2003|12
|
学会からのお知らせ
*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
地中海学会では第9回「地中海学会ヘレンド賞」(第8回受賞者:堀井優氏)の候補者を募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(50万円)が授与されます。授賞式は第28回大会において行なう予定です。申請用紙は事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一,地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二,本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
本賞は,原則として会員を対象とする。
三,本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2003年1月13日(火)〜2月13日(金)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。
目次へ
*第28回大会研究発表募集
第28回地中海学会大会は2004年6月26日〜27日(土〜日),北海学園大学(札幌市豊平区旭町4-1-40)において開催します。
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2004年2月13日(金)までに発表概要(千字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
目次へ
*会費口座引落について
会費の口座引落にご協力をお願いします(2004年度会費からの適用分です)。
また,今年度会費を未納の方には月報前号(264号)に振込用紙を同封してお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされてない方,今年度(2003年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報前号(264号)に同封してお送り致しました。
会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。
会員のメリット等
振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
毎回の振込み手数料が不要。
通帳等に記録が残る。
事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:
2004年2月20日(金)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2004年4月23日(金)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
目次へ
*常任委員会
・第7回常任委員会
日時:2003年12月6日(土)
会場:早稲田大学39号館4階第4会議室
報告事項 ブリヂストン美術館秋期連続講演会に関して/『地中海学研究』XXVII(2004)に関して/科研費(学術定期刊行物)申請に関して 他
審議事項 第28回大会に関して/「地中海学研究」編集委員に関して/地中海学会賞に関して/地中海学会ヘレンド賞に関して 他
目次へ
事務局冬期休業期間:
2003年12月27日(土)〜2004年1月7日(水)
(1月8,9日(木,金)は職員出張のため事務局不在です)
目次へ
研究会要旨
中世後期シエナの住宅建築と都市の拡張
片山 伸也
10月4日/上智大学
トスカーナの丘上都市シエナは,北イタリアとローマを結ぶフランチジェナ街道沿いに位置したことから,12世紀以降急速に発展し,ノーヴェ政府(1286〜1355)治下,その最盛期を迎えた。しかし,その都市成立の過程には不明な点も多く,中世後期にコムーネ政府によってゴシック様式の街並みが形成・維持された経緯も明らかにされてはいない。
