学会からのお知らせ



*第30回地中海学会大会
 さる6月24日,25日(土,日)の二日間,東京芸術大学(東京都台東区上野公園12-8)において,第30回地中海学会大会を開催した。会員205名,一般53名が参加し,盛会のうち会期を終了した。美術学部の石膏室,鍛金室,鋳金室の見学会も好評であった。会期中,4名の新入会員があった。
 参加者には読売新聞社,東京文化村,辻佐保子氏他から展覧会招待券を(会員のみ)、ジェトロニクス社より『SPAZIO』を,また懇親会にはメルシャンよりフランスワインを提供いただいた。
 次回大会は,大塚国際美術館で開催する予定です。

6月24日(土)
開会宣言・挨拶(宮田亮平東京芸術大学学長) 13:00〜13:10
記念講演 13:15〜14:30
 「「エーゲ海の青空を正方形に切り抜きたい」と思ったことについて」磯崎新
地中海トーキング 14:40〜16:40
 「芸術のプロデューサーたち──現代の芸術と社会」
  パネリスト:熊倉純子/瀧井敬子/南條史生/藪野健/司会:木島俊介
見学「東京芸術大学美術学部」 17:00〜18:00
懇親会 18:00〜20:00
6月25日(日)
研究発表 10:00〜12:10
 「エジプト,アブシール南丘陵遺跡岩窟遺構AKT02出土の2体の木製彫像について」河合望
 「「良き友人」とは何か──エウリピデス『ヘラクレス』におけるテセウスの役割」阿部伸
 「アンジャール──初期イスラーム時代の宮殿都市への考察」深見奈緒子
 「「建築物階数の型」が変化したプロセス──16・17世紀のポルトガル・スペインの場合」杉浦均
総会 13:00〜13:30
授賞式 13:30〜13:50
 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
シンポジウム 14:00〜17:15
 「西洋芸術の受容と展開──上野,東京そして日本」
  パネリスト:石井元章/高田和文/塚原康子/村松伸/司会:樺山紘一

*第30回地中海学会総会
 第30回総会(岡田保良議長)は6月25日(日),東京芸術大学で下記の通り開催された。
 審議に先立ち,議決権を有する正会員636名中(2006.6.21現在)610余名の出席を得て(委任状出席を含む),総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2005年度事業報告・決算,2006年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2005年度事業・会計は中山公男・牟田口義郎両監査委員より適正妥当と認められた。(役員人事については別項で報告)
議事
宣言
二,議長選出
三,2005年度事業報告
四,2005年度会計決算
五,2005年度監査報告
六,2006年度事業計画
七,2006年度会計予算
八,役員人事
九,閉会宣言

2005年度事業報告(2005.6.1〜2006.5.31)
I 印刷物発行
1.『地中海学研究』XXIX発行 2006.5.31発行
 「エジプト,アブ・シール南丘陵遺跡から出土したカエムワセト王子の石造建造物の石材について」              柏木 裕之
 「天のオクルス,あるいはベッカフーミ作《玉座の聖パウロ》について」松原 知生
 「17〜18世紀イタリアにおける世俗カンタータの種類と用途に関する試論」佐々木 なおみ
 「アントニオ・タブッキの「記憶」とその軌跡──「マニエリスム」と「アンガージュマン」のはざま」           村松 真理子
 「書評 平山東子著『ギリシアの陶画家 クレイティアスの研究 紀元前6世紀前半におけるアッティカ黒像式陶器の展開』」長田 年弘
 「書評 大月康弘著『帝国と慈善 ビザンツ』」竹部 隆昌
 「研究紹介 Ewa Kawamura, Alberghi storici





