*第30回地中海学会大会 第30回地中海学会大会を2006年6月24日,25日(土,日)の二日間,東京芸術大学(東京都台東区上野公園12-8)において開催します。 大会研究発表募集 本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2006年2月10日(金)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。 *会費納入のお願い 今年度会費を未納の方には本号に振込用紙を同封してお送りします。至急お振込みくださいますよう | お願いします。ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいております。 会 費:正会員 1万3千円/学生会員 6千円 振込先:郵便振替 00160-0-77515 みずほ銀行九段支店 普通 957742 三井住友銀行麹町支店 普通 216313 *会費口座引落について 会費の口座引落にご協力をお願いします(2006年度からの適用分)。今年度手続きをされていない方および今年度入会された方に「口座振替依頼書」を本号に同封してお送りします。詳細は添付の「会費口座引落についてのお願い」をご参照下さい。 |
表紙説明 旅路 地中海16:キャラバン都市ギョイヌック/鶴田 佳子
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近年,日本だけでなく世界的に地震の被害が多くみられるが,トルコでも1999年8月と11月の二度に渡り,大地震が発生した。コジャエリ地震とドゥズジェ地震である。二つの大地震の被災エリアのほぼ中間に位置するギョイヌックは,コジャエリ地震で大きな被害のあったアダパザルから78H山中に入った谷間の町である。海抜720m,緑豊かな山に囲まれ,中央の丘に沿ってV字状に川が流れる。川の両岸の斜面には伝統的な木造の家々が各部屋からの眺望を確保しながら並んでいる。1999年の地震では大きな揺れがあったものの,地盤がしっかりとしていたため,壁にひびが入る程度の被害にとどまった。この辺りは地震発生の危険性がある地帯に入っており,住民の記憶に残る範囲でも1944,1957,1967年と三度も地震に見舞われている。しかし,多くの住宅が地震に耐え,現在も伝統的な家並みの景観を保持している。 ギョイヌックは交易路の中継地,キャラバン都市として旅人が行き交った町でもある。イスタンブルからギョイヌックへ山道を抜けてゆくと,かつての旅人も目にしたであろう緑豊かな町の全景が眼下の谷間に広がる。キャラバンルートは谷を廻りこむ形で山から町へと下り,中央の丘の中腹を通りながら尾根に向かって再び上ってアンカラ方面へと続く。町の中央の丘はビザンツ期に城砦があった場所で,今はその頂に勝利の塔が町のシンボルとしてそびえている。塔からは360度パノラマが展開 |
し,遠くの山々の景色も,すぐ足元のキャラバンルートも見事に眺めることができる。1951年,都市計画事業によって川沿いに国道が開通し,石畳のキャラバンルートは旧街道となってしまったが,今なお店舗が軒を連ね,町の主軸として機能している。町の中心は,この旧街道沿いに並ぶ店舗群と市場モスク(チャルシュ・ジャミィ),役所,公衆浴場(ハマム),ハマムに隣接するモスク(シュレイマン・パシャ・ジャミィ),墓廟,広場で構成されている。市の立つ広場は市庁舎横とハマム横の二ヶ所。定期市では,市庁舎横の広場で野菜や乳製品などの食料品が,ハマム横では布地や生活雑貨が売られ,近郊の村々から売り手と買い手が集まってくる。日曜の夜から商品を積んだトラックが徐々に到着しはじめ,月曜の朝になると国道の路肩は大型トラックで埋め尽くされる。日頃閑散としている広場には色とりどりの商品やパラソルが並び,木の下やテラスはチャイを片手に語らう人々で埋め尽くされる。人口約5,000人(2000年)と小さな町であるが,この月曜ばかりは人口が倍増し,キャラバン都市として栄えた往時の賑わいを想起させられる。また,この町はファーティヒ・スルタン・メフメットの師であるアクシャムセッティン・メフメットの出身地でもある。ハマムの奥に墓廟があり,毎年5月の記念祭にはトルコ各地から多くの人が訪れ,巡礼地ともなっている。 |
