学会からのお知らせ


*2月研究会
 下記の通り研究会を開催します。

テーマ:中世後期シエナの都市景観について
発表者:片山 伸也氏
日 時:2月17日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷校舎法文1号館3階315教室
    (最寄り駅:地下鉄「本郷三丁目」「東大前」東大キャンパスサイトhttp://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_01_01_j.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

 トスカーナの丘上都市シエナは,市庁舎を中心としたカンポ広場や主要な通り沿いのパラッツォが中世的な都市景観を形成している。14世紀前半に建設された市庁舎の装飾要素が主要な通り沿いのパラッツォにも使われる一方で,当時の多くの建物のファサードは木造の張り出しで覆われ,都市景観は今日とはまったく異なっていた。本発表では,為政者の変遷と都市条令を通して中世後期シエナの都市景観と美意識について考察したい。

*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
 地中海学会では第12回「地中海学会ヘレンド賞」(第11回受賞者:金原由紀子・平山東子両氏)の候補者を募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(30万円:星商事提供)が授与されます。授賞式は第31回大会において行なう予定です。申請用紙は事務局へご請求ください。

地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
  本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:1月9日(火)〜2月13日(火)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。

*第31回地中海学会大会研究発表募集
 第31回地中海学会大会(6月23日〜24日,大塚国際美術館 徳島県鳴門市鳴門町鳴門公園内)の研究発表を募集します。発表を希望する方は2月9日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。

*会費口座引落について
 会費の口座引落にご協力をお願いします(2007年度会費からの適用分です)。
 手続きをされていない方(2006年度新入会員を含む)には「口座振替依頼書」を月報294号(2006年11月)に同封してお送りしました。

「口座振替依頼書」の提出期限:2月23日(金)
(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:4月23日(月)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
お申し込み人名等:「口座名義人」の他に「お申込人名(会員名)」等の欄が振替依頼書の2枚目(青色)にありますので,こちらもご記入下さい。
会員用控え:3枚目(黒色)は会員用です。お手元にお控え下さい。

*会費納入のお願い
 今年度会費を未納の方には月報294号(2006年11月)に同封して振込用紙をお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
 ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。

