地中海学会月報 267
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM



        2004| 2  



   -目次-






学会からのお知らせ










*3月研究会
 下記のとおり研究会を開催します。奮ってご参集下さい。

テーマ:ゴヤ《マドリード素描帖》における
    人物の身体表現について
発表者:増田 哲子氏
日 時:3月13日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円

 ゴヤの《マドリード素描帖》(1796〜97)には80点近くの素描が収録され,その主題は様々である。ここでは,「ペティメートレ」と呼ばれた男性や娼婦の素描に着目し,素描帖における彼らの身体表現の変化を考察する。素描帖のなかで,これらの人物は社会的存在として描かれ始め,彼らを取りまく社会システムを身体で表現しながらも,さらに,それに収まりきらないものも表していく。この点を,具体的な表現から明らかにする。










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*会費納入のお願い
 学会の財政が逼迫しております。会費を未納の方は至急下記学会口座へお振り込み下さい。なお,新年度会費については3月末に改めてご案内します。
  会費:正会員 13,000円/学生会員 6,000円
  口座:郵便振替 00160-0-77515
     みずほ銀行九段支店 普通 957742
     三井住友銀行麹町支店 普通 216313











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表紙説明


旅路 地中海1:アクィンクム(ブダペシュト)/秋山 学



 地中海をめぐっての「旅」あるいは「道」をテーマにした,新企画によるリレー・コラムのスタートである。初回には必ずしも相応しくないかも知れないが,古代ローマ帝国東北部のさいはての地,アクィンクムがすぐに思い浮かんだ。
 アクィンクムは,ハンガリーの首都ブダペシュトの北部,オーブダ地域に残る古代ローマの遺跡である。軍用・市民用それぞれの円形劇場跡が残り(A.D.145年および162年頃に各々建設),市民用劇場に近い市跡地区には考古学博物館がある。表紙写真はこの市跡地区の入口門標で,‘AQUINCUM polgárvárosának romterülete’(アクィンクムの文民都市遺跡地区)と読める。ハンガリー語はアジア系のウラル語族に属する。polgárvárosánakの語尾〜nakは「与格接尾辞」で,次に続く語彙に対する所有関係を表す。〜nak の前の〜áは,この語彙がその前に置かれたAQUINCUMに属することを示す所有接尾辞である(長音化)。接尾辞は日本語の格助詞に似る。polgárは「文民」,városは「都市」,romは「遺跡」,területは「区域」で,その末尾に付された〜eは上記の〜áと同様,所有接尾辞であるが,‘a’/‘e’と音が異なっているのは「母音調和」による。そしてこの「母音調和」とは,古代日本語を含め,トルコ語やフィン語など,アジア系の諸言語に共通する現象なのである。
 現在のブダペシュトは,東岸のペシュト,西岸のブダおよびオーブダの三都市が1873年に合併してできた東欧有数の大都市であるが,このあたりはローマ時代,ドナウ川の南・西にかけて拡がる属州パンノニアに含まれていた。パンノニアは,A.D.50年前後に属州イリュリクムの北部が分立して属州とされたことに遡源する。ドミティアヌス帝の頃(81〜96)にはここに基地が置かれて第II軍団Adiutrixの駐屯地となり,トラヤヌス帝(98〜117)治下(106)には,パンノニアが上部・下部に二分割されたことに伴い,アクィンクムは東部に位置する下部パンノニアの首都となる。初代の下部パンノニア総督としてここに滞在したのは,後のハドリアヌス帝である。さらに同帝(117〜138)の初期,120年には自由都市(municipium)アエリウムとして,またセウェルス帝(193〜211)の下,194年には植民市(colonia)セプティミアの名で,アクィンクムは文民都市としても発展を続ける。ディオクレティアヌス帝期(296)には,上下両属州が各々さらに分割され,アクィンクムはウァレリア州の首都とされる。しかし4世紀以降,パンノニアは蛮族の襲撃に晒されて疲弊し,379 年にはゴート族とフン族による破壊を受け,433年には最終的にフン族の手に委ねられる。当地が現在のマジャル族による支配の下に置かれるのは,下って9世紀末のことである。欧州にある古代ローマの辺境地区が,現在ではアジア系言語圏に含まれることを知り,地中海文化圏の広がりに思いを致して感慨を覚えるのは,おそらくわたくしだけではあるまい。











