学会からのお知らせ

*10月研究会
 下記の通り研究会を開催いたします。奮ってご参集下さい。

テーマ:近世初頭オスマン朝下エジプトのヨーロッパ商人
発表者:堀井 優氏
日 時:10月7日(土)午後2時より
会 場:東京大学本郷キャンパス法文1号館3階315教室(最寄り駅:地下鉄「東大前」「本郷三丁目」、東大サイトhttp://www.u-tokyo.ac.
jp/campusmap/cam01_01_01_j.html)
参加費:会員は無料,一般は500円

 オスマン帝国のマムルーク朝領併合によって体制が移行したエジプトでは,16世紀中葉までにインド洋・紅海と地中海をつなぐ商業活動が停滞から回復するとともに,オスマン支配による新たな社会秩序が形成された。この状況下でヨーロッパ商人の居留と活動はどのように維持されたか。その仕組みを,東地中海の条約体制における規範構造,オスマン・ヴェネツィア間の行政ネットワーク,海港社会における商人間の利害関係の諸側面から考えてみたい。

*常任委員会

・第5回常任委員会
日 時:2005年6月25日(土)
会 場:静岡文化芸術大学
報告事項:役員改選に関して/ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して 他
審議事項:第29回大会役割分担に関して/第30回大会会場に関して/学会メーリングリストに関して/ダイナース企画協力講座に関して 他
・第1回常任委員会
日 時:2005年10月22日(土)
会 場:法政大学市ヶ谷キャンパス
報告事項:第29回大会に関して/ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して/研究会に関して/「モロー展」に関して 他
審議事項:副会長に関して/第30回大会に関して/NHK文化センター企画協力講座に関して 他
・第2回常任委員会
日 時:2005年12月10日(土)
会 場:法政大学市ヶ谷キャンパス
報告事項:ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して/『地中海学研究』XXIX(2006)に関して/科研費(学術定期刊行物)申請に関して/研究会に関して 他
審議事項:第30回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して 他
・第3回常任委員会
日 時:2006年2月22日(水)
会 場:法政大学市ヶ谷キャンパス
報告事項:『地中海学研究』XXIX(2006)に関して/ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/石橋財団助成金申請に関して/会費未納者に関して/NHK文化センター企画協力に関して 他
審議事項:第30回大会に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/「若手交流会」に関して 他
・第4回常任委員会
日 時:2006年4月8日(土)
会 場:法政大学市ヶ谷キャンパス
報告事項:第30回大会に関して/『地中海学研究』XXIX(2006)に関して/ブリヂストン美術館春期連続講演会に関して/石橋財団助成金に関して/研究会に関して 他
審議事項:2005年度事業報告・決算に関して/2006年度事業計画・予算に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して/事務局長交代に関して/次回大会会場に関して
・第5回常任委員会
日 時:2006年6月24日(土)
会 場:東京芸術大学音楽学部
報告事項:研究会・トルコミニシンポジウムに関して 他
審議事項:第30回大会役割分担に関して/第31回大会会場に関して/新事務局委員および研究会担当に関して 他


