2003|11
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学会からのお知らせ
*12月研究会
下記のとおり研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:モロッコ・フェスの新市街
──植民都市から現代モロッコの都市へ
発表者:松原康介氏
日時:12月13日(土)午後2時より
会場:上智大学6号館2階211教室
(最寄り駅JR・地下鉄「四谷」)
参加費:会員は無料,一般は500円
本発表では,モロッコの旧都フェスにおける,新市街の歴史と現代のあり方について明らかにする。旧市街外殻に建設された新市街は,フランス保護領時代に設計・建設された近代都市である。建築線と区画整理によって実現された,広場と都市軸からなる西欧的空間は,独立後,モロッコ人の手によって,いかなる継承・発展を見たのだろうか。新市街のモスクの歴史,ハブスによる維持管理の仕組み,更に整形敷地上の計画的特質について概括し,現代のイスラーム(世界の)都市のあり方について議論する。
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*第28回大会研究発表募集
第28回地中海学会大会は2004年6月26日〜27日(土〜日),北海学園大学(札幌市豊平区旭町4-1-40)において開催します。
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2004年2月13日(金)までに発表概要(千字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
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*会費口座引落について
会費の口座引落にご協力をお願いします(2004年度会費からの適用分です)。
また,今年度会費を未納の方には月報本号(264号)に振込用紙を同封してお送りします。至急お振込みくださいますようお願いします。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされてない方,今年度(2003年度)入会された方には「口座振替依頼書」を月報本号(264号)に同封してお送り致します。
会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。
会員のメリット等
振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
毎回の振込み手数料が不要。
通帳等に記録が残る。
事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限:
2004年2月20日(金)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2004年4月23日(金)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
*常任委員会
・第6回常任委員会
日時:2003年10月11日(土)
会場:早稲田大学39号館5階第6会議室
報告事項 第27回大会会計に関して/研究会に関して/秋期連続講演会に関して/展覧会広告・招待券配布等に関して/NHK文化センター協力講座に関して他
審議事項 第28回大会に関して/ガウディ展後援に関して他
*新名簿作成
会員名簿を新たに作成しました(2003年11月10日現在)。会員の方々には本月報に同封してお送りします。旧名簿(2000年11月10日現在)に替えてお使い下さい。
名簿の項目は,
氏名 郵便番号/住所 電話番号
所属・職業 所属 電話番号 専門・関心分野
となっています。
記載項目に変更,訂正等のある方は,お手数ですが事務局へご連絡下さい。次回の名簿で改正します。
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このたび,第8回地中海学会ヘレンド賞を授けていただき,たいへん恐縮するとともに,とても光栄に存じます。会長,事務局長,選考委員の先生方はじめ地中海学会の皆様,また受賞にあたりいろいろとお世話いただいたヘレンド日本総代理店・星商事の皆様に,心より感謝申し上げます。これまで中東イスラーム世界とヨーロッパ=キリスト教世界との接触という複雑な問題に取り組み,試行錯誤を繰り返してきただけに,学際的な本学会で,東西文化交流の研究を対象とする本賞をいただけたことを,本当に嬉しく思います。
