地中海学会月報 257
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM
2003| 2 |
学会からのお知らせ
学会からのお知らせ
下記の通り研究会を開催します。発表概要等の詳細は256号(1月)をご覧ください。
テーマ:アリストテレス,イブン・シーナー,バル・エブラーヤー
──『気象論』の伝承を中心に
発表者:高橋英海氏
日 時:3月1日(土)午後2時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
学会の財政が逼迫しております。会費を未納の方は至急下記学会口座へお振り込み下さい。なお,新年度会費については3月末に改めてご案内します。
会費:正会員 13,000円/学生会員 6,000円
口座:「地中海学会」
郵便振替 00160-0-77515
みずほ銀行九段支店 普通 957742
三井住友銀行麹町支店 普通 216313
口座振替依頼書の今回の受付は2月21日をもって締め切りました。ご協力,有難うございました。新年度会費の引落日は,4月23日(水)です。後日あらためてご連絡いたします。
モナスティールのリバート/山田幸正
北アフリカ・チュニジア中部の町モナスティールは,共和国建国の立て役者で長期にわたって政権を維持したブルギーバ元大統領の生誕地(1903年8月3日)として知られる。大きく湾曲した入り江に沿って高級リゾートホテルが立ち並び,半島状に突き出した部分に市街が広がっている。ナツメヤシが整然と両側に植えられた心地よい海岸沿いのプロムナードをゆくと,一際目立つ石造の建築がたっている。これは「リバート」と呼ばれる初期イスラーム時代を特徴づける建造物である。
この建築は西暦796年に創建され,その後,9世紀,11世紀,16〜17世紀,18〜19世紀と次々に補強・増築された結果,現在,南北75m・東西65mほどのなかに二つの中庭を包含する,2〜3階建ての堅固な要塞風の造りとなっている。幸いなことに,この建物のなかほどに創建当初の部分が今も遺されている。それは当初,礼拝用の広間として使われた部分で,現在,資料などの展示室となっている。この部分から創建当初の建築が一辺約33mの正方形プランで,その三つの隅に円形の櫓が突出し,東南の隅だけは方形の櫓の上に円筒状の望楼が聳えるものであったことがわかる。南側中庭に面して当初の入口,さらにその奥には,ややふっくらと愛らしい望楼をみることができる。
実は,現存する最も完全なリバートの実例は,ここから地中海沿いに25キロほど北に行ったスースにある。同様に8世紀末の創建で,821年の改築後の姿を今に伝えている。1辺38mほどとモナスティールの創建当初のものに比べやや規模は大きいものの,平面形など基本的構成は非常によく似ている。やはり東南の隅には円筒状の望楼が聳え,近傍にある大モスクのミナレットの役目も果たしたとされる。しかし,なによりも創建当初,海岸沿いの戦略の拠点として,この塔を使ってモナスティールなどと互いに連絡しあいながら,周囲の様子を監視・警戒していたのであろう。
「リバート」とは,勢力を拡大しつつあったイスラーム教団の活動の拠点として,異教徒に対する布教と戦役のために「ガージー」と呼ばれた武人たちが集団で修道生活していた施設で,そうした意味からしばしば「武装修道院」とも訳させる。この語は「(馬などを)つなぐ,むすぶ」という意味をもつアラビア語の「ラバタ」がその語源と言われ,元来は「ラービタ」という形で,遠征軍の中継基地として用いられた。イスラーム初期に,ササン朝ペルシア以来の「カーラ」という用語にとって代わって,この「リバート」という語でイスラーム布教のための戦い「ジハード」(聖戦)を遂行する軍団の中継・前線駐屯基地,また情報の伝達・通信のための宿駅所を呼ぶようになったとされる。このように本来は軍事的な意味合いの強い施設であったが,同時に交易路を行き交う隊商のための休憩・宿泊地としても機能し,物資や情報の交流,商業交易の振興に一役かっていた。しかし,12世紀末期頃には,商業目的のための隊商宿として「リバート」という語は使われなくなった。その代わりに,東方からの神秘主義的な影響をうけて,宗教色の強いものにしだいに変化していった。多くのスーフィーたちが集まって修行をする場となり,神からの恩寵(バラカ)が与えられたとされる聖者の墓などを含み,人々の崇拝や参詣の対象となっていった。つまり,中世以降,「ハンカー」「ザーウィヤ」「テッケ」などイスラーム世界の各地にみられる施設と同種のものとなった。
