地中海学会月報 258

COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM




        2003| 3  

   -目次-






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学会からのお知らせ



5月研究会

 下記の通り研究会を開催します。

テーマ:ウィルボワ・パピルスにみられる称号titleについての一考察

発表者:山中美知氏

日 時:510日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3311教室

参加費:会員は無料,一般は500

 ウィルボワ・パピルスは,古代エジプト第20王朝ラメセス5世の治世4年目に,ファイユーム地方の耕作地を検地した記録文書である。約2,800区画に区分された土地には,各々の所在地などとともに,耕作者や土地の管理者・管理体の名前が称号titleを伴って記されている。今回の発表では,パピルス中の神官や農民,軍関係者などの称号のうち,特に軍関係のものに注目し,彼らの農業生産との関わりを考察したい。



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*第27回地中海学会大会

 第27回地中海学会大会を621日・22日(土・日)の二日間,金沢美術工芸大学(金沢市小立野5-11-1)において開催します。詳細は別紙大会案内をご参照下さい。

621日(土)

12301430 金沢市内ツアー]

15001510 開会挨拶

15101610 記念講演

 「アリオストの眼──『狂えるオルランド』における視覚的表現」 脇 功氏

16251825 地中海トーキング

 「宮廷と芸術」

  パネリスト:嶋崎丞氏/鈴木董氏/中山典夫氏/小佐野重利氏(司会兼任)

19002100 懇親会 「つば甚」

622日(日)

9301130 研究発表

 「古代ギリシアの聖域逃避と“嘆願(hiketeia)”」 池津 哲範氏

 「ゴヤ版画集《ロス・カプリチョス》におけるアクアチント技法の一考察」 笠原 健司氏

 「ユルスナールの『沼地での対話』と「能」の関わりについて──『神曲』から『江口』・『班女』へ」 久田原 泰子氏

 「《あてなき願い》──マラルメとドビュッシーの曲言法について」 栗原 詩子氏

11301200 総 会

12001230 授賞式

 「地中海学会賞・地中海学会ヘレンド賞」

13301630 シンポジウム

 「地中海世界と祝祭」

  パネリスト:京谷啓徳氏/高田和文氏/本村凌二氏/司会:片倉もとこ氏/ゲスト・パネリスト:牟田口義郎氏



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*春期連続講演会

 春期連続講演会を628日より726日までの毎土曜日(全5回),ブリヂストン美術館(東京都中央区京橋1-10-1 Tel 03-3563-0241)において開催します。テーマおよび講演者は下記の通りです。各回とも,開場は午後130分,開講は2時,聴講料は400円,定員は130名(先着順,美術館受付で予約可)です。

「地中海世界の宮廷と文化」:628日「中世シチリアの宮廷:異文化交流と華麗なる文化」高山博氏/75日「イスタンブルのスルタンの豪奢」鈴木董氏/712日「フランス宮廷の女たち」福本秀子氏/719日「古代ローマの宮廷における愛と性」本村凌二氏/726日「宮廷から市街へ:近代を生きる」樺山紘一氏



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*会費納入のお願い

 新年度会費の納入をお願いいたします。

 口座自動引落の手続きをされている方は,423日(水)に引き落とさせていただきますので,ご確認下さい。ご不明のある方,領収証を必要とされる方は,お手数ですが,事務局までご連絡下さい。

会費:正会員 13,000円/学生会員 6,000

口座:「地中海学会」

   郵便振替 00160-0-77515

   みずほ銀行九段支店 普通 957742

   三井住友銀行麹町支店 普通 216313






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特別研究会要旨


メセナの現在と未来

──文化擁護のアイデアとシステム──


講演:福原義春 シンポジウム:永井一正/三枝成彰/樺山紘一/木島俊介(司会)


20021130日/慶應義塾大学


 去る20021130日,慶應義塾大学三田キャンパス北館ホールにおいて上記のテーマによる特別研究会が開催された。この研究会は石橋財団による2002年度の助成を受けて実現したものである。

