地中海学会月報 261
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM
2003| 6·7 |
*第27回地中海学会大会
さる6月21日,22日(土,日)の二日間,金沢美術工芸大学(金沢市小立野5-11-1)において,第27回地中海学会大会を開催した。会員115名,一般25名が参加し,盛会のうち会期を終了した。会期中1名の新入会員があった。なお,都合によりシンポジウムのパネリストは本村凌二氏から島田誠氏に変更になった。またシンポジウムの休憩ではメルシャン提供のギリシア・ワインに舌鼓をうった。
6月21日(土)
開会挨拶 15:00〜15:10
記念講演 15:10〜16:10
「アリオストの眼──『狂えるオルランド』における視覚的表現」 脇 功
地中海トーキング 16:25〜18:25
「宮廷と芸術」パネリスト:嶋崎丞/鈴木董/中山典夫/司会兼任:小佐野重利
懇親会 19:00〜21:00
6月22日(日)
研究発表 9:30〜11:50
「古代ギリシアの聖域逃避と“嘆願(hiketeia)”」池津哲範/「ゴヤ版画集《ロス・カプリチョス》におけるアクアチント技法の一考察」笠原健司/「ユルスナールの『沼地での対話』と「能」の関わりについて──『神曲』から『江口』・『班女』へ」久田原泰子/「《あてなき願い》──マラルメとドビュッシーの曲言法について」栗原詩子
総 会 12:00〜12:30
授賞式 12:30〜12:45
「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」
シンポジウム 13:30〜16:30
「地中海世界と祝祭」パネリスト:京谷啓徳/島田誠/高田和文/ゲスト・パネリスト:牟田口義郎/司会:片倉もとこ
第27回総会(福本秀子議長)は6月22日(日),金沢美術工芸大学で次の通り開催された。
一,開会宣言
二,議長選出
三,2002年度事業報告
四,2002年度会計決算
五,2002年度監査報告
六,2003年度事業計画
七,2003年度会計予算
八,役員人事
九,会長挨拶
十,閉会宣言
審議に先立ち,議決権を有する正会員644名中(2003.6.16現在)580余名の出席者を得て(委任状出席を含む),総会の定足数を満たし本総会は成立したとの宣言が議長より行われた。2002年度事業報告,決算,2003年度事業計画,予算は満場一致で原案通り承認された。2002年度事業・会計は中山公男・牟田口義郎両監査委員より適正妥当と認められた。(役員人事については別項で報告)
2002年度事業報告(2002.6.1〜2003.5.31)
I 印刷物発行
1.『地中海学研究』XXVI発行 2003.5.31発行
「共和政ローマにおけるギリシア人彫刻家の活動──オクタウィアの柱廊周辺の三つの神殿の場合」 芳賀 京子
「ビザンティン福音書写本に描かれるキリスト伝サイクルについて」 瀧口 美香
「ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カッペッレッティと19世紀後半のイタリア建築」
河上 眞理
「ソニア・ドローネーの「服飾芸術」──ローブ・シミュルタネ前史(1905〜1912)」朝倉 三枝
「書評 秋山聰著『デューラーと名声──芸術家のイメージ形成』」 小佐野 重利
「研究紹介 D. Evely et al. (eds.), Minotaur and Centaur─Studies in the Archaeology of Crete and Euboea presented to Mervyn Popham」 高橋 裕子
2.『地中海学会月報』 251〜260号発行
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会(於上智大学)
「『書簡集』からみるマルシリオ・フィチーノ像」 小倉 弘子(6.8)
「お雇い外国人のヴェルサイユ──ベルギーの機械,イタリアの機械」 中島 智章(10.12)
「17世紀イスファハーンの復原」 深見 奈緒子(12.7)
「アリストテレス,イブン・シーナー,バル・エブラーヤー──『気象論』の伝承を中心に」 高橋 英海(3.1)
「ウィルボワ・パピルスにみられる称号titleについての一考察」 山中 美知(5.10)
2.特別研究会(於慶應義塾大学:11.30)
「メセナの現在と未来──文化擁護のアイデアとシステム」
講演 福原義春/シンポジウム 永井一正/三枝成彰/樺山紘一/木島俊介(司会)
3.連続講演会(ブリヂストン美術館土曜講座として)
