地中海学会月報 252

COLLEGIUM MEDITERRANISTARUM




        2002| 9  

   -目次-


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学会からのお知らせ

10月研究会

 下記の通り研究会を開催します。奮ってご参集下さい。なお,この後は1130日(土)に特別研究会(慶應義塾大学),127日(土)に研究会(上智大学)を予定しています。詳細はおってご案内します。

テーマ:お雇い外国人のヴェルサイユ──ベルギーの機械,イタリアの機械

発表者:中島 智章氏

日 時:1012日(土)午後2時より

会 場:上智大学6号館3311教室

参加費:会員は無料,一般は500

 絶対王政最盛期のフランス王ルイ14世は自らの権勢の象徴となる大宮殿をヴェルサイユに建設させた。水の得にくい場所だったにもかかわらず,付属庭園では大運河や多くの噴水が水の美を演出し,野外祝典も催されて「太陽王」の栄光は燦然と輝いた。その陰には多くの外国人の活躍があり,低地地方(現ベルギー)からは揚水機の専門家たち,半島からは舞台芸術の大家たちが,ジャンルは違えど,ともに「機械」の技術と美学で王に奉仕したのである。


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*論文募集

 『地中海学研究』XXVI2003)の論文および書評を下記のとおり募集します。

 論文 四百字詰原稿用紙50枚〜80枚程度

 書評 四百字詰原稿用紙10枚〜20枚程度

 締切 1021日(月)

 本誌は査読制度をとっております。

 投稿を希望する方は,テーマを添えて9月末日までに,事前に事務局へご連絡下さい。「執筆要項」をお送りします。


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表紙説明 地中海の水辺12


オスティア(組合広場のモザイク)/島田誠

 ローマ市の西南20km余り,テヴェレ川河口近くに古代ローマの植民市オスティアの遺跡がある。オスティア市街の遺構は古代の河道に沿って東西(正確には西北西から東南東に)細長く横たわっている。ローマ市からオスティアに向かう街道は,東の城門であるローマ門(porta Romana)をくぐると,市街を東西に走る大通り(decumanus maximus)となる。この東西の大通りと南北の大通り(cardo maximus)とが交差する場所に中央広場(forum)が設けられている。東西の大通りは西の城門,マリーナ門(porta marina)を経て海岸に向かい,南北の大通りは南の城門,ラウレントゥム門(porta Laurentina)を通って海岸沿いに南下する街道となる。さらに市街の北3km余りのテヴェレ川北岸には,クラウディウス,トラヤーヌス両帝によって建設された大規模な港湾(Portus)がかつて存在していた。

 伝承によれば,オスティアは第4代ローマ王アンクス・マルキウス(紀元前7世紀後半)が建設したとされるが,その遺構が確認されるのは紀元前4世紀末以降のことである。当初は海岸防備のための小規模な軍事拠点であったオスティアは,ローマが勢力を伸ばすに従って発展し,まずローマ艦隊の根拠地となり,ついでローマ市の外港となった。帝政期のオスティアでは,皇帝たちの手で公共施設や港湾の整備が進められ,その繁栄は紀元2世紀後半に絶頂を極めた。この時期のオスティアの繁栄を支えていたのは,地中海世界各地からローマ市へと流入する膨大な量の物資,特に穀物であった。地中海世界各地からオスティアに到来した大型船が,その船荷を降し,港の倉庫に収めたり,テヴェレ川を上下する小型の舟に積み替えたりしていた。しかし,3世紀以降にはオスティアは次第に衰退し,紀元5世紀には,テヴェレ川北岸の港湾(Portus)を除き,都市機能の多くを失うに至った。