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秋期連続講演会「宮廷をめぐる芸術」講演要旨

ヴァン・ダイクとチャールズ1世


中村 俊春




 宮廷画家という言葉から,華やかな暮らしぶりを連想する人も多いだろう。チャールズ1世の宮廷におけるヴァン・ダイクこそ,まさに,そうしたイメージに最も合致する画家であったと言えるかもしれない。ベッローリが,イギリス国王チャールズ1世の廷臣で,ヴァン・ダイクの友人であったケネルム・ディグビーから得た情報に基づいて執筆した伝記には,次のように述べられている。「[彼は]新たに得た富を気前よくつかった。というのは,国王を初めとして,頻繁に最高位の貴族たちが,彼の家を訪れたからである。国王は,そこで,彼が絵を描くのを眺め,彼とともに時間を過ごすのを好んだ。その荘厳さにおいて,彼はパラシオスにも匹敵し,召使い,馬車,馬,音楽家,歌手,道化を擁していて,肖像画を描いてもらうために日ごとに彼のもとを訪れる高位の者たち,騎士たち,貴婦人たちを楽しませたのである」。
 事実,稀代の美術愛好家であったチャールズ1世は,1632年の春にロンドンに到着した33歳のフランドル人の画家を実に手厚く遇したのであった。国務大臣に命じて,5月末までに,セント・ポール大聖堂の南西に位置するテムズ川沿いのブラックフライアーズに庭付きの家を見つけさせ(1635年には国王がそこを船から直接訪れることができるように新たに階段と歩道が設けられる),7月には「国王夫妻に仕える主席画家」に任命し,セント・ジェイムズ宮殿においてナイト爵を授与している。そして,1633年には,110ポンド相当の金の鎖を贈るとともに,200ポンドの年金の支給を決定したのである。しかも,ヴァン・ダイクは,美術コレクションの管理のような,通常の宮廷画家の責務を負わされることもなく,国王に随行することも求められなかったのだ。そして,王室のために制作した作品に対しては,別途支払いを受けたのである。たとえば,1637年2月23日には,「我々の使用のために納入された複数の絵画」のために,1,200ポンドもの大金が彼に支払われたことが知られている。このようなチャールズ1世の厚遇に対して,彼が深く感謝していたことは,肩にかけた金の鎖を左手の指に絡め,右手で向日葵(その象徴的な意味のひとつは家臣の君主に対する忠誠である)を指し示す身振りをした有名な自画像からも窺えるだろう。
