学会からのお知らせ

*学会賞・ヘレンド賞
 地中海学会では今年度の地中海学会賞及び地中海学会ヘレンド賞(星商事提供副賞30万円)について慎重に選考を進めてきました。その結果,次の通りに授与することになりました。授賞式は6月21日(土)に早稲田大学で開催する第32回大会の席上において行います。
地中海学会賞:本村凌二氏
 本村氏は,日本における西洋古代史研究の国際化の牽引者であり,欧文誌“Kodai”の編集者として研究の国際発信に大きく尽力した。また,『薄闇のローマ世界』『優雅でみだらなポンペイ』などの著作を通して,従来正面から取り上げられなかった嬰児遺棄,落書き,愛と性に光を当て,古代ローマの社会生活を赤裸々に描き出した。よって,地中海学研究の発展に大きく貢献をした。
地中海学会ヘレンド賞:飛ヶ谷潤一郎氏
 飛ヶ谷氏は,『盛期ルネサンスの古代建築の解釈』(中央公論美術出版,2007年)においてルネサンスの建築家たちが,古代への憧憬を背景にウィトルウィウスの『建築十書』や遺構の研究を通じて,古代建築をいかに理解し,あるいは誤解しながら創造的に建築作品を生みだしたかを,実際の作品に即して詳細に論じた。これにより盛期ルネサンス建築に通底する創作のメカニズムを明らかにした点が極めて斬新といえる。

*『地中海学研究』
 『地中海学研究』XXXI(2008)の内容は下記の通り決まりました。本誌は,第32回大会において配布する予定です。
・トカル・キリセ新聖堂(カッパドキア,ギョレメ地区)の装飾プログラム   櫻井 夕里子
・Le Scuole Grandi e i nobili nella Venezia rinascimentale   和栗 珠里
・19世紀アルジェリアにおける植民都市の形態と分節化   工藤 晶人
・研究ノート ヴァザーリとジョルジョーネのマニエラ・モデルナ   高橋 朋子
・研究ノート 東方旅行記における二つの観察潮流 とそのトポス:フランス大使ダラモン一行におけるキリスト教古代文化と異文化の取り扱い   宮下 遼
・史料紹介 紀元前5世紀末〜4世紀のアテナイ社会と市民間の贈収賄    佐藤 昇
・書評 飛ヶ谷潤一郎著『盛期ルネサンスの古代建築の解釈』   長尾 重武
・書評 甲斐教行著『フェデリコ・バロッチとカップチーノ会──慈愛の薔薇と祈りのヴィジョン』   足達 薫

*第32回総会
 先にお知らせしましたように第32回総会を6月22日(日),早稲田大学において開催します。総会に欠席の方は,委任状参加をお願いいたします。(委任状は大会出欠ハガキの表面下部にあります)
一,開会宣言
二,議長選出
三,2007年度事業報告
四,2007年度会計決算
五,2007年度監査報告
六,2008年度事業計画
七,2008年度会計予算
八,役員人事
九,閉会宣言

*会費自動引落
 今年度2008年度の会費は4月23日(水)に引き落とさせていただきました。自動引落にご協力下さり,有り難うございました。引落の名義は,システムの都合上,「SMBCファインスサービス」となっております。この点をご了承下さい。
 学会発行の領収証を希望された方には,本月報に同封してお送りします。


