の英雄たちは,どのような船でエーゲ海や東地中海や黒海を渡ったか? その建造法や策具はどのようなものだったか? 数年来とり組んできた研究成果の一端を,海底考古学の新知見も交え,各種文献史料や図像を基に報告したい。
*第29回地中海学会大会
第29回地中海学会大会を2005年6月25日,26日(土,日)の二日間,静岡文化芸術大学(静岡県浜松市野口町1794-1)において開催します。
大会研究発表募集
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2005年2月11日(金)までに発表概要(千字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
「銀の道」はローマ帝国がスペイン北部で採掘された金銀などの豊かな鉱物資源をローマに運ぶために築いた石畳の道である。スペインの南北を貫くこの道は,アストゥリアスのヒホン市からアンダルシアのセビーリャを結ぶ全長850キロメートル。オビエド,レオン,アストルガ,サモラ,サラマンカ,カセレス,メリダなど歴史的に重要な町が連なっており,サンティアゴの巡礼路と並んで重要な「歴史の道」を構成している。カディスの沿岸からカンタブリア海沿岸へと続くこの道はすでに先史時代から使われていた。タルテソス人たちがこの道を使い,ハンニバルはこの道を通ってローマとの戦にのぞんだとされている。カルタゴとの3度に及ぶ戦い(ポエニ戦争)によってイベリア半島を手中に治めたローマのイスパニアにおける最盛期は1世紀から2世紀半ばにかけてと考えられており,この時期にイベリア半島にはセゴビアの水道橋を初めとするローマの優れた建造物が建設された。「銀の道」の主要な部分の舗装工事も丁度この時期と重なっている。「銀の道」はローマ帝国の軍事目的に,またビエルソ(Bierzo)で産出した鉱物資源を輸送するために整備され,活気ある交通路となっていった。この道に沿ってローマ人はサラマンカ(Helmantica),サモーラ(Ocellum Duri),アストルガを建設した。中世にもレコンキスタの重要な交通路であり,さらにもっと後には独立戦争時において対フランスの軍事経路として重要な役割を果たし,現在もスペインを南北に縦貫す
る主要交通路として使われている。
レオン県アストルガ郊外に残るローマ時代の石畳の道は「銀の道」の面影を残している。アストルガはローマ時代にはAsturica Augusteaと呼ばれた町である。「銀の道」と「サンティアゴの巡礼路」はこの町で交差しており,スペインのローマ帝国時代と中世が交錯する,まさに歴史の峠道である。今日ではガウディが改築を行った司教館があることで有名だが,ローマ時代にはガリシア地方やカンタブリア地方の鉱物資源をセビーリャ経由でローマに運ぶための重要な拠点であり,紀元前2世紀にはすでに,石畳の道が築かれていたと言われている。「銀の道」の建設はローマ人によって1世紀に始まったとされ,アストルガとブラガを繋ぐ石畳の道(la Via Nova, la Via Augusta)が最初に完成したと言われている。後に現在のメリダとアストルガ間(la Via Asturiaca ad Emeritam)が結ばれた。アウグストゥス時代に金の大鉱脈として重要であったラス・メドゥラスの金もこの「銀の道」を通ってローマに運ばれた。
“La Via de la Plata”(「銀の道」)という名前の由来は明確ではない。アラビア語の[balath(舗装)],[balata(石やタイルを敷く)]という言葉がカスティーリャ語の音に直されblataと呼ばれるようになったとか本来の目的のように銀を始めとする鉱物資源を運んだ道であることからそのまま「銀の道」と呼ばれるようになったなどが主要な説となっている。
春期連続講演会「地中海における文明の交流と衝突」講演要旨
フリードリヒ二世と十字軍
高山 博
