地中海学会月報 254
COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM
2002| 11 |
学会からのお知らせ
学会からのお知らせ
下記のとおり特別研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
日 時:11月30日(土)午後2時〜5時15分
テーマ:文化擁護のアイデアとシステム
講演(午後2時)
福原義春氏(資生堂名誉会長)
シンポジウム(午後3時15分)
永井一正氏(グラフィック・デザイナー)
三枝成彰氏(作曲家)
樺山紘一氏(国立西洋美術館館長)
木島俊介氏(司会,共立女子大学教授)
会 場:慶應義塾大学三田キャンパス北館ホール
(東京都港区三田2-15-45)
参加費:会員は無料,一般は500円
下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。
テーマ:17世紀イスファハーンの復原
発表者:深見奈緒子氏
日 時:12月7日(土)午後1時より
会 場:上智大学6号館3階311教室
参加費:会員は無料,一般は500円
イランの古都イスファハーンは,17世紀に繁栄を極めた。中世には,有機的な街路網と中庭住宅が凝集するいわゆる中東の伝統的囲殻都市であった。16世紀末に首都になった事を切っ掛けに,東西150メートル南北512メートルという都市広場の設営,両側に庭園群を並べた大通りの建設,郊外の新住宅地の開発など庭園都市へと変容する。現存する歴史的建造物,ヨーロッパからの来訪者の著述やスケッチなどから,発表者が協力したNHK作成のコンピューターグラフィクスによる復原を紹介する。
第27回地中海学会大会は2003年6月21日〜22日(土〜日),金沢美術工芸大学(金沢市小立野5-11-1)において開催します。
本大会の研究発表を募集します。発表を希望する方は2003年2月7日(金)までに発表概要(千字程度)を添えて事務局へお申し込みください。発表時間は質疑応答を含めて一人30分の予定です。
会費の口座引落にご協力をお願いします(2003年度会費からの適用分です)。
また,今年度会費を未納の方には月報本号(254号)月報に振込用紙を同封してお送りします。至急お振込みくださいますようお願いします。
会費口座引落:1999年度より会員各自の金融機関より「口座引落」にて実施しております。今年度手続きをされてない方,新入会員の方には「口座振替依頼書」を月報本号(254号)に同封してお送り致します。
会員の方々と事務局にとって下記の通りのメリットがあります。会員皆様のご理解を賜り「口座引落」にご協力をお願い申し上げます。なお,個人情報が外部に漏れないようにするため,会費請求データは学会事務局で作成します。
会員のメリット等
振込みのために金融機関へ出向く必要がない。
毎回の振込み手数料が不要。
通帳等に記録が残る。
事務局の会費納入促進・請求事務の軽減化。
「口座振替依頼書」の提出期限: 2003年2月21日(金)(期限厳守をお願いします)
口座引落し日:2003年4月23日(水)
会員番号:「口座振替依頼書」の「会員番号」とは今回お送りした封筒の宛名右下に記載されている数字です。
日 時:2002年10月19日(土)
会 場:早稲田大学文学部31号館
報告事項 第25回大会に関して/特別研究会に関して/研究会に関して/「ピカソ展」に関して/NHK文化センター協力講座に関して 他
審議事項 第26回大会に関して/学会誌編集委員に関して/科学研究費担当に関して/新事務局委員に関して/講演会協賛に関して
お雇い外国人のヴェルサイユ
──ベルギーの機械,イタリアの機械──
中島 智章
10月12日/上智大学