秋期連続講演会:会場工事のため休会/春期連続講演会:会期繰り下げのため次年度開催
III 賞の授与
1.地中海学会賞授賞 受賞者:中山典夫
2.地中海学会ヘレンド賞授賞 受賞者:堀井優
IV 文献,書籍,その他の収集
1.『地中海学研究』との交換書:『西洋古典学研究』『古代文化』『古代オリエント博物館紀要』『岡山市立オリエント美術館紀要』Journal of Ancient Civilizations
2.その他,寄贈を受けている(月報にて発表)
V 協賛事業等
1.『地中海の暦と祭り』(刀水書房)編集協力
2.朝日サンツアーズ講演企画協力
3.NHK文化センター講座企画協力
VI 会 議
1.常任委員会 5回開催
2.学会誌編集委員会 3回開催
3.月報編集委員会 6回開催
4.大会準備委員会 1回開催
5.電子化委員会 1回,Eメール上で逐次開催
6.財務委員会 1回開催
VII ホームページ
URL=http://wwwsoc.nii.ac.jp/mediterr(国立情報学研究所のネット上)
「設立趣意書」「役員紹介」「活動のあらまし」「事業内容」「入会のご案内」「『地中海学研究』」「地中海学会月報」「地中海の旅」
VIII 大 会
第26回大会(於学習院大学) 2002.6.22〜23
IX その他
1.新入会員:正会員43名;学生会員14名
2.学会活動電子化の調査・研究
3.展覧会の招待券の配布:「ピカソ 天才の誕生」展(一部)
2003年度事業計画(2003.6.1〜2004.5.31)
I 印刷物発行
1.学会誌『地中海学研究』XXVII発行
2004年5月発行予定
2.『地中海学会月報』発行 年間約10回
3.『地中海学研究』バック・ナンバーの頒布
II 研究会,講演会
1.研究会の開催 年間約6回
2.講演会の開催 ブリヂストン美術館土曜講座として秋期・春期(2回)連続講演会開催
春期連続講演会「地中海世界の宮廷と文化」(6.28〜7.26:2002年度春期分会期繰り下げのため)
「中世シチリアの宮廷:異文化交流と華麗なる文化」高山博/「イスタンブルのスルタンの豪奢」鈴木董/「フランス宮廷の女たち」福本秀子/「古代ローマの宮廷における愛と性」本村凌二/「宮廷から市街へ:近代を生きる」樺山紘一
III 賞の授与
1.地中海学会賞
2.地中海学会ヘレンド賞
IV 文献,書籍,その他の収集
V 協賛事業,その他
1.朝日サンツアーズ講演企画協力
2.NHK文化センター講座企画協力
VI 会 議
1.常任委員会
2.学会誌編集委員会
3.月報編集委員会
4.電子化委員会
5.その他
VII 大 会
第27回大会(於金沢美術工芸大学)6.21〜22
VIII その他
1.賛助会員の勧誘
2.新入会員の勧誘
3.学会活動電子化の調査・研究
4.展覧会の招待券の配布
5.その他
第27回総会において新役員(再任を含む)が下記のとおり決定した。
会 長 高階秀爾
副 会 長 片倉もとこ 木島俊介
常任委員
秋山学 石川清 太田敬子 大高保二郎 小佐野重利 片山千佳子 小池寿子 込田伸夫 篠塚千恵子 島田誠 清水憲男 陣内秀信 末永航 鈴木董 高山博 武谷なおみ 内藤正典 野口昌夫 福井千春 福本秀子 堀川徹 本村凌二 山田幸正 渡辺真弓
監査委員 中山公男 牟田口義郎
『地中海学研究』XXVII(2004)の論文および書評を下記のとおり募集します。
論文 四百字詰原稿用紙50枚〜80枚程度
書評 四百字詰原稿用紙10枚〜20枚程度
締切 10月20日(月)
本誌は査読制度をとっております。
投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。
下記のとおり研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:中世後期シエナの住宅建築と都市の拡張
発表者:片山 伸也氏
日 時:10月4日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
トスカーナの丘上都市シエナは,北イタリアとローマを結ぶ街道沿いに位置したことから12世紀以降急速に発展し,ノーヴェ政府治下(1286〜1355)その最盛期を迎える。この時期に整備された市庁舎とカンポ広場は有名であるが,都市形成の過程とノーヴェ政府の都市整備については,これまであまり紹介されてこなかった。本研究では,シエナの住宅建築の類型と市壁の建設過程を検証しながら,今なお面影を残す中世後期シエナの都市空間を考察していきたい。
5月13日本学会会員の穴澤一夫氏,7月1日同神吉善也氏,7月2日同松本修自氏がご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。