 ロンドンにおいて,ヴァン・ダイクは,主として肖像画家として活動した。チャールズ1世の肖像画として最もよく知られた作品である《狩猟の国王》に顕著なように,人物の相貌および身振りに,きわめて魅力的な気品,優美さ,ならびに威厳を付与することのできたヴァン・ダイクのもとに,王室および貴族たちから肖像画制作の依頼が殺到したのも,当然の成り行きであった。フランス国王アンリ4世の娘である王妃ヘンリエッタ・マライアの場合,全身像,四分の三身像,横顔など,実に20点以上もの肖像画が制作されたのである。これらの作品において王妃は,オランダ人画家ダニエル・マイテンスが描いた肖像画に見られる人物とはまったく異なった,あでやかな美貌の女性として表されているのだ。顧客たちがヴァン・ダイクの卓越した技量に何を期待していたのかは,サセックス伯爵夫人の言葉から窺い知ることができるだろう。夫人は,ヴァン・ダイクがあまりにも多くの宝石を身につけた姿で自分を描き出したことは事実に反すると不満を述べながらも,後世の人々が自分を実際以上に裕福であったと思うであろうから,そのことはよしとするとし,一方,顔がふくよかすぎる点については,ロンドンを訪れた際に直してもらうつもりである,と述べているのである。
 経済的な成功にもかかわらず,野心的なヴァン・ダイクは,このような顧客の自尊心,虚栄心の満足のための肖像画制作のみに自らの画才を用いることに,とうてい満足できなかったのではないだろうか。チャールズ1世がヴァン・ダイクの招聘を決定した主たる理由は,彼の作品《リナルドとアルミーダ》を入手し,ティツィアーノの神話画に連なるその作風に深い感銘を受けたからであると推察されている。実際,ベッローリは,ヴァン・ダイクが,チャールズ1世のために《パルナッソス山のアポロとムーサたち》など数点の神話画を制作したと述べているのだ。しかし,ベッローリが言及している作品は1点も現存せず,今日我々に伝わる,この時代に制作された神話画は,傑作《クピドとプシュケ》ただ1点のみである。我々にとって非常に残念なことに,ヴァン・ダイクには歴史画を描く機会がほとんど与えられなかったと考えられるのである。それゆえ,1640年にルーベンスが亡くなり,この巨匠の影に隠れてしまう恐れがなくなったとき,彼が,チャールズ1世の宮廷を去り,故郷アントウェルペンに帰還せんとしたのも当然であった。しかし,彼の健康はそれを許さず,1641年12月9日,ブラックフライアーズで息を引き取ったのである。