受賞の対象となった私の学位論文『16世紀前半の東地中海世界における貿易秩序とヴェネツィア人─マムルーク体制からオスマン体制へ─』(博士(文学),東京大学大学院人文社会系研究科,2002年)は,中世から近世への移行期を対象とし,オスマン朝の海上・陸上における勢力拡大と,それに伴うヴェネツィア商業の変容に注目した論考です。本論文は三つの章からなり,第1章ではオスマン・ヴェネツィア間の条約体制の変容を,条約文書史料にもとづきつつ考察しました。第2章と第3章では,エジプトの代表的な海港都市アレクサンドリアに焦点をあて,マムルーク朝からオスマン朝への体制の移行に伴い,支配政権の海港政策およびヴェネツィア人の居留と活動の条件がどのように変化したかを,ムスリム史料およびヴェネツィア史料にもとづきつつ考察しました。こうして,オスマン朝の主導で,近世初頭の東地中海に新たな貿易秩序が形成される過程の一端を明らかにできました。
オスマン朝と地中海との密接な関わりに興味をもち,対ヴェネツィア関係をテーマにオスマン=トルコ語の条約文書に取り組みはじめたのは,今から10年以上も前のことです。やがて中世の東アラブ地域の大国で,1517年にオスマン朝に征服されたマムルーク朝の重要性に気づき,エジプトを留学先に選び,アラビア語史料にも取り組むようになりました。幸い約2年半のカイロ生活はとても楽しく有意義で,エジプトは私にとって関わりの深い土地となりました。しかしその一方で東地中海という枠組はいつも念頭にあり,やがて中世・近世のエジプトにおけるヴェネツィア人居留商人という,かなりマイナーな対象を本気で研究する気になっていました。そこで留学から帰国後は,ヴェネツィアへ古文書館の調査のために何度か赴きつつ,イタリア語史料の検討に主力を注ぐことになりました。
もともと移り気なうえに不器用なため,このようにかなりの紆余曲折を経てしまったわけですが,今から振り返ると,それは自分独自の視点を獲得するうえで,不可欠の過程だったように思います。異文化接触の現場で生み出された多種多様な史料を少しずつ読み進める作業をつうじて,イスラーム国家とヨーロッパ商人との関係という,おそらくは十字軍時代から近代前夜までを貫きうる大きなテーマを見いだせたことは貴重な収穫でした。
いうまでもなく今日の私のささやかな達成は,たくさんの方々の多大な恩恵の上に成り立っています。指導教官として長年にわたりご指導いただいた東京大学東洋文化研究所の鈴木董先生には,広い視野にもとづく手堅い史料分析の大切さをくりかえし教えていただくとともに,学位論文の完成まで再三にわたって励ましをいただきました。また,さまざまな機会に貴重な意見を下さり,学位論文の審査にあたられた西アジア史および西洋史の先生方,さらにはイスラーム史,国際商業史,イタリア史などの研究会でご一緒させていただき,多くの刺激を与えてくださった方々にも,この場を借りて感謝の意を表明させていただきたいと思います。
本賞は奨励賞としての性格をもち,それゆえ今後の地中海研究の発展に貢献する責務を負ったことを自覚しております。これまで私は,東地中海を対象としつつも,その南半分のアラブ地域に重点をおいて研究してきました。エジプトへの関心は今後とも継続させるつもりですが,他方で,オスマン朝の広大な版図に対応して,東地中海を全体的にとらえる試みもしていきたいと考えております。その北半分における東西文化の接触と交流の場として,長い歴史と深い伝統を有するハンガリーに縁の深い本賞をいただけたことは,自分の視野を拡げる,とてもいい機会になることと思います。今後とも皆様方のご指導,ご鞭撻をお願いいたします。本当にありがとうございました。
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研究会要旨
ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコの正体
──没年・作品・活動期間──
伊藤拓真
6月7日/上智大学
