学会からのお知らせ

*秋期連続講演会
 秋期連続講演会「地中海とユートピア」を11月17日より12月15日まで(毎土曜日,全5回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において下記の通り開催します。各回午後1時30分開場,2時開講,聴講料400円,定員130名です(先着順,美術館にて前売券購入可)。
「地中海とユートピア」
11月17日 天界への回路としての聖遺物と美術   秋山 聡氏
11月24日 ユートピアとしての南フランス──ルノアールとボナール   木島 俊介氏
12月1日 はるかな都市──描かれた都市のユートピア   小佐野 重利氏
12月8日 中世後期フィレンツェの都市整備と理想都市像   石川 清氏
12月15日 永遠なるユートピア・古典世界   中山 典夫氏

*12月研究会
 下記の通り研究会を開催いたします。

テーマ:ピエロ・デッラ・フランチェスカ研究の
    過去と現在
発表者:池上 公平氏
日 時:12月8日(土)午後2時より
会 場:東京大学法文1号館3階315教室
    (地下鉄「東大前」「本郷三丁目」下車)
参加費:会員は無料,一般は500円

 イタリアの美術史家・批評家ロベルト・ロンギの『ピエロ・デッラ・フランチェスカ』(1927)の日本語訳が、筆者と遠山公一氏の共訳で2008年に刊行される予定である。本書はピエロ研究の古典であり、その原点とも言うべきものである。しかし、本書刊行から80年を経た現在、われわれのピエロに関する知識は著しく増え、ロンギの提示したピエロ像にも修正すべき点が出てきている。この機会に、ピエロ研究の現状についてロンギと比較対照しつつ紹介したい。

*新名簿作成
 事務局では新名簿作成の準備をしております。掲載項目は下記の通りです。変更のある方は11月2日(最終締め切り)までに事務局へご連絡ください。
会員名 住所/自宅電話番号/所属/所属電話番号
    研究・関心分野

訃報 

8月7日,会員の高橋榮一氏が逝去されました。
10月3日,会員の若桑みどり氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。





表紙説明

 地中海の女と男8
マルゴとアンリ4世/野口 榮子


 フランスのルネサンスを築き,レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに招いたフランソア1世(1494〜1547)は,長男のアンリ2世(1519〜59)の妃を,1533年にフィレンツェのメディチ家から迎えた。カトリーヌ(1519〜89)である。長子のフランソア2世(1544〜60)は,父の没後に15歳で即位し,翌年に急死した。次の王シャルル9世(1550〜74)の時代にわたって,カトリーヌは摂政だったが,国内には1562年から98年の30年以上におよぶ宗教戦争がおこり,カトリック(旧教派)とカルヴァン派のユグノー(新教派)の戦いがつづいていた。カトリーヌの末娘がマルゴとよばれるマルグリット・ド・ヴァロア(1553〜1615)である。マルゴは輝くばかりの美貌に加えてイタリア語・スペイン語・ラテン語・ギリシア語などを学び,科学や音楽,舞踊にも才能があったという。カトリーヌはマルゴの縁談に熱心だった。いくつかの中にブルボン家でユグノーの首長のような立場のアンリ・ド・ナヴァール(1553〜1610)が登場した。ふたりはまたいとこ同士なので,ローマ教皇の許可証が必要だったが,結婚契約の署名も無事に終了し,1572年8月18日にパリのノートルダム寺院で盛大な結婚式が行われた。だが5日後にはユグノーにたいするサン・バルテルミーの大虐殺がおこり,アンリは改宗した。翌年にはシャルル9世の死,その弟のアンリ3世(1551〜89)の王位継承があった。カトリーヌはアンリ3世の即位後はブロアに隠退し,そこで没した。いわゆる「三アンリ」とは,アンリ3世とマルゴの夫アンリとアンリ・ド・ギーズ(1550〜88)で,ギーズは旧教徒の首領として摂政にとりいり,サン・バルテルミーの大虐殺を扇動したといわれるが,あまりに勢 力を増大し暗殺されてしまった。マルゴの恋人でもあった。マルゴも夫のアンリもそれぞれの周囲に愛人や恋人が絶えなかった。アンリ3世が母の死後に数ヶ月で暗殺されると,子供がなかったので,ヴァロア王朝が断絶し,ブルボン家から後継者としてアンリが選ばれることとなり,ルイ13世,ルイ14世からフランス革命につづくブルボン王朝がはじまった。マルゴは不品行ということで,教皇により離婚が決まった。即位してアンリ4世となったナヴァール公は,フィレンツェのメディチ家からマリー・ド・メディチを迎えて王妃とした。アンリ4世はマルゴに王妃の称号とヴァロア公妃の称号を認め,いくつかの公領を与えている。アンリ4世は1598年に,ナントの勅令によりユグノーの宗教の自由を認めた。
 フランソア1世はイタリアから画家たちを迎えたが,フランスにもクルーエ父子のようなすぐれた肖像画家がいて,王たちの姿を伝えている。シャンティのコンデ美術館蔵の少女時代のマルゴの素描と水彩による画面は,フランソア・クルーエ(1516頃〜72)の筆で,マルゴの比類ない美しさを伝えている。彼女は手記を遺しており,晩年はパリでルーヴル宮殿の近くに住んで,アンリ4世一家と親しくし,少年時代のルイ13世もマルゴを慕ったという。マルゴの死の5年前にアンリ4世は暗殺により没した。マルゴが62歳で世を去る時の愛人は歌手のヴィラールだった。ハインリヒ・マンの『アンリ四世の青春』(小栗浩訳,晶文社)などが伝えているが,マルゴとアンリ4世は,多くのスキャンダルの中でも,それぞれの立場やなりゆきを考え,互いに理解しながら,人間同士として心から愛しあっていたのだと思う。







