地中海学会月報 269
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2004| 4  



   -目次-















 *第28回地中海学会大会
  第28回地中海学会大会を6月26日・27日(土・日)の二日間,北海学園大学(札幌市豊平区旭町4-1-40)において開催します。詳細は別紙大会 案内をご参照下さい。
 
6月26日(土)
 13:00〜13:10 開会宣言・挨拶
 13:10〜14:10 記念講演
  「旅と宗教──パウロが歩いた古代地中海世界」 土屋  博氏
 14:30〜16:30 地中海トーキング
  「温泉・テルメ・ハンマーム,いやしの空間」
   パネリスト:小池寿子氏/佐々木巌氏/本村凌二氏/山田幸正氏/司会:宝利尚一氏
 17:00〜 移 動(バスで定山渓温泉懇親会場へ)
 18:30〜20:30 懇親会「定山渓万世閣ホテルミリオーネ」

6月27日(日)
 8:30〜 移 動(バスで定山渓温泉から)
 10:00〜11:30 研究発表
  「ラウネッダスの「古代性」──地中海の音楽世界におけるリード楽器史の一考察」 金光真理子氏
  「中世後期トスカーナの宗教建築における濃強縞模様型ポリクロミアの様態」 吉田 香澄氏
  「フィデンツァ大聖堂ファサード彫刻と聖人祝祭」 児嶋 由枝氏
 11:30〜12:00 総 会
 12:00〜12:30 授賞式
  「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
 13:30〜16:30 シンポジウム
  「都市と自然のユートピア」
   パネリスト:石川清氏/越沢明氏/澤井繁男氏/堀越英嗣氏/司会:野口昌夫氏

  懇親会および当日の定山渓温泉での宿泊は,名鉄観光サービス札幌支店(011-241- 4986)へ,別途お申し込み下さい。宿泊費(懇親会費を含む)は18,000円,懇親会参加のみの場合は8,000円になります。申し込み締め切りは5 月25日です(大会参加の締め切りは6月12日)。懇親会,宿泊の詳細は,名鉄観光サービスの案内をご参照ください。
  先月お送りした「第28回大会案内」中,佐々木巌氏(地中海トーキング・パネリスト)の所属を「ウェルネス ササキクリニック」に訂正します。
 








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 *春期連続講演会
  春期連続講演会をブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において開催します。各回とも,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,事前に美術館 で予約可)です。

 「地中海における文明の交流と衝突」
5月8日「南欧都市にみるイスラーム文化の影響」陣内秀信氏
5月15日「オスマン帝国とルネサンス」樺山紘一氏
5月22日「イスラームの地中海進出とビザンツ帝国」太田敬子氏
5月29日「アレクサンダー大王の場合」青柳正規氏
6月5日「フリードリヒ二世と十字軍」高山博氏
 








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 *会費納入のお願い
  新年度会費の納入をお願いいたします。請求書および郵便振替払込用紙は前号の月報に同封してお送りしました(賛助会費は別送)。
  口座自動引落の手続きをされている方は,4月23日(金)に引き落とさせていただきますので,ご確認ください(領収証をご希望の方には月報次号に同封 して発送する予定です)。また,今回引落の手続きをされていない方には,後日手続き用紙をお送りしますので,その折はご協力をお願い申し上げます(12月 頃の予定)。
  ご不明のある方,学会発行の領収証を必要とされる方は,お手数ですが事務局へお申し出ください。
 会費:正会員 13,000円/学生会員 6,000円
 口座:「地中海学会」
    郵便振替 00160-0-77515
    みずほ銀行九段支店 普通 957742
    三井住友銀行麹町支店 普通 216313
 








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 *石橋財団助成金
  石橋財団の2004年度助成金がこのほど決定しました。金額は申請の全額で40万円です。
 
 








