*第32回大会 第32回地中海学会大会を6月21・22日(土・日)の二日間,早稲田大学小野記念講堂(東京都新宿区西早稲田1-6-1)において開催します。(307号掲載のプログラムは一部変更になりました) 6月21日(土) 12:30〜13:30 キャンパスツアー 14:00〜14:10 開会宣言・挨拶 田島照久氏 14:10〜15:10 記念講演 「地中海・イスラーム世界の砂糖文化」 佐藤次高氏 15:25〜17:25 地中海トーキング 「スローライフなら地中海」 パネリスト:岡本太郎/末永航/武谷なおみ/横山淳一/司会:宮治美江子各氏 17:30〜18:00 授賞式 18:30〜20:30 懇親会 6月22日(日) 9:30〜12:00 研究発表 「ミケーネ諸宮殿崩壊時のエーゲ世界」 土居通正氏 「周縁にして古典なるギリシア像の構築──ブルゴー=デュクドレの万博講演(1878)における〈ギリシア旋法〉をめぐって」 安川智子氏 「《マルクス・アウレリウス帝騎馬像》に見られる騎馬像の定型」 中西麻澄氏 |
「十世紀イスパニア写本の対観表装飾──二つの聖書写本を中心に」 毛塚実江子氏 「エレウサ型アンナ像の出現とその意義」 菅原裕文氏 「オルガヌムの歌い手たち」 平井真希子氏 12:00〜12:30 総会 13:30〜16:30 シンポジウム「地中海の庭」 パネリスト:鹿野陽子/鼓みどり/鳥居徳敏/深見奈緒子/司会:陣内秀信各氏 *春期連続講演会 春期連続講演会をブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1)において開催します。各回とも,13:30開場,14:00開講,聴講料400円,定員130名(先着順,美術館にて前売券購入可。混雑が予想されますので,前売券の購入をお勧めします)。 「ヨーロッパとイスラム世界」 4月26日 スペイン:三つの宗教が共存した土地 樺山紘一氏/5月3日 イスラム世界と近代ヨーロッパ文明:そして誰も何がイスラムなのかわからなくなった 飯塚正人氏/10日 中世シチリア:文明の交差点 高山博氏/17日 イタリア中世海洋都市とイスラム世界 陣内秀信氏(完売)/24日 スペインとシリア:聖地巡礼と建築の交流 山田幸正氏 |
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できるだけ,学の愉しさのみを語りたいとして結成された地中海学会。だから,この「月報」も,その愉楽を伝えあいたいとの趣旨で,編集されてきました。けれども,ごくまれには,悲しい主題を語らなければならないこともあります。わたしにとって,なんと不運なことに,二度までもその悲報のために筆をとらざるをえませんでした。 はじめは,1991年歳末。ときの地中海学会会長,村川堅太郎先生の逝去にあたって。そして,こんどは尊敬する元地中海学会副会長,中山公男さんをお送りするために。結成から30年あまりのうちに,本学会はこうして時をへだてて,二人の偉大な指導者をうしなうことになりました。 中山公男さんは,東京大学文学部をご卒業ののち,大学の講壇にたたれ,ついで国立西洋美術館の設立とともに,そこに赴任されました。草創の困難な時期に,文字どおり先陣をきって美術館の学芸業務に専念されます。さらにのちには,群馬県立近代美術館の館長として,じつに20年にわたって勤務されます。日本の公立美術館のリーダー役として,群馬近美は中山さんのもとで,輝かしい成果をおさめます。公立美術館の連合体(美術館連絡協議会)が,会長の中山さんのもとで緊密な連携をたもち,多くの共同展覧会をもよおしてきたことは,よく知られています。 しかし,わたしたちにとって,中山さんからの学恩は,べつのところに発しています。中山さんは,学芸業務のかたわら,西洋近代美術についての浩瀚な知識と,美術それ自体についての鋭敏な批評によって,わが国の研究者と愛好者とに,強烈なメッセージをとどけてこられました。監修・編集された画集や書物は,その数を知りません。とりわけ,西洋美術史についてのフィールドワークといってもよい,『西洋の誘惑』(1968年)が,わたしたちにもたらした衝撃は,いまも忘れることができません。そこで中山さんは,西洋美術に対面する日本人の感性と知性のありかたに,じつに峻厳な反省と努力とを要請しました。西洋は,はるかかなたに浮かぶ幻影のようにみえるが,その幻影の源をたずねるために,多大な知的営為を必要とするのだと。 |