ウィルボワ・パピルスにみられるタイトル(称号)についての一考察
──軍に関するものを中心に──
山中 美知
5月10日/上智大学
ウィルボワ・パピルスは,古代エジプト第20王朝ラメセス5世(B.C.1145〜41頃)の治世4年目に,中エジプト・ファイユーム地方にあった神殿領(テーベ神殿群・ヘリオポリス神殿群・メンフィス神殿群・その他の地方神殿群)に属する耕作地を,徴税査定を目的として検地した記録である。この中に見出される軍に関係したタイトルtitleに焦点をあて,軍事に携わる人々が土地の耕作とどのような関わりをもっていたのかをみた。また,このパピルスには区分けされた土地ごとに管理者,耕作者がタイトルと共に明記されており,それによって神官や行政官との相互関係が明らかにできる。これらのタイトルを比較しながら,軍事に関わる者が土地行政の中でどのような位置を占めていたのかを考察した。
古代エジプトにおいては,新王国時代に入り,急速に進められた軍事面の制度化によって,初期王朝時代から中王国時代まではみられなかった国家の常備軍,もしくは戦闘の専門家といった人々が現れたと考えられている。形式上の最高司令官はむろん王であるが,実際の戦闘指揮はこれら専門家によって行われ,指揮官などの高級軍人から戦闘員である下級兵士まで様々なタイトルが確認されている。
ウィルボワ・パピルスに見られる軍関連のタイトルは20例(約488名)で,これはその他を合わせた全タイトル数95例(約1,600名)中の約25%に及ぶ。これは,当時の行政機構の中に平時の軍人が円滑に組み込まれていたことを示している。この20例の内,最も頻出するのがhry-ih「厩舎長」で187名が挙げられる。この職の役割は,戦車を牽く馬を生産・管理するというもので,補給部隊といった部類に入るであろう。このパピルスに「厩舎長」が多く見られる理由には,ファイユーム地方が馬の成育に適していたことが上げられる。実際,このタイトルは耕作する者として言及され,土地の行政的な管理者としては出てこない。従って,彼らは馬用の糧食を確保するために耕作していたと思われる。これと異なるのが次に数の多いw‘w「兵士」(約149名)である。おそらく最下級の軍人である彼らは,「厩舎長」と同じく耕作に従事する者としてのみ言及されるが,前者のように特殊な事情はみられず,いわば半農半軍人という形の典型である。その他に特徴的なものとしては,従来の軍組織で上位であったタイトル地位の降下が考えられるt3y-sry「旗章官」がある。ウィルボア・パピルスにはt3y-sry-n-hny「王宮の旗章官」の12例が記録されている。従来,「旗章官」はidnw「副官」の上位と考えられているが,このパピルスでは,管理者・耕作者として地位が逆転している箇所がある。無論,「旗章官」と「王宮の旗章官」が同一のものであると早計することは出来ないが,ほぼ同地位と考えられている他のタイトルはこのパピルスに言及されているということと,「旗章官」というタイトルそのものがこの時代になくなっているとは考えにくいことから,「旗章官」と「王宮の旗章官」の関連性を指摘しておきたい。
軍関係以外で頻出するタイトルとしては神官のものが挙げられる。神官が神事だけはでなく,神殿という行政単位の中で行政官という役割を担っていたことは周知であるが,ウィルボワ・パピルスではその職能が色濃く反映されている。最高位のアメン神第1預言者から下位の非常勤神官まで,様々なタイトルが言及されている。その割合は,hm-ntr神官や,w‘b神官などが多くを占めている。これらは,前述の軍人タイトルと互いに管理者・耕作者の関係になっている。これによって,神殿領における互いの位置関係が推測されうる。神官が軍人の耕作する区画を管理し,またその逆もみられるが,すべての神殿領の上に立つ最上位の行政官はアメン神第1預言者である。それは,このパピルス中で軍人として最も責任ある立場であったと思われるidnw-tnt-htr「戦車御者の司令副官」よりも上位に位置する。もちろん神殿領という行政単位の中でのことではあるが,ウィルボワ・パピルスに記録された神殿領において,かなり高位の軍人までがアメン神第1預言者のもとで神殿行政の一環に携わっていたことは確かである。
この時代,神官団の勢力は拡大しており,約50年後にはアメン神第1預言者が王位を宣言する。ウィルボワ・パピルスはそのような過渡期といえる時期に記されたものであり,神殿の経済基盤だけでなく,第20王朝の国家行政に大きな影響力をもっていたことを示唆しているのである。タイトルの考察により,その一端をみることが可能ではないだろうか。