 表紙に掲げたのは,オスティア市街の「組合広場 (Piazzale delle corporazioni)」と呼ばれる空間の床に描かれていたモザイク画である。ローマ門から入って,東西の大通りを300mほど進むと,北側に半円形の観客席を備えた劇場があり,その劇場の舞台の背後にはかつて大規模な柱廊(奥行き125m,幅80m)が設けられており,この柱廊に囲まれた空間が現在は「組合広場」と呼ばれている場所である。この広場の柱廊には,61の小区画が確認されており,それぞれの正面の床に主として船や魚などを描いたモザイク画が発見されている。幾つかのモザイク画には,地名や船主・商人など職業が記されたり,象などの動物の姿が描かれている。この広場は,地中海世界各地から到来した商人や運送業者(船主)たちのオスティアにおける拠点であり,モザイク画の題材はそれぞれの小区画の所有者の職業や出身地を示していると考えられている。


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地中海学会大会 記念講演要旨

シシリー島に背中を向けて

──シャルル・ダンジューはどこを見ていたか──

堀越 孝一

 「シャルル・ダンジュー」,アンジューのシャルルというが,シャルル・ド・カペーは「プルーヴァンス」の君主です。カペー家の末男で,1246年,プルーヴァンス伯ベアトリッス・ド・プルーヴァンスと結婚して,伯権を共有した。プルーヴァンス家は男子を欠き,姉たちもカペー家やアンジュー家(イングランド王家)に嫁いでいた。だからといって残った家付きの娘に当然権利があるというわけのものではない。事情はわからないが,父親のライモン・ベランジェー4世は,1245年,死に臨んでかの女を相続者に指名した。翌年,かの女はシャルル・ド・カペーと結婚した。カペー家の国際戦略か? だれしもがそれを疑い,なにしろルイ9世とその官房なのだからと納得する。

 プルーヴァンスの君主になったいきさつ自体がそうとらえられているわけで,エノー進駐の一件も,その筋だと説明されてきた。フランドル家の内紛に介入し,1253年末から翌年の7月まで,シャルルは軍勢を率いてエノーに出張った。エノーの伯を兼ねるフランドル女伯マルハレータの委任による行動だったが,いや,なに,これも「サンルイ」の指金ですよ。じっさい,ルイの仲裁は,1956年の「ペロンヌ裁定」に実を結んでいる。

 エノーは「下ロタリンギア」の一領邦です。往時「ロタールのくに」の北の一郭です。プルーヴァンスは「ブルグント」の一領邦です。往時「ロタールのくに」の南の一郭です。

 「ブルグント」は13世紀から「アルル王国」あるいは「アルル - ブルグント王国」と呼ばれた。王の名義人はドイツ王で,シュタウファー家のドイツ王は,ローン河口域の在地の有力領主ドゥ・ボー家の者を副王ほか王家官職につけて,プルーヴァンス家を押さえ込もうとつとめている。ライモン・ベランジェー4世と家婿のシャルルは,サヴゥェ家と組んで,ドゥ・ボー家ほか有力な領主家と渡り合う。サヴゥェ家はシャルルの姑の実家です。「アルル王国」の君主としての自覚が強かったということです。

 シャルルのエノー進駐は,往時「ロタールのくに」の回復を狙う男のロマネスクだったのではないか。わたしがおもしろがっているのは,やがて2世紀の後,こちらは北の方から,ネーデルラント,往時「下ロタリンギア」の君主,ブルグーン家のむこうみずのシャルルが,ネーデルラントをかれの南の領国ブルグントに接合しようと,ロートリンゲン,往時「上ロタリンギア」を狙います。むこうみずのシャルルも,また,ロマネスクな男だった。

 してみれば,プルーヴァンスの君主がナポリはカープア城(現在,ナポリ中央駅の裏手にあたる)の居室で見た夢に大先祖ロタールが立ったと話に聞いてもおどろくことはない。1265年,シャルル・ド・プルーヴァンスはイタリアに入り,シシリーを併せて,カンパーニア,アプーリア,カラブリアを支配した。この度はフランドル家ならぬローマ法王庁の要請に応えて,ナポリ - シシリー王国におけるシュタウファー家の支配をくつがえしたのです。

