2004| 6·7
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学会からのお知らせ
*第28回地中海学会大会
さる6月26日,27日(土,日)の二日間,北海学園大学(札幌市豊平区旭町4-1-40)において,第28回地中海学会大会を開催した。会員109名,一般33名が参加し,盛会のうち会期を終了した。サッポロビールからワインとビールの提供をいただき,それぞれ,懇親会とシンポジウムの休憩で賞味した。
次回大会は、静岡文化芸術大学(浜松市)です。
6月26日(土)
開会宣言・挨拶(桑原俊一北海学園大学人文学部長)
13:00〜13:10
記念講演 13:10〜14:10
「旅と宗教─パウロが歩いた古代地中海世界─」
土屋博
地中海トーキング 14:30〜16:30
「温泉・テルメ・ハンマーム,いやしの空間」
パネリスト:小池寿子/佐々木巌/本村凌二/山田幸正/司会:宝利尚一
懇親会 18:30〜20:30
6月27日(日)
研究発表 10:00〜11:30
「ラウネッダスの「古代性」─地中海の音楽世界におけるリード楽器史の一考察─」金光真理子
「中世後期トスカーナの宗教建築における濃強縞模様型ポリクロミアの様態」吉田香澄
「フィデンツァ大聖堂ファサード彫刻と聖人祝祭」児嶋由枝
授賞式 12:00〜12:30
「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
シンポジウム 13:30〜16:40
「都市と自然のユートピア」
パネリスト:石川清/越澤明/澤井繁男/堀越英嗣/司会:野口昌夫
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*第28回地中海学会総会
第28回総会(福部信敏議長)は6月27日(日),北海学園大学で下記のとおり開催された。
審議に先立ち,議決権を有する正会員630名中(2004.6.17現在),610余名の出席を得て(委任状出席を含む),総会の定足数を満たし,本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2003年度事業報告・決算,2004年度事業計画・予算は満場一致で原案通り承認された。2003年度事業・会計は中山公男・牟田口義郎両監査委員より適正妥当と認められた。(役員人事については別項で報告)
一,
開会宣言
二,
長選出
三,
2003年度事業報告
四,
2003年度決算報告
五,2003年度監査報告
六,2004年度事業計画
七,2004年度予算
八,役員人事
九,会長挨拶
十,次回大会校挨拶
十一,閉会宣言
2003年度事業報告(2003.6.1〜2004.5.31)
I 印刷物発行
1.『地中海学研究』XXVII発行 2004.5.31発行
「キリキア地方オルバのゼウス神域」 芳賀 満
「ヴィスコンティ家宮廷におけるヨハネス・チコニアの音楽──ルッカ写本の作品を中心に」 吉川 文
「アントーニオ・チェスティの修道会記録および手紙の分析──17世紀イタリアにおける聖職者の世俗音楽活動に関する一考察」 佐々木 なおみ
「カラヴァッジョ作,通称《洗礼者聖ヨハネ》の主題解釈に関する一考察」 木村 太郎
「マグレブの現代フランス語小説におけるハンマームというトポス」 石川 清子
「書評 ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン著中山典夫訳『古代美術史』」 篠塚 千恵子
2.『地中海学会月報』 261〜270号発行
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会(於上智大学)
「ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコの正体──作品・没年・活動期間」 伊藤 拓真(6.7)
「16,17世紀ヴェネツィアにおける祝祭,演劇ならびにその空間に関する研究」 青木 香代子(6.7)
「中世後期シエナの住宅建築と都市の拡張」 片山 伸也(10.4)
「モロッコ・フェスの新市街──植民都市から現代モロッコの都市へ」 松原 康介(12.13)
「ゴヤ《マドリード素描帖》における人物の身体表現について」 増田 哲子(3.13)
2.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として:於ブリヂストン美術館ホール)
春期連続講演会(2002年度分):「地中海世界の宮廷と文化」2003.6.28〜7.26(5回)
秋期連続講演会:「宮廷をめぐる芸術」
2003.10.18〜11.15(5回)