訃報 7月3日,会員の佐々木謙造氏が逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。






地中海学会賞受賞の挨拶

一橋大学地中海研究会 加藤博


 一橋大学地中海研究会を代表して,受賞のお礼を申し上げます。今回の受賞は,文字通り青天の霹靂で,驚くとともに,たいへんにありがたいことと感謝いたしております。われわれの研究会は,地中海学会より4年ばかり早く発足したとはいえ,その動員力,組織力,財政力において遠く及ばず,地中海学会とは,大人と赤子ほどの違いがあります。そのため,私は,6月25日の授賞式に,中小企業の代表が大企業の経営陣の前で業務報告をするような気持ちで臨みました。
 受賞の報告を受けたとき,まず思ったのは,これは昨年なくなられた竹内啓一先生に与えられたものだということでした。日本の人文社会地理学をリードし,1973年に渡辺金一先生とともに一橋大学地中海研究会を立ち上げた竹内先生は,奇しくも,昨年の6月25日,つまり授賞式の日になくなられました。関係するすべての研究組織に対し助力を惜しまれなかった先生でしたが,われわれの小さな研究会に対しても,物心両面にわたる援助を与えてくれました。先生の海外での最後の報告は,2003年の9月,われわれの研究会が主催したヴェネツィアでのワークショップでしたし,国内での最後の報告は,同年の11月,国立で持たれたわれわれの定例研究会においてでした。もし生きておられたならば,先生は,素直に受賞を喜ばれたことでしょう。
 私にとっての地中海研究は,これまでの一橋大学地中海研究会の活動を抜きにしては考えられません。物の考え方から楽しみ方まで,地中海世界研究に関するすべてを,この研究会から学びました。一橋大学地中海研究会の特徴は,次の二つに要約されると思います。第一は,想像力とアイディアを膨らませ,自由で闊達な意見交換のなかで,つまり軽いフットワークでもって,地中海世界に接してきたということです。そもそも,一橋大学地中海研究会は,大学紛争の後の荒廃した大学キャンパスにあって,ビザンツ学者の渡辺先生と地理学者の竹内先生が,フランスの歴史学派アナールの時間と空間の融合の理念に触発されて,「何か面白いことをやろう」と始められたものでした。そこでは,学際的とか地域横断的とかの大げさな言葉は飛び交いませんでしたが,討論や会話において軽々と,そしてさりげなく専攻や地域の境界が越えられていました。
 第二は,基本的には同じことですが,「地中海世界」を,歴史的実在としてよりも,自覚的に,一つの分析のための地域概念,地域的枠組みと捉えようとしてきたことです。そのため,「地中海世界」とは何か,が正面きって問
われることはまれでした。重要なのは,「地中海世界」という地域設定をすることによって,なにが新しい問題群としてわれわれの前に姿を現わすかでありました。研究会に集まってきた研究者はすべて,自分の仕事に大きな誇りを持っていましたが,同時に,歴史学であれ地理学であれ,日本の既存の学問体系に対する批判や物足りなさの感情を共通に持っていたように思います。批判の矛先は,国家単位の研究でした。地中海の周辺諸国は,今でこそ若い人たちをひきつける研究対象になったものの,私の前の世代においては,「後進国」として軽視されていたという事情も,こうした感情を後押ししていたように思われます。
 一橋大学地中海研究会は,2006年,34年目を迎えました。この間,メンバー構成も,研究会の雰囲気も変わりました。決定的だったのは,近年における研究環境の大きな変化です。1980年代まで,研究会はほぼメンバー全員の出席のもとで,かならず月一回開催されていました。ところが現在では,学問がますます専門化されてきたうえ,研究のプロジェクト化と研究の拠点(COE)化によって,研究者,とりわけ若い研究者は自分の専門に関係する「研究会」を梯子せざるをえない情況にあり,研究会メンバーが一堂に会することは難しくなっています。数多く開催される「研究会」では,学際的とか地域横断的とかの掛け声が交わされますが,研究者には,自分の研究を比較によって相対化するという心の余裕はないとの印象を受けます。
 そのようななか,一橋大学地中海研究会もその所期の役割を終え,そろそろ幕引きかなと思うこともたびたびです。そのようなとき,私の脳裏に必ず浮かぶのは,古参の研究会メンバーで,1988年,若くして亡くなられたイタリア史研究者清水廣一郎氏の次のような言葉です。「やめることはいつでもできる。地中海の北を研究しているものが,恥の感情を持たずして,まったく初歩的な質問を地中海の南を研究しているものにできる機会は多くない。続けましょう」。実際,現在の学問情況を考えるとき,昔とは異なる意味で,今こそ,われわれのようなネットワーク型の,そして「大人」の研究会が必要とされているのではないかとも思います。地中海学会とは異なり,いつまで続くか分からない研究会です。しかし,とりあえずは,これまでの伝統をわれわれなりに咀嚼して,研究会を続けて行こうと思っています。地中海学会賞の受賞は,この点において,われわれを大いに励ますものです。ありがとうございました。







