地中海学会月報 255
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM
2002| 12 |
学会からのお知らせ
学会からのお知らせ
*「地中海学会ヘレンド賞」候補者募集
地中海学会では第8回「地中海学会ヘレンド賞」(第7回受賞者:秋山聰氏)の候補者を募集します。受賞者(1名)には賞状と副賞(50万円)が授与されます。授賞式は第27回大会において行なう予定です。申請用紙は事務局へご請求ください。
地中海学会ヘレンド賞
一、地中海学会は,その事業の一つとして「地中海学会ヘレンド賞」を設ける。
二、本賞は奨励賞としての性格をもつものとする。
本賞は,原則として会員を対象とする。
三、本賞の受賞者は,常任委員会が決定する。常任委員会は本賞の候補者を公募し,その業績審査に必要な選考小委員会を設け,その審議をうけて受賞者を決定する。
募集要項
自薦他薦を問わない。
受付期間:2003年1月9日(木)〜2月10日(月)
応募用紙:学会規定の用紙を使用する。
*第27回大会研究発表募集
第27回地中海学会大会は2003年6月21日〜22日(土〜日),金沢美術工芸大学(金沢市小立野5-11-1)において開催します。
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2003年2月7日(金)までに発表概要(千字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
会費の口座引落にご協力をお願いします(2003年度会費からの適用分です)。
また,今年度会費を未納の方には月報前号(254号)に振込用紙を同封してお送りしました。至急お振込みくださいますようお願いします。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされてない方,新入会員の方には「口座振替依頼書」を月報前号(254号)に同封してお送り致しました。個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。
「口座振替依頼書」の提出期限: 2003年2月21日(金)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2003年4月23日(水)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名ラベル右下の数字です。
9月17日本学会会員の飯田貞夫氏が,
11月18日同会員の原田宿命氏が,
12月9日同藤崎義秀氏がご逝去されました。謹んでご冥福をお祈りします。
2002年12月27日(金)〜2003年1月7日(火)
アクイレイア(バジリカの床面モザイク)/飯田巳貴
海の生き物やそれを漁る様子を描いたモザイクは,地中海周辺に多く残存している。その中でも初期キリスト教時代に属する最大の作品のひとつが,北東イタリア,フリウリ=ヴェネツィア・ジューリア地方のアクイレイア(Aquileia)に残されている。アクイレイアは紀元前180年ごろ,ローマ人によって軍事都市として建設された。その後の埋め立てによって海岸線が南下し,現在はフリウリ沿岸平野の中の小さな町となってしまったが,往時はバルト海への「琥珀の道」の起点でアルプスからドナウ川流域に至る街道が通り,さらにアドリア海の海上交易によって各地と結ばれた交通の一大拠点であった。こうした地の利はまた,様々な勢力の侵入を呼ぶ結果ともなる。ゴート族のアラリック(401年,408年)は退けたものの,フン族のアッティラに敗退し(452年),6世紀にはビザンツ領に併合されて総大司教座が置かれた。568年のランゴバルド族の侵入によって総大司教は住民と共に南方のグラードへ逃亡を余儀なくされた。彼らはその後さらに南西のラグーナ(潟)の中へ移動し,同様に侵入者から逃れてきた他のヴェネト地方の人々と共に,都市ヴェネツィアを建設することになる(最終的に総大司教座は1451年ヴェネツィアへ移る)。1509年から1918年まではオーストリア領であった。