ルイ14世は自らの権勢の象徴となる大宮殿をヴェルサイユに建設させた。庭園では多くの噴水が水の美を演出し,野外祝典も催されて太陽王の栄光は燦然と輝く。その陰には幾多の外国人の活躍があり,低地地方(現ベルギー)からは揚水機の専門家たち,半島からは舞台芸術の大家たちが,共に「機械」の技術と美学で奉仕した。
まずは前者。セーヌ川左岸,パリから少し下流の地点に,直径11.69mの水車14輪と200余のポンプ群からなる巨大な機械が存在した。「マルリーの機械」,または「機械」とよばれるそれは川の水を約150m上の丘頂まで揚げる揚水装置で,そこから水道橋でマルリーやヴェルサイユの宮殿へ導水する大掛かりな施設の一部だった。
実はここは元々不毛の地であって,多くの噴水を営むにたる水量は確保できなかった。王自ら編纂した『ヴェルサイユ庭園案内法』でも強調された噴水の美を実現すべく多大な人的物的知的資源の投入が必要だったのである。様々な試みの中,ルイを満足させたのが「機械」だった。1680年に着工し,1684年,揚水機自体の機構は概ね完成,1688年には水道橋も含む全体が竣工した。
これは様々な意味で仏製とはいえない。王はリエージュ司教国(現ベルギー南部)からアルノルド・ドゥ=ヴィルとレヌカン・スアレム率いる職人集団を招聘,部品や材料も同国から取寄せねばならなかった。当地方は鉱工業の先進地で,炭坑排水に水力揚水機が用いられることもあった。1667年頃には水車1輪でポンプ8基を動かして川から50m上の噴水に水を押上げる装置がアルデンヌ高原の古城モダーヴ城に築かれた(伝レヌカン作)。
マルリーの機械はモダーヴの機械の規模を水車14輪に拡大,ポンプを水面の64基の他,丘の中腹50mと100mの高さのところにも各々78基,79基配置して150mの高さを50mずつに分けて揚水するという仕組みになっている。50mの揚水は十分可能だとすでに実証されていたから。発想は単純なようだが,丘の中腹のポンプを如何に動かすのかという点で技術的に大きな飛躍がある。その解決にもリエージュ地方の炭坑排水技術が用いられた。水車の動力を鉄鎖を用いて伝達するという方法である。
文化的な先進地からは別の機械がやってきた。スペクタクルで場面転換をしたり,古典古代の神々を舞台上に降臨させるためのカラクリがそれで,「機械仕掛の神:Deus ex machina」と称する。実は当時の人々にとって身近な機械はこちらの方だった。フランスに導入されたのは伊出身の宰相マザラン枢機卿によりオペラが上演されたとき,ロッシ作曲「オルフェーオ」(1647)とカヴァッリ作曲「恋するエルコレ」(1662)が知られる。
伊語が観衆に理解されず,全編を歌うという劇場芸術の形式を導入する試みは失敗に終わるが,「魔術師」トレッリの機械仕掛は大いに受けた。やがて,楽才と権謀術数を兼ね備えた音楽家リュリが,仏人好みのバレエの要素も駆使しつつ機械仕掛を取入れた形で,新たなフランス・オペラを1670年代初頭に創造する。特に1683年初演の「ファエトン」は「観衆のオペラ」とよばれ,太陽神の息子ファエトンが太陽の戦車を御しえずして墜落するところを機械仕掛で再現した最終場はかなり受けた。
現在では異ジャンルに属するこれら2種の機械は,当時,「機械」という同じカテゴリーで括られるものだった。何かを生産するのが機械だとして,マルリーの機械の生産物は水だけではない。実は竣工当初の日量約3200m3の給水量はヴェルサイユの噴水全てには不十分,鑑賞者の動きに従って順々に噴水を作動させるという技が必要だった。遠隔動力伝達装置を通じる間に動力が徐々に逃げたり,複雑な機構の中で14輪の水車の各クランクにかかる力が不均衡なのも技術的欠点である。また,水に浸かる木製機械の維持管理の手間と費用も膨大だった。
だが,技術的欠点も多く能力と耐久性でも不十分な性能だったにも関わらず,複雑な機構がレヌカンらの腕の冴えで精緻な木造構築物として顕れた「機械」は「世界第8の驚異」とも称され,内外の人々を瞠目せしめた。