シエナの市壁の拡張過程については,これまでにも多くの仮説が立てられ,古くは17世紀の市壁図にまで遡る。しかしそれらの多くは,シエナの起源をローマ都市に求めようとする郷土愛などから,必ずしも科学的根拠を持つものではなかった。P.ナルディの1968年のモデルでは,フィレンツェの国立古文書館に残るパッシニャーノ修道会の記録の中からシエナの土地に関する売買記録を参照し,「都市内città」と表記されているか「都市外borgo」と表記されているかによって12世紀前半の市壁の位置を特定している。しかし,ナルディが示した市壁は,行政上の概念的な都市境界であり,フィジカルな都市組織を示しているとは必ずしも言えなかった。そこで,建築史的な立場から,当時の代表的な建築類型である塔状住宅casatorreの分析を通して,12世紀前半のコムーネ化直後の都市組織の分析を行った。
塔状住宅は11世紀から12世紀にかけてトスカーナを中心にイタリアの各都市に広く流布した建築形式であり,その多くは“カヴェルノーゾcavernoso”と呼ばれる石灰岩の切石で作られた。この石材は今日でも“塔の石pietra
di
torre”と呼ばれている。塔状住宅について特質をまとめると次のようになる。
(1)建設された時代がほぼ11・12世紀に限定される。
(2)材料,構法が一定である。
(3)有力家族固有の建築形式である。
以上から,塔状住宅が11・12世紀のシエナの都市形成の過程を分析する上で指標として有効とみなし,その分布と市壁の建設による都市の拡張過程を比較した。塔状住宅の分布については,現地での目視調査とG.A.ペッチが1765年の手稿の中で言及している塔を比較した。
ペッチが記した塔の分布と現在の塔状住宅の分布は,どちらも12世紀前半までに建設された市壁に囲まれたエリアとよく一致している。しかし,他に先駆けてボルゴが発達し,11世紀後半には本来の都市と比肩しうる重要性を持っていたことが知られている都市北部カモッリア地区については,目視調査で確認された塔状住宅は1事例のみであった。これは,1550年頃に当時シエナを支配していたスペイン人ディエゴ・デ・メンドーサの命令により,新しい要塞建設のための建材としてカモッリア地区の多くの塔状住宅が取り壊されたためで,S.ティツィオ(1458〜1528)の“シエナ史Historiae
Senenses”を参照したペッチは,この地域にかつて存在していた多くの塔を列挙している。
一方,カンポ広場の南東部には,12世紀前半の市壁の外部にいくつかの塔状住宅が見られる。サン・マルティーノ地区のこの一角にも,古くからボルゴが発達していたことが知られており,塔状住宅の存在もそれを裏付けている。しかし,ナルディによると,その市壁内への包含は12世紀末であり,12世紀前半の都市組織と概念的な都市境界には齟齬がみられる。サン・マルティーノ教会は教区教会でありながら,その教区民は司祭を直接選ぶ権利を認められていたことから,ある種の治外法権が,この地域の都市への帰属を遅らせた可能性がある。
シエナにコムーネが成立するのが1115年のトスカーナ伯マティルデの死後,12世紀前半のことであることを考えると,12世紀前半の市壁は都市拡張のためにコムーネによって建設されたものではなく,むしろ非常に発達したボルゴがコムーネの成立に伴って都市の一部とみなされるようになったことで,ボルゴの城壁が市壁として追認されたと考えるのが妥当であろう。
11・12世紀の塔状住宅は,建築類型的視点からは開口部も小さく,きわめて防御的形態を呈しているが,12世紀末から13世紀前半にかけて,その後のパラッツォとの過渡期的な塔状住宅が現れる。13世紀以降の市壁の建設は,都市域の拡大を示しているが,アルコ・セネーゼとよばれる尖頭アーチを持ったパラッツォ建築は,尾根筋を南北に走る主要道路沿いおよびカンポ広場・大聖堂周辺に集中している。シエナの最盛期を現出したノーヴェ政府に代表される,シエナの道路景観に関する条例と照合しながら,シエナ固有の建築装飾の類型とその分布を分析し,シエナのゴシック的都市景観成立の過程を明らかにすることが今後の課題である。
目次へ
春期連続講演会「地中海世界の宮廷と文化」講演要旨
中世シチリアの宮廷
高山 博