 研究会にこのような主題が選ばれた理由は他でもなく,国家の文化施設や教育機関のエージェント化,また経済不況による公・私の同種機関の廃止や停滞などに当学会も強い危惧の念を抱いているからである。

 福原義春氏(資生堂名誉会長,企業メセナ協議会会長兼理事長,東京都写真美術館長)の基調講演を受けて,永井一正氏(グラフィック・デザイナー),三枝成彰氏(作曲家),樺山紘一氏(国立西洋美術館館長),木島俊介(共立女子大学教授)の四氏がシンポジウムを開催した。

 「文化擁護」という言葉を使ってみたときに,私個人としては事の大きさに無力感を抱かざるを得ない。しかしながら,近年のアフガニスタンにおけるバーミヤン大石仏の破壊などを知るにつけ,擁護されるべき現実のあることは痛切に理解される。またわが国においても企業メセナ協議会のごとく文化擁護に地道な努力を重ねてきている機関もあることを承知している。さらには,文化擁護に関する国家の意識においても格段の差があることも承知している。例えば,近年のフランスの文化予算は年間3,000億円,国家予算の1%であるのに対して,わが国の文化庁の予算は約500億円。国家予算の0.07%にしか過ぎない。GNPがフランスの3倍もあるにもかかわらずである。

 では国家に頼ることなく,企業や個人が寄付のかたちで文化機関,文化活動を支えるというかたちはどうかといえば,例えばアメリカでは,芸術文化機関への民間寄付額は年間1兆2,000億にも達しているのである。これは驚くべき数値であるがしかし,アメリカでは,企業の税引き後利益の1%の寄付を無税扱いにしているのであるから,結局は国家が文化を支えているということになる。しかしながらわが国にはまだこのような税制上の優遇措置はない。

 福原義春氏は,世界的な視野に立ちながらわが国の文化状況とメセナ活動の現状について明確な数字を示されながらお話下さった。日本の文化支援の進むべき道は,フランスの国家支援型とアメリカの民間支援型の中間に位置する型にあるというヴィジョンを福原氏は抱いておられるように察せられた。それゆえ,現在進行中のメセナ活動も,この企業メセナ協議会への企業の参加を促進されるとともに,政府に対しては,「助成認定制度」や「文化芸術振興基本法」等の制定を働きかけることにより,文化助成活動に対する税制上の優遇措置の確率と拡充に力を注いでおられる。

 次にシンポジウムであるが,パネラーに永井一正氏をお招きした理由は明快である。永井氏はグラフィック・デザイナーとして日本の第一人者であるのみならず,総合的なデザイン会社「日本デザインセンター」の社長を長く務められ企業として日本のデザイン界を牽引してこられた。これは私見だが,あらゆる文化活動の中で,戦後のデザインほど企業とタイアップすることで高度な文化を築き上げた例は他にないと考える。ここでは具体的に述べることはしないが,永井氏のあるひとつのデザインがいかにその企業の製品の販売に貢献し,そればかりでなく会社のイメージを高め,代表者をはじめ,社員一同の文化に対する意識をいかに高揚させることとなったか。これには驚くべきものがある。三枝成彰氏は作曲家であるが,長い間,音楽パフォーマンス「ニュー・ミュージック・メディア」開催に心血を注いでこられ,近年では自作オペラ『忠臣蔵』を自身でプロデュースされるために5億円にのぼる制作費を捻出される労苦を経験されている。三枝氏の主張の要点も国家による免税措置の必要の急務であった。