春期連続講演会「地中海ネットワーク:交易と人の移動」講演要旨
ペイライエウスを訪れた人々 桜井 万里子 |
ピレウスは現在のギリシア最大の商業港であり,同時にエーゲ海の島々へのフェリーボートの多くがこの港から出発する。このピレウス港は古代にはポリス・アテナイの主要港ペイライエウスであり,アテナイの繁栄になくてはならない港だった。ただし,中心市アテナイから7,8キロメートル南西に位置するこの地が,テミストクレスによって軍港建設の地として選ばれ,城砦の建設が始まったのは,前493/2年のことであった(以下,年代はすべて紀元前)。 ペイライエウス港の建設以前には,それよりやや南東のファレロンにアテナイの港があったが,ここは防御の点で劣るため,ペイライエウスが選ばれたのだった。テミストクレスが軍港を建設するまで,地形に恵まれたペイライエウスではなくてファレロンが使われたのは,中心市からペイライエウス方向へと流れる川の河口近辺に湿地があったから,とみられている。また,ペイライエウスの半島は長さ3.7キロにおよび,二つの丘,高さ86mのムニキアと58mのアクテあるが,これらの丘は急傾斜で,全体に岩だらけで荒れていて水もないため,居住用の場所としては決してよい条件ではなかったかららしい。 軍港としての建設以前のペイライエウスについては,この町が,クレイステネスの改革以後の制度であるデーモスの一つとして評議員会に9名の評議員を送り出していることから,人々の居住はあった,とみてよいだろうが(508年の改革後,デーモス制度に変更がなかったとすれば,だが),建物が密集する現在の港湾都市ピレウスを発掘することは困難をきわめるため,確認することはできない。 ペイライエウスは三つの湾に恵まれ,港として有利な条件を備えていたうえに,エーゲ海のほぼ中央部に位置していたので,軍港として出発したペイライエウスは,間もなく商港としても発展し,エーゲ海あるいは東地中海の交易の中心地となる。三つの湾のうち最大のカンタロスは商港としての,ゼアとムニキアは軍港としての役割をあたえられ,港湾施設も整備された。最盛期,ゼアには196隻用,ムニキアに82隻用,カンタロスに94隻用の船庫があったとみられている。 都市としてのペイライエウスは,ヒッポダモスによって設計された,とアリストテレスは述べている。その時 |
期は,ヒッポダモスの活動期間から見て,460年頃とみてよい。確かに,格子状の町並みは発掘によって確認されており,現在のピレウスも碁盤の目状の道路網を持っていて,迷路のように道路が入り組んでいるアテネとは大違いである。ペイライエウスの計画的な市街地建設が460年頃に可能であったのは,当時,まだ人口密集地とはなっていなかったからだろう。たしかに,2回目のペルシア軍襲来の480年にもまだ,ファレロンがアテナイの港として使用されていたことは史料からうかがえる。 ペイライエウスの港の建設,発展とアテナイの国家としての隆盛とは不可分の関係にあった。5世紀前半にギリシア世界の中の強国となったアテナイへと地中海の各地から船とともに多数の人々が到来したため,ペイライエウスはポリス・アテナイの中でもっとも国際的な都市となった。物資は穀物のような必需品ばかりでなく,あるいはそれ以上に,奢侈品が集積した。4世紀の史料を読み解くと,ペイライエウスが中心市の外港というよりむしろある程度「自立的」な都市としての位置を制度のうえでも獲得して,中心市とペイライエウスとが二大都市として役割分担していたことが分かる。 物の搬入,搬出は人々の必要と欲望をモティベーションとするから,そこに人が集まり,交流が始まる。