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研究会要旨

モロッコ・フェスの新市街
──植民都市から現代モロッコの都市へ──

松原 康介


12月13日/上智大学



 本発表では,モロッコの旧都フェスにおける,新市街の歴史と現代のあり方について明らかにした。旧市街外殻に建設された新市街は,フランス保護領時代に設計・建設された近代都市である。建築線と区画整理によって実現された,広場と都市軸からなる西欧的空間は,独立後,モロッコ人の手によって,いかなる継承・発展を見たのだろうか。その一端として新市街のモスクに着目し,創建の経緯,ハブスによる維持管理の仕組み,更に整形敷地上の計画的特質について概括し,現代におけるフェスのあり方について議論する。
 新市街は保護領総督リヨテの意向の下,西欧人入植者のための空間として計画・実現された。都市計画を担当したのは青年期のH.プロストである。社会改良団体ミュゼ・ソシアル(Musée Social)出身のプロストは,複数の広場とそれらを結合する都市軸を基調とした,バロック調の理想主義的な設計方針を採用した。また,それを実現した都市計画の仕組みも充実しており,建築線制度は壮大な都市軸と整った街路ファサードの形成を誘導し,区画整理制度は敷地形状を整え,道路や広場等の公共空間を創出した。その結果,フェスの新市街の街並みは,「モロッコにおけるフランスの顔」と呼ばれる西欧型都市の景観を呈したのである。植栽された大通りは4階建てアパルトマンが並び立ち,広場にはオープン・カフェが開店した。また,カトリック教会2件,競馬場も存在し,宗教,遊興関連の施設も整えられていた。
 1956年の独立と共に入植者は引き上げ,新市街はモロッコ人の地所獲得と居住が進展する。現在,過密化した旧市街人口の受け皿,第二のセンターとして活性化することが政策上の課題である。空間レベルにおいては,モロッコ人独自の生活様式が新市街の利用のされ方にも反映されていくものと考えられる。新市街におけるモスクの創建は,その端緒として位置づけられる。
 プロスト設計の最初の新市街地においては,現在五つのモスクが存在する。まず,それぞれについて,イマームへのヒアリングからモスク創建の経緯を明らかにした。チュニス・モスク(1957)は元々新市街の一角で使用人らの小型モスクとして運営されていたものが,国王モハメド5世とチュニジア大統領ブルギバの来訪,寄進を得て専用建築として再建されたものである。新市街のモスク不足が認知され始めた頃,イマーム・アリー・モスク(1984)がカサブランカの富豪の寄進を受け創建にこぎつけた。ブ・タシャフィーン・モスク(1987)は元来カフェの地下で運営されていた小モスクが,旧市街の絨毯商人の寄進を得て専用建築として再建された。アブーバクル・セッデーク・モスク(1987)はアパート一階部分の自動車整備工房をモスクへと転換したもので,小モスクの今日の事例といえる。イマーム・マーリク・モスク(1994)は陶器会社コセマの社長,タジモウアチ親子によるモスク建設の一環として建設されたフェス最大のモスクである。総じて,モスクは独立以後に,権力者や富裕者による大規模寄進をきっかけに専用建築の体裁を整えているが,保護領時代における地下運営の,文字通り「祈る場所」としての小モスクの胎動も示唆された。
 こうして創建されたモスクの,維持・管理の仕組みはモスクに付随する店舗からの寄進(ハブス)である。歴史的には,旧市街におけるブ・イナニア・マドラサのハブス店舗が顕著に機能したと言われている(J.Luccioni)が,新市街のモスクは設計者がそうした歴史的な仕組みを理解した上で意図的に組みこんだものである。上記5モスクのうち,3モスクはハブス店舗を備え,個々の店舗はモロッコに典型的な雑貨店や食料品店等である。これは周辺の商店街とも連担し,いわば商業と宗教の近代複合施設として発展している。
 新市街の整形敷地に立地することによる,モスク建築の計画的特質は,1ブロック1モスクで全ての立面が道路に面し,また中庭が存在しない等である。不整形・共有壁・中庭形式といった特徴を持つ旧市街のモスクと比較して,新市街のモスクは,開放空間を建物外部に求める点に共通点がある。本来中庭の意義は,高密で騒がしい旧市街の細街路から建物に入ると,一転して中庭で明るく静かな空間を確保しうる点にある。新市街のモスクは近代道路に囲まれ,礼拝室を縮小して中庭を確保する必然に欠けるのである。中庭とは「内側に向かって開く」空間構成原理の現れであるが,それは新市街に立地することで意味を失い,屋根付の礼拝室をメインとし,複数の入口を設けるプランが意図的に採用されている。
 新市街のモスクは今後の新市街の再利用と活性化に重要な役割を果たすことが期待されるが,それは新市街独自の持続システムと空間的特徴を持った,新しい都市のあり方を示している。











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ギリシアのバシと乳房のタマが現す身体的場
──芸術と人類学が出会うところ──