春期連続講演会:「地中海における文明の交流と衝突」2004.5.8〜6.5(5回)
III 賞の授与
1.地中海学会賞授賞 受賞者:辻佐保子
2.地中海学会ヘレンド賞授賞 受賞者:京谷啓徳
IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal
of Ancient
Civilizations
2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
V 協賛事業等
1.NHK文化センター講座企画協力
「地中海 美の回廊:壁画の道」
2.同「同:旅する美術,芸術家たち」
3.同「同:旅する芸術家たち」
VI 会 議
1.常任委員会 5回開催
2.学会誌編集委員会 3回開催
3.月報編集委員会 7回開催
4.大会準備委員会 2回開催
5.電子化委員会 Eメール上で逐次開催
VII ホームページ
URL=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr
(国立情報学研究所のネット上)
「設立趣意書」「役員紹介」「活動のあらまし」「事業内容」「入会のご案内」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海の旅」
VIII 大 会
第27回大会(於金沢美術工芸大学)2003.6.21〜22
IX その他
1.新入会員:正会員22名;学生会員12名
2.学会活動電子化の調査・研究
3.展覧会の招待券の配布:「ピカソ・クラシック」展(一部)
2004年度事業計画(2004.6.1〜2005.5.31)
I 印刷物発行
1.学会誌『地中海学研究』XXVIII発行
2005年5月発行予定
2.『地中海学会月報』発行 年間約10回
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会の開催 年間約6回
2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として秋期・春期連続講演会開催
秋期連続講演会「フィレンツェおよびトスカナ大公国の都市と文化」(11.20〜12.18 5回)
III 賞の授与
1.地中海学会賞
2.地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
1.NHK文化センター講座企画協力
VI 会 議
1.常任委員会
2.学会誌編集委員会
3.月報編集委員会
4.電子化委員会
5.その他
VII 大 会
第28回大会(於北海学園大学)6.26〜27
VIII その他
1.賛助会員の勧誘
2.新入会員の勧誘
3.学会活動電子化の調査・研究
4.展覧会の招待券の配布
5.その他
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*新事務局長および本部変更
先の総会で大高保二郎氏の事務局長任期満了により,陣内秀信氏が新事務局長に決まりました。これに伴い,学会本部を下記の通り変更します。
旧:早稲田大学 大高保二郎研究室
新:法政大学 陣内秀信研究室
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*10月研究会
下記の通り研究会を開催します。
テーマ:聖都ローマとカタルーニャ
──リポイ,サンタ・マリア修道院聖堂における旧サン・ピエトロ大聖堂の影響
発表者:小倉 康之氏
日 時:10月2日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
1032年,カタルーニャ地方のリポイでは,サンタ・マリア修道院において四度目の献堂式が行われた。リポイ第四聖堂の平面型は,五廊式であり,貫通型トランセプトを有するという点で,旧サン・ピエトロ大聖堂と関連づけられる。当時のカタルーニャは,カロリング朝の断絶を機会に西フランクから独立し,ローマ教皇の承認を得ようとしていた。それゆえ,リポイ修道院聖堂の改築は,ローマとの密接な関係を視覚化することが目的であったと推察される。
テーマ:金箔ガラスvetri
doratiにみる殉教聖女アグネス崇敬
発表者:藤井 慈子氏
日 時:10月16日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
ローマのカタコンベから出土した,金箔装飾が施された直径10センチ前後の円盤型ガラス。それらは当時崇敬を集めた「使徒,聖職者,殉教者」の姿を映し出す。特にくり返し描かれたのは二大使徒,ローマ司教シクストゥス2世,そして殉教聖女アグネス。アグネスは時にその実在性さえ疑われるが,「二重の冠」を授かったとまで4世紀の賛歌の中で賞揚され,金箔ガラスでは聖母像より頻出する。図像紹介を通してその崇敬に迫りたい。