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 春期連続講演会「地中海世界の宮廷と文化」講演要旨
 
 イスタンブルのスルタンの豪奢
 
 鈴木 董

 
  オスマン帝国は,13世紀末に,当時のイスラム世界の西北の辺境,イスラム世界とビザンツ世界の境界地帯であったアナトリアの西北部に出現した国家で ある。トルコ系ムスリムが核となって形成された国家であるが,1453年にコンスタンティノポリスを征服してビザンツ帝国を滅ぼし,このビザンツ一千年の 古都を帝都として,16世紀に入るとイスラム世界の中核地域まで支配下におき,イスラム世界における最後のイスラム的世界帝国というべき存在となった。
  オスマン帝国の支配領域は,地中海世界の約四分の三に及び,君主専制的・中央集権的帝国としての体制を備えるに至った。そして,この帝国の真の中心 は,かつてのコンスタンティノポリス,すなわち帝都イスタンブルであり,帝都の中心中の中心は,帝国の頂点にたつスルタンの居城であるイスタンブルの宮殿 であった。
  とりわけ,1478年に一応,完成し,以来,1857年に至るまでスルタンの居城たり続けたトプカプ宮殿は,4世紀近くにわたり,帝国の中心中の中心 となった。トプカプ宮殿は,公務の場を中心とする外廷(ビルン)と,スルタンの私的生活の場としての内廷(エンデルン)及び後宮(ハレム)の三つの部分か ら構成されていた。
  トプカプ宮殿は,巨大な超大国の中心中の中心であり,構造的にも巨大な建築物ではあったが,そのつくりは驚くほど簡素であり,装飾も,西欧のルネサン ス・バロック以降の諸宮殿に比すると,甚だ地味なものであった。それは,宮殿の唯一開かれた部分である外廷は,専ら機能的な公務の場であり,内廷と後宮は 外部に対し全く閉ざされた場であり,宮廷が社交の場ではなかったことによるところが大である。
  とはいえ,「豪奢は戦争より安くつく」というイスラム世界の帝王学を受け継ぎ,帝王に豪奢は不可欠と考えられ,豪奢な衣服・武具・調度を整え続けてい た。その必要を満たすべく,宮廷には,これら衣服・装飾品・調度から武具,さらには書物・絵画に至るまで種々の物品を制作するために,各分野についての第 一級の技巧を有する多くの職人たちがかかえられており,宮廷は多種多様な技芸のアトリエの集合体の観を呈していた。そして,宮廷は,オスマン芸術・工芸の 発展の最大の源泉となるとともに,その作品群の巨大な収納庫ともなっていた。
  これに加えて,オスマン朝の君主たる歴代のスルタンたちは,宮廷内の要をみたすためのアトリエ群のオーナーであるばかりでなく,建築から文学に至る諸 芸術・諸技芸のパトロンとしても,大きな役割をはたした。さらには,しばしばスルタン自身も自ら,芸術・工芸・学芸の実作者でもあった。コンスタンティノ ポリスの征服者メフメット二世は,ディーヴァン詩と呼ばれる古典定型詩のジャンルにおける優れた詩人でもあった。18世紀初頭,軍事外交的には衰退をみせ ながらも文化的成熟をとげつつあった時期に,「チューリップ時代」と呼ばれる華やかな一時期を現出したオスマン朝第23代スルタンのメフメット三世もま た,一方で詩と都市開発の大パトロンとなりつつ,他方で自らも古典定型詩を能くする詩人であり,かつ書家としても独自の境地に達していた。そして,「西洋 の衝撃」につき動かされ始めた18世紀末にスルタンとなったセリム三世は,トルコ古典音楽の世界で,今日でも演奏される作品を残している。
  16世紀中葉,オスマン帝国の黄金時代を現出した第10代スレイマン大帝もまた,一方では詩,他方で金工を能くするとともに,オスマン建築の巨匠ミ マール・シナンのパトロンとしてその才能に開花の機会を与え,トルコ古典定型詩の確立者というべき詩人バーキーの最も良き理解者の一人でもあった。
  こうして,オスマン帝国の宮廷は,オスマン文化の中の,とりわけ都市のエリート文化の発展の最大の原動力の一つとなり,その成果の一部は,今日のトプ カプ宮殿博物館の所蔵品群として今日に伝えられている。
  宮廷で育まれたエリート文化は,常に帝都イスタンブルの都市文化の発展の前衛となり,その都ぶりの文化の影響は,都市の庶民文化に対してのみならず, 次第に地方にも伝播して少なからぬ影響を与えた。逆に地方のひなぶりの文化もまた,たえず帝都イスタンブルにまで伝わり,次第に洗練されつつ宮廷へと浸透 していった。ここで,宮廷文化と都市の庶民文化のふれ合いの最大の場は,オスマン帝室の慶事に伴う帝都の祝祭であった。とりわけ王子の割礼の祝祭は,宮廷 で育まれた各種芸能から宮廷の食の世界に至る種々の宮廷文化の成果に,庶民も直接ふれうる場でもあった。
  オスマン帝国の文化は,宮廷のエリート文化・都市の庶民文化,そして地方の文化を貫通する交流の中で,独自の発展・洗練をとげていった。
 