世界の歴史のなかでは,「十字軍」という言葉は,異教徒や異端に対するキリスト教徒の聖なる戦いという意味で中世以降の様々な軍事遠征に対して広く用いられている。しかし,一義的には,聖地をイスラム教徒の手から取り返し保持するためになされた1096年から1270年にかけてのキリスト教徒による一連の東方軍事遠征をさす。この十字軍は,理念の上からは,常にキリスト教徒の異教徒との戦いであった。その戦いは,キリスト教徒共同体の指導者である教皇により提唱され,鼓舞された聖なる戦いであり,キリスト教世界を拡大する戦いであった。他者集団への無知,そして,教皇による正当化のために,異教徒への攻撃は凄惨をきわめた。
この血で血を洗う十字軍の歴史の中で,唯一,一度の戦闘も交えることなく,エジプトのスルタンとの交渉だけでエルサレム回復に成功した十字軍がある。神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世の第5回十字軍である。この十字軍は,一般にあまり知られていない。それどころか,十字軍研究者たちのほとんどが,注目することも重視することもなかった。彼らの多くは,この十字軍を正式なものとみなさず,番号をふることさえしなかった。そのため,この十字軍は,今でも,単に「フリードリヒの十字軍」と呼ばれたり,第5回十字軍の一部とみなされたりすることが多い。1228年9月7日,十字軍を率いてシリアのアッカーに上陸したフリードリヒ二世は,当地の十字軍士たちに歓呼の声で迎えられたが,彼らの期待に反して,イスラム教徒への攻撃を開始することなく,エルサレム奪回のためにエジプトのスルタン,アル・カーミルとの粘り強い交渉を始めた。そして,五ヶ月後の1229年2月11日,このアル・カーミルとのあいだに,エルサレムを明け渡す条件を取り決めた条約が締結され,一滴の血も流すことなく,エルサレムがキリスト教徒の手に渡されたのである。
この交渉によるエルサレムの委譲と,キリスト教徒とイスラム教徒の平和的共存を取り決めた協定は,キリスト教徒のあいだでもイスラム教徒のあいだでも評価されなかった。それどころか,それぞれの世界で激しい非難の渦を巻き起こした。現地では,聖ヨハネ騎士団とエルサレム総大司教が,この取り決めに激しく反発し,フリードリヒ二世と敵対することになる。イタリアでは,ローマ教皇グレゴリウス九世が軍隊をフリードリヒ二世不在のシチリア王国へ侵入させた。フリードリヒ二世は,
即座にイタリアへ帰還し,教皇軍を撃退したが,その後,1250年に他界するまで,再び聖地を踏むことはなかった。イスラム教徒のあいだでも,激しい非難の嵐が沸き起こっていた。アル・カーミルを糾弾する集会が,バグダードやモスル,アレッポ,ダマスクスのモスクで開かれ,甥のアル・ナーシルとの間に戦端が開かれた。アル・カーミルはこの戦いで甥を降したが,彼が死去した翌年の1239年11月,アル・ナーシルが,エルサレムを急襲してこの町を占領することになる。聖都がイスラム教徒の手に戻ったということで,その時,イスラム世界は歓喜に包まれたという。休戦協定が失効して約三ヶ月後のことだった。このように,二人の君主による平和的なエルサレムの委譲は,同時代人にはほとんど評価されなかった。また,二人による取り決めは十年間の期限つきであり,実際にエルサレムの平和共存は十年間しか続かなかった。
今,私たちは,このフリードリヒ二世の十字軍を,キリスト教ヨーロッパの視点ではなく,二つの文化圏の接触(衝突,交流)という視点から見ている。ヨーロッパ文化圏とイスラム文化圏とを同時代に存在する二つの文化圏とみなし,その関係を認識しようする視点に立っているのである。これは,十字軍に対する見方の大きな変化を示している。この変化は,私たちが生きている現代世界の政治力学の変化の反映であると同時に,私たちがもっている世界史認識の変化の反映,ヨーロッパを中心とする世界史認識から複数の文化圏が併存する世界史認識への変化の反映でもある。フリードリヒ二世とアル・カーミルの和平協約締結に至る過程は,別々に形成されてきた異なる集団の歴史,つまり,「ヨーロッパ史」と「イスラム史」とが交わる部分を克明に映し出す。そして,両者を包摂するより大きな枠組みの歴史像を構築することを求めることになる。このような異なる集団の歴史を包摂する歴史が,今,私たちに,切実に必要とされているのだと思う。異なる文化的背景をもつ人々が恒常的に接触している現在,特定の集団を中心とした従来の歴史像は急速に意味を失い,複数の集団,様々な文化圏を包含する世界史,いわば人類史と言えるような歴史像が求められている。フリードリヒ二世とアル・カーミルに焦点を当て,ヨーロッパ史とイスラム史の枠を越えた歴史事象を見ようとする行為は,まさに,そのような歴史像構築への第一歩なのだと思う。