 わたしがいうのは政治の構想力のことです。プルーヴァンスの君主の構想のうちには「ロタールのイタリア王国」があったのではないか。兄の「サンルイ」の頼みで,シュタウファー家のシチリア王国をとりにいった。ローマ法王の依頼に応じて,衰退のラテン帝国の回復を図り,コンスタンチノール十字軍を計画した。なにかこれではかれは使い走りではないですか。最近の「シャルル・ダンジュー研究」は,かれが1265年にイタリアに入り,1282年,「シシリーの夕べの祈り」事件によって,アラゴン家と対決の姿勢をとるにいたるまで,かれはなにをしていたか。そこのところに焦点を合わせているようです。

 かれは「ナポリ王国」のかために入っていた。シシリーはシュタウファー家の登用したアマルフィの家筋の役人たちにまかせ,もっぱらアプーリアとアドリア海の経営に腐心していた。アプーリアの経営については,シュタウファー家の実績をそのままいただいて,これを継承する政策をとっている。アドリア海についても,シュタウファー家の政策を継承し,対岸のダルマティアにまで進出していたハンガリー,あるいはセルビア,アルバニア,エピルス,アカイアの君主家とのあいだに,場合によっては息子を道具に結婚政策を通じて同盟を組んでいる。後背にせまるニケーア帝国の勢力から「ナポリ王国」を防衛する態勢作りです。

 研究者が「防疫線」と呼ぶこの防衛体制の構築は,西のティレニア海についても,また,観察されるところです。プルーヴァンス,サルデーニャ,シシリーを結ぶ連珠砦が,カタルーニャ商人の活動を押さえ込み,アラゴン王家の軍事的進出を阻むだろうということで構想された。「シシリーの夕べの祈り」事件は,アラゴン王家のペドロ3世が,ナポリ王家が東西の水域に張りめぐらせた「防疫線」の一端を破ろうとする試みだったのです。


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地中海学会大会 シンポジウム要旨

地中海とアルプスの北

パネリスト:秋山聰/川端康雄/吉川文/司会:高橋裕子

 このシンポジウムでは,扱う時代順に音楽・美術・文学の3研究者が「地中海とアルプスの北」をめぐる報告を行い,司会の高橋が北方人のイタリア文化見学旅行について補足したあと,会場の意見も交えて討議を行った(本報告では,論述の都合で順番を一部変更してある)。

 両地域の関係は,美術史では通常──とりわけ「ルネサンス」と呼ばれる現象を問題にするとき──アルプス以北による地中海世界の伝統の受容として捉えられる。秋山聰氏の報告「初期近世のドイツ・イタリア間の画家往来──デューラーとヤーコポ・デ・バルバリを中心に」によれば,近世初期のイタリアから見ると,ドイツは「ほめられるのは印刷術のみ」の文化的後進国で,若きデューラーの第一次ヴェネツィア滞在は,その自覚に立った学習の試みであった。しかし,約10年後の第二次滞在の際には,画面に蠅や自画像を描き込んで「作者」の存在を主張し,速筆や作風の多様性を誇示するなど,学習の結果としてドイツの画家がイタリアの画家と競合しうることを明らかにしている。デューラーが晩年,理論書の執筆に熱心だったのも,ドイツ美術の発展には正しい理論に基づく教育が不可欠と考えたためだったが,その理論書はラテン語に翻訳され,イタリアを含めた各地で教科書として活用されることになる。ただし,理論に通じた「学識ある画家」というタイプ自体はイタリア起源で,ドイツで活動したイタリアの画家ヤーコポ・デ・バルバリがデューラーに与えた最大の影響だった。

 一方,音楽史においてはルネサンス期に,「フランドル楽派」と呼ばれる北方出身の音楽家たちの影響が全ヨーロッパを制覇する。というより,吉川文氏の報告「ヨハネス・チコニアJohannes Ciconiac.13701412/13)──北方の音楽家のイタリアでの活躍」によれば,「再生」させるべき古代の手本を欠く音楽の分野では,フランドル楽派のもとに地域的相違を超えた国際様式が発達した時期を「ルネサンス」と定義しているのである。パドヴァその他で活動したリエージュ出身のチコニアは,イタリアで活躍した最初の北方人音楽家だった。だが,チコニアの作品,とりわけそのリズム様式には,当時のアルプス以北の音楽よりもイタリアの音楽の特徴が著しい。移住先の音楽に同化したチコニアは,ルネサンス前夜の音楽家に留まった。その後,北と南の伝統を統合して新たな音楽を生んだルネサンスのフランドル楽派の時代を経て,バロック・オペラが誕生した17世紀になると,音楽の分野でも南から北への影響が優勢になる。