宮廷と芸術
パネリスト:中山典夫/鈴木董/嶋崎丞/小佐野重利(司会兼任)
金沢大会なのだから,地中海学会員の皆様に江戸時代に加賀藩主前田家の庇護下で金沢に花開いた芸術にも親しんでいただきたいということで,パネリストに前田家ゆかりの美術工芸研究の第一人者である嶋崎丞氏(石川県立美術館館長)に加わっていただいた。
中山氏はプトレマイオス王国アレクサンドレイアの宮廷美術を話題にして,アテーナイオスの『食卓の賢人たち』(3世紀)の詳述を基に,視覚的に復元できる《プトレマイオス2世の祭典用天幕》の豪奢さについて説明された。天幕は高さ26メートルの円柱が正面に4基,側面に6基据えられ,広さは1,400m²あり,百体の彫刻とシュキオン出身の画家の絵で飾られ,幕下にはクリュネーが260台置かれ,宴会に金銀の食器で料理が出されたという。また,《タッツァ・ファルネーゼ》には,精妙極まりない高浮き彫りの図様の中にプトレマイオス6世とクレオパトラ1世の肖像が重ね合わされていて,エジプトの豊饒と繁栄を象徴する。杯は数奇の運命を辿り,ファルネーゼ家蒐集に入った傑作で,プトレマイオス王朝の宮廷美術の洗練さを彷彿させる。
鈴木氏はオスマン宮廷と芸術について,宮廷の性格,宮廷と製作活動,パトロンとしてのスルタン,の順に詳しく説明された。新都イスタンブルに造営された宮殿のうち,トプカプ宮殿の名で親しまれる新宮殿は外廷(公務の場),内廷(限られた男性だけの入れる場),後宮(ハーレム)に分かれるが,西欧の宮廷にみられる社交の場としての「宮廷」は存在しなかった。職人集団とアトリエは外廷に属し,オスマン宮廷では写本製作と建築とに重きが置かれた。16世紀スレイマン大帝による主席建築家の庇護は厚く,行列に際しても建築家の山車は精彩を放った。スルタンたちは詩人や画家,音楽家を庇護し,自ら創作活動に手を染めた。
嶋崎氏からは,前田家による美術工芸の振興を考える上で節目となる,3代藩主の利常と5代綱紀について話題提供があった。利常は茶の湯を殊のほか嗜み,小堀遠州を召抱えて文化活動を展開する。彼は茶器その他工芸の名器の「大物ぐい」蒐集から発して,芸術擁護を工芸品の製作とその技術を伝える人づくりへと展開した。製作には,蒐集品にみられる公家文化の流れをくんだ美意識に,どちらかといえば桃山時代のような武士としての豪放な感性を加味しているところが特徴である。蒔絵では御用職人に京都の名門,五十嵐家を招き,また,金工では同じく京都の後藤家を招いて加賀象嵌の基礎を築かせた。綱紀は学者肌の藩主で,図書の蒐集(尊経閣文庫の祖)と共に,『百工比照』にみられる工芸の材料や装飾金具等の蒐集を行った。質量ともに稀に見る洗練を極めた美術工芸を展開できたのは,百万石の財力に加え,文化では徳川家を凌ごうとする藩主の気概があったようである。
司会者からは,市井の芸術家,宮廷芸術家のそれぞれに長所短所があったことを述べ,それゆえ,ミケランジェロは「パトロンの圧力の下では窒息しそうであるから,独りにして描かせてほしい」と書簡に記す一方,レオナルドは10項目からなる特技を自薦状に列挙して,ミラノのルドヴィーコ・スフォルツァ・イル・モーロの宮廷に自分を売り込んだ。
宮廷芸術家を諸視点から考察する必要性や,1482年以後にウルビーノのフェデリコ・ダ・モンテフェルトロ公の使用人,カステル・ドゥランテのスゼチ・デ・ベネデクトが著した『覚書』から抜書きした廷臣・使用人リスト(配布)に触れた。しかし,そのリストには建築家と技師,礼拝堂付き歌手,写本彩飾師,舞踏家,オルガン奏者等はみられるのに,画家がいない。先に触れたレオナルドの自薦状10項目中,やっと10番目に絵も描けますと記されているのと同様,これも宮廷での画家の一般的な地位の低さを窺わせる。
会場からの質疑を交え,宮廷の芸術が一際光彩を放った時期はしばしば戦争と背中合わせの時期,ようやく太平が訪れた時期であり,また,オスマン帝国には宮殿の豪華絢爛を敵国の使者にみせる意図があったことが述べられ,宮廷芸術の豪華壮麗さは誰に,どこから「みせる」「みられる」ものであったのかという問題提起や,「みせる」場のひとつ,中庭や庭園という今後のシンポジウムのテーマともなりうる話題が出されて終わった。
(小佐野重利)
古代ギリシアの聖域逃避と“嘆願(hiketeia)”
池津 哲範