訃報 3月10日,会員の渥美隆雄氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。












都の西北に集まり……散じて地中海学会

大高 保二郎



 「えっー! ワセダで地中海学会の大会って,ほんとに初めてなの?」
 ちょっと意外に思われる方が多々おられるかもしれませんが,実はそうなのです。今年で32回目ということですから,もう30年以上の歴史を重ねた我らが地中海学会の大会がこれまで早稲田大学で催されたことは残念ながら一度もありませんでした。そこには何か,偶然以上の理由があったのかもしれませんが,変な詮索はやめて,すっきりと,「ワセダに全員集合!」とお願いしたいところです。
 前置きはこのぐらいにして,大会の内容を少しご案内しておきましょう。
 会場は早稲田キャンパス(これまで,西早稲田キャンパスと呼ばれていました)で,大隈講堂や大学本部がある地区の27号館,具体的には大隈講堂から大きな道路,そして小道一本を隔てた建物内の小野記念講堂となります。
 初日の6月21日(土)は,本大学文学学術院教授,佐藤次高氏による記念講演「地中海・イスラーム世界の砂糖文化」でスタートします。その後,恒例の地中海トーキングがあり,「スローライフなら地中海」と題して生活に密着した話題で賑わいます。とりわけ高齢化社会に移行しつつあるこの国において,最後に,本当に,学ぶべき,見習うべきは地中海的なスローライフではないだろうか。そうした思いと期待から生まれたテーマですが,多彩なパネリストをお迎えして,どのような発言,珍言が飛び出すか。聴衆も積極的に参加すれば,明日からの生活に活かしてみたくなるような,そんなトーキングとなるでしょう。
 さて今大会は,研究発表の希望が例年になく多く,総会のための時間に制約が出てきました。そのため,地中海学会賞,同ヘレンド賞の二つの授賞式を初日,トーキングの後,懇親会の直前に移しております。授賞式の緊張と興奮を,そのまま隣接したビルの15階,「西北の風」に持っていき,大いに盛り上がりたいところです。本年も,常任委員の福本秀子氏のご配慮により,メルシャンからワインの贈り物が早くから(なんと4月18日)届いております。

 翌22日は例年通り,研究発表でふたを開けます。ただし,6本の発表が予定され,開始時間が「9時30分」 と繰り上がっておりますので,どうか遅刻なさらないようにお願いします。
 12時から総会,そして昼食後,いよいよ最後のシンポジウム「地中海の庭」が始まります。地中海とその周縁自体,巨大な回遊式庭園と映りますが,古代ローマやキリスト教信仰の時代,またイスラーム世界にあっても,「庭」は生活や信仰,権力の表象としても大きな意義・機能を担ってきました。その究極の姿が「天上のエルサレム」,「地上のオアシス」ということでしょうか。
 早稲田の大会では特別展示も,ハンカチ王子も用意できませんでしたが,せめてもの思いでキャンパスツアーを企画しました。大隈講堂は昨年,大学創立125周年を記念して完全復元され,さる12月には重要文化財の指定を受けました。この早稲田のシンボルである講堂の時計塔内部や坪内博士記念演劇博物館,また會津八一記念博物館を見学しましょう。また時間があれば,隣の大隈庭園を散策し,戸山キャンパスまで足を延ばして,解体されつつある(6月末にもしそうなっていたらお許しください)村野藤吾の文学部校舎を見納めするようお薦めします。
 早稲田大学のキャンパスは,街中にあって雑然としているかに見えますが,人情が篤く,庶民的なムードに溢れています。残念ながら,学生の町ゆえ高級なお店はありませんが,どうかごゆるりとお寛ぎいただければ幸甚です。

☆ 21日のキャンパスツアーは,見学場所等の都合により,予約以外の,当日参加はできません。あらかじめご了承ください。(大会会場機関)












講演会要旨

伝統と革新のあいだで
 ──シエナ大聖堂の円形ステンドグラス──

講演者:フランク・マルティン博士
    (ベルリン・ブランデンブルク学術アカデミー)