17世紀イスファハーンの復元
深見 奈緒子
2002年12月7日/上智大学
17世紀はイスファハーンが世界の半分と謳われた時代である。アッバース大帝がイスファハーンを近世サファヴィー朝の都に仕立て上げたことによって,中世の囲郭都市は近世の庭園都市へと生まれ変わった。NHKスペシャル・アジア古都物語の制作のために,その最盛期のイスファハーンの姿をコンピューター・グラフィクス(CG)で再現する事となった。本発表では,イスファハーンの都市史,16世紀末の遷都計画,17世紀のCG復元を述べた。
イスファハーンはイランの中原に位置する都市で,西から東へ向かって流れる河のほとりに建設された。その歴史をイランをアラブ軍が征服した7世紀以前に遡る古都である。イラン北西部を故地とする近世イスラーム王朝たるサファヴィー朝(1501〜1736年)は,タブリーズ,ガズヴィンと首都を南下させ,中原の古都であり水利に優れ交易路の結節点であるイスファハーンを最終的な首都とした。
遷都を推進したアッバース大帝の都市計画は,大きく3点にまとめられる。ちなみに,都市改造の始まった1591年のイスファハーンは,河の北岸に位置する,半径1kmほどの市壁内に広がる囲郭都市であった。
第一に,従来の囲郭都市の南西部に巨大な広場「王の広場」を構築した。広場は東西160m,南北510mに及ぶ。この広場は多目的な空間であった。北辺を既設のバーザールと連結して国際的な商業活動と結びつけ,西辺に宮殿域を計画して統治機構の中心とし,南辺に大モスクを造営してイスラーム教徒の拠り所とした。
第二に,宮殿域の西側に河の南岸と北岸を結ぶ南北の大通りを構築した。幅員80m全長2.7kmの通りは,通過交通のために必要な道路とは性格を異にした。両側面ばかりでなく始点と終点に庭園が構築され,南端には一辺2kmにも及ぶ大庭園が位置するという,庭園に囲まれた世界一長い道路状の緑地帯だった。
第三に,囲郭都市を破壊することなく,旧市街の西外と南外,そして河の南岸にも広大な新市街を開発した。10世紀に町を囲む壁が建設され,それ以来600有余年を経て熟成されたペルシアの中世都市には旧勢力が住んでおり,有機的な街路網とその間を埋める中庭住居による居住が成し遂げられていた。流入人口を吸収するための開発は,先の大通りを軸として行われた。そこでは,幅の広い直交街路と庭園に囲まれた独立住居による居住が新たなトレンドとなった。
復元の荒筋は,現在も残る王の広場から大通りを南へ下り,河を渡り,南斜面を大通り沿いに駆け上がり,今は亡き大庭園へというコース,そして,この広大な庭園の様相の復元考証にスポットを当てることになった。
既にいくつかの研究が発表されているが,17世紀後半のヨーロッパからきた人々の史料に拠るところが大きい。これらの復元図の下敷きにしたのは,1920年代の地図と50年代の航空写真,そして現状地図である。加えて,現存建築は,ヴィジュアルな手引きとなった。
難題は,今回の目玉とした大庭園をどのように復元したらよいかという点であった。中央建物の復元については,大きな決断が必要となった。サファヴィー朝期の宮殿建築の様式には大きく二つのタイプがある。それは,開放的な列柱広間(ターラール)と奥の大広間という前後の構成,もうひとつは庭に向かって開く四つの広間を大ドーム室の周りに点対称に配する構成である。どちらをとるかという点が岐路となる。17世紀後半のスケッチに,水路に囲まれた基壇に正方形を9等分した部分を上(南)に,矩形の中に不等辺八角形を入れ込んだ部分が下(北)に描かれていた。下の部分に柱状の部分が描き添えられていることからこれを列柱広間とする研究者もいる。けれども,柱の配置や,規模と支持構造からすると列柱広間を作ることは無理である。しかも,スケッチの中で屋根の架かった部分と室内との描き方に差異が認められる。おそらく,9等分正方形が現すのは四方に大きく開口した建築で,その北側には8角形の大きな泉水の回りに,柱礎が配され,必要なときにそこに柱をたて,天幕を張ったのではないかという結論を下した。