会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313


訃報:1月5日,名誉会員(前監査委員)の嘉門安雄氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。











六区とオペラとイタリアと

京谷 啓徳


 先頃,知り合いの大学の先生から,今年度開講している「浅草細見」と題する講義の枠内で一回,六区の芸能について話してくれないかと頼まれた。六区とは旧浅草公園第六区のことで,現在の浅草1,2丁目の西側,明治時代半ばから昭和戦前にかけて日本随一の興行街だった場所だが,このときは結局,六区を舞台に一世を風靡した,大正時代のオペラや昭和初期のレヴューなどについてお話しさせていただいた。大正時代のオペラというのは,昨年6月の東京芸術大学での大会シンポジウムでも話題にあがっていた,いわゆる「浅草オペラ」のこと。大正初年にお堀端の帝国劇場で試みられたオペラ公演が,数年であえなく挫折するが,帝劇歌劇部に招聘されたイタリア人ジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシーの薫陶を受けた田谷力三らが浅草に流れ,大正時代の六区に大衆娯楽としてのオペラが大流行したのである。
 浅草の小屋にかかったオペラ,イタリアものとしては,ヴェルディの「椿姫」に「リゴレット」「ヂプシーの報復」,ロッシーニの「セヴィラの床屋」,ドニゼッティの「愛の薬」「連隊の娘」,マスカーニの「在郷軍人」などが挙げられる(いずれも当時用いられた題名。ヂプシーの報復はトロヴァトーレのことで,在郷軍人はカヴァレリア・ルスティカーナの迷訳です)。浅草オペラの当たり狂言「ボッカチオ」の作曲者ズッペはオーストリア人だが,このオペレッタの舞台は当然のことながらフィレンツェで,当時の舞台写真を見てみると,書割に花の都が描かれている。見物たちは「恋はやさし野辺の花よ」や「ベアトリ姐ちゃん」を聴きながら,あるいは口ずさみながら,まだ見ぬイタリアに心遊ばせたのだろう。映画大国イタリアから輸入された活動写真とともに,大正時代の日本人の中にイタリアのイメージを作り出したもののひとつがオペラだったということになろうか。
 とはいえ浅草のオペラは,本場ヨーロッパのオペラやオペレッタの翻訳物ばかりではなかった。コミカルな和製ミュージカルもたいへん喜ばれたのだ。「女軍出征」とか「女護島探検」とか,舞台上でお色気を振りまくオペラ女優に学生たちが熱狂し,中にはかなりきわどいものもあったようだ。それら和製ミュージカルの多くで歌われたのは流行歌の替歌で,大当たりをとった「カフェーの夜」では,なんとナポリはヴェスヴィオ火山の登山電車の歌「フニクリフニクラ」の替歌が客席を沸かせた。
 浅草オペラをてっとり早く追体験するには,いくつか
の映画をご覧いただくのが一番だ。まず「浅草の灯」(松竹,昭和12年)。これは濱本浩の小説が原作で,原作ともどもこの時代の六区の風俗がよく描かれている。舞台上でカルメンを演じる杉村春子がハバネラを見事に歌いきるのにも驚かされるが,この映画ではフィレンツェの書割を背景にした「ボッカッチョ」の舞台を見ることができる。珍品としては「エノケンの孫悟空」(東宝,昭和15年)がある。金角銀角のくだりはSF仕立てで,金角銀角科学研究所に紛れ込んでしまった悟空一行が,最新科学兵器のオペラガスなるものを噴射されると途端に,「わたくしはー,何だかー,オペラが歌いたくなったー」とオーケストラ伴奏の大仰なレチタチーヴォ,続いて浅草オペラの舞台にタイム・スリップすると,ここから先は浅草オペラのメドレーで,「女心の歌」「フラ・ディアボロの歌」「恋はやさし」「闘牛士の歌」「君よ知るや南の国」「ハバネラ」「乾杯の歌」とかたっぱしから歌いまくる。なんとも愉快な浅草オペラへのオマージュである。エノケンは戦後に撮影されたオムニバス映画「四つの恋の物語」(東宝,昭和22年)でも,浅草オペラを舞台にしたメロドラマ「恋はやさし」に主演しているが,この作品では昔日の六区への郷愁そのものが主題になっているようだ。何を隠そうエノケンさんは,浅草オペラのコーラス・ボーイ出身だった。
 大正は遠くなりにけりだが,実は平成の御世に浅草オペラの雰囲気を体験できる場所がある。名古屋の大須演芸場で毎年7月におこなわれている納涼公演,大須オペラである。主催するスーパー一座のホーム・ページを覗くだけでも,大須の寄席の狭い舞台に,毎夏浅草オペラ的世界が出現していることがお分かりいただけると思う。ひるがえって浅草の六区。お隣の観音様や仲見世の相変わらずのにぎわいに比べて,往時の活気がすっかり失われてしまったのは寂しい限りだが,いっそノスタルジーに徹して,木馬亭の中席を勤める軽演劇の一座「浅草21世紀」あたりに,たまには浅草オペラの演目も掘り起こしてもらいたいものだ。
 地中海学会の月報原稿ということで,浅草オペラとイタリアの関係を書こうと思い立ち,題にも掲げましたが,単なる浅草オペラの紹介になってしまったことをお詫びいたします。いつか浅草で,東洋館か雷5656会館でも借り切って,近代日本における西洋大衆芸能の受容について地中海トーキングなんていうのはいかがでしょうか。