4月11日/イタリア文化会館アニェッリホール



 シエナ大聖堂のために制作された数々の美術作品のなかでも,近年になって特に注目を集めているのが内陣に設置されていた大円形ステンドグラスである(現,大聖堂付属美術館蔵)。E. カルリらの研究によって明らかにされたように,この作品は1287/88年頃に,ドゥッチオとその協力者であるステンドグラス職人によって制作された。
 このステンドグラスの円形の構図は上下・左右にそれぞれ三分割され,計九つの画面に分けられている。このうち中央の列の3画面には聖母マリアに関する諸場面が描かれている。これらの場面は二つの非定型表現を指摘することができる。第一に,これまでの研究において「聖母の被昇天」とされてきた中央の画面に描かれた聖母の姿勢である。ここでマリアはマンドルラを背に玉座に腰掛ける形で描かれているが,中世の伝統においては,通常「聖母の被昇天」のマリアは立ち姿で描かれていた。第二に,中央下の画面「聖母の死」に描かれたキリストが巻物を手にしているという点があげられる。「聖母の死」の場面のキリストは,通常マリアの魂をあらわす赤子を抱いている。
 この二つの非定型表現を理解するためには,都市シエナの歴史と聖母マリア信仰を勘案に入れる必要がある。ステンドグラスが制作される30年ほど前,1260年のモンタペルティの戦いで,シエナはフィレンツェに対し勝利をおさめた。この戦いに先立って,シエナは街の城門の鍵を聖母に差し出し,その加護を祈った。この時からシエナは「聖母の都市」となる。そしてこの「鍵の奉献」が行われたのが,大聖堂内陣の主祭壇であった。このとき内陣に置かれていた祭壇画は,大聖堂付属美術館に保管されている聖母子像《大聖堂付属美術館の聖母》であり,通称「トレッサの絵師」によって制作された。この祭壇画は,その設置場所などに関して,別の聖母子を描いた作品,ディエティサルヴィ・ディ・スペーメの《嘆願の聖母》と長らく混同されてきたが,近年の調査の結果この混乱が解消され,モンタペルティの戦いの当時,内陣主祭壇に置かれていたのは《大聖堂付属美術館の聖母》であるということが確実になった。

 13世紀後半にドゥッチオの大円形ステンドグラスが制作された当時,その真下の主祭壇に置かれていたのもこの《大聖堂付属美術館の聖母》であった。そしてこの祭壇画とドゥッチオのステンドグラスを比較すると,聖母とキリストの表現に共通点を見出すことができる。これは先述したステンドグラスにおける二つの非定型表現と一致する。つまり,ステンドグラスにおける玉座に腰掛けた聖母と,手に巻物を持つキリストの姿は,《大聖堂付属美術館の聖母》から引用されているのである。
 中央の画面に関してはさらに,聖母をマンドルラとともに描くことで,ドゥッチオは「聖母の顕現」を表現しようとしたことが指摘できる。マンドルラは中世においては「顕現」のモチーフに付随するものであり,「聖母の顕現」という主題は,大聖堂上部の丸窓という設置場所によってより効果的なものとなったに違いない。さらにその聖母の両脇に,聖バルトロマイ,アンサーノ,クレシェンツィオ,サヴィーノというシエナの4人の守護聖人を描くことによって,ドゥッチオはモンタペルティの戦いというシエナの歴史と,伝統的な信仰とを融合してみせたのである。
 《大聖堂付属美術館の聖母》は,モンタペルティの戦いという都市シエナの歴史に密接に関連した重要な作品であり,ドゥッチオはこの作品の聖母とキリストの図像をステンドグラスのなかで反復し強調した。《大聖堂付属美術館の聖母》はその後,14世紀初頭にドゥッチオ自身の《マエスタ》によって置き換えられることになるが,モンタペルティの戦いに関連した聖母子の図像は,円形大ステンドグラスのなかに生き続けることになったのである。
(文責:伊藤拓真)