『西洋の誘惑』の新版(2004年)が刊行されたとき,本月報(279号)に掲載したわたしの書評の一部を,ここで再録させてください。 西洋研究としてターゲットの,したたかな幻影。だが,その身中に蔵した日本という幻影もある。実体ではない幻影による誘惑の実相を解明するためには,「無用で怯懦な民族意識」によって,いたずらに日本へ回帰するのではなく,ひたすらにそのあいだの距離を正確に判定しながら,相手の理念や現実を認識することが要請される…… 21世紀のグローバル化の時代にあって,西洋とむきあうことに,これほどまでの原理的思考など不要ではないかという批評もありうるかもしれません。あるいは,そうでしょうか。しかし,中山さんのお仕事は,初期からその晩年まで,西洋と日本のあいだの厳しい緊張の糸のうえにたっていたことは,否定できません。 1977年のある日だったと記憶しています。中山さんからお電話をいただきました。日本に地中海学会という集まりを作りたいのだが,協力してくれますかとの,お尋ねだった。そのとき,中山さんは補いをするかのようにつけ加えます。ワインを飲みながら楽しくね,でも日本人としてのスタンスだけはグラスの底に,残しておいてねと。いかにも中山さんらしいユーモアと厳粛さの表現だと,感心したのを覚えています。ときどき忘れそうになる留保条件なのですが,なにはともあれ,これは地中海学会が死守すべき一線なのかもしれません。 中山さんは,晩年,呼吸器系の不調がつづき,つらい毎日をお送りでした。会合にお誘いしても,なかなかお運びいただきかねることもありました。けれども,わたしたちは,学会の創設リーダーのひとりとして,いつも適切なかたちでお届けいただいた中山さんのアドバイスを,ながく脳裏にとどめつづけたいと考えています。いくらか恥ずかしそうに,だが物ごとの深奥をするどく指摘される,あの颯爽たる姿をみる機会が,永遠にうしなわれたことに,とめどもない寂しさを感受しながら。 ご冥福を,こころより祈っています。 (元地中海学会副会長,中山公男氏は,2008年2月21日,逝去されました。享年81歳でした。) |
秋期連続講演会「地中海とユートピア」講演要旨
中世後期フィレンツェにおける都市整備と理想都市像石川 清 |
中世後期フィレンツェの市民建築は,イタリアの他都市と同様に張り出しsportiによって覆われ,1255年に建設されたバルジェッロやその直後に建設されたサンタ・トリニタのジャンフィリアッツィ家などに見られるように,街路から見て石積みのほとんどの部分を覆い隠してしまうほどの木造通廊のネットワークと差し掛け屋根によって取り囲まれていた。その様子は1342年にビガッロに制作されたフレスコ画に見る《フィレンツェ都市景観図》やマザッチョによるブランカッチ礼拝堂に描かれた《聖ペテロの生涯》の場面に見ることができる。 木製の張り出しsportiは,1235年には壁からの張り出し部分の高さが地面から5ブラッチャ以上なければならなかったし,1294年にはマッジョ通りにおいて美観保全の目的で張り出しsportiの建設が禁止された。1299年の都市条例では,張り出しsportiの建設禁止がすべての新設の公道に拡大された。しかし,ヴィッラーニによれば,規制強化にもかかわらず,張り出しsportiに対する課税は1336〜37年の1年間に7,000フローリンもの収入をもたらしたという。 都市政府は,大聖堂広場からカルツァイウオーリ通りを経てシニョリーア広場に至る特定の場所に対しては条例を厳格に適用した。