地中海学会月報 262
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM
2003| 9 |
*秋期連続講演会
10月18日より11月15日までの毎土曜日(全5回),秋期連続講演会をブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において下記の通り開催します。各回とも,開場は午後1時30分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館受付で予約可)です。
「宮廷をめぐる芸術」
10月18日 ルネサンスの宮廷芸術家の光と闇
──出世と「万能の人」
小佐野重利氏
10月25日 美術愛好家としての宮廷女性
──ポンパドゥール侯爵夫人からマリ=アントワネットまで
鈴木杜幾子氏
11月1日 ヴァン・ダイクとチャールズ1世
中村 俊春氏
11月8日 ディエゴ・ベラスケス,絵筆をもち王に仕える従者
大高保二郎氏
11月15日 フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの宮廷と建築
石川 清氏
・第2回常任委員会
日時:2002年12月7日(土)
会場:上智大学7号館12階第4会議室
報告事項 特別研究会に関して/学会誌に関して/研究会に関して/第26回大会会計に関して他
審議事項 第27回大会に関して/地中海学会賞・ヘレンド賞に関して 他
・第3回常任委員会
日時:2003年2月19日(水)
会場:東京大学東洋文化研究所3階第1会議室
報告事項 『地中海学研究』XXVIに関して/石橋財団助成金に関して/日本学術会議に関して 他
審議事項 第27回大会に関して/地中海学会賞・ヘレンド賞に関して 他
ヴィッラ・マダーマの象の噴水/末永 航
水辺というと,昔から存在した海なり川なりに寄り添うようにある場所が思い浮かぶけれど,水を引いてきてつくった処にだって,やはり水辺はできる道理である。
ローマは噴水の都でもあって,そんなつくられた水辺には事欠かない。今月選んでみたのはあまり人目に触れるところではないが,ヴィッラ・マダーマの庭にある噴水である。象の鼻から水が出る仕組みになっているが今,水は出ていない。
ルネサンス以降のイタリアでさかんにつくられた「水辺」には,やがてバロックの町づくりで重要なアクセントになる街の広場の噴水がある。だがもうひとつ,庭の中につくるニンファエムやグロッタなど,奇妙な彫刻が施された人工洞窟みたいなものにも,やはり水がつきものだった。この象の噴水には,古代風の図柄で飾られた丸天井もついていて洞窟のような感じもあり,その二つの流れのどちらにもつながる「水辺」ということなる。
現在ヴィッラ・マダーマと呼んでいる広壮な館は,16世紀前半にメディチ家が建てたものだった。私邸ではあったが,この時期のメディチの中心人物は教皇レオ十世本人だったから,この家はバチカンの北方にあって教皇庁の賓客をもてなすという,半ば公式の役割をもっていた。
設計はラファエッロ。建築もよく研究していたこの画家がデザインしたほとんど唯一の建物だが,計画の一部しか実現しなかった。
噴水はそのラファエッロも,レオ十世も死んでしまったしばらく後の1526年頃,ラファエッロの弟子ジョヴァンニ・ダ・ウディネが,またもメディチ家から教皇に登ったクレメンス七世の命で制作したものだといわれ,いくつかの素描も残っている。
象のモデルとなったのはアンノあるいはアンノーネという名前のレオ十世の愛象(?)で,実在の象だった。教皇の登位を祝ってポルトガルのマヌエル大王が贈ったもので,中世以降ローマにはじめてやってきた象であり,アフリカ象ではなくアジアの象としてはおそらく最初にヨーロッパに連れてこられた一頭だった。