15世紀フィレンツェの画家,ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコは,伝統的には1459年に死亡したジョヴァンニ・ディ・フランチェスコ・デル・チェルヴェッリエーラと同一人物であると考えられてきた。しかし近年,C.ギンズブルグによる異論が提出され議論を呼んでいる。彼によれば,ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコとデル・チェルヴェッリエーラは,偶然にも同じ名前を持ったまったくの別人だということである。
ギンズブルグが依拠したのは,1439年の日付を持つフィレンツェの天国修道院のとある文書である。そこには,ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコ・デル・チェルヴェッリエーラに祭壇画を注文した旨が記され,図像も詳細に指定されていた。「中央には幼児を抱いた聖母が居り,その片側には聖ブリジッダが二冊の書物を持って立っている。聖女の足元には修道士と修道女が跪き……聖ブリジッダの頭上には,我らが主と聖母,その周囲には聖母に話しかける天使たち,別の側には魂の重さを量る聖ミカエルが……」。この記述は大筋において,現在ゲッティ美術館に所蔵されている「プラートヴェッキョの画家」の祭壇画と一致する。
この文書に従えば,これまでプラートヴェッキョの画家と呼ばれていた画家こそが,ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコ・デル・チェルヴェッリエーラだということになる。そして,これまでデル・チェルヴェッリエーラであると考えられてきたジョヴァンニ・ディ・フランチェスコを,ギンズブルグは同名の別人とするのである。
この説が正しければ,これまでのジョヴァンニ・ディ・フランチェスコ像は大幅に書き換えられなければならない。これに対して,ほとんどの研究者は態度を保留している。その疑いの理由のひとつとして,1439年の天国修道院の文書と,ゲッティ美術館の祭壇画の図像内容が完全には一致しないということが挙げられる。その差異は,聖ブリジッダとその周囲に関するものが中心で,文書に記された聖女の足元に跪く修道士や修道女,あるいは頭上の聖母子と天使たちといった要素は,作品には描かれていない。さらに,作品には中央パネルの聖母子の傍らに二体の天使が描かれているが,これは文書中には指定されていない。
しかしこれらの差は,聖ブリジッダを描いた別の作品を考慮に入れることで,容易に説明することができる。それは同じ天国修道会にあったジョヴァンニ・ディ・ターノ・フェイの作品(ミラノ,バッシ・コレクション旧蔵)で,1439年の文書の記述は聖ブリ ジッダの姿に関する限りほぼ完全にこの板絵に一致する。
この一致は,聖ブリジッダというマイナーな聖人の図像を決定するため,作品の注文がなされた際に数少ない先行作品のひとつであるジョヴァンニ・ディ・ターノ・フェイの板絵が参照されたためであると考えられる。しかしながらその図像は,三翼祭壇画の一翼に描くには複雑すぎた。そのため,実際の制作にあたっては,図像は大幅に簡略化され左側パネルからは「修道士と修道女……頭上には,我らが主と聖母,その周囲には聖母に話しかける天使たち」といった要素が省略された。そして,これらの要素のうち「聖母に話しかける天使たち」は,中央パネルの聖母子の傍らに,場所を移されて描かれることになったのである。
1439年の文書とプラートヴェッキョの画家の作品との関連が認められれば,ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコが1459年に死亡したデル・チェルヴェッリエーラでは「ない」というギンズブルグの説の蓋然性が高まる。そしてこの画家は,1459年以降もかなりの期間に渡って活動した可能性があるのである。