 樺山紘一氏は西洋史家としての立場から文化支援の歴史とその意識の要点を話された。樺山氏と私とは学会員でもあったから,むしろ聞き役,進行役に回るはずが大いに語ってしまったのは,危機意識のなせるところである。私はかつて,国家と企業との連携から成る美術館創設に関わって苦い思いをした経験があるし,株式会社としての美術館の運営と,県立美術館の運営に関わっている。私にとって文化支援とは,個人の意識の高揚にしかないという絶望的な思いに駆られる。個人の意識といったので,ついでに苦言を呈するならば,当研究会への会員参加者の少なさであった。ちなみに福原義春氏を始め会員外のパネラーの方々も完全なボランティーアである。石橋財団および御参加下さった皆様に深く御礼申し上げたい。(木島俊介)




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マラガ,マリョルカ,ファエンツァ,デルフト


鳥居 徳敏


 マラガMálagaとマリョルカMallorcaはスペイン,ラヴェンナから西南約30kmのファエンツァFaenzaはイタリア,デルフトDelftだけが地中海から離れ,オランダの都市である。日本に薩摩焼,有田焼,伊万里焼,備前焼,九谷焼,瀬戸焼などの名称があるように,上記4都市からもマラガ焼,マリョルカ焼,ファエンツァ焼,デルフト焼という焼物の名称を作ることができる。

 マラガはスペイン南部の港町,ナサリ(ナスル)朝(1315世紀)の首都グラナダの外港であり,同王朝の窯業センターであった。したがって,マラガ焼とはスペインのイスラム陶器であり,狭義にはグラナダ王国のナサリ朝陶器を指す。

 マリョルカ焼は,一般にはマイヨリカ(伊)maiòlica,もしくはマジョリカ(仏)majolique(独)majolika(英)majolica(西)mayólicaと信じられている焼物である。つまり,マジョリカは地中海のリゾート地マリョルカ島に由来するという。ただし,同島の生産ではなく,その港を経由した陶器だと想定されている。ある意味で,有田焼の大部分が伊万里港から積み出されたため,伊万里焼と呼ばれているのに等しい。このマリョルカ島を経由したのはスペインのイスラム陶器であった。時代的には1415世紀のことであるから,マラガ焼に一致する。当時のイスラム教徒はマラガをマリカMaliqaと呼び,焼物の生産地名としてはMalyk, Malequa, Melicha, Maleque, Maliquia, Maleca, Melica, Malegaが当時(13031517)の文書に記載されていた。同時代,再征服されて間もないバレンシアのマニセスやパテルナなどにも窯業が生まれ,マラガ出身のイスラム教徒の陶工たちが働いた。それ故,ここで焼かれた陶器もマリカMalica焼と呼ばれた。この名称は早いもので1341年にカタルーニャ語の記録に出現し,特にマニセス焼はマリカ以外にも,Maliqua, Maleca, Malecua, Melicha, Meliquaなどの名でも知られていた。こうしたイスラム陶器が14世紀末からのイタリアでマイヨリカMaiolica/ Maiolichaと呼ばれた。この名称が陶器名マリカから派生したであろうと考えるのが普通であろう。しかし,イタリア語のMaiòlicaは地名のマリョルカ島でもあるため,一般には同島がマイヨリカ焼の起源に想定されている。この解釈を成立させるためにマリョルカ島経由説が必要とされるが,残念ながら,これは成立しない。なぜなら,イタリア諸都市ピサやジェノヴァなどはグラナダ王国やアラゴン王国と直接交易しており,マリョルカはバルセロナやバレンシアともライバル関係にあり,すべてがマリョルカ島を経由する必要はないからである。

 ファエンツァ焼とはマイヨリカの模造品を同地で焼いたものであり,同種模造品はイタリア各地でも生産された。こうした錫白釉・多彩釉・ラスター釉軟質陶器を特長とする陶器全般もまたマイヨリカと総称され,マジョリカとして知られている。錫白釉は14世紀末から,金属光沢のラスター釉は15世紀末から出現し,年代的にはスペインからの輸入陶器と重なる部分もある。