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*論文募集
『地中海学研究』XXVIII(2005)の論文および書評を下記のとおり募集します。
論文 四百字詰原稿用紙50枚〜80枚程度
書評 四百字詰原稿用紙10枚〜20枚程度
締切 10月20日(水)
本誌は査読制度をとっております。
投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。
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春期連続講演会「地中海における文明の交流と衝突」講演要旨
南欧都市に見るイスラーム文化の影響
陣内 秀信
古来,様々な民族が行き交い,支配と交流を繰り返した地中海周辺のヨーロッパ地域を旅すると,イスラーム文化が混淆した興味深い建築や都市空間に出会える。ビザンツの文化と並び,東の世界から発信されたイスラームの高度な文化が西の世界に伝播し,知的・文化的な刺激をもたらした。アンダルシアの諸都市,パレルモを始めとするシチリア都市,海洋都市のアマルフィ,ヴェネツィアなどがその主な舞台だった。
アンダルシアは,アラブの直接支配を長く経験しただけに,文化の根幹にまで今なおその影響が見られる。スペイン最後のイスラーム王朝であるナスル朝の都として繁栄を続けたグラナダを訪ねると,有名なアルハンブラ宮殿における中庭を囲う構成,水の演出,繊細な装飾ばかりか,町の至る所にアラブ・イスラーム文化の足跡をたどることができる。カテドラルは大モスクの跡地にあり,マドラサ(イスラーム学院)が今の大学に転じている。アルカイセリアという商業ゾーンはスーク(市場)を受け継ぎ,その近くに,かつてムーア人の商人のための隊商宿だった14世紀初めの建物がある。谷を流れるダロ川に沿った一画に,11世紀のアラブ式の公衆浴場の跡が残っている。
私の研究室でこの5年調査を行っている小都市,アルコス・デ・ラ・フロンテーラは,モロッコにより近く,5世紀もの長い期間,アラブの支配下に置かれていただけに,イスラーム的な要素を色々な形で今の街に受け継ぐ。まず,街の南東部に,アラブの城壁の一部と城門の一つ,マトレラ門(11世紀)が残る。中心の高台に聳えるサンタ・マリア教会は,かつての大モスクの位置に建てられ,その内陣奥には,ミフラブの痕跡が残されているという。支配者の城も,イスラーム時代の要塞を受け継いでいる。
そして,何よりも複雑に入り組んだ街路網と,美しいパティオを囲む住宅の構成に,中世のアラブ都市を基層にもつアンダルシア都市の特徴が見事に表れている。アプローチをクランクさせ,外からのぞかれないように工夫している点も,家族のプライバシーを大切にするアラブの住宅と共通する。鉢植えで飾られた緑溢れるアルコスの中庭は美しい。
シチリアの州都,パレルモにも,イスラーム文化の香が感じられる。9〜11世紀のアラブの支配下でつくられた袋小路の多い迷宮的な都市構造が今も基層に生きている。だが,数多く存在したはずのモスクはことごとく破壊され,イスラーム時代の建物はほとんどなく,ここではむしろ,アラブ人を征服しシチリアの支配者となったノルマンの王達の手で実現した建築群の中に,イスラーム文化の輝きが見てとれる。
パレルモ旧市街の西端にあるノルマンの宮殿の王の礼拝堂,ルッジェーロの間などに,ビザンツとイスラームの文化の見事な融合が見られる。さらに,アラブ支配下で緑溢れる豊かな田園をつくり上げたパレルモでは,都市周辺にもノルマン王朝期の素晴らしい建築が多い。特に,王家の夏の邸宅としてつくられたジーザ(12世紀)は,イスラーム世界が求める地上の楽園のイメージを建築の内外に実現するものだった。
かつて私の研究室で調査したシチリアのシャッカは,アラブ人が最初に上陸した街だった。斜面に発達したこの街の構造には,まさにアラブ都市の迷宮性が感じられる。袋小路が無数に入り込み,その内部に近隣のコミュニティが成立してきた。シチリアにおけるアラブ文化の影響をもつ都市は,パレルモも含め,こうした袋小路が入り組む複雑な空間を随所に見せている。