地中海学会大会 研究発表要旨

アブ・シール南丘陵遺跡岩窟遺構AKT02出土の2体の木製彫像について

河合 望


 早稲田大学古代エジプト調査隊(隊長:吉村作治)は1991年より,エジプト,アブ・シール南地区に位置する丘陵において発掘調査を実施してきた。
 2001年の第10次調査より,丘陵の斜面に発掘区を広げた結果,岩窟遺構AKT01を発見し,2002年第11次調査では,石積み遺構とその背後にシャフトと東西二つの部屋からなる岩窟遺構AKT02を相次いで発見した。石積み遺構は第3王朝の階段ピラミッドの特徴的な築造技術が駆使されており,第3王朝頃に造営されたと考えられる。また,岩窟遺構AKT02も内部構造などから石積み遺構と同時代のものと推測される。
 このように岩窟遺構AKT02は,おそらく本来は石積み遺構に関連する施設として古王国時代初期に造営されたようであるが,土器を中心とした中王国時代の遺物も多数出土しており,中王国時代に再利用されたことが明らかとなっている。
 岩窟遺構AKT02からは,エジプト美術において非常にユニークな2体の彫像が出土している。高さ162cmの等身大の木製彫像と高さ63.5cmの木製彫像である。両者とも女性像であり,同所から出土した土製のライオン女神像とともに遺構の性格を考える上で重要な資料である。本発表では,これら二つの木製彫像の様式,年代,機能などを考察し,中王国時代に再利用された時期の岩窟遺構AKT02の性格を明らかにするための手掛かりとしたい。
 等身大の木製女性像は,岩窟遺構AKT02東室の天井から崩落した大岩の下から出土した。この像は両腕と台座が残存しておらず,表面も保存状態が芳しくないが,非常に均整のとれたプロポーションである。木材はアカシアで,全体が同じ木材の幹から作られている。表面にはゲッソー(石膏)が塗られ,体のラインに合わせた着衣には白色の顔料が塗られている。この胴体は,臍と臍穴で腕に接続されていたようである。
 この彫像の最も特徴的な点は非常に珍しい鬘である。ストライプ状の髪が後ろに伸び,肩から背中にかけて編んである。また,大きく広がった耳も特徴的である。同じ鬘の類例は,初期王朝時代初頭の象牙製女性像に認められる。しかし,この時代の美術にはエジプト美術の人物表現の規範であるキャノンが確立していなかった。規範の確立した中王国時代第12王朝にも類似した女性像
がある。ただし,中王国時代の類例は,初期王朝時代や古王国の彫像を模倣したもので,アルカイズム(復古主義)を示している。
 そこで,キャノンを見ると,この彫像は中王国時代第12王朝センウセレト1世以降の古典的な規範に忠実に作られていることが明らかになった。すなわち,この等身大木製彫像は初期王朝時代に特徴的な様式で中王国時代に製作された彫像と考えられる。
 もう1体の木製彫像は,同遺構西室の入口付近から出土した。この木製彫像も両手と台座が欠損している。彫像は裸体の女性像を表している。剃髪で,胸部が強調されている。また,眼や耳が意図的に削られているようである。というのも体全体に塗られた黒色の樹脂が削られた部分の上に塗られていることが観察されるからである。姿勢は,左足を前に出して歩行を表している。この彫像も類例が極めて少ない。
 類例としては,黒色に塗られた中王国時代第11王朝のメンチュヘテプ2世の王妃の裸像がある。また,胸部を強調した女性像は,初期王朝時代の女性像に類例を求めることができる。さらに,剃髪の女性像の類例は古王国時代の身代わりの首だけである。彫像の耳が意図的に削られているのは,身代わりの首の風習の名残とも推測される。この彫像のプロポーションのキャノンを見ると,こちらも中王国時代第12王朝の規範を示している。なお,彫像が出土した部屋の遺物は,ほとんどが中王国時代の年代を示している。
 以上発表した二つの木製彫像は特に初期王朝時代に特徴的な豊穣,多産祈願のために奉納された女性像に類似したもので,中王国時代にそれらを模倣して制作されたものであると考えられる。つまり,岩窟遺構AKT02が再利用された中王国時代において,内部に既に納められていた当時から約千年前の初期王朝時代の遺物との結びつきを強調するためにその時代の様式を模倣したと考えられる。これらの像は神聖なる彫像(Divine Statuary)として,当該地での祭祀活動と深い関連があったのであろう。