マルリーの機械の建設はリュリがオペラで活躍していた時期と重なる。セーヌ川の機構も巨大なるがゆえに複雑に動く様自体がスペクタクルとなりえた。そして,技術的には欠点ともいえる騒音がふさわしい音楽を添えたのである。かなり遠くにまで響きわたっていた作動音に近隣住民が苦情を言わなかったわけではないが,その「スペクタクル」の名声は騒音よりも遙かに遠く轟いた。
たしかに,ヴェルサイユやマルリーの庭園に十分な給水をするという水利技術上の課題を解決する点で当初の目的を果したとはいえない。しかし,巨大なるマルリーの機械は,劇場性演劇性を特徴とするバロックの「機械」の美学に適うもので,巨大な機構が動く様は人々の目に直接訴えかけて「驚異」の念を生産することに成功した。
サラマンカ
──知の発信拠点──
清水 憲男
日本でも知られるスペインの哲学者・文学者ミゲル・デ・ウナムーノ(1864〜1936)は北部バスク地方の生まれだが,中世来の名門サラマンカ大学の総長として長年をここで過ごした。その彼が,サラマンカを次のように詩文で歌っている。
母なる大地のはらわたから
歴史がさらけ出した石の森と
静寂の淀み 私は汝を祝福する
そしてこのサラマンカのことを,セルバンテスは「その住み心地のよさを一度でも味わった者が,必ず戻って来たくなる」と讃えた。ウナムーノやセルバンテスがいくら祝福しようが,サラマンカが「石の森」や「静寂のよどみ」である以上,地中海と関連しそうにない。
内陸のサラマンカが海と,それなりのつながりを持つには,ルネサンス期を待つしかなかった。それはコロン(ブス)との関連だ。つまり現存するサン・エステバン修道院(ドミニコ会)にコロンが世話になったのが功を奏して,最終的に自分の大航海計画に対する王家の支援を取りつけることができた。大西洋とはいえ,サラマンカは15世紀後半になって,予想外なかたちで海に連なって行くことになったわけだ。
しかしサラマンカの名を一貫して轟かせ続けてきたのは,学府としての名声だった。スペインで今日まで続く最古の名門大学として名前を馳せ続けているのは,このサラマンカ大学である。創設は1218年末とされる。中世における学生の在籍数は定かでないが,1546年,つまりセルバンテスの生まれる前年に5,150人という具体的な数字が残っている。16世紀に5,000人を越えていたことには注目しなくてはならない。1920年のオックスフォードが4,631人,同年のケンブリッジが5,733人という数字が残っているからだ。
このサラマンカ大学が知的拠点として文字通り栄華を極めたのは15世紀末から16世紀にかけてだった。理由はいくつもあるが,たとえばスペイン・ルネサンスの草分けとなったネブリハ(1441/4〜1522)だ。サラマンカ大学教授の彼は,1481年に刊行した『ラテン語入門』なる小著をもってスペインは言うに及ばず,ヨーロッパ各国に多大な影響を与えた。これは19世紀まで教則本として版を重ねる異例のロング・セラーとなった。「私たちの幸せのため,そしてあらゆるものを善で満たすためには,我々の宗教,キリスト教国家ばかりか,民法,教会法も立脚する言語の知識以上に必要とされるものはない」……要するにラテン語は「精神の糧」とするL.ヴァッラー流の言語認識を基盤とするものだった。この視点に立脚したラテン語文法は狭義の文法学者のそれに留まるものではなかったからこそ,幅広い支持を受けたと解することができよう。
俗語とはいえ自分の母国語たるスペイン語への憂いは日々一層強まり,その結果ネブリハはラテン語→スペイン語,スペイン語→ラテン語辞典,さらには1492年の『スペイン語文法』の刊行をもって己の問題意識と,それに対する回答を顕在化させる。先に言及したサン・エステバン修道院出身のディエゴ・コリャード(1559?〜1641)は日本に宣教師として渡り,『日本語文典』,『西和辞典』,『羅西和辞典』,『懺悔録』などを著しているが,『日本語文典』のはしがきで,次のように明言する。「本文典は,練達なるネブリセンスのアントニウス其他の人々が彼らのラティン語文法に於いて使用したる品詞(中略)に終始準拠す」。ここでの「ネブリセンスのアントニウス」とはAntonio de Nebrija その人だ。
