学会からのお知らせ
*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
地中海学会では第10回「地中海学会ヘレンド賞」(第9回受賞者:京谷啓徳氏)の候補者を募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(50万円)が授与されます。授賞式は第29回大会において行なう予定です。申請用紙は事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2005年1月11日(火)〜2月14日(月)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。
*第29回地中海学会大会
第29回地中海学会大会を2005年6月25日,26日(土,日)の二日間,静岡文化芸術大学(静岡県浜松市野口町1794-1)において開催します。
大会研究発表募集
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2005年2月14日(月)までに発表概要(1,000字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
*会費納入のお願い
今年度会費を未納の方には月報274号(11月)に振込用紙を同封してお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
ご不明のある方はお手数ですが,事務局までご連絡ください。振込時の控えをもって領収証に代えさせていただいておりますが,学会発行の領収証を必要とされる方は,事務局へお申し出ください。
会 費:正会員 1万3千円
学生会員 6千円
振込先:口座名「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313
*会費口座引落について
会費の口座引落にご協力をお願いします(2005年度会費からの適用分です)。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされていない方,今年度(2004年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報274号(11月)に同封してお送り致しました。
会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。
会員のメリット等
振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
毎回の振込み手数料が不要。
通帳等に記録が残る。
事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:
2005年2月21日(月)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2005年4月25日(月)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
事務局冬期休業期間:
2004年12月25日(土)〜2005年1月10日(月)
研究会要旨
金箔ガラスにみる殉教聖女アグネス崇敬
藤井 慈子
10月16日/上智大学
殉教者アグネスの名は,4世紀前半のローマ教会の暦,「殉教者の祝日表Depositio Martyrum」に最初に登場する。その暦には,アグネスの祝日が1月21日,聖女の埋葬地ノメンターナ街道において祝われたことが記されている。また同4世紀に,ローマ司教ダマスス1世,ミラノ司教アンブロシウス,ラテン詩人プルデンティウスによって捧げられた賛歌において,聖女の殉教と美徳が讃えられている。それによると,聖女アグネスは,未だ両親の庇護下にあった12〜3歳の少女でありながら,迫害者の脅しに屈せず,その処女性の危機にあっても免れ,ついには火刑もしくは斬首刑で殉教を遂げた。幼いながらゆるぎない信仰,勇敢かつ貞淑,その姿は時にキリストの花嫁にたとえられる。賛歌が紡ぐ言葉は,その殉教の経過をつぶさに伝えるものではないにせよ,水面に次々と波紋を生みだす飛び石のように,聴く人の心にアグネスの姿を呼び起こした。このことは,304年頃と推定されるアグネスの殉教が,真正な殉教者伝として残っていないものの,当時口承によって既に広く流布していたであろうことを物語っている。