CGを用いた復元は,決して一人ではできず,多くの人々の協力関係とその機会に恵まれなければ成しえない仕事である。私のような建築史を専攻するものは,建造物として構築可能かどうかという点を考えていかねばならない。ひとつの試作として終了してしまわないためには,きちんと復元の根拠を書き留めることが必要であろう。すなわちどこまでが史料に基づき,どこからが創作なのかという点を明らかにすれば,研究発展の切っ掛けとすることができよう。CGは消失してしまったものを実感でき,マスメディアを媒体とすることで多くの人々の共感を得られる点では,優れている。しかし,復元CGは決して過去をそのままに再現しえたものではなく,今までに明らかになったことと創作を結びつけた,2002年の作品である。
楠根 圭子
1626年,スペインの異端審問所に,セビーリャの「柘榴の信心会(Congregación de la Granada)」と呼ばれるグループに関する報告書が提出された。書いたのはセビーリャの異端アルンブラードス派に関する調査を行っていたドミンゴ・ファルファンである。彼によればこの信心会の名は,彼らの活動の場であったセビーリャ大聖堂内の「柘榴の聖母の礼拝堂」に由来している。この報告より以前から,このグループは異端審問所の監視下に置かれていたが,ファルファンは彼らを“恐るべき組織(máquina monstruosa)”と激しく糾弾した。
ファルファンが提出した信心会重要メンバーのリストの中には,“フアン・マルティネス・モンタニェース,彫り師(entallador)。セビーリャ,マグダレーナ教区ムエラ通りに居住”という記載がある。これは,セビーリャ大聖堂の《クレメンシアのキリスト磔刑》などの作品で名高い,彫刻家のモンタニェースのことである。ファルファンによれば,モンタニェースは当時すでに故人となっていた同信心会の元指導者フェルナンド・デ・マタに心酔しており,日頃から彼の美徳を賛美していたという。
「柘榴の信心会」を創立したのは,ウエルバ出身の錠前職人ゴメス・カマーチョであるが,彼を継いで信心会の指導者となったのは,アビラの聖女テレサの霊的指導者の一人とされる高名なイエズス会士のロドリーゴ・アルバーレスであった。さらにその後を引き継いだ前述のマタもセビーリャ大聖堂付属礼拝堂の司祭で,優れた説教師としてセビーリャ市民の尊敬を集めていた。しかしファルファンが報告する「柘榴の信心会」の教義は終末論的世界観に彩られた,秘密結社に似た性格を持つものである。信心会の重要メンバーは,創立者ゴメス・カマーチョが告げたある秘密事項を知っているが,決してそれを漏らしてはならないとされていた。モンタニェースもまた,その秘密を知っていた一人であった。指導者にはキリストの霊が,その他の重要メンバーには十二使徒の霊が宿っているとされ,来るべき反キリストの時代には,信徒たちは復活して戦わねばならないと決められていた。
彼らの共有していた「秘密」とは何なのか,その思想はファルファンが糾弾したほど教会にとって危険なものだったのかどうかは明らかでない。歴史学者アントニオ・ドミンゲス・オルティスは,この告発の背後に,異端審問所と密接な関係にあったドミニコ会と,イエズス会との対立構図があったのではないかと推測している。とはいえ,「柘榴の信心会」のメンバーが自分たちを神に選ばれた特別な人間とみなし,秘密を共有することで外部の者を排し,結束を強めていたことが,異端審問所に警戒の念を抱かせたことは容易に想像できよう。