ところでこの噴水は人目に触れないと,最初に書いてしまったが,ある意味ではその正反対だともいえる。現在この館がイタリア外務省所管の迎賓館として使われているからである。おいそれと観光に行くわけにはいかないが,ニュースの映像などには実はよく登場している。ずいぶん昔の話のような気がするが,当時の田中真紀子外相が先進国外相会議で写真の真ん中に入れてもらったというのがちょっと話題になったことがあった。それは正にこの噴水を背景にした記念撮影だったのである。
スケッチはガイミューラーによるものである。
アリオストの眼
──『狂えるオルランド』における視覚的表現──
脇 功
文学における視覚的表現という点では,14世紀のダンテやペトラルカと,16世紀のアリオストとでは,大きな隔たりがある。アリオストの『狂えるオルランド』には,およそダンテやペトラルカには見られないような,詳細,精緻な視覚的表現が横溢している。その違いは,ダンテの『新生』や,ペトラルカの『カンツォニエーレ』に収められているのは短詩形の叙情詩であり,またダンテの『神曲』のような長大な詩にしても,3行詩節であるのに対して,アリオストの『狂えるオルランド』は,詳細な視覚的表現に行数を費やし得る8行詩節の物語詩であるという形式上の違いによるとばかりは言えない。またダンテやペトラルカがアリオストよりも視覚的表現の才能に欠けていたというような単純なことでもない。
アリオストは言葉による視覚的表現に希有の才能を持っていたことは確かである。それは『狂えるオルランド』の決定稿の刊行(1532年)直後,すでにルドヴィコ・ドルチェが「『狂えるオルランド』は読むというより,見るような作品である」と評して以来,誰しもが認めるところであり,たとえばずっと後世のデ・サンクティスもアリオストを画家にたとえて,次のように言っている,「偉大な画家を生んだ世紀,つまりイタリアの想像力がそのイメージのあらん限りの精巧さでもって仕上げようとしていた時代(16世紀前半)にあって,アリオストも折り目正しい画家であり……戦さの場面,魔法の場面や,景色の描写を読んでも,それぞれが一幅の絵として描かれ,細部の細部に至るまで詩人の目が行き届いていて,仕上げられた,それ自体が気品の高い上品な絵となっている」。つまり,デ・サンクティスは,言外に,視覚的芸術の全盛期という当時の文化的環境がアリオストに及ぼした影響を指摘しているのである。そしてそうした盛期ルネサンスという環境がアリオストの生来の視覚的表現能力をさらに刺激し,磨き上げたのである。
要するに,文学における視覚的表現という点での,ダンテやペトラルカとアリオストの違いは,そうした要素を文学に持ち込むという意図なり意識の有無,あるいは強弱にあったと言えよう。
『狂えるオルランド』に見られる当時の視覚芸術の影響は,単にそれぞれの登場人物や,それぞれの場面を詳細,精密に,絵画的に描くという点のみに止まってはいない。作品全体の構成というか,創作法にも言えることである。アリオストは『狂えるオルランド』の中で,この自作について,「私が織ろうとつとめておりますこの大きな綴れ織り,仕上げますには様々な糸をたくさん要します」(第13歌,80節)と言っている。アリオストの『狂えるオルランド』はモノトーンなものではなく,無数の登場人物と,それらの登場人物が展開する,それぞれ色合いの違った無数のエピソードからなっており,それらを全体として調和のあるものに構成する必要があるわけであって,それには様々な色を使って,大勢の人物群像を描きながらも,全体として調和の取れた一枚の絵や,タピスリーを仕上げるのと同じような方法を意識していたと言えよう。