アグネスへの崇敬は,コンスタンティヌス帝が娘コンスタンティナに請われて献堂したとされる,ノメンターナ街道のバシリカにも顕彰されている。聖女の墓の傍に,コンスタンティナの霊廟と共に建てられた競技場型バシリカは,約98m×40mの堂々たる建造物で,かのプルデンティウスがローマ巡礼で目にしたとされ,また堂内を飾っていたというアクロスティックな賛歌では,「教会中の教会」と讃えられていた。
より民衆レベルでの崇敬は,ローマのカタコンベにおいて,簡素な棚状墓を塞ぐ漆喰に貼られた副葬品または目印の中にもみられる。すなわち,金箔装飾(時に赤や青などのエナメル彩も加筆)が2枚の透明ガラスに挿入された,直径10cm前後の円盤型ガラスである。これらは金箔ガラスvetri doratiと総称され,現在約460点が確認されている。ただし墓に貼られたのは二次的で,元来は記念品の碗や杯などの高台部分であったとみなす見解も根強い。多種多様な主題を有する金箔ガラスの中で,アグネス像20点を含む聖人像グループは約160点ある。同グループの特徴は,聖人別の描き分けや個別のアトリビュートがなく,男性ならば哲学者,女性ならばオランス像といった,肖像というより象徴的な姿で描かれていること,各聖人像に名前が銘記されていることにある。聖人同定の鍵となる名
前は,男性30女性3の計33あり,二大使徒,3〜4世紀のローマおよびカルタゴ教会関係者,殉教者の他,文献史料で確認されない名前も含まれる。たとえば女性3名の名前はアグネス,マリア,ペレグリナだが,最後の人物については,何ら記録がない。このような聖人像を有する金箔ガラスは,教会や帝国側の史料からは窺いしれない民衆レベルの聖人崇敬の貴重な手がかりと捉えうる。そこで33の名前を対象に聖人の頻度を算出することで,特に崇敬を集めたとみられる聖人を探ったところ,二大使徒ペトロとパウロが60点以上,殉教聖女アグネスが20点,ローマ司教シクストゥス2世が15点と上位を占めることが判明した。
金箔ガラスのアグネス像は,両手を胸の高さまでかかげ,掌を天に向けて立つ祈りの姿勢,オランスを取り,髪は頭頂部に結い上げるかベールで覆い,耳や首は美しい装身具で飾り,身体は豪華な刺繍が施されたトゥニカとパッラで足下まで覆っている。その姿は若い乙女のようであり,また豪華に着飾っている点で,リベリウス時代の大理石障壁中央部の浮彫りにある幼さを残したアグネス像とは異なる。また後代の小羊を伴う姿とも異なる。アグネス像には単身のものから三人組のものまで現存するが,圧倒的に多い単身像では,両側に若木または鳩の載った柱がシンメトリックに配されている。若木は天国の庭の象徴,柱は教会の象徴とみなされ,アグネスが神の国で人々の救済を祈る姿,あるいはその救済を喜ぶ姿と考えられている。特筆すべきは,頭に光背を有する事例が3点確認されることで,これは二大使徒にもみられない。二人組では,マリアとのペアで登場し,二人並んだオランス像の他「向き合う胸像」がある。この構図は,金箔ガラスの男性聖人,特に二大使徒の胸像で一般的だが,女性聖人では唯一の事例である。三人組では,両側に二大使徒をはじめ,二人の男性聖人の胸像や立像を伴う形がみられる。
金箔ガラスのアグネス像は,その殉教を知る手がかりとはなりえない。しかし,簡素な墓からの出土,二大使徒に次ぐ頻度,二大使徒やマリアとの組み合わせ,他の聖人と一線を画す光背の付与など,ローマにおける民衆レベルでのアグネス崇敬の証左として興味深い。
スペイン神秘思想の特質とベラスケスのボデゴン
諸星 妙
