久しく私の枕元の聖書代わりをつとめてくれた1冊に渡邊昌美『巡礼の道』という小振りの本があって,羊飼いの少年に誘われて読み耽れば,やがて犬の遠吠えが聞こえる頃,窓の外は夏ならば乳白色に霞む天の川が南の空に流れ落ち,あの方角に地の果てガリシアがあるのだろうかと,いつしかまどろみつつまだ見ぬ北スペインの風景を重ねて夢の旅路を辿るのが好きだった。
エステリャはサンティアゴ巡礼路の宿場町である。フランスを発つ四つの街道が,この手前のプエンテ・ラ・レイナで合流し,14世紀のフランコ・ヴェネト方言の叙事詩『スペイン侵攻』の表現を借りるなら,スペインの玄関とでもいうべき場所に位置する。巡礼の発展とともに,フランス人の金貸し,鍛冶屋,馬曳きなどが住み着いて,12世紀には既に栄えた都邑を形成していた。旧市街に残る13世紀頃のロマネスクの建築にローランとフェラグーの一騎打ちを刻んだ柱頭がある。この主題はシャルトル大聖堂をはじめ多くの作品で中世を通じて反芻されるが,テキストは『偽テュルパン年代記』に最初に現れる。同書と『巡礼案内記』が構成する『聖ヤコブの書』別名『カリストゥス本』については,この渡邊昌美に文庫本(中公新書,昭和55年)というスタイルに不釣合いなほど詳細な解説があり,加えて一部は格調高き日本語に移し替えられている。
フェラグーという名の,なんでもゴリアテの血を引く大男がシリアより襲来する。ローランは馬も武器も持たず,げんこつと石だけで応戦する。
この場面を描いたのが下の彫刻であろう。異教徒らしき男が槌のようなものを振り回し,盾をもった騎士が防戦に回っている。威嚇する男は何か叫び,そのグロテスクなまでに異様に大きい頭部は,ある意味,テキストに極めて忠実である。ローランは決してひるんではいない。短剣のようなものを振りかざし,それが喉元に突き刺さった瞬間にも見える。しかし物語ではまだ勝負はつかない。それからフェラグーは睡魔に負けて無防備にも寝てしまう。目が醒めた大男はローランを信用したのか,「俺は臍をやられぬ限り死ぬことはない」と自身の急所について口をすべらしてしまう。この最後の段階を描いたのが上の彫刻であろう。『偽テュルパン』では組み敷かれたローランが渾身の力をふり絞って剣に手を掛けるが,彫刻では二人とも馬に乗って長い槍で戦っている。丸盾の騎士の槍が折れているのに対し,楕円の盾の騎士が右手で持っている長く太い槍は,まんまと丸盾の騎士の腹部に刺さっている。これが臍めがけて剣を突き立てたテキストに対応するのであろう。臓腑に槍が刺さった丸盾の騎士は天を向き叫びをあげ,対してローランは長槍に体重を乗せ,阿鼻叫喚の中、静かにその手ごたえを味わっているかのようである。
当時スペインの北部に勃興した小さなキリスト教国は,国土は山がちで牧羊と林業以外に見るべき産業もなく,鄙びた王国の外見を繕うためにはピレネーの彼方の華やかな宮廷文化が必要だったのだろうか,そんな時代の記憶を呼覚ましてくれる柱頭である。
春期連続講演会「地中海における文明の交流と衝突」講演要旨
アレクサンドロス大王の場合
青柳 正規
西洋の古代史を彩る数々の偉人の中で,アレクサンドロス大王ほど光彩を放つ人物を他に見いだすことができるだろうか。マケドニア王国もしくはギリシアという小国出身の若き王がアケメネス朝ペルシアという大国を征服するという事柄だけでも,血湧き肉躍らせるものがある。しかし,歴史に登場する英雄伝ほど後世につくりあげられた可能性が高い。東西文化の融合をはかったというアレクサンドロス大王の場合はどうなのであろう。
