地中海学会月報 260
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM
2003| 5 |
表紙説明 地中海の水辺20
パナレーア島・青銅器時代の集落跡/小川 煕
宮下 孝晴
NHKテレビの大河ドラマ「利家とまつ」の放送で,昨年は何かと金沢が話題となることの多い一年であった。その余韻がのこる金沢で,今年の6月21日(土)と22日(日)の二日間にわたって第27回地中海学会大会が開催される。開催地が金沢になったのは,ほかでもない,「利家とまつ」で加賀百万石の城下町金沢の都市と文化があらためて注目されたからに違いあるまい。深く詮索すれば,地中海文化を研究テーマとする私たちの学会が,近頃とみに注目を集めている環日本海文化圏の視点から学術的な関心を抱いたのかもしれないし,加賀前田藩の文化政策を地中海諸都市のそれと比較しようという思惑を抱いたのかもしれないとも思う。地中海文化に魅せられて学会員となった人間たちが金沢の地に参集し,そうした話題に花を咲かせることができるのは大いに楽しみである。石川県立美術館長の嶋崎丞氏をパネリストの一人としてお迎えする地中海トーキング「宮廷と芸術」では,そういう話題の展開が期待される。
金沢城石川門(重要文化財)を艶やかに彩った桜の季節も穀雨の今,春爛漫から新緑のすがすがしい季節へと移りつつある。まもなく金沢の町は色とりどりのツツジや菖蒲が開花し,加賀友禅そのままの叙情に包まれる。ツツジや菖蒲にはしっとりとした雨がよく似合う。近年では降雪量も少なくなった金沢だが,相変わらず雨はよく降る。この案内文を書いている今日も菜種梅雨だが,学会が開催される6月は本格的な梅雨であるから,地中海の印象である「抜けるような青空」を準備するのは難しいかもしれない。しかし,静かな雨に洗われる城下町金沢の旅情を楽しみたいという期待には応えられそうな気がする。ちょっと逆説的だが,晴天に恵まれるという表現が,ここ金沢では妥当かどうか,20年近くを金沢で暮らす私には疑問に思えるからである。
四季折々の金沢の美しさは何といっても兼六園に代表されよう。特別名勝に指定されている回遊式庭園の兼六園の名の由来は,中国宋代の古典「洛陽名園記」の文中にある「洛人云う,園圃の勝,相兼ねる能わざるは六,宏大を務るは幽逐少なし,人力勝は蒼古少なし,水泉多きは眺望難し,此の六を兼ねるのは,惟湖園のみ……」にあるとされる。つまり,「宏大,幽逐,人力,蒼古,水泉,眺望」の六つの景勝を兼ね備えた庭園という意味で,加賀藩12代藩主の前田斉広の依頼によって奥州白河藩主であった松平定信が文政5年(1822)に命名した。学会の開催される6月は園内の曲水にかかる花見橋や雁行橋から,カキツバタやサツキなどが楽しめるはず。安永3年(1774)に茶室として建てられた夕顔亭,平成12年に復元された時雨亭,自然の水位を利用した日本最古の噴水など,俗塵から離れた広い園内には歴史的な見所も多い。
兼六園を出て石川門をくぐれば,天正11年(1583)に前田利家が入城して以来,加賀藩の拠点となった金沢城であり,10年ほど前までは金沢大学の城内キャンパスであった。現在は金沢城公園として整備が進み,平成13年には菱櫓,五十間長屋,橋爪門続櫓が建設当時の木造軸組工法で完全に復元されている。鉛瓦や海鼠壁とともに加賀の匠たちの伝統を現代に復活させようとする一大文化事業がここに開始され,県内外の熱い注目を集めることとなった。
兼六園,金沢城,武家屋敷,寺町寺院群,東と西の茶屋街,金沢の町を網の目のように縫って流れる用水路などの歴史的都市景観ばかりではなく,金沢は多彩な工芸文化にも包まれている。現在では全国生産高99%を占める金沢の金箔,京友禅と並ぶ加賀友禅,桃山文化を代表する蒔絵の名匠である五十嵐道甫に始まる金沢漆器,茶や食の文化を彩る大樋焼や金沢九谷焼,さらには加賀毛針,加賀水引細工,加賀象眼と,その洗練された伝統の技については広く知られているところである。芸能では能の加賀宝生,加賀獅子舞,加賀鳶も忘れてはなるまい。ちなみに,今回の大会会場は金沢の美の伝統を守りつつ新たな美への挑戦に取り組む学生たちの熱気に満ちた金沢美術工芸大学である。