秋期連続講演会「世界遺産への旅」講演要旨

ピ  サ
──中世海運国家の栄光──

児嶋 由枝


 アルノ河口近くに位置するピサは,かつて強大な中世海運国家としてフィレンツェよりもはるかに繁栄を誇り,その権勢は教皇とも伍していた。奇跡の広場(カンポ・デイ・ミラコリ)とよびならわされる大聖堂広場のモニュメント群のみならず,中心街の狭い路地に立ち並ぶいくつもの中世の聖堂や堅牢な邸宅からも往時の栄光を偲ぶことができる。
 ピサは11世紀初頭にはすでにティレニア海域にひろく進出。1016年から1052年にかけてサルデーニャとコルシカを征服して対サラセン軍の拠点を確立し,さらにシチリア・ノルマン王朝と共闘して南イタリア海域においてもイスラム勢力を破った。また,1060年にジェノヴァ,1136年にアマルフィを破り,海運共和国の地位を確固たるものにした。こうして頂点に達した栄光も13世紀に入ると翳りをみせる。ピサは一貫して皇帝派であったが,急速に勢力を伸ばしてきた教皇派のフィレンツェ,ルッカ等近郊都市国家との競合によって消耗していく。さらに教皇庁とも反目が続き,1241年には破門の事態にいたる。
 ピサの中世のモニュメント群はこうした歴史的背景と不可分である。大聖堂造営も1064年の対サラセン戦勝を祝して開始されている。ファサード銘文に「戦利品を用いてこの壁面を立ち上げることが決められた」と記されているように,ピサ大聖堂造営の資金はサラセン人からの略奪品によって得たのであり,イスラム風の装飾で埋め尽くされた壁面には,被征服者のイメージが埋め込まれている。また,大聖堂には別の形の「略奪品(spolium)」もある。当時の年代記作者マラゴーネは,ピサ市民が古代ローマの偉大な港湾都市ピサエの末裔であることを誇るためだけでなく,サラセン人に対する勝利が古代ローマに匹敵する偉大さであることを誇るために,新しいローマを建設しようとしていたことを伝えている。そして実際に古代ローマの建造物からとられた銘文のある大理石石板が,その文字が斜めに見えたり逆さに見えたりするように大聖堂外壁に嵌め込まれている。ピサ市民たちはこうして,古代ローマの廃墟を用いて作られた自分たちの国の栄光を誇っているのである。
 一方,ディオティサルヴィによって1152年に建造が開始された洗礼堂は,キリスト教世界の多くの集中式建築の原型となっているエルサレムの聖墳墓聖堂に倣ったものである。ピサ洗礼堂はそのなかでも特に聖墳墓聖堂
のコピーという性格が色濃い。碩学クラウトハイマーが詳細に論じたように,両者の違いは中世と現在の「コピー」の概念の違いに起因する。聖墳墓聖堂の円錐形の屋根はキリストの「昇天」を暗示する。また,角柱の本数8はオクターブ,すなわち日曜日に始まり日曜日に終わる復活祭の聖週間の日数に対応し,さらに円柱の本数12は十二使徒あるいは一年の月の数を象徴する。そして,キリストが埋葬され復活した場に建てられた聖墳墓聖堂を模す際には,こうした象徴的な形状や数字こそが重要となるのである。ピサ洗礼堂内部には8本の円柱と4本の角柱が立つが,ここでは8と柱の数の合計である12が重要となる。また,その独特の円錐形の屋根も聖墳墓聖堂から採られているのである。
 ピサ洗礼堂のドームと円錐を合体させたような独特の屋根の形状はさらに,聖墳墓聖堂だけでなく,エルサレムのもう一つの大事な集中式建築である「岩のドーム」をもコピーしようとしたことにもよる。岩のドームは当時,主の神殿として知られていた。神殿の丘で岩のドームと並んで立つのは,当時の人々にヘロデの神殿かソロモンの神殿として知られていたアル・アクサのモスクである。そして,多廊式のこの建物は岩のドームの軸線上にあり,これは長堂式のピサ大聖堂と集中式の洗礼堂が聖なる広場に立つのと同じ関係にあるのである。さらに,13世紀には,この点と線の配置の背景として,壁のように長いカンポ・サントを建造し,その中庭には,エルサレムのゴルゴタの丘から運んだ土をいれた。かくしてカンポ・サントは文字通り「聖なる場」となる。
 すなわち,中世ピサ市民たちは,エルサレムの神殿の丘自体を複製し,エルサレムという至高の聖地を獲得したことによって,教皇庁のあるローマよりも優位に立とうとしたのである。こうした聖地エルサレムからの引用は,街なかのサント・セポルクロ聖堂にも認められる。この聖堂は円錐形の屋根と8本の支柱によって,文字通りサント・セポルクロ(聖墳墓)となっているのである。
 ピサから河口に向かって5キロ程に位置する,ロマネスク聖堂サン・ピエル・アル・グラード聖堂も,対ローマという観点から作られた聖地といえる。11世紀頃から広まった伝承によれば,使徒ペテロは聖地から船で先ずこの地に辿りつき,その後にローマに赴いたのであり,ペテロはイタリアではこの地で最初にミサを挙げたのである。