こうしたネブリハの視座に連なる運動を展開したのが,いわゆるサラマンカ学派と呼ばれる第一級の知識人たちだった。法学,神学,論理学,古典語学を主軸とした学府サラマンカ大学教授陣の勢力は圧倒的で,16世紀初頭にアルカラ・デ・エナーレス大学(現在のマドリード・コンプルテンセ大学の前身)が創立されたものの,この大学は法学部を持たなかった。理由は今さら法学部を後発で発足させても,サラマンカのそれに追いつくのは非現実的とする,実戦的判断によるものだった。
「国際法の父」とされるビトリアを初めとするサラマンカ学派はヨーロッパのみならず,突然姿を現した新世界を直視し,人権問題,正義としての戦争など,生の現実に逼迫した諸問題を実学的視点から掘り下げた。今や学問は新世界という巨大な謎を相手にしなくてはならず,その謎は旧世界に生きる人間の生きざまに跳ね返る問題だった。同時代の歴史家ゴマラは「彼地では[従来の]哲学とは齟齬するような経験をすることになる」と断定し,オビエドは「以上,筆者が[地誌関連で]調べてきたことは,サラマンカ,ボローニャ,パリのいずれでも学ぶことができない」と断じた。サラマンカなどで学ぶことができないのなら,サラマンカでこそ学ぶことができるようにしなくてはならない……この要請に応えるかのように知の展開を果たしたのがサラマンカ学派だったわけだ。
講演でかなりの時間を割いたのが「サラマンカの洞窟」に関してであった。スペインの英知を結集させた大学都市サラマンカが,怪しい魔術をもっても知られていたことは,意外といっていいほど知られていない。
中世来,スペインには魔術の拠点が二つあった。トレドとサラマンカだ。伝説によれば,かのヘラクレスがトレドで魔術修行をしたとされ,それを伝え聞いた多くの人が魔術修行のためにトレドを目指したという。中世の史書『第一総合年代記』(12章)にはトレドに洞窟があり,そこに巨大なドラゴンが住んでいたとの記述があり,その洞窟と魔術との間に密接な関係があることが,後の諸資料でも記述されている。中世スペインの説話文学最高峰でドン・フアン・マヌエルの手になる『ルカノール伯爵』11話は言うに及ばず,16世紀の名医アンドレス・ラグーナの指摘によれば,魔法使いの洞窟の実地検証がトレドでなされたという。
トレドが中世ヨーロッパの知的拠点だったのは,あらためて説明するまでもないが,16世紀あたりになると,知のベクトルはサラマンカを指すようになる。中世に大学が創立されたサラマンカは数世紀をかけて,知のエネルギーを着実に蓄積準備していたのだった。
1494年から翌年にかけてドイツからスペインにやってきたヒエロニムス・ミュンスターがこんな記述を残している。「サラマンカには広い地下道があって,内部にはかまどを思わせるような聖堂や空洞がいくつかある。その上には聖シプリアヌスを祀った隠修所もしくは聖堂がある」。
知は怪しい術と絡み合いながらトレドからサラマンカに移行していった。変幻自在の神話・伝説もトレドからサラマンカに飛び火する。先にも言及したが,サラマンカを興したのは/もヘラクレスで,彼はトレドで魔術の修行をした後にサラマンカに移ったという
魔術道場としての聖シブリアン(San Cibrián) または聖シピラン(San Cipirán)教区教会への言及頻度はいよいよ高まってゆく。1611年に刊行された国語辞典に,サラマンカに言及した記述がある。「この町の名前は[神がかったの意の]ギリシア語に由来するとする人がいる。サラマンカの聖セブリアンと呼ばれる洞窟内で妖術や黒魔術が伝授されているとの言い伝えによるものらしい」。