「金沢らしい金沢大会を」という学会本部の強い声に応えるべく,私たち大会実行委員会が苦悩の末に企画したのは「金沢の食文化」を堪能してもらうことであった。海の幸・山の幸に恵まれた金沢の食材による加賀料理,それが洗練された陶器や漆器に盛られるのだから,これはまさに食芸術である。さらに加賀の銘酒が私たちに高度な人間の幸せを実感させてくれることだろう。この幸福感を6月21日の懇親会で共有すべく奔走した甲斐あって,250年の伝統を誇る金沢屈指の料亭「つば甚」が地中海文化贔屓の私たちに日本海文化としての加賀料理で(特別に)もてなしてくれる運びとなった。ここは俳聖芭蕉が投宿して句会を催し,郷土の文豪室生犀星が芥川龍之介と宴をともにしたところでもある。蕭々と流れゆく犀川を眼下に眺めつつ,ともに一献を傾けようではありませんか。
アリストテレス,イブン・シーナー,バル・エブラーヤー
──『気象論』の伝承を中心に──
高橋 英海
3月1日/上智大学
もともとエデッサ(現在のウルファ)周辺で話されていたアラム語の一方言であったシリア語は,ヘレニズム化が進んだ地中海沿岸を除く,シリア内陸部やさらに東方のメソポタミア地方のキリスト教徒の言語として確立していった。7世紀のイスラム勃興までがシリア語文学の「黄金時代」で,この時期にはシリア語を用いるキリスト教はインドや唐代の中国にまで伝わっている。イスラム勢力による征服以降はシリア語文学は下降線をたどるが,少なくとも13世紀頃まではそれなりの水準の神学書や学術書がシリア語で著されている。現在でもシリア語は典礼用語として用いられるほか,イラク北部やトルコ南部のキリスト教徒の中にはシリア語に近いアラム語の方言を話す人々がいるし,文語としてのシリア語による創作は今でも行われている。シリア語を用いた,あるいは現在でも用いる人々の住む地域は(レバノンのマロン派を除けば)地中海沿岸には殆どないのだが,沿岸のみならず後背地も「地中海学」の対象に入れてよいのならシリア語研究もその範疇に入れていただきたい。
現在のシリア語研究でもっとも盛んなのは古代末期の著作の研究だが,ここでは12〜13世紀のシリア語文学の「白銀期」とも言える時代の著作家を取り上げたい。グレゴリオス・バル・エブラーヤー(バルヘブラエウス)は1225/6年に当時シリア正教会(いわゆる「ヤコブ派」)の中心的都市であったメリテーネー(現在のマラティヤ)に生れ,当時まだ十字軍の支配下にあったアンティオキアやトリポリで学んだ後に,20歳の若さでメリテーネー近郊のグボスという町の司教になった。さらに,ラカビンやアレッポの司教を経て,1264年にシリア正教では総大司教に次ぐ地位である「東方のマフリヤーナー」となり,二十余年の在位の後に新興のイル汗国の首都となっていたマラーガで没した。聖書注解に始まり,神学書,文法書,歴史書など多岐の分野にわたる四十あまりの作品の全体的な特徴としては,シリア語文学の伝統を守りつつも最新のアラビア語による知識も大いに取り入れていることが挙げられる。
バル・エブラーヤーの哲学の分野での代表作である『英知の精華』がイブン・シーナー(980〜1038)の『治癒の書』を主な典拠としていることは古くから知られていたが,同時に,それが単に『治癒の書』の翻訳,要約ではないことはその全体的な構成を見ても明白である。『英知の精華』には『治癒の書』第三部の「数学」に対応する部分がなく,逆に『治癒の書』にはない「実践哲学」を扱う部分が第四部として付け加えられているが,これは主にナシール・アッ=ディーン・アッ=トゥーシー(1204〜1274)の『ナーシル倫理学』に依拠していることが最近の研究で明らかにされている。