スペインでは,16世紀後半に,神秘思想が大きな隆盛を見せた。神秘思想は,13世紀末から14世紀初頭にかけてのドイツのエックハルトに代表されるとおり,スペイン以外のヨーロッパ各国では中世に最高の結実を見せたが,ルイス・デ・グラナダ,ルイス・デ・レオン,サンタ・テレサ・デ・へスス,サン・フアン・デ・ラ・クルスなどの傑出した神秘思想家たちの出現により,スペインでこの運動が大流行したのは,それよりも約3世紀後のことだったのである。この時間的な遅れは,スペイン神秘思想の特異性を考える上で,極めて重要な問題をはらんでいる。
スペイン神秘思想の起源については,ユダヤ教やイスラム教を源泉とみなす説や,国土回復運動によって蓄積された宗教的感情が文学表現に向けられたとする説など諸説あり,問題の性格上,また,資料の不足ゆえ,決定的な判断を下すことは難しい。しかし,内密で個人的な神秘主義的傾向は,早くから,スペインに存在していた。「照明派(alumbrados)」と呼ばれる,16世紀前半の霊的運動がそれである。この照明派は「専心派(recogidos)」と「放棄派(dejados)」の二派から成り,あらゆる知識や表象を無化し自己内部を純粋化することにより,魂の神との直接的な一致を追及することを究極の目的とする。16世紀前半のスペイン,特に,1520年代のアルカラ大学を中心とする知識人たちの間では,エラスムスの著作が大きな流行を見せたが,形式的儀式を重視せずに内的な信仰を追及するという点で,これらのスペイン・エラスムス主義者たちの関心は照明派と近かった。1524年にスペイン語に翻訳されアルカラで出版されたエラスムスの『キリスト教徒兵士綱要』が照明派によって熟読された事実が示すとおり,両者の間には緊密な関係が結ばれていたのである。スペインを代表する神秘思想家のサンタ・テレサ・デ・ヘススの思想形成に多大な影響を与えたのは,このような流れを汲む専心派のフランシスコ・デ・オスーナであった。1527年にトレドで出版された彼の『霊的アルファベット第三書』は,内的な祈りを基調とする神秘道を説くもので,サンタ・テレサの生涯を通じての愛読書となった。すなわち,スペイン神秘思想の成立には,エラスムス主義と照明派の結びつきにより醸成された宗教的内密主義が,ひとつの大きな源流として存在していたのである。
しかしながら,スペイン神秘思想の特異性は,
トレント公会議以後の対抗宗教改革運動が重要な契機になって発現したという点にこそ,見出されるべきである。神秘主義は確かに,教会の形式主義に対する反動として生まれた本来的に内密なものであったが,カトリック教会の擁護を目的とするこの改革運動は,その砦であったスペインにおいて,内密主義と教会活動の実践という,まったく相反する二つの要素の融合をもたらした。トレント公会議は,人間が信仰のみならず善行によっても救済を確保されることを規定しており,対抗宗教改革運動と直結しながら16世紀後半に遅れた結実を見せたスペイン神秘主義は,観照的態度と共に慈善的な活動をも怠らない点で,他国には見られない全く独自な性格をもつのである。
この傾向は,特にサンタ・テレサの著作に明確に示されている。テレサは『完徳の道』(1562年頃)や『霊魂の城』(1577年)で,ルカ福音書に登場する二人の姉妹マルタとマリアを繰り返し取り上げ,活動と観想,或いは,善行と信仰の象徴と伝統的に考えられてきた二人の姉妹について,その双方が共に必要であるという主張を展開した。深い内省と,32もの修道院を設立するという情熱的な教会活動の実践との二つの相反する要素の統一により,自らの生涯でもってこの教えを体現したテレサは,極めて魅力的な人物として,人々から幅広い支持を得た。一方,経済の疲弊が進み,貧しい者たちが大量に溢れる16世紀後半から17世紀前半にかけてのスペイン社会の中では,貴族たちもまた,活動の必要性を強く意識し,修道院や施療院の創設,貧しい者への施しや様々な慈善活動を積極的に行うことで,徳目の実行に勤めた。
以上のようなカトリック擁護運動の砦であった16世紀後半のスペインの特殊な状況と,その中で育まれた神秘思想の特異性を踏まえるならば,その流行と時をほぼ同じくして描かれ,上流階層の貴族たちによって蒐集されたベラスケスの通称「ボデゴン」が,このような時代の思想と無関係であったとは考えられないであろう。特に,活動する庶民を前景に据え,その背後にマルタとマリアの物語を描く《マルタとマリアの家のキリスト》(ロンドン,ナショナル・ギャラリー)は,活動を重視するサンタ・テレサの思想との密接な関係を想起させるのである。(ベラスケスのこの作品に関する論文は,2004年11月刊行の『美術史』157冊に掲載予定である。)