マタの葬儀に参列したカルモナの助祭長マテオ・バスケス・デ・レカは熱烈な信仰心の持ち主で,モンタニェースに《クレメンシアのキリスト磔刑》を注文した人物である。彼はこの作品を自分の個人礼拝堂のために作らせ,キリストの表情や視線に至るまで詳細な指示をモンタニェースに与えたことで知られる。この作品はその後,磔刑像の模範として,多くの彫刻や絵画作品に影響を与えた。モンタニェースはおそらくレカを通じてマタと面識を持ち,その思想に共鳴していったものと考えられる。
ファルファンによる告発の結果,「柘榴の信心会」は解体される運命を辿った。指導者の手紙などの重要書類は異端審問所に押収され,メンバーの一部は処罰を受けたが,モンタニェースを含むその他の信徒たちにまでは処罰は及ばなかったとみられる。
モンタニェースは,ベラスケスの師で学識ある画家であったパチェーコの友人であり,多くの聖職者や知識人とも親交があった。二人の妻との間に生まれた多くの子供のうち,幾人かは聖職者となった。彼の「柘榴の信心会」への帰依は,神との神秘的な内的合一を求めるあまり,閉鎖的な秘密組織の形成に走った一部の聖職者たちの過ちに,著名人であった彼が巻き込まれた結果だったのかもしれない。パチェーコの著書『絵画論』には,彫刻家モンタニェースへの讃辞が随所に見られるが,この不名誉な事件については全く触れられていない。
いずれにせよ,高名な知識人や聖職者,芸術家が所属した「柘榴の信心会」をめぐるエピソードは,道徳的堕落や不信心を強く警戒し,より厳格な改革を目指していた宗教的指導者たちの行き過ぎた短絡的な行動が,共同体の中に一種の精神的な歪みをもたらしていたことを示していると言えよう。
藤内 哲也
「結び合う海」としての地中海という側面は,東の「地中海」ともいうべき日本海についても見出すことができる。たとえば九州北部,とりわけ国際的な商業都市として繁栄した博多は,古代よりヒトやモノや文化が相互に行きかう重要な結節点としての役割を果たしてきた。平安時代末期には,白川院領肥前神崎荘の預所となり,日宋貿易の重要性を認識した平氏政権によって,港の整備や航路の安全確保が図られるとともに,平氏一族と博多やその周辺にあった有力な寺社との結びつきが強められていった。博多の東,九州大学箱崎キャンパスに程近い筥崎宮もそのひとつである。石清水八幡宮の別宮となり,大宰府とも関係の深かった筥崎宮は,香椎宮や宗像大社とともに盛んに海外貿易を行い,11世紀末までには,博多とならんで周辺に大唐街(宋人百堂)と呼ばれる中国人商人の居留地ができていた。「住蕃」とよばれたこの商人たちは,筥崎宮のような有力な寺社に帰属して保護を受ける一方,商業を通じて都市に繁栄をもたらしていたのである。
「住蕃」たちのこうした活動の上に,鎌倉時代における禅宗の移入と禅寺の建設が位置づけられる。博多では,臨済宗を伝えた栄西によって日本最初の禅寺である聖福寺が,またその約半世紀後には円爾によって承天寺が建立されたが,その際土地や資金を提供したのは,謝国明に代表される「住蕃」たちであった。一方,博多湾や周囲の沿岸部には,海上や河川交通の要所に都市的な集落が発展し,中国やアジアとつながっていくことになる。こうして「結び合う海」に張り巡らされたネットワークこそ,のちに神屋宋湛や嶋井宋室といった豪商たちが活躍する舞台となるのである(村井章介『中世日本の内と外』筑摩書房,1999年;武野要子『博多──町人が育てた国際都市──』岩波新書,2000年ほか)。
卒業論文の作成にあたり,アドリア海にひらけた国際商業都市ヴェネツィアを取り上げることにしたのは,まさかこうした環境の中で生まれ育ったためでもないだろう。とはいえ,研究の原点をなす強固な信念や研究者としての確固たる「アイデンティティ」に乏しい(といわれる)世代に属するものとして,このような偶然はなかなか興味深い。もちろん,東西の「地中海」においてそれぞれ重要な位置を占めたこの二つの都市を取り上げることは,比較史研究の素材としても魅力的であろう。