アリオストの視覚的表現は比喩にも顕著に見られる。たとえば豪傑の武者振るいは「吹きすさぶ北風,あるいは西風が山のとねりこ,あるいは樅を根こそぎに吹き倒すとき,アルプスの岩壁上に堅固に建ったいと高き城の城壁震えるごとく」であり,騎士が一目散に駆け去るさまは,「炎天の下なる道を横切り渡る蜥蜴より,なおもすばやく」といった具合である。彼のこうした比喩における視覚的表現は,登場人物や場面の描写における詳細,精緻な,静的な,絵画的な表現とはまた違って,いかにも動的な,いわば映像的な表現が特徴である。これもまた視覚的表現におけるアリオストの才能の現れであろう。
アリオストの視覚的表現のもうひとつの特徴は,作者の視点,視野が千変万化することである。ごく身近な視点からの微細な対象の描写もあれば,天馬にまたがり,はるか上空から中国大陸やヒマラヤ山脈を見下ろす壮大な視野の描写もあり,果ては月世界から地球を眺めるなど,視点や描写する対象が宇宙的規模にまで膨らむ。これもアリオストの想像力と視覚的表現能力のしからしむところである。
いずれにしても,『狂えるオルランド』には鮮やかな視覚的表現に溢れているが,それはアリオストの天賦の才によると同時に,盛期ルネサンスという文化的環境,雰囲気がなおいっそうそれを刺激し,アリオストに文学にもそうした要素を持ち込もうと意図させたことによるのではなかろうか。
その意味で,アリオストのこの作品は,盛期ルネサンスの精神,雰囲気を文学の分野で代表するものと言える。
地中海世界と祝祭
パネリスト:京谷啓徳/島田誠/高田和文/ゲスト・パネリスト:牟田口義郎/司会:片倉もとこ
第27回地中海学会大会,6月22日のシンポジウムには,パネリストとして,島田誠氏(学習院大学),京谷啓徳氏(九州大学),高田和文氏(静岡文化芸術大学),ゲスト・パネリストとして牟田口義郎氏(元地中海学会会長)の面々にご登壇いただき,会場には,高階現会長以下大勢の方々の御参加をいただいた上,さらに今年は福本常任委員のご尽力とメルシャンワインのご好意によって,ワインもふるまわれるなど,プラトンの饗宴さながらのシンポジウムがくりひろげられることになった。
まず,島田氏から,古代地中界世界の都市(市民共同体)における祝祭の例として,共和政ローマの祝祭がとりあげられ,行列(pompa)競技(ludi)供犠(sacrificium),神々への犠牲を捧げたあとでおこなわれる饗宴(epulum)といった祝祭の構成要素について,祝祭の場に案内されたような具体的な話があった。こういった祝祭は宗教的には,市民共同体の安寧を神々に感謝するという意味があったが,それと同時に,都市主催の公式行事である祝祭に参加することは市民共同体の一員としての地位を示すものであり,市民の間に高揚感がひろがったという。フローラリア祭,サトゥルナリア祭などでは,市民たちは羽目をはずすことがゆるされ,都市の秩序が一時的に覆され,市民たち,奴隷たちの緊張感が緩和されるといった当時の祝祭のもっていた意義や役割についての話でしめくくられた。
京谷氏からは,ルネッサンス期イタリアの祝祭を特徴づけている「行列」に焦点があてられ,行列のこまかな様子がよくわかる美しいカラースライドをもちいて多様な実例を映写されながらの話があった。行列の型,行列機能,役割,美術との関係などが語られたが,ルネッサンスの祝祭行列をなかんずく魅力的にしているのはいろいろに飾りつけられた山車,それは活人画やアレゴリーでかざられ,祝祭の参加者に多くのメッセージがつたえられたという。その発想の源になったものとして,ペトラルカの詩「勝利」があげられ,ルネッサンス期には画家工房によって絵画化され,実際の祝祭行列につかわれた山車を設計し制作をしたのも同じ画家工房だったそうな。ルネッサンス期の祝祭行列の特徴のひとつは古代ローマの凱旋将軍さながらの入場式がおこなわれたことで,行列が練り歩く都市は劇場のようになった。君主をたたえるメッセージもふくまれ,他の多くの行列もパトロンたちがなんらかの意図をもって企画したもので,ときに効果的なプロパガンダになったという。