アレクサンドロスが東征という事業を遂行するにあたって,父王フィリッポス2世に負っているところが大であることはしばしば指摘されている。13歳から16歳にかけてヘファイスティオンやプトレマイオスらとともにアリストテレスの薫陶を受けることができたのは父王の配慮であり,彼が集めたネアルコス,ラオメドン,アンドロステネス,アンティパトロス,パルメニオンらは,フィリッポスの死後もアレクサンドロスを助けてその偉業の実現に大きく貢献した。また,東征という構想自体,すでにフィリッポスがイソクラテスの進言に基づいて考えたことであり,紀元前336年,パルメニオン,アミュンタス,アッタロスらを小アジアに先遣隊として派遣し,本格的東征の地歩を固めるための作戦を開始していたのである。さらに,アレクサンドロスの親衛隊ともいえるヘタイロイはフィリッポスが実戦で鍛え抜いた精鋭部隊であった。このような背景もしくは準備段階があったからこそ東征が成功したといえるのである。
というよりも,紀元前4世紀後半,アケメネス朝ペルシアがすでに組織疲労の段階に入っていたことが東征成功の最大の理由と考えられる。広大な領土を有するペルシアは,おそらく3千万程度の人口を有していたと考えられる(これはあくまでも筆者の試算である)。一方のマケドニアとギリシアはできる限り多く試算しても百万のレベルでしかない。これほどに規模の異なる二つの勢力が戦い,小が大を制することができたのはペルシアの側に敗れる理由があったと考えるべきであろう。
しかも,東征開始時点で,アレクサンドロスには500タレントもの借財があり,戦争遂行による戦利品等の獲得によってしか返済の可能性がなかったのである。さいわい,ペルシアの都を征服することによって5万タレントにものぼる黄金を手に入れることができ,アレクサンドロスの経済的困窮は一挙に解決されることになる。そのときまでの困窮は,アレクサンドロスの側にとっての戦争遂行の大きな動機ともいえたのである。
東征が順調に進みつつあるという時点から,アレクサンドロスは自らを神と位置づけるようになる。すでにその兆候は東征出発以前からあった。例えば,デルフォイで「無敵」であるとの神託を受け,トロイでアキレウスとアイアスの墓を訪問し,自らをギリシアの英雄と同一視しようとした。また,リュキア・パンフィリアの海岸の出来事では神の恩寵を確信するようになり,エジプトの砂漠にある神託で有名なシヴァへ足を運び,アモン=ゼウスの息子であるという神託を受けて喜んだという。それらのことがあったからこそ,紀元前328/327年,跪拝礼proskynesisを強要するようになったのである。
この東征の結果,ギリシア文化が西アジアに伝わり,いわゆるヘレニズム文化が成立したとするのは,19世紀ドイツ歴史家トロイゼンである。確かにメソポタミアからスワットまでの広い範囲でギリシア風の建築等を東征以降に見ることはできるが,西アジアが一方的にギリシアの影響を受けたわけでない。それは,その後のパルティアやササン朝の文化の展開をみれば明らかである。
パルティア文化の研究は20世紀に欧米学者を中心に進められ,そのヘレニズム的特質が強調されてきた。これらのトロイゼンの影響下にあった研究は,最近30年間の研究によって見直され,むしろ西アジア固有の要素が根強く継承されていることが明らかにされている。しかも,東征以降,西アジアではギリシア語がかなり普及したと見なされていたが,実際には広域で主要言語として通用していたアラム語が西アジアの広い範囲でも共通語として普及していたことも明らかにされている。
現在の研究動向は,トロイゼン以降のギリシアを中心とする,つまりヨーロッパ中心主義にもとづくヘレニズム像の見直しであり,それ故に,アジア中心主義ともいえる過度な見直しがないわけではない。そのことを前提としながら,アレクサンドロスの歴史上の功績として考えられるのはおそらく以下の4点であろう。
1.アテネにならい銀貨を主要通貨とする。そのことによって「アレクサンドロス帝国」の中の交易が自由となり,地中海全域の経済にも貢献した。2.広い範囲で都市を建設し(70ともいわれる),都市文化を普及させた。3.地理と自然史に関する情報を飛躍的に増大させた。4.ギリシアとアジアが相互に認識を深め,相対化された。