 








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 研究会要旨
 
 ゴヤ《マドリード素描帖》における人物の身体表現について
 
 増田 哲子
 
 3月13日/上智大 学

 
  18世紀スペインの画家フランシスコ・ゴヤは,宮廷画家として油彩による大作を残す一方で,版画集や素描帖を制作していた。約1,000点の素描のな かで,油彩画と版画の下絵は約三分の一にすぎず,残りの多数の素描は,8冊の素描帖を中心とした独立した作品として制作された。研究会の発表では,《マド リード素描帖》(1796〜97)に着目し,素描帖序盤,中盤,終盤の人物の身体表現の特徴について考察を行った。この素描帖で,後の素描や版画に頻出す る魔女やグロテスクな人物が描かれ始めた。《マドリード素描帖》は,ゴヤによる厖大な素描群の出発点となるものだった。
  素描帖の前半には,当時のマドリードやカディスなどの都市で見られた若い男女の戯れの様子が描かれている。扇を持つマハと,彼女に助言を与える老婆セ レスティーナ,そしてマハの相手となる三角帽をかぶった男性などが描かれる。これらの素描の主題は,複数の人間(男女の)関係や相互的な振る舞いであり, それぞれの人物の役割が服装などによって明確に区別されている。また,これらの人物たちは,いくぶん誇張された,こわばった身体で表現されており,このよ うな身体表現は同時代のタイプ版画やタピスリー・カルトンなどと密接な関わりをもったものである。
  しかし,《マドリード素描帖》序盤の男女は,衣装などの記号的な表現で社会的立場を示しているものの,それを身体のなかに含みこんで描かれてはいな い。彼らは職業や立場を示す印を身体表面にまとっているだけで,身体そのものの表現としては,そのような社会的立場の影響や抑制を受けていない。序盤にお ける均整の取れた身体表現と中盤で登場するグロテスクな身体表現を比べてみると,同じ人物を描いたと推測されるものでも,その身体の形態は全く異なってい る。ゴヤは,「ペティメートレ」という洒落男を素描帖の序盤と中盤で描いているが,序盤の表現に対して,中盤のペティメートレは,膨れた腹と足,皺だらけ の顔を持つグロテスクな身体表現で描かれている。男性のグロテスクな身体を通して,ゴヤは,洒落男と連れの女の関係だけではなく,「ペティメートレ」の性 質そのものを表現しているのではないか。ペティメートレの派手な外見や過度の装飾性,うぬぼれや女々しさは,同時代の演劇や文学作品では強調されてコード 化され,嘲笑や批判の対象となっていた。ゴヤは素描のなかでペティメートレを,彼らに対する同時代の認識をふまえて描こうとした。つまり,抑制の無さや制 御不能の身体的欲望といった彼らに付与された性質を,彼らの身体に組み込んで描いたのである。同時代の社会的状況や価値付けを素描に導入し,それを表そう とするとき,ゴヤの筆は人物の身体を歪めてしまう。このような歪み,部分が誇張された身体や表情の表現は,《マドリード素描帖》以後の拷問や宗教裁判,戦 争などをテーマとした素描,狂人を描いた素描,そして魔術的な生き物を描いた素描において繰り返されていく。
  《マドリード素描帖》終盤では,酒を飲む者たちや詐欺師,娼婦,密売人などが描かれる。特に,娼婦は連続して描かれているが,素描帖終盤で描かれる娼 婦は,序盤で描かれる若い女性のように若々しい肉体を誇示したり,観者を魅了するような視線を投げかけたりはしない。ここで娼婦は,女性のセクシュアリ ティや官能性を具現した存在ではなく,強風に吹き飛ばされそうなドレスを必死でつかみ,手や頭を布で覆い,浮浪者や物乞いと同様の施設に連行される存在と して描かれている。
  だが,ゴヤの筆は,娼婦を社会的弱者として捉えるだけでは留まらない。連行される段では,顔も手も覆い,肩をすぼめて歩き,警吏たちに従っていたはず の売春婦たちが,牢獄のなかではうなだれる様子も見せずに,大きく足を広げ,両手をのびのびと使って糸を紡いでいるように描かれる。社会的な弱者として売 春婦を描くならば,ゴヤはより明確に悲しみや落胆を示すポーズと表情で彼女たちを表現しえたはずだが,《マドリード素描帖》の収監された売春婦は,放埓な 女たちとして描かれている。ゴヤの描いた売春婦は,社会的弱者として権力に取り込まれるだけではなく,それを茶化すように,牢獄のなかで堂々と座ってい る。女たちの身体は,彼女らを強制的に閉じ込めようとする同時代の社会的システムに抵抗しているのではなく,そのようなシステムには吸収されつくせないも のとして描かれている。
  ゴヤは,王族や貴族の肖像画だけではなく,民衆やマハ,ペティメートレといった人物たちを数多く描いている。これら無名の人物を描いた絵を読み解くた めには,18世紀スペインのファッションや風俗の状況を深く知ることが不可欠である。この発表では衣服などの類型的な表現だけではなく,描かれた身体その ものの歪みや運動性,筋肉や感覚表現に注目した。より明確にゴヤの描いた人物をとらえるために,さらにこの視点を深めていきたいと思う。
 
