット・ド・プロヴァンスも当然の事として王に随行した。医者も同行したが,王と王妃が選んだのは女医であった。中世では多くの女性が医業に携わっていたのである。十字軍遠征では女性の存在と役割が軍事面でも政治面でも重要な意義を持つこととなる。
 1249年ルイ聖王の部隊はエジプトのダミエッタを奪取し,カイロを目指して行進を始める。ダミエッタでは妊娠中のマルグリットが町の守備を担っていた。遠征軍の他の婦人達も町に残っていたが彼女達のもとには気がかりな情報が入ってきた。フランク軍は戦いに敗れ王は捕虜となり,ダミエッタも危ないというのである。出産を三日後にひかえたマルグリットは一人の老騎士以外の全員を自室から退場させ老騎士の前にひざまづき,こう言った。「もしもサラセン人がこの町を手にした暁には彼らが私を捕らえる前にお前が私の首をはねてくれるように」。老騎士は答えた。「ご心配召さるな。もとより,そう仕る所存でありました」。老騎士の名はデスカイヤックといい,彼の言葉「その事は既に考えていた」(Y pensais)は彼の家の銘句となったのである。そして王妃は無事出産。ジェノヴァ,ピサの艦隊が町を捨てて出発の用意を始めた。マルグリットは艦隊の主だった船長を前に大演説を行なう。
 「皆さん,この町を見捨てないで下さい。もしも町を失ったならば王は万事休し,捕らわれている人々も同様でしょう。それが無理ならせめて私が床離れするまで待ってください。皆さんには町に残っている食料を全部,
王の費用で買わせます」。こうしてマルグリットは王と生き残った軍勢を助けだし,それと引き換えにダミエッタの町を返還したのである。王はスルタンの使者と交渉の折り,「余と仲間の解放のために王妃がいくら払ってくれるのか王妃に聞いてみよう」と言った。これほど婦人の決定権は強く,イスラム教徒たちを驚かせた。封建時代にはこのように女性の権威は我々の想像をこえて,はるかに高かったのである。
 聖地での四年間には様々な出来事があった。例えばテンプル騎士団総長が独断で交渉を始めて話し合いを損ね,王の叱責を受けた際,マルグリットは「王妃としての権限」を行使しようとして介入した。彼女は騎士団指揮官が裁かれることを望み王の裁判権にまで容喙したのであった。
 帰国の途でも王妃は,優れた騎士にも優る沈着・冷静な振舞いを示す。船の中で夜間に召使の不注意から王妃の服に蝋燭の火が燃えうつった。目をさました王妃は部屋中に火がまわっているのを見ると,おちついて燃えさかる布を海に投げ捨て,残りは消し止めた。翌朝,王は言った。「夜中に全員が焼かれてしまうところであったことをみんなに話してやろう」。公私を問わずあらゆる場面で聖王ルイを支えていたのは正に王妃マルグリット・ド・プロヴァンスだったのである。
 表紙は1290年ごろの作。聖王ルイは十字軍士の姿をしており,右手に聖墓の模型を持ち,左手で王家紋章入りの盾を引き寄せている。王妃マルグリット・ド・プロヴァンスは王にしなだれかかり身をよじらせ媚態をしめしている。いささか驚くべき作風の彫刻である。ベルリン,個人蔵。