 このイタリア・マジョリカの技法は16世紀末フランス,オランダ,ドイツ,イギリスにも伝播し,フランスやドイツではこの模造品をファイアンス(ファエンツァ焼)(仏)faïence(独)fayenceと呼び,オランダやイギリスでの模造品を英語ではデルフ(ト),もしくはデルフト陶器delf/ delft/ delftwareと称した。オランダ人は1512年頃錫白釉の技法を早くも習得していたという。

 このように9世紀メソポタミアのイスラム陶器に出現した錫白釉・多彩釉・ラスター釉の技法はスペインのイスラム世界を経由し,西欧諸国に伝播した。この過程で生まれた用語のうち,マジョリカだけがスペイン語に再輸入された。どの言語でもこのマジョリカだけは特定の時代のイタリア風陶器を指すのに対し,ファイアンスはフランス,ドイツ,スカンジナビアでは,瀬戸物のような陶器全般を意味する一般名詞にもなっている。

 陶器と同義語となったフランス語では,彩釉陶器はすべてファイアンスになった。古代エジプトの青釉陶器も,古代メソポタミアのアッシリアや古代イランのササン朝ペルシャの錫釉陶器も,さらには中国やイスラムの陶器,スペインのイスラム陶器やイタリア・マジョリカ,狭義のファイアンスやデルフト陶器を含めそれ以後の派生陶器すべてが広義のファイアンスなのである。

 英語のファイアンスfaienceは原語フランス語での広義・狭義の両義を意味する他,さらに新たな適用を追加した。古代エジプトの石英の粉末を固めて胎とした彩釉陶器にファイアンスを当てたのである。日本語のファイアンスは英語をベースとしながらも,狭義のファイアンス,すなわちマジョリカ以降の錫白釉軟質陶器,及び古代エジプトの彩釉陶器の二義に限定された。広義のファイアンスは日本語の「陶器」と同義と考えたからであろう。しかし,古代エジプトの陶器にファイアンスという発想は英語をベースとしているから可能であって,他の言語からは不可能である。ちなみに,スペインを経由して生まれた陶器名称「ファイアンス」はスペイン語には存在しない。ただし,フランス語起源の専門用語として狭義のファイアンスを意味するものとは説明されることはある。しかし,そこまでである。




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ローマ時代の円形闘技場


渡辺 道治


 今も昔もローマ観光といえばコロッセオを誰もが一度は訪れ,その巨大さに圧倒される。つい最近ではローマ時代の剣闘士を描いた映画「グラディアトール」が話題となったし,『The Arena』という小説は,北海油田の掘削中にローマ時代の剣闘士が冷凍保存の状態で発見され現代科学で今に蘇るという奇抜な発想で描かれている。このようにコロッセオ,言い換えれば円形闘技場は,ローマ時代の建築あるいは文化を表現するひとつの典型と見なされる。

 円形闘技場はイタリア半島よりも西側の西地中海世界に数多く残されており,その中でもコロッセオは長軸188m,短軸156mで,その建築面積は約23,000m²にも達し確かに最も巨大であるが,必ずしも桁外れに巨大というわけでもない。現存する円形闘技場の規模がおよそ把握できる120例ほどを対象にしてその建築面積を見ると,最も小さい1,000m²ほどのものからコロッセオのように約23,000m²のものまで規模は大小様々である。そのなかで約半数は5,000m²以下であり,8割弱は10,000m²以下である。しかしながらヴェローナの円形闘技場のように約15,000m²を超えるクラスも8例見られ,イタリアのサンタ・マリア・カプア・ヴェーテレの円形闘技場では長軸が165m,短軸が135mで,その建築面積は約19,000m²に達している。この8例のうち5例は1世紀に,残りの3例は2世紀に建設されている。つまり,円形闘技場は考古学的資料からは2世紀に最も多く建設されているものの,こうした超巨大級クラスは1世紀に比較的多く完成しているのである。