dell'isola di Capri; una storia dell'ospitalità tra Ottocento e Novecento」山田 高誌
2.『地中海学会月報』 281〜290号発行
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会(於上智大学/東京大学生産技術研究所)
 「大正教養世代のみたイタリア」末永 航(7.9)
 「モチーフの伝播──アレッソ・バルドヴィネッティとピサ大聖堂ステンドグラス」伊藤 拓真(10.8)
 「ルネサンスにおけるギリシアの広場──フラ・ジョコンドのリアルト市場再建計画の復元的考察」         飛ヶ谷 潤一郎(5.13)
 トルコ・ミニシンポジウム「文化の積層──建築,都市の視点からトルコの魅力を探る」岡田 保良/篠野 志郎/鈴木 董/鶴田 佳子/山下 王世/司会:新井 勇治(5.20)
2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として:於ブリヂストン美術館ホール)
 秋期連続講演会:「地中海都市めぐりシリーズ──その芸術と文化」2005.10.22〜11.26
 「バルセロナの光と影,ガウディとピカソ」大高 保二郎
 「南仏と20世紀美術の創始者たち」太田 泰人
 「芸術都市ミラノ」上村 清雄
 「アルジェリア女性作家たちから見た<アルジェリアの女たち>」石川 清子
 「野外オペラとジュリエットの町ヴェローナの15世紀絵画」小佐野 重利
 「プーリア地方の都市」陣内 秀信
 春期連続講演会:「地中海の祝祭空間」2006.2.25〜3.25
 「広場で生まれたルネサンス」樺山 紘一
 「トルコ都市空間にみる祝祭の場──イスタンブルとギョイヌック」鶴田 佳子
 「ベネツィアの祝祭の舞台」陣内 秀信
 「中世シチリア王の戴冠式──パレルモの王宮と大聖堂」高山 博
 「古代ギリシアの祝祭を彩る美術」篠塚 千恵子
3.若手交流会
(於東京大学生産技術研究所 2006.2.24)
III 賞の授与
1. 地中海学会賞授賞
   受賞者:一橋大学地中海研究会
2. 地中海学会ヘレンド賞授賞
   受賞者:金原 由紀子・平山 東子
IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations
2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
V 協賛事業等
1.NHK文化センター講座企画協力「古代からのメッセージ」
2.同「地中海世界の感覚の歴史──その色・音・香・味を探る」
3.同「世界遺産への旅」
4.ダイナースクラブ講座企画協力「イタリア美術への誘い──ルネサンスの曙からバロックへ」
VI 会 議
1.常任委員会 5回開催
2.学会誌編集委員会 3回開催
3.月報編集委員会 6回開催
4.大会準備委員会 1回開催
5.電子化委員会 Eメール上で逐次開催
VII ホームページ
  URL=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr(国立情報学研究所のネット上)
  「設立趣意書」「役員紹介」「活動のあらまし」「事業内容」「入会のご案内」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海の旅」
VIII 大 会
第29回大会(於静岡文化芸術大学)6.25〜26
IX その他
1.新入会員:正会員35名;学生会員8名;賛助会員1口
2.学会活動電子化の調査・研究
3. 展覧会の招待券の配布:「ギュスタヴ・モロー」展






2006年度事業計画(2006.6.1〜2007.5.31)
I 印刷物発行
1. 学会誌『地中海学研究』XXX発行
  2007年5月発行予定
2.『地中海学会月報』発行 年間約10回
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会の開催 年間約6回
2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として秋期(11.4〜12.2,計5回)・春期連続講演会開催
3.若手交流会
III 賞の授与
1.地中海学会賞
2.地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
1. NHK文化センター講座企画協力
「世界遺産への旅」
VI 会 議
1.常任委員会
2.学会誌編集委員会
3.月報編集委員会
4.電子化委員会
5.その他
VII 大 会
 第30回大会(於東京芸術大学) 6.24〜25
VIII その他
1.賛助会員の勧誘
2.新入会員の勧誘
3.学会活動電子化の調査・研究
4.展覧会の招待券の配布
5.その他

*新事務局長および本部変更
 先の総会で陣内秀信氏の事務局長任期満了により,小佐野重利氏が新事務局長に決まりました。これに伴い,学会本部を下記の通り変更します。
 旧:法政大学 陣内秀信研究室
 新:東京大学 小佐野重利研究室

*論文募集
 『地中海学研究』XXX(2007)の論文および書評を下記のとおり募集します。
 論文 四百字詰原稿用紙50枚〜80枚程度
 書評 四百字詰原稿用紙10枚〜20枚程度
 締切 10月20日(金)
 本誌は査読制度をとっております。
 投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。