春期連続講演会「地中海を旅する人々」講演要旨

ヘロドトスの旅

桜井 万里子


 古代ギリシア最大の歴史家といえばヘロドトスとトゥキュディデスが挙げられるが,史料を厳選したトゥキュディデスに比べ,ヘロドトスの史書には神話や伝承が多数紹介されているため,その記述の信憑性について疑問が呈されることもしばしばであった。ご存知のように,ヘロドトスはペルシア戦争についての記述を残したのだが,その著作『ヒストリアイ』では,エジプト,ペルシア,スキュティア,リビアの地誌,風俗習慣などが第1巻から第4巻まで叙述されていて,第5巻からの戦争の記述とはかなり趣きが異なる。初めの4巻の民族誌的な描写の部分に特に神話や伝承への言及が多いことから,とりわけこの部分の信憑性に疑いがもたれたのである。すでに紀元前4世紀に「嘘つきヘロドトス」という評価がだされていた。
 ところが,20世紀も後半になってヘロドトスに対する評価が高まってきた。彼の史書に言及されている多様な神話・伝承,エピソードはむしろ多くの情報を提供してくれることから,分析方法によっては古代世界の研究深化におおいに貢献してくれるという見直しが進み,紀元前1世紀ローマのキケロがヘロドトスに呈上した「歴史の父」という呼び名は,今日こそ適切である,とさえ言われ始めている。
 とはいえ,「ヘロドトスは嘘つき」という見方も一方では根強く存続している。近いところでは,D. Fehling, Die Quellenangaben bei Herodot, Berlin/New York, 1971 (Herodotus and his 'Sources': Citation, Invention and Narrative Art, tr. by J.G. Howie, Leeds, 1989)が多くの研究者の注目を集めた。ヘロドトスはその作品の中で自分が旅をした国や地方として,小アジア,メソポタミア,ペルシア,シリア,フェニキア,エジプト等々,多数の地名を上げているが,実際にはこれらの土地に行っていない,とフェーリンクはいうのである。
 どのような記述がその根拠になっているのだろうか。たとえば,第2巻第3章でヘロドトスは大都市テーベに行ったと述べているが,テーベの都の様子について何も語らない。古代の大都市テーベは現在のルクソール。そこには巨大モニュメントが多数ある。テーベに行ったのであれば,ヘロドトスはこれらの巨大建造物を見たはずだが,それらについては何も語っていないのはいささか奇妙である。
 また,同じくエジプトのエレファンティネについて,ヘロドトスは常に町(polis)という語を用いるが,このエレファンティネは川中島だった。第2巻第29章ではタコンプソについて川の中の島(nesis)と述べているのだから,エレファンティネと類似の川中島の存在は認識していた。それにもかかわらず,エレファンティネについてはこの事実に触れていない。それはヘロドトスが実際にはエジプト旅行をしなかったからではないか,とフェーリンクはいうのである。
 以来,研究者たちは,フェーリンクに与するものと,ヘロドトスは嘘をついていないと擁護するものとのグループに別れ,対立したまま,いまだに解決の糸口はないかのようである。この問題について,ここではまったく観点を変えて,そもそもヘロドトスは旅をどのように見なしていたのかという問をたててみよう。
 『歴史』の冒頭(1.5.1-3.)でヘロドトスは,ペルシア戦争を叙述するに当たってまず,「人間の住みなす国々(町々)について,その大小にかかわりなく逐一論述し,話を進めてゆきたいと思う」と述べているが,これは『オデュッセイア』1.1-3.の「ムーサよ,わたくしにかの男の物語をして下され,トロイエ(トロイア)の聖なる城を屠った後,ここかしこと流浪の旅に明け暮れた,かの機略縦横なる男の物語を。多くの民の町を見,またその人々の心情をも識った」という表現と似ている。各地を流浪し,町々を見たオデュッセウスと,これから町々について話を進めるヘロドトスの行動の類似性が指摘できよう。ヘロドトス本人は若くして生地ハリカルナッソスを離れ,亡命者としての人生を送った。オデュッセウスと同様に流浪の旅に明け暮れた彼の作品の中には,旅する人がしばしば登場する。その描き方からは旅することにより知恵は増す,ということが,ヘロドトスの重要なテーゼであったことが窺われる。彼が実際に旅をしなかった,という見方は,このようなテーゼに反している。フェーリンク説は退けられるべき,と言わざるを得ない。