ペイライエウスの居住民は,アテナイ市民や主に商業,手工業に携わるメトイコイ(在留外国人),短期滞在の外国人,それに奴隷からなり,奴隷には船舶建造に従事する男の奴隷と,おびただしい数あったに違いない売春施設用の女奴隷が多く含まれていた。多数の外国人が居住し,到来していたことにより,ペイライエウスでは異文化接触が可能であった。例えば在住トラキア人や,キュプロス島キティオン市民に,それぞれの信仰する神のための神殿建設を認めるといった政策も実施された。ときおりの緊急発掘で,市街地の住居の様子がわずかに判明しているが,いずれも形態が似ており,中庭,水槽,アンドロン〈男の客間〉を備えた小規模な作りで,アテナイの,モザイク床の部屋を持つやや豪奢で,それぞれがイレギュラーな形態の住宅とは異っている。アリストテレスの,「ペイライエウスの住民はアテナイ市の住人より民衆的(デーモティコス)である。(『政治学』1303b)」という言葉は,実態を反映していたとみてよいだろう。 |
春期連続講演会「地中海ネットワーク:交易と人の移動」講演要旨
ポセイドンの変身 ──古代地中海世界の近代性── 本村 凌二 |
地中海沿岸は海岸線が入りくんでおり,あちらこちらに島々が点在する。海全体が内海になっており,大洋にくらべれば,はるかに波も穏やかである。冬季の荒海の時期をのぞけば,紺碧に輝く海原は人間の冒険心を誘い込まずにはおかない。豊かな木々を切り倒し,船を造って,海に浮かべて進み出す。そのとき,海原を走る船は草原を駆ける馬の姿と重なって目に焼きつく。そこで,もともとは「馬の神」だったというポセイドンは「海の神」に変身するのである。 馬と草原,船と海原。両者を比べてみると,さまざまな共通点をもつことに気づく。なによりも,人も物も情報も速く移動することになり,空間が拡大し,時間が短縮される。こうしたことは人間の営みを大きく変えてしまうのである。 そういえば,しばしば,近代世界は海から始まる,といわれる。としても,海の交易そのものは古代にはなかったわけではなく,さまざまな領域でおこなわれていた。たとえば,西アジアと南アジアを結ぶインド洋交易があり,中国と東南アジアを結ぶ南シナ海交易もあった。しかしおおざっぱにながめれば,宝石や香辛料などの品にかぎられ,日常の必需品が大々的に取り引きされるわけではなかった。そうするにはあまりにも危険が大きすぎた。さまざまな生活必需品が海上交易の中心をなすような時代は,やはり近代になってからであろう。それには船を建造したり操縦したりする技術が高まり,波の高い外洋を少しでも安全に航海できるようになることが求められた。こうした条件が実現されたとき,諸地域を結ぶ「海域世界」が成立する。まさしくこれらの「海域世界」こそが,やがて近代の世界システムをもたらしたのである。 ところが,地中海世界は,いち早く「海域世界」を形成する可能性を秘めていた。なによりも,穏やかな内海が広がり,複雑な海岸線を頼り,あちこちに浮かぶ島々を目印に進めば,航海の危険も少なくてすむ。この内海の世界のなかで,フェニキア人やギリシア人はさかんに植民活動をおこない,各地に交易の拠点が生まれることになる。簡易な文字であるアルファベットをフェニキア人が創ったのも,商業通信や簿記のためであった。やがて,ギリシア人もアルファベットをまねるようになり,さらにはエトルリア人を通じてローマ人も用いるように |