山口 惠里子



 私がD. G. ロセッティの絵画を学んだイギリスのイースト・アングリア大学の美術史コースでは,人類学の立場からの芸術研究が賞揚され,学生は人類学の専門書を必読書として読んでいた。そうしたなかで身体技法や身ぶりの文献を読みながら,私はロセッティの描く女のぎこちない姿勢や奇妙な運動性に注目した。絵画のなかの身体も日常を生きる身体と同様,単独で存在しているわけではない。必ず何らかの道具が身体のポジションを決めている。こうした身体と道具,世界との関連を探るために,椅子という道具に注目するようになった。
 身体と世界の結び目にある身体技法と椅子。この結び目を日常の交渉世界のなかで紐解こうとしてギリシアで坐の様式の調査を始めた。ギリシアの山村からヨーロッパの坐について考えてみたかったからである。ギリシアの坐が生みだす場は,西ヨーロッパの床上50cmほどの個人用椅子に坐ることによって生まれる対面的な場とはまるで異なったものだった。広場のカフェニオに集まる男たちは対面になって坐らずに,壁際に置かれた椅子を中央に向けて坐り,誰とでも話ができるように坐る。だが大事な話になると,連れ立って歩いていき立ち話を始める。彼らにとって坐ることは他者に身体を開くことなのである。家族が集うときには村人たちは,高さが20cm前後で縦横が2mほどの台「バシ」の上に複数で半臥半坐になる。この姿勢は身体を他者へと投げだす技法である。そうしてそれぞれの身体を「斜め」に投げ出したところに親密な身体的な場が生起する。バシは,村人の身体を半臥半坐にして家族の日常の場に置き入れる道具なのであり,この場が村の共同体へと連なっていく。
 村の教会で,(バシのように)村人の身体と共同体を結んでいる「乳房」にも出会った。その乳房はマリアのイコンに嵌め込まれていた。正教のイコンは肉体性を喚起しないはずなのだが,かすかなふくらみを持つ銀のまるい乳房がマリアの胸の位置で露わになっていたのだ。異様に思って村人に聞くと,この乳房は「タマ」と呼ばれる誓願物で,マリアに祈った結果,授乳できるようになった女性が奉納したものだという。母乳が出なかったという女性の私的な秘密はタマによって明らかにされ,秘密を共有する共同体を生んだ。けれど,村人たちは誰が乳房のタマを付けたのか知らないし,知っていたとしてもそれは問題ではないという。乳房を作った銀職人の名も記されていない。起源をもはや必要としない乳房は,イコンにただ在ることによって,母乳の出ない女に共同体が課したいわゆる「暴力」とマリアの恩寵を示し続けている。乳房をイコンから取らないでいる村人たちは,タマに込められた「痛み」と祈りの言葉をイコンに留めたままにしているのである。
 タマは正教の教義には組み込まれていない民間信仰であり,乳房のタマはあくまでartifact(人工品・まがい物)である。だがその乳房は,マリア像と村人のあいだに生まれる宗教的な共同体の余白に,秘密を共有する別の共同体,別の社会関係を作り出し,さらに,「痛み」を示し続けることによって身体の根源的な脆弱性に開かれた場を生起し,その場のなかに村人たちの身体を置き入れる。この場の彼方にマリアの恩寵が届く場が現れてくる。けれども,こうしたタマの効力は,タマがイコンのマリア像の上にある限りにおいて,またそれゆえにわずかなふくらみのみを持つことを許された乳房のartifactである限りにおいて,放たれているものなのだ。
 前述のバシもいわゆる「芸術品」ではないが,村人は特有の文様を織り込んだ羊毛のカバーをかけて家族の集う台を飾る。そのような装飾台であり座具でもあるバシは,大地から20cm上げられた「地」のartifactといえる。この高さにあってバシは村人の身体を半臥半坐にする効力を放つが,村人はそれに受動的になるだけでなく,その姿勢から「斜め」の身体的場を創出する。文様で被われたartifactの地バシの上で効力が往復して家族の場が生起している。村の共同体のみを見るようなマクロな視点からは逃れ去ってしまうミクロな身体的場が,バシには日々現れているのだ。
 このようにギリシアの小村では道具artifactと身体が多様な場を織りなしているが,芸術と社会が出会うところではこうした場がつねに現れているのではないか。その現れに立ち会うには,芸術を社会関係の編み目のなかで実践的な媒介を行うもの,「行為」するものとして,捉え直すことが求められる。芸術の人類学の可能性を論じたA. ジェルは,芸術品を社会関係を示す/生むIndexと呼び,Indexとartist,受容者,そして(イコンのマリア像のような)典型といった四つの要素が相互に効力を及ぼしあう関係を追跡した。この効力をより身体的なものとして捉え,芸術が社会に開く身体的な場(それがたとえ社会の余白にしか現れない場であっても)を見ていくことが当面の課題である。











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ボルドーから地中海へ
──留学の思い出と二人の文人政治家──