地中海学会大会 研究発表要旨

「良き友人」とは何か
──エウリピデス『ヘラクレス』におけるテセウスの役割──

阿部 伸

 本発表ではエウリピデスの『ヘラクレス』がどのような友人像を提示しているか考察した。その重要性は,古典期のアテナイ社会において友人がどのような存在と見なされていたかを背景にして初めて理解される。
 古典期アテナイ社会において友人が持っていた意味が現代におけるものと大きく異なる点は,情緒的な紐帯よりは,援助を相互に与え合う互酬的な関係という側面が強調されがちであったことである。『ヘラクレス』はそのような古代社会の一般的な考え方とは明確に一線を画し,友人との精神的な紐帯が重視されている。
 『ヘラクレス』で重要なのはテセウスとヘラクレスの友人関係である。ヘラクレスは狂気に陥って家族を殺してしまい,絶望から自殺を決意するが,友人であるテセウスに引き止められる。テセウスはヘラクレスによって「良き友人」(1425-26)と賞賛される。では具体的にどのような理由から,テセウスは「良き友人」と呼ばれるのか。Adkinsは,古代ギリシアでは相手に対する感情や意図のためにではなく,相手に与えた実質的な援助のゆえに良き友人と呼ばれるのであり,『ヘラクレス』に描かれたテセウスについても,行き場をなくしたヘラクレスをアテナイに招き,土地と館を提供する実質的な援助ゆえに賞賛されていると主張している。しかし,そうした現在の代表的な解釈は,『ヘラクレス』のテセウスが果たす役割の意味を全体として十分評価できていない。
 軍隊を率いてヘラクレスの家族を助けにやってきたテセウスは,救援が遅かったことを知る。既にヘラクレスの妻子は殺されてしまっている。テセウスは事後に遅れてやってきて,実質的な援助をなしがたい状況におかれている。また,ヘラクレスをアテナイに呼び,自身の財産から土地と館を与えるというテセウスによる援助は,Adkinsを初めとする解釈者によってしばしば決定的な意味を持つと見なされるが,ヘラクレスはその援助を受け容れるにあたって,あえてテセウスに対する反論を先にたてており,素直に援助を受け容れているとは見なしがたい。『ヘラクレス』におけるテセウスは,財産や力(cf. 1425-26)ゆえに良き友人として描かれているわけではない。
 物質的な援助や説得の議論と対照的なのは,殺人の穢れに関わる場面である。殺人の穢れゆえにテセウスとの
接触を拒むヘラクレスに対して,テセウスが殺人の血の穢れをかまわず,手を貸している。この箇所においてテセウスの手助けに対してヘラクレスが紛れもない感謝の言葉を述べていることが重要である。ヘラクレスはテセウスの提案や説得の議論をほとんどはねつけているが,それとは対照的にこの箇所でテセウスの手助けが素直に受け容れられていることは際立つ。またこの箇所は具体的な所作を伴う場面となっている。テセウスが登場して以降,登場人物が舞台を移動して互いに働きかける箇所は,テキストから知られる限り,この穢れをめぐる箇所のみであり,それゆえこの場面が実際に演じられた際には,強い印象を与えたはずである。
 またヘラクレスに対するテセウスの説得は,土地と館を与える援助と同様にヘラクレスの反論にあい,説得は成功していないように見える。テセウスの議論をヘラクレスがそのまま受け容れているような箇所はまったく存在しない。ヘラクレスが自殺の意思を翻すのは,結局のところ,ヘラクレス自身の決断によるもので,それゆえテセウスの貢献が消極的なものであると見なす解釈者も存在する。しかし,テセウスの説得は,ヘラクレスの議論をそのつど逆手にとって反論し,自殺の意思を撤回せざるを得ない立場にヘラクレスを誘い込む役割を果たしている。そしてテセウスの議論はヘラクレスが妻子殺しの苦悩に耐えることを十二難行に類比している。それを受けて,ヘラクレスも自身の苦悩を最後の難行と呼ぶ。テセウスの議論は,苦悩に耐えることに肯定的な意義を付与する端緒をなし,それゆえ間接的にヘラクレスに影響を与えていると評価できる。
 したがって『ヘラクレス』におけるテセウスは,従来の解釈とは異なり,財産や力ではなく,殺人の穢れをいとわない献身的な手助けや,相手の立場に即したねばり強い説得ゆえに「良き友人」なのである。