つづいて高田氏からは,イタリアに伝わる祝祭的な喜劇精神をテーマに,仮面即興劇(コンメディア・デッラルテ)とダリオ・フォーの演劇についての話がなされた。古代ローマにさかのぼる民衆劇,中世の大道芸などにその源流を見るともいわれるコンメディア・デッラルテは,祭りやカーニバルのおりに小屋掛けの舞台でなされたが,のちに宮廷などでも演じられるようになった。しかし民衆劇的性格は保ちつづけられ,それゆえに宮廷での上演がゆるされなかったこともあったという。ダリオ・フォーは中世の道化芝居を再生させて「ミステーロ・ブッフォ」という一人芝居のパフォーマンスで,とくに若者たちからの熱狂的喝采をあびた。反体制の装置としての演劇を掘り起こそうとする意図があったが,演劇としての魅力も保ちつづけたという。彼の演劇にみられる風刺,批判精神,身体表現の豊かさ,アドリブの妙などは古代ローマ喜劇から中世大道芸をへて,コンメディア・デッラルテ,さらに現代の演劇にいたるまでイタリア人俳優にうけつがれてきた喜劇の伝統であるという。ダリオ・フォーもコンメディア・デッラルテの両者とも,ビデオによる紹介がなされ,俳優の全身での表現,笑いをとるプロの熱演に,笑いのさざなみがおこり,会場は一瞬,祭りの雰囲気につつまれた。
地中海の北側から,祭りのにぎわいが伝えられた一方,南の方は,牟田口氏お一人の奮戦であったが,いつもの語り口で,エジプトに古くから伝わっている春風祭(シャンム・ナシーム)が,キリスト教徒もイスラーム教徒もいっしょに祝われてきたこと,現代においても早春の愉しい行事であること,女たちの歓喜の声(ザガリード)についても古い記述にみられることなどが,春風祭の詩の朗読もまじえて披露された。またアテネの守護神は地中海をこえたリビアが生まれ故郷であること,ギリシア人はリビア人の服装を模倣したのであったことなど,地中海世界が南北にわかれるのではなく,互いにかかわりあってきた,ひとつの文化圏であることを,われわれにあらためて想起させる話をいただいた。
会場からも活発な質疑応答がなされ,地中海世界は歴史的にも地域的にも広く深く,地中海世界のさまざまな祭りをひとつのテーマに収斂させて論議しまとめるよりは,今回のそれぞれの発題を,さらにひろげ発展させ,将来につなげていくという楽しい期待のもとに今回のシンポジウムの幕はとじられた。(文責 片倉もとこ)
ゴヤ版画集《ロス・カプリチョス》におけるアクアチント技法の一考察
笠原 健司
ゴヤによる版画集《ロス・カプリチョス》は,1799年にマドリードの片隅で発売された。ゴヤはこの版画集の制作にあたって,80点すべての版にアクアチント技法を施し,後に件の技法の大成者とまでされることとなる。フランス生まれのアクアチント技法は,文字どおり「aqua=水」「tint=調子」で,腐蝕銅版画において水彩画,あるいは淡彩画のような調子を得るための技法である。この技法がスペインへ完全なかたちで伝播するには少し時間を要した。ゴヤによる初期の版画作品から《ロス・カプリチョス》へ至るアクアチント技法の変遷を見ていくと,件の技法がスペインへ伝播していくタイム・ラグを垣間見ることができよう。いくつかの版に施されたアクアチントを例にとり,発表者自作のアクアチント・サンプルとの比較を行うことにより技法論的,かつ材料学的にアプローチし,ゴヤの手の仕事へ迫ろうとするのが本研究の主旨である。
ゴヤは《ロス・カプリチョス》を制作する15〜20年ほど前に,スペインの英雄的画家ベラスケスの油彩画を模写版画というかたちで制作し,スペインにおいてはじめてアクアチントを使用したとされている。ゴヤがスペインにおけるアクアチントの第一人者かどうかという議論は現在もなされているが,少なくともここで使用されているアクアチントは《ロス・カプリチョス》で使われている完成されたアクアチントとは技法の習熟度の面で劣るものとみることができる。ベラスケスの模写版画においてアクアチントが使用されている版は5点で,その中で実際に出版されたのは《ドン・フェルナンド新王》と《道化師バルバローハ》の二点とされている。