また,『英知の精華』第二部の「自然哲学」についても,全体的には『治癒の書』に従いながらも,ダマスカスのニコラオス『アリストテレス哲学概要』(紀元前1世紀)のシリア語訳がしばしば援用されていることが指摘されている。さらに,『英知の精華』第二部をより詳細に検討してみると,バル・エブラーヤーがイブン・シーナーとニコラオス以外にもいくつかの作品を典拠として用いていることが判明する。例えば,偽アリストテレス『世界について』のシリア語訳(6世紀),アブー・ル=バラカート・アル=バグダーディー(1165年没)の『熟考の書』,ファフル・アッ=ディーン・アッ=ラージー(1149〜1209)の『東方的探求の書』などである。このような典拠の用い方からは,イブン・シーナーの哲学を自分の作品の中心に据えつつも,古い時代のシリア語訳を用いて源泉であるアリストテレスに近づくことを試みると同時に,アブー・ル=バラカートやラージーを用いてイブン・シーナー以降の新しい時代の学問の成果も取り入れるというバル・エブラーヤーの姿勢を読み取ることができる。
イル汗朝初期の支配者たちはキリスト教徒を優遇した。そのような状況の下でバル・エブラーヤーはシリア語文学の復興を夢見たことが想像できる。その中でのバル・エブラーヤーのアリストテレス回帰の試みはイブン・ルシュドの試みに共通する面があり,教会の聖職者としてアリストテレス哲学とキリスト教神学の融合を試みた点では西欧のスコラ哲学に通じるものがある。バル・エブラーヤーの没後,イル汗朝の支配者はイスラムに改宗,キリスト教徒に対する迫害は強まり,シリア語文学復興の夢はあえなく消えたが,もし,13世紀末以降の中東の歴史が違った道をたどり,バル・エブラーヤーの業績を受け継ぐ者が出ていたなら,バル・エブラーヤーやシリア語哲学の思想史上に占める位置も違ったものになっていたかも知れない。
──デモステネス終焉の地にて──
池津 哲範
ペロポネソス半島北東沿岸に浮かぶ,周囲二十数キロの小島ポロス。夏にはアテネからの日帰りクルーズの停泊先として賑わうこの島は,厳密にはカラウリアという大きな島とスフェリアという小さな島からなる。だが,接しているも同然の二島はまとめてポロスと呼ばれており,古代には二つをまとめて呼ぶ名がカラウリアだったようだ。
カラウリア島。古代史を学ぶ者でも馴染みのないこの地名も,こう言えば膝をたたく者もいるかもしれない。古代アテナイの弁論家デモステネス終焉の地だ,と。
デモステネスはアレクサンドロス大王死後,打倒マケドニアの熱弁を振るったが,アテナイ軍敗北により再び祖国を追われた。そして逃げ込んだのがこのカラウリア島だったが,マケドニア兵がやってくると服毒自殺を遂げた。そのデモステネス終焉の地を私が3年前の冬に訪れたのは,デモステネス追慕の思いからではない。
ストラボンはこのカラウリア島について,島全体がポセイドン神に捧げられた神域であり,多くの者がここに逃げ込むと記し,デモステネスの場合もその例として挙げている。プルタルコスがデモステネスの伝記で語る理由も同様である。私はこうした聖なる空間への避難を「聖域逃避」と呼び,古代ギリシア世界の事例を研究している。ただ,多くの歴史叙述によれば古代ギリシア人は,別にこの小島に限らず,普通の祭壇や神域,神殿など,聖なる空間や物体であればどこでも逃げ込んでおり,このカラウリア島が避難所として特筆される必要はないのである。この謎を解く鍵を探して私はこの島を訪れた。それは,なぜデモステネスがこの島まで逃げてきたのか,という問題に取り組むことでもあった。
カラウリアへは普通アテネから海路で向かうが,私はナフプリオンからの陸路をとった。古代にはトロイゼンの領土だった本土側の岸とこの島の間を隔てるのは,わずか数百メートルの幅の細長い海峡で,両岸には店や桟橋が建ち並び,小さな渡し舟で行き来ができる。朝焼けの映る海峡の水面は,泳ぎが上手でもない私でもいざとなれば飛び込むであろうほど,穏やかだった。陸路カラウリアに着き本土側から島を見ることにより,この島が物理的にも心理的にも本土から付かず離れずの,まさに避難所として絶妙な空間であることが,実感できた。