まず,1462年にとあるジョヴァンニ・ディ・フランチェスコという画家が,アレッソ・バルドヴィネッティから画材の提供を受け,フィレンツェのサンティッシマ・アッヌンツィアータ教会で作業をしている。ところで,ここまで論じてきたジョヴァンニは,1458〜59年にオスペダーレ・デリ・インノチェンティにおいて,バルドヴィネッティの傍らで制作を行ったことが知られている。さらに,カーサ・ブオナッローティ所蔵の《聖ニコラウス伝》には,アッヌンツィアータ教会のバルドヴィネッティの《降誕》の影響を見て取ることができる。これらの事実をあわせて考えると,1462年にアッヌンツィアータ教会で活動した画家も,現在論じている画家と同一人物である可能性が高い。また,同じフィレンツェのサンタ・トリニタ教会に残された壁画作品《聖人司教》も,バルドヴィネッティの影響下でジョヴァンニが1470年前後に制作した可能性がある。1459年という没年が消失したジョヴァンニの活動は,1460年代以降も視野に収めて再構成されるべきである。
この6月末に最高気温46°Cという記録的な猛暑を記録したチュニジアの首都チュニスから,地中海沿いに走る電車で30分程で,2800年の歴史を持つ都市,カルタゴに到着する。この都市のローマ統治時代の遺跡に混じって,観光客が足を向けるのが,カルタゴの守護神,タニト神の聖域にある墓地遺跡,トペトである。ここは,1920年代の発掘で,子供を抱いた神官の図が刻まれた石碑や多くの子供の骨が出土したことから,カルタゴ人の幼児生贄の墓所として知られており,最寄りの駅には,カルタゴ人のモロク神への生贄の儀式を活写したギュスターヴ・フローベールの『サランボー』(1862年)に因んで,「カルタージュ・サランボーCarthage-Salammbô」という名前がつけられている。
このように,『サランボー』はカルタゴ=幼児生贄の風習,というイメージを人口に膾炙させた作品だが,かの風習を,邪教的な禍々しさを持った儀式のイメージとして大衆の心に刻み付けたのは,ジョバンニ・パストローネのサイレント映画『カビリア』(1914年)だった。
『カビリア』は,サイレント黄金時代の傑作といわれる歴史映画である。第二次ポエニ戦争に題材をとったこの映画は,莫大な予算と撮影期間をかけたもので,移動撮影,人工照明といった革新的な技術と,壮麗なセットで観客を魅了した。1917年に『イントレランス』を撮ることになるD.W.グリフィスが『カビリア』に多大な影響を受けたことはよく知られている。
飛行機からチラシを撒くなど,公開当時からこの映画はさまざまな話題を振りまいたが,その一つが,ガブリエーレ・ダンヌンツィオの起用だった。パストローネはエミリオ・サルガーリの『カルタゴ炎上』Cartaginein
Fiamme(1908年)を下敷きにした映画の大半を既に撮り終わっていたが,ダンヌンツィオに字幕作成への協力を依頼した。ダンヌンツィオがこの仕事に全く熱意を感じていなかったことは,彼が1914年4月に友人に宛てた手紙からも明らかだが,パストローネがダンヌンツィオに,当時のイタリア映画一本分の予算に相当する5万リラを支払うことで,両者の利益は一致した。表向きはパリの社交界の生活を楽しんでいたダンヌンツィオも,実際の財政事情は決して楽ではなかった。一方のパストローネにとっては,この映画に社会的な威信や信望を付与することが重要だった。『カビリア』のオープニングには,著名な指揮者,アントニオ・マッツァが100人規模のオーケストラを率いて登場した。同様に,世紀末にヨーロッパ文学界の寵児となり,その後も文学・演劇・社交界での話題に事欠かないダンヌンツィオの名前を映画に冠することで,パストローネは,いってみれば映画に「箔をつけた」わけである。
映画史関連の資料やダンヌンツィオの研究書を見ても,ダンヌンツィオは,映画のタイトルと何人かの登場人物の名前を変え,字幕を荘重な調子に変えただけ,とされている。それでは,「名前を貸す」以外に,ダンヌンツィオがこの作品に与えたものはなかったのだろうか。
フローベールが異教世界の物語を,その世界に生きる者たちの側から描いた(例えそこに近代フランス人の視点が垣間見えるにせよ)とすれば,『カビリア』は,ローマという「正しい」者の視点から,悪者であるカルタゴを描いたものだった。ハンニバルのアルプス越えや,ソフォニスバ姫の美麗な居所など,映像としての見せ場はカルタゴ側の描写にも多いのだが,これまでにも指摘されているように,第一次世界大戦前夜,リビアを併合したばかりのイタリアにおいて,『カビリア』におけるローマの栄光は,20世紀のイタリアの栄光の希求につながっていた。そして,倒すべき邪なもの,野蛮なものを象徴したのが,モロク神への生贄の儀式だったのである。ダンヌンツィオは,2度までもモロク神への生贄にされそうになるシチリアの少女の名前をCabiriaに替え,彼女の名前を映画のタイトルにした。これは,確実に『サランボー』を意識したもの(パストローネは映画がサルガーリ作品と『サランボー』の混成だという説を常に否定していた)だが,同時に,モロク神への生贄の儀式を映画の前面に打ち出す,という効果もあげた。何種類か作られた映画のポスターには,火の中に捧げられる少女カビリアの姿がダンヌンツィオの名前と共に描かれることになる。