トマス・ハリスも指摘するようにアクアチントに欠陥があるとされる《道化師バルバローハ》では,床面に不自然な白い斑点がみられる。この箇所は光源の設定からみても調子として必然性のあるものかどうかは疑わしい。この箇所の検討のために,部分的に防蝕箇所を大きくしたサンプルを作成したが,防蝕箇所の形状や密集した斑点の形状という点で見ると酷似していると思われる。この痕跡を制作工程における失敗であると断言することはできないが,少なくとも特定の箇所に一定のトーンを得ることに成功しているとはいえない。スペインにおいて,他の作家によるアクアチントの作品で現存するもののうち,制作年代が早いのはホセ・ヒメーノによる1790年のものであり,画家であるゴヤが1780年代にヒメーノをはじめとする版画家たちと同等の習熟度をもってアクアチントを駆使していたとは考えがたい。制作時期の特定は技法面からの考察だけでは究明できるものではないが,少なくとも《道化師バルバローハ》において,ゴヤはアクアチント技法の正確な知識を有した助言者なしに実験的な制作を行っていたといえるのではないか。
次に《ロス・カプリチョス》の80点のなかで比較的制作時期がはやいであろうとされる10点(7,14,27,60,63,65,66,68,69,70番)の作品をとりあげる。ここで扱う10点の版は《ロス・カプリチョス》に先行する未完の版画集《ロス・スエーニョス》のために制作された版とされており,残りの70点と区別するため,二つの共通する特徴をあげることができる。一つはゴヤのサインが版刻されている点であり,1stエディションの刷りをみると作品の左下に確認することができる。もう一つは背景の表現である。これら10点の版では背景が一層のアクアチントと線刻表現の混合技法によって表現されているのに対して,残りの70点の版では5番や6番のような例外を除いて,ほとんどの作品の背景が腐蝕時間を部分的に変えることによって得られる複数のトーンで表現されている。つまり線刻表現は制作時期が下るほど背景においては使用されなくなるのである。しかし,これら10点の版の中に例外的にトーンが異なる27番に関しては,腐蝕工程において他の9点の版とは異なった処理がなされていると考えられる。27番に施された濃いトーンを表現するために用いられたアクアチントは,防蝕箇所のテクスチャーこそ他の版と同一のものであるが,腐蝕箇所が深い溝を作っているため,つまり腐蝕時間が長いために結果的には濃いトーンを作っているのである。準備素描との比較からも27番の場面設定が夜でないことは推測されることから,ゴヤは《ロス・スエーニョス》制作時点でもアクアチント技法において実験的な制作を行っていたものとすることができる。
この後,つまり残りの70点の版の制作に関して,イギリスでアクアチント技法を習得した版画家バルトロメ・スレーダの存在が大きく関わってくるが,主題と技法の関係や,刷り工程における個々の作品の差異についての問題を含め,今後の課題であると考える。
『近世フィレンツェの政治と文化──コジモ1世の文化政策(1537-60)』
刀水書房 2003年2月 385頁 10,000円
北田 葉子
コジモ1世の文化政策は,本当におもしろいと思う。
コジモ1世はもともと,フィレンツェの君主になどなる予定ではなかった。コジモ1世が生まれたのは1519年,そのときフィレンツェはまだ共和国であった。もっとも実権を握っていたのはメディチ家であったが,コジモはメディチ家といっても,本家とは15世紀の半ばに分かれたかなり遠い傍系である。父は傭兵隊長で,政治にはタッチしていない。しかもその父はコジモが7歳の時に死んでしまう。1532年にフィレンツェは君主制となるが,このときもコジモに登場の機会はなかった。ところが1537年に暴君として嫌われていた初代フィレンツェ公アレッサンドロが暗殺されると,フィレンツェの有力市民層は,傍系のコジモを公爵として担ぎ出したのである。有力市民層たちは彼を傀儡として,自分たちが実権をつかむつもりだったが,コジモは,優秀なブレーンたちの力も借りて,すぐに権力を掌握する。そして,共和国の伝統の強いフィレンツェで,自らの権力の強化に乗り出すのである。