ソロモンの玉座

堀川 徹

 年末から年始にかけ,5年ぶりにイスタンブルを訪問した。飛行機から降り立って,まず,地下鉄が空港まで到達しているのに驚かされた。電車で街まで入ることができるのである。市内の終点は従来通りアクサライで,そこから旧市街の中心地へはトランヴァイ(路面電車)を利用する。トルコの公共工事がなかなか進まないのは一昔前の話と認識を新たにした。新市街の中心地タクシム広場を起点として北へ向かう別の地下鉄路線は,日本の援助でボスフォラス海峡を海底トンネルで越え,アジア側にまで延びる計画という。
 もう一つ驚いたのは,アクサライからエミノニュへと旧市街を縦断するトランヴァイが,金角湾にかかるガラタ橋を渡って新市街側にまで達していたことである。1983年以来この街を訪れた際には,よく新市街の定宿から,ガラタ橋を徒歩で渡って旧市街の古文書館に通ったものである。橋の前方やや右手,金角湾越しに朝日を前面に受けて聳えるスレイマニイェ・モスクを眺めながら橋を渡ると,不思議にいつも気持ちが高揚した。一日の始まりに,ガラタ橋から見るスレイマニイェは私のお気に入りだった。
 このモスクは,オスマン帝国の最盛期を現出したスレイマン1世の命で建設された。建築家ミマール・スィナン壮年期の作品で,凛とした姿が,力強さと同時に内に秘めた気迫を感じさせる。スレイマンは46年に及ぶ治世の間,13回の親征を行ったと伝えられるが,その眼は常にバルカンに注がれていた。ハンガリー全土を支配下に入れた後の1529年には,ウィーンを包囲してヨーロッパを震撼させた。ところで,スレイマンはソロモンのアラビア語表記,トルコ語訛音で,スレイマン(スライマーン)に限らずイスラーム教徒の名には旧約聖書に登場する人物名がよく見られる。ヌーフはノア,イブラヒムはアブラハム,ムーサはモーセのことである。ちなみにイエスはイーサとなる。
 オスマン帝国時代のバルカンといえば,最近,17世紀に書かれた旅行記の中で,ソロモンの玉座に関する興味深い記事に出会った。かれこれ20年,毎月1回のペースで開かれるオスマン語文献研究会に参加しているが,そこで現在読んでいるテキストがエヴリヤ・チェレビーの旅行記である。そのアルバニア北部のシュコデル湖に関する部分で,湖にある七つの小島が強い風によって動
かされると書かれている。ここで言及されている島は恐らく浮島の類いと想像されるが,緑に覆われたこれらの島を,そこで楽しむ人々を乗せたまま,あたかも「スレイマン陛下の謁見の間の玉座」のように,強風が移動させるというのである。
 旧約聖書に記されるソロモンの玉座は象牙製で,精錬された金で覆われ,六つの段があった。背もたれの上部は丸く,肘掛けの両脇には2頭の獅子が立っていたという(列王記上10:18-20)。イスラーム世界各地には,ソロモンの玉座と名付けられた場所がいくつか知られている。たとえば,イラン西北部,ウルミヤ湖東南の山中にある「ソロモンの玉座」は,丘の上,中央の火口湖を取り巻くようにサーサーン朝期とイル・ハン朝時代の遺跡が残されている。学生だった頃,恩師の故本田實信先生から,調査で撮影された写真を見せていただいたことを今でもよく覚えている。ここは2003年に世界遺産に登録されたと聞く。また中央アジアでは,クルグズスタン(キルギス)共和国のオシュ近郊に,やはり同じ名で呼ばれる岩山がある。いずれも堂々とした姿で,ソロモンの玉座の名に相応しい。
 ところが先の旅行記では,ソロモンの玉座が強風に漂う島の譬えに使われているのである。典拠は何なのであろうか。コーランには,神がソロモンに風をコントロールする術を与えたこと(21:81,34:12,38:36)や,彼の側にいた者が,シバの女王の玉座を瞬く間にソロモンの前に運んだとの話が登場する(27:40)。また,神がソロモンを試すためにその玉座の上に見せかけの人間を据えた(38:34)とも記されているが,人を乗せた玉座を動かす話となると,杉田英明氏が指摘する,ソロモンの「風の絨毯」の伝説がイスラーム世界に流布したことと関わっているようである(『事物の声 絵画の詩』280-282)。ソロモンの絨毯には彼の玉座や多くの椅子が置かれ,人や精霊を乗せて飛翔したという。
 夕暮れ時に,ガラタ橋からふり返って見るスレイマニイェ・モスクもまた格別である。円いドームと4本の尖塔がシルエットとなって,イスタンブルの町の稜線にくっきりとしたアクセントをつけている。突然,視界の一部をトランヴァイが横切った……。スレイマニイェの前景には,やはり,金角湾の水面を滑るように往き来する船影が相応しいようだ。