北方の「アテナイ」ドレスデン
──趣味の規範はどこに?──

古川 裕朗


 昨年の夏,旧東ドイツのドレスデンに行って参りました。2006年は,ドレスデンが市誕生800年目を迎えた年にあたります。市内では,第二次世界大戦中,連合軍の空爆によって崩壊した建物の再建が盛んに行われていました。いわゆる「世界最大のパズル」と呼ばれた聖母教会も,当初は800年祭の2006年を目安に再建が進められていたそうですが,思いのほか多方面からの支援に恵まれ,前年の2005年にはすでに完成していたとのことです。18世紀ヨーロッパの文化的中心地のひとつであったこの街には,未来感情とでもいったらよいのでしょうか,そうした明るく健全な気分が満ち溢れていました。
 『絵画および彫刻におけるギリシア美術の模倣に関する考察』の著者でドイツ18世紀の美術史家ヴィンケルマンはかつて,ドレスデンを“アテナイ”と呼んで賞賛しました。ヴィンケルマンが活躍したその時代は,ザクセン選帝侯アウグスト強王およびその息子のフリードリヒ・アウグスト二世の治世にあたります。それは,ドレスデンが最も華やかだった時代でした。このことと関連して,少し不思議に思ったことがあります。現地で購入したガイドブックは,“エルベのフィレンツェ”あるいは“ドイツのフィレンツェ”というヘルダーに由来する言葉の紹介で始まっていました。最もきらびやかだった時代のヴィンケルマンの言葉ではなく,それよりも後の文化的にはいくらか地味な時代の言葉が用いられているわけです。しかしながら,ヴィンケルマンが述べた言葉の文脈をよく考えてみるなら,このことはとりわけ奇妙ではありません。
 澤柳大五郎氏の名訳『ギリシア美術摸倣論』(座右宝刊行会,1976年)から引用・抜粋させて頂くと,ヴィンケルマンはこう述べています。「日に増し世界に広まって行く良き趣味はもとギリシアの蒼空の下に形をなし始めたものである。(中略)ギリシア民族のその作品に賦与した趣味は常に彼等固有のものである。それはギリシアから遠ざかるに従って必ず何物かを失い,僻遠の地にあっては遥かに遅れて漸く知られるに至った。(中略)これらの美術が異域の植民地としてザクセンの地に齎されたあのアウグスト大公の時世は真に幸福な時代だったといわなければならない。(中略)そして今ドレスデンは美術家にとってアテナイとなった」(15-16頁,一部
現代語表記に直した箇所がある)。
 ヘルダーに由来する“エルベのフィレンツェ”は確かにドレスデンに対する褒め言葉です。しかし,“ドレスデンはアテナイになった”というヴィンケルマンの言葉は必ずしもそうとは限りません。“ドレスデンはフィレンツェである”という場合,そこで意図されているのは,フィレンツェがイタリア・ルネサンスを代表する文化の中心地であるのと同様に,ドレスデンも18世紀ドイツあるいは北方ヨーロッパを代表する文化の中心地だ,ということです。それはつまり,ヨーロッパにおける南から北への文化的重心の移動ないしは中心の複数化を(たとえそれが理念のかたちに過ぎないとしても)目論んでいるわけです。ドレスデンのガイドブックがこの言葉を使うのは,当然そこにドレスデン市民の自負が込められているからにほかありません。他方,ヴィンケルマンの場合,ドレスデンはギリシアの文化的「植民地」という意味においてアテナイになったわけです。彼はドレスデンを“エルベのアテナイ”とは呼んでいません。つまり,そこには文化的重心の移動も複数化も意図されてはいないのです。中心は依然としてギリシアに,そして古代ギリシアの後継者としてのイタリアにあるのであって,ドレスデンはそのギリシア的趣味が漸く伝播した辺境にすぎません。実際,澤柳氏の解説によると,“ドレスデンはアテナイになった”というヴィンケルマンの言葉は,近世美術の礼賛者である当時のフリードリヒ・アウグスト二世に対して古代尊重の書を捧げるという矛盾を解決するための一方策であったそうです。
 とはいえ,両者の言葉の背景にはいずれにしてもギリシア・イタリアを趣味の規範とする意識が含まれているということは,興味深いことでしょう。このことを考えると,私は『美術史の基礎概念』の著者としてよく知られるハインリヒ・ヴェルフリーンの言葉に賛同したい気分になります。「私たちにとって故郷とはイタリアでないことはもちろんであります。私たちはいつもただイタリアへ旅することができるに過ぎないのです。そしてその旅路は古典的なるものの国で終るのでありますが,古典的なるものの国とはじつは山の彼方にはなくて,私たち自身の魂の中にあるのであります……天国は汝らの裡に在り!」(「ゲーテのイタリア旅行」前川誠郎訳,『ゲーテ全集〔別巻〕』1979年,384頁)。