この映画におけるモロク神殿の壮大なセットと,リアルな儀式のシーン(少女のカビリアが生贄として火に包まれるシーンは,1931年の改訂版ではカットされている)は,フリッツ・ラングの『メトロポリス』から,S.スピルバーグが関わる『インディー・ジョーンズ魔宮の伝説』や『ヤング・シャーロックピラミッドの謎』に至るまで,多くの映画に影響を与えているが,悪の象徴としての邪教の儀式というイメージの出現に,実はダンヌンツィオも関わっているのではないだろうか。
「ピカソ・クラシック1914-1925」展によせて
岡村多佳夫
昨年,東京上野にある上野の森美術館で開催された「ピカソ―天才の誕生」展を見た人は,ピカソが生まれながらの優れた素描家であったことを理解したと思われる。そのことは,現在,同所で開かれている「ピカソ・クラシック」と題された展覧会に展示された作品によってさらに強められるであろう。
今回の展覧会は1914年から25年までの,ピカソが32歳からの10年間ほどの作品,とりわけ「古典主義時代」と呼ばれる表現の作品を集めたものである。すでに少年時代から父親の影響と教育もあり,古典古代の彫像をデッサンしていたピカソにあって,この10年間に現れる表現はとりわけ特別なものではない。とはいえ,一般に絵画の変革者としてのイメージが強いピカソがこのような表現をしていたことは,多くの人に驚きを与えるのではないだろうか。
この時期,彼が進めていたキュビスムという新たなる絵画の問題は,コラージュなどの導入によって明快な表現に向かい始めていた。そのようななかで,戦争が始まる。それはあらゆるものを破壊し,確固たるものを崩壊せしめていった。この外的事象を前にして,パリの異邦人ピカソは自らの拠って立つ場の危うさに気づかされることになる。ピカソが古典主義的表現を試みるようになるのはこのような状況もひとつの要因であったということができるであろう。すなわち,不安定な外側の世界に対して,自身の世界を確たるものにし,表現に存在感を与えること。それこそが自らがこの場所に「居る」,あるいは「在る」ことの意味を明らかにしてくれるものであったのである。そのためにも,彼にとってある種のリアリスティックな表現をする必要があったといえるであろう。だからといって,ピカソはただひたすら古典的表現にまい進したわけではなく,キュビスムもまた同様に彼にとって重要な表現形式であったことも確かである。そして,ここでは詳述しないが,一見すると異なるもののように見えるこれらの表現形式が通底しているのも事実である。
さらに,この戦争中に彼にとって重要な出会いがあった。それはジャン・コクトーと知り合ったことである。生涯にわたる付き合いの始まりは,1915年のコクトーによるピカソ訪問からであった。同年,コクトーはまた音楽家エリック・サティと知り合う。この3人の出会いが後のバレエ「パラード」へと結実していく。このバレエは上演時には決して成功したとはいえない。それはキュビスムの表現形式を用いたピカソによる衣装デザインと,サティによる音楽が当時の観客に不評であったからである。ついでながら,サティのこのときの日常の音を用いた音楽は今日のノイズ・ミュージックの先駆的表現として評価されている。それはさておき,ピカソとコクトーは「パラード」の打ち合わせと制作準備のためにローマへと向かうが,ピカソにとって初めてのこのイタリア旅行は表現の新たなる展開を進めるきっかけになっていく。彼はローマ,ナポリ,ポンペイ,そしてフィレンツェなどで形態のもつ力と優雅さ,饒舌さをもった多くの作品に出会い,自らの道が決して誤っていなかったことを了解したに違いない。というのも,彼は表現形式をさまざまに変容させていったとしても,根本的にはつねに形態を追及しつづけた画家であったからである。