研究会要旨
古代地中海の船
丹羽 隆子
11月13日/上智大学
地中海世界が創造した偉大な叙事詩『イリアス』,『オデュッセイア』,『アルゴナウティカ』そして『アエネイス』は,神話的意匠のもとにエーゲ海や黒海や地中海を舞台にくりひろげられた勇壮な海洋冒険譚でもある。古代の英雄たちは茫漠たる未知の海をどのような船で渡ったのだろうか。詩の言葉の喚起力は読者の想念をひろげるが,当然ながら,古代船の造船法等散文的詳細を開示することはない。そのためそれは長い間不明だった。
しかし近年,地中海の海底から発掘された30隻余の古代の沈没船が復元されて,積年の謎が解明された。それは近代西欧世界が知る“skeleton-first method”とは全く逆の,“shell-first method”だった。先に外板と外板を「ほぞとほぞ穴」で接合して船体を造り,そこへ竜骨や肋材等をはめ込むのである。ちなみに和船の伝統工法も“shell-first method”に近く,堅固に構築されたshellを支える構造部材はほとんど竜骨のみである。
こうした新発見は『オデュッセイア』解釈にも新局面をもたらした。第5巻228-61行は従来,オデュッセウスの「筏造り」の場面と解釈されてきたが,しかしこれは紛れもなく“shell-first method”による「舟造り」の場面であろう。248行目のharmoníaは「ほぞとほぞ穴」。257行目のhúlēnは解りにくいが,揉みほぐした樹皮等を接合部分の間隙に詰める「槙皮」に違いない。ヘロドトス(『歴史』II.96)は,エジプトの川船はharmonía(但しこれは「縫い合わせ」の意)の間隙をパピルスで塞ぐと報告している。和船でも「槙皮」は必ず行う。
さて,トルコの南Uluburun沖から発掘された紀元前14世紀頃の荷物船はシリア,エジプト,ミュケナイ,スペイン等の種々な製品や銅や錫のインゴットを積載しており,当時すでに広域にわたる地中海交易が活発に行われていたことを実証する。一方,内陸ではアルゴリス半島フランクティ遺跡の中石器時代層から,エーゲ海域ではメロス島でしか産出されない黒曜石の刃物が発掘されて,遙か太古の昔から「舟」が存在し,プリミティブであれ海上交易が成立していたことを裏づける。
しかし太古の舟について知る手掛かりは全くない。紀元前3200年頃になると,やっと,メソポタミアのものと考えられる帆船を描いた壺が現存する(大英博物館35324)。そして,クフ王のピラミッド前の船坑から発掘,復元された通称「クフ王の太陽の船」(太陽の船博物館)は,紀元前2550年頃のものである。
建材はレバノン杉。全長31mに及ぶ優美な堂々たるこの川船は,少なくとも紀元前3千年紀の東地中海に,エジプト・シリア間の海上交易を可能にするような堅固な外洋船が存在したことを物語る。人力だけの遠洋航海はあり得ないから,風を孕んだ帆船が東地中海を往来したのだろう。ポリネシアやミクロネシアの海洋民族が最近までカヌーや筏を巧みに操って洋上での漁労に従事していたこと,1000年紀以前のアメリカ原住民に造船文化が全く見出されないらしいこと,などを思えば,古くから発達した造船文化は地中海文明の一大特質である。海図や羅針盤や水路誌等がない時代の航海に,地中海に浮かぶ大小様々な島々は絶好の目印となり,寄港にも便利だった。複雑に入り組んだ海岸線や穏やかな砂浜は自然の良港となった。地中海性気候は4〜10月まで荒天の心配のない遠距離航海を可能にした。船の建材のない地方はそれを求めて航海した。メソポタミアは海路インダス文明の都市ドーラビーラまで遠出し,木材等を運んだ。交易システムは確立され,東地中海文明は継続的に発展した。