 文化を学ぶためのイタリア旅行が,芸術家のみならず一般の人々(といっても上流階級に限られる)の間にも広まるのは18世紀だった。この「グランド・ツアー」は,地中海世界の「周縁」であり,かつ,当時急速に強国となったイギリスに顕著な現象である。ただ,グランド・ツアリストにとって,称えるべきは過去のイタリアであり,旅行土産の肖像画や風景画を別とすれば,同時代のイタリア文化への関心は減退する。19世紀には,イタリアを訪れるアルプス以北の人々(今や中産階級も含む)にとって,イタリアの「博物館化」はさらに進む。一方で,地中海世界の価値体系に対抗して北方の価値体系を掲げる立場もあった。16世紀のドイツを中心としたプロテスタンティズムはその早い例であるが,19世紀には,ギリシア・ローマ神話やイタリア・ルネサンスを退けて北欧神話や中世に肩入れする選択肢も生じたのである。

 例えば,イギリス19世紀の詩人兼デザイナー,ウィリアム・モリスは,中世の手仕事の復興をめざし,アイスランドに旅して魅了され,同地のサガを翻訳した。イタリアも訪れたが,好印象は持たなかったという。それゆえ,彼の仕事は地中海世界とは無関係と考えられがちである。しかし,川端康雄氏の報告「ロマンス作家のローマン体──ウィリアム・モリスとイタリア」によれば,モリスは一方で『アエネーイス』や『オデュッセイア』の翻訳も手掛けており,それらは原典の精神を的確に伝えるものとして,オスカー・ワイルドの高い評価を得た。さらに,晩年「理想の書物」刊行のため私家版印刷所ケルムスコット・プレスを興したモリスが,活字デザインのモデルとしたのは,15世紀ヴェネツィアの印刷工ニコラ・ジャンソンのローマン体だった。モリスも地中海世界の遺産の恩恵を少なからず受けていたのである。

 もっとも,印刷術はドイツの発明であり,ニコラ・ジャンソンはフランス出身だった。表面上は一方的な受容や対立が認められるにしても,ヨーロッパ文化の発展において,地中海世界とアルプスの北の関係はあざなえる縄の如くであったことに,改めて気づかざるを得ない。「地中海世界」としてイタリアのみを取り上げたことをはじめ,本シンポジウムの限界には会場からも当然の批判があったが,もとより1回のシンポジウムでは論じきれない大問題である。関係者一同,これを契機としてこのテーマをめぐる論議が盛んになることを希望している。(高橋裕子)


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2001年度地中海学会賞を受賞して

シルヴィオ・マルケッティ

 地中海学会会員の皆様に,

 この度は私がここ6年間仕事をしてまいりました東京のイタリア文化会館に,名誉ある地中海学会賞を授与していただきまして,誠に光栄なことだと思っております。とりわけ本賞の受賞は,まもなく日本を離れようとしている私にとりまして,格別の感慨,そして喜びを与えてくれました。と申しますのも,私の次の任地が,やはり皆様方の学会が研究及びその推進・振興につとめられている地中海文化にとっては極めて重要な意味をもつ都市イスタンブールで,彼の地のイタリア文化会館館長として赴くことになっているからです。

 私共イタリア文化会館は,これまで賞を与える側であっても,今まで一度として賞をいただいたことはありませんでしたので,本賞の受賞は本当に異例なことであり,“特別のご褒美”を頂戴した思いで,喜びでいっぱいです。本賞選考会の授賞理由によれば,この賞が“日本におけるイタリア”年においてのみならず,これまでの長年にわたるイタリア文化会館の地道な活動を認めて,とのことです。こうした評価をいただくことが出来ましたことは,私は勿論,一緒に仕事をしてきた私の協力者たちを元気づけ,我われがこれまでなんとか上手く成功するようにと努めてきたその努力が,少なくともある部分では実を結んだのでは,という自負の念さえ与えていただきました。