ところで,われわれの学問や研究の基盤となるべき「アイデンティティ」が,近年大きく揺らいでいるように思われる。背景には,EUの拡大やグローバル化の進展にともなって,ヨーロッパや近代国民国家という枠組みが変容しつつあること,そして急激に進む大学改革を前に,歴史学や人文学といった既存の学問のあり方が根本から変えられようとしている現状があるだろう。その過程で「役に立つ」学問と「役に立たない」学問が区別され,また同じ歴史学のなかでも,特定の時代や地域やテーマのみを「役に立つ」とするような風潮さえ見受けられる。そうした立場からすれば,とりわけ人文学的な地中海研究などは「役に立たない」ものとして切り捨てられてしまいそうである。しかし,これまでイタリア/地中海世界の研究を「マイナー」な領域に押しやっていた「メジャー」な研究領域によって,その確固たる「アイデンティティ」が揺らいでいるからといって,今度は「マイナー」な研究は「役に立たない」という烙印を押されてはかなわない。
とはいえ,ようやく研究者としてのささやかな一歩を踏み出したにすぎず,しかもまだ大学に職を得ていない身にとっては,言い換えれば,自己の研究や研究者としての「アイデンティティ」をまだ確立していない身にとっては,こうした学問のあり方やその対象に引き起こされている変化を見通し,また大学の将来像を描くことなどということはとうていできそうにない。ただ,揺るぎない「アイデンティティ」の不在は,逆にひとつの強みであるかもしれないという気もしている。「結び合う海」で活躍した商人たちの「アイデンティティ」は,いうまでもなく単一のものではなく,より重層的で多元的なものであっただろう。また,海から陸へと視線を移していった近世のヴェネツィア貴族たちのなかには,近代国民国家的な「アイデンティティ」とは異質な自己認識があったに違いない。さらに,地中海研究という学問の枠組み自体についても同じようなことがいえるだろう。すなわち,ヴェネツィア/イタリア/ヨーロッパ/地中海世界というような異なる文明圏にまたがる研究対象においても,また歴史学/人文学/地中海学といった学問や研究者の学際的なあり方としても,それぞれひとつの「アイデンティティ」に還元されない側面を持つがゆえに,近代国民国家の枠組みに基礎をおく従来の歴史や文化の研究に対して,批判的な視点を提示することが可能となるはずである。ただし,それを自分の研究のなかで実証していくという最も重要かつ困難な作業は,今後の大きな課題なのだが……。
『中世後期イタリアの商業と都市』
知泉書館 2002年10月 xiv+478頁 9,000円
齊藤 寛海
本書は,中世後期(部分的には近世初期)において,イタリア商人がおこなった国際商業のありかたと,彼らが国家のなかでもった権力のありかたとを,具体的かつ動態的に理解しようとする。著者のこれまでの研究の集成である。
イタリア北部,中部の都市の商人は,イタリアはもちろん,ヨーロッパや地中海の各地で商業取引をした。その活動は,とりわけ十字軍運動と結合したのを契機に急成長した。海港都市の商人は,地中海商業の覇権を確立し,内陸都市の商人は,教皇の徴税人という立場を利用して,西欧商業の覇権を確立した。商業が発展すると,ヴェネツィア商船がイギリスに行き,フィレンツェ商社がレヴァントに代理店を開設するようになる。このような活動により,母国はもちろん,イタリア,地中海,ヨーロッパの経済は,大きな影響を受け,それを一つの要因として変化していく。
商業で力を蓄えた北部,中部の商人は,都市の政治に進出し,その権力を獲得した。のみならず,財力と人口が拡大した都市は,周辺農村の領主や集落を従属させ,都市国家を形成したが,その中でも,国際商業で卓越した力を得た有力な都市国家は,やがて近隣の都市国家を支配し,領域国家を形成していく。その商人は,各地の経済のみならず,北部,中部の政治や国家のありかたを,左右する存在でもあった。ちなみに,これと比べれば,南部,シチリアの都市の商人は,強力な王権,領主権が賦課する過重負担により,経済活動を束縛され,政治や国家権力から排除されていた。
北部,中部の大都市の商人の活動は,各都市固有の条件に対応して一律ではなく,都市ごとに異なる特性をもつ。この特性が,各都市の経済構造を左右し,この経済構造が,各都市の権力構造と,そこでの商人の地位を決定する一つの要因になった。とはいえ,それらは,経済構造によって排他的に決定されるのではなく,都市を取り巻く政治状況のような,さまざまな具体的条件によって決定される。