古代ギリシア人の社会でも,身の危険を感じた者が聖なる空間や物体に逃げ込むという行動が様々な局面において行われていた。そうした行動を「聖域逃避」と呼び,古代ギリシアの事例を見ていくと,人々は祭壇や神域などに逃げ込んでいたことがわかる。しかし,そうした避難先としての聖なる空間や物体を一括して呼ぶ用語や,そうした避難行動そのものを指す用語は,古代ギリシアには存在していなかった。歴史叙述においても,「祭壇・神域に逃げ込んだ」と表現されているだけの場合が多い。ただ,注目すべきはその逃げ込んだ人間を「嘆願者(hiketes)」という単語で呼ぶ場合があったことである。この表現は,ある者が嘆願者(hiketes)という立場になり誰かの保護に入ることを指すhiketeia(嘆願)という慣習と,聖域逃避とに関係があったことを示している。
古代ギリシア人社会の聖域逃避は,聖なる空間で血を流すことを禁ずるケガレ(miasma)の論理と,祭壇上や神域内の人間は神の所有物であって,引きずり出したり傷つけたりしては神への不敬であるという,聖物窃盗(hierosylia)の論理から支えられるものであったが,それに加え,神域に逃げ込んだ者はそこの神に保護される,神の嘆願者(hiketes)であって,その者に危害を加えることは保護者である神への不敬であり,同時にhiketeiaの掟を司る神格ゼウス・ヒケシオスへの不敬でもあるという論理も存在した。
古代ギリシア人社会の聖域逃避は,これら三つの原理が組み合わさって成り立っていたわけだが,第三のhiketeiaに注目すると,hiketeiaと呼ばれるものは聖域逃避に限られるものではない。hiketeiaというものは「一定の儀礼的仕草により,自らの身を神聖なものにすると同時に自らの立場を卑下し,相手と対等ではない低い立場から懇願する行為」と理解すべきものである。具体的には,保護を頼む相手に対してひざまずき,膝にすがるなどの儀礼的仕草があり,ホメロスには命乞いの場面にしばしば行われている。また,単に危機からの保護に限らず,普通の強い懇願の際も膝にすがるhiketeiaが行われる場合が多い。
他にも,旅人や放浪者が訪れた先の住人に保護や歓待を頼む場合には,その家のかまどに触れるという仕草がhiketeiaとして有効であったり,嘆願の印(hiketeria)という,羊毛を巻きつけたオリーヴの枝を掲げてhiketesとなって保護を訴えたりする場合がある。
こうしたhiketeiaと聖域逃避の関係について,hiketeia研究の草分けであるJohn Gouldは,聖域逃避をあくまでもhiketeiaの一形式と捉えた上で,hiketeiaの本質を,外部の者がある集団に受け入れてもらうための訴えの儀礼であるとし,祭壇などへの逃避もそれを祀る共同体への保護の訴えであると理解している。しかし,これでは聖域逃避がケガレや聖物窃盗の論理からも支えられていたことの説明が不十分である。
Robert Parkerはこの問題について,膝にすがる形式のhiketeiaは前古典期には盛んだったが廃れ,古典期には祭壇にすがる形式のhiketeiaが中心になったとし,hiketeiaの形式の違いに時間的な差異を見出している。これを参考にした場合,hiketeiaと聖域逃避は本来別の概念だったものが,やがて祭壇に逃げるという行為に共同体への保護の訴えであるhiketeiaとしての意味が付着し,聖域逃避がhiketeiaの一種と理解されるようになったのだと考えられる。現に,ホメロスの叙事詩に唯一登場する聖域逃避の例では,祭壇に逃げるという行動がhiketeiaとしての意味合いをもってはいない。しかし,古典期の悲劇作品や歴史叙述などでは,祭壇に逃げることがすなわち共同体への保護の訴えである場合が多い。
このような,聖域逃避とhiketeiaの融合とも言える変化が起こった原因としては,相手に対しての低い立場から懇願であるhiketeiaを成功させるための手段として,祭壇などに接触してケガレや聖物窃盗の論理から自分の身を守っていたものが,いつしか聖域逃避という行動自体がhiketeiaとしての意味をもつようになったからであると考えられる。これは,hiketeiaにおいて相手の膝に触れたりする儀礼的な仕草が,本来は膝という相手の身体の弱点を握ることにより,ある一面において優位を獲得してhiketeiaを成功させるという仕草であったと解釈されていることから推測できる。
以上のことから,古代ギリシア人社会の聖域逃避は,聖性によって身を守るという単なる防御手段としての意味合いだけではなく,自分の保護を周囲に訴えて状況を好転させるための積極的な解決手段という性質をもっていたと見ることが可能であると言える。また,こうした点が古代ギリシア人社会の聖域逃避の特徴であると見ることもできるかもしれない。
ユルスナールの『沼地での対話』と「能」の関わりについて
──『神曲』から『江口』・『班女』へ──
久田原 泰子