 








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 クリオの沈黙
 
 長田 年弘

 
  全ての肖像画は画家の自画像であるという考え方がある。描く対象が誰であっても,またどれだけ客観的に描写してあっても,その表現と筆触には画家自身 の個性が不可避に刻印されてしまう。ゆえに肖像画は,描かれる人とは無関係に,常に画家の自画像になってしまうという。
  歴史記述についても同じことが言えるのかもしれない。歴史家の抱懐する歴史像も,常に歴史家個人や時代の関心のありようを反映せざるをえない。過去を 想定しているつもりでも,自画像を描いているにすぎないのではないかと思うことがある。むろん,その積み重ねによって過去の多面的な像が構成され,学問が 深められるということもあるのだろう。確かにそう思うのだが,ただ,他者を理解することはついに不可能なのかと考えてしまうときがある。
 
  紀元前5世紀の彫刻家ポリュクレイトスが制作した《槍持つ人(ドリュフォロス)》は,かつては古代ギリシア美学理論の体現と目され数々の議論が交わさ れてきた。もし彫刻が口をきけたら,「あの頃は良かった」と嘆くかもしれない。以前は賞賛の花束に埋もれていたからである。人間もその一部である cosmic harmonyの視覚化と讃えられ(H. Meyer),あるいはピュタゴラスの哲学になぞらえられ(J. J. Pollitt),あるいはヒポクラテスの医学に比較された(G. Leftwich)。人体比例の「カノン」は,「大いなる覚醒(E. H. Gombrich)」を経験した「ギリシアの奇跡(W. Deonna)」だけが成しえた,西欧の自由な人間的精神の結実と見なされていた。
  今はどうだろうか。そもそも古典期の芸術を論じる研究自体の数が激減しているのだが,それはともかく,昔も今も美術館の中でひっそりと立ち続ける彫像 に寄せられるのは,今では決して賛嘆の声だけではない。今日の,主として英米の研究者の主張によれば,《槍持つ人》の美しさは古代社会において弱者を抑圧 する体制護持のために機能していたという。社会学と古典考古学を縦横に論じ,芸術作品を,共同体において連動する一群の「評価基準」の媒介と見なすJ. Tanner(ロンドン大学)は言う。古代ギリシアにおける肉体美の表現は,美学や哲学の自律的な表現などでは決してなかった。他の何よりも,軍事国家の 社会規範としての役割を担っていたと。市民の身体は国家に属すると見なされていたがゆえに,男性の肉体の美しさは体制のために戦場において犠牲となりうる body-capitalの永続的な体現として,公共の場で機能していたという(J. Tanner, "Social structure, cultural rationalisation and aesthetic judgement in classical Greece", Word and Image in Ancient Greece, ed. by N. K. Rutter et B. A. Sparkes, Edinburgh 2000, pp.183-205)。同様のコンテクストをN. Spivey はより簡潔に,body fascismと表現している(N. Spivey, Understanding Greek Sculpture -- Ancient Meanings, Modern Readings, London 1996, p.39)。
  Tannerの分析は,まるで時計の裏蓋を外してその精巧なからくりを見せるように,イメージの社会的役割を鮮やかに解析してみせる。軍事,祭典,競 技,教育の様々な共同体の催しの場で,芸術をめぐる言葉がいかに人々の評価行動と関わっていたかを検討する。ただしTannerの抱く歴史像は,おそらく 批判の対象としての歴史像である。権力関係の構築に光を当てることが主たる目的であり,いわゆる「社会的背景」のパースペクティヴが想定され芸術作品もそ こに埋め込まれて解釈される。
  私たちの問題意識から発した歴史分析は,たとえそれが充分に自覚的で説得的であっても,私たち自身を超越する視点を提供することはないのではないかと 思う。そうした分析はしばしば,確かに驚くほどリアルで読者に否応なく再考をせまる力を有している。しかし,つまるところ,他者の中に私たち自身の自画像 を発見する試みではないかと感じられることがある。ある歴史解釈が圧倒的にリアルに感じられるとき,そのリアルさは,実は私たち自身の問題意識からくるリ アルさにすぎず,その現実感を過去に投影して錯覚しているだけではないかと考え込むときがある。得られた歴史像が,自他を切る刀の及ぶ範囲にしか言及しな いように感じられるからだろうか。
  他者を他者の立場に立って理解する試みは不可能だろうかと自問する。英語で言う"put oneself in his shoes"の試みが必ず挫折するとも思われないのだが。
 