研究会要旨

ルネサンスにおけるギリシアの広場
──フラ・ジョコンドのリアルト市場再建計画の復元的考察──


飛ヶ谷 潤一郎

5月13日/東京大学生産技術研究所


 1514年1月10日にヴェネツィアのリアルト地区で発生した火災は,64年のローマ大火や1666年のロンドン大火などと比べると,あまり有名でないかもしれない。だが,この地区はヴェネツィアの商業の中心地であっただけでなく,かつては「イタリアの税関というよりも,むしろヨーロッパの税関」と呼ばれていた。当時,リアルト地区には木造建築が密集しており,リアルト橋も木造であったが,現在見られる石造・レンガ造建築の大半は16世紀に再建されたものである。
 本発表で取り上げるのは,この大火後に実行されたスカルパニーノによるリアルトの再建計画ではなく,採用されなかったフラ・ジョコンドの計画である。しかしながら,前者が従来の通りや広場などの区画を比較的踏襲しているのに対し,後者はまさに白紙の状態から新たにギリシアのフォルム,つまりアゴラを設けるという画期的な計画であった。だからこそ,後者の案は度重なる戦争により財政難であった当時のヴェネツィア共和国政府には到底受け入れられなかったけれども,イタリア・ルネサンスにおける都市計画の歴史という観点からは,前者の案よりもはるかに魅力的である。というのも,ロッジアで囲まれた正方形平面の広場は,修道院の回廊などを除けば,イタリアでは15・16世紀を通じてひとつも実現せず,計画されたことすら稀だったからである。
 フラ・ジョコンドの計画を示すオリジナルの図面は残されていないものの,ヴァザーリはそれを実見したようで,その計画は『芸術家列伝』でくわしく説明されている。また,1792年のD. M.フェデリーチによる復元図は,ヴァザーリの記述を参考にして描かれた。これらをもとに,フラ・ジョコンドのモノグラフを著したV.フォンターナは,簡略化された復元平面図を提案した。彼の復元図はおおむね妥当ではあるが,ロッジアや聖堂の配置,および立面までは明らかにされていない。発表者はこれらの史料を比較検討し,おもに広場と聖堂の位置関係や,広場の出入口の形態に着目することで復元的考察を試みる。W.ロッツは,16世紀イタリアの広場に関する優れた論稿でフラ・ジョコンドの計画には言及しなかったが,実現しなかったルネサンスの広場の一例としてだけでなく,理想都市と集中式聖堂,およびサンソヴィーノの登場以前のヴェネツィアにおける「古代」といった多様な文脈で捉え直すことができるように思われる。
 ルネサンス期に古代ギリシア建築を手本とした例が少ないのは,遺構が知られておらず,文献でしか知ることができなかったからである。当然,博学なフラ・ジョコンドも,遺構としては古代ローマ建築などを手本とするしかなかった。イタリアの古代ローマ起源の都市には,フォルムの名残が見られる例が少なくない。彼の故郷ヴェローナには,現在も古代遺跡が残されており,都市の中心に位置するエルベ広場はその典型例である。またサンソヴィーノによるヴェネツィアのサン・マルコ広場以前の例として,15世紀末のブラマンテによるヴィジェーヴァノのドゥカーレ広場も古代ローマのフォルムを彷彿させるような計画であった。この広場は三方が連続したロッジアで囲まれていて,広場への出入口が記念門のモティーフであったことは注目に値する。
 リアルト計画が正方形平面であるのは,敷地の形状だけでは説明できない。当時のヴェネツィアの宗教建築では,ビザンティン様式の復興ともいうべきクインクンクス式平面がさかんに用いられていた。リアルト地区の三つの聖堂は,もともといずれも小規模であったため,広場の中心か,あるいはロッジアに組み込んだ形に配置することが容易であった。有名な《ウルビーノ》の理想都市のパネルのように,広場の中心に集中式聖堂が配置される場合には,広場も集中式平面のほうが効果的である。フラ・ジョコンドの聖堂が,内接ギリシア十字の正方形平面であったとしたら,広場の四面の中央に出入口が設けられていたことも説明できる。
 ヴェネツィアは,古代ローマ起源の都市ではない。むろん古代ギリシア起源でもないのだが,交易を通じて中世から伝統的に東方との関係を維持していた海洋都市国家である。当時のヴェネツィアには,アテネからよりも,コンスタンティノープルないしはイスタンブルから伝わる情報のほうが圧倒的に多く,それは建築の分野にも当てはまると思われるが,古代ローマではなく,古代ギリシアのフォルムが,国際商業の中心地であるリアルトにふさわしいと考えられたとしても不思議ではない。本格的な古代ローマの様式がヴェネツィアでさかんに用いられるようになるには,リアルト計画から20年以上後のサンソヴィーノの登場を待たねばならない。サン・マルコ広場とピアッツェッタというラテンのフォルムは,彼によって実現したのであった。