だがこれだけでは,わざわざアテナイからデモステネスが避難してきた理由の説明にはならない。注目すべきは,古代ギリシアの聖域逃避の場合,逃避した者の身が単に不可侵となるだけでなく,周囲の第三者がその者を積極的に援助すべきであるという倫理が存在したことである。これは聖域に逃避した者が,聖域を血で汚したり神の所有物を奪ったりしてはいけない掟によって守られるだけでなく,逃げ込むとそこの神に庇護される「嘆願者(hiketes)」という立場をも獲得したからである。この「嘆願者」とは,自らを卑下して低い立場となって自分の庇護を求めている存在である。従って,聖域逃避を行なうことはそれだけで追っ手へ恭順の意を示すことであり,かつ周囲へ助けを求めていることをも意味していた。それ故,古代ギリシアの聖域逃避は両者の話し合いへとつながるパターンが多く,しかもその際に周囲の第三者が仲介に入ることが多いのである。プルタルコスによれば,カラウリア島のデモステネスへもマケドニア側から話し合いがもちかけられている。
そしてストラボンによれば,このカラウリア島のポセイドン神域に関して,ヘルミオネやアイギナ,アテナイなどの七市からなる隣保同盟が結成されていた。従って,この島に逃げ込めばその隣保同盟を自らの問題の仲介役に期待できたのである。国際的な政治紛争においては最適の避難所と言えよう。これ以前の追放の際にトロイゼンやアイギナに住んでいたデモステネスは,隣保同盟諸市の有力者に知人がいたのかもしれない。強大なマケドニアに追われた彼は,隣保同盟による仲介に一縷の望みを抱いてカラウリアまでやってきたのだ。
だが,デモステネスは結局ここで自殺した。プルタルコスは,彼が話し合いを最初から拒んで自殺したように記しているが,妥協を一切求めないなら聖域逃避など行なう意味がない。おそらくはマケドニア側の示した和解の条件が厳しく,マケドニアを恐れる隣保同盟諸市にも見て見ぬふりをされ,絶望して死を遂げたのであろう。
過去の人物のある行動の説明付けは難しい。だが思わぬところから,過去の人物のある瞬間の思考を見抜けたような気がすることがある。私がカラウリアの海峡に立った時,その穏やかな水面には,半ば絶望しつつも執念を捨てようとしないデモステネスの悲愴な表情が,ぼんやりと映し出されていたように見えた。
石川 清
イタリア初期ルネサンスの建築家・彫刻家であるミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(1396〜1472)に関する国際会議が1996年10月にフィレンツェで開催され,ミケロッツォ研究に少なからぬ異変が起きた。以前から個々の作品に対する研究者の見解は様々であったが,150近くの作品がミケロッツォに作者推定されてきた。しかし,その多作の建築家としてのイメージが研究発表によって見事に払拭されてしまった。研究発表の対象とはならなかった彫刻作品は辛うじて温存されたものの,数多くの建築作品がミケロッツォの作品から引きずり降ろされた。
彼はイタリアにおける建築のルネサンスを推進したフィリッポ・ブルネレスキ(1377〜1446)とほぼ同時期に活躍し,フィレンツェの次世代を担う建築家とみなされてきた。ジョルジョ・ヴァザーリは『芸術家列伝』の第2版(1568年)の中で,彼を「ブルネレスキの死後最も有能な建築家」とみなしたが,ミケロッツォと同時代の15世紀には,彼を建築家として積極的に評価した記録は現存しない。アントニオ・ディ・トゥッチオ・マネッティによる『ブルネレスキの伝記』(1480年代)に至っては,ブルネレスキ称讃というバイアスがかかってはいるものの,フィレンツェの数多くの重要な建設に携わったはずのミケロッツォについてわずか一行の記述もない。