私たちが通常用いる日本語の「宮廷」は,基本的に君主の住む所,とりわけ天皇の居場所を意味している。『源氏物語』の舞台となる平安時代の宮廷がその典型だろう。この言葉は,帝王の居所,朝廷,役所,宮庭を意味する中国の「宮廷」に由来している。
そして,私たちは,この「宮廷」という言葉を,ヨーロッパの君主のいる場所や君主の取り巻き集団を指す言葉としても用いている。中世ヨーロッパの「宮廷」と言う場合,その宮廷は日本史や中国史で使う「宮廷」とは異なり,curia,
court, cour, Hof, corteやpalatium,
palace, palais, Pfalz,
palazzoの訳語である。日本や中国,イスラム世界の君主の場合は,たいてい一箇所に都を定め,宮殿を築いて,そこから中央集権的な統治を行っていた。そのため,これらの地域では,宮廷は,通常,都の宮殿を意味していた。しかし,中世ヨーロッパの王のほとんどは一箇所に都を定めることなく,従者を連れて王国内を移動していた。王は,狩猟や宗教的行事,集会などの目的に応じて,あるいは,季節に応じて場所を移動していたのである。そのような中世ヨーロッパの王たちと異なり,シチリアのノルマン王は,宮廷をパレルモの王宮に固定していた。
この中世シチリアの宮廷に関しては,歴史家によってさまざまな特徴付けがなされてきた。イスラム文化,あるいは,ビザンツ文化の影響を受けた東方的な宮廷だと考える歴史家もいれば,封建制に基礎を置く当時の西ヨーロッパの諸宮廷と基本的に同じと考える歴史家もいる。近代的国家組織の萌芽をそこに認める歴史家もいる。果たして,中世シチリアの宮廷は,どのように特徴づければよいのだろう。中世シチリアの宮廷の重要な特徴のうち,ノルマン王国の時代(1130〜94年)を通して大きく変化しないものは,三つある。首都がパレルモに固定されていたこと,王自身が常にキリスト教徒であったこと,王がイスラム教徒たちに囲まれて生活していたことである。王を取り巻く環境を見ると,シチリア王はキリスト教徒でありながら,イスラム教徒に囲まれてイスラム世界のムスリム君主とほとんど変わらない生活をしていたように見える。
しかし,宮廷の権力構造や権力中枢は,時代とともに大きく変化している。王ロゲリウス二世は有能な宰相や役人に支えられながら自ら国政を司っていたが,その後を継ぐ二人のウィレルムス王たちは,自ら政治を行うことはせず,一人の宰相,もしくは,王国最高顧問団に国政を委ねていた。そして,この権力中枢にいる宰相や王国最高顧問団には,多くのアラブ人,ギリシア人,異邦人が含まれていた。宰相のほとんどは,異国出身者であった。ロゲリウス二世の宰相ゲオールギオスはシリアのアンティオキア生まれのギリシア人,ウィレルムス二世未成年期に宰相に任命されたペトルスはジェルバ島生まれのアラブ人宦官,その後を継いで宰相となったステファヌスはフランス人である。このように,王国国政の実権を握った四人の宰相のうち三人までもが異国生まれであった。また,王国最高顧問団の中にも多くの異邦人やアラブ文化に属する人々が含まれていた。ウィレルムス一世治世末の三人の王国最高顧問団のうち,指導的地位にいたシラクーザ被選司教はイングランド人,王宮侍従長官ペトルスはアラブ人宦官であった。宰相ペトルスのアフリカ亡命後に結成された五名の王国最高顧問団のうち,一人はイングランド人聖職者,二人はアラブ人宦官である。宰相ステファヌス逃亡後に形成された十人からなる王国最高顧問団にも,三名の異邦人が含まれている。このように,王国最高顧問団の中にも,多くの異邦人やアラブ人たちが含まれていた。
宮廷において優越する文化は,時代とともに変化している。ロゲリウス二世の時代にはゲオールギオスのようなギリシア人役人が大きな影響力をもっていたが,ウィレルムス一世治世には王宮侍従長官を初めとするアラブ人役人が影響力を拡大し,ウィレルムス二世治世にはラテン系役人の存在が大きくなっていった。長期的な傾向としては,ギリシア人からアラブ人へ,そして,ラテン系の役人へと影響力が移行しているのである。従来の研究者たちの多くは,このシチリアの宮廷に見られる特定の文化に焦点を当て,イスラムやビザンツの影響を強調したり,西ヨーロッパ的特徴を強調してきた。しかし,一つの文化的要素を強調してシチリアの宮廷の性格付けを行うことは,現実の状況を恣意的に切り取って誤ったイメージを作り上げているにすぎない。それぞれの文化的要素が,どの時代,どの側面にどのように現れているかを具体的に確認し,総合的に判断しなければ,シチリアの宮廷の一般的な特徴を言うことはできないのである。