 イタリアやフランスに残る円形闘技場がどれも似たようなものに見えてくるのはその形が同じ楕円であり,外観もドリス式やコリント式のオーダーで枠取られた連続アーチでまとめられているからかも知れない。しかし,そのためだけではない。その楕円の形が,規模は様々でも,コピーしたように同じ楕円をなしているからでもある。すなわち,その楕円をなす長軸と短軸の長さの比率がきわめて類似しているのである。120例ほどの円形闘技場の長軸の長さを短軸の長さで割った比率は1.03から2.16の間にあるが,その約95%は1.10から1.40の範囲におさまっている。さらに長軸と短軸の比が5:4から4:3の間に約半数の円形闘技場が当てはまる。

 楕円の長軸と短軸の比率がきわめて類似しているというこの特徴は時代や地域とはほとんど無関係のようである。たとえばイタリアで最も古い事例にはいる紀元前70年頃ポンペイに建設された円形闘技場ではその比率は1.31ほどであり,コロッセオで1.212世紀にアルルに建設された円形闘技場で1.27となっている。むしろ,その比率は規模と関連性を示す傾向にある。建築面積が10,000m²ぐらいまでだと長軸と短軸の比率は1.10から1.40ぐらいの間に主に広がっているが,10,000m²を超えると1.20から1.30ぐらいの狭い範囲に絞られていき,15,000m²を超えるようになるとそのほとんどが1.19から1.22のきわめて狭い範囲に限定されている。

 円形闘技場全体の長軸と短軸の比率はこのようにきわめて類似した値を示しているのに対し,同じ楕円をなす剣闘士達が闘うアレーナの長軸と短軸の比率は逆にまったく一定していない。その比率は1.06から2.43の間にあるが,1.20から1.70までの間の0.1刻みごとにほぼ同数の事例がまんべんなく分散した状況を示している。つまり円形闘技場の外観の楕円に対して,アレーナの楕円は長軸方向にやや細長く延びた楕円を一般的になしていたことになる。観客席の大きさはそれぞれの円形闘技場の収容人数によって決められるわけであるから,当然のことながら様々である。したがって,円形闘技場全体の長軸と短軸の比率が同じような傾向を示しているならばアレーナの長軸と短軸の比率は観客席の大きさによって様々に変化し,その結果としてその比率がばらつく傾向になるのは当然の結果である。ここで興味深いのは機能性を必要とするアレーナの長軸と短軸の比率が様々であるのに対し,外観を決定する全体の長軸と短軸の比率の方が似たような傾向を示している点である。

 アレーナの周りには観客席が巡っており,それぞれの席に辿り着くための放射状の階段通路と水平通路が配置されていた。しかしながら,概して円形闘技場の遺構としての保存状態は良くないために観客席の復元がなされている例が実はきわめて少ないのが実情である。その信頼性は別としても,観客席,階段通路,水平通路が少なくとも復元された例を筆者は実は10例ほどしか確認していない。冒頭にあげた最も著名なコロッセオでさえ観客席部分については様々な復元案がなされており,実のところよく分からないのである。機会があったらコロッセオの復元案をよくよく眺めて比較して頂くと面白いかもしれない。




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見えないもの


井本 恭子


 エメラルドの海に吸い寄せられるように,飛行機が高度を下げ,眼下に巨人の足跡のような陸地が見えると,私は身構える。サルデーニャ島の玄関口オルビア到着の時である。美しい海とまばゆい光を求めて日常から脱出してきた人びとの陽気な笑い声に別れを告げ,夾竹桃の鮮やかな紅色に挟まれた道を西南へ,ひび割れた大地の黄色,こんもり茂った灌木の黒々とした緑色,焦げた山の黒色が混ざり合うなかを走り,点在するいくつかの村を通り抜けると,ゴチェーアノ地方の山々に迎えられる。その細く曲がりくねった道を登って行けば,「あれが村の大学,目下閉鎖中」と,かつてアントニオおじさんが笑いながら私に教えてくれた小さな刑務所が見え,ラズ山のあの村に,私はようやくたどり着くのである。島の村に通うというこの振り子のような往復運動を,私は性懲りもなく続けている。