紀元前13〜7世紀頃の主要帆船は,片舷に25人の漕ぎ手が座る50櫂船である。コルキスまで黒海を渡ったアルゴ号も50櫂船でだった。ホメロスは,トロイアへ向かうボイオティア軍は120人乗り軍船50隻を用意したと謳う(『イリアス』II.494-510)が,それは50櫂船を基本に漕ぎ座を2段に重ねた二段櫂船であろう。紀元前6世紀末には,漕ぎ座を3段に重ね170人の漕ぎ手が乗る三段櫂船が登場する。紀元前480年のサラミスの海戦でペルシア艦隊を破ったギリシア軍の三段櫂船の活躍は有名である。ヘレニズム時代,アレクサンドリアがインフラを整備した大港湾都市として発展するにつれ,船も大型化した。漕ぎ座は段を重ね,プトレマイオス四世は四十段櫂船を所有したと伝わる(プルタルコス『英雄伝』「デメトリオス」43,プリニウス『博物誌』VII.206-9)。漕ぎ座等どのように組み立てられていたのだろう!? 議論は多々あるが,謎である。
エジプトには「太陽の船」の神話や舟を副葬品とする伝統があり,マルタ島の巨石神殿文化やキュクラデスやミノア文明には舟を崇め,奉納する習慣があった。ギリシア本土のパンアテナイア祭では,祭礼行列の先頭を舟形の壮麗な山車が練ったという(パウサニアス『ギリシア案内記』I.29)。海とともに生きた人々の海への畏れや祈りや憧れが,ひらかれた地中海文化の基底にある。
秋期連続講演会「フィレンツェとトスカナ大公国の都市と文化」講演要旨
トスカナ大公コジモ1世の文化政策
北田 葉子
メディチ家によるフィレンツェ公国の2代目の君主であるコジモ1世(1519〜1574)は,初代公爵であるアレッサンドロが暗殺されたため,若干17歳で君主の地位を継いだ。コジモ1世は,コジモ・イル・ヴェッキオの弟に発する分家の血筋であり,公爵に選出されるまで政治の経験はまったくなかった。フィレンツェ公国自体も共和国から君主国に移行したばかりで,その体制は強固なものとは言えなかった。このような状況の中で,コジモ1世は自らの権力を確立・強化するために,文化政策を利用した。しかしまだ権力の確立期にある治世前期に,コジモはどのような文化政策を行ったのか,そしてそこにはどのような意味が込められていたのであろうか。
まず1539年のコジモ1世とナポリ副王の娘エレオノーラ・ディ・トレドの結婚の祝祭では,コジモ1世がメディチ家の正当な君主であるというメッセージが発信された。メディチ邸の第一中庭・第二中庭につけられたインプレーザ(絵と銘からなる一種の紋章)は,コジモがメディチ家の分家でありながら,「新しい芽」としてメディチ家の黄金時代を復活させることを示していた。そしてエレオノーラがフィレンツェに入ってくるときに通過する市門の装飾には,二つの意味が込められていた。まずエレオノーラの「豊穣さ」と彼女がメディチ家にもたらす子孫が称揚され,メディチ家の支配の永続性が示された。第二に,コジモの父である傭兵隊長ジョヴァンニ・デ・メディチが軍神マルスとして称えられ,その結果その子供であるコジモの支配者としての正当性が主張されたのである。
一方アカデミア・フィオレンティーナは,知識人たちをひとつにまとめるために利用された。もともとは中層市民たちのプライヴェートな集まりであったアカデミア・デッリ・ウーミディは,コジモの側近たちの介入によって,公的なアカデミア・フィオレンティーナへと変えられた。その後もアカデミアはさらに国家の介入を受けて,最終的には国家のための文化機関となっていくのである。アカデミア会員の多くが,その著作や演説などでコジモ政権に協力した。次に述べる「エトルリア神話」を支えたのも,このアカデミアの会員たちである。