地中海に君臨し,ビザンツ,アラブ世界との交流で繁栄したイタリアの諸都市は,異文化の混淆した独特の雰囲気を今ももつ。とりわけ,羅針盤を使った航海術を発達させ,早くから海洋都市として名を馳せたアマルフィの市民は,イスラーム的な要素を都市文化のアイデンティティとして誇りに感じている。アラブ風の大きな尖頭アーチをもつ「海の門」を入ると,華やかな広場に面して,イスラーム独特のアーチで飾られた美しいファサードをもつドゥオモ(大聖堂)が聳える。聖堂の左手奥に潜む「天国の中庭」には,まさにアラブ世界と共通する回廊の巡った居心地のよい中庭の小宇宙がある。町の中央を奥に伸びるメインストリート沿いには,アラブ世界のスークとよく似た雰囲気の商店街が形成され,13世紀のアラブ式風呂の貴重な遺構もある。一方,東西の斜面には,坂や階段状の街路が入り組み,やはりアラブ都市を思わす迷宮的な空間を形づくる。外観は閉鎖的でも,アラブの住宅と同様,内部には居心地のいい生活空間が見られ,海への眺望も楽しめる。
ヨーロッパ文化の基層に見られるイスラーム世界からの影響には,もっと大きな光を当てる必要があろう。
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春期連続講演会「地中海における文明の交流と衝突」講演要旨
オスマン帝国とルネサンス
樺山 紘一
15世紀から16世紀にかけてのルネサンスは,つねにヨーロッパ外からの軍事的脅威と並行して展開した。東方のオスマン帝国からの圧力である。
脅威のはじまりは,14世紀末に,帝国がバルカン半島に本格的に進出してはじまった。いまにも,オスマン軍はビザンチン帝国の首都コンスタンティノープルに侵攻しかねない状況となった。1430年代には,コンスタンティノープルは危機におちいり,西方のヨーロッパに救援を要請する。
おりしもルネサンスの文化運動が高揚をむかえていたイタリアにおいて,カトリックの公会議が開催され,東方からの使節が軍事上の協力を提議した。すでに,コンスタンティノープルからギリシア人の来訪がつづき,イタリアにあってはギリシアへの関心がたかまっていたこともあって,ビザンチン情勢は真剣に議論されることになった。軍事上の脅威は解消せず,ついに1453年,オスマン帝国によって,ビザンチン帝国は打倒される。
こうした過程で,東方のギリシア人が西方に脱出・亡命して,ルネサンスのイタリアに多数の文献や知識が流入したことは,よく知られる事実である。くわえて,1450年代の危機に際して,イタリアの諸邦が危機感をつよめ,ながらくにわたって継続してきた抗争関係を停止したことも,重要な結果をうみだした。「ローディの和」によって,フィレンツェ・ミラノ・ヴェネツィア・ローマ教皇・ナポリの五大勢力はオスマン帝国を共通の敵とする攻守同盟をむすんだ。
東方に大帝国が出現したことで,イタリア人の東地中海での活動には,おおきな制約が生じた。いくつかの都市国家にあっては,東方にかわって西方,つまり大西洋への進出がうながされた。けれども,緊張した軍事環境にあっても,東方との交易は持続されたことも事実である。そればかりか,15世紀から16世紀にかけて,ルネサンスの文化のなかには,明白な東方的局面が出現した。
たとえば,ヴェネツィアからは,画家ジェンティーレ・ベリーニが,オスマン宮廷からの招聘に応じて,1479年,イスタンブル(コンスタンティノープル)を訪問した。かれは,その地にあって,ルネサンス芸術を披瀝する。《スルタン・メフメット2世の肖像》は,まさしくその成果であった。ベリーニは,帰国ののちも,東方の風俗や景観を主題とする作品を制作して,ヴェネツィア派絵画に新局面をもたらした。
15世紀末に,イベリア半島からユダヤ人が追放をうけることになったが,そのうちの多数が,イタリアに移住した。ヴェネツィアはその中心地となったが,これによってルネサンスにユダヤ教文化の要素がもたらされる。ユダヤ人はさらに東方に移住先をもとめ,オスマン帝国下にあるギリシアのテッサロニキやイスタンブルにまで,拡大していった。古代ヘブライ語の読解や解釈が,キリスト教世界の人文主義に伝達され,印刷・出版がうながされた。
さらには,オスマン帝国が北アフリカに進出する16世紀初頭になると,サハラをふくむアフリカ情報が,その帝国をとおしてイタリアにもたらされるようになった。教皇レオ10世の宮廷につかえたモロッコ人レオ・アフリカヌスのような事例が想起される。
16世紀は,しかし同時にオスマン帝国の軍事脅威が昂進する時代でもあった。バルカン半島に奥深く侵攻した帝国は,1529年にはドナウ川をさかのぼって,ウィーンを包囲し,宗教改革の混乱にみまわれていたドイツ世界をおびやかした。
東地中海では,依然として対立関係はひきつがれた。オスマン軍の制海権は次第に拡大してゆき,ロドス島やクレタ島が標的とされた。1571年,ギリシア西岸でオスマン帝国海軍とスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇のカトリック連合軍とのあいだで,「レパントの海戦」がたたかわれ,後者の勝利におわった。これを契機に,制海権のバランスは安定し,軍事脅威はほぼ終局にむかった。しかし,このときイタリアにおけるルネサンスもまた,終末をむかえていたのである。