なる。 このようななかで,フェニキア人によって建設されたカルタゴは,西地中海を中心に海洋文明圏を築き,アレクサンドロス大王以後,東地中海からオリエントに広がる世界には,ヘレニズム文明圏が形成された。そして,それらを継承し吸収するかたちで生まれたのがローマ帝国である。このような視点でながめれば,ローマ帝国とはなによりも「地中海帝国」であり,そこにひとつの「海域世界」を実現したものといえるのではないだろうか。それは,古代における近代の先取りであった。 地中海帝国を築いたローマ人は,この海を「我らの海」(Mare Nostrum)とよんでいる。それは彼らが支配する陸地によってすっぽりと囲まれた内海を表すにはふさわしい言葉である。この内海を包み込む世界に「ローマの平和」が訪れたのである。 そもそも紀元前200年頃から紀元後400年頃までの期間は,温暖化にともなう経済成長の時代であった。ローマ帝国全土に道路網が整備され,内陸の交通もにぎわったが,それ以上に大規模な商業交易がなされたのは海上を通じてである。しかも奢侈品にかぎらず,穀物,ぶどう酒,オリーブ油といった生活必需品もさかんに取り引きされた。すでに,紀元前5世紀のアテナイは,その穀物需要の大半を黒海沿岸地域の穀倉地帯に頼らざるをえなかった。 帆船が走り,海流を利用すれば,イタリアとエジプトの間はわずか7日間で航行できるときさえあった。イタリアからイベリア半島のもっとも近い港なら4日ですみ,もっとも遠い南端部すら7日で航行できたという。地中海は,縦横無尽にして速やかに結ばれていたのである。 このような海上輸送の発展は,経済成長をさらに促し,「ローマの平和」の下に,空前の繁栄が出現する。富裕な人々は豪勢な邸宅に住み,工夫をこらした酒宴に酔いしれた。しかし,この繁栄はそればかりではなかった。民衆の生活にも少しはゆとりが生じ,公衆浴場では談話に興じ,さまざまな娯楽や見世物を楽しむことができた。この庶民による生活の享受ということにおいてこそが,地中海に君臨する世界帝国ローマがほかの古代文明に比べてとりわけ異彩を放っているのである。 |
研究会要旨
モチーフの伝播 ──アレッソ・バルドヴィネッティとピサ大聖堂ステンドグラス── 伊藤 拓真 10月8日/上智大学 |
アレッソ・バルドヴィネッティ作《降誕》壁画(1462年,フィレンツェ:サンティッシマ・アヌンツィアータ教会)と,ピサ大聖堂のステンドグラス連作の一場面《アベルを殺害するカイン》には,ほぼ同一と言ってよい人物像が描かれている。キリストの降誕の知らせを受ける羊飼いの一人と,地面に座り込んだアベルである。前者は左手をひさしのように額にあてがい上空の天使を遠望している。後者も同様に左手を額付近に構え棍棒を振りかざすカインの攻撃に備えている。これ以外にも両者の間には,折りたたむかのようにきつく曲げられた左脚,傾いた上体とそれを支える右腕,といった共通点を見ることができる。 ルース・ケネディ(1938年)以降の研究は押しなべて,この二つの像の類似をステンドグラスの下絵をバルドヴィネッティに帰属することで説明しようと試みてきた。つまり,バルドヴィネッティが自身の《降誕》壁画に使用した人物像とほぼ同じものを,ガラス職人に提供したというのである。しかしながら近年になって出版されたバーナムの研究(2002年)は,問題のステンドグラスが1453年に制作されたということを明らかにした。この年代は《降誕》壁画に10年近く先行するもので,仮にステンドグラスの下絵の作者をバルドヴィネッティであると考えた場合,同時期の彼の諸作品(例えばサン・マルコ美術館に保管されている板絵)と様式的な齟齬を来たす。 本発表ではまず,ステンドグラスの人物像のソースが,フィレンツェのキオストロ・ヴェルデに,おそらくはデッロ・デッリによって描かれた壁画作品にあることを示す。ステンドグラス連作全体の図像プログラムがキオストロ・ヴェルデを始めとする複数のフィレンツェの作品にあるという点に関してはこれまでにも指摘があったが(ピサ大聖堂で活躍したガラス職人,デッラ・スカルペリア家は当時フィレンツェに工房を構えていた),「アベルを殺害するカイン」の場面に関しては,キオストロ・ヴェルデの当該場面の保存状態を理由として十分な分析が行われずにきた。しかし詳細に観察すると,その壁画のわずかに残った部分(棍棒を振りかざすカインの頭部)は,ステンドグラスの該当する部分とほぼ鏡像関係にあることがわかる。ステンドグラスのなかのカインの棍棒のもち手が,例外的に左利きのそれとなっていることを |