地中海学会賞を受賞して
辻 佐保子
今年度の地中海学会賞の対象となった『ローマ サンタ・サビーナ教会木彫扉の研究』(中央公論美術出版)は,最初の留学中,1961年にソルボンヌ大学に提出したフランス語の博士論文が基本になっている。昨年の12月,半世紀近い時をへてのち,必要と判断した改訂(とりわけ後半の受難・復活に関するパネル)や追記(主に註や註末の付記)をようやく終わり,日本語版を完成することができた。「第二の序文」と「あとがき」に,刊行までの紆余曲折と遅延の弁明をすでに記したため,ここでは繰り返すのを控えたい。かなり以前に,ローマ在住の写真家岡村崔氏に撮影をお願いした,この扉を構成する18点のパネルのそれぞれの全体と細部からなる精緻な写真によって,表情に富む木彫浮彫の魅力を本書の図版として再現できたことを何よりも喜んでいる。
「地中海」を舞台とした広領域に及ぶこのユニークな学会の運営に長らく努力されてきた歴代の会長や委員の先生方に,これまでの自分の仕事を振り返り,反省する何よりの機会を与えていただいたことを深く感謝申し上げたい。あれこれと方法や視点を変えながら,地域的にも年代的にも幅の広い東西「地中海」世界のキリスト教美術の研究に長らく携わってきたが,今になって振り返ると,それは最終的に,サンタ・サビーナ教会の扉が制作された5世紀半ばのローマという環境や時代を,より深く理解するためだったことをようやく理解できた。自分では無自覚な場合もあったが,裏側から見る,既存の発想を逆転するといったさまざまな模索や迂回を試みる過程で,周辺の関連領域(たとえば典礼学,教父学,中世史など)の専門研究者の業績からも多くのことを学ばせて頂いた。
私の二人の恩師である吉川逸治先生とアンドレ・グラバアル先生は,そろって94歳という長寿をまっとうされたため,私に与えられた時間にはまだ余裕があるとばかり思っていた。1990年代に2冊の論文集をまとめた時点では,狭い学問領域の中ばかりではなく,世界全体の動向の点でも,まだ何らかの形で歴史的な展望,希望的な観測を抱きうると信じていた。
ところが世紀の敷居を越え,価値観の大きく揺れ動く時代を迎え,しかも「美術史」を教え,論文を指導するといった直接的な義務から解放されてみると,つい日々
の忙しさに紛れ,当面のあいだ括弧に入れて放置していた重要な課題がいかに多いかを痛感するようになった。「美術史」が近代的な意味での学問として成立し,大学や美術館,あるいは文化遺産保護といった研究制度上の組織が整備されてゆくなかで,見失われてしまった大切なものも少なくなかったように思う。大学院に入った当時,自分の生年から50年ないし30年さかのぼって過去の研究史に精通するようにとの指導を受けた。そのため,19世紀末から20世紀初頭に書かれた概説書(英,独,仏,伊語による)を読了し,創始期の中世美術研究者たちの精力的な仕事ぶりに圧倒された。留学最初の1,2年は,モニュメントを見て回ることと同時に,日本では入手できなかった膨大なスケールの図録集などに馴染むことに費やされた。現在では,はるかに迅速に大量の情報を入手できるようにはなったが,その反面,個人が単独で特定の専門領域の概説書を書くだけの広い視野をもつことは困難となった。かりに書いたとしても,入門書の体裁をとるか,一時的な批判や挑戦に終わる場合が多く,生涯の集大成としての包括的な総論をまとめることは不可能に近い。
これから先,体力や知的な理解力はしだいに衰えてゆくに違いないが,若手の研究者たちから贈って頂く論文や著書などから快い刺激を受けながら,作品を前にして楽しみ,悦ぶという感性だけはいつまでも新鮮に保ちたいと願っている。さいわい,「ロマネスク壁画」を主な対象とした論文集をまとめる仕事がまだ残っているため,今後は自分なりの精神のバランスを保ちながら,初心にかえって,この最後の仕事をぶじに終えたいと思う。