この過程のなかで,特異な軍事関係が生じていたことも,記憶しておかねばならない。1530年代に,オスマン帝国はフランス王国との連携を模索し,相互の交易を実現するかたわら,ときには軍事上の共同行動をもこころみた。ニース,ついでコルシカの占領にあたっては,オスマン海軍が参加しており,1558年にはトゥーロン港に軍艦を停泊させている。特殊な状況における事態だとはいえ,東西の軍事状況の複雑さを立証するものであった。
このように,ルネサンス時代の15・6世紀は,ヨーロッパ諸国とオスマン帝国との軍事バランスの推移によって彩られた。緊張関係とともに,交流をも併存させながら,このバランスがルネサンスの路程に影をおとしていたのである。
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地中海学会大会 研究発表要旨
ラウネッダスの「古代性」
──地中海の音楽世界におけるリード楽器史の一考察──
金光 真理子
イタリアのサルデーニャ島には,ラウネッダスlauneddasと呼ばれる,三本の葦管から成る気鳴楽器がある。ラウネッダスは,世界で他に類をみない三管構成の楽器構造によって,サルデーニャの音楽文化の独自性を示すシンボルとなっている。しかし,視野を広げ,地中海の音楽文化のなかでみれば,ラウネッダスは同種のリード楽器と不可分な関係にあって同質性と異質性との双方を示している。本発表では,楽器構造の観点からラウネッダスと同種のリード楽器とを比較検証し,そこから地中海の音楽世界の新たな地図を描き出すことを試みる。
ラウネッダスの構造は,単簧(一枚リード,すなわちクラリネット属),円筒管,二本のチャンター管(指孔があり,旋律の演奏可)と一本のドローン管(指孔がなく,持続低音を演奏),そして三管の末広がりな構え方を特徴とする。紀元前からサルデーニャ島に存在したと考えられるラウネッダスは,古代ギリシアのアウロスaulosとの関連性が指摘されうる。アウロスは,考古学・図像学に鑑みて,古代地中海世界で,メソポタミアからエジプト,小アジアを経て黒海・地中海沿岸からヨーロッパ各地へ至るまで広く用いられた双管オーボエの典型で,その構造は複簧(二枚リード,すなわちオーボエ属),円筒管,双管(二本のチャンター管,あるいはチャンター管とドローン管),末広がりな構え方を特徴とする。つまり,ラウネッダスとアウロスは,管の形状(円筒管)と構え方(末広がり)において共通性をもつ。しかし,リードの構造は異なる。リードに関してはむしろエジプトの双管クラリネットであるズンマーラzummāraやアルグールarghūlと関連する。ズンマーラの構造は,単簧,円筒管,双管(二本のチャンター管),そして双管を平行に結びあわせた構え方を特徴とし,古代エジプトでメメトmemetと呼ばれた双管クラリネットも同様の構造に基づいていると考えられる。また,アルグールの構造は,単簧,円筒管,双管(チャンター管とドローン管),そして双管を平行に結びあわせた構え方を特徴とする。つまり,ラウネッダスはズンマーラやアルグールなどの双管クラリネットと,リード(単簧)と管の形状(円筒管)において共通性をもつ。しかし,構え方は異なる。このように,ラウネッダスには構造的にクラリネット属とオーボエ属との特徴が混在しており,リード楽器のなかで興味深くも奇妙な存在なのである。
双管オーボエの構造は古代ローマにおいて徐々に変化し,管の開口部に湾曲した喇叭をつけたフリギア・アウロス(小アジアのキュベレ神の祭祀とともに流入)や管の形状が円錐管のティビア(ローマにおけるアウロスの呼称)が登場し,あらたな音質・音量・音階の可能性が生まれた。その後,オーボエ属は単管で演奏されるようになり,二つの系譜に分かれた。ひとつは大きな複簧,円筒管,単管を特徴とし,シルクロードを経て日本まで伝わったヒチリキ・タイプ,もうひとつは小さな複簧,円錐管,単管を特徴とし,イスラム文化圏から中世にヨーロッパへ伝わったチャルメラ・タイプである。一方,クラリネット属は現在まで双管が受け継がれている。そしてリード楽器全体としては,クラリネット属(単簧,円筒管,双管〔チャンター管二本,あるいはチャンター管とドローン管〕)とオーボエ属(複簧,円錐管,単管)への二極化の傾向を見てとることができる。この主流の系譜に乗らず,サルデーニャで固有の発展を遂げたラウネッダスは,構造的に古代のクラリネット属とオーボエ属の特徴を未分化に留めており,その「古代性」はリード楽器の系譜を遡る上で興味深い。私たちは現存するラウネッダスのうちに,リード楽器がいまだ混沌としてオーボエ属とクラリネット属の区分もなかった原初の姿を,地中海の音楽世界の根源を垣間見ているかもしれないのである。