 人口4千弱のこの村で生起する事象を観察,記述していると,フィールドと携えてきた理論の乖離を感じるばかりである。個別の文化という環に近づき,人類文化という大きな鎖をたぐりよせる手がかりを見つけるどころか,あるひとつの事象を論理的に説明する,文化事象を解読する道を求めてふらふら彷徨っている。「しかし,ある一つの結果だけを与えられて,はたしてどんな段階をへてそういう結果にたち至ったかということを,論理的に推理できる人は,ほとんどいない。これを考えるのが僕のいう逆推理,すなわち分析的推理なんだ」と言って事件の謎を解いてみせたどこかの名探偵のようにはいかないものである。

 あの村で目を凝らし耳を澄ませている自分は,村の人びとにとって単なる日常世界への闖入者にすぎず,「そこにいる私」には解釈の限界があることを知りながらも,こうした往復運動を繰り返している私は確信犯である。では,私をサルデーニャ島に向かわせるものは一体何であろうか。日常的生活世界のなかに隠されている「始原的なもの」である。それがひょっこり姿を現す時空がサルデーニャ島にはいくつもあるように思うからである。この「始原的なもの」とは,決して累積的な時間の過去の遺物,残存を意味するのではない。ふだんは意識の表面から抹殺されているが,ある分節された時間のなかで,古層が盛りあがってくるように,生成されるものである。私の振り子運動の原動力は,この見えないものが見える瞬間,場所に身を投じなければという強い思いにある。

 ここ数年来,村の人びとの暮しに組みこまれた「聖なるもの」(見えない力)とそれに向かう姿を追っているのだが,それも「始原的なもの」との出会いを求めてのことである。雷鳴に怯えながら「聖女バルバラ様」と唱える老女キッキーナ,聖人メダルがぶら下がった金鎖を赤ん坊の小さな手に付けてやる薬剤師のティモーテア,色とりどりのサテンのリボンを握った聖ライモンドの立像の前で一心に祈る妊婦たち,邪悪な力を恐れる無神論者のパオロ,敬虔なカトリック信者であろうがなかろうが,「聖なるもの」に依存する人びとの姿を私はそっと見ている。日常の時間が生存の不安をかきたてる瞬間のような非日常性を帯びたとき,見えないものに形が与えられるからである。

 こういう「出会い」は何も個人に限られたことではない。非日常性を帯びた時間や空間が創出され共有される祭りにもある。116日の夕闇,フォカッチャに似たお菓子をもった女たちと自家製の葡萄酒が入った大瓶をもった男たちが,別々の方向に3回まわる「聖アントニオの火」,624日,夕方のミサを終えた女たちが連れ立って,真夜中の鐘の音とともに村の七つの源泉に汲みにいく「奇跡の水」「治療の水」,私はその火や水に周期的に象徴されるものを考える。その他,831日,伝統的衣装の行列の後,高台の聖ライモンド教会から競馬で最下位になった男が勢いよく転がす巨大なかぼちゃ,89月に集中する聖人祭で御輿に乗せられた聖像の巡行など,村の人びとはある時は厳粛に,ある時は歓喜に満ちた表情で,こうした「見えないもの」が見える瞬間を創出しながら暮している。そんな彼らを私はやはり見ているのである。

 フィールドで私が見ているものと彼らのそれは決して同じではない。それぞれに内在する思考様式によって再構築されたものを見ているはずである。私は自分に見えたもの,再構築された「見えないもの」を解読できる理論を模索しながら,またあの村へ行く準備をしている。