加藤 玄



 2001年秋から,南西フランスのボルドーで2年間の留学生活を送った。ジロンド大河を通じて大西洋に門戸を開くこの町では,日常生活において地中海を身近に感じることはなかなか難しい。手軽な夏の避暑地として,市民にもっとも人気があるのは大西洋岸のアルカションであるし,ブルジョアを気取るなら,同じ大西洋岸のビアリッツを選ぶであろう。しかし,彼らが一生に一度は行ってみたいと思っている旅行先は今なおイタリアである。私の指導教官はフィレンツェ,大家夫婦はヴェネチアがお気に入りの町であった。ローマは真っ先に訪れるべき町であるのは言うまでもない。
 私の在籍したボルドー第3大学は,著名な文人の名を取り,正式名称をミッシェル・ド・モンテーニュ大学と言う。この16世紀フランス・ルネサンス最大のユマニストも,1581年の市長就任直前まで,ドイツとスイスを経由してイタリアへ旅行をする。実に一年半にわたる旅の詳細は,関根秀雄・斉藤広信両氏の訳による『モンテーニュ旅日記』(白水社)でうかがい知れる。温泉に入りつつ各地の名所旧跡を訪ねて歩く自由気ままな道中は,樺山紘一『ルネサンスと地中海』(中央公論社)中の表現を借りるなら,まさに「ルネサンスの観光旅行」であった。1585年に二期にわたる市長職を勤め上げたモンテーニュは,時の国王アンリ4世の顧問就任要請を固辞し,自らの城館に引退。以後,彼の名を不朽のものとした『随想録』の加筆・修正に没頭して生涯を終える。
 同じボルドー出身の文人政治家としてモンテーニュの先輩格にあたるのが,デキウス・アウソニウスである。ガロ・ローマ期の310年,ボルドーに生まれ,トゥルーズで学問を修めた後,ボルドー市で文法修辞学を講じ,やがて同市の執政となる。367年にウァレンティアヌス帝によりトリアに召し出され,息子グラティアヌスの教師を務める。375年にその生徒が皇帝位を襲うと,アウソニウスもガリア長官・コンスル等々の顕職を歴任し,彼の息子や娘婿もアフリカ長官など地中海世界を股にかけて栄達する。グラティアヌス帝の死後は帰郷し,サン・テミリオン近郊のvillaで詩作と著述に専念する。その作品はブルディガラ(ボルドーの古名)の田園風景や名物を主題とし,素朴で凡庸ではあるが郷土愛にあふれるものとされる。モンテーニュの蔵書に彼の署名入りのアウソニウスの著作の存在が確認されているが,『随想録』にも『旅日記』にもアウソニウスへの言及はない。しかし,私の留学の思い出の中で,この二人の文人政治家は時代を超えて交錯する。
 中世アキテーヌ地方の定住史を研究テーマに選んだ私は,指導教官の都合で大学に付属する古代考古学研究所に所属した。この研究機関の通称がアウソニウスAUSONIUSであった。彼の名前に注意を払うようになったのはこの時からである。ボルドー市内,ガロンヌ河左岸沿いを一本内側に入ったところにアウソニウスの名を持つ通り(フランス語ではオーゾンヌAusone)があり,かつてはモンテーニュ所有の家屋と塔があったという。これらの建物は18世紀に取り壊され,現在ではアウソニウス像の他にバー“Brasserie Frog & Rosbif”が建っている。ここは学生のたまり場の一つで,毎週木曜日の夜に酒宴が催されるのが常であった。この店で饗されるBrew d'Ausoneはフランスでは珍しい燻製ビールで,愛飲していた地ビールの一つである。
 ボルドーと言えば高級ワインの産地の代名詞であるが,このようにビールや安価なテーブルワインばかりを飲んで過ごした。帰国する前日に,友人たちが送別会を開いてくれることになった。普段の安酒飲みに呆れていたのか,サン・テミリオン産の最高級銘柄シャトー・オーゾンヌが用意されていた。わずかグラス一杯であったが,初めて美味しいワインのなんたるかを知り,同時に2年間の己の不明を恥じた。しかし,かのモンテーニュも飲酒の楽しみについて,言っているではないか。「酒についてのやかましい好みや気むずかしい選択は避けねばならない。飲酒の楽しみの土台をうまい酒を飲むことにおくならば,ときにはまずい酒を飲む苦痛もあじわわざるをえない。味覚はもっと鈍感でなければならない。よい酒飲みであるためにはあまり敏感な舌をもってはならない(原二郎訳『随想録』第二巻第二章)」と。むろん負け惜しみである。そもそもモンテーニュは酩酊を戒めていたはずであるし,何よりもビールが大嫌いだった。
 負け惜しみついでにもう一つ。隣国フランスに住みながら,ついぞイタリアに足を踏み入れなかった。いっそこのままモンテーニュの顰みに習って,訪伊は引退する間際まで取っておこうか,とも思う。ボルドーから地中海までは意外に遠いのである。