グリカ・ネラの事件簿
──岩室墓の殺害?──
高橋 裕子
一般に告訴常習者と訳される古典ギリシア語のシュコファンテスは,現代では中傷者といった意味になる。“中傷する,名誉を毀損する”という意味の動詞はシコファント(συκοφαντω),その名詞はシコファンティア(η συκοφαντια)となる。日常ではあまり使われることのないこのシコファンティアという言葉を,私はグリカ・ネラというギリシアの発掘現場で耳にした。
グリカ・ネラは,アッティカ中央部に広がるメソギアの北東部に位置する静かな街である。アテネの中心部から路線バスで行く場合にはまずアギア・パラスケヴィまで行き,そこでコロピの方角,すなわちメソギアを南へと縦断する路線へと乗り換えることになる。アギア・パラスケヴィの立体交差点を右折してバスが南下を始めたら,ほどなくグリカ・ネラが見えてくる。
1991年,子供たちがこの街でミケーネ時代の岩室墓を発見した。場所は私有地。建設途中の工事現場であった。警察に連絡が入り,ただちに担当の考古局が調査をすることになる。そしてそれを発端にその付近からは続々とミケーネ時代の墓が見つかることになり,現在ではその数は50を超えた。そのうち20基以上が岩室墓であり,その中で最大のものはドロモス(羨道)が24メートルもある大規模な造りである(Corpus, 33(2001), 6-7)。さらには未だ詳細は不明であるが,本来私が専門とする幾何学文様期の墓も見つかっているという(BCH, 123(1999), 657)。
アッティカのミケーネ時代は影が薄い。確かにマラトンやトリコスなどトロス墓をともなう人目を引くような墓域も発見されてはいるが,それでも他地域に比べれば総じて印象は弱い。そこにこれだけの墓地が発見されたのである。当然のことながら期待は高まる。しかしグリカ・ネラが注目を集めたそのわけは,純粋に学問的な理由のほかに,もう一つ別の事情が存在した。
グリカ・ネラに関する新聞報道は,子供たちが最初の墓を偶然に発見したときから既に始まっていた。1991年5月18日付けのエスノス紙やアポゲヴマティニ紙は,子供たちの写真入りで第一報を報じている。しかし主要紙が一斉にこの遺跡を取り上げたのは,そのあとのことである。緊急調査のあと当局がその土地に建物を建てる許可を出したことから,遺跡保存をめぐる議論に火がついた。今私の手元にある1991年からその翌年にかけての35の新聞記事の中には,遺跡を保護する立場にある考古局が,まるで遺跡に害を加えるようなことを行っているかのような印象を与えかねない厳しい内容のものが幾つもある。「考古学的犯罪」といった言葉は読者にそのようなイメージを植え付けたであろうし(エピケロティタ紙,1991年10月19日),また幾つかの記事はテッサロニキの考古学者が使用したという「考古学的核爆弾」という表現で,この遺跡の重要性をセンセーショナルにアピールしている(たとえばアヴリアニ紙,1991年10月15日)。1992年6月にはこの一件は検察のもとへと持ち込まれる事態へと発展し,また事件発生から2年たった1993年になってもまだこの問題を取り上げる新聞があった(AR, 1993-1994(1994), 9)。
この遺跡の調査に参加させて頂くことになったとき,私はアテネにあるアメリカの研究所で一連の記事を見つけ,こんなことがあったのかと驚いた。ある日調査担当者にそのことを尋ねてみたところ,「みんなデマ(シコファンティア)だよ。今度記事のコピーを持ってきて」という答えがかえってきた。事件当時から考古局側の見解においては,このシコファンティア(誹謗,中傷)と言う言葉が用いられている(たとえばカシメリニ紙,1992年6月12日)。一度彼らの言い分をじっくり聞いてみたい。しかし毎日発掘現場を訪れることさえ難しい多忙なその人と,この件について再び話しをする機会は訪れなかった。