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自著を語る29


『海港と文明──近世フランスの港町』


歴史のフロンティア 山川出版社 200210月 384+24頁(図版156点) 3,000


深沢 克己


 あれはいつごろのことだったか,もう正確に思い出せないけれど,マルセイユ商工会議所の古文書館で史料を読みながら毎日を過ごしていたころ,午前中の仕事を終えて,いつものように旧港ぞいの簡易レストランで昼食をとっていた。そこはマルセイユらしい雰囲気にあふれた庶民食堂で,狭いテラスのカウンターに常連客がひしめき,シェフやウェイターと冗談を飛ばし合っていた。日替わりで挽肉ステーキやロニョンの香草炒めや小型イカのトマト煮などが出されたが,どれも素朴でおいしかった。小さめのパラソルの下で日差しを避けながら料理を味わい,カフェ・エクスプレスを飲んで眼前に広がる旧港の景色を眺め,マストを林立させる色とりどりの小型船のあいだに,プロヴァンスの陽光をあびてきらきらと輝く水面を見ながら物思いにふける時間が,史料探索の労苦へのささやかな報酬だった。

 そんなある日,いつものようにカウンターの小さな椅子に腰掛けて食後の休憩をとり,対岸にそびえるガルドの丘の頂上に立つノートル・ダム教会を眺めながらふと考えた。自分はもう長いことマルセイユ商業史を研究し,関連する18世紀の古文書はずいぶん読んできたけれど,この港町そのものについて何を知っているだろう。自分の研究している時代の遺構がどこにどのくらいあるか,調べたことがあるだろうか。毎日毎日,古文書館の閲覧室に閉じこもって,周囲が褐色に変色した書類の束と格闘しているだけで,現在の港町に息づく歴史を知らないではないか。商工会議所の裏手には,発掘された古代ギリシアの港湾遺跡を中庭として歴史博物館が創設されたが,そこにさえまだ足を運んでいない。そう考えると,じっとしていられない気持ちになった。

 こうしてひとつの願望と計画が生まれた。港町を自分の足で歩き,自分の眼で観察してみよう。それも単なる観光や名所見学ではなく,もっと体系的で包括的な調査をしてみたい。フェルナン・ブローデルのいう「直接の観察」から港町の歴史を再構成することは可能だろうか。もしそれが可能なら,マルセイユだけでなくフランス全域の港町を比較研究したらどうだろう。近世に繁栄した各地の港町が,フランス文明の形成・発展にどんな役割を演じたか,フィールドワークを通じて考察できないだろうか。こうして夢はつぎつぎにふくらんだが,実際のところ自信はなかった。どう考えても非常識な気がするし,せいぜい自己満足になるだけで,他人から評価されるとは思えなかった。人に話せば笑われそうだし,実際に話したら笑われた。

 それでもとにかく実行することにした。他人の評価ではなく,自分の欲求に忠実であることが大切だと思ったからである。そのかわり調査には全力投球した。歴史学・地理学・建築史などの文献を事前に読んで調査の方針を定め,観察の結果は詳細なメモにまとめ,撮影した多数の写真はスライドにして分類整理した。さらに調査の結果をふまえて史料と文献を読みなおし,自分自身の解釈を構築しようと努めた。これらの作業をとおして,沿海岸港と河口内港の対比,地中海港の特異性,市壁と市街構造の関係,市庁舎や公共施設の配置が示す都市の指向性,取引所や商人住宅の建築様式,都市と港湾の分離,近代港湾の「非都市化」現象などに関する着想がゆっくりと形成された。これら一連の着想を論理的に編成し,書物の構想をつくることがつぎの課題だった。

 この構想は,ごく自然にブローデル風の三層構造に結実した。港町の文化的個性をその海洋性・商人性・国際性の三要素に求め,それらとほぼ対応する歴史地理学・社会史・文化史を三本の柱として構成したのである。さらに歴史地理学は地理学・経済史・政治史に,社会史は社会階層・人物誌・企業形態に,文化史は都市史・建築史・社交関係史に,それぞれ下位区分される。以上の三章を中核として,史学史的考察を含む序章と,現代における「港町のたそがれ」を論じた終章を加えて,五章構成の書物が完成した。全体は社会史を頂点とする円環構造をなし,書物の冒頭と末尾で港と海にかかわる文学的表象が論じられる。シャルル・ボドレールの詩やリヒャルト・ワーグナーの楽劇の引用にはじまる叙述は,最後にふたたびそこに帰還し,冒頭の「赤い靴」への言及は,終章の金子みすゞの引用に照応する。