目次へ
春期連続講演会「地中海世界の宮廷と文化」講演要旨
宮廷から市街へ
──近代を生きる宮廷文化──
樺山 紘一
1970年代以降,なぜか急速に「宮廷文化」の再評価がとなえられるようになった。むろん,過去の優美な文化としての宮廷にたいして,ほとんど郷愁というべき感情,あるいは端的にいって浅薄な特権意識からする,貴族趣味の存続として侮られるべきものもあった。けれども,そうした後ろ向きの宮廷擁護だけではないもの,どこか現代人の琴線にふれる宮廷文化論が,根底にひそんでいたのではあるまいか。
そのころから,関連するいくつかの古典著作が脚光をあびはじめた。エリアスの『宮廷社会』と『文明化の過程』,ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』,ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』などが邦訳された。これらに共通しているのは,ひとつには20世紀初頭ヨーロッパの知的風土の反映であること。そして,ヨーロッパ北方の歴史社会の見直しと,地中海をはじめとする南方への視線が強調されたこと。それらが,半世紀をへだてた現代世界において,あらためて注視をあつめたのであった。その経緯を的確に分析することから,宮廷文化の再認への道がひらけてくるはずだ。そうでなければ,たんなる上流文化への憧憬にすぎなくなってしまう。
宮廷文化とはなんだろう。王侯貴族が,閑暇にまかせて富を浪費する爛れた文化。そのように否定的に説明することもできる。それも,まったくの誤解ではない。けれども,現在の問題関心からすれば,ほかの見方が不可能ではない。
ここでは,その文化の構成原理を,つぎの10の要件のもとで整理してみる。
1 内包と外延,閉じられた無限の空間
2 衒示と豊穣,致富の実質
3 贈与と収集,市場の外側
4 社交と恋愛,人と人のあいだ
5 外装と優美,飾ることの意味
6 虚構と象徴,増幅する内実
7 儀礼と遊戯,もうひとつの規律
8 公論と批評,衆目への露呈
9 理性と官能,補完する背理
10 自然と廃墟,くりかえされる逆説
これらの項目は,20世紀になって提唱された宮廷文化論からヒントをえて,できるだけ多様な宮廷文化の実例に留意しながら,整理したものであるが,あくまでも仮説としての性格が濃厚である。今後も,必要な修正をこころみるつもりだ。もっとも,ここで重要なのは,構成原理の完結性や整合性ではなく,より具体的なケースに即しての説明力の多寡である。そこで,フランス近世・近代の展開を念頭におきつつ,宮廷文化の典型事例をとりあげてみたい。
フランス絶対主義国家,とりわけヴェルサイユ宮殿において,宮廷文化の結晶がみられたことは周知の事実である。そこでは,つぎのような諸局面がゆたかな展開を実現した。つまり,「古典秩序の保持としての建築」。「内なる空間の充満としての家具」。「装置化された自然としての庭園」。「身体美のメッセージとしての衣装」。「文明化の集大成としての儀礼」。「交響する空間としての音楽」。「神話化される美としての美術」。「社交と官能の場としての饗宴」。「集いのなかの公論としてのサロン」。そして,「虚構のなかの真実としての遊戯」。
ヴェルサイユ宮殿では,多数の貴族ばかりか,そこに殺到する市民たちにとっても公然の事実として,宮廷が営まれた。さきにあげた宮廷文化の構成原理は,実体をともなってかれらの現前にあらわれた。建築,庭園,家具,衣装,儀礼,音楽,美術,饗宴,サロン,遊戯といった場面ごとに,美麗な姿を提示していたのである。それゆえに,成熟した文化として,王権のもとにあるフランス臣民にも吸引力を発揮した。