秋期連続講演会「世界遺産への旅」講演要旨

古都アッシジとウンブリア諸都市

池上 英洋


 「世界遺産が好きで,もっと知りたいので」と講義をとる学生さんが,最近ちょろちょろ出始めた。海外にいて知らない間にたしかにブームが始まっていたようで,本屋で「世界遺産コーナー」さえ見かけることがある。その世界遺産を最も多く有する国はイタリアだそうで,なるほど最近ではかなり小さな街でも日本人観光客をみかけるわけだ。
 アッシジは,イタリアの世界遺産のなかでも,私たち美術史を学ぶ者にとっては特別な場所である。アッシジのサン・フランチェスコ大聖堂の建造と装飾には,半島全土から当時を代表する芸術家が多数よばれ,中世末期イタリア美術史のひとつの転換点ともなる大事業となったからだ。
 このとき集まった中には名前がわからない芸術家も少なくなく,その同定の問題は美術史の重要なトピックとなってきた。また中心人物であるジオットが果たした役割の範囲を判別することも容易なことではなく,特に英語圏において長年議論されてきた。これはさまざまな側面から論じられるべき問題だが,最後はやはり様式と技法の問題に収束するほかない。この点で,ブルーノ・ザナルディが著した『ジオットとピエトロ・カヴァリーニ』(Bruno Zanardi, Giotto e Pietro Cavallini, Milano 2002)は,多くの示唆に富んだ研究となっている。
 さて,アッシジの都市と芸術をみていくことは,当時の文化状況のみならず,イタリアが置かれていた当時の社会状況を理解するための格好の材料となっている。斜面にへばりついたようなアッシジの街の姿自体が,防衛や伝染病,飲料水や都市交通といったさまざまな要因による複合の産物であることをあらわしている。街の中央には昔ながらのミネルヴァ神殿があり,エトルリア人やウンブリア人がいた時代に,中部イタリアをラテン人たちが征服していった過程をものがたっている。他方,丘の頂には要塞があり,中世には無視できない権勢を誇った小都市アッシジと,近隣のペルージャといったより大きな都市群との複雑な関係を如実にあらわしている。この要塞は,都市国家によるイタリアの群雄割拠時代の雄弁な証人なのだ。実際,よく知られているように,聖フランチェスコの生活と性格も,対ペルージャの戦争を契機に一変した。
 聖フランチェスコの,清貧を説く言葉と行動があれほど大きな動きへと結びついたのは,当時の教皇と皇帝の二重権力構造の時代背景があったからこそである。また,彼の修道会が麻縄を締めるようになったのは,ベルトに財布や剣をつりさげていた当時の服飾文化を知りさえすれば,それらがすなわち私有財産の放棄と平和主義の意思表示の記号として機能していたことに理解が及ぶ。
 また彼が進んでおこなったことのひとつにハンセン氏病患者の世話があるが,ペストが欧州で猛威をふるい始める以前に,最も恐れられたこの病に対する認識具合がわかる一方,プリミティヴな療養所がすでに欧州に多数登場していた事実なども興味深い。さらには,聖フランチェスコのいわゆる「東方伝道」の背景には,当然ながら十字軍の長い歴史が横たわっている。かように,アッシジと聖フランチェスコをみることは,とりもなおさずイタリアの歴史と文化に対する理解への良質なテキストとなりえるのだ。
 講演では,サン・フランチェスコ大聖堂の壁画でわかる,マグダラのマリアに関する伝説の変容も紹介した。また当然ながら,1997年の地震と,その後の文化財保護の彼我の違いにも言及した。さらに周辺のウンブリア諸都市も採り上げ,アッシジ同様,それらの都市をみることで理解を深めることのできるトピックもあわせて紹介した。州都ペルージャでは両替商というシステムを,オルヴィエートでは聖体の論議を,美しき城砦都市グッビオでは古ウンブリア人などについて採り上げた。