 
 








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 自著を語る36
 
 リチャード・ベル著『コーラン入門』
 
 医王秀行訳 ちくま 学芸文庫 2003年9月 499+33頁 1,575円
 
 医王 秀行

 
  コーラン研究の世界的権威であるR.ベルについては熊田亨訳『イスラムの起源』(筑摩書房,1983年)の著者として,あるいはW.M.ワットの学問 上の師として日本の研究者にも多少は知られていた。彼の生涯について伝えるものは少なく,学会誌の死亡記事から簡単な略歴が知れる程度である。エジンバラ 大学で旧約聖書学,ヘブライ語学を修め,ドイツ留学を経てコーラン研究へと進んだ。敬虔なプロテスタントの牧師でもあり,地味な生活ぶりで有名だったが, いかにして偉大なアラビスト,コーラン学者たり得たかは興味のあるところである。
  彼の偉業は1936年に『コーラン訳』を完成させたことにある(詳細な訳註『コメンタリー』は1991年になってから出版された)。単なる翻訳に終わ らず,コーランをテクストとして徹底的に分析し,啓示の書き換え,加筆,廃棄,裏面の使用,脚韻の整理の事例を克明に示した。1953年に出されたこの 『コーラン入門』は彼の研究の集大成であり,ムハンマドの生涯,彼が筆記をした可能性,コーランの収集,アラブ詩とは異なるコーランの韻の性格,編集作業 がムハンマドによって成されたことの証拠,徴から始まって懲罰物語,コーラン,キターブへと続くコーランの発展段階,教義の変遷のあと,ユダヤ・キリスト 教の聖典から取り入れられた章句などが詳しく語られる。本書はそれ以前のコーラン研究書をはるかに凌駕するものであり,刊行から半世紀経った今でもベルの 説を根底から覆す研究は出ていない。
  特に重要であると思われるのは,いったんムハンマドの口から信徒に向けて発せられたコーランの章句はそれで確定したわけではなく,ムハンマド自身の手 でその後も改訂され続けていったということである。そして,そういった改訂作業をムハンマドは実際に手元の書面に手を加えることで行ったのである。ムハン マド自身が筆をとったか,秘書が筆を入れたかはさして本質的な議論ではない。コーランはそもそも書面としてムハンマドの時代に存在していたという事実を認 めることが重要である。
  今日でもイスラム世界や日本では,読み書きが出来なかったムハンマドは,天使を介して授かった啓示を書き写すことなく,信者にそのまま朗誦していたと 理解されている。確かに「コーラン(より正確な発音はクルアーン)」とは,「朗誦すべきもの」の意である。しかし,「コーラン」以外にも,この聖典の呼び 名は様々ある。その代表的なものが「キターブ」である。メッカ時代から主に礼拝時の朗誦用に使われていた「コーラン」は,メディナ初期にムハンマドがユダ ヤ・キリスト教の聖書に相当する聖典を生み出そうと決意したときから「キターブ」という名に変わった。そして「コーラン」という呼び名はほとんど使われな くなる。「キターブ」とは「書物」を意味し,「啓典」と訳されることが多い。つまり,ムハンマドが「書物」を扱っていたことはコーランの章句からも普通に 読み取れるのである。この書物は彼の頭の中にだけ存在したものでもなく,遠く天上にあったのでもない。彼の手元に存在していた。後に,カリフ・ウスマーン の命でコーランを校訂するザイド・ブン・サービトは,ムハンマドの未亡人ハフサが保持していたこの原本をもとに,校訂作業を行うのである。
  では,なぜ「キターブ」ではなく「コーラン」という名が定着するに至ったのだろうか。イスラム学者がこの聖典を「書物・啓典」でなく「暗誦するもの」 と呼ぶのを好んだのはなぜだろうか。ベルが述べるように,ムハンマドが文盲であったほうがコーランの奇跡は際立つといった面もあったろう。おそらく,ムハ ンマドの死後早い時期から,ムハンマド自身の手によって書かれたコーランの存在は忘れさられたことだろう。ムハンマドの教友のほとんどはコーランを暗記し ていたとみなされるようになった。現在でもコーラン全巻の暗記はイスラム教徒に推奨されている。その他にも宗教上の理由が考えられよう。イスラムの神学 上,コーランは「神の永遠の言葉」である。キリスト教のイエスにあたる存在がイスラム教のコーランである。本源的には天上の神の御許に存在するものであ る。こういった観念も,コーランを筆記し編集するムハンマドといった考えを受け入れがたくしている要因と言えよう。
  イスラム世界のコーラン解釈学には,十数世紀にわたる膨大な蓄積があるが,ベルの研究とは性格上相容れない。ヨーロッパの学界もベルの業績を正統に評 価し,継承してきたとは言いがたい。コーランはイスラムの根幹をなすものであるが,日本にはコーラン研究者がほとんど存在しないというのが現状である。本 書『コーラン入門』の刊行を契機にコーランに関わる様々な議論,研究が盛んになれば幸いである。
 