マルグリット・ユルスナールMarguerite Yourcenar(1903〜1987)は,若い頃から親しんできた日本の古典文学,特に「能」(注)に少なからず影響を受けたと表明しているが,それは劇作,翻訳,評論などの形をとりながら,生涯にわたって彼女の作品の中に表れている。
そこで,彼女が1932年に制作した,初めての戯曲である『沼地での対話』Le Dialogue dans le marécage の特徴を分析しながら,そこにみてとれる「能」の影響を考察した。
『沼地での対話』は,ダンテの『神曲』の煉獄編の第五歌に歌われている,イタリアの伝説的な女性ピアの逸話を下敷きにしている。多くのバリアントがあるピアの物語の中から,ユルスナールは,嫉妬深い夫から不貞の疑惑をかけられたピアが,沼地の城館に幽閉されるという説を基にして,自らの物語を再構築している。
この一幕三場の戯曲の構造と登場人物の構成は,謡曲の『江口』とほぼ一致している。類型化された登場人物の配置だけでなく,『沼地での対話』では,「能」における序・破・急の原理に相当する展開がみられる。『江口』は,ユルスナールが初めて触れた「能」の作品である可能性が高いだけに,この類似は,その影響関係を強く裏付けるものではないかと思われる。
また,物語内容においては,『沼地での対話』は,男性に見捨てられ,狂気に陥った女性が,その男性に再会するという謡曲の『班女』のそれに類似している。『班女』からの影響関係はないものと考えられるが,ユルスナールは,後に三島由紀夫の『近代能楽集』の翻訳を通じて,『班女』との関わりをもつことになる。
『沼地での対話』と三島由紀夫の『班女』は,ピア,花子という女性主人公の心情と狂気の描き方において,原曲にない共通点を有している。ここには,男女の再会の喜びや恋愛の成就はみられない。彼女らは,迎えにきた男性のアイデンティティを否認し,彼らを死者であると断定する。ピアも花子も,男性との共生を拒んで,彼女らを愛し,保護してくれる女性たちとともに,同性だけで構築されたホモソーシャルな世界にとどまるという生き方を選択する。
ピアも花子も,『江口』の江口の君や『班女』の遊女の花子のように,聖性と俗性を兼ね備えた女性であり,ユルスナールも三島由紀夫も,共に古典作品の枠組みを利用しながら,その主題においては現代的な問題を提起している。しかしユルスナールはこの作品の中で,三島由紀夫以上に「能」の特質を活用していると思われる。
というのは,この戯曲では,何が現実で非現実か,誰が生者で誰が死者か,すべてがあいまいなままに展開するからである。
供の僧カンディードを連れて,アッシジまでの巡礼の旅をするローランをワキと捉えれば,彼が出会う妻のピアは,長年の幽閉の末,狂気に陥ったシテとしての亡霊のように見える。しかし,ピアの方からみれば,他の世界からやってきた,苦悩に満ちたローランは,供養を求めてさまよう死者の魂のようにみえる。そうすると,ピアは,ローランの告白を受け止め,成仏させるワキの僧の役割を果しているとも捉えられる。二人の役割が入れ替われば,彼らの住む世界もまた反転し,どちらが生の世界に属し,どちらが死の世界に属するのかは観客の判断に委ねられることになる。
『沼地での対話』には,こうした聖性と俗性,シテとワキの可変性,時空間や価値観の反転などの可逆性がみられるが,これらは「能」空間における,現実と非現実の混交のもたらす効果に匹敵するものと考えられる。
ユルスナールは後に,この作品制作当時には既に「能」に関する知識があり,「能」の翻訳作品に触れていたが,この作品で,意図的に「能」を模倣しようとしたわけではないと述べている。いずれにせよ,『沼地での対話』 には多くの「能」の要素が具わっており,その特質が活用されているのは明らかである。
そして彼女が「能」から受けた影響は,彼女の文学性の根幹に関わるものでもあるといえよう。常に人間の生と死を見つめながら,古典作品や歴史を題材にした作品を残したユルスナールの基本姿勢は,死者達との,また超自然界からの交流を通じて,過去からのメッセージを現在に生きる我々に伝えてくれる「能」の特質と同質のものであろう。「能」の受容に起因すると思われるこうした自然や事物の捉え方は,形式的な側面以上に,彼女の作品そのものの中に深く息づいているといえよう。
(注) ここで言う「能」とは,総合的舞台芸術としての能ではなく,翻訳された謡曲のテキストを指す。というのは,19世紀末以来,1954年の初舞台上演まで,ヨーロッパでは,謡曲のテクストを演劇形態に翻訳したものが日本文学の一形体として鑑賞されてきたためである。
《あてなき願い》
──マラルメとドビュッシーの曲言法について──
栗原 詩子