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自著を語る35

J.J.ポリット著『ギリシャ美術史──芸術と経験』

中村るい訳 ブリュッケ 2003年11月 299頁 3,400円

中村 るい



 これは,ギリシア美術史を専攻する訳者が,米国へ留学中,「ギリシア美術史入門」や「ギリシア彫刻史」などの講義で出会った書物です。原著は,Art and Experience in Classical Greece (Cambridge University Press, 1972, revised 1999)です。はじめて読んだのは1988年秋でした。できあがった訳書を手にとりますと,毎日英語に悪戦苦闘していたことを思い出します(今も相変わらずですが)。
 ちょうど留学一年目の終わり頃,ある教師から言われたことを,今もはっきり覚えています。
 「そろそろ外国語にも慣れてきたかもしれないけれど,たいへんなのはこれからだよ」
 この米国人教師はドイツ近代美術の研究のためドイツへ留学しており,外国語で美術史を勉強するときのアドバイスということで話されたのです。
 「美術史は言葉との格闘になるよ。たとえば絵の中に緑色が使ってあるとする。それを説明するのに,グリーンというだけではダメなんだ。美術史家はある緑の微妙なニュアンスを少なくとも四十通りくらいの言葉で云い分けないとね。それが基礎になるんだ」
 「黄色っぽい緑」「深緑」「茶色にちかい緑」······たしかにさまざまなニュアンスを説明することが大事ですが,そこまでは考えていませんでした。だいたい母国語でもそんなボキャブラリーはもっていません。ただ,このときの会話が忘れられず,ギリシアの美術館の壺絵の彩色や大理石彫像の彫りを言葉でどう表現できるか考えていると,よくこの教師の顔がうかんできました。「色とかたち」を言葉であらわすこと,確かにその後の数年間はそのために費やすことになりました。
 さて,本書『ギリシャ美術史』の著者ポリットは長年エール大学で教鞭をとった美術史家です。『ギリシャ美術史』は,米国の大学のギリシア美術や文化史,文学,歴史の講義などで必ずといってよいほどテキストとしてあがる書物です。大学一年生向けの概説の講義でも課題図書となりますが,ある彫刻史の研究者に「この本には読むたびに発見がある」といわせるほど,平易な記述に深い洞察が織りなされています。
 訳者はこの書を再読した折,ポリットが石の表情や壺絵の登場人物を語るその言葉に虚をつかれた思いがしました。読んでいるうちに,大理石彫像が個性をもって息づき,壺絵の人物が機敏に動きはじめたのです。ポリットの言葉の豊かさにひかれて,翻訳を試みることにしました。
 この本で,クラシックの厳格様式期のオリュンピア,ゼウス神殿の破風彫刻と,アイスキュロスの悲劇「オレステイア」三部作との比較はなかなか圧巻です。東破風の登場人物の様式を記述し,なぜ紀元前470年代から紀元前450年代という限定された時期にこのような様式が登場したのか,ギリシア人が何を感じ,なにを表現せずにはいられなかったのか,その心性を,ほぼ同時代のアイスキュロスの語るアトレウス家の悲劇を参考に説明を試みています。厳格様式期の彫刻の生硬な表情には,演劇の仮面の影響も無視できないという点にも触れます。近年,美術史研究では細分化や専門化がすすみ,彫刻には目を向けても同時代の演劇や隣接の文化は考える余裕がない,という危険な傾向があります(わが身をふりかえりますと,言うは易く行うは難し!)。ポリットは穏やかに,しかし力強く,文化をもっと総合的に理解することを語っているように思います。大きな時代の潮流を扱いながらも,とりあげる美術作品を限定して,個々の作品の表情やニュアンスを敏感にうけとめ,読者にも問いかけながら綴っていきます。西欧文化の源流にあたる古代ギリシア美術を,その蓄積された形の記憶を,きわめてオーソドックスに,しかも磨かれた言葉で語った書物です。先のドイツ美術研究者の顔がまた浮かんできます。
 昨夏,翻訳の疑問の箇所などもあり,エール大学のポリット教授を訪ねました。現在は名誉教授ですが,週に一回の演習授業を担当し,エール大学の美術館の古代美術コレクションにもさまざまなアドバイスをする立場で,ますます研究・執筆に邁進されているようでした。エール大のキャンパスにあるイサム・ノグチの彫刻庭園のあたりを教授と奥様と三人で歩きながらお話ししたとき,本書の真摯な文章が教授のなにげない口調とつながっていることに気づきました。単なる情報伝達ではなく,根底に生きた人間の言葉があるからこそ人の心に響くのでしょう。ポリット氏の著書にはそんな魅力も隠れています。そんな魅力を読みとっていただけることを願いながら。