もしも自分の家を建てている最中に遺跡が出てきたとしたら,または逆に自分が許可を出す立場にいるとしたら,私はどんな判断を下すであろう。ともあれ丁寧な調査と詳細な報告,それがおそらくこの遺跡が現代に生きる最良の方法なのではないか。
ローストチキン復活の奇蹟
金沢 百枝
絵の中に食事の場面があると,つい見入ってしまう。脇役として登場する食べ物の味や香りを想像すると,画中の人々がより身近に感じられるような気がするからである。「カナの婚宴」から「最後の晩餐」までキリスト伝に食事場面は必須だし,トリュフを探したという聖アントニウスの豚など聖人伝も食べ物のエピソードに事欠かない。
食べ物という身近な「物差し」を使うと,奇蹟を目のあたりにしたときの驚きもまた,実感をもって感じとることができる。挿図は,コルマールのウンターリンデン美術館所蔵の板絵,《ローストチキン復活の奇蹟》(聖ヤコブ伝の画家,1480年頃)である。丸鶏はこんがりと美味しそうに焼け,部屋にはローストチキンの香ばしい匂いが満ちていることだろう。もしも我が家の台所で,その状態のチキンが生き返ってしまったら,確かに腰を抜かすに違いない。しかし,なぜローストチキンなのだろうか。
この奇蹟譚を説明するためにはまず,聖ヤコブ伝を紐解かなければならない。教皇カリストゥスが語っているのは以下のような物語である。
ある裕福なドイツ人の父子がサンティアゴ巡礼に向かう途上,トゥールーズで宿をとった。邪まな宿屋の主人は彼らが裕福なのをみて,その所持品欲しさに一計を案じ,酒で歓待し泥酔させた。朝になって再び旅を続けていた親子は,突然,制止された。宿から高価な杯が盗まれ,彼らに嫌疑がかけられているという。実は夜中に宿屋の主人がこっそり入れておいたものなのだが,荷物の中から盗品が発見され,息子は縛り首にされてしまった。父親は涙にくれながら巡礼を続け,聖ヤコブの墓までたどり着いた。36日後,サンティアゴからの帰路,父親は再びトゥールーズを訪れた。そして息子の遺体が吊るされたままになっている絞首台のそばで激しく泣いていると,突然,死んだはずの息子が口をきいて,父親を慰めはじめたのである。聞くと,聖ヤコブが息子の身体をずっと手で支えていてくれたという(楽園の食べ物で養ってくれたという説もある)。
ここまでが聖ヤコブ伝に語られている奇蹟譚の概要だが,この話はとても人気があったらしく,さらに別の話が流布した。そちらの物語では,舞台はトゥールーズからサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサダ(スペイン)に移り,物語はさらに続く。
さて息子の復活に狂喜した父親は,すぐさま市長のもとに赴き,奇蹟を報告する。だが,自ら刑を下した市長は全く信じず,食事を邪魔されて苛立ったのか,市長は「息子さんはこのローストチキン同様死んでしまってるんだよ。もしこのローストチキンが飛ぶことがあれば,信じてもよいがね」とさえ言うのである。ところが,この言葉が発せられるや否や,こんがり焼かれていた丸鶏は蘇り,白い羽根をばたつかせはじめたという。
コルマールの絵は,まさにそのローストチキン復活の瞬間なのである。画面左側は,父親が巡礼のマントをひるがえし,食事中の市長夫妻を訪れたところを表わしているのだろう。犬は予期せぬ訪問者に吠え立て,酌とりはそ知らぬ顔で自分の職務をまっとうしている。画面右側は奇蹟の瞬間を表わしており,女中は串焼きを廻す手を止め,生き返った鶏を呆然と見送っている。
こちらのバージョンがさらに面白いのは,杯を息子の荷物に隠す人物が,宿屋の主人からその娘に変わっていることである。娘は巡礼の息子に恋をし,誘惑するが拒絶されたため恨んで報復するのである。恋愛という動機の方が説得力があるから不思議だ。現在でもサント・ドミンゴ・デ・ラ・カルサダの大聖堂では復活した二羽の鶏の子孫を飼育しているというが,人々が実際,奇蹟の物証たる鶏を目にすることができるというのもまた,奇蹟に対する親近感をいや増しているのだろう。縛り首にされた若者が蘇るという奇蹟だけでも驚異的なはずなのだが,ローストチキン復活の奇蹟がおまけに加わった方が信じやすいような気がするのは筆者だけではなく,中世の人々も同じだったのだろうか。