 
 








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 〈寄贈図書〉
 
 『地中海の聖なる島サルデーニャ』陣内秀信・柳瀬有志著 山川出版社 2004年3月
 『読む ブリヂストン美術館』石橋財団ブリヂストン美術館 2003年2月
 『古代オリエント博物館紀要』XXIII(2003)
 『イタリア図書』「追悼 イタリア書房創業者伊藤基道」29(2004)、伊藤基道「論題 Divina CommediaにあらわれたるVergilius」30(2004)
 
 








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 意見と消息
 
 ・『トロイア滅亡史』はグイドという13世紀シチリアのフレデリコ二世の宮廷で活躍した歴史家文人判事のラテン語著作の本邦初訳。中世ヨーロッパ・トロ イア物語の基本文献で絶大な影響をもって広く読まれた著作。今年は昨年に引き続き2ヵ月南イタリア・マルタ・チュニジア・ギリシア・ロシアetc.を── 古代地中海ギリシア植民地探訪をテーマに各地歴訪。目下ボッカッチョのトロイア物語の上梓準備中。(2003/10)  岡 三郎

 ・3月24日に岩波書店から『蒼穹のかなたに』という小説を刊行致します。スイスのフランス語圏の エティエンヌ・バリリエという作家の作品で,副題は「ピコ・デッラ・ミランドラとルネサンスの物語」。フィチーノ,ピコ,パドヴァのアリストテレス主義 者,ボッティチェッリなど各種の思想が奔騰する1480〜90の思想小説。対話が多く,筋書きも波乱万丈。上下二冊。各2,400円。(2004/3)   桂 芳樹

 ・学会になかなか出席できず残念です。ご盛会をご期待いたしております。(2004/4)  丹野  郁

 ・東京女子大学比較文化研究所では創設50周年記念講演会「大印刷時代の展開」(樺山紘一氏)を5 月29日(土)に本大学善福寺キャンパス講堂で開催します(問合せ先:電話03-5382-6470)。(2004/3)  樋脇 博敏
 