サラマンカに魔術道場としての洞窟があったことは,近年になってもかなりの頻度で言及され続け,11世紀末に建てられたとされる聖セブリアン(San Cebrián)教区教会跡地を1993年に発掘したところ,教会土台部が見つかっている。となると洞窟は,その地下にあったことになる。そして今日,該当場所は塀で封印されたまま「発掘中」となっている。
聖セブリアンはSan Cebrián, San Cibrián, San Ciprián, San Cepriánなど様々な表記で登場する。もともと高名な魔術師だったがキリスト教に改宗し,司教にまでのぼりつめて504年に殉教したとされる。つまりかつて魔術とつながっていた人物が聖人として崇められるようにまでなって,その聖人に奉献された教会の下に,依然として魔術の教室があったことになる。
サラマンカの洞窟は,トレドのそれと同じように恰好の文学素材として利用されてきた。かのセルバンテスが幕間劇『サラマンカの洞窟』を書いているし,ルイス・デ・アラルコンもほぼ同時期に同タイトルの作品を上演し,同じくほぼ同時代のフランシスコ・ロハス・ソリーリャも同じテーマで作品を上梓している。
18世紀前半にはフランシスコ・ボテーリョ・デ・モラエスなる男が『サラマンカの洞窟物語』と題するユートピア小説を刊行している。この作品では「洞窟」が複数形cuevasで7つの洞窟が言及されている。7は魔術学校の生徒が7名,修行年数も7年とされるのに呼応する。
サラマンカの洞窟の話は新世界にまで伝わり,ついには予想だにできなかった事態が起こる。19世紀末にウルグアイで出た書物に,こんな記述がある。「サラマンカというのは魔王と魔女たちが集うと考えられる魔術の洞窟のことだ」。いわゆるラテンアメリカのスペイン語を記述した現代の辞書類に当たってみると,「魔法使いたちが妖術を実践するとされる洞窟。魔術」,「チリでは丘などにある自然の洞窟をサラマンカと言う」などの解説も見られる。サラマンカは新世界で固有名詞の域を脱して,「魔術の洞窟」もしくは「魔術」の意の普通名詞になってしまったことになる。
それにしても最高学府を控えたサラマンカと,地下に怪しい洞窟を控えたサラマンカとは,いかなる整合性を持つのか。大学と洞窟魔術に関して決定的なまでに衝撃的な記述は,1627年刊でゴンサロ・コレアス編の『諺および箴言の語彙』に見いだすことができる。「この洞窟は大学,ここにある学府のことである。本件に関しては外来者を驚かせるべく,各種の虚偽が考案された。聖セブリアン教区教会の礼拝堂と主祭壇の下にある聖器室がそうで,そこでは秘密裏に黒魔術が実践され[『邪眼の書』の著者としても知られる14世紀末から15世紀前半の]ビリェーナ侯爵もここで学んだなどとされる」。
興味深いのは,サラマンカの洞窟を大学と呼んではばからぬ辞書編纂者の超然たる姿勢だ。しかも問題の地下洞窟は,日本語をみごとに記述したコリャード,国際法の父ビトリアなどを輩出したドミニコ会のサン・エステバン修道院と,目と鼻の先に位置していたのである。サラマンカは相対的に近海の地中海は言うに及ばず,大西洋の彼方に向けて知を発信しただけでなく,コリャードがそうだったように日本にまで照準を合わせて知を発信したのだった。
──経済大国から芸術大国へ──
芳賀 京子
ロドス島は,エーゲ海の東方,小アジアにほど近い位置に浮かぶ美しい島である。ロドスの港に着くと,まず目に入るのは十字軍時代の城塞である。旧市街はこの城壁内にあり,ロマンチックな雰囲気が漂う。昼の照りつける太陽が沈み,心地よい夕暮れ,石の街はにぎわいを見せ始める。黄色い街灯に照らされたレストランの喧噪の中,気のおけない人々との語らいは楽しく,いつまでも続く。そして帰り道,城壁の中の石畳をそぞろ歩いていると,中世の街に住んでいるかのような錯覚を覚える。しかし,ロドスがひときわ輝き,比類無き繁栄を謳歌したのは,この城塞の時代ではない。それよりも千年以上昔の,古代ギリシアのヘレニズム時代のことであった。