地中海学会大会 研究発表要旨

アンジャール
──初期イスラーム時代の宮殿都市への考察──


深見 奈緒子


 アンジャールはレバノンの中ほどの地味豊かなベカー高原に位置する。北はバールベックへ,東はアンチ・レバノン山脈を越えてダマスクス方面へ,南はゴラン高原を経て死海方面へ,西はレバノン山脈を越えて地中海岸のベイルートへと通じる要地にあたる。
 東西310m南北370m矩形の城壁を巡らした都市遺構は,20世紀初頭に古代ローマ都市カルキスであると同定されていたが,1938年にソヴァージュによってウマイヤ朝の宮殿遺構であると主張され,1953年以後レバノン政府によって発掘と大胆な修復が進んだ。
 直交する十字の通りによって町が四分され,その交差点に四方門がのこる。東西南北の門から伸びる通りの両側にアーケードと小室群が並ぶ。四つの街区から,大モスク,大小二つの宮殿,二つの浴場,多くの住宅遺構,細い街路網が発掘された。形態は古代ローマ都市に酷似しているが,落書やモスクから,8世紀前半初期イスラーム時代に機能していたことは明らかである。
 本稿では,建設年代のみに議論が集中し,論じられることが少なかったウマイヤ朝期のアンジャールの集住地としての様相を考察することを目的とした。従来,ウマイヤ朝期の宮殿についてはクサイル・アムラのような砂漠の宮殿に対し王族が遊興,農地経営,あるいは都市を離れるといった観点からの議論が目立つ。
 まず諸建造物を考察する。大宮殿は,復元に関する問題を含んでいるが,諸室の構成を分析すると,入口部分の卓越性,サービス用と思われる周廊,入口から奥への序列が認められる点など,従来どおり,支配者の居住施設で儀礼等も行われた空間とみなすことが妥当である。
 小宮殿に関しては,既往研究では後宮と解釈される。しかし,諸室の構成に関して奥への序列が大宮殿に比してかなり低く通り抜け可能な部屋が多い点,全く同様な平面を持つ建築が4棟主要通りに並ぶ点,主要通りに通じる両側に小室をならべた区画を間に挟む点などから考えると,私的な宮殿と考えるよりも,商業あるいは公務を司るなんらかの公的施設と考えたい。
 モスクは,西入口の両側に小室をならべたアーケードをもつ点が他のウマイヤ朝モスクと異なる。その広さから金曜の昼の礼拝時には,最大2,000人の成年男子が礼拝できた。なお,北西の街区にはオリーブ圧搾所やキリスト教会も発掘された。
 二つの浴場に関しては,同一の砂漠の宮殿から二つの
浴場が発掘されていることは異例で,しかも大浴場は他の事例と比べるとかなり規模が大きい。
 東西南北の主要通り沿いに小室がならび,加えて上記の小宮殿部分とモスク入口の小室もあわせると総数264個に及ぶ。これらは,おそらく店舗であったと思われる。なぜならば,通りの背後に多くの中庭住居がある点,5km南西の古代ローマ神殿マジュダル・アンジャールが砦に改造されていた点から,軍人詰所と考えるよりも商店と考える方が妥当であろう。なお,発掘された51個の中庭の様態から未発掘部分を推定復元すると,アンジャール全体で平均600平米の中庭住宅101戸を数える。
 上記の町は,モスクの広さから推定すれば約5,000人,住宅一戸当たり30人と仮定すれば3,000人,店舗数264戸の主がそれぞれ10人の家族を持つとすれば2,640人に加え他の生業に携わる人々を加算した人口を支えていたこととなる。
 アンジャールはウマイヤ朝期の砂漠の宮殿遺構に比べ大規模だが,ダマスクスやエルサレムなど主要都市と比較するとかなり規模が小さい。けれども,クーファやバスラあるいはフスタートなどミスル(軍営都市)の当初の規模は不明である。また,近年アカバのウマイヤ朝時代の矩形都市が発掘され,アンジャールよりさらに小さい。以上の諸点とアンジャールの位置を考え合わせると,ウマイヤ朝時代に中継都市,あるいは後背地の農産物を集める集散小都市であった可能性が浮上する。少なくとも1,000人を超える人々,多ければ5,000人以上の人が住まい,市民の中には,宮殿に住む支配者層に加え,200を超える店舗を使う商人や周囲の農地を経営する農民,あるいはキリスト教徒がいたことが推察される。
 建設年代を含め,今後のさらなる発掘の成果が,多くのことを明らかにするであろう。本稿を通して古代から中世への都市変容は漸進的であり,イスラーム時代に古代都市が継承されたこと,さらに支配者がイスラーム教徒であれ異宗教と共存し異教の都市形態を継承した点,都市を支配者や宮殿からだけ考えるのではなく,都市を構成していた人々を考えねばいけない点を強調したい。
 この研究は,科学研究費補助金・平成17年度発足特定領域研究「セム系部族社会の形成」〜ユーフラテス河中流域ビシュリ山系の総合研究―「古代西アジア建築における組積技術の形態と系譜に関する研究」の一部であり謝意を表したい。