コジモは,かつてのコジモ・イル・ヴェッキオやロレンツォ・イル・マニフィコがアカデミア・プラトニカを支援したのに倣って,アカデミアの保護者となり,文芸を保護するメディチ家の君主としてイメージを確立しようとした。さらにコジモはアカデミアにフィレンツェ語の整備を命じて,ダンテ・ペトラルカ・ボッカッチョの三大作家を有するフィレンツェ語をバックアップし,対外的にもフィレンツェ文化の優越性を示そうとしたのである。
三つめの文化政策である「エトルリア神話」は,ノアによって建設されたエトルリア王国をトスカナ諸都市の直接の祖先とし,その約600年後にノアの遠い子孫であるエジプトのヘラクレスがフィレンツェを創建したとするものである。この「エトルリア神話」は1540年代から50年代にのみ利用され,その後フィレンツェは再び中世からの伝統的な「ローマの娘」に戻る。コジモがこのように短期間のみ「エトルリア神話」を利用したことは,当時フィレンツェ公国の政治的状況から説明することができる。第一に,当時フィレンツェはローマと敵対していたため,フィレンツェの起源をローマ以前とする「エトルリア神話」は好都合であったという背景が考えられる。第二に,「エトルリア神話」は,フィレンツェだけでなくトスカナ全体をひとつの起源へと導くものであり,国内を統合する一方で,トスカナ全体へと領土を拡大しようとしていたコジモにとって有益な理論であった。最後に優先権論争がある。優先権とは儀式などにおける使節などの順列争いであり,当時フィレンツェは,各地の宮廷で優先権をめぐってエステ家のフェラーラと争っていた。エステ家はメディチ家に対して,家柄の古さや高貴さなどを理由に優先権を主張していた。家柄の古さでは対抗できないメディチ家は,ここで「エトルリア神話」を利用して,国としての古さ,高貴さを主張したのである。
このようにコジモ1世は,治世前期からさまざまな文化政策を駆使して,権力の確立・強化につとめた。その結果,治世後期にはより壮大な文化政策を行い,ウフィツィやピッティ宮殿のような現在のフィレンツェの町を特徴付けるさまざまな建築をも生み出すことになるのである。
「作者を騙る:19,20世紀における贋作文化」展
和田 咲子
好評につき2004年春まで会期が延長された,イタリアはシエナ派の始祖ドゥッチョの展覧会の記憶も新しく,また隣市のフィレンツェで「ボッティチェリとフィリッピーノ・リッピ」展が華々しく催される中,ドゥッチョ展の会場として新たに整備された,シエナのサンタ・マリーア・デッラ・スカーラ美術館では,これらの中世・ルネサンス画家たちの画法を綿密に研究し,それを“忠実に復元”,“贋造”した,シエナ出身の芸術家たちと職人による100点もの贋作を一堂に展示する「作者を騙る:19,20世紀における贋作文化」展が開催された。(展覧会は2004年10月に終了)
美術史家フェデリーコ・ゼーリが定義するように,贋作とは「人を騙す目的で制作された作品」を指し,まさにイチーリオ・フェデリーコ・ヨーニ(1866〜1946)が,シエナの工房で専門の職人を分業させて模造した数多くの作品はその定義にかなうだろう。しかし,当時からヨーニによる贋作は,「20世紀のアンティーク絵画」と高く評されていた。
更に芸術家自身も,『回想録』の中で,自らが制作した作品について,「アンティーク作品の模造ではありません。模造というのは銀行の偽札紙幣を作る人々のことを言うのです。なぜなら彼等は焼き付け印刷を使用するからです。またはノミを用いてコインを偽造するからです。したがって美術作品を制作する芸術家は,たとえ先代の画家の画法を模したとしても,偽物ではなく,最悪の場合でも模倣作品であって,画家自身が創造する芸術作品なのです。そしてもしも,14,15世紀の芸術作品の特徴を反映させても,特定の画家の技法に従うのではなければ,紛れもない真の創作なのです」と述べている。