彼らの繁栄を支えていたのは,小麦の輸送であった。古代地中海世界において,小麦の生産地は非常に限定されていた。主な生産地は,エジプトのナイル河流域や黒海沿岸,キュプロス,シチリアなどである。ギリシア世界の諸都市は小麦を輸入せざるを得なかったわけだが,ここで大活躍したのがロドス人であった。ロドスはエジプト小麦の積み出しが行われたアレクサンドリアとギリシア,および東方と西方を結ぶ地中海の十字路に位置する。さらに,冬場は航海不可能な地中海にあって,ロドスとアレクサンドリア間は冬季にも航海可能な海域であった。それゆえこの島の住人は,早くから船舶の製造と航海技術に優れ,運送や商取引,港湾使用税などによって莫大な富を獲得した。また軍艦製造技術に通じ,軍艦操作に熟達した船乗りたちを多数有していた。ヘレニズムの君主たちが群雄割拠し,王国の版図を拡大し,アテナイを始めとするクラシック時代のギリシア諸都市が力を失っていく中,ロドスはその経済力と海軍力を背景に,巧みな政治手腕を武器に,ヘレニズム君主たちと互角に渡り合うことができたのである。
しかし彼らは,単なる商人,単なる海運国には終わらなかった。プリニウスが『博物誌』の中で幾度もロドスの名を挙げたのは,経済についてでもなければ政治的内容でもない。プリニウスの時代,ロドスの政治・経済はすでに凋落して久しかった。だが島には,最盛期に蓄積された芸術品が数多く残されていた。ローマ人カッシウスによる掠奪の後でも,ロドスには世界の七不思議に数えられた巨像《コロッソス》の残骸のほか,巨大なブロンズ彫像が100体もあった(Pliny, HN 34.42)。そして都市ローマにも,《ラオコーン群像》を始め,ロドス人彫刻家の作品は幾つもあり,その卓越した彫刻技術は賞賛の的であった。ロドスは芸術面でも有名だったのである。
最盛期よりも200年以上後にまで国家の名声を伝える芸術は,決して自然に発達していったわけではない。クラシック時代のロドスは,その経済力を背景に,アテナイやギリシア本土の有名な外国人彫刻家たちを好んで招聘した。リュシッポスやその弟子のテイシクラテス,ブリュアクシス,エウブロスといった有名彫刻家が,紀元前4世紀末から3世紀初頭にかけてロドス島で作品制作に携わった。この頃からロドス島出身の彫刻家も現れるが,一家族のみで,その後一世紀近く増えることはない。「土地の出身者は普通,同国人の間では高く評価されなかった」(Pliny, HN 35.88)のである。彼らは舶来品を喜び,自国の芸術品をいまだ評価できずにいた。
転換期は,ロドスの政治・経済が頂点を迎える紀元前200年頃であった。ロドス島からは彫刻家の署名を刻んだ彫像台座が多数出土しているのだが,この時期以降「ロドス人」を名乗る彫刻家が急増するのである。そしてそのうちの何人かは,父親が外国人であったり,あるいは活動初期には本人自身が外国籍であったりしたことが確認される。ロドス政府は,外国人芸術家の帰化を容易にすることで彫刻家という技術者を外から取り込み,自国の発展を押し進めることに成功したものと思われる。紀元前4世紀半ばには一つしかなかったロドス人の彫刻工房が,紀元前2世紀には11を数え,うち少なくとも4つは外国人のルーツをもつ。ロドスには彫刻産業が花開いた。紀元前2世紀半ば頃に始まる美術品の個人所有の開始も,この産業の発達に拍車を掛けた。「ロドス人彫刻家の作品」という署名は,アテナイ人の作品と並び,最高級ブランド名として機能した。
ロドス島における彫刻産業は,紀元前1世紀後半,ロドスがローマとの確執の中で力を失っていくと急速に衰え,終わりを告げる。だが,作品は残った。名声も,ローマへそして現在にまで伝えられたのである。
地中海学会編『地中海の暦と祭り』
刀水歴史全書56 刀水書房 2002年6月 302頁(図146点) 2,500円