アクイレイアの町はアドリア海に向かって南北にのびる旧ジュリア・アウグスタ街道(現在の国道352号線)によって東西に二分され,バジリカはその東側に位置する。周辺一帯には,ローマ時代の住居や建造物などの遺跡発掘現場がひろがっている。バジリカの中核部分は,ミラノ勅令の後313年ごろ司教テオドリクスによって建造された。西口から内部に入ると,まず幾何学的な多角形の区割りの中に鳥獣や人物像を描いた身廊の床モザイクが目に入る。それが内陣に向かって進むにつれて,実に生き生きとした海辺の光景に変わるのだ。「ヨナと大魚」のシーン,小舟に乗って網で漁をする天使など宗教的なモチーフも各所に見られるが,圧倒的に多数を占める様々な魚やユーモラスなタコ,イカ,エイ(?)の躍動感あふれる姿からは,むしろ率直な「海辺に生きる喜び」が見る者に伝わってくるであろう。ここでは床面の一部の上に足場を組み,透明な板を渡してその上を歩いてモザイクを見学できるようにするなど,見学者のために便宜が図られている。バジリカの北側にはやはりモザイク張りの床を持つ紀元前1世紀のローマ時代の住居跡があり,「カメとニワトリの喧嘩」といったようなユニークなモチーフも見られる。
バジリカを出て背後を流れるナティッサ(Natissa)川にそって糸杉の並木道を行くと,アクイレイアのもうひとつの水辺の風景,河港(porto fluviale)跡が見えてくる。二段の埠頭を持つこの港は紀元1世紀ごろに建造され,19世紀になって発見された。私が訪れた夏の盛り,石積みの港跡には一面に水草が生い茂り,蛙の大合唱に包まれていた。往時の繁栄を思うと同時に,過ぎ去った年月の長さもまた深く心に残る光景であった。
島田 誠
英国大ブリテン島の北部,イングランド地方の最北端,スコットランド地方との境界近くにヴィンドランダVindolandaと呼ばれる古代ローマ時代の遺跡がある。この遺跡は,紀元1世紀末から2世紀前半にかけて(85年〜120年頃)属州ブリタニアの北の境界線を固めていたローマ軍(補助軍)部隊の駐屯地の遺構である。
1973年,このヴィンドランダの駐屯地遺跡から,文字の書かれた多数の木簡が発見された。ローマをはじめとして古代地中海世界において筆記用箋としてひろく用いられていたのは,厚い木板の中央部を平たく削って蝋を塗った筆記欄に金属製の筆で刻み込む書板であった。ところが,ヴィンドランダの木簡は,従来は知られていなかった新しい種類のものであり,1〜3ミリの厚さの木の薄片に灰とゴム糊を水に溶かしたインクで文字が書かれている。大きさは通常は現代の葉書大であり,木目に沿って文章が書かれ,筆記面を内側に折り畳まれる。インクを用いていることや作成される文書の性格からヴィンドランダの木簡は他地域におけるパピルスの代用品であったと考えられている。1973年の発見から1989年までに約2,000枚の木簡の断片が出土し,その中の200枚以上から意味のある文章が読みとれるという。
さてヴィンドランダの木簡に記されている文書は,記録文書と個人の書簡類とに大きく分けられる。記録文書の中では,駐屯する軍部隊関係の記録が注目される。駐屯部隊の現有兵力報告(総員756名),兵士の休暇申請書,作業割り当て表,食料の配給記録など,辺境に駐屯するローマ軍の日常業務に関する多様な記録が残されている。なおこれらの木簡は,部隊の保存していた公式記録ではなく,その写しであると推測されている。
1994年に公刊された『ヴィンドランダ書板』A.K. Bowman and J.D. Thomas, The Vindolanda Writing Tablets (Tablae Vindolandenses II), London, 1994には,ある程度内容が理解できる個人の書簡が計156 通掲載されている。我々が読むことのできる古代ローマ人の書簡は,通常はキケローや小プリーニウスなどの書簡集のように古典文学の一部として写本の形で伝わったものであった。パピルス等の形で出土した書簡は比較的少数であり,ヴィンドランダ木簡の発見は我々が所有する古代ローマの出土書簡の数を大幅に増やすことになった。