事実,ヨーニは逃げ隠れせず,むしろ堂々と贋作の制作活動を公開し,多くの学者や芸術批評家などとも広く交際していた。なかでも,古美術商に騙されて作品を高値で購入したが,それらがヨーニによる贋作と発覚した後も,変わらず画家と親交を深めたアメリカ人美術史家バーナード・ベレンソンは,ヨーニの工房が制作した作品を高く評価し続けた。さらにベレンソンの妻は,「我々は贋作者を探し当てた。彼は,親戚や友人と一緒にグループをつくり,模造作品を作っている。一人がデッサンを,一人が着色を,一人は画面を古めかせる作業を,また別の者は額作りを担当している。
そして子供と大きな犬が,屋外の太陽の下で“熟成”させている絵画の番をしているのだ」と,ヨーニの贋作工房の詳しい記述を残している。展覧会では,その記述を裏付けるように,金箔職人が,シエナ派の板絵の金地背景を飾る文様を研究したデッサンや,方眼紙に模写されたルネサンス画家の作品など,当時の工房の様子を想起させる資料も見ることができる。
また,ベレンソン夫人によって「腕白そうな顔つきをした,とても自由でのびのびした人」と形容されたヨーニの人柄は,当時のイラスト付き新聞記事にも記され,彼がシエナの画家として一目置かれる存在であったことを教えてくれる。ひとつの記事には,「イチーリオ・ヨーニは素晴らしい画家で,古代風の聖母マリアを簡単に描いてしまう」というコメントまで付されている。
しかし,このように絶賛されたヨーニ及びシエナの工房による贋作品の展覧会を,ヨーニ研究の第一人者ジャンニ・マッツォーニの監修の下に21世紀に改めて一堂に観ることには,別の意義があると考える。それは,マリオ・プラーツが述べる「時代の解釈と趣味を結晶化した」ために同時代人には見えなかった,「重ねられた要素」を発見する,という作業である。プラーツは,時代の中で気づかれなかった贋作者自身の個性について,「ハイド氏の顔から少しずつジキル博士が透けて見えてくるのとそっくりに,贋作の仮面の下から贋作者自身の顔が少しずつ現れてくる」と,その表出を鋭く指摘し,贋作者が過去の画家の精神までも模倣し,忠実に作品を再創造したつもりで仕上げたとしても,最後には必ず「彼その人の美の観念,彼自身の趣味」がそこに投入され,「贋作者自身の時代の刻印を帯びること」によって,命取りとなると述べている(『ムネモシュネ』高山宏訳,ありな書房,1999年)。そして「時代」というフィルターを通しておこなわれる贋作制作は,常にその時代が持つ価値基準や批評に大きな影響を受ける。したがって今,我々がヨーニの作品を観ることは,前世紀の鑑賞者のそれとは大きく異なるのである。尚,今回の展覧会に合わせて英伊語対訳で再刊されたヨーニの『回想録』(Icilio Federico Joni, Le Memorie di un pittore di quadri antichi, Siena 2004)は,19世紀後半から20世紀前半にかけて,贋作者の技量を高く評価する鷹揚な美術批評を背景に,贋作絵画を芸術へまで高めた,と自負した画家の世界を垣間見る資料として重要である。
自著を語る40
『黒マグロはローマ人のグルメ』
成山堂書店 2004年3月 320頁 2,730円
田口 一夫
先ずお礼を申し上げたいのは,本月報が非会員である私に著書紹介の場を与えてくださったことである。
本書は海の技術史の観点からまとめたが,その背景としての歴史的記述を欠かせないので,俄勉強をしてどうにか辻褄を合わせたつもりである。だがそれは史家の批判に耐え得るとは思えないので,学会員諸氏の教示を頂ければ幸である。
私の研究分野は,電波を使って船の位置を決めることで,電子工学に主軸を置いている。マア,歴史とは全く無関係であった。また,ある程度の乗船経歴と漁業の基礎知識はあるつもりだから,それらの視点で古代地中海史を展望してきた。本書は素人史家の筆のすさびであるが,海の技術史の新分野と見て頂きたい。