学会ならびに会員の皆さまのいっそう充実した今後のご活動を願いつつ,謝辞に替えさせて頂く。
2004年8月30日
第9回地中海学会ヘレンド賞を受賞して
京谷 啓徳
このたびは,地中海学会ヘレンド賞という栄誉ある賞を,拙著『ボルソ・デステとスキファノイア壁画』(中央公論美術出版,2003年)に授けていただき,まことにありがとうございました。この場をお借りして,地中海学会の皆様,ヘレンド日本総代理店・株式会社星商事社長鈴木猛朗様,そしてこれまでお世話になった多くの方々に,心より御礼を申し上げます。
受賞対象となった『ボルソ・デステとスキファノイア壁画』は,恩師である東京大学教授小佐野重利先生の指導の下,平成11年12月に東京大学大学院人文社会系研究科に提出した博士論文に基づき,加筆訂正したものです。この書物の中で私は,ルネサンス君主のイメージ戦略,すなわちルネサンス期の君主が政治・外交プロパガンダの媒体として美術作品をいかに利用したかという問題を扱いました。舞台となるのは北イタリアの古都フェッラーラで,15世紀後半にこの町を治めたボルソ・デステという殿様が主人公,スキファノイア宮と呼ばれるお屋敷にこの人が制作させた装飾壁画が考察の対象です。壁画に描き込まれる謎めいた諸モチーフが,殿様のお家の事情を濃密に映し出していることを明らかにしています。
ルネサンスの君主というと,ウルビーノのフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロのような,文武両道に秀でた立派な人物が取り沙汰されることが多いのですが,エステ家のボルソはさほど有名でもなければ,特に優れた人物であるというわけでもありません。しかし歴史の教科書には登場しないような普通の殿様にも,本人にとっては相当に大きな悩みの種がありました。そしてその悩みを解決していく人間的な営みが,スキファノイア宮の壁画に刻まれているのです。
庶子であったボルソ・デステは,父ニコロ3世デステが自ら亡き後の家督相続の順番を定めた遺言書から排除されていました。にもかかわらず兄レオネッロ・デステが死亡した時,ボルソは諸般の事情により君主に就任してしまったのです。庶出の息子の君主就任はこの時期,必ずしも珍しいことではありません。しかしボルソ・デステの場合,彼の不法な家督の相続は,その治世への脅威の原因であり続けました。実際のところボルソの最晩年に至るまで,度々彼に対する謀反の計画がなされては,あわやお家騒動というところで未然にくいとめられてい
ます。このようなわけですから,ボルソは生涯を通じて,君主就任の事情に起因する諸問題を克服するべく,様々に腐心せざるをえませんでした。
実際ボルソは,君主就任の直後から,自らの君主としての様々なイメージを作り出そうとしました。すなわち自分は正当なる君主であるというイメージ。自分は美徳に溢れた君主であるというイメージ。自分は市民に益する君主であるというイメージ。あるいは自分は「純潔」を守る君主であるというイメージ(これは子供を作らず,自らが亡き後は父の遺言で定められた系図に戻すという意思を表明しています)。またあるいは,エステ家長年の悲願であった公爵への昇進を果たした君主としてのイメージ,等々。これらは単なるイメージとしてのレヴェルに留まるものではなく,それぞれが周到に実行・実現されていったのですが,ヴィジュアル・イメージとしても,いたるところに表現されました。私がイメージ戦略という言葉を用いた所以です。そしてその集大成ともいえるのが,スキファノイア宮殿「12カ月の間」の装飾壁画なのです。
それでは例えば,「純潔」を守る君主であるということを絵画で如何に表現するのか。ご説明申し上げたいところですが紙幅がございませんので,ご関心がおありの向きには是非拙著をご一読いただき,絵画作品を歴史的コンテクストと照らし合わせながら解読していくことの楽しさを味わっていただければ幸いです。