「魂」をめぐるいくつかの説

杉山 晃太郎


 「魂の重さ」は数十グラムだというようなタイトルの映画が,何年か前に話題になった。私自身は観ていないのだが,タイトルだけは印象に残っていたので,あらためてインターネット上で調べてみると,2003年にアメリカで製作され,翌年に日本でも公開された“21 Grams”(邦題『21グラム』)というタイトルの映画であるとわかった。その背景には,映画そのもののストーリーとは関係ないようであるが,20世紀初めにアメリカ合州国の医師が行なった実験があるという。この医師は,魂は物理的存在であるという仮説を立てて,臨終間近の患者6人の体重を測定し続け,死の瞬間にどれだけ重さの変化が見られるか調べた結果,約21グラムの体重減が確認されたとして,新聞および医学雑誌に発表したそうである。無論,魂の実在が既知の「事実」になっていないところを見ると,現在に至るまで「科学的に」証明されていないことは言うまでもないが,この21グラムを「魂の重さ」と(クエスチョン・マークつきで)考えている人も世の中には少なくないようである。
 古代ギリシアにおいて「魂の重さ」が話題になったことはないと思うが,魂を物体として捉えた哲学者は,原子論者をはじめ,比較的少数ながらも,いることはいる。周知のように,ギリシア語の「プシューケー」は,「いのち」や「魂(霊魂,心魂)」などと訳されることが多いが,既にホメロスのテクストにも登場する古い単語であって,「プシューコー」という「息を吐く」「冷やす」などの意味の動詞と同根である。そのため,初期の所謂「ソクラテス以前の哲学者たち」の中には,「非物体的なもの」をまだ知らず,魂を息や空気,さらに「アイテール」と古代ギリシア人が呼んだより純粋な物体(後代の「エーテル」の原語)など,不可視の希薄な気体として考えた哲学者が多い。こうした魂の物体性は,哲学思想史の上では概して,時代とともに次第に取り去られていき,「非物体的な魂」が確立されることになる。物体的なものは,それがどれほど微小なものであろうと,必ず嵩を持つため,原理的には分割可能であり,分割は分解や死を意味し,よって可死的だということになる。逆に,非物体的なものがあるとすれば,それは嵩を持たず,分割を受容しないと考えられるため,不死不滅である可能性を残す。
 魂を,「それがあることによって,その所有者が生き,それがなくなると,その所有者が死ぬ何か」と理解した
場合,多くの古代ギリシア人が共有した「生命原理としての魂はまた,運動の原理でもある」という捉え方は,きわめて自然である。この点は,時代が古くなるために少々信憑性は低くなるが,タレスが,マグネシアの石(磁石)や琥珀(エーレクトロン)を引き合いに出して,石にも魂があると考えていたというディオゲネス・ラエルティオスの報告(I.1.24)にも見える。磁石が鉄を引き寄せ,静電気を発生させやすい琥珀が他のものを引きつけるという事実が,ものにも魂が存在することを示す証拠と考えられたのである。同様に,運動の面に着目して魂を定義しようという試みは,プラトンの『パイドロス』に見える(245c-246a)。「自分自身を動かすもの」(つまり「自分から動くもの」)がそれである。そこから,プラトンは,「自分自身を動かすものは,自分自身を見捨てることがないから,動くことをやめず,したがって,不死である」という趣旨の論証を行なっている。
 魂が生命や運動の原理であるとすると,もう一つ面白い説が出てくる。それは,「宇宙の魂(宇宙霊魂)」という考え方である。プラトンの有名な宇宙創造神話が語られている『ティマイオス』の中では,宇宙が,可能な限り最善の,ただ一つだけ存在する「生き物」だという説が唱えられている(29e-31b)。宇宙が生きているとするならば,宇宙には魂がなければならない。『ティマイオス』における宇宙の魂は,通常,「デーミウルゴス」と呼ばれている,宇宙の製作者である神と同一視されている。
 先にあげた「自分自身を動かすもの」という魂の定義であるが,残念ながら,「自分自身を見捨てなくても,自分自身をうまく動かせない」という誰もが知っている現実を,プラトンはどう思うのだろうか。プラトンなら,それは魂の自由な運動を妨害する「迷惑な」身体のせいであり,身体の束縛から完全に解放された魂には「自分自身を動かせない」などという事態は起こり得ない,と答えるはずである。けれども,思考や記憶など純粋に知的と形容し得る活動でさえも,加齢により衰えるとすれば,「魂は自分だけで自分自身を動かしているつもりになっているが,本当は,魂を動かしている何ものかがどこかに存在する」という可能性も浮かび上がってくる。果たしてその「何ものか」が何であるのかという点になると,人により思い浮かべるものは違ってくるのだろうが。