1363年2月27日付けのカリマーラ職能組合の嘆願書に応えて,大聖堂建設中のサン・ジョヴァンニ広場の周囲の美観を損なう張り出しを撤去して,少なくとも地上から16ブラッチャ(9.8m)にmuro pulcroを設け,入口アーチを統一した粗石積みに統一することを要請した。つまり,個人の建物ファサードを公共空間を構成する要素として捉え,その質と高さの最低基準を規定して,景観統制をしようとしたことになる。 シニョリーア広場側でも同様の規制が進行していた。フィレンツェ政府はモニュメンタルな市庁舎が面する広場を整備する建設を長い間続けてきた。まず最初に,このplatea comunis,つまり公共広場はギベリン党のウベルティ一族の家屋を完全に破壊することによって13世紀に形成された。最初の拡張は市庁舎建設の時期(1299〜1307年)に西側が整備され,1350年代にその広場の北側の縁にすでに存在していたサン・ロモロ聖堂を移動させることによって北西に向かって拡張され,1362年にサン・ロモロ聖堂ファサードによって形成される建築線が広場東端の商業裁判所まで延長された。ロッジア・デイ・プリオーリの建設は,広場の南端を形成していた。1382年以後の取り壊しによってロッジアの前面と西側 |
の空間が形成された。その場所に位置したサンタ・チェチリア聖堂とその周りにある建物は,1386年8月に取り壊された。1387年に大聖堂建設局は,取り壊しによって残された不規則な建物を覆い隠す壁を建設する依頼を請けた。1387年9月にこの仕事は,カルツァイウオーリ通りのオル・サン・ミケーレ聖堂までの拡張と整備された街路に面する規則的なファサードの建設を伴って北に向かって工事が続けられた。 シニョリーア広場は特別な美的規範decorumによって秩序立てられたものでなければならなかった。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を想起させるmagnificentiaの概念が国家の権威を直接的に表現する都市・建築空間のためにもたらされた。 大聖堂広場からカルツァイウオーリ通りを経てシニョリーア広場までの都市空間は,政府がある美的規範decorumを市民建築のファサードに適用しようとした都市内最初の場所であった。1362年に北に向かって,シニョリーア広場を拡張するために家屋が取り壊された際に,その所有者は,「美しい広場に隣接する壁を高さ少なくとも12ブラッチャ(7.3m)の壁」を建設する必要があった。同様の都市条例がシニョリーア広場と大聖堂とを結ぶカルツァイウオーリ通りが,1389年に拡幅された際にそこに面する家屋に適用された。都市の最も権威ある公共空間に面する家屋の前面,つまりfaccia dinanziの,12あるいは16ブラッチャ(7.3m,あるいは9.8m)の高さまでの壁を美しく建設するという制限に留まってはいるが,1階にアーチをもち,2階の窓台を示すストリングコースの高さまで粗石積み(bugnato rustico)が施された統一的景観を明らかに想定したものであった。 フィレンツェ人が1299年から1336年の間に都市の周縁領域に建設したテッラ・ムラータ(囲壁都市)においても14世紀後半には同様の変化が起こっている。この変化の最初の兆候は,実現しなかったアンブラ渓谷にあるジリオ・フィオレンティーノの1350年の計画にもみてとれる。 美的規範decorumは,よき都市生活の基本概念として活気を与えた。人文主義者たちによる都市讃美を裏づける景観整備が着実に進行していた。1423年にゴロ・ダーティはその偉大な建物の質を称讃し,《鎖で囲まれたフィレンツェ都市景観図》は,実体的な構造体によって都市を特徴づけた。 |
昨今のスペイン鳥居 徳敏 |