このように,スキファノイア壁画の中にボルソ・デステという普通の殿様の思いを読み取った拙著は,オーソドックスな美術史学の方法論からは少し外れた,美術史とも文化史ともつかない中間領域の書物といえるかもしれません。そしてそれ故にこそ,地中海学会のような学際的な学会で評価していただいたことをたいへん嬉しく思っている次第です。
何やら全体的に自分の書物の宣伝のような文章になってしまいたいへん恐縮ですが,最後に,今回このような賞をいただいたことを励みに,これからも地中海文化研究に少しでも寄与することができるよう努力していく所存であることを記し,受賞の御挨拶とさせていただきます。
自著を語る38
陣内秀信・柳瀬有志著『地中海の聖なる島 サルデーニャ』
山川出版社,2004年3月 192頁 3,000円
Hidenobu Jinnai 編,La Sardegna vista dai giapponesi: L'architettura popolare, la vita, le feste
Edizione Iris Nuoro 2004年3月 262頁
陣内 秀信
法政大学建築学科の私の研究室で取り組んだサルデーニャの町,集落に関する調査・研究の成果が,はからずも今年3月のほぼ同時期に,日本とサルデーニャで出版されることになった。
サルデーニャと言えば,悠久の歴史をもつ神秘に包まれた島のイメージと,エメラルド海岸の超高級リゾート地という対極的なイメージが先行し,その実像はなかなか紹介されることはない。我々は,知られざるサルデーニャの人々の暮らしの場をフィールド調査し,町の構造や家のつくり方,そこにおける生活の仕方を描き出す作業を行った。
もとはといえば,サルデーニャの中心都市,カリアリ出身の人類学を専攻する若手研究者が東京研究を目的に私のもとで学んだことがきっかけとなって,この調査のアイデアが生まれた。都市や住居の研究を,建築学に加え人類学や社会学といった人間,社会そのものを扱う学問分野とクロスさせて行えば面白いに違いないという思いはかねてからあった。その絶好のチャンスが巡ってきたのだ。
サルデーニャには,大きく見ると,二つの文化圏がある。一つは,この島の古層を最もよくとどめる中部内陸地域の羊飼いの文化圏である。バルバージャ地方と呼ばれるこの山あいの内陸部には,古代ローマ人も入り込めず,彼らによって野蛮な地と呼ばれ,そこからバルバージャの名称がもたらされたという。羊飼いの町や村が相互にあまり行き来もなく点在し,独自の地域社会,文化を生んだ。羊飼い達は,自分の羊を数多くもち,独立して行動するから,平等社会を形成した。粒ぞろいの家が斜面に連続して並ぶ,ピクチャレスクな景観をつくっている。庭をもたず,一階に家畜小屋,2階に台所・居間,3階に寝室といった垂直に発展した構成を示すのだ。普段,男どもは羊と一緒に,遠方で長期過ごすので,町や家を守る主役は女達ということになる。
一方,南の肥沃な平野部,カンピダーノ地方は,古代ローマ時代以来,穀倉地帯として知られ,地主階級の経営する大規模農場のもとで,小作の農民達が働くという階級差の激しい農村社会を生んだ。穏やかな平野部の町には,やや小高い条件のよい場所に,教会を中心に,美しい中庭と農場の庭を兼ね備えた,堂々たる農場の建物が連なる。その中庭には,地中海世界独自の開放的な気
分が満ちる。庭と接する一階部分に生活の場がくるのも,アラブや古代ローマの邸宅のつくりとそっくりだ。
このようにサルデーニャの二つの文化圏では,町の構造にも,家のつくりにも,生活スタイルにも,大きな違いが見られるのが興味深い。信仰心の厚い点ではサルデーニャ全体で共通しているが,祭りの在り方,聖地のつくり方に,やはり違いも大きい。
我々のこうした研究が,何とイタリア語,サルデーニャ語も入った四カ国語で出版されるという幸運が巡ってきた。サルデーニャ語も含むロマンス語言語を研究される菅田茂昭先生が昨年5月に,早稲田大学で,「サルデーニャの言語と文化」と題するユニークな国際シンポジウムを実現された。それに招かれ来日した人類学,考古学を専攻するドロレス・トゥルキ女史が,我々の研究に大きな関心を示され,中部サルデーニャのヌーオロという地元の町で自分が立ち上げた出版社の企画第一号として,その内容を出版することを提案してくれた。そもそも我々はすでに雑誌『季刊iichiko』NO.32で「特集・サルデーニャの文化学」として英訳を付けて刊行していたので,その英訳からイタリア語訳,サルデーニャ語訳が可能だったのである。