さらにまた,ピカソにとってこのイタリア旅行のきっかけを作ってくれた「バレエ・リュス」との関わりも重要な意味を持っていた。彼はその後「三角帽子」,「プルチネッラ」,「クアドロ・フラメンコ」,そして「青列車」といった彼らのバレエの舞台美術や衣装のデザイン,あるいは緞帳などを制作し続けた。しかしながら,本質的に画家であったピカソにとって舞台への興味はそれほど長続きしなかった。それは,舞台という共同作業の一部としてあることよりも,個人の営為である絵画こそ自らの表現形式に見合っていると感じたからかもしれない。しかも,絵画表現のなかには3次元の問題が,そして物語性や音楽が十分に含まれているからである。いずれにせよ,バレエ・リュスとの仕事が終わるとともに,「パラード」の制作中に知り合った同団のバレエ・ダンサーであり,のちに結婚したオルガ・コックローヴァとの間にも隙間風が吹くようになる。そして,作品上に古典的な形態ではなく,より暴力的なデフォルメ(歪められた)された人物表現が現れるようになるのである。
今回の展覧会では,ピカソのこのような表現の流れを見ることができるが,それは彼を取り巻く時代の空気が暴力的な破壊から秩序へ向かったのとはまさに逆行する。これこそが,ピカソの本質であろう。すなわち,彼はつねに反抗する画家でありつづけたからだ。
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自著を語る33
『イスタンブールの大聖堂』
中央公論新社中公新書2003年2月207頁780円
浅野和生
この本は,自分が知りたい,読みたいと思っていたことを調べて書いた本,と言ってもいいでしょう。
聖ソフィア大聖堂という建築物のことは,ビザンティン史やビザンティン美術の本には,必ず出てきます。その写真が表紙に使われていることも少なくありません。おそらくはラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の,ユスティニアヌス皇帝の肖像モザイクと並んで,ビザンティン帝国の顔という地位にあります。
しかしながら,これまでそういう本の中の,聖ソフィア大聖堂の建築やモザイクについて書かれた記述を読んで,十分に満足したことが私にはありませんでした。なぜならば,あまりに簡単すぎるからです。この建築物は,千年間にわたって帝国のまさに中心としての役割を果たし,帝国が滅んだ今でさえ過去の栄光を主張し続けるモニュメントです。この程度の記述ですませていいはずがない,と私はいつも思っていました。
そういうわけで,聖ソフィア大聖堂の建築や歴史,モザイクに関するビザンティン時代当時の文献や現代の論文を,20年以上前から,私は折に触れては集めてきました。ときに尖鋭な論争を含んだ数々の論文は,私の知識欲を満足させてくれました。
このような気長な研究の中で,自分の独自の知見を見いだせたと思ったことについては,学術論文の形にまとめて出版したこともあります。本書の中でも触れていますが,ナルテックス・モザイクの皇帝像の解釈に関する論文がそれです。
また,もうすでに学界で定説となっていることや,逆に解決はついていないが自分でも論文にできるほどの決め手がないことなどは,その研究史や論争の過程を,大学院の授業や研究会などの中で話してきました。
そうしているうちに,聖ソフィア大聖堂についてだけで1冊の本になるくらいの材料が集まったと思ったので,一気に書き下ろしたのが,本書というわけです。
一般の読者に読んでいただく新書という形にするにあたっては,やはりそれなりの工夫をしました。
冒頭で,相対してそびえるブルー・モスクと対比して「どうしてキリスト教の教会とイスラム教のモスクがこんなに似ていて,しかも並んで建っているのか」と疑問を呈し,その後の歴史を考える伏線として最終章へつなげたのも工夫のひとつです。これは,自分のオスマン建築への興味から思いついたことでもあります。
聖ソフィア大聖堂をとりまくイスタンブールの建築物についての記述も,旅行案内書のように盛り込んで,実際にトルコへ旅する人にも手にとってもらえるように配慮しました。
また,プロコピオスやフォティオスなどの,ビザンティン時代の文献を引用するときには,あまり延々とは続けないようにしました。本当は私としては,ビザンティン文献をもっと長く,すみずみまで読んでいただきたかったのです。それがビザンティン人の生の息吹に触れることであると,私は思っていますから。しかしそれはまた別の機会に試みることにしましょう。