研究会要旨

古代ロドス島の彫刻活動

芳賀 京子

2006年12月9日/東京大学本郷キャンパス


 ロドス島は,既にホメロスにもその経済的繁栄が詠われている。政治・経済・軍事面で絶頂期にあったヘレニズム時代には,数多くの彫刻家がこの地で腕をふるった。プリニウスの『博物誌』によれば,リュシッポスの名作《ヘリオスの4頭立て馬車》や雲を突くような巨像《コロッソス》の置かれた地であり,《サモトラケのニケ》や《ラオコーン》を生み出した国でもある。またこの島では,作者である彫刻家の名が刻まれた彫像台座が多数出土しているのだが,そこには紀元前4世紀末という早い時期から既にロドス人彫刻家が登場する。これは,ロドス島では周辺地域に先駆け彫刻工房が形成されたことを示しているようにも見える。だがその一方で,実際にロドス島で出土した彫刻は小品がほとんどで,それもヘレニズム後期のものが大半を占める。本発表の目的は,そうした相反する証拠を公平にとりあげ,ロドス島における彫刻活動の実態を探ろうというものである。そして「ロドス人彫刻家」が意味するところを考察したい。
 アルカイック時代,ロドス島では地元の石灰岩にクーロスやコレーを刻もうとする彫刻工房が芽生えかけていたが,それらはクラシック時代のアテナイによる支配時代に断絶した。その後,前408/7年の都市ロドス建設や前323年のロドス独立を経て,ヘレニズム初期にロドス人たちはリュシッポスら一流の彫刻家を招聘する。しかしその一方で,この時期のロドス島出土の墓碑浮彫は,アテナイの墓碑の図式を模倣しようとしつつも到底及ばない,ロドス島の地元の彫刻家の未熟な技術レベルを示している。
 出土彫刻に大きな変化が現れるのは前3世紀の末,ロドス島大地震(前228〜226年)の頃であった。ロドス島では巨大集合墓が建設されるようになり,同時に墓碑浮彫も地中海世界でも傑出したレベルのものが見受けられるようになる。前200年を超えた頃には巨大大理石彫像がいくつか制作され,さらにエーゲ海北端のサモトラケ島には,おそらくロドス人たちによって《サモトラケのニケ》が奉納された。
 この変化をもたらしたと考えられるのが,ロドス人彫刻家の質的変化である。前4世紀以来続いていたロドス人アリストニダス一族の工房はこの頃途絶え,代わりに外国人彫刻家がロドス島に半恒久的な工房を開き,活動を始める。彼らは小アジアやクレタ島や近隣諸島から,
当時最先端の擬アルカイック様式,別素材を組み合わせる手法,大理石材の接合技術,モニュメンタルな彫像設置法などを導入し,ロドス島に彫刻活動の最盛期をもたらした。こうした外国人彫刻家たちは,もちろんこの頃繁栄を極めていたロドス島の経済力に引かれて渡来したのだろうが,その動きをさらに後押ししたのが,ロドス政府の外国人帰化推進策であった。前200年前後から,ごく一部の外国人にロドスの居住権(エピダミア),あるいはその息子たちにロドス市民権が与えられるようになり,こうした外国人彫刻家が新しい「ロドス人」彫刻工房を開き,活発な活動を繰り広げたのである。
 前160年代,既に地中海世界を牛耳るようになっていたローマとロドスの関係が悪化すると,新しい「ロドス人」彫刻家工房は姿を消す。だがそれは,ロドス島の彫刻の伝統が途絶えてしまったことを意味するわけではない。前2世紀後半にはまた新たな外国人彫刻家たちがロドスに引き寄せられ,再び新たな「ロドス人」彫刻家工房を形成するのである。興味深いのは,この第2波の「ロドス人」彫刻工房が制作した作品群に,第1波と同じ傾向が認められる点である。擬アルカイック様式はとりわけロドスで発達し,接合技術の巧みさも着実に受け継がれた。これは,彫刻様式の変遷が彫刻家によるものだという従来の考え方に反し,注文主たるロドス人たちが,作品様式の決定に大きな役割を果たしていたことを暗示している。
 前43年のカッシウスの略奪の後,ロドス島の彫刻活動は停止した。しかしロドスで醸成された新様式・新技術は,失われることなくローマへと運ばれた。高い様式理解を示す擬アルカイック様式の《ピオンビーのアポロン》はトスカナ地方の海岸で発見され,ロドス人彫刻家たちの手になる《ラオコーン》は巧みな接合技術によってローマ人たちの賞賛の的となり,モニュメンタルな設置法はスペルロンガの《スキュラ群像》において劇場的展示法へとつながった。
 ロドス人彫刻家たちは,優れた技術力に加え,注文主の要望に答える器用さを兼ね備えていた。それゆえ彼らは,「ギリシア美術」を欲していたこの時期のローマ人たちに熱心に受け入れられた。そして,雄弁術の分野での名声とあいまって,ロドスはローマにおいて文化国家としての名声を得ることになったのである。