これらの書簡は我々が通常の史料から直接に知ることの難しい階層(特に中級のローマ騎士)の言動を伝えてくれる貴重な新史料である。さらにそれらの中には,騎士の妻たちの書簡も含まれている。古代ローマの女性の発言や書簡は,古典文学やその他の史料中の引用や断片以外には,ほとんど直接には知ることができない貴重なものである。その中の一通を筆者の試訳で掲げてみたい。
「クラウディア・セウェーラが私のレピディーナ様に御挨拶致します。お姉さま,9月11日,私の誕生日の祝いにお越しになって,貴女のご到来で私を喜ばせるように是非ともお願い致します。(2行分,意味不詳)貴女の(ご主人の)ケリアーリスさまに挨拶をお伝え下さい。私の(夫)アエリウスと幼い息子たちがご主人にご挨拶をしております。お姉さま,貴女をお待ちしています。最愛の私の魂であるお姉さま,私が健康であらんと望むのと同じ様に御機嫌よう,そしてさようなら」(Tablae Vindolandenses II, 291)この書簡は異なる二つの筆跡の持ち主により書かれている。「お姉さま,貴女をお待ちしています」以降の部分がクラウディア・セウェーラ自身の手であり,残りが書記の手になるものであると考えられている。差出人の手になる書簡の結びの部分は従来知られる他の書簡に比べるとはるかに丁寧かつ複雑な文句から成っている。これは,古代ローマの女性に共通の特徴であるとも考えられるが,彼女の個人的な趣味である可能性が高い。
書簡自体の内容は,アエリウスという軍人の妻であるクラウディア・セウェーラという女性が自分の誕生日の祝いにヴィンドランダに駐屯する補助軍部隊の隊長であるケリアーリスの妻レピディーナを招待するものである。その趣旨そのものには取り立てて問題はない。しかし,ローマ帝国の北の辺境に駐屯するさほど高位ではない軍人の妻たちが,書簡を通じて招待し合う社交生活を現地で営んでいたことは興味深い。
これらの書簡から,ローマ軍に勤務する軍人たちのみならず,その妻たちも基本的な読み書き能力を有していた可能性が高い。彼女たちは,当時の支配階層の習慣にならって書記(おそらく奴隷)を使用していたようであるが,クラウディア・セウェーラのごとく,自らも文章を綴ることができた者も存在したのである。
アレクサンドリア
──海底考古学の最新の成果から──
牟田口 義郎
この数年来,クレオパトラの都アレクサンドリアを中心とする考古学上の大発見ニュースが世界中に発信されている。しかし,その発信元はパリ1か所で,しかもその大半は「欧州海底考古学研究所=IEASM」の業績だ。つまり,考古学の一分野としての海底考古学が,開発された最新技術を駆使して輝かしい成果を挙げたわけで,そのため同研究所のフランク・ゴディオ所長は「海底の魔術師」とのニックネームを奉られている。
まず地形を紹介すると,この港湾都市は大灯台が立っていた沖のファロス島と,石造の突堤で結ばれており,その東側が都の中心だった。しかし,その後の地震で中心部が水没すると同時に海流に変化が生じ,堤防部分はどんどん幅を広げて今では市の中心部に発展し,西側が活気ある商業港となったのに比べ,東側は漁港になってしまっている。
「発見」はもちろん,東港の海底で行われた。世界の七不思議のひとつといわれた大灯台の残骸と,人口30万,世界最大の都といわれたアレクサンドリアの中心部が調査隊によって突きとめられたのである。1996年末のことだ。この発見の口火を切ったのはエジプト人のダイバーで,それは1961年にさかのぼる。実態の解明に30年以上もかかったのは,エジプト政府が外国人チームの調査を禁じていたからだ。1961年以降,アラブ・イスラエル紛争は2度も火を噴いていたのである。
ところが,「待てば海路の日和あり」で,そのあいだに,海底考古学上の技術が飛躍的に発展していた。この年ゴディオ・チームは半年間もぐった。最新式の磁力計が物体の位置を1m単位で決定する。次には衛星測位システムがより正確に位置を割り出し,強力なコンピューターがそれらを海底地図上に乗せて行く。その結果,沿岸道路から程遠からぬ小島の跡からはクレオパトラの夏の離宮の一部が,またその目と鼻の先の小島の跡からは,彼女を愛し,彼女と共に自殺したアントニウスの離宮と神殿の跡が見つかり,その他のデータを整理した末に,彼女の,今は水中に没した都の地図や復元図が描けるようになったのである。