地中海学会大会 シンポジウム要旨

西洋芸術の受容と展開
──上野,東京そして日本──

パネリスト:石井元章/高田和文/塚原康子/村松伸/司会:樺山紘一



 第30回大会が,東京芸術大学において開催されることの意義をできるだけ汲みとろうとして,準備委員会と同大学関係者とのあいだで,周到な議論がおこなわれた結果,標題のようなシンポジウムが企画された。つまり,明治初頭にはじまる西洋芸術の受容のかたちを,あらためてトレースしてみようという構想である。現在の上野には,美術・音楽をはじめとする芸術の創造と教育にあたる施設がひしめいているが,その上野をふくめて東京と日本とは,近代の前期から20世紀にいたる過程で,どのような芸術活動の可能性を実現したのか。その主題を論ずるにあたって,上野というトポスは恰好の場であろうと考えた。
 そのためには,まず西洋からの刺激をうけとった近代芸術の諸分野,つまり音楽・美術・演劇・建築の四つについて,それぞれの角度から検討をくわえる必要があろう。また,明治のごく初年にはじまり,大正から昭和にいたるかなり長いタイム・スパンを視野のうちにおさめねばならないだろう。こんな広範な問題領域を,一度のシンポジウムにおいて踏破できるわけはないが,それにしても地中海学会としては,今後の活動の標的をみさだめるために,適正な課題設定ではないか。関係者一同,そのように合意したものであった。成果のほどについては,さまざまな評価があることだろうが,いずれにしても,地中海をはじめとする西欧世界について,極東の日本からの関連を求めてきた学会にとっては,じゅうぶんに意義あるシンポジウムとなったと,自負している。
 主体をなす報告は,さきの分野に対応して四つの角度からおこなわれた。塚原康子氏は,「明治初年の国賓接遇と西洋音楽」と題して,明治維新直後にあって訪日の外国貴賓の接遇にむけた音楽儀礼のありさまを紹介した。海軍軍楽隊による西洋音楽の奏楽が,不慣れのうちにも実現され,急速に西洋音楽への接近がはかられた。そこでは,軍楽隊を中心として西洋人からの学習もすすみ,明治政府の西洋受容が進められたことになる。東京音楽学校が上野に創設される20年ちかく前のことであった。文部省による教育機関としての音楽取調掛や,宮内省楽部など,複数の機関によって西洋音楽の受容がこころみられた様相が,解明されたといえよう。
 石井元章氏は,明治初期のお雇い外国人,ことにイタリアから招致された芸術家たちの活動を紹介した。ときのイタリア公使ドスティアーニの構想にしたがって,フ
ォンタネージやラグーザ,カペレッティあるいはキョッソーネが選任され訪日した。これまた東京美術学校創設に先んじている。絵画や彫刻を担当し,工部美術学校を中心として,明治の日本人に西洋美術の習得をうながしたのであった。なぜ,西洋のほかの国ではなくて,当時にあっては国家統一をなしとげたばかりのイタリアが主導権をにぎったのかは,こうした人的接触のうちに具体的にさぐる必要があることが痛感される。
 高田和文氏は,演劇・オペラが日本に導入される道筋を通観した。ここで重要なのは,歌舞伎をはじめとする伝統演劇が,近代をみすえての自己改革をめざし,意欲的な活動にとりくんだことである。あまりに異質な東西の演劇の結合や折衷をめざし,翻訳劇の上演や新劇場の建設をこころみた。この過程で,自由劇場や帝国劇場が建設され,新劇の登場をうながすとともに,オペラのような正統音楽と浅草オペラの大衆化路線とを推進した。ともに,方向と内実はことなるとはいえ,日本における西洋受容の幅をうみだすものとなったのである。
 建築の分野から論じた村松伸氏は,「近代日本建築はいかに西洋を受容したか」と問いかけ,この問題をひろくアジア諸国との比較のもとで考察すべきだとの提唱をおこなった。タイ,中国,韓国(朝鮮)の例を参照しつつ,19世紀から20世紀への転換のうちに,それぞれの国が,固有の伝統的職人技術を近代建築技術と接合する過程を,類比と差異の相のもとで論じた。日本は,明治以来の西洋化のうちで突出した成果をあげるかたわら,やがては植民地をふくむ後進のアジア諸地域にたいして,その成果を輸出,もしくは強要するかたちで近代を走りぬいた。その構造的連関を視野におさめねばならないと強調した。
 以上のように,個別の領域からみた西洋芸術の受容史は,むろんことなった様相を呈している。しかしながら,いずれもが日本の近代化にあって,政治・経済などの分野とのあいだで並行関係をたもちつつ,また特徴的な姿をも示しており,芸術それ自体の特異性をつよく感知させることにもなった。このことは,かならずしも芸大と上野周辺においてのみ主導されたわけではないが,しかしその形跡をたどる観察地点としては,上野という地が適切な場であることもまた,合意されたのではなかろうか。「上野で」論ずることを可能にしてくださった関係者のみなさんに感謝申しあげる。(文責:樺山紘一)