旅行記に込めた地中海世界

長谷川 景子


 ──取材旅行は,個人で行くのですか。
 イタリアを,特にヴェネツィアをモチーフに洋画を制作している私には,よくこんな質問が向けられる。気ままにゆったり個人旅行といきたいところだが,私の場合は格安ツアーの大いなる利用者である。
 ただし,一つの主義を持ってツアーに参加する。それは,旅行中,即興的に旅行記を書き上げる主義で,後日取材内容を構成,編集するのではなくあくまでも現地で仕立てる。そして,ページを開くごとにサプライズのある構成と,最終的な完成は帰国後二週間を心掛けている。
 かくして,目的地に合わせた仕様の白紙の本を携行し,旅行記の仕上がりに胸を弾ませながら旅は始まる。
 念願のトルコ旅行中は広い国土を長時間バスに揺られた。バスはベンツでも悪路では相当な上下振動を起こすのだが,その揺れを筆ペンで味わいに換えて文章を綴る。
 「恐らくは,とても東洋的と思って車窓から眺めた風景はヨーロッパだった。しかし車内に流れる音楽はまさに東洋。視覚と聴覚が東西融合を織りなしている。」トルコ上陸第一印象を短く表現する。絵のスペースは無作為に空けておき,感じたことを瞬時に文字で埋めていくのはスリルを感じる。何故なら,書き直しもなく永く残るのだから。ツアー旅行の悲しさでひなびた田舎の風景をそこに見つけてスケッチしようとも,立ち止まることも後戻りも許されない。ひたすら光景を凝視し脳裡に焼き付け,直後に記憶を紙面に留めていく。ディテールは想像の所産となる。
 楽しみにしていたトルコ料理はと言えば,味わうこともさることながら絵のモチーフとして最大の関心事となる。トロイ付近のレストランでの上陸後初めての食事。食事の前に,まず描く。同行のツアー客の視線はスケッチしている私に注がれる。気恥しいが,鯵のソテーやシシカバブ,添えられたレモンには絵心をそそられてしまう。彩りや盛り付けにも,大いに異国情緒を感じる。
 途中,パムッカレでは少々の散策時間があり,大パノラマをバックに石灰棚を描く。夏の早朝を,風に吹かれてのスケッチは至福のひとときである。
 待望のカッパドキア。洞窟ホテルに宿泊し,天空の銀
河を見上げ静寂の中を,辺りはモスクから流れるコーランに包まれた。オープンテラスでの晩餐は,深い歴史の懐に抱かれた胸に滲み入る味わいであった。感動的場面をはやる気持ちで何枚も描いたのは言うまでもない。
 その後も,即興的に旅行記を書き上げる主義は貫かれ,バス,夜行列車,早朝のホテル,飛行機と,時と場を選ばずひたすらかきながら旅行を続けていった。
 昨年八月の三度目のイタリア旅行では,過去二つの旅行記と差別化を図ろうと,蛇腹に開く集印帖を用意した。左右に帯状に広げると,横長の光景が表現し易い。船上で描いた目前に広がるカプリ島の家並,ナポリ湾に浮かぶヴェスヴィオ山などは,横長の本が最適で,実に気持ちよく水平線が引
けていく。
 絵を紙面に留めると,その光景の所有者になったような充足感がある。ヴェネツィアのホテルでは,ナターレ(クリスマス)の小粋で洒落た飾り付け,サンピエトロ広場に繰り広げられた実物大のプレゼピオなど,描いてしまえばこっちのものと勇んでスケッチする。ミラノのスカラ座でオペラ「魔笛」をスケッチしたが,描かれた印象的場面は臨場感に浸って回想できる。写真とは異質の極めて主観的で心象風景ともいえる映像が旅行記に留められ,数々の印象的場面が絵と文字で具体的に残っていく。最早旅行記は,旅行の意義とさえなった。
 地中海世界以外の地域も含め,私の旅行記は九冊を数える。十冊目は「シチリア旅行記」としたい。イタリア,アラブ,スペインなど様々な文化の入り混じったこのモチーフは,絵を描きたい衝動にも似た制作意欲を掻き立てる。そして旅行記は,私の画業の糧となっていく。