◇
そして5年後,2001年1月8日付けの『ザ・タイムズ』の第3面は,「これはカエサル(シーザー)とクレオパトラの息子か?」という全段ぶち抜きの見出しで,アレクサンドリアの海底から引き上げられた80cmの花崗岩製の胸像のモデルが薄幸の王子,カエサリオンその人ではないかとして,特集記事を組んだ。この特ダネの出所はゴディオ氏。
海面から顔だけ出した胸像の写真に『ザ・タイムズ』がとびついたのは,この胸像がカエサルの離宮の跡地で発見されたわけで,しかもローマ史は,彼に関して無言だったからである。なぜか。この謎解きには,クレオパトラをめぐる人間関係を,愛憎の面から考察してみる必要があろう。
カエサルとクレオパトラがアレクサンドリアで初めて会ったとき,彼女は20歳でかれは53歳。彼女は彼のなかに,弟たちとは違う理想の男性を認め,一方彼は彼女のなかに美とともに,統治者としての知性を認めた。そういう二人の愛から生まれたのが,「小カエサル」を意味するカエサリオン。カエサルはこの「分身」を溺愛した。この王子が彼の唯一の息子だったからだ。
カエサルの死後,相続争いのなかで,アントニウスはクレオパトラと結んでカエサリオンの保護者となる。面白くなかったのは,カエサルの甥で,後に養子になったオクタヴィアヌス。この争いに敗れたアントニウスとクレオパトラが自殺した後,アレクサンドリアに乗り込んだオクタヴィアヌスが真っ先に行なったのは,17歳になったばかりの少年王を殺すことであった……。間もなく生まれたローマ帝国のなかで,歴史家がこの少年王について口をつぐんだのは,以上のようないきさつのためだったろう。
『ザ・タイムズ』によれば,大英博物館は以前からこの写真情報をつかんでいた。そこで,この胸像を目玉とする「クレオパトラ特別展」を企画,ヨーロッパや北アフリカおよび北米の関係博物館も出品を約束し,エジプト政府も承諾した。そこでこの特別展は,かつての「ツタンカーメンとその宝物展」以来最大の,そして最も劇的なものになろうと騒がれ,『ザ・タイムズ』は思い入れたっぷりに書いた。「世が世ならば,その家系からいって,カエサリオンは<東(アレクサンダー帝国)>と<西(ローマ)>を統合した<世界のあるじ>になるはずであった」。
果たして,4月から8月までの特別展は大成功だった。
江戸と地中海
パネリスト:荻内勝之/陣内秀信/田村愛理/司会:末永航
久しぶりに東京で開かれる地中海学会大会,しかも今では都心といってもいい目白の学習院が会場になるということで,東京・江戸をテーマにトーキングをやってみようという話が誰からともなく出て,やがて「江戸と地中海」という今回のテーマが決まった。
東京よりも江戸に重点を置くが強いて話の脈絡はつけない。江戸と地中海の比較でもいいし,江戸と地中海の関係でもいいことにした。なるべく多彩な方に自由に話をしていただき,その連なりが聴く方それぞれにさまざまな連想を生んでいくことになれば,と願って三人の方にご登場いただいた。
ヴェネツィアや南イタリアだけでなくイスラム圏諸国やアジアにも調査の脚を伸ばしている都市史の第一人者陣内秀信さんは,もちろん江戸・東京学の分野でもよく知られている。十数年前,法政大学の地中海学会大会ではヴェネツィアに比すべき水の都としての東京を見直すことを提唱して,隅田川畔の佐賀町エギジビットスペースにも会場を設営された。折からの嵐の中,屋形船を繰り出したことも懐かしい。
田村愛理さんはイスラム社会の歴史研究者として,また今回はただ一人の女性のパネリストとして参加していただいた。
スペイン文学の翻訳家研究者として著名な荻内勝之さんはマドリッドにも住まいを持ち東京と往還される日常だが,近年日本の大衆演劇をスペインの地方都市で上演する活動にも力を入れておられる。
まず司会者から目白キャンパスの建築やいくつかの記念碑,そして江戸の中でここがどのような場所だったのかを簡単にご紹介した。田園都市江戸の周縁に位置した構内には,浮世絵に描かれた富士見茶屋があり,高田の馬場の決闘後,刀を洗ったと伝えられる血洗の池が残っている。さらに東に向かえば雑司ヶ谷鬼子母神,関口台地の大名屋敷(田中角栄旧邸や椿山荘,永青文庫),その先はソメイヨシノを生み園芸の中心だった巣鴨染井につづいていく。