地中海学会大会 研究発表要旨

「建築物階数の型」が変化したプロセス
──16・17世紀のポルトガル・スペインの場合──


杉浦 均


 建築物階数の数え方には,次の二つの型が認められる。(以下「階数の型」という)
1層目 2層目 3層目
イ 1st floor, 2nd floor, 3rd floor,...:〔1型〕
ロ ground floor, 1st floor, 2nd floor,...:〔0型〕
(1st floor, 2nd floorなどは英語以外の言語についても1st, 2nd, 3rdなどの意味をもつ語も含む。型の名称を〔1型〕〔0型〕とする)
 イ〔1型〕は日本,韓国,中国,ロシア,米国などで,ロ〔0型〕は西欧各国(英,葡,西,仏,独,伊など)で,使用されている。
 first floorは,英国では「2層目」であるが,米国では「1層目」である。同じ英語圏でも英国と米国で階数の数え方が異なる。欧州は伝統的な文化をもっているので,一見,西欧の〔0型〕が古くからあるタイプのように思えるが,OED(Oxford English Dictionary)によりfirst floorの初例を見ると,〔1型〕から〔0型〕へ変化したのであって,〔1型〕が本来の型であることが判明した。英国だけでなく,西欧各国は17世紀前後に〔0型〕へと変化したことも文学,歴史,建築などの資料から既に明らかにした。また,『聖書』のノアの箱舟とソロモン,エゼキエル両神殿が〔1型〕であることも確認した。しかし,「階数の型」がなぜ変化したのか。
 本発表は「建築物階数の型」が変化したプロセスを16・17世紀のポルトガル・スペインの場合について検討したものである。この両国は「階数の型」の変化が西欧のうちでもっとも早いと考えられる。
1層目 2層目 3層目
〔1型〕 :1°sobrado, 2°sobrado, 3°sobrado, ...
〔0型〕 :baixo, 1°sobrado, 2°sobrado, ...
 本発表では以下の2点を確認した。
確認(1) 「階数の型」が〔1型〕⇒〔0型〕へと変化する前に,二つの型(その1,その2)が併存した。
(その1):建築物の1層目から上方へ1°sobrado, 2°sobrado, 3°sobrado, ...と数える〔1型〕。
(用例):フロイス『日本史』(1586,大坂城天守の条) 「第八階」
(その2):建築物の1層目をbaixo(下の階),2層目以上の各層をsobrado(上階)とする〔数詞なし階数−型〕。
(用例):『羅葡日対訳辞書』(1595)
(この記述に=「2階,3階,...」が示されている)
確認(2) 〔数詞なし階数−型〕から2層目以上の各sobrado(上階)を数える方式が出現する。
 複数の階層があると,使用上,各階層を特定する必要が生じる。その方法の一つとして各階層を1から数える方式が出現したと考えられる。つまり,〔1型〕の出現である。〔1型〕の場合は1層目から最上層までの各層を一連のものとみて,1層目を始点とし順次,第1,第2, ...と一連の数(序数)を付している。
 〔数詞なし階数−型〕においても2層目以上の各sobrado(上階)には,当初,特定できる名称はなかった(2層目以上は全てsobradoであった)。
 ここで,〔1型〕と〔数詞なし階数−型〕を比較すると,〔1型〕の1層目以上と,〔数詞なし階数−型〕の2層目以上は,次の2点において類似である。
「各階層は同質であり,一連の状態にあること」
 (〔数詞なし階数−型〕のbaixoとsobradoは異質)
「各階層を特定できる名称がないこと」
 この状態において〔1型〕は各階層を「1から数えて」特定された。〔数詞なし階数−型〕も同様に「1から数えて」特定されたのではないか。したがって,〔1型〕が生じたプロセスと同様のプロセスが採られた可能性は高いと考えられる。
 〔数詞なし階数−型〕の2層目以上(sobrado)を「1から数える」と,2層目を始点とし順次,第1,第2,...と一連の数を付したと考えられる(1層目はbaixoで特定されている)。即ち1層目baixo,2層目1° sobrado,3層目2° sobrado,...となる。これは結果として上記の〔0型〕と全く同一となる。
 結論として,16世紀末,ポルトガル・スペインにおいて「階数の型」は〔1型〕と〔数詞なし階数−型〕の二つが併存した。〔数詞なし階数−型〕は,次第に2層目以上の各sobrado を1から数えるようになり,〔0型〕となった。この結果,ある期間は〔1型〕と〔0型〕が併存したことになるが,当時,都市では既に2層目以上が居住空間であったため,2層目以上を数える〔0型〕が定着していったものと考えられる。