さて,重要なことは,さらにつぎのことである。大革命によって,ブルボン王朝とヴェルサイユが崩壊したのちに,その宮廷文化のほうは,19世紀のブルジュワ社会によって延命された。パリ市街に移転した宮廷の本性は,ナポレオン帝政をなかだちとして,やがてフランス人により保存されるだろう。むしろ,あらたな意匠をともないつつも,宮廷文化の実質を巧妙に変装させて,再生する。絶対王政の支配構造はすぎさったにもかかわらず,かえってその文化の内質を増幅させてゆく。そうした市街における様態を考えることで,かの宮廷文化論の成否を検証することも可能になるだろう。
目次へ
「カフェ・日本」(Caffè
Giappone)と1870年代のフィレンツェ
石井 元章
ここに掲げる写真は,イタリアの記録写真家として有名なアリナーリ兄弟が1898年にフィレンツェ市政庁広場を撮影したものである。留学中に購読していた地方紙La
Repubblicaの付録として挟み込まれていたものであったが,それを気に入った私は,帰国後も長いこと机の前壁に貼ってそれとなく眺めていた。ある日,ランツィの露台脇,現在観光客で溢れるレストラン・ダヴィデのある場所に変わった名前のカフェがあることに気付いた。よく見るとそれはCaffè
Giapponeと読み取れる。
この写真の撮影された19世紀末は,周知のごとくヨーロッパ全体で日本に対する興味が起こっていた。開国したばかりの極東の神秘の国に対するジャポネズリーと呼ばれるこの動きは,パリやロンドンを中心としてヨーロッパに広まっていったが,イタリアにはかなりの遅れを以って伝わったと考えられている。したがって1898年の写真に「カフェ・日本」が存在することは,こういった日本趣味のフィレンツェへの伝播を示すと共に,イタリアの後進性を確認することになると私は考えた。ところが調査は,思いがけない事実を明るみに出すことになる。国立古文書館に所蔵される,Indicatore
generale della città di
Firenze(以下『概略案内』)の記述からこの「カフェ・日本」が1876年に存在していたことが判明したのである。
1876年版『概略案内』によると,写真の市政庁広場2番地にGirolamo
Eyaとその息子の名で「カフェ・日本」が登録されている。ところが1895年版では,ヴァッケレッチャ通り2番地とカリマルッツァ通り7番地に同じ「カヴール」という名の二つのカフェを持つPietro
Papiに所有が移っている。パーピの「カヴール」は既に1876年にも存在が確認されるが,その時点でパーピはまだ「カフェ・日本」を獲得していなかった。1876年から1895年までの間に所有が移転したうえ,1898年版の伝えるところではパーピはマルテッリ通り2番地にGloria
Italianaという名のトラットリーアをも開き,四つの店をBottegoneという会社の下に大々的に経営していたのである。
イタリア人らしからぬエイヤという変わ
った名字を持つ商人が誰なのか,また,ピエトロ・パーピというごくありふれた名前の人物がいかなる人生を送ったのかは,市役所古文書館の調査では判明しなかった。
しかし,1880年代にフィレンツェ商業高等学校(現フィレンツェ大学の前身)で日本語・中国語を講じていたカルロ・プイーニが大聖堂広場のボッテゴーネで毎朝,新聞を読みながらカフェを飲むのを習慣としていたことが判っている(Andrea
Campana, "«Sino-Yamatologi»
a Firenze fra Ottocento e
Novecento," in Firenze e l'Asia orientale, Firenze 2001,
p.340)。当時フィレンツェで日本学の中心であったプイーニが,「日本」という名のカフェそのものでなくとも,同じ人物の経営する店に通っていた事実は,パーピとプイーニの関係を連想させ,また経営者パーピの日本への興味を示唆しているように思われる。1930年の『概略案内』には残念ながら,この「カフェ・日本」も経営者パーピの名も認められない。既にフィレンツェから消滅したのであろうか。
1870年代半ばという比較的早い時期に,「日本」という名を冠したカフェがフィレンツェの最も中心街に現れ,それが少なくとも20年以上にわたって開店していたという事実は,イタリア王国第2の首都において日本への関心が,民衆レベルで強く存在したことの一つの指標になるのではなかろうか。