19世紀ロマン主義の末期を飾った詩人マラルメ(1842〜1898)と作曲家ドビュッシー(1862〜1918)は,今日,文壇と楽壇においてそれぞれ象徴主義を担う存在として語られる。両者の美学思潮的共通性は,従来からたびたび指摘されている。その根拠としては,ドビュッシーが20代にマラルメ邸の<火曜会>に通ったこと,マラルメの「牧神の午後」ほか数点の詩を音楽化したこと,ドビュッシー作品に特徴的とされるピアニッシシモ(最弱音)での表現が,マラルメ晩年の「骰子一擲」における空白の多用になぞらえて語られてきた。しかし,音楽と文学のそれぞれの語法自体が,どのような関連づけをもって美的に共通しているのかについては,明かでない点も多い。
本考察では,歌曲《あてなき願いPlacet futile》(1913)に,音楽社会学者ヴィヴェスが示唆した概念「曲言法litote」(2000)を援用して,両者の関係をさぐる。ヴィヴェスはドビュッシーのピアノ曲《アラベスク》の特性描写をもって「マラルメの思想にならったもの」と述べたが,文学の修辞法を考察の道しるべとする以上,マラルメ作品との関連づけが可能な歌曲の領域での考察が必要と考えたためである。
評価語「悪くないce n'est pas mauvais」が「たいへん良いc'est tres bon」を意味し,コルネイユの『ル・シッド』におけるシメーヌの台詞「行け,憎くはないVa, je ne te hais poinst」がロドリーグへの愛の誓いであるように,曲言法では,きわめて明白な内容を前提として,反対命題の否定という迂遠な言葉遣いが用いられる。歌曲《あてなき願い》の音楽語法を基盤のことばと表層のことばに分解すると,それは詩「あてなき願い」における文法的・修辞学的表現とどのように関連づけられるのだろうか。そして両作品の基盤をなす「明白な前提」とは何であろうか。
マラルメの変格ソネ「あてなき願い」は,詩人の憧憬の対象である「姫君」「金髪美女」への呼びかけにつづいて二つの文,すなわち第1文「しがない私は身を焦がしても貴女のそばに参れまい」,第2文「あなたの微笑みの牧人になれと命じてください」をもって大意をなすものの,ここに多くの装飾句を導入することで,鑑賞者に媒介される意味の中心はぼかされている。こうした語法のために,意味的つながりの希薄な,象徴的な諸イマージュの並置として読まれ,その立場からの翻訳作品が成立したこともあった。しかし詩句の文法機能を見失わずに読みすすめるかぎり,マラルメの意図は,外的装飾語によって文法の明示性・中心性をゆらめかせ,逆に意味を強めようとする迂言法あるいは曲言法にあったと考えるのが妥当であろう。
一方,ドビュッシーの音楽語法の特徴は一般に,旋法・五音音階・全音音階などを多用して調性体系の外部を志向した点と,平行和音や解決しない不協和音を多用して機能和声法を解体した点であるとされる。このことは,楽壇において革命後の国家体制性を象徴するコンセルヴァトワール(国立高等音楽学校)に奉職しなかったということと相俟って,ドビュッシーが西洋音楽の近代的装置から多様な価値観の併存する現代へと抜け出た音楽家として語られる所以となっている。
しかし,詩の文節に沿って楽曲を区切ってみると以下の4点が明らかになった。すなわち,(1)楽曲において主題となる三つの旋律素材は,詩における詠嘆語(呼びかけ)・構文の開始・動詞句の位置に対応していること,(2)遠隔調における掛留音や逸音は,主調の主音・属音・下中音に集中していること,(3)詩句の末尾にあたる部分は機能和声法における変終止・半終止・全終止で規定されており,未解決和声となっているのは詩における連続否定か中断法(迂言法)の箇所のみであること,(4)五音音階はアルペジオにおいてのみ用いられていることである。つまりドビュッシーの音楽は,詩の構文や修辞法と相似した語法をとり(1,3),基盤としての調性的・機能和声的語法(2)を表層としての非調性的・非機能和声的語法(4)が覆っている状態にある。これまで「ドビュッシーによる機能和声の解体」が繰り返し語られてきたが,それは私たちが,曲言法における反対命題=表層としての「外部」に気をとられ,その描写に追われていたためにすぎないのである。
近代の写実文学や調性音楽においては,意味のつながりによって文学的伝達が,和声的機能によって音楽的伝達が助けられてきた。《あてなき願い》は,そうした容易な伝達をもたらす文法を別のもので覆うことで,根底によこたわる内容(やみがたい願い)や和声的表情(各種の終止法)を逆説的に強化する試みではないか。近代的語法の爛熟期におこなわれた文学と音楽の曲言法は,芸術家がコミュニケーション(芸術的伝達)を行おうとしながら,芸術作品を意味伝達のトークン(道具)にするのを避けようとする,近代的自我のジレンマの産物といえよう。