併せて考えれば,この場面に関してもステンドグラスの下絵はキオストロ・ヴェルデの壁画作品に基づくもので,それが制作の過程で裏返しにして用いられたと推測できる。 バルドヴィネッティの壁画作品に描かれた羊飼いのポーズに関しても,その成り立ちに関して考察することが必要になる。世紀前半に制作されたロレンツォ・モナコ(ウフィツィ美術館)やリッポ・ダンドレア(フィレンツェ,アカデミア美術館)らの同主題の作品の羊飼いや,または主題こそ違え同じ意味内容を持った人物像(リッポ・ダンドレア《聖ビルイッタの魂の昇天》ブタペスト:国立美術館;バルドヴィネッティ自身が世紀の半ばに描いた《キリストの変容》フィレンツェ:サン・マルコ美術館など)と比較すると,《降誕》の羊飼いが人体の有機的な表現という点で格段の進歩を見せていることがわかる。このような方向性はジェンティーレ・ダ・ファブリアーノのストロッツィ祭壇画のプレデッラに描かれた羊飼いに既に見られるものではあるが,世紀の半ばを過ぎた時点でバルドヴィネッティが大画面の《降誕》図(世紀後半に多数制作される大画面の同主題作品の先駆的なものである)を制作する際に,おそらくは別主題の作品(ルカ・デッラ・ロッビア《キリストの復活》フィレンツェ:大聖堂など)の人物像も参考にしつつ,旧来の典型的な羊飼いの像から発展させられたのであろう。モチーフの伝播における複雑な相関関係を考慮すれば,《降誕》壁画の羊飼いとピサ大聖堂ステンドグラスのアベルの像の単純な類似だけをして,後者をバルドヴィネッティに帰属するというこれまでの仮説は早計であると結論せざるを得ない。 ここまで分析してきた羊飼いの隣に立つ杖を突いた人物像もまた興味深い。ウフィツィ美術館の素描(inv. 1007E)やピエロ・デッラ・フランチェスカの《アダムの死》,またルカ・シニョレッリのいくつかの初期作品に見られるように,この人物像はバルドヴィネッティの壁画同様,座り込んだ人物像と対になって制作されることがままあった。これらの作品の共通点として,どれもドメニコ・ヴェネツィアーノの周辺と関連深い画家によって制作されたということがあげられる。座り込んだ羊飼いというモチーフもまた,このような環境において発展させられていったのであろう。 |
聖母の涙
──地中海を越えて── 秋山 学 |
2005年8月より約半年間,在外研究の機会を得て,ハンガリー東北部のニーレジハーザに滞在している。この町は同国ギリシア・カトリック教会の事実上の司教座都市である。ギリシア・カトリック教会とは,ビザンツ典礼と東方教会法を奉じながらローマ教皇の首位権を認める,いわゆる「東方典礼カトリック教会」の一組織で,中東欧の広い地域に根強い信仰を伝えている。現ハンガリー国内の信徒数はおよそ30万人である。 このハンガリーのギリシア・カトリック教会は,特別な思いをもって2005年を迎えている。同年10月1日から4日間にわたり,国内の巡礼地として名高いマーリアポーチ村では「欧州マリア聖地ネットワーク」の国際会議が開かれた。というのも,このマーリアポーチ村ギリシア・カトリック聖堂のマリア・イコンは,過去 3回にわたり落涙し,その最後の奇跡から数えて今年はちょうど100年目に当たるからである。 まず「欧州マリア聖地ネットワーク」について記すことにしよう。これは,欧州諸国それぞれにあって「マリア落涙」の地,あるいは「聖母巡礼地」として名高い諸都市が連携し,毎年開催地とテーマを決めて各都市の司教・関係者らが集い,シンポジウムを行うという企画である(ちなみに今年のテーマは「苦難と慰め,癒しと結束」であった)。結成当時からのメンバーは,アルテュッティンク(ドイツ),チェンストホヴァ(ポーランド),ファティマ(ポルトガル),ロレト(イタリア),ルルド(フランス)の5都市であり,2003年にはそれらに加え,新たに10都市がこのネットワークに参画した。