ビザンティンの典礼暦と「光の週」

秋山 学


 今年は,例年になく復活祭が早く訪れ,グレゴリウス暦に従う教会では3月23日に行われた。復活祭の定義は「春分の次の満月の次の日曜日」であり,復活祭を迎えうる最も早い日は3月22日となっているため,今年がいかに復活祭の早い年かが理解される。
 筆者は今年の復活節を,昨年同様ハンガリーのニーレジハーザで過ごした。同市はギリシア・カトリック教会の司教座都市である。昨年は復活祭が4月8日に当たり,復活祭前のいわゆる「大斎」つまり断食(節食)の期間中,同地に滞在することになった。それに対して今年は,復活祭に続く一週間,すなわちビザンティン典礼で「光の週」と呼ばれる時期の典礼を体験することができた。
 上述のように,復活祭の日付は月齢がからむため毎年移動する。したがって「復活祭の〜日前」「〜日後」という形で定められる四旬節から復活節にかけての諸祝日も,年ごとに動くことになる。「四旬節」の始まりとしては,一般にはローマ典礼による「灰の水曜日」がよく知られていて(今年は2月6日),復活祭から日曜日を除いて40日間遡った日がそれに当たる。日曜日はキリストの復活を寿ぐ日であり,その受難を記念する四旬節とは相容れないとする思想がその背景にある。これに対してビザンティン典礼では,歴史的にいくつかの理解が「受難節」をめぐって展開された跡をたどることができる。
 現在では,先の「灰の水曜日」が含まれる週の月曜日から「四旬節」が始まる,とする慣習が一般的である。この習慣は,復活祭の一週間前の日曜日(「枝の主日」)に先立つ土曜日を「ラザロの復活の土曜日」と呼び,その前日の金曜日までの日数をもって「40日」とする,という理解に基づいている。この場合,その間には日曜日が5回含まれるが(7×5+5=40),この日曜日も受難節中のものであるという意識があり,それら5度の日曜日には,通常年間の日曜日に執り行われる「ヨアンネス・クリュソストモス典礼」ではなく,「バジル典礼」が行われる。このバジル典礼は,その他に降誕祭(12月25日)と公現祭(1月6日)の前晩,および聖バジルの記念日(1月1日),それに枝の主日の翌日の月曜日より始まる「聖週間」の木曜(聖木曜日)と土曜(聖土曜日)にも行われ,あわせて年間計10回行われるものである。以上述べた中で,受難節中(つまり復活以前)には,一週間は月曜に始まり日曜に終わる(完成する)と理解されているのが興味深い。
 一般に「受難節」が「四旬節」と呼ばれ,40日間の節制が求められる背景には,キリストが復活後40日目に昇天する(「昇天祭」;木曜日)までの期間を裏返し,復活祭前に同一期間その受難をしのぶという発想がある。その40日間を数える際に,先の現行ローマ典礼で見られたような「主日」,さらにはその前日である「土曜日」をそこから除くという考え方は古くから行われていた。この場合,復活祭前の土・日を除いた5日間だけで40日とするためには8週間を要することになる。すると,その始まりの月曜日は,現行ビザンティン典礼での「四旬節」の開始月曜日から一週間遡った月曜に置かれる結果となる。その前日に当たる日曜日は,現在でも「肉断ちの主日」と呼ばれ,往時の発想が確かにうかがえる。そしてその一週間後の主日,つまり現行四旬節の開始直前の日曜日は「乳製品断ちの主日」とされている。
 一方,昇天の後10日目(日曜日;復活の50日後)に行われる「聖霊降臨祭」を意識し,その50日分をやはり受難節へと裏返す発想も行われた。この場合,先の「肉断ちの主日」からさらに2週間分を要するが,その記憶は現在でも,復活前第10日曜日を「徴税人とファリサイ派の主日」,同じく第9主日を「放蕩息子の主日」と呼ぶ習慣のうちに留められている。これらの名称は,当日の福音書朗読箇所に因んだものである。そして「徴税人とファリサイ派の主日」以降は,「メネア」と呼ばれる年間固定祝日に基づいた典礼書ではなく,「トリオーディオン」という受難節固有の典礼書が用いられることになる。
 「トリオーディオン」は,復活の主日とともに,今度は「ペンテコスターリオン」と呼ばれる典礼書へと代わる。復活祭の翌週の日曜日は,ヨハネ福音書20.26以下の記事を記念する意味で「トマスの主日」と呼ばれる。この間の一週間は,冒頭に述べたように「光の週」と呼ばれ,「キリストは死者の中から復活した,死をもって死に打ち勝ち,墓に眠る者たちに生命を与えた」という「復活祭のトロパール」が繰り返し歌われるほか,「復活祭のスティヒラ」と呼ばれるものが晩課・朝課の双方において歌われる。そのほか一日に計4回を数える「時課」は,1時課・3時課・6時課・9時課の区別なく,すべて同一の内容となる。そこには,キリストの復活が「時間」という領域にも及び,夜が廃されて世は一様に「光」の世界となったという理解の象徴的な表現が認められる。