陣内秀信・新井勇治編『イスラーム世界の都市空間』
法政大学出版局 2002年10月 572頁(図版・写真多数) 7,600円
新井 勇治
2003年3月20日に始まった米・英軍によるイラクへの攻撃が,一ヶ月あまりで終わりを迎えたが,現在も散発的な衝突が続き,街の混乱は想像以上にひどく,市民の生活は苦しくなるばかりである。日ごろ中東にあまり関心のない日本でも,連日に渡ってイラクでの攻撃の様子が流され続けてきた。しかし,もはや関心は薄まりつつあり,次の政権の行方やフセイン前大統領の消息については,ニュースでの扱いもわずかになってきている。はたして,連日の空爆や戦闘によって,古代遺跡や文化財,伝統的な建築群,そして現地の人々にいかなる被害が及んだのか,とても心配なことである。また,さらに残念なのは,各地の博物館や遺跡で起こった貴重な文化財や考古学的発掘品などの略奪や破壊である。なんとか散逸せずに,回収や保存に努めてもらいたいものである。イスラーム世界の建築や文化に関心をもち,長年に渡って中東の都市に足を運び,現地で人々に触れ合いながら,フィールド調査を行なってきた我々としても,人々の生活が安定し,戦後の復興が問題なく進むことに期待したいと思う。
今回のイラクへの攻撃をはじめ,91年の湾岸戦争,一昨年のアメリカ同時多発テロとタリバーンに対する攻撃,そして長年に渡るパレスチナとイスラエルの紛争などによって,中東地域に対して日本の人々が持っているイメージは,争いや悲劇舞台などのマイナス面がクローズアップされがちである。しかし,イスラーム世界の都市や集落では,先行する古代からの経験や知恵を綿々と受け継ぎながら,文化や風習,気候などに即した生活空間が巧みに造られてきたのである。中東地域の旧市街の多くでは,高密に建物が寄せ集まり,その間を迷路のような街路が巡り,一見複雑で秩序がないように思われがちであるが,彼らにとって合理的で,安全な生活空間が造られ,快適な環境となっているのである。
本書は,そのような中東地域の中から数多くの都市を取り上げていき,建築分野から視点を中心に,フィールド調査や文献史料などで得られた研究成果をもとに,都市構造や建築的な特質,生活環境の仕組み,そしてそこで生活する人々のライフスタイルなどについて,明らかにしようとしたものである。写真や図面をふんだんに取り入れ,また,用語解説も巻末に載せ,建築やイスラームに関する専門家ばかりでなく,一般の方々にも分かりやすく理解していただけるように努めた。
本文は,大きく二編から構成されている。まず,一編目は「総論*都市空間の読み方」とし,イスラーム世界の都市によく見られるキーワードや都市施設に焦点をあて,時代や地域で共通する特徴,あるいは相違性などについて言及しながら,イスラーム世界の都市の姿を描き出そうとしている。迷路状の街路が巡り,建物がひしめいている姿は,一見複雑で,無秩序のようである。しかし,イスラーム以前の古代から都市文明が形成され,地域環境や生活スタイルに即した街づくりが行なわれてきており,彼らの安全やプライバシーの確保を図りながら,居心地のいい空間が整えられている。また,一方で,商人や旅人が都市間を行き交い,国際的な開かれた性格も併せもち,閉じられた世界と開かれた世界が共存していることがわかるのである。さらに,モスクや商業施設などの建築的特徴や呼称を,時代や地域による違いや共通性などによって,明らかにしている。
続く二編目は,「各論*多様な都市の生活空間」とし,トルコ,イラン,そしてアラブ地域から,シリア,チュニジア,モロッコ,さらには中国西域の中から都市を数多く取り上げ,各都市の時代的な変遷,都市構造の特徴,商業空間のあり方,そして人々が暮らす生活空間まで,言及している。現地でのフィールド調査によって,住宅の中まで入り込み,彼らのライフスタイルを明らかにしようと試みている。住宅の形態や人々の暮らし振りなどは,これまであまり調査研究が成されてこなかったこともあり,興味のある人たちにとって貴重な資料になれば幸いである。
総論によるイスラーム世界全般の話から,個々の都市の話まで網羅したため,厚みのある本となっているので,興味のある都市や地域の中から,かいつまんででも読んでいただければ,と思っている。
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事務局夏期休業期間:7月30日(水)〜9月4日(木)
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