読書案内:徳橋曜

歴史学研究会編『港町の世界史』

1 港町と海域世界 2 港町のトポグラフィ
3 港町に生きる

青木書店 2006年1月〜2月

 3巻から成るこのシリーズは,「港町」をキーワードに世界各地に目を向ける。港町は異なる文化や経済圏をつなぎ,大きな地域的まとまりを形成する。その内部には様々な地域の人々と彼らの文化が混在し,今日でも我々がジェノヴァやマルセイユ等を訪れたときに感じる,あの活気に満ちた都市空間を生み出すのである。
 第1巻は,港町と外部の世界を結ぶ交通路と,そこを動く人・物の諸相を論じる。港町は広域ネットワークの「ハブ」として,経済的広域圏の要所となる。これらの港町をつなぐ海上ルートは,当然「もの」を運ぶために開発されたものであるから,この物流から各地域の経済状況も推測される。そして,港町を拠点にこうした交易に従事する人々は,多少とも境界的性格を持つが,同時に地域権力や国家と関係せざるをえない。後者は前者の活動を規制・管理しようとするため,両者の関係は,しばしば緊張をはらむものとなる。これらの諸相が「環日本海と環シナ海」,「イスラームとインドの海」,「地中海から北海へ」の三地域に大別して論じられる。
 第2巻はこうした港町の空間構造・住民構成を考察し,より広域の環境がそこに投影されている点に目を向ける。まず港湾の立地や機能等から類型化が考えられる。ここで重要なのは,沿海岸港と河口内港の対比的性格の指摘であろう。次に港町の集落形成・市街構造等から都市景観を再構成する。水際線に向かっての都市の防御の有無,また水際線に対する市街地構造の在り方は,港町の性格と密接に関係している。それは港町とこれを取り巻く政治的・経済的環境との関係に規定されるものである。さらに港町の身分・階層・職能による社会編成や居住分布に目を向ければ,外来者・外国人の存在が港町社会の特徴として浮かび上がってくる。こうした点から港町のトポスが「日本列島の周囲」,「アジアの沿岸と島々」,「レヴァントとヨーロッパ」について語られる。
 第3巻は都市空間での人々の営みに注目しつつ,港町での異文化共存・共生の在り方を探る。前2巻と異なり,この巻の構成は地域別ではない。「はたらく・くらす」「であう・まじわる」「おさめる・むすぶ」の三つの側面から,遊女,通訳など港町に特徴的な仕事に従事する人々と社会や文化との関わり,外来者・外国人の受容と土着化,港町と宗教・思想との結びつき等が論じられる。
 全36の論文のうち,地中海地域に関わるものは一部である。しかし,アジア海域に関わる論考も極めて興味深く,またそこで取り上げられる都市の多くが,地理的・歴史的・学問的に地中海沿岸都市に結びついている。例えば,いわゆる「海の道」は東アジアから東南アジア・インドを経て,ペルシャ湾へ至り,その西方延長に地中海貿易が位置する。東南アジア諸地域の港町の分析では,発掘調査の成果なども用いられ,中国やヴェトナムの陶磁器の分布など,「もの」の移動が具体的に判って興味をそそられた。また,第2巻第1部で取り上げられるのはすべて日本の都市であるが,そこで論じられる都市構造の類型論,特に「タテ町型」と「ヨコ町型」といった分類をヴェネツィアやジェノヴァ,リヴォルノ,ナポリなどの都市構造に反映させて考えるのも,有益かもしれない。
 一方,港町における外来者・外国人の存在形態は,多くの論考で着目されているが,その在り方は多様である。外来者の存在は港町に共通した特徴であるが,ヨーロッパの港町ではこれが自治や市民権と密接に関わる一方,アジアの港町ではそうした問題は相対的に小さい。これらのさらなる比較は,より豊かな成果を生んでくれるのではなかろうか。
 以上,紙数の関係で,所収論文のタイトルの提示すらできなかったが,3巻とも内容の充実した,刺激の多い好書である。比較史的観点からの一読を勧めたい。