庶民的な羊飼い及び農民の家を扱い,その暮らし,祭りなどに注目し,専門の立場から実測,観察によって,多くの図面を付けて詳しく描き出した我々の仕事は,サルデーニャの人々にとって,新鮮な驚きだったようだ。幾つものサルデーニャの新聞が大きく掲載してくれた書評が,メールで続々と送られてきたのは嬉しかった。
二冊の本が出た後,3月末から一週間,再びサルデーニャを巡る機会があった。春を迎えるサルデーニャには,緑に溢れる田園や山あいに無数の羊の姿があり,感動的な風景が見られた。変わらぬ生活の営みにサルデーニャの底力を再確認する旅だった。
地中海学会大会 シンポジウム要旨
都市と自然のユートピア
パネリスト:澤井繁男/石川清/越澤明/堀越英嗣/司会:野口昌夫
北海道と地中海をどう結びつけるのか。まずテーマ設定の経緯と論点を司会者が示した。
都市について:1869年,開拓使首席の島義勇が,現在の大通り公園を東西軸,創成川を東端の南北軸として格子状の新都市札幌を建設したことは,ギリシアのヒッポダモスの都市,ローマの植民都市の計画理念に類似している。また,1864年,武田斐三郎が列強の近代火器による砲撃に備えて函館に建設した五稜郭は,フランスの築城家ヴォーバンが設計したヌフ・ブリザックの系統を引くが,そのルーツはイタリア・ルネサンス期の理想都市の理念から派生した軍事的側面,すなわち火砲術の出現以降展開されたパルマノヴァのような星型都市にある。
自然について:蝦夷地に対して開拓使たちが札幌,旭川,帯広を建設した後の人工の自然としての大通り公園や,来年完成するイサム・ノグチの遺作モエレ沼公園は,手つかずの広大な自然,新都市建設,人工の自然の観点から地中海世界の都市,パラッツォ,ヴィラ,庭園にみられる自然観と比較できるかもしれない。
ユートピアについて:札幌郊外の理想的住宅地,田園都市ではどのような郊外生活のユートピアが考えられてきたのか。モエレ沼でも札幌の子供たちのユートピアとして巨大な彫刻的公園プロジェクトが成立した。しかし,そもそもユートピアとは何であったかという点に立ち入ると,やはり16世紀初頭,オランダのエラスムス,イギリスのトマス・モアの著作が生まれる同時代のイタリアの政治的,文化的状況を把握した上で,17世紀初頭にカンパネッラが書いた『太陽の都』に語られたユートピアとしての都市まで俯瞰する必要がある。
澤井氏は「ルネサンス人文主義者の抱いたユートピア思想の流れ」について発表した。14世紀後半のペトラルカから,15世紀中葉以降イタリアの人文主義が全ヨーロッパに流布し,16世紀を経て,17世紀前半のカンパネッラの死まで。この流れをユートピアに焦点を合わせてたどるにあたって,16世紀フィレンツェの書記官長(高級官僚)マキアヴェリを軸に俯瞰した。この展望の前提として,ルネサンスの中心都市の変遷とそれに伴う人文主義の質的変化を概説した。説明図は,16世紀前半に重要な著作を残した,同時代5人の人文主義者(マキアヴェリ,カスティリオーネ,グイッチャルディーニ,エラスムス,トマス・モア)の相関を示したもので,同氏の昨秋出版の著書『マキアヴェリ,イタリアを憂う』(講談社選書メチエ)から引用されている。16世紀初頭の政治的激動期,辣腕の外務官僚マキアヴェリは現実直視を是としたが,根本的にはイタリア半島統一をめざす理想主義者である。その後の17世紀のカンパネッラは,理想世界を神の土地に希求せざるをえないほどとなる。