「都市空間と人間関係の視点から」と題された陣内さんのお話は江戸と地中海の都市を比較しながらその共通性を浮かび上がらせていくものだった。
丘の街ローマやイスタンブル,水の都ヴェネツィアと江戸が似ていることはよくいわれるが,上野や愛宕山など山の上の聖域はアテネやローマにも共通する。起伏や地形を生かした都市空間をつくっていることになる。
路地・袋小路がつくりだす一種迷宮的な空間も地中海都市と江戸に共通する点だ。お稲荷さんの祠とイタリアの路地にある聖母の御像も似通った機能をもっている。バザールと商店街の活気,都市の中の庭への精細な感性もイスラーム圏,イタリアなどの地中海都市と通じるものがある。居酒屋や公衆浴場でネットワークを大切にし,ある時には任侠的な世界をつくる「メンバーシップ性の社会」も両者の特徴だといえる。
また日本の1980年代,同時にイタリアと江戸のブームが巻き起こったことに,陣内さんはある必然があったと指摘する。近代=工業化社会の価値観が崩れたとき,プレモダンがポストモダンとなっていったのだったという。
江戸に因んできりりとした着物姿で登壇した田村愛理さんは,現在はドイツ人などが利用するリゾート地としての開発も進んでいるチュニジアのジェルバ島に,今も生きる聖女伝説とその信仰を日本との比較を視野にいれつつ,現地で撮影された写真を映写して詳しく紹介してくださった。
身元不明の乙女が島に流れ着き,共同体からは疎外されて村はずれに庵を営み予言や癒しを施し,死後聖女として崇められるようになり,墓所が聖地となり人々はそこに願をかけるという。
荻内さんのお話は江戸の芝居を地中海のどこかの都市で,そして地中海の芝居を江戸でやる,つまり演目を交換するとしたら,何がそれにふさわしいか,という問いかけで始まった。
荻内さんの提案は,『助六由縁江戸桜』,『其往昔恋江戸染(八百屋お七)』とスペイン・セビリアの『ドン・フワン・テノーリオ』だった。魅力あふれる悪漢,助六とドン・フワン(ドン・ジョバンニ)には共通する部分が多く,互いに容易に理解しあえるし,江戸の街が主人公でもあるお七の激しい恋物語は,日本女性のイメージを覆しつつ大きな共感を呼ぶはずだという。
さまざまな演劇のシーンを編集したビデオを上映しながら荻内さんの説得力ある話がつづいた。
それぞれに楽しかった三人のお話がどんな響き合いとなって会場に伝わっていったのか,時間の調整などに気を取られていた無能な司会者にはそれを正確にはかることはできなかったけれど,いろいろな発想を誘われて豊かな時間をお過ごしいただけたのではないだろうか。
(末永航)
『ピンダロス研究:詩人と祝勝歌の話者』
北海道大学図書刊行会(北海道大学大学院文学研究科研究叢書) 2002年3月 xv+285頁 8,500円
安西 眞
本書は,本誌(1999年)にも,その一部を掲載していただいたが,ピンダロス祝勝歌がどのようなタイプの文書あるいは文芸であるかということを明らかにすることを目的とした,著者の,この10年ばかりの研究の集大成である。
ピンダロスの祝勝歌は紀元前6〜5世紀に,テーバイ生まれの,同名の詩人によって,オリュンピア競技などの競技会の勝利者の為に,作られた。それぞれの歌は,勝利の為の祝宴の中心的な演目として合唱隊によって上演された。このことに関しては,歌の内容からして疑う余地はない。ギリシアの叙情詩として分類される作品は,多くが失われたが,ピンダロスの祝勝歌は,古代以来,受容と研究の対象であり続け,今日奇跡的にも,45の歌が残されている。しかし,2500年におよぶ,受容と研究にもかかわらず,核心のところでひとびとの理解を拒否する難解な詩としても知られてきた。