目次へ
地中海人物夜話
ヴィンチェンツォ・スカモッツィ
──〈複雑〉な建築家の400年後の復権──
渡辺 真弓
ヴィチェンツァ出身の建築家ヴィンチェンツォ・スカモッツィ(1548〜1616)は,常にこの町の誇る建築家パラーディオ(1508〜1580)との関係で語られる運命にあった。スカモッツィはパラーディオが残した数多くの未完の建築を完成させているが直接の子弟関係はなく,後継者とか弟子といわれることを非常に嫌っていた。偉大な存在の影にかすむ二番手の建築家と見られることに苛立っていた彼は,モーツァルトに対するサリエーリのようだと評されることもある。しかしサリエーリが相手より6歳年長であったのに対し,スカモッツィは40歳も年下で,むしろパラーディオの死後も高まる評価に対して嫉妬と対抗心を燃やす複雑な人物だったという。
パラーディオの遺作テアトロ・オリンピコの舞台奥に透視図法を応用した立体的書割りの街路をデザインしたスカモッツィは,マントヴァ公の理想都市サッビオネタにも招かれ,同じ名の劇場を設計している。またヴェネツィア共和国の北辺を守る星形の要塞都市パルマノーヴァは彼自身が試みた理想都市である。ヴェネツィアではサン・マルコ広場の南辺を縁取る長大な建物(新行政官舎),ヴィチェンツァでは現在市役所になっているパラッツォ・トリッシノ,またヴィチェンツァ南方の丘の上で目立つ有名なヴィラ「ロッカ」も彼の設計である。モンセリチェでは丘を登る道に沿って七つの小教会を並べ,その先の眺望のよい場所にヴィラと野外劇場を置くという演出もしている。
この他にも作品は多く,『普遍的建築の理念』(1615)という本も出しており,外国でも仕事をした彼はかなりの人物と思える。だがパラーディオ関係の本は山とあるのに,スカモッツィを単独で扱ったものはほとんどない。見学会の時には案内の教授が建物の一部を指さし,スカモッツィ特有の「冷たく,乾いた」デザインだと説明したが,それが「フレッド,セッコ」とまるで吐き捨てるような言い方に聞こえた記憶がある。なぜかスカモッツィはあまり愛されていない,と感じた疑問を知人の研究者にぶつけると,それはスカモッツィの人柄の悪さのせいだと言う。「憎まれ役」の常として業績に比して評価が薄いというのがこれまでの印象であった。
ところが,21世紀も3年目の今年,400年の軽視をつぐなうように,初めてのスカモッツィ展がヴィチェンツァのパラーディオ国際建築研究センター(通称Cisa)で9月7日に始まった(2004年1月11日まで)。4月に案内の冊子が送られてきた時,驚いたのは表紙のタイトルが“Vicenza
Serenissima”となっていたことである(Venezia
Serenissimaという美称のもじり)。ヴィチェンツァが1404年にヴェネツィア共和国の支配下に入ってから600年になるのを祝うことを定めた地方条例(2002年8月)にもとづいて2003年4月から2005年1月まで五つの催しが企画された(2番目がスカモッツィ展)と説明されている。裏表紙には「Primogenita
di
Venezia(ヴェネツィアの長子)」と大書されており,1年遅れの1405年に支配下に入ったヴェローナとパドヴァより先だったと自慢しているようでもある。独立心が強く誇り高いヴィチェンツァが,ヴェネツィアの傘下で経済的文化的に繁栄したという歴史認識をこのように表明するのは,きわめて政治的な判断にもとづいているようにも見える。
ポスターに使われていたスカモッツィの肖像がまったく見たことのないものだったことも驚きであった。彼の肖像画はいくつかあるが,若い頃のは伶俐酷薄,年をとってからのは偏屈そうで,魅力的とはいいがたい。ところがポスターにはいかにも思慮深く信頼できそうな感じのいい中年の男がコリント式の柱頭とコンパスを持つ肖像画が使われている。「デンヴァーの美術館で最近,発見されたもので,一番よいので選んだ」というのが関係者から聞いた話である。重さ3キロ,590ページのカタログには,この肖像画についても,別の建築家のものとされていたのがスカモッツィと判明した経緯やCGを使って今回の肖像画の顔の半分に従来の顔の半分をうまくつなげてみせた合成図などが掲載されている。