同時代記録からミケロッツォの活動が把握できない理由として,彼が特に建築に造詣の深いコシモ・デ・メディチの構想を具現化する懐刀的存在であり,当時はパトロンの構想力の方が重要視されていたことと,彼が非常に多くの建設に携わり,建設工房を巧みに組織することによって膨大な仕事量をこなしたために,彼の作家性が不明瞭であったことが指摘されてきた。
そもそもミケロッツォが彫刻家・建築家として評価されるようになったのは,19世紀後半以降の美術史研究において,初期ルネサンスの偉大な芸術家ブルネレスキ,ギベルティ,ドナテッロの独創性の勝利という形式化された歴史観の枠内で,彼らからあぶれた帰属作品を一手に担うために,その偉大な影に隠れて芸術的創造の部分を担わないバイプレーヤーの地位から引きずり出された結果であった。
寡作のブルネレスキに対する多作のミケロッツォという図式が成立したのは,建築部位(建築言語)や細部の処理法に対するHoward Saalmanによる一連の形態分析(1960年代)によって,彼に作者推定された作品が膨大に膨れあがった結果であった。Saalmanがミケロッツォの特徴として掲げた「古典建築言語との暗示的対比」としての「水葉柱頭(capitello a foglie d'acqua)の使用」は,実はその後の中世後期の建築調査によって,初期ルネサンス以前からフィレンツェの建設現場において共通に好まれていた手法であったことが明らかになってきた。
ミケロッツォに伝統的に作者推定されている作品,ニッコロ・ダ・ウッツァーノのパラッツォやサン・バルナバ修道院やフィエゾレのサン・ジローラモ修道院の中庭柱廊,あるいはボスコ・アイ・フラーティ修道院聖堂にみられる水葉柱頭は,高度な生産技術をもつ15世紀初頭の建築的様相にみられる共通の特徴を示しているにすぎない。したがって,「ミケロッツォと彼の建設工房による」を「15世紀初頭のフィレンツェの不詳職人集団による」としさえすれば,Saalmanの論考における詳細な形態分析は未だ効力を失ってはいない。
ミケロッツォ評価の重要な典拠であるヴァザーリの言説にさえ懐疑の目が向けられている。また,彼の代表作とされてきたパラッツォ・メディチまでもが,ミケロッツォが創造力を発揮できる立場にいたことを立証できる記録がないことから真剣に見直され,サン・マルコ修道院内にある,中央の円筒ヴォールトとその両脇のクロス・ヴォールトによる3廊式の図書室や,サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂とサン・ミニアート聖堂内にある,いわゆる祠堂sacelliもその原型をアルベルティに求める動きがみられた。
伝統的に彼に帰属していたフィエゾレのヴィッラ・メディチなど多くの建築がリストからはずされた。無論,これらの研究発表すべてが研究者間のコンセンサスを得ているわけではなく,必ずしも新史料の発見に基づくものではないが,ミケロッツォの帰属作品が激減したことは確かである。今後のさらなる研究の成果によるバイプレーヤーの復権が待たれるところである。なお,これらの論考は発表とは多少内容が異なるが,Michelozzo Scultore e Architetto (1396-1472), a cura di Gabriele Morolli, Firenze: Centro Di, 1998に収録されている。
久々湊 直子