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地中海学会大会 研究発表要旨
中世後期トスカーナの宗教建築における濃強縞模様型ポリクロミアの様態
──異種の石材によるピストイアのビクロミアについて──
吉田 香澄
中世後期トスカーナでは,ポリクロミアが施された宗教建築が多く存在する。このポリクロミアを六つの類型に分類し,そのうち明暗対比が強調された2色で構成されている類型を「濃強縞模様型」とする。この濃強縞模様型は,異種の石材によるものと煉瓦と石材によるものに分けられ,ピストイア,プラート,ヴォルテッラ等は,異種の石材によるこの類型がみられる地域である。中でもピストイアは,その事例数が圧倒的に多く,施された規模も大きい。さらに,異なる縞模様の構成と幾何学模様を持つため,施されたビクロミアの形態は多様であるといえる。これより,ピストイアに焦点を当て,異種の石材による濃強縞模様型の特質を考察した。
ピストイアの最終市壁内において,ビクロミアが施されたと確認できる13件の事例のうち,濃強縞模様を持つ8件について,「濃強縞模様」と「幾何学模様」という二つの視点から形態分析を行った。まず,濃強縞模様については,抽出した形態要素においてビクロミアが施されているか否かを分析し,さらに施されたビクロミアがどのような形態であるかをまとめた。このビクロミアの形態について,縞模様を構成する明暗の帯幅をみると,ピサ・ロマネスク様式のファサードとゴシック様式の要素を付加したファサードの間に相違がみられる。サンタンドレア聖堂等,ピサ・ロマネスク様式のファサードで3廊式平面である事例は,ファサードの意匠,および平面構成だけでなく,ビクロミアの形態も非常に類似している。しかし,施された部分の幅には相違がみられ,幅の狭い事例ではビクロミアの模様も少ない。従って,ビクロミアの形態は,ビクロミアの施された規模に比例して多様化しているといえる。また,単廊式平面であるサン・ジョヴァンニ・フォルチヴィタス聖堂は,その北側面全面にビクロミアが施され,その濃密さと施された規模においてビクロミア建築の頂点であるといえる。一方,再建等により一部に尖頭アーチ,もしくはそれを持つロッジアを付加したファサードにおけるビクロミアの事例は,当初ピストイアに流布していたビクロミアの形態とは異なる。施されたビクロミアは明色と暗色が1段おきに積層したものではなく,明色の幅の方が広い。サン・パオロ聖堂は,下層部において明色に対して暗色が6:1,上層部では2:1の構成となっている。このビクロミアの形態は,開口部の少ないロマネスクのファサードの量塊感ある壁体の印象を軽減することに役立ったと推測されるビクロミアとは異なり,縞模様からうける印象が薄い。ピサ・ロマネスク様式のファサードとゴシック様式の要素が付加したファサードの間にみられる,このようなビクロミアの形態の相違は,他の地域ではみられないためピストイア特有の現象であるといえる。
次に,ファサードのロンビ内部に施された幾何学模様の様態を事例ごとに観察し,ピストイア以外の地域のロンビと比較をした。ピストイアでは,ロンビの大きさやロンビにビクロミアが施されているか否かにかかわらず,ロンビ内部の模様は複雑で濃密なものである。また,類似する形を用いて,異なる組み合わせを作り出すことにより,同じ模様は殆ど存在しない。しかし,ピストイア以外のロンビ内部の模様は,施されている事例数が少ない上に,多色で構成されるもの,もしくは,施された色の明暗対比が弱く,組み合わせが単純なものである。そして,多色を用いたものはピストイアの幾何学模様とは異なり,東方起源の文様を彷彿させる模様であるといえる。またピサでは,ロンビよりもディスコ内部において多くポリクロミアが施されている。このように,明暗対比の強い2色を用い,単純な形を複雑に組み合わせることで作り出されるピストイアのロンビ内部のビクロミアは,他の地域でみられるロンビとは異なり,ピストイアで独自に発展したものであると考えられる。
以上のことから,ピストイアのビクロミアの特質をまとめると次のようになる。第一に,ピサ・ロマネスク様式の要素を持つファサードとゴシック様式の要素が付加されたファサードにおいて,ビクロミアの形態が異なる。第二に,ロンビ内部の幾何学模様は,小さく単純な形を如何に複雑に組み合わせ配置するかという点で追求されたものであり,明暗対比の効果を十分に引き出した形態である。第三には,濃強縞模様と幾何学模様が共存し,両者が協調性を保ちながら,ファサード上を隙間なく埋め尽くしている。このように,ビクロミアを壁体に限りなく広範囲に,かつ濃密に施された事例は,中世後期ピストイアの宗教建築以外には存在しない。トスカーナにおいて広く流布しているポリクロミアであるが,ピストイアにおけるこのような徹底したビクロミアの使用は,ピストイア独自に発展した点において,トスカーナ内におけるポリクロミアの地域性を示しているといえる。