 私の協力者たちの気持ちを代弁すれば,「我われのなすべきことは,“日本におけるイタリア”年の終わりと共にすべてが終わってしまったというようなものではない」と……。「それらが決して尽きるというものではないということ,そしてまた,これからも新たな気持ちで,我われは日伊両国を結ぶ文化の絆をより一層強めていくために,今後も努力しつづけて行かなければならないと考えている」ということです。

 ご存じのように,イタリアは地中海文化の発展においてもひとつの中心的な役割を果たしてきました。こうした役割は地理的及び歴史的状況から生じてきたものです。つまり,地理学的に見ればイタリアは東地中海と西地中海を結び,また地中海の南北両沿岸をつなぐ十字路としての役割を果たしながら発展してきた地中海世界の中心的な位置を占めているからです。

 また,歴史的なことから言えば,イタリアが地理的に地中海の真ん中に位置しているというだけでなく,地中海周辺地域の様々な歴史的状況に巻き込まれることもあって,直接的な関与のみならず,しばしば地中海域全体を左右するほどの運命にも関わらざるをえなかったのでした。こうした歴史的な役割は,現在の状況においてもますます重大なものになってきています。

 ごく最近においても欧州統合への急速なグローバル化の流れが,新たな問題を投げかけています。地中海域にあたかも群島のように連なっているあのヨーロッパの南限を何処に置くかということです。ギリシア神話では,想像しうる唯一の境界線といえばヘラクレスが押し立てた2本の柱だったのですが,しかし,地中海そのものの方が,明らかにヨーロッパ大陸よりも,一層強力な一体感をもたらす要因となっていたのは明らかです。また,古代ローマ人にとっては,考えられる南の境界線といえば,“Hic sunt leones"とかつての地図にも記されていたライオンたちがいたアフリカの一帯だったのですが,しかし,これまで誰一人として地中海沿岸に発達したあの地域の統合のことを問題にした者はいなかったのではないでしょうか。

 先頃幕を閉じたばかりの20世紀までの1千年間で,一番深い亀裂を生じさせたのは,キリスト教とイスラム教の衝突でした。グローバル化は,現在のやり方で,我われをあの昔の問題にもう一度,直面させたのです。

 ヨーロッパ諸国に内部分裂を乗り越えさせた経済的,文化的,政治的統合化の実現は,地中海周辺の他の国々においても可能でしょうか? 単に,東方の,かつての共産圏であった国々にのみ目線をおくのではなく,その視線を南に転じて地中海圏の南岸諸国をも視野に入れた欧州連合を想像することは可能でしょうか? トルコやキプロス,マルタといった国々は,欧州連合への同意を表明しその加盟を切に望んでいます。こうした背景のもとに,イタリアは,地中海周域における経済的,政治的,文化的統合化の“触媒”としての重要な役割をも担っているのです。(イタリア文化会館館長)


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天才ピカソ

高階 秀爾

 ピカソといえば,まるで子供の殴り描きのような奇怪な絵を描く画家というイメージが強い。実際,あの大作《ゲルニカ》や同じ頃描かれた怪物のような女性像を思い出してみれば,なぜわざわざあんな変な絵を描くのかと疑問が浮かんでも不思議ではない。

 だが子供の頃のピカソは決してそうではなかった。後に彼がある子供たちのデッサンの展覧会を訪れた時C「私があの子供たちぐらいの歳の時には,まるでラファエッロのように描いていたものだ」と語ったという話を,ハーバート・リードが伝えている。もちろんそれは,昔のことを自慢するためではなく,むしろ逆に,「だがあの子供たちのように描くには一生かかった」と述べるためなのだが,しかしそれにしても,彼の言葉に嘘はない。