本書は,以上のような観点から見て重要だと思われる問題のうち,研究史や史料のありかたから見て筆者にとって考察が可能な具体的な問題を取り上げて,それを考察した。大きく分けて三部から構成されており,それぞれの内容は次の通りである。
第1部「フィレンツェの毛織物工業」は,フィレンツェの代表的な工業である毛織物工業について,イギリス羊毛の導入によってフィレンツェ毛織物の高級化が開始されたこと(第1章),イギリス羊毛をフィレンツェに輸送するには多大の経費が必要だとするのは史料の誤読による謬説であること(第2章),ダマスクス市場でフィレンツェ毛織物などの「ダンピング」があったとする学説は不当な史料操作によるもので承認しがたいこと(第3章),を史料を分析して実証した。付論では,史料分析に必要な貨幣体系の理解をした。
第2部「イタリア商人と地中海商業」は,イタリア商人を中心に形成された地中海商業について,それが時代とともに展開していくありさま(第1章),取引される商品の性格と各地に存在する市場の性格(第2章),定着商業の存立の前提となる商業通信のありかた(第3章),オスマン・トルコの地中海進出によるヴェネツィアの食糧危機(第4章),を考察した。付論では,シャイロック(シェークスピア『ヴェニスの商人』に登場するユダヤ人)の時代,すなわち16世紀末期のユダヤ商人の活躍について考察した。
第3部「イタリア都市の権力構造」は,イタリア北部,中部の都市国家の展開について,都市国家の一般的展開とフィレンツェが領域国家になりその共和政が君主政に移行する過程(第1章),都市貴族の支配体制が補強されたヴェネツィアとそれが崩壊したフィレンツェとの異同(第2章),平民の支配体制が崩壊したボローニャとそれが維持されたフィレンツェとの異同(第3章),共和国でありながらメディチ家の支配が成立したフィレンツェ国家の権力構造の実態(第4章),を考察した。付論では,フィレンツェ共和国を土台にして出現したトスカーナ大公国の領域構造を考察した。
多田智満子さんの霊に捧ぐ
牟田口 義郎
多田さん
あなたと私とは,地中海学会の大会で知り合ってから年に一度の七夕のようなおつき合いでしたね。しかし以来,自著の交換や文通などにより,あなたはいつの間にか,<わが党の士>となりました。この仲間意識の底には,フランス文学とポエジーとエジプト,そして地中海という共通項が介在したのはもちろんですが,その上,私に倍するあなたの知的好奇心のたくましさに,私は完全に兜をぬいだものでした。
そのようなつき合いのなかから,思い出を二,三取り出してみましょう。
一つはあなたから恩を受けたこと。
十数年前,私はパリに住むアラブの作家,アミン・マアルーフがフランス語で出した『サマルカンド年代記』を翻訳しました。この小説は中世ペルシアの天文学者にして詩人であるオマル・ハイヤームと,彼が残したと伝えられる四行詩集『ルバイヤート』の自筆本のゆくえをめぐる歴史小説で,フランスの出版文化賞をとったという異色作。そして,私にとっては初めての翻訳小説という記念作で,その校正刷りが出始めたころ,私は原著者が週刊誌とのインタビューで「この小説はマルグリット・ユルスナールの代表作『ハドリアヌス帝の回想』からヒントを得た」と語っているのを読み,「あ,多田智満子さん!」と思わずつぶやき,すぐあなたに連絡しました。
というのは,ヒントの源である「覚書」が訳書では省かれていたからで,あなたは折り返しで「覚書」の全文を送ってくれました。それを読むと,その個所に当たる部分はたった6行で,要旨は「ハドリアヌスと同じくらいの執拗さで私を誘惑した歴史上の人物がほかにただ一人いた」。それがすなわちオマル・ハイヤームで,この6行からヒントを得た原著者は,訳書で430ページにもなる歴史小説を書き上げたわけです。
私は訳書の最終校正の段階で,このエピソードを突込むことができ,訳者としての任務を果たすことができました。ひとえにあなたのおかげです。
多田さん,ありがとう。
次はあなたを雑誌に紹介したこと。これで五分五分かな?