フローラの苑
──イタリア庭園の植物事情──

桑木野 幸司


 日差しが「肌を射る」という表現がぴったりの,強烈なイタリアの夏。特に盆地に位置するフィレンツェは,昔から夏の暑さは名物であったようだ。冷房設備などなかった時代に,貴紳たちが涼をとる格好の手段が,実は,庭園を散策することであった。たとえば園内の散策路には,常緑樹を密に編みこんだ樹檣のトンネルが架けられ,太陽神の鋭い矢が届かないようになっていた。加えて,丘陵地に露段を重ねて造園された場合には,高低差と水圧を利用したさまざまな噴水仕掛けや階段状疎水を設けることができた。上下の露段をつなぐ垂直壁には,決まって人工洞窟が掘られ,訪れた男女の衣服を,いわゆるジョキ・ダックァとよばれる遊戯噴水でたちまち水浸しにする。薄ぐらい洞窟の奥にはたいてい,ヴィーナスだのクピードだのバッコスだのといった愛と放縦を言祝ぐ神々の像が置かれ,訪れた者たちの気分をいやがおうでも開放する。たわわにみのった熟果,涼気にただよう草木の芳香,百宝色に咲き笑う花々……。水力オルガンの妙なる調べにいざなわれ,貴族たちは愛の戯れをもとめながら,涼やかな庭園を彷徨したのである。
 ところが現在,たとえばフィレンツェのボーボリ庭園や,近郊のカステッロやプラトリーノの庭園を訪れてみても,真夏の日中など,人影はまばらで森閑としている。歴史的庭園の保存が難しい点はここで,おおかたの噴水は止められるか規模を縮小し,疎水は枯れ,樹木は不必要に刈り込まれ,遊戯噴水や自動機械人形のたぐいは,とうに錆びついてすべて取り除かれている。そしてあろうことか,グロッタの入口には鉄柵が立ちはだかって,かたくなに訪問者の侵入をこばむ。これでは,百年の恋も冷めようというもの。汗だくになってたどりついたカップルが,柵の前で喧嘩をはじめるのがおちだ。
 イタリア庭園の往時の姿を垣間見たければ,文献や絵画資料によるしかない。なかでも,16世紀末トスカーナの黄金の園芸・造園文化を生き生きと活写しているのが,フィレンツェのドミニコ会士アゴスティーノ・デル・リッチョ(1541〜98)だ。未完のまま残された彼の農業百科全書Agrioultura sperimentata(BNCF, ms. Targioini Tozzetti 56)のページ上には,当時の園芸アートが秘めていた一種の猥雑性やエロティシズム,あるいは庭園空間がもっていたカーニバレスクな豊穣性が,饒舌な筆致で活写されている。まずもってデル・リッチョは,アレゴリーとしての農業=園芸女神の姿を,果物や花卉類であでやかに着飾ったうら若き乙女にたとえ,
足のつまさきから頭のてっぺんまで,なめるように描写してゆく。彼が見聞した同時代の豪奢な庭園の数々も,やはり逐一女性にたとえてその美を称賛し,いつの間にか庭園そっちのけで,水も滴る美女の賛美に終始するといったありさま。
 もちろんそれだけではなく,各植物品種や農業技術にささげられた個々の章には,当時の最新の園芸知識が畳みこまれている。そこに吐露されているのは,当時の王侯貴紳たちを夢中にさせた,熱狂的な植物蒐集ブームの生々しい記録にほかならない。まだ統一的な分類・命名体系のなかった時代にあって,新大陸やアジア諸国からつい昨日到着したばかりの珍花奇葉の数々が,俗語や羅語・希臘語のいりまじった不可思議な名称とともに,次々と紹介されてゆく。やれ,アダムのリンゴだの,ウェルギリウスの指輪だの,ユピテルの杯だの,キリストの涙だの,中国ミカンだの,悪魔の噛跡だの,思わずふき出してしまう名も中にはある。デル・リッチョはこれらの珍しい植物を庭園で上手に栽培し,衆人を瞠目せしめるあれこれの園芸技法やら,季節外れの花や果実を育てる方法やら,庭園に設置すべきあれこれの驚異的な仕掛けやらを,トスカーナ各地の庭を訪問した折の体験談をまじえて縷々つづってゆく。そこから浮かび上がるのは,文芸共和国ならぬ,当時の「園芸共和国」の存在だ。向こうの庭に新植物が届いたと聞けばたちまち人だかりができ,あちらの庭に精巧な噴水がお目見えしたときけば,はるばる国外からも見物人が訪れる。16世紀イタリアの庭園とはいわば,人々の言笑がこだまする社交と政治の舞台であり,審美眼を涵養する地であり,哲学的思索や文学的瞑想にふける場であり,そして博物学や機械学の研究の空間でもあった。
 デル・リッチョは晩年,そのあきれるほどの博学を,まるで何かに追い立てられるかのように次々と書物にまとめてゆく。農業論のほかにも,記憶術や鉱物学の作品も伝存しており,さらには諺全集やインプレーザ論,瞑想論なども執筆予定だったという。ところが著者の突然の死によって,それらのいずれも日の目を見ることはなかった。そのユーモアに満ちた筆致から,一体どんな楽しい作品が生まれたのだろうかと思うたびに,残念でならない。今では閑散としたイタリアの庭園を逍遥するたびに,楽しげに植物を手に取りながら散策するドミニコ会修道士の姿が,私の脳裏には浮かぶ気がするのである。