久しぶりのマドリード長期滞在である。最初は1973〜84年の11年間,今回は1年間。最初の渡西は,大げさに言えば,未知の国への,命がけの,未来を賭しての遊学であったから,目的のスペインが悪くては困る,すべてが良くなければならない,そうでなければ来た意味がない,といった心境であったに違いない。そのため,都合の悪いことには蓋をしていたのであろう,あらゆるものが良く見えた。 今回は違う。スペインを良く見る必要がなくなった。悪いことばかりにやたらと目が行く。ここ10年ほど毎年1ヶ月以上はスペインに滞在しているのだが,今回ほど気になることは一度としてなかった。ひょっとすると,カルチャーショックなのか,はたまた,学生諸君には日本の標準は世界の標準ではないと教えながら,自分も日本の標準で物を見るほどに日本人化したのか。 スペイン人たちが走るようになった。地下鉄やバスの乗り換え,あるいは横断歩道で。明らかにこれは,都市拡大に伴うもので,通勤時間が長くなったせいであろう。この地下鉄の乗り換え時,日本と同じで,降車優先と注意書きがあるにもかかわらず,それを守らない。守ったとしても乗車口の中央で堂々と待ち,降車客を妨げて平気なのだから困ったものだ。また,日本人以上に行列好きの国民に変わった。喫茶店やレストラン,あるいは美術館で。プラード美術館で行列など見ることがなかったのだが,日曜祭日の入場料無料日(現在では毎日午後6時以降が無料とか),特にセマナ・サンタ(2007年4月)や新館がオープンした無料入館日(10月31日〜11月4日)は驚くべき長蛇の列となった。経済的な豊かさの証であろうし,どこかの国のように文化付いてしまった。塾も盛んだ。子供用の英語塾が盛況のようだ。一昨年から一定以上の店舗面積の飲食店に,禁煙区画の設置が義務付けられたように,スペインでもあらゆる場所が禁煙になった。その結果,歩きタバコの王国になった。特に女性が目に付く。他人の迷惑など考えもしない。テレビでは料理番組が盛んで,健康管理もワイドショー的番組の格好のテーマになり,喫煙の弊害が毎日のニュースになっているにもかかわらずである。 同じく歩行で迷惑なのが「横一列」行進。日本の小中学校で教える第一原則は一列歩行である。歩道の少ない国では不可欠の原則であろう。当然ながら,縦一列に並んでの歩行だ。ところが子供たちは,歩道・車道の区別 |
なく横一列の行進をする。「横一列」禁止が,先生方の口癖になる。一般的にスペインでは旧市街の道は狭く,「横一列」歩行の余裕などない。マドリードの闘牛場がアルカラ門脇にあった時代はそうである。その町外れの闘牛場が1874年現屋内競技場 Palacio de Deportes(アルカラ通りとゴヤ通りの交差する地点)に移り,それがさらに郊外の同じアルカラ通りベンタスの現闘牛場(1922〜29)に再移動したように,都市は拡大した。それに乗じ,歩道も広くなった。ベンタス近くのアルカラ通りの歩道など8m近くある。この環境とスペイン人「自己中」の性格が噛み合うと,見事な「横一列」のオンパレードとなる。土日祭日の午後など7〜8人の「横一列」は頻繁だ。これには子供や青年は言うに及ばず,オバタリアン世代からオバアチャンまで含まれる。この「横一列」には悩まされた。最初の頃は日本人らしく,脇にそれていた。しかし,よけてばかりでは面白くない。最近では隙間に突進することにした。隊列が面白いほど崩れるのだ。スペイン人たちも「横一列」はいけないと思っているらしい。 30年前と全く変わったことは移民(少子化対策の一つ)の多さだ。中南米,アフリカ,アジア,最近は東欧からの移民(現サパテロ社会党政権はこの3年で200万以上の移民を受け入れたとのこと)。かつては中華レストランで中国人,家政婦にフィリピンやタイの女性を見かける程度であったが,今ではどこでも中南米やアフリカ系,あるいは東欧系を見かける。年中無休の中国人経営の雑貨店(百円ショップ,衣料品店,食品・乾物店など)が林立する。バックには中国人マフィアの存在があり,それが昨年末に摘発されてもいる。また,ロシア・ルーマニア系売春組織もこの1月摘発された。こうした例にも見られるように,職を持つ移民ばかりであれば問題はないのだが,必ずしもそうでない。悪に走る。スリや強盗が頻発し,そのターゲットに日本人が選ばれる(2006年夏のニュースによると外国人旅行者の約7割の盗難被害者が日本人だと言う)。毎月送られてくる日本領事館報告によると,最近の傾向では置き引きと首絞め強盗が突出する。前者は日本人のノー天気的性格に原因の半分があるから,余り文句も言えないが,後者は,小柄な日本人を狙った悪質な犯行だ。フランコ独裁時代の静かで安全な国から,民主政の騒々しく危険な国への如実な変化である。 |