それにしても気になるのは,市長夫妻の食事である。食べようとしていたチキンが消え去った後,いったい何を食べたのだろうか。
聖ヤコブ伝の画家«ローストチキン復活の奇蹟»1480年頃
自著を語る39
『バスクとバスク人』
平凡社 平凡社新書221 2004年4月 222頁 780円
渡部 哲郎
最近のバスク住民「愛着度」に関するアンケート調査がある。現在のヨーロッパ住民についてヨーロッパ市民,各国「国民」,各地方・地域「住民」の三層化したアイデンティティから分析する方法に基づく。その調査(2004年4月 バスク統計研究所)によれば,居住する町への「愛着度」が93%であるのに対して,バスク─94%,スペイン─56%,ヨーロッパ─47%である。過去の結果からも,国籍のあるスペインおよびヨーロッパへの「愛着度」が減少する傾向にある。ちなみに,スペイン全体ではスペイン─97%,ヨーロッパ─67%であり,EU主要15か国平均では,88%,58%となる。生まれ故郷や現居住地の「住民」が身近なものであるとしても,バスクには強い愛着があることが分かる。この数値は民族意識の表出だけと考えていいだろうか。
また昨今,ビルバオ市を中心にバスクの都市はビルバオ・グッゲンハイム美術館に代表されるように斬新なデザインの建築や施設を配した,文化による都市再生の例として取り上げられている。特異な民族,言語,文化が象徴するバスクが今や「新しさ」のモデルになっている。これらの例示は「古臭さ」と対峙し,バスクの両面性,つまり古臭い粘着性と新規なものを追及する開放性が「バスクらしさ」にあることを物語っている。
拙著『バスクとバスク人』においてその「バスクらしさ」の形成を,種族,言語,宗教,習慣,家,法など,この地域を構成する基本諸要素について検証した。これらの要素が絡みながら内部には強力な求心力になっていることがわかる。さらにバスク人が生活のなかで得た技術──牧羊,鉄加工,捕鯨,操船など──はバスク内部の制度的な制約──長子相続など──から外に活躍の場を求めざるをえない人々によって有効に生かされた。その結果,面積的にも人口的にも小さなバスク人の「くに」はイベリアを越えて新世界各地と結ぶネットワークを形成するようになった。外へ出て行くバスクの「開放性」は,また一方では強い「バスクらしさ」,つまり民族としての自信また優位さを保つことで,内への求心力を増すことになった。近代以前のバスクは小規模ながら大なる「カスティーリャ(=スペイン)」の世界を舞台に,中心であったカスティーリャ王国の衰退を尻目にスペイン世界の拡大の使命を継続した。
このようなバスクの「開放性」の財産は近代以降,別個のパラダイムの中でも展開して行く。ビルバオを中心にバスク社会はイベリア半島内においてカタルーニャ地方とともに唯一産業革命を経験した。19世紀後半から20世紀へのバスク社会の変貌が従来のスローなものでなかったことは産業革命前と後を数字で比較しても容易に推察される。この変化に対して伝統的なものをベースに打ち勝とうとする新しい運動が登場した。バスク民族主義の萌芽である。バスク企業の活動には重工業ゆえに豊富な資金と政治力が必要であった。バスクやカタルーニャは経済の中心と成り得たが,政治は首都マドリードが牛耳っていた。政治力を頼るバスクの保守主義はスペイン全体のなかでも特異な存在になった。バスクの地にはスペインを代表する資本家を中心にした保守主義,工業労働者が加わる社会主義,それにバスク民族主義が割拠することになった。それぞれ異なった特質をもつが,同じバスク人として合従連衡する場合もある。この協力について近代以前の歴史的体験を理解することが役立つ。古臭さへの愛着と自信が外の世界へ羽ばたく確信に繋がる。歴史に学ぶことで未来が拓かれるのである。