「建築は科学だ(architettura
è
scienza)」というのがポスターの惹句である(スカモッツィの著からの部分引用)。彼の図面は緻密で,方位,寸法,採光方法など,詳細な情報が満載されている。建築は「創造」するものというより,さまざまな条件から導く「解」であるというのが彼の考え方であった。その合理的な姿勢によって16世紀のパラーディオ的世界と科学の幕開けの時代17世紀を結ぶ「知的な」建築家がスカモッツィであるというのが今回の切り口である。彼の「冷たく乾いた」作風というのも,英語でコールドというよりクールでドライと言い直してみれば,むしろ現代にはアピールしそうである。21世紀と共にイメージを一新されたスカモッツィに関する研究はさらに深化していくことだろう。
目次へ
ベイルート,1880年ごろ/黒木英充
地中海の東奥,「歴史的シリア」地域の海岸線は,地図で見ると南北に一直線の単調なものに見える。が,実際には地中海に向けて小さく突き出た角が多数あって,そこに多くの都市が形成されてきた。
レバノンの首都ベイルートは,旧石器時代から人間が定住してきた世界最古の都市の一つである。ベイルート,アラビア語では「バイルート」だが,この古代名「ビルータ」は,アッカド語,ヘブライ語,アラビア語などセム系言語で「井戸」を示す言葉(アラビア語ではbi'r)を語源とする。フェニキア人が地中海全域で活躍して各地に植民市をつくっていたころには「ベリュトス」として知られていた。ローマ帝国時代にはローマ法を学ぶための最高峰の「ロースクール」が,この町にあった。
東地中海の代表的な港湾都市の一つでもあったから,ベイルートはさぞ「天然の良港」かと思いきや,現在もなお海水浴場として使われるビーチが2ヶ所あるし,断崖もあれば,その目の前にはその形状から「鳩岩」の名前で知られる,一対の奇岩城のごとき岩(高さは15メートルほどあろうか)が海中から突き出ているしで,船を着けられる場所は限られていた。
北一面を地中海に面して城壁に囲まれた,せいぜい300×150メートル程度の砦のような小都市だったこの町が,その殻を破ってめきめき成長し始めたのが1840年代だった。エジプトのムハンマド・アリー政権の軍隊がオスマン帝国中央政府に反抗してシリア全域を8年間にわたって占領し,ベイルートがヨーロッパ諸国の外交の新たな橋頭堡となった,その直後のことである。19世紀後半にはレバノンの山岳地帯のみならずシリア内陸部からも人口を吸収して膨張した。このリトグラフのアングルからは市街があまり見えないが,当時の人口は10万人ほどだったと推測される。
スンナ派ムスリムよりもギリシア正教徒やマロン派などのキリスト教徒の方が多数を占め,またシナゴーグもあればシーア派やドルーズ派の住民も移り住んでくるようなコスモポリタンな貿易都市として,ベイルートは広く知られるようになった。その瀟洒な街並みが「中東のパリ」と呼ばれたことはあまりにも有名である。1960年代から70年代前半にかけてがベイルートの黄金時代だったが,これは日本の高度成長期にそのまま一致する。ベイルート・アメリカン大学にも近い,目抜き通りのハムラー通り商店街には,世界の一流品がずらりと並んだ。1960年から2年間この町に滞在された林武教授は,ハムラー通りを歩いてソニーのトランジスタラジオが唯一の日本製品として並んでいるのを見て嬉しかった,と生前,回想していらした。
1975年から熾烈を極めた内戦が始まったのだが,これにより,コスモポリタンなベイルートがあっさり灰燼に帰したわけではない。不条理な暴力を前に,その場に留まり続け,日常生活を続けることこそが抵抗なのだ,として実践した市民も多かった。エドワード・サイードの妹,ジーン・サイード・マクディースィーが著した回想録Beirut
Fragments
(ニューヨーク,1990年)は,その強靭な意志の力をもって読者の胸を打つ。
一時は完全な廃墟となったベイルート中心部は,見事に復興し,深夜12時過ぎまで路上に張り出したレストランで一流の各国料理を,とびきり美味なレバノンのワインとともに楽しめるようになった。汲めども尽きぬ都市の生命力は,今ますます輝きを増している。
目次へ
地中海学会事務局
|