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現在ギリシアという国の領域となっている地には,古来よりユダヤ人が居住していた。それはいろいろな史料から確認されるが,たとえばコリンソス博物館には「シナゴーグ」と刻された碑文がある。また中世ジェノヴァ史の専門家によれば,エーゲ海の東のはずれにあるヒオス(キオス)島にはローマ時代からユダヤ人の共同体があったが,11世紀半ばには少なくとも15のユダヤ人の家門が存在し,12世紀半ばには400人前後のユダヤ人が居住していた。この島がジェノヴァの支配下に入ってからもユダヤ人との間には良好な関係が推察され,14世紀の史料からはジェノヴァの統治機構であるマオーナがユダヤ人に多額の債務を依頼したことが認められるという(亀長洋子「キオスに集う人々」『港町の世界史1 港町と海域世界』歴史学研究会編,青木書店,2005年,341,345)。 このように現在のギリシアの地とユダヤ人とのかかわりはさまざまに確認されているが,私も幾度かギリシアを通してユダヤやイスラエルというものに接する機会があった。 一つ目は,北ギリシア最大の都市であるテッサロニキでギリシア語の夏期講習を受けたときのことである。テッサロニキは1492年の追放令をきっかけにスペインを離れたユダヤ人が大規模なコミュニティを形成した場所であり,オスマン帝国支配下でバルカン最大のユダヤ教徒をかかえていた。そのコミュニティは第二次世界大戦中の強制移住で壊滅的な打撃を被るまで存続したが,1870年代末にはその数は少なくとも四万人を誇り,また1850〜1915年においては都市の総人口の50〜55%がユダヤ教徒であったというからその規模の大きさをうかがい知ることができよう(佐原徹哉『近代バルカン都市社会史』刀水書房,2003年,45,349)。私が参加したギリシア語のコースでは自由発表があったが,そこで何とドイツ人の女の子がテッサロニキのユダヤ人というテーマを取り上げた。冒頭で自らがドイツ人であることを考慮した上であえてこのテーマを選んだことを述べ,テッサロニキにおけるユダヤ人の歴史を簡潔にまとめていた。 二つ目はイリニという学生のことである。亜ミケーネ様式の土器に関する大学院の授業で一緒であった。現代ギリシア語で「イリニ」といえば平和という意味であり, |
ギリシア人の女性にも見受けられる名前である。しかし彼女はギリシア人ではない。そもそもの生まれは旧ソ連(現ロシア)であり,十代半ばで家族とともにイスラエルに移住したという。ロシア出身なのにアメリカに多くの親戚がいることや家族ぐるみでイスラエルに移住したこと,ヘブライ語が堪能なことなどを考え合わせれば,あきらかにユダヤ系であろう。ただし彼女の口からは一度もそれを聞いたことはなかった。私が気にかかっていたことは,彼女の姓がドイツ語系であることであった。ドイツ語の単語を二つ組み合わせた苗字で,どう見てもロシア系ではない。あるときそれについて遠まわしに尋ねてみたが,明確な返答はなかった。当然のことながら深く聞けるようなことではなく,そのままになった。 それから何年もたったある日のことである。既に帰国していた私は,ロシア語の通訳者として活躍しまた数々のエッセイでも知られる今は亡き米原万理の著作を読んでいて,突然彼女のことを思い出した。