祝勝歌は,これまでほぼ無条件に詩(poetry)として,研究者やヨーロッパの詩人たちに受け入れられてきた経緯があるので,ピンダロスの祝勝歌がどのような文書あるいは文芸であるのかを問うというのは,奇妙なことに聞こえるかも知れない。その奇妙なことの具体的な相を説明しておく。ピンダロスの祝勝歌が「詩」の範疇に属する作品であるということは,長い間の常識だった訳だが,本書では,合唱隊が単なる上演の為の器だったのではなく,祝勝歌の話者そのものであった,ということが明らかにされる。もちろん,祝勝歌が普通に言う「詩」の範疇に属する文芸であったなら,話者は詩人であると考えるのが常識的であろう。事実,この2500年の間,ひとはそのような枠組みで祝勝歌を読もうとしてきた。
合唱隊が,祝勝歌という「詩」の話者だ,と主張することは,祝勝歌は,文芸のタイプとしては,台本に近い,と主張することである。そういう意味では,本書は,ジャンル論である。事実,本書は,随所にその言及が見られるように,20世紀になされた,ピンダロスの祝勝歌研究の双璧で,かつ代表的なジャンル論でもある,W. SchadewaldtとE. Bundyによる二つの研究を引き継ぐものだと自称する(研究史の章)。それどころか,厚かましくも「2人の優れた先駆者が作り上げて来たジグソーパズルに最後の一片を置く」のが本研究の目的だと,主張している。
「最後の一片を置く」試みは,合唱隊の上に架空の人格を立て,これを祝勝歌の話者とし,祝勝歌を,合唱隊の演じる即興詩だとするテーゼの上で行われる。つまり,ふたりの先駆者のジャンル論が,どこまでも「詩」という枠組みにとらわれたものであったのに対して,本書では言うところの「詩」という枠は取り払われるのだ。
合唱隊が祝勝歌の話者であるという事情を今少し詳しく説明しておきたい。祝勝歌というものは,間違いなく,だれかの競技での勝利を祝う祝宴で歌われた。恐らくその宴の主要プログラムであったと思われる。そして,ギリシアやローマの歌に,祝宴歌は比較的多い。例えば,プラトンの「饗宴」も,歌という枠を取り払えば,それに属するとも言える。そして,アルカイオスの歌,ホラーティウスの歌。そこから見えてくることは,彼ら古代人の宴には宴を取り仕切る,あるいは主催する「精霊」とも言うべきものが登場して来る,という事実である。「精霊」は実際に具体的な神であったり,籤で選ばれてその代理人を演じる者であったりする。本書のテーゼの言っていることは,祝勝歌をそれぞれの祝宴の場で上演する合唱隊が,その「精霊」(本書の用語では「祝勝歌の場の宰領」)という立場から,即興詩という虚構の上で,演じたのが,ピンダロスの祝勝歌にほかならない,ということになる。従って,詩人ピンダロスは,今言った,いわば一人芝居とも言いうる作品を,個々の場で演じる合唱隊という役者の為に作った台本作家だということになる(複数主体から構成される合唱隊がひとつの役を演じることができるか,という問題がこの記述からだけでも浮かび上がってくるが,その問題は第一部第一章で論じられている)。
テーゼの論証は,そのテーゼによって始めて,ピンダロスの祝勝歌を構成する要素としてつとに注目を受けてきたけれども(「私はここにやって来た」章句,「中止のための定式」,「私は勝利者を讃えねばならない」章句など),それがどうして成立するのか,どうしてそういう形をしているのか,説明が不能であった,ピンダロスの祝勝歌に固有の章句群が,説明可能なものとなるのだ,ということを明らかにして行く形で進められる(以上,第一部)。また,歴史的に難読の箇所として名高い部分(「地中海学研究 1999」で論じられたN.3.1-12など)も,テーゼの線に従えば,解読可能であることを示す,という作業をつうじて行われる(以上,第二部)。本当に「最後の一片」が置かれたかどうかは,これを読むひとびとの判断に,もちろん委ねられている。
荒井 献 『荒井献著作集』全10巻 岩波書店 2001年6月〜2002年3月
奥山 倫明 『エリアーデ・オカルト事典』 共訳 法蔵館 2002年4月
金窪 周作 『恋するオペラ』集英社 2002年3月
木村 重信 『木村重信著作集』1〜5巻 思文閣出版 1999年12月〜2002年4月
小島 俊明 『おとなのための星の王子さま』筑摩書房 2002年4月
佐々木 巌 『サレルノ養生訓』柴田書店 2001年8月
澤井 繁男 『魔術と錬金術』ちくま学芸文庫 2000年12月
『イタリア・ルネサンス』講談社現代新書 2001年6月