石川氏は「理想都市とユートピアの狭間」と題し,ルネサンス期理想都市論の系譜を概説した。まず,建築家による理想都市論が誰のために書かれ,そこに市民建築論が展開されていたかという視点から,アルベルティ,フィラレーテ,フランチェスコ・ディ・ジョルジョ,セルリオをとり上げた。次に,セルリオの反権力的態度は,当時イタリア都市の中で宗教改革に対して最も開かれた場であり,1507年,エラスムスが一年間滞在したヴェネツィアの中で培われたことを指摘した。最後に,ほぼ同時代を生きたセルリオとマキアヴェリの関係に着目し,セルリオがトマス・モアの『ユートピア』よりはマキアヴェリの『君主論』に影響を受けたとするマルコ・ロッシの指摘を引き,セルリオが建築書を著すにあたって基礎を置いたのはユートピア社会ではなく,現実の社会構造を容認しつつ物的環境を再編し,改善することにあったとした。
越澤氏は「北海道の都市計画からみた都市と自然のユートピア」について,まず,日本の都市形成と都市空間の類型を示した。「開拓殖民都市」の類型に入る札幌,旭川,帯広にみられた近代都市計画の積極的な導入として,殖民計画(碁盤の目状),並木道の緑とオープンスペースとしての広場,火防線としての広幅員街路を説明した。次に「開港地・居留地」の類型として函館と五稜郭をとり上げ,二度の大火後の復興に伴う先進的な都市計画に言及した。最後に,「郊外地」の類型に東小樽,札幌の宮ノ森,福住をあげ,中産階級の形成に伴う郊外生活のユートピアが展開されていたことを示した。この三つの田園都市の現状については,当初の理想的な計画思想の忘却が平凡な住宅地への退化を引き起こすとし,理念がなくなると何も残らないことを具体的に示した。
堀越氏は「イサム・ノグチが未来に残したユートピア」と題し,モエレ沼公園の計画思想と建設に至る道程を説明した。まず,ニューヨークに住みピエトラ・サンタに工房をもっていたイサム・ノグチの足跡を庭園彫刻や環境彫刻に焦点を絞ってたどり,同公園との関係を示した。モエレ沼公園は,札幌の市街地を公園や緑地の帯で包み込もうとする市の「環状グリーンベルト構想」における北部平地系緑地の拠点公園として計画された。イサム・ノグチは彫刻の概念を庭園や公園にまで広げ,地球に直接彫り込む彫刻として構想した。1988年に急逝した後,堀越氏が属する東京芸術大学出身の建築家グループが16年余りをかけて担当し,完成は来年である。数多くの美しい画像と共に,全体を一つの彫刻とみなした壮大な風景の創造の過程を説明した。札幌市民のユートピアとしての人工のランドスケープの実態が示された。
会場からは,まず澤井氏が冒頭で述べた「人文主義者にとって都市と自然は二項対立ではなかった」をめぐって,ルネサンス期の都市と自然の関係,当時田園を見る眼がどう変化したか,ヴィラの庭園ではどうだったのかについて,陣内秀信氏から質問があり,それに関連して,木島俊介氏からヴィラにおけるジャルディーノとボスコの違いについての指摘,また高階秀爾氏から,ルネサンス期に借景に近い概念はあったのかという質問をいただいた。一方,札幌在住の松村耕一氏から,大航海時代の西洋人が東洋に求めたユートピアとはどのようなものだったのかという質問と,やはり地元の建築家植田曉氏から,イサム・ノグチがモエレ沼公園を構想したとき,周辺の三日月湖とさらに外側の農地を含めた一体の景観の創造をめざす視点をもっていたかという質問がなされた。活発な質疑応答が続き,その広範かつ深淵な内容は,北海道と地中海を結ぶ「都市と自然のユートピア」が意外に大きなテーマであったことを示唆していた。
(文責 野口昌夫)
意見と消息
・10月25日から11月5日まで筑波大学附属図書館特別展「オリエントの歴史と文化──古代学の形成と展開」(於同大中央図書館貴重書展示室,入場無料)を開催します。詳細は図書館古典資料係(tel.029-853-2376)へお問い合わせ下さい。 秋山 学
・4月より関西大学文学部教授として着任しました。「地域研究」担当ですが,イタリア語・文学・文化専攻者が皆無なので,結局イタリア文化研究を講義しています。著述活動もつづけます。 澤井 繁男
・2004年12月4日(土)14時から東京都庭園美術館大ホールにて,<スペインを聴くシリーズ>をピアノ独奏(西川理香)とヴァイオリ(鈴木裕子)で開催いたします(入場料:4,000円,ペアー券7,000円。ソフトドリンク付)。終了後のミニパーティではアルアリモンによるスペイン料理をお楽しみ戴けます。お問合わせ先は「プリスキラ・アーツ」tel.03-3571-0955。 西川 理香