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 図書ニュース
 
 石井 元章 Venezia e il Giappone, Istituto Nazionale di Archeologia e Storia dell'Arte 2004年2月
 岡  三郎 『トロイア滅亡史』(解説付き)グイド・デッレ・コロンネ著 翻訳 国文社 2003年3月
 澤井 繁男 『英文読解完全マニュアル』ちくま新書 2002年11月/『魔術との出会い』山川出版社 2003年3月
                        『マキアヴェリ,イタリアを憂う』講談社選書メチエ 2003年9月
 丹野  郁 『西洋服飾史 図説編』東京堂出版 2003年9月
 辻 佐保子 『ローマ サンタ・サビーナ木彫扉の研究』中央公論美術出版 2003年11月
 福本 直之 『狐物語』共訳 岩波文庫 2002年5月/『狐物語 2』共訳 渓水社 2003年12月
 福本 秀子 『ヨーロッパ中世を変えた女たち』NHK出版 2004年3月
 
 
 
 








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 表紙説明

 旅路 地中海3:古代ローマの旅と 道程表/島田 誠

 
 
  ローマ帝国の支配下,いわゆる「ローマの平和」の時代の地中海世界では,多くの人々が旅をしていた。商人たちは,地中海の東から西までを商品を持って 旅をし,多くの者たちが,各地の旧蹟や聖地を訪れていた。哲学者や医師などは,より高い学識を求めたり,有力な保護者を見付けるために,アンティオキア, ロドスやアテネ,そしてローマへと旅していた。ローマの元老院議員や騎士たちは,属州行政官として任地に赴いたり,各地に所有する農場や不動産の管理のた めに旅をした。皇帝たちも帝国各地の行政を視察し,ときには自ら軍隊を率いて辺境地域や外国への遠征を試みていた。
  このように様々な旅を行っていた古代ローマ人たちは,旅に出ようとする際に,どのようにして目的地までの道程,経由すべき場所やその間の距離などの情 報を知ることが出来たのだろうか。ローマ人たちが先ず頼りにしたのは,街道沿いの二つの地点(都市などの居住地,道しるべや宿駅etc.)とその間の距離 を記した一覧表である道程表itinerariaと呼ばれる記述であった。そのような一覧表は,ローマ軍が敵地において街道を建設しつつ行軍したときの記 録が起源であり,ローマ世界の特徴とされ,それらが何世紀にもわたって多くの旅人によって実際に使用されていたと考えられている。
  現在まで写本の形で伝えられている道程表の中で,もっとも浩瀚かつ著名なのは,『アントニーヌス帝の諸属州道程表Itineraria provinciarum Antonini Augusti』と呼ばれるものである。これはその記述内容から3世紀の終わり頃のものと考えられている。そこでは,例えば属州アーフリカの内陸部,州境 近くの都市Thelepteから海岸の都市Tacapasまでの旅程が,途中の地名5箇所をあげて次のように記されている。「またThelepteから Tacapasまで152マイル。Gemellas22マイル,Gremellas25マイル,Capsae24マイル,Thasarte35マイル, Aquas Tacapitanas28マイル,Tacapas18マイル」
  一方,地図の形で記されるitineraria pictaと呼ばれるものもある。その代表が『ポイティンガー図Tabula Peutingeriana』と呼ばれる横に細長い地図(高さ約30cm,幅約700cm)である。この図は,1200年頃の写本から知られるが,その内 容はローマ帝政後期の4世紀頃の状況を伝えており,原型はさらに遡ると考えられている。この図はヒスパーニア・ブリタニアからインドまでを含む世界地図で あるが,全幅の六分の五が地中海世界とそこでの街道のネットワークで占められ,イタリアが全幅の三分の一を占めるほど大きく描かれている。小都市は地名だ けが記され,主要な都市は建物の形の記号で示され,ローマ市をはじめとする幾つかの大都市は人格化されて女性の姿で描かれている。2地点を結ぶ線の傍ら に,距離がローマ数字で記されているのである。
  本号の表紙に掲げたのは,この『ポイティンガー図』の一部である。上下二つの横長の黒い部分が海(上がアドリア海,下がティレニア海側の地中海本体) を表し,上部の陸地がバルカン半島のダルマティア地方,中央部がイタリア南部,下部がアフリカの一部である。イタリアの下側には二つの半島に挟まれたナポ リ湾が描かれ,右端下部にはシチリア島の一部が見えている。
 
 












地中海学会事務局
〒160-0006
東京都新宿区舟町11
小川ビル201
電話
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FAX
03-3350-1229


















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