退職後に始めた技術史書の執筆は10年間の経歴しかない。本書の前に,『ニシンが築いた国オランダ』(成山堂書店)を上梓した。16世紀のオランダの繁栄は貿易の成功のお陰だが,輸出商品の一つであった塩ニシンは優れた加工法のために,一年間も保存できたので地中海へも多く送られた。塩辛いニシンを受け入れた素地は,ここの住民が塩マグロを食用にしていたからである。両地間の交流は定常化し,北と南の航海技術の融合から新しい船型が生まれ,次の大航海時代に対応していった。
20年前に訪れたポルトガル南部の博物館で,マグロを獲る大型定置網の模型と漁を描いた壁一面の油絵を見つけた。この漁法はわが国が世界で唯一の技術を持っていると教えられてきたのに,その網はわが国のマグロ網の規模を上廻るものであった。それどころかジブラルタル海峡で獲れた黒マグロは,ほとんど全部が日本に送られサシミになることも知った。今でこそ,この地方のマグロ漁は度々TVに登場するほどに有名だが,当時は関係者だけの知識だった。
これを契機としてポツポツと資料を集め始めるが,素人史家にはどこからアプローチしたらよいか全く不明であった。結局地中海の歴史書を読みながらマグロをキーワードとして,参考文献を辿るしかなかった。換言すれば,系統的に記述された資料を見つけられなかった。
そうして探し当てたのが,アテナイオスの「食卓の賢人たち」であり,Loeb叢書であった。前者によりマグロがギリシア・ローマ人たちのグルメとしてもて囃されていたこと,また後者では当時の「釣漁術」は現代の釣りの本に匹敵するほど魚の生態を究めていたことが分かった。しかし挿図が全くないのには参った。
そこで当時のモザイク・フレスコ類に描かれた漁法を調べれば,マグロは釣るのか,網で獲るのかが分かると思った。竿・網・銛による漁は描いてあるし,多くの魚の絵も見つかったが,肝腎のマグロが一尾も登場しないのには困惑した。ギリシアからシチリア・タラゴナそしてチュニジアと廻って,やっと探し当てたマグロの絵は壺絵(ベルリン古代博物館)で,本書のカバーを飾ることができた。しかしモザイクは細部の描写が不得意のためか,漁業技術の実際を描ききっていない。
描写の緻密さと正確さでは,時代を遡ったエジプトのレリーフにある漁業と加工の図の方が優れていると思った。例えば網の構成,魚の開き方から乾燥までも明確であるし,さらにカラスミにすると思われるボラの卵巣が多数描いてあるのを見つけたときは快哉を叫んだ。
こうして悪戦苦闘している中に,知人たちからの資料(現地での出版物)などに助けられて,当時の黒マグロ漁の姿が次第に浮かび上がってきた。
文字史料以前から,産卵回遊してくるマグロは人々の生活に深く入り込んでいたのである。シチリア島の小島の洞窟にある2万年前の岩壁画は,一見してマグロと分かるほどに優れた描写だし,同時代のエーゲ海の小島にはマグロの骨で作った釣り針(本書に図載なし)が多数残っていた。
さらに,ヘロドトスの採り上げたデルフィの神託には,「月明の夜マグロの群れが(投網に)躍り込もうぞ」(松平千秋訳)とある。神託とマグロの関連を知りたいところだが,マグロの社会的地位が推しはかれよう。それどころか,先の岩壁画の近くの漁場の漁師たちは,今日でもマグロ漁の始まりに当たりこの言葉を唱えている。2500年前の伝承が今も生き続け,マッタンツァ(マグロ漁)の雄叫びは原始の血を沸かすのであろう。
このように古代地中海のマグロの生産・加工の技術史に焦点を置き,それ以後の歴史的発達まで言及した。資料採取の中で小さい情報を綴り合わせていくと,古代地中海人がいかにマグロを慈しんできたかを痛く感じるのである。著者としては本書の構成に苦しんだが,次々に新しい事実が見つかり内容が豊かになるにつれ,執筆を楽しんだことも申し上げねばならないだろう。