19世紀,スペインは「ヨーロッパ」に最も近い異文化圏の一つだった。「スペイン趣味」は,シノワズリーからジャポニスムまでを広く含むオリエンタリスム,異国趣味と連動/平行して起こる。これは新たな原理を探索する19世紀ヨーロッパ美術の一連のうねりの中で把握できるだろう。しかし,不思議なことに,シノワズリーやジャポニスムに匹敵する「エスパニョリー」や「エスパニョリスモ」といった固有名詞が,ことスペイン絵画愛好に対して使用された例にはあまりお目にかからない。「スペイン化」を意味する一般的な言葉としてはhispanism(e)があり,古くはEspagnolismeという言葉を使った例もある。しかし,我々が「スペイン趣味」と認識する現象は,多くの場合,定冠詞や大文字を戴く固有の言葉で表されては来なかった。今回の展覧会でも,フランスではLa manière espagnole,さらにアメリカではThe french taste for spanish paintingと,副題はとかく説明調で,固有名詞とはほど遠い。
ジャポニスムについても,それがはっきりと認識され研究されるようになるのは比較的最近のことだと言われるが,今回のように「スペイン趣味」「スペイン風」の問題が本格的に取り組まれるのもまた,同じような足取りをたどっていると思われる。Paul Guinardらが1930年代から個々の画家研究の中で扱っていたテーマが,現在につながる総合的な概念に練りあがるのは,1960年代初頭から72年のLipschutzの著作の頃であろう。60年代後半からはBaticleも盛んに扱っている。60年がメルクマールとなるのは,この年,ベラスケスの没後300年を記念し,評価史的視点も盛り込んだ資料/論文集が世に出たこととも関連する。さらにスペインでは,80年前後にCalvo SerrallerやGarcía Fe1gueraが,ロマン主義時代に作り上げられたスペインのイメージ(“Imagen Romantica de ESPAÑA”)をテーマに取り上げ,展覧会も催された。今回の巡回展に先立ち,ニューヨークでは“Spain, Espagne, Spanien, Foreign Artists discover Spain 1800-1900”(1993,The Equitable Gallery),フランスではカストルのゴヤ美術館で“Les Peintres français et l'Espagne de Delacroix à Manet”(1997),“Velázquez et la France, La Découverte de Velázquez par les peintres français”(1999)といった展覧会が企画され,ここ数十年で,これが(あるいはこうした視点が)明確に認識化された様子がわかる。
「マネ/ベラスケス」の二人を冠するのは,もちろん商業的な要請も大きいだろう。展覧会で浮き彫りにされる「スペイン風」の様相には,多様なレベルで多くの芸術家が立ち現われる。舞台には二人以外にもずらりと役者が揃い,よく見ると何もマネとベラスケスだけに看板を背負わせることもないのである。これは,豊富なマネ作品を擁するフランス(オルセー)と,ヨーロッパから流出したベラスケス作品の受け皿となったアメリカ(メトロポリタン)という,両国の「所蔵」や集品能力に対する自負,そして集客を睨んだ利害が一致した(そう,ここでは一致した)落とし処と見るべきであろう。
しかし,この一見安易で商業的に見えるメインタイトルはまた,「スペイン趣味」の行き着いたところを暗示してもいるようである。今回,図版でよくお目にかかるマネの「市井の哲学者たち」が一同に会し,来場者を圧倒した。無名の人々を取り上げる手法としては法外なそのサイズ,モニュメンタリティ,無機質な空間に対する立ち姿の空間バランス,彼らの呈する思弁的なニュアンス,それらは,誰もが気付くように,「スペイン」というよりはベラスケスに捧げられたオマージュなのである。批判性,ニュース性,アイロニー,それらはゴヤに。マネだけではない。派手なスペイン風俗への執着が彼らの中で萎んでいくのは,ベラスケスに,あるいはゴヤに出会ってしまったからであるかのようである。