ギリシアとオリエント
──ギリシア文字誕生の謎──


岡田 泰介


 賛否両論をよんだ『黒いアテナ』の著者マーチン=バナールほどではなくとも,西欧文化の源流の一つとされる古代ギリシア文化が,古代西アジアすなわちオリエント文化の影響を強く受けながら形成されたことは,今日,多くの研究者の認めるところである。
 多岐にわたる影響のなかで,最も重要なものの一つに,文字の受容がある。はじめてギリシア語を書き記した線文字Bはミケーネ文化の衰退とともに失われたので,ギリシア人は,あらためて,まったく新しい文字と書記システムを,レヴァントで使われていたセム文字から借用したのである。このことは,文字の形態・名称・音価の類似から,ほぼ間違いないとみられている。しかし,この文字の受容がいつ・どのようにして・どこで起こったのかについては,専門家の意見が必ずしも一致せず,よくわからない部分が残っている。
 受容がいつ起きたのかをめぐっては,紀元前8世紀を考えるギリシア専門家と,年代を数百年さかのぼらせて前12〜11世紀頃とするセム語専門家との間に,意見の大きなへだたりがある。前8世紀説の最大の根拠は,前8世紀以前にさかのぼるギリシア文字の実例がみつかっていないことである。加えて,最古のギリシア文字が前9世紀頃のフェニキア文字に最もよく似ていること,前8世紀はギリシアとオリエントとの交流がとりわけ活発化した時期であったこと,などがあげられる。それに対して,ナヴェー(J. Naveh)をはじめとするセム語専門家たちは,前8世紀以前の実例がないことは,いわゆる「沈黙の論証」であって,論拠として弱いとしてしりぞける。そのうえで,自説の重要な根拠として,最古のギリシア文字が,フェニキア文字をはじめとする西セム文字の祖先である前12〜11世紀の原カナン文字との間に無視しがたい共通点を持っていることをあげる。すなわち,初期ギリシア文字は形態の点で原カナン文字にとりわけ類似しているだけでなく,つづり方の方向が一定していなかった点も,原カナン文字と共通しているのである。それに対して,前11世紀半ば以後のフェニキア文字では,すでに右から左へのつづり方が定着していた。
 各地で発見された初期ギリシア文字は,地域によってかなり異なった特徴をそなえている。これは,ギリシア文字の成立年代を前8世紀以前にさかのぼらせる根拠の一つとなっている事実であり,文字の受容のあり方にかかわる問題である。たしかに,このような地域的多様性が,単一のモデルから短期間のうちに生じたと考えることは難しい。そのため,前8世紀成立説をとる論者の間
でも,現在では,西セム文字または原カナン文字をモデルとする単一の「原ギリシア文字」から多様な地域文字が派生したとする見解はほとんど顧みられなくなり,むしろ,初期ギリシア文字の多様性は,なんらかの形で,セム文字の受容段階で発生したと考える者が多い。
 それでは,セム文字をモデルとするギリシア文字が最初に生まれた場所はどこだったのか。この問いに対しては,レヴァントのギリシア人居留地,クレタ島などエーゲ海の島嶼部という二つの候補地があげられている。
 ミケーネ諸王国の滅亡以来とだえていたギリシアと西アジアとの交流は,前8世紀になると再び活況を呈しはじめる。その結果,レヴァントには,交易に訪れるギリシア人の居留地が形成された。イギリスの考古学者ウーリー(C.L. Wooley)の発掘によって有名になったアル=ミナもそのような居留地の一つであり,おそくとも前8世紀には成立していたと考えられている。ギリシア人とセム語を話す住民との接触が日常的に生じていたと思われることが,こうした居留地がギリシア文字誕生の地として有力視されているゆえんである。近年,ギリシア本土エウボイア地方のレフカンディとアル=ミナとの密接な交流が考古学的に明らかにされ,レヴァントで生まれたギリシア文字の,ギリシア本土への伝播経路として注目されている。
 エーゲ海に浮かぶクレタ,テラ両島は,そこで発見された初期ギリシア文字が,ローカルなギリシア文字のなかで最もセム文字に近い特徴をそなえていることから,ギリシア文字成立の有力候補地と目されている。その場合は,アル=ミナのケースとは逆に,これらの島々へのセム人の訪れを想定する必要があるが,事実,1970年代に,クノッソス近郊のテッケ(Tekke)の墳墓の一つから初期フェニキア文字の銘文を刻んだ青銅杯が出土している。年代は前11〜9世紀の間と推定される。青銅杯が副葬されていた墳墓は,埋葬形式からみてフェニキア人のものと考えられており,当時のクノッソスにフェニキア人の居留地があった可能性を指し示す。
 以上のような諸問題のほか,近年では,ギリシア文字のモデルは,子音字のみからなるフェニキア文字ではなく,前8世紀中頃にフェニキア文字から派生し,母音代用文字(matres lectionis)を持っていたアラム文字だったのではないかとする説が提起されるなど,ギリシア文字の誕生をめぐる議論はまだまだ尽きることがないようである。