モザイクの解釈についての論争の経過を追った部分に対しては,「おもしろかった」という意見と,「煩雑すぎる」という意見の両方があったようです。万人受けする本というのはありませんから私はこれでよかったと思っていますが,ある先輩からは「『イコノミデスが,コーマックが』と書かれてもとっつきにくい。『アテネ大学のイコノミデス,ロンドン大学のコーマック』と書いただけでずっと身近に感じられるのに」という指摘を受けました。それはその通りで,私の未熟さゆえの舌足らずだったと思っています。
人名の表記は,一部ラテン語表記とギリシア語表記が混じってしまいました。「ユスティニアヌス帝」は,自分のモノグラムをギリシア文字で作っていますから「ユスティニアノス帝」でもよかったのでしょうが,やはりラテン語読みが一般に通りがよいと考えてそう書きました。一方,その側近であった「プロコピオス」は,ギリシア語で著作を残しているから,ギリシア語表記。バイリンガルであったこの時代の名前の読み方については,明確な線引きはできないとは思いながら,少々後味の悪さが残りました。
それでも,「自分が読みたい本を書く」という目的を果たして,私は一応満足しています。そして,新書が最近週刊誌のように大衆化していく中で,これだけの学術的な内容を盛り込んで自由に書かせていただいた中央公論新社には,深く感謝しています。
ナウマキア─模擬海戦と人工池/島田誠
古代ローマでは,市民たちを楽しませるために様々な見世物が,有力政治家や皇帝たちによって催されていた。それらの見世物の中に,一対一で戦う剣闘士の試合や野獣と罪人との戦いなどと並んで,実際に行われた歴史上の戦いを集団で再現する模擬戦も含まれていた。その模擬戦の内,サラミス湾の海戦やアクティウムの海戦などの海上で行われた戦いを再現した模擬海戦は,「海戦」を指すギリシア語の単語を用いてナウマキアと呼ばれていた。また,その模擬海戦を行うために造られた人工池もナウマキアと呼ばれる。
このような模擬海戦(ナウマキア)が最初に行われたのは,紀元前46年のことだった。この年,ポンペイウス派との内乱に勝利したカエサルは,凱旋式の際に,剣闘士の試合・演劇・運動競技などからなる盛大な見世物をローマ市民たちのために催した。この見世物の一環としてティベリス河畔に池を掘って模擬海戦が行われたのである。この模擬海戦の行われた人工池は,カエサルの死後に伝染病が流行り,その汚染源と疑われて埋め立てられたと伝えられている。模擬海戦が行われた後に,排水されることなく放置されていたと思われ,恒久的な模擬海戦用の施設として計画されたものではなく,一回限りの使用のために掘られた池だと考えられる。
最も著名な模擬海戦用の人工池(ナウマキア)は,アウグストゥスがティベリス川右岸(ローマ市中心部の対岸)に造ったものである。この池は長径536m,短径357m,中央に直径100mの島が設けられていた。アウグストゥスの催した模擬海戦では,この池に30隻の大型船(3段櫂船もしくは2段櫂船)と多数の小型船が浮かべられ,3,000人以上が戦ったと伝えられている。また伝えられる最も大規模な模擬海戦(ナウマキア)はクラウディウス帝がアペニン山中のフキヌス湖の干拓事業に先立って催した海戦である。各々20隻の二つの艦隊に分れた大型船(3段櫂船もしくは4段櫂船)が戦い,1万9,000人が参加したと伝えられている。また器械仕掛けで海神トリトンが水中から出現し,ラッパを吹いて開戦の合図をしたと伝えられる。
模擬海戦は,専用の人工池(ナウマキア)だけで開催されていたわけではなかった。紀元後80年,フラウィウス円形闘技場(コロッセウム)が完成すると,その落成を祝ってティトゥス帝が大規模な見世物を開催した。その際,円形闘技場に水をたたえて模擬海戦が行われたことが記録されている。ティトゥスの弟,ドミティアヌス帝は,コロッセウムで模擬海戦を催しただけでなく,ティベリス河畔に池(ナウマキア)を掘り,周囲に施設(観客席?)を建て,正規の軍艦を用いた模擬海戦を催したことが知られている。
表紙上図は,オノフリオ・パンヴィニオ・ディ・ヴェローナの手になる17世紀の版画で,ローマ市北方の「マルスの野」におけるナウマキアを描いている。下図は16世紀のピエロ・リゴリオ(大)による古代ローマの都市図(部分)であり、丸で囲まれた箇所にナウマキア(人工池)が描かれている。
地中海学会事務局
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