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地中海学会大会 研究発表要旨
フィデンツァ大聖堂ファサード彫刻と聖人祝祭
児嶋 由枝
北イタリア・エミリア地方西部の小都市フィデンツァの大聖堂は,12世紀中葉から13世紀初頭にかけて造営された。そのファサード彫刻は,イタリア中世を代表する彫刻家ベネデット・アンテーラミが関与したことで著名であり,従来その様式分析と年代設定が議論の対象となってきた。一方,図像に関してはデ・フランコーヴィッチの研究(1952年)以降,目立った成果はない。図像内容の多様さとともにその独特の世俗的性格も背景にあると思われる。
発表ではこうした状況をふまえて,ファサード中央扉両脇にある二つの家族像に焦点をあて,その図像について論じた。これらはいずれも父,母,息子によって構成され,身に纏っている衣服は一方は豪奢で他方は質素という,他に類例を見ない独自なものである。デ・フランコーヴィッチは,これらは「裕福な巡礼の家族」と「貧しい巡礼の家族」であり,貧富の差に関係なく敬虔な巡礼者は神の家である聖堂に迎え入れられることが表されていると解釈し,その後は彼の説が踏襲されてきている。
発表ではまず,ファサード彫刻を中心にフィデンツァ大聖堂の造営経過およびその歴史的背景を概観した。とりわけ都市の聖堂であると同時に巡礼聖堂であるという特殊な事情や,ファサード彫刻に特徴的な聖堂と都市の宗教的・政治的権威の称揚に注目した。後者に関してはさらに,12世紀から13世紀前半にかけてフィデンツァが神聖ローマ皇帝や教皇による各種の特権授与によって一定の自治を享受していたことにも留意した。
次に,二つの家族像が同時代の巡礼者の図像と多くの点で異なることを指摘し,さらに西欧中世美術における伝統的な貧者と金持ちの図像とも相容れないことを確認した。そして,これら二組の群像の衣服の違いは貧富という相対的な相違ではなく,所属する社会階層の違いに起因するものであることを論じ,さらに,おそらくは都市の住人とコンタードの住人を表すという仮説を呈示した。その手掛かりとして,同時代の12ヶ月の擬人像(月々の労働)における農夫の姿や中世後期イタリア北部・中部の都市国家の奢侈条例などをとりあげた。
ついで,中央扉に向かって歩を進めるこれら二つの群像は守護聖人ドムニヌスの祭日に催された行列を示唆しているという仮説を検証した。これに関しては,まずフィデンツァその他の都市国家における聖人祝祭パレードの内容に言及した条例や年代記に注目した。というのも,イタリア中世都市国家では聖人祝祭の際に都市の住人とコンタードの住人は別々の行列を組んで聖堂に向かい,奉献を行っていたからである。
さらに,従来「貧しい家族」とされてきた群像の一人の足の表現に注目し,パルマ洗礼堂の彫刻「秋・冬」との類似を指摘した。パルマ洗礼堂彫刻では,身体の右半分だけに衣を纏い,右足だけに靴を履き,そして背後に拡がる木の枝は左側のみに葉をつけているが,これらすべては,暑い季節から寒い季節への気候の移り変わりを暗示しているのである。一方,聖ドムニムスの祝日は10月9日で,まさに暑い季節が終わりを告げ,霧がたちこめる長い冬がもうすぐそこまで近づいている頃に祝われていた。そうすると,フィデンツァ大聖堂の片足のみの裸足も,季節の移り変わりを示唆していると考えることも不可能ではないと思われるのである。
発表では最後に,周辺農村の住民が聖堂ひいては都市に恭順を示すイメージが,都市住民とともにファサードに表されることによって,ボルゴ・サン・ドンニーノの自治,そして周辺農村支配権の顕示も意図されていた可能性に言及した。フィデンツァは聖堂造営当時,パルマ,ピアチェンツァ,そしてクレモナという近隣の強大な都市国家の侵攻に脅かされながらも,神聖ローマ皇帝と教皇による数度にわたる特権授与によって,一定の自治権を享受していたのである。そうであるならば,この二つの家族像は先に言及した聖堂の権威を称揚するファサード彫刻のコンテキストに矛盾することなく合致すると考えられる。
これら二つの家族像は,他に類例をみない,独自の図像である。一方,その独特の奔放で世俗的な性格ゆえに,中世北イタリアの人々の営みを率直に今日に伝える貴重な造形ともいえる。
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自著を語る37
Aristotelian
Meteorology in Syriac.