表紙説明

旅路 地中海23:オリュンピアの神域/吉村 知恵子



 アルカディア地方に水源を発するアルフェイオス川を下り,エリス地方にあるクロノスの丘の麓に行き着くと,そこにはオリュンピアの古代遺跡が広がる。
 今日ではオリンピック競技会の発祥地として有名なこの地であるが,ストラボンが「ここはオリュンポスに坐すゼウスの神託所のゆえに,古より名声を有していた」と述べているように(8.3.30),初めは神託所が備わるゼウスの神域と考えられていた。アルティス(「聖なる森」を意味するalsosの別形)と呼ばれる遺跡中央部の狭義の神域へと進むと,ヘラ神殿とペロピオン(ペロプスの神苑)との間に,かつてゼウスの大祭壇があった。ここで占者(mantis)と称される神官一族が卜占を通じて神の意思を解釈していた。
 そのうち有名なのはイアミダイ一族である。この始祖イアモスはアポロンの息子と考えられており,ピンダロスによると,父神に導かれた彼が予言の術を授かり,ゼウス祭壇に神託の座を築いたとされる(Ol.6.43f.)。この箇所の古注には「この一族は犠牲獣の皮を剥ぎ,それを祭壇の火に捧げ占った。また別の者が言うところでは,彼らは犠牲獣の皮を裂き,その裂け目が直線か否かで占った」と記されている。パウサニアスは,この一族のトラシュブロスの像がアルティスにあるとするが「像の右肩にヤモリが這い寄り,傍らには犠牲獣の犬が二つに切断され,肝臓をさらけ出して横たわっている。山羊・
羊・牛の仔を用いた予言が古くから行なわれてきたのは明らかである。(中略)しかし予言に際して犬を用いることは誰もまったく考えつかなかった。彼は,犬の内臓によるある独自の予言術を定めたように思われる」と記している(6.2.4-5)。動物の肝臓を見て占う方法は,古代ギリシア・ローマでは鳥占い・夢占いと並び信憑性の高い卜占術の一つであった。キケロは『卜占について』のなかで「占者たちは,肝臓の突端を,あらゆる方向から細心の注意を払って観察する。しかしもしそれが見つからなければ,これ以上の凶兆は起こりえなかったものと考える」と記している(2.8.32)。
 また占者たちは,毎年エラフェーボリオーン月(現在の3月頃)の19日目に,プリュタネイオン(評議場)から犠牲獣の灰を運び,アルフェイオス川の水でこね,祭壇を覆った(Paus.5.13.11)。プルタルコスは「犠牲獣の灰は,この川の水以外では決して固まらなかった」と述べている(『衰えゆく神託について』41)。古代ギリシアの神域における祭壇は,紀元前6世紀以降,一般的には石によって作られていたことが考古学的に立証されており,オリュンピアの灰の祭壇は当時では珍しかったと推測されている。一時は名声を博したオリュンピアの神託所も,競技祭の栄光の陰に,時とともに忘れ去られていった。その実態は,今日でも多くは謎に包まれたままである。