自著を語る48

鼓みどり著『ユトレヒト詩篇挿絵研究──
言葉の織りなしたイメージをめぐって』

中央公論美術出版 2006年2月 520+61頁 42,000円

鼓 みどり


 本書の出発点は修士論文であった。語学力も知識も乏しい筆者が実地調査の困難な写本装飾を専攻したのは,かなりの暴挙であった。しかしある程度の見取り図を確保すると,足りないものを補う長い旅が始まった。終着点の分からない道のりを歩ませたのは,『ユトレヒト詩篇』そのものの魅力に他ならない。生き生きとした描線が画面のあちこちに微細な人物や動物,景物を配し,その一つ一つが実は詩篇本文の章句に基づく。挿絵を模写しながら丹念に観察し,章句と照合する作業に夢中になった。やがてモティーフと章句の結びつき方を分類し始め,膨大なカードの山を築いた。1980年当時,すべてが手作業であった。随分無駄な労力を費やしたが,おかげですんなりとPCに移行できたように思う。当時出版されたばかりのデュフレンヌの大著が,挿絵と章句の対応と,モティーフの源泉を徹底的に探求していた。その先は絵画化のメカニズムを明らかにすることと,画面全体の意味を探ることであった。さらにイングランドで展開したコピーの系譜を手がかりに,この作品の影響力を把握する作業を進めていくうちに,詩篇の章句がイメージに変換される仕組みを幅広く検討したいと考えるようになった。そして『ユトレヒト詩篇』の絵画化のモードを指標に,『シュトゥットガルト詩篇』をはじめとするテクスト本文に即した詩篇挿絵を検討していった。
 本書の構成が通常のモノグラフとは異なり,『ユトレヒト詩篇』以外の作例を中心に据えた章を設けているのは,先に述べた比較研究をより大きな文脈に組み込むためである。その結果,本書前半部では『ユトレヒト詩篇』の絵画化モードを基準に,章句にもとづく詩篇挿絵の見取り図をつくりあげた。他の事例がテクストを絵画化する頻度は,『ユトレヒト詩篇』ほど高くない。しかし発想の飛躍や参照機能を強調するデザインなど,詩篇テクストが西欧中世写本彩飾において柔軟かつ積極的に扱われていたことが伝わってくる。
 美術作品の「テクストとイメージ」に注目する動向は1980年代以降顕著であり,多くの成果が生まれたが,筆者の知る限り,『ユトレヒト詩篇』に匹敵する作例はほとんど見あたらない。挿絵には,銘文や符号などテクストとの呼応関係を示す手がかりが何もない。古代末期絵画と共通する景観にひしめくおびただしいモティーフは,物語の情景に見えるが,実は章句を視覚化しているだけである。これはわが国平安時代の歌絵と符合し,江
戸時代の判じ絵や絵文字をも連想させる。このような機知の起源は,ルスティック書体やレイアウトとともに古代末期に遡るものであろう。
 デュフレンヌが完成させたビザンティン事例との対照表の対となる巻末の一覧表は,筆者が90年代から積み重ねた実地調査と,近年の研究成果の結晶である。『ユトレヒト詩篇』の全挿絵の内容は,一覧表と参考図版によって把握することができる。写本研究者にとって,全挿絵の図版を手に入れることが,最初にとるべき必須の手続きである。今後,この作品に関心を持つ読者にとって,166点の図版は強力なツールとなるに違いない。
 近年,初期中世の文化を,より積極的に評価する傾向が強まっている。『ユトレヒト詩篇』は,詩篇や巻末のカンティクム挿絵に,カロリング朝神学を反映した磔刑図像を創出している。カンティクム挿絵に挑戦するために,図像学や神学を理解することが必須であったが,90年代にセピエールとシャゼルがそれぞれ発表したモノグラフに大いに助けられた。詩篇註解の感化が少ない挿絵全体の印象とはうらはらに,神学への目配りは手堅く,新たなイメージ創出の意識が高い。この作品の考案者および想定された読者を特定することは,本書では叶わない課題である。洗練された筆遣いを愛で,謎かけの機知を楽しみ,三位一体,贖罪論や終末論をきちんと理解する。『ユトレヒト詩篇』は,そのような読み手に幾度も恵まれた。その結果,中世を通じて挿絵がコピーされ,その様式のみならず絵画化のメカニズムも多大な影響力を持っていた。写本という媒体の伝達能力は,その内容によってかくも高度に発揮される。本書では『ユトレヒト詩篇』の発想が同時代に与えた感化に焦点を当てた。3点のコピーには,絵画化のメカニズムを応用する試みが見られる。今年ファクシミリが刊行された『パリ,ラテン語8846番』は,イングランドからカタロニアに渡り,14世紀の画家によるオリジナルな挿絵が加わっている。
 筆者は『ユトレヒト詩篇』挿絵の読み手の最後尾に連なり,挿絵の中に入り込み,また周辺を経めぐりながら,理解したことや検討したことを本書にまとめた。気がついたら四半世紀を超える時間が過ぎており,各部分の調整はかなり大変であったが,今もなおこの作品に魅了されている。今後は,本書を翻訳し関心を共有する研究者との意見交換を目指したい。