国際学会
トゥッリオ・ロンバルド
ルネサンスのヴェネツィア芸術文化における彫刻家・建築家


石井 元章


 2006年4月4日から6日までヴェネツィア,ジョルジョ・チーニ財団美術史研究所でヴェネツィア・ルネサンスを代表する彫刻家・建築家トゥッリオ・ロンバルドの生誕550周年を祝う国際学会が開かれた。
 チーニ財団美術史研究所長ジュゼッペ・パヴァネッロ教授の挨拶で始まった第1日は,午前・午後両方の部を通じて主にトゥッリオの彫刻・建築に関する新しい見解が発表された。現在イタリア人の中でヴェネツィア・ミラノ彫刻研究の第一人者と目される,ブレラ美術館学芸員マッテオ・チェリアーナ氏は冒頭の発表で,トゥッリオ研究の抱える様々な問題に広く触れて,後の発表に道を開いた。ベルリン,ボーデ美術館学芸員ミヒャエル・クヌート氏は第2次大戦で破壊された《アンドレア・ヴェンドラミン記念碑》の《盾持ち》2体の生々しい写真を公開したが,会場に姿を現したメトロポリタン美術館学芸員ジェームズ・ドレイパー氏からは最近土台が崩れて瓦礫に帰した同記念碑の《アダム》については何の説明もなかった。ウィーン美術史美術館学芸員クラウディア・クリツァ=ゲルシュ氏は同美術館所蔵の所謂《バッカスとアリアドネ》に関する新解釈を提示した。ワシントン,ナショナル・ギャラリーのアリソン・ラックス氏は《ヴェンドラミン記念碑》の海のイメージについて,またルッツガース大学サラ・ブレイク・マッカム教授はトゥッリオ晩期の作品として研究の遅れていた《ジョヴァンニ・モチェニーゴ記念碑》の政治的背景を解釈し,報告者も同記念碑の図像解釈を試みた。ベルガモ大学マルコ・コッラレータ教授はトゥッリオの時代の「パラゴーネ」の議論について論じた。
 二日目は主にロンバルド工房の古代彫刻との関わりおよび弟のアントーニオの活躍が中心に論じられた。中でもヴェネツィア大学教授ルイジ・スペルティとパドヴァ大学大学院博士課程を修了して最近目すべき著書を刊行したマルチェッラ・デ・パオリの発表が注目される。元ベルリン技術大学教授でヴェネツィアの保存活動でも重きをなすヴォルフガング・ヴォルタースは床モザイクなどの展開について発表。ヴォルタース,チェリアーナと並んでヴェネツィア彫刻の第一人者であるアメリカ人研究者アンヌ・マーカム・シュルツは1992年の著書で進めた二人のブレーニョに関する自説を修正した。
 三日目は監督局の修復家による報告が中心であったが,監督局とチーニ研究所との軋轢が前面に出て,学会そのものがたち切れで終わるという前代未聞の最終日となったのは返す返すも残念である。
 学会での発表を通じて,数々の問題が明らかとなったが,特にトゥッリオ晩期を中心とするヴェネツィア彫刻全体の作品帰属がいまだに立ち向かうべき課題であることを再確認させられた。学会論集(Atti)は年末刊行の予定である。