 彼の父親は美術学校の教師であったから,早くから絵画に親しむ環境ではあったし,実際に父親の手伝いもしていた。13歳の頃のこと,父の絵の一隅に鳩の姿を描き込むことを命じられた。外出から帰ってきた父親は,その見事な出来栄えに驚いて自分の絵筆とパレットを息子に与え,自分はもう絵を描かないと宣言したという。

 14歳の時,バルセロナの美術学校に入学するが,それは,規定の年齢にまだ達していないのに,特に入学試験を受けることを許された結果であった。その試験は,一ヶ月の猶予で課題作品を提出するというものであったが,ピカソはわずか一日で作品を仕上げ,しかも年上の他の誰よりも優れた成果を見せたのである。

 それはまさに天賦の才としか言いようがない。ピカソはその卓越したデッサン力によって,紛れもなく西欧絵画史上,いやさらに言えば人間の歴史において,第一級の天才と言ってよいであろう。

 今回,東京の上野の森美術館で開催される「ピカソ・天才の誕生」展は,この恐るべき子供の天才ぶりを遺憾なく示してくれるまことに得難い好機である。集められた作品は220点余り,1890年から1904年までのあいだの制作だというから,9歳から23歳まで,ちょうど小学生から大学生ぐらいの時期のものである。

 そのなかには,美術学校に入学した年に妹のローラをモデルにして描いた大作《初聖体拝領》など,17点の油絵も含まれているが,大部分はペンや木炭,クレヨンによる素描や水彩,パステルなどの作品群である。もともとピカソは,喫茶店で友人たちと談笑している時でも,手近の紙ナプキンの上に店内の様子をスケッチしたり,お客の似顔を描いたり,とにかく絶えず手を動かしていなければ気がすまないという旺盛な創作欲の持ち主であったから,残された作品も膨大な数にのぼる。それも,入念に仕上げられた展覧会出品作からいたずら描きに近いものまで,あるいは鋭い社会諷刺をこめたカリカチュアからユーモラスな自画像まで,さまざまな世界が展開されていて,自負と野心にあふれる若い芸術家の日々の生活をすぐ近くから眺めているような面白さがある。

 1890年代から20世紀初頭にかけてのバルセロナは,同時代のパリやミュンヘンと共通する世紀末的雰囲気を濃厚に宿していた。パリのモンマルトルにある有名なキャバレー「黒猫」を真似て作られた「四匹の猫」という名の店には,活気に満ちた若者たちが集まってアルコールに陶酔しながら大声で芸術を論じ,歌声を響かせ,またかりそめの官能的な楽しみに興じていた。ピカソももちろん,その常連の一人であった。そればかりでなく,ピカソはまた,仲間の芸術家たちと一緒に『アルテ・ホベン』(若い芸術)と題する美術雑誌まで刊行していた。

 この時代の作品を見てみると,美術学校の要請にしたがって描かれたアカデミックな石膏像の習作では,それこそ「ラファエッロのような」完成された技術的成果を示しているし,居酒屋で戯れる男女や洒落た身なりで町中を歩く若い女などを描き出した風俗主題の作品は,トゥールーズ=ロートレックの鋭い観察眼と的確なデッサンを思わせる。仲の良かった妹ローラをモデルとした情感溢れる女性像も忘れ難い。

 1900年,パリ万国博覧会の機会にはじめてこの芸術の都を訪れたピカソは,新しい芸術活動が脈うつパリに魅了されて,いったんは故郷に戻ったものの,やがて永住を決意して再び旅立つ。ピカソがはっきりと自己の様式を確立する「青の時代」がそこで始まるのである。この時代を代表する《髪を束ねた女》は,この時期の特徴である暗く沈んだ青の色調の中に,堅固な造形性と深い叙情性を湛えた女性の姿を力強く描き出した傑作で,その強い意志を感じさせる表情は,見るものを捉えて離さない。ピカソはその後70年に近い豊饒な生涯を送ることになるのだが,この青春時代の多彩な作品群は,すでにはっきりと一人の天才の存在を証言しているのである。


 


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地中海学会事務局
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