表紙説明   地中海の女と男2

王妃ハセキ・ヒュッレム・スルタン/山田 幸正


 オスマン帝国の黄金期を築いた「壮麗王」スレイマン大帝の寵愛を一身にうけたハレムの女性が,ハセキ・ヒュッレム・スルタンであった。ハレムに生きた無数の女性たちのことはほとんど知られていないなか,極めて例外的に,当時のヨーロッパ人の間でも「ロクセラーナ」という名でよく知られていた。
 ヒュッレムは帝国の首都であるイスタンブルとエディルネ,聖都であるメッカ,メディナ,イェルサレムなど各地に建築的な事績を遺した。それらの建築のどれもが,巡礼者や旅行者,貧しい人々に食事と水,宿泊を提供する慈善的な施設が中心で,それらはワクフと呼ばれるイスラムにおける寄進制度に基づく一連のプログラムによって運営・維持されていた。その建築設計を担当したのが,当代きっての大建築家シナンであった。1558年,ヒュッレムの葬儀でメッカからの代表者は彼女の建築的なパトロネイジに対して賞賛の辞を贈った。棺はスレイマニエ・モスクの背後の墓地に埋葬された。そこにシナンは彼女のために八角形プランの廟を営んだ(表紙)。後にスレイマンもその傍らに同じくシナン作の八角形墓廟に埋葬された。
 1538年から51年にかけて首都のアヴラトパザル地区に,モスク,マドラサ,イマーレト(給食施設),コーラン学校,病院が一連の複合施設として順次建設されていった。この建築は彼女が奴隷身分の愛人から自由人としてスルタンの正妻となったことを歴史に刻印するものであった。敷地を二分する通りには上水路が付設され,門の脇には公共水栓も設けられていた。これらの施設を維持するために,近隣に店舗や貸室,果物苑のほか,エミニョニュのユダヤ人地区に浴場(シナン作)など首都
のなかに複数の土地・建物が遺されていた。
 最初に建設されたモスクは,シナンが主任建築家となった1538〜39年に完成されたもので,シナンにとっては最も初期の王立プロジェクトとなった。しかし,その後のイマーレトも含めて,シナンの作品であるかははっきりしない。ただ,1550/51年竣工の,八角形中庭が特徴的な病院は,施設内で唯一,切石積み構造で建てられ,シナンの「古典的」様式が具現化されている。
 当時のヒュッレムにとっては,すべてのことが完璧に進行していた,ただ息子メフメトの死を除いて。彼を記念するモスクが建設された後,ヒュッレムは三つの聖都において自らの建設事業に着手した。シナンによって,これらどの町にも慈善施設(当地ではタキエと呼ぶ)が建設され,帝国の内外からやってくる巡礼者に対して彼女の博愛ぶりが示された。メッカとメディナの施設はすでに失われているが,イェルサレムのものはハラム(聖域)の西160メートルほどに現存している。
 病気がちなスレイマンがエディルネで避寒するようになると,ヒュッレムはこの町で建設活動を始めた。町の西方30キロで建設を進めていた複合施設は彼女の死後に完成された(現存していない)。その工事は彼女が遺したワクフで賄われたと考えられる。亡くなる直前の1556/57年,シナンに命じてハギア・ソフィア近くに建設させた壮麗な浴場は,ほかに多くの貸室や店舗を伴い,死後においても多くの余剰金が生じていたのである。
 それまでのオスマン王妃の誰よりもまして,慈善的施設を創り上げることに彼女を駆り立てたのは,ヒュッレム自身の王宮内における特別な立場と境遇によるところが大きかったのであろう。