スペイン絵画愛好にシノワズリー,ジャポニスムのような固有名詞が用いられない理由は,当初十把一絡げで色眼鏡越しだったスペイン絵画への愛好が,やがて固有の芸術家の巨匠化とその作品の賞賛へと急速に収斂して終わりを迎えたからではないだろうか。ラファエロやミケランジェロの受容をイタリアニスムとは称さないことを思い出そう。その意味で「マネ=ベラスケス」は,この現象の中でも「ヨーロッパ近代」の流儀にかなった個人から個人,作品から作品への受容形態がもっとも読み取りやすい象徴的な関係性である。これは,他の異国趣味が固有の芸術家よりも地域的な芸術特性への興味へ向かったのと好対称のように思える。明かに異文化として興味をもたれ,しかし「ヨーロッパ」としても取込まれ得る。個から個へという「スペイン風」の終焉図とともに,この展覧会で改めて感じさせられるのは,「スペイン」と「ヨーロッパ」のアンビヴァレントな距離感である。
パナレーア島・青銅器時代の集落跡/小川 煕
パナレーア島は,シチリア北東部から少し離れてティレニア海に浮かぶ主要な七つの島と小さな無人島からなるエオリエ諸島の一つである。いずれも火山性の爆発によって生まれたものと考えられ,そのうち最も有名なストロンボリ島は全体が活火山で,いつも白い噴煙を吹き上げている。火山学の貴重な資料であるとともに,まばゆい海と険しい岸壁が作り出す特有の美しい風景は,近年とみに観光客の人気を高めている。
エオリエというのは,ギリシア神話に出てくる風の神アイオロスに由来する。すなわち伝説によれば,オデュッセウスとキルケーの子アウソーンは最初の王として南イタリアに君臨するが,その子リパロスは西に進んでこの群島を植民地とする。一方,ヘラクレスの血を引くアイオロスもまたこの地に移り住んでリパロスの娘キュアネーと結婚して王国をつくり,生まれた6人の息子たちが半島南部およびシチリアを分割して統治する。アイオロスは各種の風を洞窟に備蓄し,一説によれば,オデュッセウス自身がこの島を訪れたとき,帰路の邪魔をする逆風を革袋に詰めて贈ったという。アイオロスからアイオリアイ(現エオリエ)の地名が生まれ,リパロスがそのうち最大の島リーパリの名祖となった。
だがこうしたギリシアの英雄たちの活躍の前に,すでに新石器時代から土着民が住んでいたことが近年の考古学調査によって判明した。七つの島のすべてにその痕跡が見られるが,最も規模が大きくて興味深いのがパナレーア島の西南端にある「先史集落跡」である。この島は面積3.4 平方キロ,人口は数百人と最も小さく,たった一つの港で外部と連絡している。そこから出発して歩き出し,ホテルや別荘の集まる場所を抜け,やっと海水浴ができる狭苦しい渚を過ぎるとゴツゴツとした岩山の小道となり,30分ほどかかって突然眼下に突き出た鎌のような形の岬が現れる。先端部はまるでヘリポートのような平地になっており,そこに20基ほどの住居跡が歴然と露出している。長方形の一つを除いて,大部分は粗い石片を直径5〜6メートルの円形に並べたものであり,おそらくは木組みの簡単な小屋があったのだろう。穀物を挽いたと思われる石臼が残っているところもある。住民の起源は定かではないが,青銅器時代の紀元前14世紀のミュケナイ製の壺や,クレタ・ミュケナイ様式の文様のあるローカルな陶器類が出土していて(いずれもリーパリのエオリアーノ博物館藏),エーゲ文明とのつながりは明らかである。
この岬全体が海面から50メートルほどの高さの絶壁をなし,海からの直接のアプローチは極めて難しい。最初に住みついた名もなき古代の人々は自然の要塞としてこの土地を選んだとともに,無限に広がる海と空との交感が原始宗教的な心性をはぐくんだに違いない。私が訪ねた9月,吹き渡る「アイオロスの風」は変わることなく爽かであったが,ふと人の香りを嗅いだような気がしないでもない。
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