その本の題にもなっている「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」という作品は,著者がプラハのソビエト学校で同級生だったアーニャというルーマニア人の女の子をめぐる実話である。ユダヤ系であったらしい。それに関連してロシアや東欧のユダヤ人作家を研究している人物と著者が会話したときのエピソードが記されているが,その人は次のように語ったという。 「ロシア,東欧に移住して帰化したユダヤ系の人々の苗字は,ほとんどがドイツ語起源ですね」(米原万理『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』角川文庫,2004年,135)。 これを読んですぐにイリニのことを思い出した。彼女がたとえ婉曲的ではあっても自らの苗字に関する質問に答えなかった背景には,それなりの理由があったことは想像に難くない。胸の内には日本人の私には容易には理解できないような深い思いも秘められていよう。そのようなことを尋ねたことをあらためて後悔したと同時に,イスラエルやパレスチナをめぐる情勢が安定し,地域全体の恒久的な和平が実現されるようにと切に願った。 古代ギリシアへの関心がいろいろな世界へと私を導いてくれた。その人たちがみな平和を享受し,豊かで幸せな毎日を送れるようにと心から祈りたい。 |
自著を語る54
『マグリブへの招待──北アフリカの社会と文化』
大学図書出版 2008年3月 287頁 2,800円
宮治 美江子 |
このたび,長年の念願であった,わが国でも初めてのマグリブ(西アラブ・北アフリカ)地域の本格的な入門書を出版する事が出来た。地理・歴史・政治・経済・社会・文化の各分野の専門家の方々のご協力の賜物である。最近ではマグリブを旅行する方たちも増え,いわゆるガイドブックの類や,旅行記やハンドブックも出版されて,日本人の書いた専門的な研究書の出版もある。 しかし,マグリブの地理や歴史,社会や文化などを,全体的に鳥瞰できるような本はこれまでになかった。マグリブの社会や文化を大学の授業で教えていてそうしたテキストが欲しいと常日頃思っていたが,やっと教員生活の最後の段階で叶ったわけである。 考えて見れば,マグリブのアルジェリアに初めていったのが,1968の4月だからちょうど40年の歳月がたったことになる。そのいわば節目の年に出版できたことも感慨深い。1960年代初めの頃に文化人類学で北アフリカについて研究したいと指導教官に相談したところ,即座に文献がないからおやめなさいといわれた。日本語の本は勿論,欧米語で書かれた本ですらあちこちの図書館を探してもほとんど見つからないのが実状であった。ましてフィールドワークなどには今日のように簡単に行けるわけもなかった。初めて渡航したアルジェリアまでの航空運賃は往復36万円で,夫の給料の年収分を超える額であり,とても個人でいける時代ではなかったし,科学研究費のような在外研究費も簡単に貰えなかった。私も最初に行ったアルジェリアのアルジェ大学で初めて,北アフリカ社会学,民族学のA,B,Cから学んだといえる。 |
さて本書の構成を簡単にご紹介すると,序章グローバル化の中のマグリブ地域に始まって,2章マグリブの環境と資源,3章マグリブの歴史(先史時代,古代,中世,近・現代,独立以降の政治・経済),4章人々の暮らしと文化(「伝統的な」暮らしと生活様式,村の生活,都市の暮らしと文化,遊牧民の暮らしと現状),5章イスラームと人々の生き方(イスラームとムスリムの生活のサイクル,イスラームと女性の地位,聖者と聖者崇拝)と続いている。今回この本が出来上がって,改めて多くの専門家(地理・歴史・政治・経済・人類学・建築史など)にご協力頂いたことの有り難さを実感した。それぞれの章や節は論文としては短く,平易な表現ながら,全体として基本的な情報と最新の情報が含まれた,充実した内容となっているからである。 現在,マグリブのすべての国がアラビア語を国語とし,イスラームを国教とする,アラブ・イスラーム世界の重要な西の一翼を構成している。