自著を語る50

『メディチ君主国と地中海』
晃洋書房 2006年10月 222頁 2,800円

『パトロンたちのルネサンス──フィレンツェ美術の舞台裏』
NHKブックス 2007年4月 222頁 920円


松本 典昭


 たまたまではあったが,比較的短期間のうちにまったく性質の異なる二著を上梓する結果になった。一方の『メディチ君主国と地中海』は25年にわたる研究成果をまとめた学術書であり,他方の『パトロンたちのルネサンス』は編集者の依頼をうけて一気呵成に書き上げた一般書である。ともに広い意味でのフィレンツェ史とはいえるが,前者は16世紀以降の君主国における政治・経済・社会・軍事史,後者は15世紀を中心とした共和国における美術史をあつかっている。つまり時代とジャンルが異なる。もちろん学術書と一般書では文体や叙法もおのずと違う。前者では面白さや読みやすさなどに心をくだく必要はなかったが,後者では成否はともあれ多少配慮したつもりである。
 『メディチ君主国と地中海』は二部構成である。第一部の「メディチ君主国のかたち」は,「メディチ君主国の誕生と拡張」「メディチ君主国の政治構造」「メディチ君主国の経済構造」「メディチ君主国の貴族層」「共和国の遺制『監視とバリーアの八人会』」の5章からなる。わが国ではほとんど知られていないメディチ君主国というものを多面体として想定し,多面的・立体的に光りをあてて輪郭線を浮かび上がらせようと試みた。そのために時間的には何度も前後するので,読者としては時間軸上を前進しないもどかしさがあるはずである。歴史書を読む醍醐味は大きな時間の流れにゆったりと身を任せる心地良さにあるとするならば,本書の構成は読書の愉悦を無視したことになる。第二部の「メディチ君主国の地中海進出」は,「軍港ポルトフェッライオの建設」「サント・ステファノ騎士団の創設」「サント・ステファノ騎士団の船舶」「サント・ステファノ騎士団とレパント海戦」「サント・ステファノ騎士団のルッカ人騎士」の5章からなる。メディチ君主国に輪をかけて知られていないメディチ家の海軍サント・ステファノ騎士団というものを,やはり多面的・立体的に描くことで,メディチ君主国のかたちを外濠から埋めていこうと試みた。本当をいえば,船がゆっくり進水する速度で300年間を描き切りたいと考えていたのだが,途中で力つきた。よって未完ではあるが,新しい領域に挑んだ蛮勇に免じて,読者のご寛恕を願いたい。また「オスマン帝国」とともに「トルコ」の語を頻用したのは,イタリア側の史料に則したせいであることもお断りしておきたい。16世紀の
イタリアでは海の向こう側は全部トルコ人の世界と誤認されていたのである。現代の路上でも「トルコ人よ,出て行け」と見知らぬ若者から罵られて,妙に納得した経験が筆者にはある。学問的に厳密でありすぎると,かえって歴史の実相から遠ざかることもあるのである。