 歴史書のなかで文学や音楽を論じたのは,衒学趣味からでも,一般読者への迎合からでもない。先日の朝日新聞の読書欄に柳田邦男氏が書いていたように,過去の読書体験は,生涯のある時期に新しい意味を帯びてよみがえる。読書体験ばかりではない。わたくし自身にとって,本書の執筆は自分の内部にある海を再発見する貴重な機会でもあった。天命を知る年齢に達して,わたくしはあらためて海の呼び声を聞いている。




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表紙説明 地中海の水辺18

 エギナ島・アフェア神殿/秋山 学


 アテナイの南,サロニコス湾に浮かぶエギナ(アイギナ)島は,ピレフス港から船で約1時間,現在ではピスタチオで有名な島である。この島は近代ギリシア独立の際,最初に首都が置かれたことでも記憶されるが,特に古代の一時期その隆盛は著しく,本土のアテナイにとって宿敵とも言うべき存在であった。

 アイギナ繁栄の一因は,極めて早い時期に貨幣を鋳造したことにあった。その価値と流通度の高さがアテナイ貨幣を上回ったことは,ツキディデスによるアテナイ,アルゴス,エーリス,マンティネア間四カ国同盟条約締結の記事から明らかである。アテナイを盟主とするにも関わらず,彼らは援軍派遣の費用決定の際に,アイギナ貨幣を基に定めたのであった(V.47; B.C.420)。しかも,すでにアイギナはアテナイにより, ペロポネソス戦争勃発の主たる責を負わされて(cf.Thuc.I.67),島民が強制退去令を受けていたために(II.27; B.C.431),事実上その実体は失われていたのである。

 両ポリスの争いは古くに遡り,ツキディデスはその「大海戦」について言及している(I.105; B.C.459/8)。アイギナは結局アテナイに降伏し,30タラントンという高額の年賦金を課せられて(cf.Thuc.I.108; B.C.457/6),デロス同盟軍資調達機構に組み込まれた。上述の退去令の後,さらにキュテラ島をめぐるアテナイ・スパルタ攻防の際(B.C.424),スパルタの提供によりテュレアに移住していた旧島民たちは,アテナイにより全員処刑という悲惨を味わう(Thuc.IV.57)。両ポリスの確執はヘロドトスにもすでに詳しい(V.81f.)。

 現在,島の中心エギナ・タウンから15分ほどバスに揺られると,島東北部の丘の上にアフェア神殿が現れる。アルカイック期の代表的な神殿で,最も保存のよい現存ギリシア神殿の一つである。神殿に祀られるアフェアAphaia(「見えざる」)女神とは,パウサニアスによれば,ミノス王を逃れて身を投げた少女ブリトマルティスと同一視され(II.30.3),おそらくアルテミスと同様の神格であったと思われる。けれどもヘロドトスによれば,アイギナ人がサモス島の艦隊を破ったおり,艦首の標識を「アテナ女神の神殿に奉納した」(III.59)とされる。ヘロドトスには「アフェア」女神という名は現れず,おそらくこの言及はアフェア神殿を意味するものであろう。この神殿の建立は従来紀元前510年頃とされ,また最近では紀元前49585年とも推察されている。もっとも,先のアイギナとサモスの海戦は紀元前520年頃と推定されるため,神殿完成に先立ち,すでに女神の神域があったものだろうか。アフェア神殿の傍らに佇むと,晴天の日には遠くアテナイのパルテノン神殿が望めるという。パルテノン神殿の建立(B.C.447432)の背景には,アイギナに対するアテナイの強烈な対抗意識があったと推測するのは,はたしてわたくしだけであろうか。




 


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