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〈寄贈図書〉

『中世海洋都市アマルフィの空間構造──南イタリアのフィールド調査』法政大学陣内研究室 2002年7月
『イスラーム建築の見かた──聖なる意匠の歴史』深見奈緒子著 東京堂出版 2003年7月
『ギリシア・ローマ世界における他者』地中海文化を語る会編 彩流社 2003年9月
『アレキサンダー大王の贈りもの』水原壽子著 蒼海出版 2003年10月
『ギリシャ美術史──芸術と経験』J.J.ポリット著 中村るい訳 ブリュッケ 2003年11月
『神々にあふれる世界』上下巻 K.ホプキンズ著 小堀馨子・中西恭子・本村凌二訳 岩波書店 2003年11月
『はじめての死海写本』土岐健治著 講談社現代新書 2003年11月
『古代オリエント博物館紀要』XXII(2001/2)
『朱雀』京都文化博物館 13(2001),14(2002),15(2003)
『アブ・シール南〔I〕』早稲田大学エジプト学研究所編 鶴山堂 2001年3月
『ルクソール西岸岩窟墓〔I〕──第241号墓と周辺遺構』早稲田大学エジプト学研究所編 アケト 2002年
『ダハシュール北〔I〕──宇宙考古学からの出発』早稲田大学エジプト学研究所編 アケト 2003年
『ASTE』(太陽の船〔I〕──クフ王第2の船予備調査報告) 早稲田大学理工学総合研究センター B3(2002)
『ASTE』(A Study on the Preservation and Conservation of the Cultural Heritages of Ancient Egypt-At the Site of Dahshur North, 1999-2001) 早稲田大学理工学総合研究センター B4-3(2003)
SILK ROAD ART AND ARCHAEOLOGY (Journal of the Institute of Silk Road studies), 8(2002)
OPUSCULA POMPEIANA (The Paleological Association of Japan), XI(2002)
『日仏美術学会会報』22(2002)
『館報』石橋財団ブリヂストン美術館・石橋美術館 51(2002)
『スペイン・ラテンアメリカ美術史研究』スペイン・ラテンアメリカ美術史研究会 3(2002),4(2003)
『地域研究論集』国立民族学博物館地域研究企画交流センター 5-1,5-2(2003)
『文藝言語研究』「文藝篇」「言語篇」筑波大学文芸・言語学系 43,44(2003)
『日本中東学会年報』18-1,18-2,19-1(2003)
『DRESSTUDY』京都服飾文化研究財団 43(2003),44(2003)
『SPAZIO』ジェトロニクス 62(2003)
『2002年度刊行イタリア関係図書目録』イタリア文化会館 62(2003)













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