バスク近現代史は外来思想をめぐる格闘,自己の伝統との葛藤の歩みでもあった。そして民主主義の実現こそが成功に導くことを学ぶ。地方分権,地方自治は民主主義と共に現実のものとなった。この特権も,あのスペインが黄金世紀を迎えた大航海時代からの「フエロス(地方特殊法)」に由来する。フエロスの付与は社会的慣習を法として扱うことを意味した。地域の慣習は当地の独特な「家(カセリオ)」の掟に基礎を持ち,これが取り巻く社会全体の規範となり,周辺の王権がこれを「自治」として認めた。政治面では途切れたが,経済特権は維持され,今日は双方を含む「地方自治」として開花した。独特な「地方らしさ」がもともと土壌にあったからである。
筆者はバスクの歴史や政治・社会を包括的にとらえたことで,テロ事件がイメージする急進的な民族主義の「バスク」だけでないことを示した。バスクを論ずるにあたってバスク人およびバスクの歴史がもつ民族的な粘着質なものと開放性をいかに絡めるかが今日のバスク問題を解く鍵,と考える。その鍵を解く場ビルバオには外からの諸々の要素を取り入れながらバスクらしさを失わない「空間」があり,進化を続けている。それゆえにビルバオにこだわってバスクを論じて行く。
表紙説明
旅路 地中海8:リミニのアウグストゥス記念門/渡邊 道治
「すべての道はローマに通じる」の言葉が示すように,ローマはその領土を拡張すると同時に,主要な幹線となる街道を帝国全土に整備していった。そうした街道が人,物,情報の重要な道であった。主要な街道は紀元前4世紀頃より順次建設されていったが,当然のごとく維持管理と修復を必要とした。イタリアにおけるこうした街道の修復,とりわけローマから北東に延びるフラミニア街道の修復工事に対する感謝の意を表するため,元老院の名のもとに建設されたのがイタリアのアドリア海に面するリミニの南東側入り口に立つアウグストゥス記念門である。アウグストゥスへの献辞がこの門の市外側のアティック部分に残され,ディオ・カッシウスの残した文献の中にも見ることができる。
リミニ,古代名アルミヌムは紀元前268年にラテン植民都市として建設され,共和政時代の市壁で囲まれていたが,紀元前27年,二つの塔の間の市門を現存する記念門に建て替えた。同じ年にローマの北側に架かるポンテ・ミルヴィオの上にも同様の目的で記念門が建てられたが,現在その姿を見ることはできない。つまり,フラミニア街道の出発点と終点に同じ人物の業績を顕彰する目的で記念門が建てられたのである。リミニの門では,3世紀に両側の塔が建て替えられ,中世に現状に見るような狭間胸壁がアティックの上に付け加えられた。
この記念門はトラヴァーティンの石材による積石造で,全体の幅は15mほど,高さは18m弱,中央アーチ幅は8.84m,奥行き4.1m,アーチの高さは10.23mである。基壇の上にコリント式の半円柱の付け柱が立ち,梁の上には三角破風が,さらにその上にアティックが載る。スパンドレル部分,すなわちアーチと円柱に挟まれた部分にはそれぞれ円形のメダリオンが配され,市外側右手にアポロン,左手にユピテル,市内側右手にローマ,左手にネプチューン,合計四つの神の彫像がその中に置かれている。コリント式円柱の高さはその下部直径のまさしく10倍をなし,オーダーでアーチを枠取り,その上にアティックが載る意匠でありながら三角破風をつけているのはきわめて特異な立面意匠である。厳密な比例関係へのこだわり,アーチを枠取るオーダーに三角破風を付ける意匠には,ローマ帝政最初期の建造でありながら,ギリシア・ヘレニズム建築の伝統が色濃く残されている。
ルネッサンス時代になってこの記念門はアルベルティによって突如として光りを当てられた。彼は同じリミニの領主ジスモンド・マラテスタのためのサン・フランチェスコ聖堂(1450?〜1461年)の正面1階部分にこの記念門の立面意匠を取り入れている。基壇の上に載る半円柱のコリント式オーダーがアーチをなす正面入り口を枠取り,スパンドレル部分には円形のメダリオンがはめ込まれ,オーダーの意匠はアウグストゥスの記念門に類似している。
リミニのアウグストゥス記念門は同じ目的を持ってローマに建てられた記念門と対をなすという地理的,空間的な繋がりをもつ一方で,ギリシア・ヘレニズム建築の伝統を受け継ぎ,ルネッサンス時代の聖堂へと,時間的な繋がりも見せているのである。