その10都市とは,バンヌー(ベルギー),ブレズィエ(スロヴェニア),アインズィーデルン(スイス),ノック(アイルランド),マリアゼル(オーストリア),ヴィルニュス(リトアニア),ウォースィンガム(イギリス),サラゴサ(スペイン),ザルヴァニッツァ(ウクライナ),それにマーリアポーチである。ファティマやルルド,あるいはチェンストホヴァといった巡礼地・マリア出現の地に関しては,これまでにも一応耳にしてはいたが,ヨーロッパの各国にそれぞれ,このような形で聖母の巡礼地があろうとは,わたくしも今回まで知ることがなかった。 このネットワークに参加する諸都市は,カトリックの聖母巡礼地である。正教会や新教諸教会には,また異なった形での巡礼地が存在しよう。もっとも上に列挙した |
都市名と国名を眺めるだけでも,聖母に対する崇敬が地中海沿岸域ばかりでなく,広くかつ篤く東欧・スラブ諸国にまで及んでいることに改めて驚かされる。今回の「聖地ネット」開催地となったハンガリー・マーリアポーチのイコンについて,ここで若干の紹介を行いたい。 このマーリアポーチの聖母イコンは,1696年,1715年,1905年の3度にわたり落涙している。ただし最初の落涙後1697年,当初のイコンは時のオーストリア皇帝レオポルトI世によりウィーンに持ち去られ,現在はザンクト・シュテファン大聖堂にある。マーリアポーチでいま崇敬できるのは2度目のイコンであり,後の2回の落涙はこちらに描かれた聖母像によるものである。このマーリアポーチの聖堂はギリシア・カトリック教会であるため,同地を訪れる者は,まず正面に壮麗なビザンツ様式のイコノスタシスを目にすることになる。いわゆる「恩寵の聖母イコン」は,現在このイコノスタシスに向かって左側壁の壇上に高々と掲げられており,信徒たちはその下部に接吻しては恭しく身を屈める。旧新2葉のイコンは,いずれも聖母が,幼子キリストを左手に抱き右手で指し示す「ホディギトリア」型と呼ばれる様式であり,当初は正面王門左側にあったものと思われる。 最初のイコンは1676年,同地がトルコの支配から解放されたことを感謝し,在住の判事が司祭の弟であるイコン画家に描かせ,奉納したものである。1696年11月4日,この司祭が聖体礼儀を執行中,聖母が両の眼から涙を流すのを村の農夫が目撃し,この落涙は12月8日まで続いた。2度目のイコンはウィーンに持ち去られた最初のイコンの模写とされる。これが聖堂に安置された後の1715年8月1日,村の教区司祭による朝課の際に,首席歌唱者が聖母の落涙に気づいた。さらに1905年12月3日には,イコンを保管する修道司祭が,巡礼者たちを案内しイコンの包布を開いたところ,聖母の顔が濡れており,右眼から涙が滴るのを確認している。この落涙は12月に計18日間続いたという。 「聖地ネット」開催日の聖体礼儀で説教するケレステス・スィラールト司教は,この国際会議が,ふだんはギリシア・カトリックの一寒村であるマーリアポーチで行われることの意義を強調していた。その姿はまさしく,中東欧域が広く「地中海文化圏」に属することを主張するものであった。 |
自著を語る44
『帝国と慈善 ビザンツ』 創文社 2004年7月 416+51頁 9,500円 大月 康弘 |
アテネからギリシア北部への小旅行に出掛けたのは,昨年9月の新月の頃だった。偶々拙著の準備が最終段階に差し掛かったときのことで,原稿を抱えてのエクスカーションは思いのほか印象深い旅となった。 オリンピックの昂奮醒めやらぬテッサロニキを尻目に向かったのは,ハルキディキ地方である。そこにはアトス山諸修道院の所領が点在した地域だ。私は,同地に点在した修道院所領跡の現況を確かめたい,と願っていた。 東に延びる街道をバスに揺られて行くと,羊や牛の群れが行く手を阻む何とも長閑な山村の光景が広がっていた。バスは,山腹に位置する集落のケンドロ付近に停まる。カフェニオンに佇む老人たちに挨拶をしては,眼前に広がる雄大な谷間の緑を楽しみながら,拙稿に赤を入れたものだった。史料に痕跡を残す諸所領。