Barhebraeus, Butyrum sapientiae,
Books of Mineralogy and Meteorology
(Aristoteles
Semitico-Latinus 15)
Leiden: Brill, 2004, xix+724pp.,
€199.00
Hidemi Takahashi(高橋英海)著
シリア語に出会ったのは十五か十六のときだったと記憶している。より正確には,ブラックウェルズ書店の1階左奥,セム語関係の書籍の売り場で"Robinson's
Paradigms and Exercises in Syriac
Grammar"に出合った。この本に刻まれた未知の文字に惹かれた。比較的安価でもあった。迷わず買った。無論,当時は自分が将来シリア語研究なるものにはまってしまうなどとは夢にも思っていなかった。
その後,大学では西洋古典学を専攻し,"Robinson"のことは忘れていた。修士課程を終えた頃,アリストテレスのイスラム圏における伝承について研究してみないかと久保正彰先生に誘われた。紹介していただいたハンス・ダイバー先生に問い合わせたところ,アリストテレスのアラビア語訳の校訂か,バルヘブラエウスという人物のシリア語作品の校訂という二つの選択肢があるとのことだった。なぜか迷うことなくバルヘブラエウスを選び,本棚の隅から"Robinson"を取り出してシリア語の勉強を始めた。同時に中村廣次郎先生にアラビア語講読の手解きを受け,数ヵ月後にフランクフルトへと発った。
あれから早くも8年になる。2年前にフランクフルト大学に提出した博士論文の主要部分をこのたびライデンのBrill社から出版させていただいた。
校訂したのはバルヘブラエウス(1225/6〜1286年)の『英知の精華』(より正確には「英知の乳脂」)という作品の一部である。アリストテレス哲学全般を扱うこの作品がイブン・シーナー(980〜1038年)の『治癒の書』を主な典拠としていることは以前から知られていた。バルヘブラエウスがダマスカスのニコラオス(紀元前1世紀)の『アリストテレス哲学概要』のシリア語訳を用いた可能性も指摘されていた。このことを確認するためにニコラオスのシリア語訳の写本も読み込んだ。また,バルヘブラエウスのテクストを読んでいくうちに,イブン・シーナーとニコラオスのほかにも,古いところでは偽アリストテレス『世界について』のシリア語訳(6世紀),新しいところではアブー・ル=バラカート・アル=バグダーディー(1165年没)やファフル・アッ=ディーン・アッ=ラージー(1149〜1209年)の作品なども利用されていることがわかり,これらの作品を比較していく過程でアリストテレス『気象論』のシリア語・アラビア語における伝承の経路を明らかにしていくことができた。
「文献学専攻」と称している人間としては,テクストの校訂という作業に携わることは楽しかった。日々小さな発見があった。ニコラオスの写本にある「'rghst'ntw」という文字列がホメロスの"argestao
notoio"であることに気づいたときは興奮が冷めるのに数日かかった。どのシリア語辞書にも載っていないhapax
legomenaとの出会いもあった。
写本に関する調査もあった。シリア語写本の目録にはアラビア語の手書きのメモをそのまま複写して出版したものもある。もちろん索引はないため,端から端まで読むしかない。これはアラビア語のよい勉強になった。写本の調査でシリアを訪問したときには,一番見たかった写本のあるダマスカスのシリア正教の総大司教府では門前払いにあったが,アレッポでは現地のイブラヒム大司教の厚意でその存在さえ研究者にほとんど知られていない写本コレクションを見せていただいた。
シリア語文献の研究をしていくなかで,シリア語の世界やシリア語を用いる諸キリスト教会の世界にものめりこんでいった。4年おきに世界各地で開催されるSymposium
Syriacumや同じく4年おきにインドのコッタヤムで開かれるWorld
Syriac
Conferenceなどのシリア語研究の世界的な会議には研究者だけではなく様々な帽子や僧服をまとった司教や修道士も参加する。そういった会議では日本では目にすることのできない諸教会の典礼に与ることもできた。
以上,「自著紹介」よりはむしろ,執筆過程の紹介になってしまったが,せめて頁数の内訳だけでも紹介させていただくと,次のようになる:Introduction
1-70; Text and Translation 71-199; Commentary 201-584; Appendices
585-613; Bibliography 615-640; Indices
641-724。この内訳からもご推測いただけるように,内容についてはそう多くの方に楽しんで読んでいただけるようなものではないが,漬物石としての活用にも有効な重量の本であることを付け加えさせていただく。
この本の執筆に至る過程では上にお名前を挙げさせていただいた以外にも多くの先生方,先輩,同僚のご厚意を賜った。末筆ながら,この場を借りて厚く御礼を申し上げたい。
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地中海学会事務局
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