高橋 正男
本書は,「地中海世界で育まれた暦とそこに織り込まれた祭り」について『地中海学会月報』第188号以降に連載された「地中海の暦」シリーズに想を得て,4年の歳月をかけて織り上げた「地中海絵巻今昔」である。執筆者は21世紀の我が国の地中海学を担う若手研究者を含めて総勢50名(編集担当者7名を含む)。『地中海文化の旅』全3巻(河出文庫・1990/93年)に次ぐ,地中海学会総力をあげて取り組んだ文字通りの労作である。
オリエント・地中海世界にとって暦は文字とならんで最古の文化上の産物であった。暦はすべて天体の運行への古代人の観測によって確認されていた。太陽と月の規則的巡回がそれである。前者が太陽暦,後者が太陰暦,太陰暦を太陽暦によって調整したものが太陰太陽暦。これら三者は望遠鏡も天測儀もまだもたなかった古代人によって作為され,それは現代にまで受け継がれている。本書のなかで,我々は地中海をかこむ地域の暦とそれにかかわる祭りの多様なありかたを執筆者一人一人の現地探査を踏まえて可能な限りヴィヴィットにとらえ高校初年生以上一般読者を対象に平明に紹介することを目標とした。
構成は四つの文化圏にわたり5部12節86項から成っていて各項にそれぞれ貴重な関係挿図が入っている。本書は各項いずれからも読めるように工夫してある。以下紙幅の許す範囲で各項を列挙してみよう。
第I部オリエント世界の祭りと暦 これまで我が国では系統立てて紹介されることのなかったバビロニア,エジプト,シリア正教会の祝祭およびバビロニア(太陰暦,のちに太陽暦との調整が計られた),エジプト(太陽暦),コプト(エジプトの太陽暦に起源をもち,1年は30日ごとの12か月と5日の付加日から成っている)の暦が,次いでユダヤ教暦(太陰太陽暦)の祝祭日,前3世紀〜後1世紀のユダヤ教党派のひとつ,クムラーン宗教集団の独自の暦(太陽暦)を再現,同宗団で使用されていた日時計を紹介。上述のシュメール人から天体信仰を受け継いだバビロニア人の暦の起点は太陽暦の春分の日とされ,経年によるずれは閏月の挿入で調整した。
第II部ギリシア・ローマ世界の祭りと暦 オリュンピアの競技会からはじまり,秘儀祭,共同体ごとに異なっていた古代ギリシアの暦,古代ローマの暦法の変遷と役割,古代ギリシア・ローマの紀年法を当時の碑文を手がかりに丁寧に紹介。
第III部イスラーム世界の祭りと暦 「犠牲祭」と「断食明けの祭り」の二大祭と預言者ムハンマドの生誕祭に次いでエジプト,トルコ,北アフリカ,モロッコ,イランの祝祭,季節祭,祝祭都市メッカ(マッカ),イスタンブル,カイロがそれぞれ紹介。イスラームの暦では,イスラームの太陰暦,ペルシアの太陽暦が。
第IV部 キリスト降誕祭の歴史・典礼・習俗に次いで,厳冬2月に行われるヨーロッパ最大の祭りカーニバルと四旬節が,復活祭とそれにまつわる食様式が紹介,使徒ペトロとパウロらの祝日,それにイタリア,ブルターニュ,スペインのサン・イシドロ,ギリシア正教の聖人祭など,加えてキリスト教会の秘跡が具体的に紹介。暮らしと民族では,イタリアの四季の祭り,次いでスペインの祭り,フランスの革命祭,ギリシア正教暦を継承している現代ギリシアの祭暦,守護聖人にかかわる漁師の祭り,中世以来の職人の祭り,東西両教会に由来する死者の祭り,スペイン東部のバレンシアの火祭り他,芸術と競技では,現代の音楽祭と演劇祭の諸相を具体的に紹介。祝祭都市では,ローマ他それぞれの祝祭の光景を描写。