しかしマグリブ地域の特徴は,ご承知のように,アフリカ世界,地中海世界そしてアラブ・イスラーム世界の交わるところとして,多様な民族や文化が交錯してきたところにあり,北アフリカあるいは,西アラブ地域などといった地名から想像されるよりも,はるかに豊かな,奥行きの深い世界がそこにはある。地中海学会の方々にもぜひこの地中海の南岸の地域により一層のご関心をお持ちいただきたいし,そのための入門書として,本書を参考にしていただければ幸いである。最後に,これまでベルベルと呼ばれてきた人々の名称を,この地域での現在の正式名称である「アマジグ」で統一できたことも共著者の方々に感謝している。 |
表紙説明
地中海の女と男14
トリスタンとイズー/福井 千春 |
「この不思議に満ちた大海原を,供もつれず,たった一人でどこかに運んでいかれたい! でも,どこの土地へだ? それはわたしを癒してくれる人の見つかるところへ。」(ベディエ,佐藤輝夫訳『トリスタン・イズー物語』岩波文庫,1953) この大理石の浮き彫りは,巡礼の終点,サンティアゴ・デ・コンポステラのカテドラルで,北側のファサードを改修した際に発掘された。モラレホによれば1105年頃のもので,波間を漂う瀕死のトリスタンであると考えられている。巨人モロルトとの一騎打ちに勝ったものの,槍の穂先に塗られていた毒が全身に回り,死を覚悟したトリスタンは浜辺の番小屋で冒頭の懇願をする。マルク王は,櫂もなく帆もない小舟に竪琴だけを乗せて,彼を海に流してやる。浮き彫りのトリスタンは憔悴しているようだが,騎士の誇りを忘れず,剣と盾は手離さない。 トリスタンはピクト人の,イズーはおそらくゲルマン系の名に由来する。この北方に生まれた伝説はケルト文化圏を南下し,瞬く間に地中海人の心をもつかむことになった。シチリアの見事なキルト刺繍(ヴィクトリア・アルバート美術館)が動かぬ証左である。物語はトマのとベルールの二つ(ともに新倉俊一の美しい日本語訳がある。『フランス中世文学集1』白水社,1990)伝わるが,サンティアゴの作者はどちらの物語を聞いたのであろう,惜しむらくはどちらも断片しか残らず,まだよく分かっていない。それぞれゴットフリートとアイルハルトという翻案を経て発展し,前者を騎士道本,後者を流布本と呼んでいる。先のベディエの著作は,それらをやや強引にまとめたものである。 |
トリスタンを乗せた小舟は七日七晩かかって異国にたどり着き,彼はイズーの介抱のおかげで生き帰る。ある日燕が,マルク王のもとに,一筋の光輝く髪の毛をくわえてきた。王は,この金色の髪の持ち主を探すようトリスタンに命じる。アイルランドでは,恐るべき竜が国中を荒らし回っており,退治した者には姫イズーをとらせると勅令が出ていた。トリスタンは勇敢に竜をしとめるが,沼地で失神する。イズーは,風呂を仕立てさせ薬草で蘇生させ,彼の寝顔に眼をとめ,初めて心が揺れる。しかし,浮き彫りを見ていただきたい。剣には刃こぼれがある。こぼれた刃は巨人モロルトの頭蓋骨に残り,それは姪のイズーによって象牙の小箱に大切に保管されていた。いぶかしんだイズーが,刃をこぼれ目に合わせてみると,ぴったりと合う。見つけたり伯父の敵。イズーの恋心は一瞬殺意に変った。 竜退治に成功したトリスタンは,王女イズーをマルク王の妻にもらい受ける。しかし,帰りの船上,暑い昼下がりに二人は誤って,年齢の違う夫婦用に調合された媚薬酒を飲んでしまう。流布本では,飲んだ者は電撃的に愛し合い,しかも愛が醒めると高熱を発して死に至るという。イズーがマルク王に嫁いだ後も,彼らは逢い引きを重ね,モロワの森に逃げこむ。夏の朝,眠る姿を王に見つかるが,間に置いた抜き身の剣のおかげで命だけは見逃してもらう。しかし物語りはまだ続く。盲目的で暴力的な愛。殺したいほど憎い人を心の底で愛してしまい,愛する意志もないのに媚薬の力で愛さずにはいられない。彼らが獣のように貪り合う愛の表現は,キリスト教社会や西洋文明の規範を軽々と超えてしまう。本能の愛こそ永遠なりと地中海の人々は直感的に悟ったのであろう。 |