コジモは君主の座につくまで,田舎で狩りばかりして育った。どうもあまり教養はなかったらしい。彼の自筆の書簡にはスペルの誤りが目立つし,第一,字そのものがいわゆる金釘流である。そんなコジモだが,権力の座につくと,芸術や建築のパトロンとなり,大規模なパトロネージを行うのである。しかし彼は,自らの趣味や好みでパトロネージを行ったわけではない。彼は芸術や文化を徹底的に利用し,自らのイメージアップに役立てようとした。コジモの文化政策のおもしろさは,徹底したビジネスライクな姿勢にある。ルイ14世の文化政策にも影響を与えたといわれる大規模な文化政策と,それを貫くマキャヴェリの描く君主のような冷徹な計算。即位当初は,狩りばかりしている間抜けな青年と思われており,実際に本家のメディチ家の人々のような教養教育を受けていなかったコジモだが,その文化政策は,本家のメディチ家の先祖たち以上に明快で,一貫して政治的目標を追うものであった。
本書は三部構成で,第一部ではコジモ1世時代を概観し,彼の文化政策の背景を考察した。第二部では,コジモの文化政策の基本となったアカデミア・フィオレンティーナを追った。アカデミア・フィオレンティーナの創設は,コジモが行った最初の本格的な文化政策である。二流の詩人たちが集まってできたアカデミア・デッリ・ウーミディに目をつけたコジモ政府は,このプライヴェートなアカデミアを公的なアカデミアとして,名前もアカデミア・フィオレンティーナと改名した。このアカデミアにはフィレンツェの知識人の多くが入会し,君主の文化政策のための機関となった。一方,アカデミアという組織が形成されたことによって,知識人たちはアカデミア会員というステータスを与えられ,彼らは君主の庇護下におかれることになった。このような君主を頂点として,多くの知識人が参加するアカデミアの設立によって,フィレンツェには共和国時代にはなかった新しい文化の形が誕生した。そしてこのアカデミアの文化は,後のアカデミー・フランセーズなどにも影響を与えたと思われる。
第三部は4章構成で,それぞれ異なったコジモの文化政策とその意味を扱っている。まず第1章では,1539年に行われたコジモの結婚のための祝祭で,その装飾にはその後の文化政策に利用される様々なモチーフが既に登場していた。第2章では,知識人ベネデット・ヴァルキに焦点を当てた。彼は,共和制主義者として亡命していながら後にフィレンツェに戻り,コジモに仕えるようになるのであるが,このような共和制派の知識人たちがどのように君主制を受け入れていったのか,そしてコジモが彼らに対してどのように接したかという問題をここでは考察している。第3章では,コジモによって作られた公国印刷所を扱い,それがコジモの文化政策にどのような形で貢献したのかを見た。最後の第4章では,新しい,けれどもほんのわずかな期間しか力を持たなかった「エトルリア神話」と呼ばれるフィレンツェの創建神話を考察した。コジモがいかに臨機応変に,そして利用できるものなら何でも文化政策に取り入れていったことが,この章からは分かると思う。
コジモ1世の文化政策はおもしろいだけではなく,その後のヨーロッパ近世の文化を考える上で,重要でもあると思う。本書を読んでくださった方にそれを少しでも伝えることができれば,そしてコジモ1世時代のフィレンツェに少しでも関心を持っていただければ,筆者としては幸いである。
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