丹波の篠山は,日本で私がいちばん好きな町の一つですが,そこの「丹波古陶館・能面美術館友の会」が編集発行している『紫明』という,季刊の,高級な芸術文化雑誌があります。その小山泰三編集長に頼まれて,「瞑想紀行」という常設欄に,私は篠山初訪問の思い出を載せました。そしたら,「次号の執筆者を推薦してくれ」と小山さんがいう。われら二人は「地中海」という共通項で結ばれているのです。私はためらうことなく,多田智満子の名を挙げました。だってそこは,あなたの地元といってもよい地域ですもの。
やがて届けられた『紫明』の次号(1999年10月発行)には,「牡丹の縁に引かれて」という,あなたのみごとなエッセーが載っていました。それを一読して,私は,あなたの知的好奇心の旺盛さにまたもや脱帽したのでしたが,本筋に無関係ながら興味を引いたのは,あなたが愛犬を加えた御一家で篠山を訪れ,古い旅館で猪鍋(通称ぼたん鍋)を食べたくだりでした。
実は昨年秋,小山さんの案内で丹波,但馬を訪れた際,私は篠山で,かの有名な猪鍋を味わったのでしたが,そのとき小山さんから「多田さんはここで猪を食べられたんですよ」といわれて,はっとしました。というのは,少し前,結局はあなたの最後の著書になった『犬隠しの庭』のなかで,あなたはその愛犬の死と,じぶんが一年来病床にあることを述べていたからです。「あなたも愛犬も,篠山では元気だったのに──」
この思いは,翼を広げます。それよりさらに少し前の8月,私は詩とエッセーでつづる自分史,『あの夏の光のなかへ』を出版しました。そしたらあなたは,的確な感想をしるした礼状の終わりに,近況を,五七五の一句にこめて,私に伝えてきましたね。
夏痩せや すこし増えたる 死の重み 智満子
その後,秋晴れの日が続きました。そして年が暮れ,私はあなたに出した賀状のなかで,「その重みがすこしでも減ることを望んでいます」と書いたのでしたが──
あれは,あなたの辞世の句のプレリュードだったのですね。きたるべき死を達観して見つめている詩人の魂。その凛とした気迫魄のさまを,私は決して忘れることがないでしょう。
多田さん,智満子さん,さようなら。
あなたのご冥福を私は心から祈っています。
目次へ
『オペラのイコノロジー2 オルフェオ──クレモナ,マントヴァ,そしてオペラの生誕』山西龍郎著 ありな書房 2001年9月
『恋するオペラ』金窪周作著 集英社新書 2002年3月
『ピンダロス研究──詩人と祝勝歌の話者』安西眞著 北海道大学大学院文学研究科研究叢書 北海道大学大学院文学研究科 2002年3月
『西洋精神史における言語観の諸相』慶應義塾大学言語文化研究所 慶應義塾大学出版会 2002年3月
『文明のあけぼの──古代オリエントの世界』三笠宮崇仁著 集英社 2002年6月
『歴史学 未来へのまなざし──中世シチリアからグローバル・ヒストリーへ』高山博著 山川出版 2002年7月
『女たちのロマネスク──古代ギリシアの劇場から』丹下和彦著 東海大学文学部叢書 東海大学出版会 2002年7月
『あの夏の光のなかへ』牟田口義郎著 近代文芸社 2002年8月
『魂のうたを追いかけて』植野和子著 音楽之友社 2002年8月
『犬隠しの庭』多田智満子著 平凡社 2002年10月
『地中海を見た日本人──エリートたちの異文化体験』牟田口義郎著 白水社 2002年10月
『海港と文明──近世フランスの港町』深沢克己著 山川出版社 2002年10月
『シチリア──<南>の再発見』陣内秀信著 淡交社 2002年10月
『イスラーム世界の都市空間』陣内秀信・新井勇治編 法政大学出版局 2002年10月
『NHKスペシャル アジア古都物語 イスファハン──オアシスの夢』NHK「アジア古都物語」プロジェクト編 NHK出版 2002年10月
『活字──ある印刷会社の活版組版』猪瀬印刷 2002年10月
『ギリシア合唱抒情詩集』アルクマン他著 丹下和彦訳 西洋古典叢書 京都大学学術出版会 2002年11月
『ルネサンス精神の深層』A.シャステル著 桂芳樹訳 ちくま学芸文庫 2002年12月
『図説 聖地イェルサレム』高橋正男著 河出書房新社 2003年1月
『岡山市立オリエント美術館 ガラス工芸──歴史と現在』岡山市立オリエント美術館 1999年
『岡山市立オリエント美術館 ガラス工芸──歴史から未来へ』岡山市立オリエント美術館 2001年
『スパツィオ』61(2002)
『羚』5(2002)
訃報 1月23日,会員の多田智満子氏(2000年度地中海学会賞受賞者)がご逝去されました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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