 『パトロンたちのルネサンス』のほうは,ある程度,歴史のうねりの起伏に乗って筆を進めた。「奇跡の都市,フィレンツェという舞台」「大聖堂の影のもと」「威信を競い合った同職組合」「金持ち商人たちの礼拝堂」「『祖国の父』コジモ・デ・メディチ」「メディチ家の『黄金時代』」「『黄金時代』のパトロン群像」「炎の共和国」「フィレンツェ共和国の最期」の9章からなる。1530年の共和国陥落で擱筆しようと思ったのは,筆者の専門が1530年以降の君主国時代だからである。時代の点でもジャンルの点でも,二重の意味で筆者は門外漢である。だから散見されるに違いない間違いを恐れずに,気楽に楽しんで書くことができた。執筆期間は短かったが,テーマ自体は長い間いだき続けてきた不満に起因する。不満とは,美術史の専門家が芸術家や個々の作品ばかりをとりあげて,時代背景や注文主を軽視する傾向があったことである。作品のみに語らせる研究方法があることを知らないではないが,歴史家としては,政治経済社会史的観点からフィレンツェ美術を通観してみるという別の切り口もありうるのではないかと考えたのである。本書では作品の細かい解釈には拘泥せず,ざっくりと歴史を切りとってみた。そうすることで新たに見えてくる断面があるはずである。メディチ家についてはわが国でも紹介が多いので,むしろメディチ家周辺やメディチ家の対抗軸としてのストロッツィ家に力点をおいた。
 性質の異なる上記二著をつなぐのが,16世紀フィレンツェの政治と美術をあつかう次回作である。それは『メディチ君主国と地中海』を表裏の関係で補完し,共和国陥落後という点では『パトロンたちのルネサンス』の続編になるはずのものである。もっともこの第3作目は,いちばん早く脱稿していたので第1作目になる予定だった。何年も出版社に留め置かれているうちに内外の学界は長足の進歩をとげてしまったので,もう出なくてもいいようなものだが,出ないと前世紀に忘れ物をしてきた心地ではある。






〈寄贈図書〉


Réceptions antiques: lecture, transmisson, appropriation intellectuelle, Études de littérature ancienne 16, Paris 2006

Couleurs et matières dans l'antiquité: textes, techniques et pratiques, Études de littérature ancienne 17, Paris 2006

『魔性たちの恋愛神話』森実与子著 新人物往来社 2006年7月

『オール図解 30分でわかる聖書──天地創造からイエスの生涯と教えまで』池田裕監修 森実与子著 日本文芸社 2006年7月

『Aspects of Problems in Western Art History』(東京芸術大学西洋美術史研究室紀要) vol.7(2006)

『月刊たくさんのふしぎ トルコのゼーラおばあさん,メッカへ行く』新藤悦子著 福音館書店 2007年10月

『文藝言語研究』「文藝篇」・「言語篇」筑波大学大学院人文社会科学研究科文芸・言語専攻 51(2007)