『ナポリの肖像』中公新書 2001年10月
『誰がこの国の英語をダメにしたか』NHK生活人新書 2001年12月
『ガリレオの弁明』(改訳決定版)T.カンパネッラ著 翻訳 ちくま学芸文庫 2002年3月
『ルネサンス』岩波ジュニア新書 2002年3月
下重 暁子 『藍木綿の筒描き』暮らしの手帖社 2002年4月
高田 和文 『沈黙の音楽』A.ボチェッリ著 翻訳 早川書房 2001年10月
竹内 裕二 『イタリアの路地と広場』上・下巻 彰国社 2001年8月
東畑 朝子 『あなたの寿命は食事で延ばせる』グラフ社 2001年10月
『食べものはクスリだ!』グラフ社 2002年3月
深沢 克己 『国際商業』(『近代ヨーロッパの探求』第9巻)編著 ミネルヴァ書房 2002年5月
福本 直之 『狐物語』共訳 岩波文庫 2002年5月
福本 秀子 Geishas et Prostituees, Petit Vehicule.(フランス) 2002年4月
横山 昭正 『石の夢──ボードレール・シュペルヴィエル・モーリヤック』溪水社 2002年3月
『中世思想原典集成』
全20巻+別巻1 上智大学中世思想研究所編訳/監修 平凡社 1992〜2002年
1992年の第一回配本以来,10年の歳月をかけて刊行されてきた『中世思想原典集成』(全20巻+別巻1;ラテン名Corpus fontium mentis medii aevi,平凡社刊)が,この秋「シャルトル学派」(第8巻)と「中世思想史/総索引」(別巻)の刊行をもってついに完結した。各巻の平均頁数は約900頁,収録著作家数は計262人,総作品数は335点にのぼり,その9割を本邦初訳が占めるほか,すべて新たに訳出されたものばかりである。初期ギリシア教父から対抗宗教改革期の神学者たちまで,いわゆる「ヨーロッパ中世」を包括的に鳥瞰するだけでなく,いままで名前だけしか知られていなかった思想家や著作を通して,中世の微細な感性の諸相を認識するためにも必携の全集(コルプス)だと言える。企画・総監修の任と,栞の「中世思想史」(別巻に補筆再録)の執筆に携わられたクラウス・リーゼンフーバー教授,そして実質的な事務統括に当たられた岩本潤一氏の労を改めて讃えたい。私は第1(初期ギリシア教父),第2(盛期ギリシア教父),第8(シャルトル学派)および第20(近世のスコラ学)の各巻に収録された著作の邦訳・訳注作業に関わり,企画の進行を比較的近い立場から眺めることができた。
この「集成」が日本の出版史・文化史上空前の価値を有することは,あらためて指摘するまでもあるまい。ギリシア・ラテン教父から修道院神学,イスラーム思想や女性の神秘家たち,そしてスコラ期の言語・自然哲学に至るまで,リーゼンフーバー教授の透徹した概念史観と卓越したバランス感覚に支えられて成った本企画は,その深さと博さを誇るだけでなく,荒れ行く現代世界に対し,真に見据えるべきものは何なのかを問いなおすという根源的提言をも秘めた空間となっている。
電子情報化があらゆる分野において急速に進むなかで,人文系諸科学も「執筆」「印刷」「刊行」といった旧来のスタイルを大きく逸脱する傾向にある。その意味だけを取ってみても,このような大がかりな出版事業は,古典的な様式を墨守した20世紀の記念碑的活動と言えるだろう。それとあわせ,忘れてならないのは,このコルプスが「原典邦訳」の集成だという点である。グローバル化の進む世界にあって,どの学界でも英語による論文公表が主眼とされつつあるように思えるが,横文字圏の古典的著作を,漢字文化圏にあるわれわれの言葉に置き換えるというこの単純な作業こそ,実は古の仏典解読以来脈々と受け継がれてきた,東洋そして日本の知的営為を形成する精髄の一部なのである。西洋中世哲学界にあっても,研究者集団が全世界に広がる中で,日本人の知的感受性がいかなる点で寄与貢献をなしうるかが論議の的となりつつある。願わくは,構想のレベルからわれわれの史観に根ざした企画が現れることを,21世紀に抱くべき夢として描いてみたい。
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