第V部キリスト教世界の暦 暦法と時間の計測法の変遷からはじまり,フランス革命暦,イエス紀年法,次いで復活祭の日取りの算定方式をめぐる東西の論争を紹介,最後のカレンダーの表現では,ドイツ中部の河畔の都市フルダの修道院に伝わる12世紀の典礼書に綴じ込まれた10世紀末の典礼書残簡の一葉フルダの暦の紹介に次いで,中世の暦図を形成する幾つかの基本要素を取り入れた作品のひとつ,12世紀の『ツヴィファルテンセの小年代記』の一葉ツヴィファルテンセの暦を紹介。これは中央を「野人」の姿をしたアンヌスが占め,周囲の第一の円環には黄道十二宮のしるし,第二のそれには月暦労働図,枠内の四隅には四季の擬人像,枠外に一日の四区分を表す擬人像,そして円環の外周には四方の風と副風が人頭部によって表されている。ここでは,日,月,季節,年という「時間」に,天体の運行と大地を動かす風が象る「空間」の広がりを加えた壮大な宇宙像が構想されているという(小池寿子)。45頁のユダヤ十二宮図はこの暦図を下敷きにしたのではなかろうか。以下スペイン・カタルニア地方ジロナの大聖堂に伝わる大型の刺繍布,レオン王家墓廟の壁画他と続く。
末筆乍ら本書大作の完成には,刀水書房編集主任中村文江女史の執筆者一人一人に対する寛大な忍耐と努力があった。編集担当者一同深謝申し上げる次第である。
カップ・マルタン(南フランス)/林美佐
カップ・マルタン(Cap Martin)は,ニースから東へ約20キロメートル,海に小さく突き出した岬。そして岬の付け根にあるこのひっそりとして静かな浜辺は,写真に写っている後ろ姿の人物によって,近代建築の巡礼地のひとつとなった場所である。
1965年8月27日,ル・コルビュジエ(以下コル)は自分の小屋を出,小径を降り,近所の女性と立ち話をした後,この浜辺へと出た。いつものように大好きな地中海での海水浴を楽しむはずだった彼は,その後,帰らぬ人となったのである。
この岬には,女性建築家アイリーン・グレイによる名作「E1027」が1927年に建てられた。この家は芸術家たちの溜まり場であり,ここを訪れたコルは真っ白い船のような家を賞賛し,嫉妬した。1949年,彼は事務所スタッフと共にここに泊り込んで仕事をしたが,この時,彼らはすぐ近くにある「ヒトデ」(l'Etoile de mer)という名の居酒屋に食事の世話を頼んだ。
地中海を見下ろすこの地が気に入った彼は,1952年,居酒屋に隣接して小屋を建て,これをイタリア国境の町マントン(Menton)出身の妻イヴォンヌへのプレゼントとした。「E1027」を見下ろせることも,この場所を選んだ理由の一つだろう。そして,「ヒトデ」の主人と意気投合し,カップ・マルタンを一大リゾート地として売り出そうと企んだ。
彼らは海沿いの傾斜地を利用したリゾートマンション兼ホテルの開発に乗り出したが,さまざまな規制や金銭的問題をクリアすることができなかった。そこで規模を縮小し,いくつかの貸し別荘群を作るという計画に変更した。しかし,いざ実現という段になったとき,波打ち際は危険だという理由で計画をストップさせている。どうも,その別荘が彼の小屋からの視界を遮ることに気づいたせいでもあるらしい。結局,居酒屋の傍らに海の家のような「ユニテ・ド・キャンピング」(Unités de Camping)を作っただけで,リゾート開発プロジェクトは終結した。
もし,これらの計画が実現されていたら,コルの仕事の中でも大規模で重要な作品となったのは間違いなく,この浜辺はリゾート地として賑わうことになったかもしれない。しかし,彼はそれまでのように地元の人と肩肘張らない付き合いをし(近所の人たちは彼が世界的に有名な建築家だと知らなかったようだ),思索をし,散策し,絵を描き,泳ぐといった,豊かで穏やかな夏の毎日を満喫することはできなくなったことだろう。
この浜辺の石には特徴がある。小さく丸い灰色の石で,必ず白いストライプが入っている。ほんの少しだけざらざらして温かみのあるここの石を,コルは愛した。それは手触りや手仕事を大切にしていた彼の触覚を刺激する地中海からの贈り物であった。「コル詣で」の最後の巡礼地を訪れる者たちは,コルが踏み,あるいは描いたかもしれない浜辺の石をこっそりと持ち帰る。そして,ときどき手にとってはコルが憧れ続けた地中海を思い出すのである。
撮影:ルシアン・エルヴェ
地中海学会事務局 |