表紙説明

地中海の女と男15

テオドーラとナポレオーネ 中世ジェノヴァ商人の夫婦/亀長 洋子


 ルネサンスという人間性の解放がうたわれた時代が,女性にとっては必ずしもよい時代ではないのは,フェミニズムの論客でなくても様々な角度からうなづくところがあろう。中世イタリアにおける女性の財産権の低下傾向も,その一面を語っている。
 法慣行として抗いようもないシステムのなか,女性が自分の権利を確実に獲得して能力を発揮する道はいずこにあるのか。それを伝えてくれるのが,14世紀ジェノヴァの大商人ナポレオーネ・ロメッリーニが残した遺言である。
 ナポレオーネは14世紀に勢力を増しつつあったロメッリーニ家の出身で,自分一代で当時のジェノヴァ有数の富者となった。彼の二番目の妻がテオドーラである。彼女は夫の家門よりも古くから活躍した家門の出身であったが,この新興商人との結婚は,テオドーラに幸運をもたらした。テオドーラが婚姻時に持参した嫁資は800リブラであるのに対し,ナポレオーネが自分の娘に準備した嫁資は一人あたりその2倍の1,600リブラである。嫁資の額は家の豊かさの表れでもある。テオドーラは,成功を収める夫を手に入れることができたのである。
 そしてテオドーラは,ナポレオーネの遺言で十分な権利を保証されるという幸福にも恵まれた。先妻の子や庶子,そして,テオドーラとの間の8人の息子をあわせ,ナポレオーネには総計20人の子が生まれたが,自分の死後,莫大な遺産処理を含む遺言の第一の執行人としてナポレオーネが任命したのは妻であるテオドーラなので
ある。ここからは資産管理能力をもったテオドーラの姿がうかがえる。加えてナポレオーネは,テオドーラへの遺贈内容が守られるよう格別の配慮を長々と詳細に記している。そのくだりには,彼女の権利を侵害する者に対して,1,000金フィオリーニという高額の罰金を科し,その額を侵害した者への遺贈分から差し引きテオドーラに支払うようにと命じているものもある。テオドーラへの遺贈内容は,巨額ではあるが,分類としては嫁資等の現金や,不動産の用益権といった当時の法慣行に則ったものである。限界のある社会慣行のもと,テオドーラは,遺言という個人の裁量の余地がある仕組みのなかで,自分の権利を最大限に獲得したのである。そして夫がこうした特別の文言を付した遺言を残した背景を考えると,そこには彼女に対する愛情や信頼があったといえるのであろう。
 表紙はこの夫婦よりずっと後の,近世におけるロメッリーニ家の紋章の一例である。ナポレオーネの死後,息子達は商業・軍事などにそれぞれ従事し,その男系子孫たちもジェノヴァの歴史に足跡を残していく。ロメッリーニ家は1528年にはジェノヴァの有力家門28家に名を連ね,二年任期ドージェ制期には6名ものドージェを輩出することになる。この家で後世にまで富者として語られたナポレオーネであるが,富だけでなく賢妻にも恵まれたことは,残念ながらあまりとりあげられないエピソードである。