往時の村落の面影を彷彿とさせる地勢は,抜けるような蒼空と淡緑の松林とともに,深く脳裏に焼き付いたものである。 ポリギロス,アルネア,ヒエリッソス。ハルキディキには,かつて,アトス諸修道院の所領が点在した村々がある。10世紀後半に起源をもつアトス山周辺の諸修道院。なかでも私は,イヴィロン所領の証書群に学んでいた。同院は,11世紀段階でアトス随一の所領量と広さを誇ったという。在外研究のため長期滞在していたパリでは,ガブリエル・ミュレ以来,アトス文書集の編纂が行われていた。戦後,ポール・ルメルルによって本格的に始められた作業は,現在ジャック・ルフォール氏のもとで作業が継続され,全巻完結もあと数年を残すのみとなった。私は,ルフォール氏のトポグラフなどを旅のガイドとしながら,史料文面に現れる現地の地勢や植生,人々の暮らしを知りたいと思っていた。 渡辺金一先生の『中世ローマ帝国』論に惹かれて迷い込んだ研究生活では,ビザンツ国家が人類史上でもった意味を考えながら自身の研究主題を立てることを厳しく教えらえた。地中海が育んだ文明の揺籃としての〈キリスト教帝国〉。しかし,そう大上段に振りかぶってみても,出来ることは多寡が知れていた。私は出来るところから答えの糸を手繰り出そうと,法史料や所領文書の解読に取り組む途を選択した。 現実の世界では焦臭い事件が後を絶たなかった。〈帝国〉からの解放と,ナショナル・デモクラシーの構築。巷に喧伝される「正論」の傍らで,新たな政治体制が模 |
索されもする今,ナショナリズムの宣揚にもネガティブな帝国論にも,一抹の違和感を拭えない。近代ナショナリズムの認識枠では捉えきれないビザンツやオスマン帝国。そこでの諸現象を「多民族国家」「多文化共存社会」といった近代主義的翻案によるのではなく,当時の文化環境に沿って表現する方途はないものだろうか。 人間は本来ローカルな生き物である。ケンドロに佇む人々と挨拶を交わすと,往時の人々の生活にも想いが至る。拙著では,帝国制度の一端を記述しながら,人々が抱いた生活理想や,彼らの喜怒哀楽にも触れてみたい,と思っていた。アリストテレスが伝える〈寛厚〉は,キリスト教徒の〈施し〉に変転した,と説かれる。私は,そのような有産市民の矜持と人々の暮らしを,〈慈善〉を鍵用語として描きたいと願ってもいた。 思想が肉化する瞬間というのは,確かにあるのかもしれない。〈魂の救済〉を願う個人の遺徳は,ビザンツ帝国の機構に組み込まれて〈慈善〉に組織化されていた。種々の価値理念が交錯して採った諸制度の相貌とは,どのようなものだったのだろうか。ローマ帝国機構とキリスト教思想との融合。古代末期に東地中海世界を舞台に進展した歴史過程は,まさに瞠目すべき壮大なドラマと評されるに相応しかった。 坂口ふみ氏が言われるように,〈自由な個人〉は,近代より遙か以前,東方の息吹を受けて地中海の潮騒の中から誕生したものだ(『〈個〉の誕生』岩波書店,1996年)。自由で,かけがえのない,一回かぎりの〈個〉。神と向かい合うことで誕生した〈個〉の意識。それは,ピーター・ブラウンが示すように,天空の星々に準えられて自覚が促されたという。途方もない社会的上昇(成功)を可能としながら,貧困の淵も同居する〈世界〉。そのような世界で自立(孤立)する個と個が現実に取り結んだ紐帯の姿を,拙著もまた追いかけたかったのだと思う。事態は,〈魂の救済〉というモチーフに導かれ,寄進者市民の倫理規範によって,現実の社会・国家システムに制度化されていた。 古代市民の道徳は,キリスト教の救済観と結び付いて,今日に至る倫理規範と制度的基礎をかたち創った。ビザンツ帝国は,その揺籃にほかならなかった。アリストテレスの故郷スタゲイラに入った晩,仰ぎ見る満天の星の煌めきも,また格別に感じられたものだった。 |
〈寄贈図書〉
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名古屋大学出版会 2004年12月 |